レイキをやるようになってから、レイキの奥深さに感動しました。
特に、「神との対話」に書かれているような、真理に基づいた生き方が示されていることが、私にとっては最大の喜びでした。
臼井甕男氏が提唱した五戒は、まさに真理に基づいた生き方です。
そして、レイキをすることが、そのまま愛の行為になるのです。
しかしレイキは、1人ではなかなかできません。自己ヒーリングというのもありますが、やはり誰かに対してしてあげることで、レイキをしたという実感が湧きます。
ということで、バンコクでもレイキをし合える仲間を作ろうと立ち上がりました。
これについては、以前の記事「バンコクでレイキ練習交流会をやりました」で詳しく書いてあります。
情報発信のためのサイトも必要だということで、Facebookページ「バンコク・レイキ(reiki)普及会」を作ったことも、すでに書いた通りです。
さらに独自ドメインを取得してブログ「バンコク・レイキ(reiki)普及会」も作っちゃいました。
Facebookページだと、資料的に使うのが難しいと感じたからです。ブログには、お勧めする本の紹介や、レイキの基本的な情報を書こうと思っています。
自分でも驚くほどの行動力です。それだけ、ワクワクしているのだと思います。
さらに東京での練習交流会で、折りたたみ式の簡易ベッドがあることがわかり、すぐにネットで調べて注文しました。
買ってしまったあとで、EMSで送れるかどうかギリギリのサイズだとわかって焦りましたが、まあ何とかなるんじゃないかと思ってました。
父には迷惑をかけましたが、お陰で無事に受け取ることができました。
このベッドがあると、レイキマラソンも楽々長時間することができます。
まだ9月13日(土)に行ったプチ練習交流会でしか使ってないのが残念なのですが、これから活躍の場を広げていこうと思っています。
次回、第2回バンコク・レイキ練習交流会は、10月4日(土)の予定です。
おそらく10名くらいが集まると思います。
タイ・バンコクで、日本発祥のレイキをもっともっと広めていきたい。できればタイ人にも広めたい。そう、思っています。
2014年10月01日
2014年10月03日
人は死なない
前回は「おかげさまで生きる」という本を紹介しましたが、今回は矢作直樹氏の話題になった本を読んでみました。
この本が話題になったのは、科学的に権威のある東大の医師が、正面から魂の存在を主張したからだと思います。
救急医療の現場にいた方ですから、生き返った事例などから、魂の存在を科学的に証明したのではないかと期待したのでしょう。
実のところ私も、そういう期待を持って読みました。しかし、期待はあっさりと裏切られました。
「ただ、私はこうした霊的現象を科学的に証明する必要があるのか、とも思うのです。本書では何度も繰り返し述べてきたことですが、そもそも摂理や霊魂の概念は、自然科学の領域とは次元を異にする領域の概念であり、その科学的証明をする必要はないのではないでしょうか。」(p.197)
このように矢作氏は言って、科学的に証明することそのものを否定しています。
ではこの本は、いったいどういうことが書いてあるのでしょう?それを「あとがき」で端的に説明しています。
「実のところ、本書のモチーフは極めてシンプルなものです。人間の知識は微々たるものであること、摂理と霊魂は存在するのではないかということ、人間は摂理によって生かされ霊魂は永遠である、そのように考えれば日々の生活思想や社会の捉え方も変わるのではないかということ、それだけです。」(p.221)
とは言っても、やはり矢作氏の様々な体験が、そういった気づきをもたらしたことは間違いありません。
その体験の数々が、この本には書かれています。
たとえば、ご自身が登山で2度も滑落しながら死ななかったこと。また2度目の滑落の時は、もう山に登るなという不思議な声を聞いたこと。そして、お母様が亡くなられた後、霊媒を通じて会話し、それがお母様に間違いないと思われたことなど。
また、救急医療の現場でも、不思議な体験をした患者さんの話や、科学では説明のつかない事例が無数にあることを語っておられます。
私が驚いたのは、それほど忙しい仕事をされていながら、実に多くの書物に目を通しておられることです。
スピリチュアルなことを科学的に研究した西洋の事例は、矢作氏の知識が半端ではないことを裏付けています。
そうしたこれまでの体験から、子どもの頃に抱いた「人にはどうして良心があるのか?」という疑問に対して、一定の答を出されたのだと思います。
「「正直の頭に神宿る」という言葉がありますが、良心とは人が現世で生きていくための道標となる摂理の声であり、我々はその声に素直に耳を傾けて従い、あるがままに生きていけばよいのではないでしょうか。」(p.200 - 201)
このように、良心にしたがって生きようとすることで、人生は豊かで意味のあるものになると言います。
しかし、だからと言って善人が幸せになって、悪人が不幸になるわけではありません。理不尽なことというのは、間違いなくあるのです。
それでも矢作氏はこう言って、摂理にしたがうことを勧めるのです。
「けれども、我々の人生の旅は死後も続く、摂理の意思は悠久の生の中で折り合いがつくよう働いている、と考えれば現世での苦しみや悲しみが多少なりとも癒やされるのではないでしょうか。いや、そのように考えないと、矛盾に満ちたようにもみえるこの人生を理解できるものではありません。」(p.201)
これはある種のあきらめのようなものだと思います。
人の智恵には限界があり、すべてを解明できるわけではない。それなら、受け入れるしかないではないか。それが矢作氏の考え方なのでしょう。
「私は、人類の歴史とは、摂理が創造した宇宙の森羅万象の謎、いいかえれば「創造の法則」を、あたかも宝探しのように少しずつ解き明かしながら自分探しをする旅のようなものだと思っています。」(p.203)
矢作氏が今に至って、やはり永遠に生きる魂が存在すると信じる、と世間に対して告白した。それが本書なのではないかと感じました。
2014年10月05日
癒しの現代霊気法
日本の伝統の靈氣と西洋レイキを融合させたという、現代霊気ヒーリング協会およびNPO法人現代レイキの会の土居裕(どい・ひろし)氏の本を読みました。
この土井氏は、レイキの世界では画期的なことをされた方です。
それは、レイキが西洋に広まったとき、臼井霊気療法学会はすでに存在しないと思われていたのですが、実は存在していることを世界に知らしめました。
固く門戸を閉ざした臼井霊気療法学会でしたが、土井氏はつてを頼って同学会に入会することを許され、伝統的な臼井霊気療法を習得されたのです。
そして、ご自身が学ばれた多くのことから、これからは西洋レイキと伝統の靈氣とを統合し、新たなレイキを伝えていくことが有効だと判断され、現代レイキとして普及活動を始められました。
そういった土井氏ですから、この本には創始者の臼井甕男(うすい・みかお)氏の考えが、随所に書かれていました。
「臼井先生は「宇宙間に存在するものは、ことごとく霊気を保有している」といわれ、「すべての存在の根源である宇宙エネルギー」を「霊気」と名づけられました。それは「高次元の存在」から発せられる「愛の波動」であり、かつ純粋な「光」のことでもあります。」(p.20)
「次に「霊気法」というのは「宇宙エネルギーであり愛の波動である霊気」とつながることにより、自分がその通路となって見たもの、出会ったもの、触れたもののすべてを癒していくヒーリングテクニックです。「自分が霊気の通路になる」ということは、宇宙の意識、宇宙のリズムと一体化して、愛の波動をそのまま受信し、さらにそのまま伝えられるようクリアな自己に高めていくことでもあります。」(p.21)
このように、宇宙、愛、エネルギー、光などスピリチュアルな世界で語られることが、すべて霊気であることを述べています。
「そして、いろいろと研鑽を重ねられた結果、「人生の究極の目的は、安心立命を得ることにある」という結論に到達されました。安心立命は辞書に「天命を知って心を安んじ、物ごとにこだわらないこと」とあり、天命とは「人の力ではどうにもならない運命」と解説してあります。すなわち、「人間として精一杯努力することは必要であるけれども、その後の、人の力でどうにもならないことについては天に任せて、一切思い煩うことのない安らかな心境を獲得する」ということで、これが臼井先生の第一の悟り(最初の悟り)といわれているものです。」(p.44)
この「天に任せる」というのは、「神との対話」などでも言うように、私たちは大いなるものに導かれているのだから、その導きを信じ、委ねることになります。
導きを信じて委ねるなら、何が起ころうと安心していられるはずです。信じないから不安なのです。
レイキではシンボルとマントラ(コトダマ)を使いますが、そのシンボルについて、こういう解説もしています。
「(4)第三のシンボルは「われ、神と合一す」という意味だといわれます。私はコトダマから「すべての根本は、正念(正しい意識)にあり」と解釈しました。正しい意識とは大宇宙と小宇宙(人)との響き合い(合一)であり、両者の解釈は一致しています。」(p.92)
これは、臼井氏が鞍馬山で悟りを得た内容と、まったく符合しています。
「先生がとくに厳しく教えられたことは、「大宇宙の自然法則と、小宇宙である自分との精神が常に統一され、一体とならなければならない」ということです。すなわち自らが体得された悟りの境地である「宇宙即我、我即宇宙」の教えです。また「宇宙全体が私の内に存在し、宇宙の内に私が在る」「私の内に光明が存在し、光明の内に私が在る」とも教えられたと伝えられます。いずれも、宇宙との一体化を伝えようとしておられます。」(p.151)
また、臼井氏の教えとして、近代医学を無視するなとも伝えています。
ただ、医療でどうにも治らない場合は、積極的にレイキを使うようにと言います。そして、「霊気で治らない病気はないから、常に浄い魂を持って治療するように励みなさい」と言い切っておられるとか。
そう言いつつ、レイキでも医薬でもどうにもならないものがある、とも言います。それは寿命が尽きたときであると。
「これは自然の摂理であるから、なんとも致し方がない。しかしその人の寿命とわかったときは、なおさら最後の最後まで万全を尽くして、親切に真剣に治療しなさい。そうすればどんな病苦の人でも、実に安らかな往生のできることは確実であるから、努めて実行しなさい」(p.153)
こう臼井氏は言われて、終末医療においても、レイキが有効であることを示されています。
現代レイキではこのように、臼井氏の教えの真髄を取り入れつつ、現代にマッチするようアレンジし、変化していった西洋レイキからも良いものを取り入れ、独自な霊気法を確立しています。
しかし、その本質においては、臼井氏が示されたように、レイキによって悟りを得て、安心立命に生きることなのだと思います。
「リラックスを阻むのは恐れであり、悲しみであり、怒りでもあります。これらは自己防衛本能から必ず過緊張を伴います。そこには、自分は大宇宙から生かされており、大宇宙に導かれているという自覚の欠如がみられます。
究極のリラックスを得るためには大宇宙を信じ、すべてを大宇宙に任せてしまうことが必要で、あわせて宇宙のリズムと常に響き合う日常を獲得することです。すなわち臼井先生が到達された「宇宙の霊気と体内の霊気が共振共鳴し、宇宙即我、我即宇宙の一体感を達成する」境地を得ることにあります。」(p.176)
恐れや悲しみ、怒りかは、不安から生じるものです。不安とは、愛の対極にあるもの。そういう状態から愛の中に入り、安心して生きることが重要なのですね。
レイキの目的は、「神との対話」でも示されているように、存在のすべては「ひとつのもの」であり、私たちもまた「ひとつのもの」だという悟りに到達することなのです。
2014年10月10日
中村天風人間学
また神渡良平さんの本を読みました。
これまでにも「佐藤一斎「言志四録」を読む」、「安岡正篤 人生を変える言葉」、「孤独になる前に読んでおきたい10の物語」、「天翔ける日本武尊」、「人間この輝かしきもの」など、何冊もの本を紹介してきました。
中村天風氏について書かれた本も、以前、「中村天風「幸せを呼び込む」思考」を紹介しています。
これまで紹介してきた本も素晴らしかったのですが、今回もまた素晴らしい本でした。
あまりに素晴らしいので、読んでいる途中でFacebookで紹介したところ、それを読んだ私の友人が2人、すぐさま買ったようです。私の投稿は、以下の様なものです。
「神渡良平さんの新刊、「中村天風 人間学」を読んでいるところです。
前半の、天風氏がカリアッパ師の元で修行して悟りを得る過程を描いた部分では、不覚にも泣いてしまいました。師弟愛の素晴らしさ。こういう話に弱いんですよね。
「お前のいのちを炎と燃やせ。病のことを考えている暇はない。喜んで朗らかに建設的に働いている姿を心に焼きつけて、勇猛邁進するんだ。肺結核はもう治ったと感謝せよ」(p.85)
カリアッパ師の力強い声が、私の耳のそばで聞こえてくる気がしました。
そのあとの、聖光学園野球部の話も面白かったですが、広島海難供養式の話が心に残りました。
「目には目を」は恨みの連鎖を招きます。今ちょうど、イスラム国のことが問題になっていますが、テロもまた恨みが原因です。
「自分を怨念に譲り渡し、憤怒の固まりになることは、むしろやさしい。それよりも、これ以上怨念を増幅させず、自分一代で終わらせると決意し、供養して生きることの方がもっと難しい。人に対して怒るのではなく、間違うことの多いこの汚濁の世界を背負って立ち、ここに浄土世界を実現していくことが、後に残された者たちの使命ではないでしょうか。」(p.186)
1986年の暮に放送された「白虎隊」というドラマの中で、神保修理役の国広富之さんが、家族に「誰も恨むなー!」と絶叫して最後を遂げていました。そのシーンが、今でも心に残っています。
心に敵を作り、批判・非難し、力づくでも相手を変えようとする。その対象が他国なら戦争となりますが、自国の政府であろうと、どこかの企業であろうと、あるいは個人であろうと、同じことです。
中村天風氏が得た悟りの世界を理解すること。それが恨みを乗り越える原動力になると、私は確信しています。
まだ残り3分の1ほどありますが、楽しみながら最後まで読みます。
興味のある方は、ぜひ読んでみてくださいね。(*^_^*)」
そのFacebookの投稿には、神渡さんご自身も以下のようにコメントしてくださいました。
「赤木さん、熟読してくださって、心から感謝します。あの本は私が書いたというよりも、神が私を通して同じ時代に生きている方々に語ってくださったもののように思っています。
瀬戸龍介さんが近々CD『日本の夜明け』をリリースされます。その中に彼が昨年の出雲大社の遷宮祭に参加した際、インスピレーションを得て作曲した「蘇える出雲」という曲があります。私はコンサートでそれを聴いたき、鳥肌が立ち、心を揺さぶられました。あれはまさしく天界からのメッセージでした。
ミュージシャンにしろ、作家にしろ、画家にしろ、どういう仕事に携わっている人にしろ、天と地をつないで形を作ることができた作品は、人々の心霊を揺さぶり、時代の新しい流れを形成するのだと思います。
クリエイティブな仕事に携わる人は、だからこそ精進が必要で、魂を磨かなければいけないのです。そうでなければ、自分が携わっている仕事を冒瀆していることになります。
後半で登場される方々も、みんなきらめいていますよね。人間はみんな「地から湧き出した菩薩」(地湧の菩薩)なのだと確信します。アサガオもスイセンもパンジーも、花や葉っぱの形状はみんなタネや球根の中に秘められています。それがしっかりした土壌に植えられ、水が注がれれば、見事な花が咲きます。
それと同じで、人間はみんな内に秘められた《神性》を持っていて、その人の個性を通してメッセージを届けるようになっているのだと思います。私はいろいろな人々を取材していて、ますますそう確信するようになりました。
どうぞ後半も楽しみに読んでください。」
それに対して私も、以下のようにコメントで返答しました。
「神渡さん、素敵なコメントをありがとうございます。
そうですね。「地湧の菩薩たち」という本も書かれてましたね。
「考えてみれば、人間は誰もが、神の地上での現れなのだ。」(p.193)
この気づきが、誰かが特別なのではなく、自分を含めたすべての人が特別なのだという、真理を示してくれます。
もうあと、残り少ないのがなんだか名残惜しい気もしますが、あと50ページほど、じっくり読まさせていただきます。(*^_^*)」
こうして最後まで読み終えたのですが、ずしーんと中村天風氏の言葉が心に響いています。
私が共鳴した天風氏の言葉をいくつか、以下に引用しておきましょう。
「私は今後かりそめにも、我が舌に悪を語らせまい。
否、いちいち我が言葉に注意しよう。
同時に今後私は、もはや自分の境遇や仕事を、
消極的な言葉や、悲観的な言語で、
批判するような言葉は使うまい。
終始、楽観と歓喜と、輝く希望と溌剌たる勇気と、平和に満ちた言葉でのみ活きよう。
そして、宇宙霊の有する無限の力を我が生命に受け入れて、
その無限の力で自分の人生を建設しよう。」(p.38 - 39)
これは、本の中でも何回か引用されている「言葉の誦句(しょうく)」と呼ばれるものです。
「ああ、そうだ!!我が生命は宇宙霊の生命と通じている。宇宙霊の生命は無限である。そして、不健康なるものや不運命なるものは、宇宙霊の生命の中には絶対にない。そして、その尊い生命の流れを受けている我はまた、完全でそして人生の一切に対して絶対に強くあるべきだ。だから、誠と愛と調和した気持ちと、安心と勇気とで、ますます宇宙霊との結び目を堅固にしよう。(中村天風『大偈(たいげ)の辞』)」(p.46)
これこそ宇宙の本質に対する悟りです。「神との対話」シリーズなどで示されているように、存在のすべては「ひとつのもの」である、と同じことなのです。
「健康や運命が意のままにならないときほど、「心」の態度をよりいっそう積極的にするのが最も大切で忘れてはならないことなので、そうすればいわゆる生命の内在力(潜在勢力)が期せずして湧然(ゆうぜん)として現れて、健康も運命も、自然と好転してくるというのが、尊厳なる宇宙真理である。 (『真理のひびき』中村天風著 講談社)」(p.162)
いわゆる「引き寄せの法則」です。原因は心にあります。この世の現象は、単に結果に過ぎないのです。
神渡さんが、導かれるようにして書いたという本です。ぜひあなたも、手にとってみてください。
2014年10月13日
おじさんバンコク大脱走
amazonを見ていて、ふと目についた本を買ってみました。岡崎大五氏のトラベルヒューマンコメディだそうです。
2001年11月30日が第1版ですから、まったく売れてませんね。(笑)
でも、ちょうどその2001年11月が、私がタイに赴任した時期だったのです。これも何かの縁だと思います。
読んでみると、まさに私が来た当時のバンコクの様子が描かれていました。
物語は、主人公の大五が、悪友の和也を誘って、5泊6日のバンコク旅行をするというもの。しかも、1人10万円という予算です。
当時なら、4万円というエアチケットもあったかもしれませんし、アンバサダーホテルで1泊1000バーツ(約3000円)というのも考えられます。
BTS(高架鉄道)がまだ空いていて、移動に使うと楽でした。
文中ではBTSをモノレールのスカイトレインと紹介していますが、モノレールではありません。レールが2本ある電車ですから。
ただ当時は、高架を走っているため、モノレールと呼ぶ日本人が多かったことも事実です。そんなことも含めて、とても懐かしいです。
まだスワンナプーム空港が開港しておらず、空の玄関はドンムアン空港。降り立ったときの、ムアッとする空気を思い出します。
ドンムアン空港からアンバサダーまで、タクシー代が90バーツというのは、ちょっと信じられませんけどね。そんなに安かったでしょうか。
今なら200バーツくらいするでしょうから、当時でも100バーツ以上したと思うのですが・・・。
まあ、そんな細かなツッコミはおいといて、純粋に読み物として楽しめます。
大五と和也の駆け引きは、あまり上等とは言えませんが、それなりに面白いものがあります。
相手を攻撃しながらも、どこかで深い思いやりを持っている。だから悪友もまた友なのでしょう。
和也は、一所懸命に働いていた会社から、リストラされそうになっていました。
その不安に押しつぶされそうになっていたとき、大五にはめられて、バンコク旅行をすることになったのです。
しかし、その旅行の中で、1人で知らない世界に浸る時間を持ちました。
そのことによって、何かしら新たな境地に目覚めたのでしょう。
私も以前、ブログの中で一人旅を勧めたことがあります。
自分の環境を無理やり変えるために引っ越しを勧めたのですが、それが無理ならせめて一人旅をしましょうと。
今までの自分とは違う世界に身を置くことによって、得られるものがあると思うのです。
かく言う私も、かつて「おじさんだって、アジアに行きたい」という本を読んで、アジアへの夢を膨らませたことがありました。
そのこともまた、タイに来ることを引き寄せたのではないかと思うのです。
そして今回読んだ本もまた、束縛された現実から自分を解き放って、自由を取り戻そうとする本心に気づかせてくれるものだと感じました。
「あとがき」の中で著者は次のように言います。
「ときには男は、孤独になるべきなのでは……と。
孤独になって、ひとりで考え、行動し、遊ぶのである。
どのみち人間いつかは死ぬのだ。それくらいの時間があってもいいではないか。
それも、できれば海外で、見たことのない風景にひとりたたずんでみる。
言うなれば、しばしのドロップアウト、日本からの大脱走を果たすのだ。」(p.253)
懐かしい15年近く前のバンコクを思い出しながら、私もまた自由を取り戻すためにタイに来たのだなあと、改めて思いました。
2014年10月14日
レイキのレッスン、始めよう♪
「香りの森」の仁科まさきさんの新刊をKindle版で読みました。
オンデマンドで、アメリカのアマゾンならカラー印刷、日本でも白黒印刷したものが手に入るようです。
仁科さんの本は、これまでにも「マイホーム・レイキ」を紹介しています。
私が仁科さんからレイキを習ったから言うわけではありませんが、仁科さんは、本当にレイキのことを愛しておられて、言われることも理論的で、信頼できる方だと思っています。
さて、この本は、副題に「独学で身につけるレイキセラピー」とあります。
仁科さんがレイキの通信教育をされていて、そのメールでのやりとりを下地にしたものです。
レイキを習うとき、レイキは誰でも自然に出ているものだと、最初に教わりました。アチューンメント(霊授)と呼ばれる儀式のようなもので、レイキの回路が通じるようになるとも。
考えてみればこれは、ちょっと矛盾しています。誰でも出ているのに、どうしてアチューンメントが必要になるのか、そこに疑問が生じるのです。
アチューンメントを受けると、その能力は一生消えないとも言います。本人の素質によらずに開発される能力であるから、アチューンメントに価値を置きたくなるのです。
ところが仁科さんは、アチューンメントを受ければ簡単に回路が通じるだけで、別に受けなくても、本人の努力によって回路を通じさせることも可能だと言うのです。
「対面の講習では、アチューンメントと呼ばれる気の流れを良くしてもらう手技を受けることで、その場でレイキが沢山出るようになります。しかし、アチューンメント以外にも気の流れを良くする方法があるのです。自分でも工夫しだいで、レイキが出て、実用的な効果が出せるようになります。」
したがってこの本を読んで実践すれば、講習を受けなくてもレイキを独習できるというわけです。
実はこのことは、仁科さんのオリジナルではありません。今ちょうど「手の妙用」という本を読んでいるのですが、そこにも書かれていました。
つまり「手当て」というのは、古来から普通にされていたことなのです。
ただその能力が低下したために、いつしか忘れ去られてしまった。特別な人だけが使えるものと誤解されてしまった。それだけだと思います。
では、どうすればレイキの回路が通じるようになるのでしょうか?
「レイキは、完全に無意識で、自分でも知らないうちに流れるものです。
リラックスして、ゆだねたときに、良く流れます。」
このレイキの特徴を、忘れないことが重要です。意識して、レイキを流してやろうと力むことが、もっともまずいことだとわかります。
仁科さんは「レイキ七ヶ条」として、以下の7つの注意点をあげています。
「送ろうとしない
出そうとしない
治そうとしない
何もイメージしない
力まない
頑張らない
雑念は気にしない」
なんだかすっごくいい加減な感じがしますが、このいい加減さがレイキの特徴なのです。自然にしてすべてを委ねることが重要なのですね。
次に重要なのは、「レイキは吸われるもの」という考え方です。
自分が出すものではなく、手を当てた箇所が必要なだけレイキを吸い取ってくれるのです。
このことからわかるのは、なるべく体調が悪い人の悪い箇所に手を当てることで、レイキを吸わせる実践をすることが重要だということです。
レイキをどんどん吸わせていれば、自分の回路の通りが良くなるからです。
また、「発霊法」という訓練もあります。
「浄心呼吸法」という呼吸とセットになりますが、単に呼吸を意識せず、浅い呼吸をするというものです。
そして胸の前で手を合わせるだけ。両手の平から出るレイキが、反対の手の平を刺激することで、レイキが活性化されると言います。
その際、自然の絵や写真を見る、ヒーリング音楽などを聴く、五戒を唱えるなどを合わせることで、より効果的になるそうです。
レイキは、たしかにアチューンメントを受けることで使えるようになりますが、それだけではただ能力が開発されただけです。
そのレイキの流れをさらに太いものにするには、日々の実践が重要になるのです。
ですから、アチューンメントを受けることより、使うことの方がより重要だということです。
「皆さんの目標としては、
力を抜くことを覚える
頑張らないことを覚える
レイキに任せるのを覚える
考えすぎないことを覚える
そして、実践では
他人へのレイキを努力する
20〜30分以上と長く手を当てられる
体調の悪い人にレイキを使う
また練習として、
発霊法をする
五戒を心がける
そうやって、半年ぐらいレイキをしっかり使っていくと、もう下手なマスターがするのよりも、遥かにレイキが出るようになりますし、効果も現れます。本当ですよ(^0^)」
ぜひみなさんも、自分の中に眠っているレイキの能力を使ってみませんか?
2014年10月28日
目を温めれば視力はよくなる!
テレビでも話題になったという中川和宏さんの本を読みました。
実は私も、最近は近視ぎみなのです。乱視も入っているので、今度の免許更新は眼鏡が必要になるかもしれないと、ちょっと心配していました。
そんなとき、新聞の広告を見て、「これだ!」と直感し、買ってみたのです。
150ページ弱ですし、この手の本であれば30分もあれば読めます。
重要なのは、目の体操(ビジョン・フィットネス)を1日に5分くらいやり続けること。
それだけで、驚異的に視力が回復した実例があるのだそうです。
では、なぜ目の体操がそんなに効果的かと言うと、近視や遠視などは目の血流障害による冷えが原因だからなのだそうです。
単純に目を温めるだけでも良いのですが、運動によって内部から温めた方が効果的なのだとか。
これは、非常に理解できます。体の不調の原因は、だいたい冷えにあると言われますからね。
そして、近視や遠視というのは、目の冷えが始まったシグナルとも言えるもの。ですからこれを放置すると、さらに重篤な病気になりやすいのだそうです。
「じつは、目のよい人が緑内障になるのは、100人に0〜3人だけなのです。一方、強度の近視の人は、40歳以上で5〜6人に1人がなります。
網膜剥離も同じです。白内障・黄斑変性症を含めて、近視の合併症と呼びます。近視が原因で、本当に見えなくなるのです。」(p.43)
私の父が最近、黄斑変性症になりました。母も白内障で手術を受けています。
2人とも強度の近視というわけではありませんが、やはり眼鏡がなければ本が読めない状態でした。
本には、目を冷やす原因となる習慣についても書かれていました。この習慣がある人は、改めた方が良いとのこと。
「@至近距離のものを見続けて、目を酷使している」
「A太陽光を浴びずに、人工光ばかり浴びている」
「B目と脳に疲労が蓄積している」
「C消化しきれないほど過剰な情報を摂取している」
「D過度のストレスを溜め込んでいる」
「E冷え症である」
「Fメガネ、コンタクト、オルソケラトロジー、レーシック手術に頼る」(p.64 - 66)
これが本当かどうかはわかりませんが、私の目が悪くなったのは、パソコンが原因だと思われます。
パソコンのブルーライトや、同じ姿勢で1点を凝視し続ける習慣によって、目が悪くなってきたと思うのです。
今は、ブルーライトをカットする眼鏡を使っているため、以前のようなショボショボ感はなくなりました。
そして女性にとっては重要なことだと思うのですが、目の周りのシワやクマといったものも、冷えから来ているのだそうです。
ですから目の体操をすることには、美容効果もあるのだとか。そう言われると、何だかやってみたくなりますよね。
目の体操は、本の最初の部分に詳しく説明されています。
これをバラすと本を買ってもらえなくなりそうなので、この部分はぜひ、本を買ってお読みくださいね。
2014年10月31日
愛の選択
以前紹介した「四つの約束」に続くドン・ミゲル・ルイス氏の本を読みました。
本書のテーマは「愛」ですが、「4つの約束」で語られていた「人間の飼い慣らし」という考え方は健在です。
そしてその「愛」を、関係性の中でみごとに解き明かし、具体的にどうすれば良いのかを明確に示しています。
それは表現方法が違うとは言え、本質的な部分は「神との対話」やバシャールが語っていることとまったく同じだと思います。
これはいいと思わず膝を打ちたくなる表現がたくさんあって、線を引きまくって読んだのですが、その中の一部を引用してみましょう。
「トルテックの視点からすると、私たちが自分について信じ込んでいることのすべて、そして私たちがこの世界について知っていることのすべては夢である。」(p.11)
「ほんとうの私たちは、純粋な愛である。私たちは<生命(いのち)>そのものなのだ。ほんとうの私たちは外側の夢とは無関係なのだが、ミトーテは私たちが真の自分を見ることを妨げる。」(p.12)
ちなみに「ミトーテ」というのは、社会のルールや法律、宗教、文化、マナーなど、私たちの心の中に蓄積した情報のことだそうです。
世間体だとか常識などというのも、この「ミトーテ」であり、それが真の自分を見ることを妨げていると言います。
「私たちは、犬や他の動物を飼い慣らすのと同じ方法で人間を飼い慣らす。つまり賞と罰によって。これはごくあたりまえのことだ。私たちが教育と呼んでいるものは、人間の飼い慣らし以外の何ものでもないのである。」(p.15)
アドラー心理学では、賞罰教育を批判していますよね。詳細は以前の記事「「嫌われる勇気」(アドラー心理学)の要点」をお読みください。
こういう飼い慣らされた状態から私たちが真の自分を見つけ出す方法を、本書ではこう言っています。
「大切なのは、私たちがこの問題を抱えているということに気づくことである。気づきがあれば、私たちは感情体や感情的な心を癒し、苦しみを終わらせる機会を得ることになるのだ。」(p.31)
第三章では、「愛を信じなかった男」のたとえ話で、私たちが愛と言っているものがどういうものか、本当の愛はどんなものかを説明しています。
そして私たちが愛と言っているものは、単に依存関係だと説明します。
「彼はまた、恋人同士の関係は、そのほとんどがちょうど麻薬常習者と麻薬の売人との関係のようなものだとよく言った。より依存度の高い方が麻薬常習者のようなもので、依存度の低い方が売人のようなものだ、と。」(p.40)
これは的を射た面白い表現だと思いました。売人もまた麻薬常習者に依存しているという点が、実に的確だと思うのです。
そしてこの愛を信じなかった男が、ある女性と出会って付き合うようになり、いつしかその女性に抱く思いが、愛なのかもしれないと思うようになるのです。
「うーむ、もしかして彼女に抱くこの思いは愛なのかもしれない。しかし、これは今まで感じたものとはまるで違う。これは詩人が言うものとも違うし、宗教が説くものとも違う。なぜなら、私は彼女に対する責任などないからだ。私は彼女から何も奪いはしない。私は彼女に面倒を見てもらう必要もない。私は自分の困難を彼女のせいにしたり、自分のごたごたを彼女に持ち込む必要もないのだ。私たちは最高の時を共に過ごしている。お互いに楽しんでいる。私は彼女の考え方、感じ方を尊重している。彼女は私の邪魔などしない。まったく私の気に障らないのだ。彼女が他の人たちといるときも私は嫉妬心を抱かない。彼女が他の人たちとうまくいっても、妬みはしないのだ。もしかすると愛は確かに存在するのだが、しかしそれはみんなが愛だと思っているものとは違うのかもしれない」(p.45)
しかしその関係は、最終的に破綻することになります。
「間違いは、自分の幸せを彼女に与えることができると思った男の側にある。」(p.46)
自分が感じた幸せを彼女に分けてあげて、彼女も幸せになって喜んでもらいたかった。でも、たとえ良いと思ったことであっても、相手の自由を奪うことが愛を終わらせたのです。
「で、もし幸せがあなたの内側からしか湧き出ることができず、それがあなたの愛の結果なら、あなた自身があなたの幸せの源なのである。自分自身の幸せの責任を誰かに負わせることは決してできないのだ。」(p.47 - 48)
私たちの人生は夢だと言います。私たちはそれぞれの夢の夢見手なのだと。
「あらゆる夢見手は、それぞれの仕方で夢を見ている。だからこそ、二人の夢見手の間に存在する相違を受け入れる必要があるのだ。私たちはお互いの夢を尊重する必要があるのだ。」(p.50)
仮に相手の夢が悪夢に思えても、勝手にその夢を変えることはできないし、してはならないのです。
「ちょうどあなたの肉体が細胞でできているように、あなたの夢は感情でできている。これらの感情には二つの主な源がある。ひとつは「恐れ」であり、もうひとつは「愛」であって、したがって恐れから生じるあらゆる感情と、愛から生じるあらゆる感情がある。」(p.51)
「神との対話」でも、愛の対極が不安(怖れ)だと言っていますね。すべての感情は、ここから派生するのだと。
本書では、その違いを以下のように説明します。
「愛には義務がない。恐れは義務だらけである。恐れの道では、私たちが何をしようと、それはせねばならないからであり、そしてまた他人にも同じことを期待する。なぜなら、彼らもそうせねばならないからである。私たちには義務があるのだが、そうせねばならないとなると、私たちはすぐさまそれに抵抗する。抵抗すればするほど、私たちはますます苦しくなる。遅かれ早かれ、私たちは自分の義務から逃げ出そうとするようになる。一方、愛には抵抗がない。私たちが何をしようと、それはそうしたいからである。それは喜びとなる。ゲームのように、私たちはそれを楽しむのだ。」(p.52)
他にも以下のように書かれていますが、これだけではよくわからないと思います。ぜひこの部分は、じっくりと本を読んでみてほしいですね。
「愛には期待がない。恐れは期待でいっぱいだ。」(p.52)
「愛は尊敬に基づいている。恐れはそれ自身を含むいかなるものも尊敬などしない。」(p.53)
「愛は同情したりしない。誰のことも哀れんだりはしないが、しかし慈しみの心はある。恐れは哀れみに満ちている。」(p.54)
「愛は完全に責任を持つ。恐れは責任を避ける。」(p.54)
「愛は常にやさしい。恐れは常に冷酷だ。」(p.55)
「愛は無条件だ。恐れは条件だらけである。」(p.56)
そしてあらゆる人間関係(それだけでなく、生物や物との関係でも)には、「二つの半分がある」と言います。
一方は自分自身であり、もう一方は相手方を指します。
どんな大勢との関係においても、その中の1人と自分の関係があるだけで、あとはその集積だと言います。
そしてその個々の関係において、どう考えるかが重要なのです。
「関係の術をマスターするかどうかはすべてあなた次第である。まず第一歩は気づくこと、誰もが自分自身の夢を見ているということを知ることである。いったんこのことを知ると、あなたは関係のうちの一方の半分、つまりあなた自身に対して責任をもつことができる。もしあなたがその関係の半分にだけ責任があるのだと分かれば、あなたは容易にあなたという半分をコントロールできるようになる。もう片方の半分をコントロールするのは私たちの役目ではない。」(p.63)
まさに他人のことは他人に任せよ、ということです。関係においては、自分がどうかを考えていれば良いのだと。これもまた、「神との対話」でも言われていることですね。
「そして最後に、もしあなたがあなた以外の誰ひとりとしてあなたを幸せにすることはできないということ、そしてあなたの幸せはあなたの内側からあふれ出す愛の結果なのだ、ということに気づけば、それはトルテックの最大の技(アート)、愛の修得(マスター)となるのだ。」(p.64)
「愛を修得する唯一の方法は愛を実践することである。」(p.64)
これ以降、その愛の実践のためのガイダンスが書かれています。
基本的にはこれまで書かれているように、自分自身の愛で自分を幸せにすることです。いわば自己愛です。
お互いが完全に自分を愛するとき、その関係はより大きな愛で包まれるのです。
「あなたは、世界を救い、社会を変えるという一大使命を帯びてこの世に生まれてきたわけではないが、しかし間違いなくあなたには大きな、重要な使命がある。人生におけるあなたの真の使命とは、あなた自身を幸福にすることである。そして幸福になるためには、あなたが何を信じ、どのように自らを裁き、どのように自らを犠牲者にしているか見つめてみなければならない。」(p.102 - 103)
「私たちは裁く必要などない。責めたり、または罪悪感を抱く必要もない。私たちはただ単に自らの真実を受け入れ、新たなるスタートを意図すればいいのだ。もし私たちが自分自身をありのままに見ることができれば、それは自己受容への−−自己否定をやめることへの−−第一歩である。」(p.105)
まだまだ紹介したい言葉がたくさんあるのですが、あまりに長くなりすぎるのでここまで。
途中にある第六章「魔法のキッチン」や第九章「狩猟の女神」のたとえ話は、実に面白くわかりやすいです。
第八章「セックス−−地獄最大の悪魔」も、ぜひ読んでみてほしいですね。
第一二章「あなたの内なる神」には、インドの神ブラフマンの物語が書かれています。私はまったく知らなかったのですが、これは「神との対話」に書かれているこの世が創られた経緯とまったく同じです。
真実は昔から、世界中で語られていたのですね。
最後に、この部分だけ引用しましょう。
「神に至るため、悟りを開くため、目覚めるためのいかなる努力も不要である。あなたを神のもとに連れて行ける人など誰もいない。もしあなたを神へと導いてあげようと言う人がいたら、その人は嘘つきである。なぜなら、あなたはすでに神と共にいるからである。あなたがそれを望もうが望むまいが、逆らおうが逆らうまいが、あなたはすでに神と共にいるのである。
残された唯一のことは、人生を楽しみ、溌溂と生き、あなたの感情体を癒し、それによって自分の内なるすべての愛を惜しみなく分かち合えるような人生を創造することである。
たとえあなたが全世界の愛を一身に受けても、その愛はあなたを幸福にはしないだろう。あなたを幸せにするのは、あなたの内側からあふれ出る愛である。その愛こそが重要なのだ。他の人から与えられる愛ではなく。あなたがまわりのあらゆるものに対して抱く愛は、あなたが担う半分である。他の半分は木かもしれないし、雲であるかもしれない。あなたは関係のうちの半分なのだ。もう半分はあなたが知覚するものである。夢見手としてのあなたは半分で、他の半分は夢自体である。」(p.181 - 182)
<追記>
ブログ記事に「「愛の選択」の要点」を書きました。より詳しい内容を知りたい方は、こちらもお読みください。
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