2014年07月03日

人類との対話2



以前、「人類との対話1」を紹介しましたが、その続編になります。「神との対話」シリーズの著者、ニール・ドナルド・ウォルシュ氏の最新作です。

「人類との対話1」については、その紹介記事にも書いたように、私にはかなり消化不足という印象が残りました。

今度の本はその続編だということなのですが、書き方はまったく違っています。

どちらかと言えば「神との対話」シリーズの10冊目以降の、神が登場しなくなった本に似た感じです。

読者に直接ニール氏が語りかけ、見た目の問題に関わるべきではなく、霊的(スピリチュアル)な問題に取り組むべきだと誘導します。


心に残った部分を、いくつか引用してみましょう。

人は、心の平安や真実の愛や絶対の至福を経験するために、どんな存在でいる必要も、何かをする必要も、何かを持つ必要もないとわかったとき、そこが天国だと知る。それは<存在するすべて>とその存在が望むすべてのことが、<いまここでこの瞬間>に、充分に現れ、表現され、経験されるからだ。
 それが<成し遂げた>ということだ。
」(p.85)

進化は止まらない。だから<成し遂げる>とは何かを終えることではない。
 <神聖な旅>では「完全に成し遂げる」ことは不可能だ。それはあなたが<成し遂げた>瞬間に<魂>がより壮大な経験を思いつくからだ。だが欲求不満に陥ったり、終わりにしたいと思うことはない。より高いレベルの<神であること>へと進化する喜びは、何にも優る魅力的なものだ。それは<生命がより生命>になり、<神が神自身>になる魅力だ。そして<あなたの中にある神としての衝動>だ。
」(p.91)

だから<生命>があなたの前に、辛いことや、嫌なこと、これまでに出会ったことのない状況や出来事を差し出してきたときには、批判や非難をしたりせずに暗闇の中の光だと思いなさい。そうすればあなたは「あなたの真の姿」を知ることができる−−そしてあなたが触れ合う人々も、あなたという光をお手本にして、同じように彼らの真の姿を知ることができるのだ。」(p.100)

<真のあなたでないもの>がないところでは、あなたは真のあなたを経験することができない。「正反対のものが存在する<相対的な領域>でない限り、何も経験することはできない。」(p.101)

あらゆる不安(怒り、憎しみ、暴力などから生まれる)は愛が歪んだかたちだ。
(中略)
 さらに突き詰めていくと、不安や憎悪や暴力は、自分の愛する何かを失うか失うかもしれない、もしくは愛するものが何もないという気持ちの表れだとわかる。
 愛するものがなければ喪失感を感じない。だから、ないということに対する否定的な感情も生まれない。
」(p.122)

<神性>が願うのはただひとつ、<自ら>をすべて知り、示すことを通じて、<自ら>を完全に経験することだ。
(中略)
 そしてこれは、あなたの願いでもある。」(p.144)

あなたはいつも現実を<他のあなた>と共につくっている。あなたはそれを理解し始めた。それと同時に<私たちはひとつである>こと、この地球に暮らすあなた以外の人々はすべて<他のあなた>だとわかり始めている。
 このことを<知る>レベルから<経験する>レベルへ移行することが、<成し遂げる>ことの<究極の表現>だ。

(中略)
 その瞬間に、あなたは「白い衣服を着た人」と「黒い衣服を着た人」、つまり「被害者」と「加害者」両方になることができる−−そして自分がその両者であるとわかる。それでもあなたは自分自身を愛し、赦す。なぜならあなたは、戸惑うことは罪ではないことを、どんなものであれ、非道な行為はすべて忘却のひとつのかたちだと知っているからだ。」(p.157 - 158)

それはあらゆる苦しみを無視し、他人の痛みを見過ごし、世界では何も悪いことが起こらないという態度を取るべきだという意味ではない。その逆だ。この地球や生命のあらゆる状況は、わたしたちがわたしたちの前に差し出したものだ。
(中略)
 そしてその理由は、わたしたちが人と人との関係の中で、自分たちの真の姿を決断し、表し、経験するためだ。
 つまり苦しんでいる人も、他の人の苦しみを終わりにする人も、どちらも自分たちの真の姿を経験している人々なのだ。
」(p.184)

苦しみとは、悲しみや痛みに対して<精神>が反応することだ。悲しみや痛みを経験しているときに苦しんでいるとしたら、それはあなたがいまは経験すべきでないとはっきり判断したからだ。判断したのは悲しみや痛みそのものではなく、苦しんでいる原因についてだ。
 悲しみや痛みとは、何かが起きた結果だ。それに対して苦しんでいるということは、なぜそれが起きたのか、それを<魂の課題>にどう役立てればよいのか、あなたが充分に理解していないからだ。
」(p.185)

このように、すべての現象的な問題は、私たちの魂の課題だと言います。

ですから出来事をなくそうとしたりするのは、意味がないことなのです。


では、魂の課題とした場合、私たちはどのようにして、その課題に取り組めば良いのでしょう?何が私たちを助けてくれるのでしょう?

そこでニール氏は、5つのツールを取り上げます。これらを使うことで、魂の課題に取り組むことが容易になると言うのです。

その5つのツールとは・・・。これについては、ぜひ本をお読みください。

人類との対話2
 
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2014年07月05日

こうして、思考は現実になる



私のメンターも勧めていたので、一度はスルーしたこの本を読みました。

著者はパム・グラウトさんという女性です。

35裁のときに恋人にフラれ、自殺するか精神療法のプログラムに参加するかの二者択一を迫られたのだとか。

そのとき、手首を切ってルームメイトを怒らせることになるのが嫌で、精神療法のプログラムに参加したそうです。

しかし、そのことがきっかけで、人生が大きく好転したと言います。


そんなパムさんが、引寄せの法則を実生活に応用するための方法を、具体的に示したのがこの本になります。

それは、だいたい48時間程度に時間を区切って、思考が現実化する実験を行うという方法です。

この本では、9つの実験を行うことで、引寄せの法則が実際に働くことを実感してもらおうというおものになっています。

そういう点では、以前に紹介した「ザ・マジック」と似たような本と言えるでしょう。


私も今現在、この実験をいくつか行いました。

上手く行ったものもあれば、上手く行かなかったものもあるというのが、正直なところです。

考えてみれば当然ですよね。そんなに簡単に思考が現実化しているなら、そもそもこのような本は読まないわけですから。


しかしこの本の目的は、やってみて上手く行った人だけを喜ばせるものではありません。

上手く行かなかった場合も、そこからスタートなのです。

あとがきでは、仲間を作って情報を共有することを勧めています。

実験は、1回やって終わりではないのです。ダメだったら、どうすれば上手くいくのかを考え、互いに励まし合い、再度挑戦するのです。

そうすることで、最初は上手く行かなかった人も、徐々に上手く行くようになる。

すぐに自転車に乗れるようになる人もいれば、なかなか乗れない人もいます。でも、いつかはみんなが乗れるようになるのです。

それがこの本の、最終的な目的なのだろうと思いました。


以下、読んでいてピンときたところを引用します。

しかし実際には、世界を変えるのは、とても簡単なことだ。
 世界を変えるには、自分の期待や思い込みを変えるだけでいい。本当に、そんなに簡単なことなのだ!何かを実現したいのなら、「今目に見えているもの」ではなく、「これから見たいもの」に意識を集中しなければならない。
」(p.48)

すべてはまず「意図」を持つことから始まる。意図こそが、すべてのものを生み出す力だ。エネルギーであり、燃料だ。」(p.61)

「悪いところ」ではなく、「理想の姿」を探すようにすれば、人生は驚くほど好転する。
 ここで、本当のことを教えよう。すべての「間違ったこと」(実はそれ自体が間違っているのではなく、間違っているという判断が間違っているのだけど)には、もう一つの側面がある。「不足」と「豊富」は裏と表の関係だ。「病気」と「健康」もそう。どちらの側面も同時に存在している。どちらの側面も本当のことだ。ただ、どちらかの側面を見ることを選んだために、もう一つの側面が見えなくなってしまっているだけだ。
」(p.66)

そのために必要なことは、たった一つだけだ。あなたはただ、自分の「欲しいもの」に全神経を集中するだけでいい。」(p.77)

つまりくり返しになるが、私たちは世界をありのままに見ているのではなく、自分が見たい世界をあらかじめ決めているということだ。そして残念なことに、あえて間違った世界の姿を見ることを選んでしまっている!
(中略)
そしていちばん重要なのは、探すものを変えれば、自分の世界に実際に現れるものも変えられるということだ。」(p.115)

それは自信を持つことだ。自分なんてこの世でもっともつまらないちっぽけな人間だという思い込みを捨てることだ。」(p.164)

実は、顕在意識の役割はたった二つしかない−−それは、問題を見つけることと、目標を設定することだ。
 意識の正しい使い方を心得ている人は、この二つのためだけに顕在意識を使っている。つまり、問題を見つけ、目標を決めたら、すぐに顕在意識を使うことを放棄するのだ。
」(p.178)


このように著者は、明確に思考の使い方を説明しています。

病気の人が健康になりたかったら、「病気を治す」ことを考えるのではなく、「健康」のことを考えるのです。

そのためには、不調なところを見るのではなく、好調な部分に注目し、そこをほめたたえ感謝することです。


また最後に引用した部分は、特に注目すべきことだと思います。

顕在意識に問題解決をさせてはいけないと言うのです。顕在意識は問題を探し、目標を設定するだけ。

どうやって解決するかは、すべて潜在意識にお任せするのが良いのだと。


さて、自分も実験に参加してみようと思われたでしょうか?

もしそう思われたら、ぜひ仲間になりましょう。この本は、そういう仲間を引き寄せるための本でもあるのです。

こうして、思考は現実になる
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 16:30 | Comment(4) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月10日

0(ゼロ)葬 −−あっさり死ぬ



「葬式は、要らない」という本で話題になった島田裕巳さんの最新作です。

「葬式は、要らない」も一緒に買って先に読んだのですが、あとで「0葬」を読むと、その内容がほとんど書かれていました。

ですから、これから読んでみようと思われる方は、「0葬」だけ読まれても充分かもしれませんね。

と言うことで、このブログでは「0葬」のみ紹介しておきます。


日本人の葬式にかける平均額は、驚きの231万円なのだそうです。これはダントツで世界一だとか。

もちろん香典などがあれば、遺族がすべてを負担するわけではありません。

何がそんなに高いかと言うと、豪華な祭壇を作ったり、読経してもらう僧侶へのお布施や戒名料としてお布施などだとか。


また葬式が終わっても、墓という問題があります。

都会では墓を持つこともままなりません。さらに作ったら作ったで、それを維持する費用もかかります。


どうしてこんなに、死ぬことに対して費用がかかってしまうのか?そして、それは必然なのか?

それに対する答が、この本には書かれています。

そして導かれた結論が、「0葬」ということになります。

これは、戒名も求めず、読経もしてもらわず、会葬者も呼ばない直葬と、火葬後の骨を引き取らないことで墓も作らないというもの。

その考え方が、けして突飛なものではなく、これまで常識と思われていたことが、ごく最近の風習であることを本書は丁寧に説明しています。


気になったところを一部引用しましょう。

自己決定権がことさら主張されるのも、世間体を重視する考え方が日本では支配的だからだ。自分では自分のことを決められない。そこに忸怩(じくじ)たる思いを感じる人間が、自己決定権の尊重を訴えようとする。」(p.127)

葬式に限らず、日本人はすぐに相場を気にします。それは世間体が気になるからです。

その世間体を気にする気持ちが、無用な戒名に高い金額を支払うことを余儀なくしていると言うのです。


なんのために葬儀を営み、墓を建てるのか、それが現在では不明確になりつつある。
 人が死ねば、その遺体を処理しなければならない。それは避けられない。
 だが、多くの人を集めて、故人の死を悼むべきなのか。その必要性は急速に薄れている。
」(p.158)

無縁化する社会において、80歳を超える長寿ともなれば、すでに知り合いも少なくなっています。

故人を知らない人まで集めて葬儀を営むことの必要性を、感じない人が増えていることを指摘しています。

つまり社会との縁が徐々に切れていくことで、私たちは社会的に死を迎えるのであり、肉体の死はその先にある終着点に過ぎないと言うのです。


ただ、私は、自然葬のさらに先があるように思っている。それが「0(ゼロ)葬」である。0(ゼロ)葬は、今求められている究極の葬り方かもしれない。」(p.177)

土葬だった時代は、土に埋めておしまいだったのです。棺桶や肉体が朽ちた後は土が陥没するため、埋めた場所の上に墓石は建てられなかったからです。

ただ裕福な家では詣り墓という、供養塔を別の場所に建てたそうです。

ならば火葬であっても、骨は自然に戻して、墓に納めなくても良いのではないかと言います。散骨などの自然葬です。


また、西日本では一般的に、すべての遺骨を骨壷に納めることはしないと指摘します。

東日本ではすべてを納めると書かれていますが、遺灰は納められませんし、崩れて落ちてしまった骨も同様でしょう。

と言うことは、すでに骨の一部は火葬場に残しているのが現実ですから、それをすべての骨に適用しても良いのではないか、と言うのが「0葬」です。


遺骨を引き取らないなどということを聞けば、それに抵抗を持つ人もいるだろう。それだと、故人を粗末に扱っていることになるのではないかと言い出す人もいるはずだ。
 しかし、火葬された骨が最終的になんらかの形で供養されるのであれば、問題はない。少なくとも、先に述べた本山納骨と変わらないし、永代供養墓に合祀するのと同じである。
」(p.180)

だからこそ、『千の風になって』という歌が流行ると、それを葬儀や納骨のときに歌う人が増えたのだ。この歌の歌詞は「故人が『私はお墓に眠ってなんかはいない』と訴える」というのが趣旨である。この歌が2007年年間売り上げ約113万枚の大ヒットという形で支持されたように、皆、墓に故人がいるとは考えていない。千の風になって、もっと自由になった、あるいはなりたいと考えているのだ。」(p.183)

私自身も、遺骨にその人の霊が宿るなどとは信じていません。ですから島田さんのこの指摘には、完全に同意します。

しかし、多くの人が「あれとこれは別だ」と考えているようにも思います。

多くの人は、自分が矛盾を抱えていることを何とも思わないのです。

そしてそれを、「だからこそ人間なのだ。人間は理屈じゃなく感情の生き物だから。」と、それこそ理屈にもならない屁理屈で正当化します。

つまり、自分自身の矛盾を指摘されると痛いため、その痛さに直面することを避けようとして、屁理屈をこねているのです。

ですから、そういう人には島田さんの考え方は受け入れられないと思います。


ただ、受け入れられない人が無理に、この考え方を受け入れる必要もないと思います。

人はそれぞれ自由ですから、自分が信じたいものを信じる。それで良いのではないでしょうか。

いずれにせよこの本は、これまでの常識がそうでもないと気づかせてくれるし、すでにそういう潮流が起こりつつあることを示していると思います。

いつかはやってくるこの世の人生の終着点を考える上で、参考にされてみてはいかがでしょうか。

0(ゼロ)葬 −−あっさり死ぬ
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:46 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月11日

骨折治療後のレイキ・ヒーリング

レイキ・ヒーリングがどのように行われて、どのような効果があるかをお話します。

これは最近、私の友人に対してレイキ・ヒーリングを行った結果です。

友人は右足の付け根あたりを骨折し、その治療後のリハビリを行っていました。


施術内容は、だいたい以下の通りです。

・6月17日(火)20:00〜22:00
 半身交血法(※1),基本12ポジション(※2)+足の手当て,右足鼠径部の手当て

・6月20日(金)20:30〜22:30
 基本12ポジション+足の手当て,腰の手当て

・6月25日(水)20:00〜22:10
 基本12ポジション+足の手当て,腰の手当て

・7月1日(火)20:00〜22:00
 基本12ポジション+足の手当て,腰の手当て

・7月4日(金)20:00〜22:00
 基本12ポジション+足の手当て,腰の手当て

・7月9日(水)19:15〜21:00
 腰と足の手当て,右足の付け根(後ろから)の手当て


※1:精気づけ、新陳代謝促進を目的として行うマッサージのようなもの。
※2:西洋レイキで手を当てるポジションとして、効果的とされる12のポジション。(頭部、体前面、体背面に、それぞれ4ヶ所ずつある。)


上記6回の施術を行う間に、歩行器が必要だったのが松葉杖なしで少しなら歩ける程度まで回復しました。

これがレイキによる効果かどうかは何とも言えません。リハビリもずっとやっていましたので。

しかし、レイキ・ヒーリングをしているとき、私の手がビリビリとしたり、上半身が熱くなるなどの現象もあり、これは何かあるなと感じられたことは事実です。


以下に、友人からもらった感想を載せておきます。

<--------------------(感想)-------------------->
名前:ヨシモト
幸運な事に、赤木さんに、合計6回のレイキ・ヒーリングをやって頂きました。
腰骨の粉砕骨折でもう2ヶ月近い入院ですが、本当に助かります。ありがとうございました。

初回は赤木さんの手のひらがほんわか暖かく感じ、優しく患所を包んでもらっているような感覚でスタートしました。今まで一度もレイキ・ヒーリングを受けた事がなかったので、正直、特に期待はしていませんでした。赤木さんからも、ただ普通にしていて下さいと言われたので、患部に意識を集中するとかといった事もしませんでした。

ところが回を重ねるごとに、患部が内側から火照るように反応してくるのを実感してきます。赤木さんも2回目からは、手のひらがビリビリくるとおっしゃってましたが、骨折で痛み止めを飲んでいた私にも、面白いことに骨や周囲の筋肉が反応する感覚が分かります。

特に3回目以降は、手のひらが置かれると一番炎症がひどい腰の部分が疼き始め、ジンジンと痛みの様な感覚が走るのには驚きました。何か、骨の芯まで何らかの作用が働いているのが実感できるという、不思議な体験でした。

効果については、自信を持ってあると言えます。それまでの病院での西洋医学的な療法とは違う体験だからでしょうか。自分の身体が実際に某かの反応をしていると実感できますので、回復に対する信頼も回数が増えて強化されている。そんな印象を、嬉しいことに今も持てています。

毎回、お互いに興味ある話や雑談をしつつでの治療体験でしたから、2時間はあっという間でした。終わった後はお互いに疲れるとか、やれやれといった空気も一切ありません。これまた不思議と、相手に負担を掛けたという感じが全くないので、赤木さんには「またお願いしま〜す」とついつい甘えてしまいました。赤木さん、本当にありがとうございました。お陰様で回復が加速されました。

一切余計な負荷が掛からないというのも分かったので、個人的にもレイキ・ヒーリングに関心が湧いてきます。素晴らしい体験でした。
赤木さん、心から感謝します。
<--------------------(感想)-------------------->


<7月31日追記>
ヨシモトさんへのレイキは、その後、7月16日にも行いました。そこで退院され、その後は施術をしていませんでした。

それが先日28日に連絡があり、杖なしで歩き回れるようになったとのことです。

歩行器を使われていたときにレイキを始めて約1ヶ月半で、ここまで回復されたのですね。私も嬉しく思いました。
 
・7月16日(水)19:45〜22:15
 腰と足の手当て,右足の付け根(後ろから)の手当て

 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 14:31 | Comment(0) | └ レイキにできること | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月15日

「食べない」健康法



石原結實さんの本を読みました。

石原さんのことを知ったのは、Facebookで紹介されていたスキルス性肝臓がんを13ヶ月で治療したというサイトを読んだときです。

その治療法が、少食にするというもの。

少食に関しては私も以前、「「食べること、やめました」」「脳はバカ、腸はかしこい」を読んでいたので、これは間違いないと確信しました。

それで、石原さんの本をKindle版で買って読んだのです。


なぜ少食にするとガンが治るのか?その答は免疫力にあると言います。

飽食は血液を汚してしまい、免疫力の代表である白血球は、それらを食べることに一所懸命になり、肝心の細菌やウイルス、癌細胞と言った健康を害する対象を食べなくなるのです。

ですから、病気を治すには少食にして血液をきれいにし、白血球にもっと働いてもらえるようにするのが一番だと言うわけです。

だいたい動物は病気になると、食欲がなくなったり発熱したりします。

これは身体が病気を治そうとしているのだと言います。言われてみれば、そのとおりですね。

ですからその本来の力を信じて、身体を温めて食べないようにすれば、自然治癒力が働くようになっているのです。


6000年前のエジプトの碑文には、「人は、食べる量の4分の1で生きている。他の4分の3は、医者の糧になっている」とあるそうです。

やや皮肉っぽいですが、まるで現代の医療を象徴しているようにも思えます。

日本にも「腹八分に病なし、腹十二分に医者足らず」という格言があるそうです。

古代ギリシャのピタゴラスは、「人の病気は過食からくる。なるべく少なく食べよ。しからば、汝の体も丈夫になり、精神も立派になって、病の神も汝をどうすることもできなくなる」と言ったそうです。

また江戸時代の観相家の水野南北は、「食を少なくすることこそが、健康長寿のみならず、富裕や立身出世をする道である」と言ったとか。

このように昔の人はみな、本質的なことを見抜いていたのでしょう。


また現代の科学でも、マウスの実験で少食にしたマウスや、断食を取り入れたマウスは、飽食のマウスより長生きすることが確認されています。

この実験は人間に対しても行われているようで、そこでも同様な結果が得られていると言います。


石原さんは、「1日1〜2食抜くだけで、健康に致命的なダメージが発生することは考えられない」と言います。

しかし、万全を考えると、以下にある基本食から始めるのが良いと説明します。

<基本食>
・朝:人参・りんごジュース、または生姜紅茶
・昼:そば
・夕:何でも可


これによって空腹の心地よさを体験できたら、体調に合わせて1日1食〜1食半にするのが良いと言います。

ただし糖尿病の薬を服用している人やインスリン注射を打っている人は、低血糖発作を起こす可能性があるので要注意とのこと。

普通の人は心配ないが、その症状が現れたときは、飴玉を舐めるとか、生姜紅茶に黒砂糖を入れて飲むようにすると良いと言います。


これまでの常識は、病氣になったら「体力をつけるために」という理由で無理にでも食べることでした。

しかし、食欲不振は治すべき症状ではなく、身体が病氣を治そうとする反応だったのです。

したがって、食べないことで排泄が良くなったり、また体調が良くなったと感じるなら、むしろ食べない方が良いのです。


病氣で苦しんでいる方はもちろんですが、今は健康だという人も病氣の予防として、少食を始めてみてはどうでしょうか。

私はすでに、朝は抜いて、昼は弁当のおかずだけにして、夜はビールと少しのつまみという、炭水化物抜きダイエットをやっています。

厳密な炭水化物抜きではないので、おかずにスパゲティが入っていても、それは美味しくいただきます。

基本は少食なのです。本当は、お昼は果物だけにしたいとも思っているのですけどね。

これで体重も3ヶ月で6kgくらい落ちましたし、体調もすこぶるいいように感じています。

「食べない」健康法
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 14:02 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月16日

世捨て人のすすめ



久しぶりに、ひろさちやさんの本を読んでみました。

仏教的な考え方をわかりやすく説いておられるので、20代の頃から私は、ひろさちやさんの本を読んでいました。


この本は、2002年から約10年間、東京新聞・中日新聞に連載された「ほどほど人生論」をまとめたものだそうです。

10年という長い期間での連載ですから、話の内容に重複や矛盾もあるそうですが、そのときどきに考えたことを大事にして、なるべく加筆・修正しないようにされたとか。

この本では執筆順ではなく、テーマでまとめてあるそうです。


読んで気になった部分を引用してみましょう。

「自由」というのは、物事の判断を「自分に由る」ことであって、それが主体性です。わたしはこれを食べます。わたしはこのような生き方をしますと、自分で決めるのです。」(p.28)

「自由」=「自」分に「由(よ)」る、という解釈はぴったりですね。他人に同調したり強制するのは、「自由」ではなく「他人由」だとか「世間由」だと、面白いことを言われます。

最近はKY(空気を読め)だとか言って、他人に自分の価値観を察することまで強要する風潮があるようですが、これなどは自由とは真逆の概念だと言えるでしょう。


だとすれば、うぬぼれるということは、自分が自分自身に下した評価(それを主観的評価と呼ぶことができそうです)が、客観的評価(世間の評価)を上回っていることです。そして、うぬぼれてはいけないということは、主観的評価を客観的評価に近づけよ、といった意味になりそうです。
 これは、ちょっと変ですよね。なぜなら、ここには、世間の人が下す評価が正しいといった前提が含まれているからです。
」(p.30)

これも、指摘されてみるとなるほどです。

世間の評価がいかに正しくないかは、もてはやした有名人や政治家が、たちまち馬脚を露(あら)わす例でも明らかだと言います。

だったら世間の評価、学校の評価、上司の評価など気にせず、自分を信頼すれば良いのです。

そこで親は我が子を信頼すること、また自分自身を信頼すること、つまりうぬぼれることを勧めています。


考えてみれば、阿修羅は正義の神ですが、正義というものはただ一つではないのです。帝釈天の立場に立てば、彼にだって言い分はあります。正義というものは複数形です。それぞれの正義があります。仏教はそのように考えているのです。」(p.123)

インド神話にある話で、正義の神アスラ(阿修羅)が力の神インドラ(帝釈天)に執拗に戦いを挑むという物語です。

そして仏教では帝釈天を仏法の守護神とし、阿修羅を魔類にしているのだそうです。

娘を奪われたから阿修羅は怒り狂って戦ったのですが、その怒りに執着しているために、複数の正義があるということが見えなくなったのでしょう。

人それぞれ自由であり、それぞれの価値観があります。それを受け入れることが、仏教として重要なことなのでしょうね。


つまり、怒ってはならないと主張する人は、無意識のうちに、
 −−正しい怒りとまちがった怒り−−
 を区別しているのです。その上で、まちがった怒りをしてはならないと主張しているのです。
 じつは、そこに道徳のいかがわしさがあります。
」(p.195)

その正しい怒りとまちがった怒りを判断する基準は何かというと、力関係にあると言います。

たとえばアメリカによる原爆投下は非戦闘民を無差別に殺戮した行為ですが、アメリカはこれをテロとは呼びません。

一方で、911事件で行われた飛行機によるビル突入は、テロ行為と呼んでいます。

何がどう違うかというと、力のある側が自分たちが都合のよいように判断しているだけだと言うのです。

これも、まさにそういうことだと思います。


わたしたちはみんな、神の目で見れば不完全な人間です。欠点だらけの人間なんです。それなのにわれわれは、他人に対しては「かくあるべし」と完全な人間であることを要求してしまうのです。それはおかしいのです。われわれは他人に対して、
 −−あなたがあなたであっていい−−
 と認めてあげること。それが真の愛だと思います。
」(p.61)

ひろさちやさんは仏教に基づいて解説されていますが、この考え方は、まさにこの幸せ実践塾で説いているものと符合します。

幸せ実践塾は、必ずしも仏教の教えを説いているわけではないのですが、やはり真実は一致するのでしょうか。

読んでいて、何度も「我が意を得たり」と膝を打ちたくなりました。

世捨て人のすすめ
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 08:56 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月17日

終活なんておやめなさい



また、ひろさちやさんの本を紹介します。

島田裕巳さん「0(ゼロ)葬 −−あっさり死ぬ」を購入した時、ひろさちやさんのこの本も気になって、合わせて購入しました。

ひょっとしたら同じようなことを言っているのかと思ったら、微妙に違ってましたね。


ひろさちやさんは、そもそも死んだ時のことなんか考えるな、という主張のようです。

葬式をどうするとか、墓をどうするとか、財産分与だとか、そんなもろもろのことを気にせず、残った人の好きにやらせたら良いと言うのです。


人生の問題、人間の問題に正解はない。そのことをまず、「あきらめる」ことです。
 ここでいう「あきらめる」は、諦める、つまり、ギブアップすることとはちがいます。
 「明らめる」、明らかにするということです。
 何ひとつ正解などないことが、自分のなかで明らかになれば、何をしようが、うまくいくときはいくし、うまくいかないときはいかない、ということがわかるはずです。
」(p.32-33)

だからどれが最善かと迷うのも意味がないし、これが最善だと押し付けることも意味がないのです。

終活とは、要はその迷って決めて押し付けることになるのですから、やめなさいというわけです。


たとえば、飛行機事故に遭って死ぬことにでもなったら、航空会社が葬式いっさいを取り仕切ることになるかもしれませんし、外国旅行中に死亡ということであれば、現地で荼毘に付されることだってあるわけです。
 自分が思い描いたとおりの葬式がおこなわれるのだ、と考えること自体がまちがっているのです。そのことに思いが至れば、葬式の詳細について言い残すことの無意味さがわかるのではないでしょうか。
」(p.39)

さて、日本で現在おこなわれている、火葬して墓に埋葬するという遺骨の扱い方もひとつの風習、はっきりいってしまえば、「単なる風習」です。それが理にかなっているとか、仏教の教えに沿っているとか、ということとは関係なく、単なる風習として定着しているにすぎません。」(p.80)

位牌は仏壇に安置され、毎日、水や花、ごはんなどが供えられ、家族はその前で手を合わせます。いかにも仏教の祀(まつ)りのような印象ですが、位牌も仏壇も儒教の影響が色濃いものなのです。」(p.110)

このように、自分の葬式をどうするか決めておいたって、そうなるとは限りませんし、それに今の葬式は、仏教とは関係のない単なる風習に過ぎないと言います。(そもそも仏教は葬式とは無縁でしたから。)

風習なら、何の根拠もないわけですから、時代とともに変わるもの。そして実際に変わっているものなのです。


私たちが死者に対してすべきもっとも大事なことは、「忘れてあげる」ことです。」(p.131)

残された人が死者を思えば思うほど、その不憫さを嘆けば嘆くほど、それは死者の苦しみを増す因(もと)となる。なぜなら、自分の死によって残された人を嘆かせることは、死者自身の罪だ、と仏教では考えるからです。」(p.143)

繰り返しになりますが、遺族に「早く忘れよ」と言い残すことこそ、真の「遺言」と呼ぶに足るおこないです。」(p.137)

死ぬ方も未練を残さないように生き切る。そして見送る方もさっさと手放してあげる。執着しないこと、自由にさせることが、死という出来事に対しても重要だと言います。それが愛ですからね。


孤独死に対しても、後片付けは行政に任せればよいと言い放ちます。それだけの税金を払っているのだからと。

お浄土に行くのだ。そのことだけをしっかり腹に据えておいてください。そして、孤立死など怖れず、「あとのことなどオレは知らん」と開き直って、堂々と死んでいけばいいのです。」(p.195)

このように思えれば、もう何も怖いものはありませんよね。

後のことは後の人に任せて、死ぬときは堂々と死にましょう。そう言われると、なんだかスッキリした気分になります。

終活なんておやめなさい
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 09:19 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月18日

招き猫カワヒラくんが教えてくれた幸運の流れに乗る生き方



「いまここ塾」を主催されている阿部敏郎さんの本を読みました。

以前にも「一瞬で幸せになる方法」「降参のススメ」を読んでいますが、これらは講演録です。

今回の本は、阿部さんが書き下ろしたものになります。

阿部さんの考えは、ご自身のブログ「リーラ」で、多くのことを語っておられますので、こちらも読んでみられると面白いですよ。


この本では、阿部さんご自身が、どのようにして運命が好転したかという流れを書いておられます。

そのきっかけは、迷い猫のカワヒラくんとの出会いだったのだとか。

しかもそれは、奥さんが醤油を買い忘れたことから始まっています。

風が吹けば桶屋が儲かるという話がありますが、まさにそのような突拍子もない出来事が必然的に連鎖し、阿部さんはカワヒラくんを飼うことになってしまうのです。


阿部さんは、このカワヒラくんとの出会いによって、「与えれば、受けとる」という宇宙のルールを実感したと言います。

バシャールも、宇宙には法則は1つしかなく、それは「与えるものを受けとる」ことだと言います。

だから欲しいものを与えなさいと、聖書などの黄金律で言うのですね。


また、この過程で夢を叶えるための絶対法則も実感したと言います。それは、以下の4つです。

すぐやる!
 何でもやる!
 とことんやる!
 できるまでやる!
」(p.45)

世界No.1コーチのアンソニー・ロビンズ氏も、目標を定めたなら、それができるまで可能なありとあらゆる方法を徹底的にやる大量行動が重要だと言っています。

迷っていたら行動できません。だからすぐに行動するのです。そして思いついたものを何でもやってみる。また徹底的に、目標達成するまでやるのです。


それから、まずはとことん与えることが流れを引き寄せる方法だと言います。

損をしてもいいのです。いやむしろ、損を買ってでも自分から徹底的に与え尽くすのです。


そして、成功の第一段階としては、やりたいことをやることだと言います。

バシャール「ワクワクすることをやる」と言っています。自分が好きなこと、やりたいと感じていることを、体裁だとか損得を考えずに、やってみることが重要なのです。

結果への執着を手放し、その行動を楽しむのです。だって好きなことなのですから。


でも、本心は−−。
「お金がほしい!!!」と叫んでいます。
 本当はほしいのに、いらないと自分に言い聞かせているんですから、入ってくるわけがありません。
 入ってこない現実を見て、「自分は貧しい人生を送る運命にあるんだ」などと、あきらめています。
 まさにぼくの半生は、このような観念によって作られていました。
「自分は◯◯なんだから」という観念です。

 この観念が完全に外れるのはもっとあとになってからですが、あれこれ結果や後先を考えたりしていないで「本当にやりたいことをダイレクトにやっていく」という、当たり前の第一歩を踏み出したことは、とても大きなことでした。
」(p.72)

ちょっと長かったのですが、この部分が一番わかりやすいと思ったので、引用してみました。

阿部さんは真理に触れながらも、やはり生活のためのお金を思うように稼げないという時期があったのです。

そしてそれが、自分の観念が創りだしていたと、後になってわかったのだそうです。


そして、ここにヒントがあります。

つまり不遇の時代においても、怖れずに「本当にやりたいことをダイレクトにやっていく」ことが、運命を転換させるということなのです。


怖れないということは、安心するということです。何があろうとも絶対的に受け入れられている、導かれているという安心感です。

何がなくても愛されていると自分を受け入れるなら、そういう自己肯定感を持っているなら、人はそのままで幸せになれます。

その幸せな在り方が、幸せな現実を創造するのです。

 

阿部さんが導かれていった様子が、とても良くわかる本です。

その中には、カワヒラくんを始めとするネコたちとの出会いがあります。

また、チェンマイで活動している瞑想家との出会い、またその人を介して出会ったチャネラーも、阿部さんの人生に大きな影響を与えたようです。

自分が計画したわけではなく、不思議な縁でつながっていく。それを「導き」と呼びます。大いなる何かに導かれていることを信じて、安心して任せていれば、人生はなるようになるのですね。

まだ聞いていませんが、この本には瞑想を助けるCDが付いています。また、幸運を呼ぶカワヒラくんカードも。

あなたにとっても、この本が幸運の女神になるかもしれませんよ。

招き猫カワヒラくんが教えてくれた幸運の流れに乗る生き方
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 10:00 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月23日

四つの約束



誰に勧められた本だったか忘れましたが、全米で「神との対話」を抜いて、この分野でベストセラーとなったいう本を読みました。

著者はドン・ミゲル・ルイス氏。祖父がナワール(シャーマン)で母がキュランデラ(ヒーラー)というメキシコの農村地帯で育った人だそうです。

秘教的なトルテックの知識を発展させるものと期待されていたけれど、本人は西洋医学を目指し、外科医になったのだとか。

ところが交通事故で臨死体験をしたことから、生き方を変えて自己探求を始め、ナワールになってトルテックの道を教えているようです。


「訳者あとがき」にあるのですが、スピリチュアルな原則が「実にうまく提示されていると感じた」と言います。

それは何かと言うと、「永遠の哲学」とか「非二元の哲学」と呼ばれるもので、ケン・ウィルバー氏は以下のように原則をまとめているとありました。

この世界は、幻影(本書で言えばミトーテ、仏教で言えばマーヤー)である。
 一者(愛、あるいは光、あるいは神、あるいは空、あるいはスピリット)だけが、実在(リアル)である。
 この世界は、一者である。
」(p.116)

まさに「神との対話」バシャールなどが示している世界観は、こういったものになりますね。


こういった世界観を前提として、幻影であることを見抜いて、「ありのままの自分」に戻るための方法が、この本には書かれています。

そのための方法が4つの約束(アグリーメント)として示されているのです。

実質的に120ページほどの薄い本なのですが、最初の方はトルテックの専門用語なども出てきて、ちょっととっつきづらいところがありました。

具体的な方法論に入ってからは、かなりスムーズに読めたと感じています。


ここで、その4つの約束を明らかにしても説明不足になるでしょうから、それは本を読んでのお楽しみということにして、気になったポイントを引用してみますね。

規則に逆らうと、罰を受ける。規則に沿っていれば、ご褒美を受ける。私たちは、一日のうち、何度も罰せられ、同時に何度も褒美を受ける。やがて私たちは、罰を怖れ、褒美を貰えないことを恐れるようになる。褒美とは、両親や、教師や友人から受ける注目(注意)のことである。そして私たちは、褒美を受けるために他の人々の注意を自分に引きつける。
 褒美をもらうことは、気持ちがいい。こうして私たちは、褒美を受けるために、他の人たちが私たちにしてもらいたい、と望むことをし続ける。罰を受けることの恐れ、褒美を貰えないことの恐れから、私たちは、他の人たちを喜ばせるため、他の人にとって良い子であるため、本当の自分以外のもののふりをする。ママやパパを喜ばせようとする。学校の先生を喜ばせようとする。ふりをし始めるのである。
(中略)やがて私たちは、自分ではないものになっていく。私たちは、ママの信念、パパの信念、社会の信念、宗教の信念の複製になっていく。」(p.5 - 6)

これは「神との対話」でも指摘していることです。この本ではこれを、「人間の飼い慣らし」と呼んでいます。

私たちが見ている世界は、すべて幻影であり、夢だと言います。その夢も、このように他人によって示されたものになっている。それが、ここで言われていることなのです。


罪とは、自分が自分に対して背くようなおこないの全てである。あなたが感じること、信じること、話すこと−−なんでも、あなたに背くならば、それは罪である。あなたは、自分自身を裁いたり、非難したり、自分自身に罪をきせたりする。それは、あなたに背くことである。正しい、ということは、罪がないということである。それは自分に対して背かない、ということである。」(p.25)

これもまた「神との対話」で指摘している通りです。他人の体験のままに生きることこそが罪だと言っていますから。

上記で示したように、飼い慣らされることによって、自分として生きていないことが罪だと、ここで指摘しているのです。


あなたが、なんでも自分のこととして受けとるのは、あなたが言われたことになんでも合意するからである。合意した瞬間、毒はあなたに回る。」(p.39 - 40)

他の人がどうであろうと、それはあなたのせいではない。それは、他の人たち自身のせいである。全ての人は、それぞれの夢の中に、その心の中に生きている。私たち一人ひとりの住む世界は、全く違うのである。私たちが物事を自分のこととして受けとる時、私たちは、他の人が私たちの世界について知っているという思いこみを持っている。そして私たちは、私たちの世界を、他の人の世界に重ね合わせるのだ。」(p.40)

これは、出来事は同じでも見方が違えば、その体験が異なるという考え方を示しています。

相手がどう受け止めるかの責任は、相手にあるのです。相手の反応にまで責任を負う必要性はありません。

逆に言えば、他人を変える必要もないということです。相手がどう感じるかは相手の自由なのですから。

そして自分がどう感じたかの責任は、自分自身にあるのであって、出来事や他人の考え方にあるのではないということです。


他の人を、個人的に受け取らず、ありのままの姿で見れば、彼らの言ったり、したりすることに傷つくことはない。」(p.48)

もし誰かがあなたを愛と尊敬を込めて扱わなければ、その人が去ることは、天の贈り物である。もしその人が去らなければ、その人と長い間苦しまなければならない。別れは、しばらくの間はつらいかも知れないが、やがては癒やされる。」(p.48)

私たちは、ありのままの自分でなければならない。そうでなければ、偽りの自分を見せていなければならなくなる。もし、誰かがありのままのあなたを好きになれば、それでいいし、そうでなければ、お別れするだけである。」(p.57)

つまりここでは、他人の特定の言動を求めるあまり、自分自身を犠牲にする必要はない、ということを示しています。


常にベストを尽くしていれば、あなたは行動する。ベストを尽くすということは、行動することであり、それはあなたが行動を愛しているからであって、報償を求めているからではない。」(p.63)

多くの人は、給料という報償を求めてイヤイヤ仕事をする、というような働き方をします。だからベストを尽くせないのです。

そうではなく、行動(働くことなど)そのものを愛するなら、そこにベストを尽くすなら、道は自ずと開かれます。

バシャールが言うようにワクワクすることをやるというのは、まさにこういうことではないでしょうか。


私たちが自由であることを妨げているものは何、あるいは誰だろうか。私たちは、政府のせいにする。天気、両親、宗教、神などのせいにする。いったい、誰が私たちが自由でいることを妨げているのだろうか。私たちが、自分で妨げているのである。」(p.75)

両親や、他のどんな人、あるいは自分自身を含めて、あなたをいじめたり、虐待したりした人を責める必要などない。しかし、虐待されることはやめるべきである。あなたは、自分自身の合意の基礎を変えることで、「裁判官」の専制から自由になることができる。今は、「犠牲者」の役割から自由になる時である。」(p.77)

いちばん悪いことは、私たちが自分たちが自由ではないことに気がついていないことである。」(p.79)

苦しむ必要はなにもない。気づきがあれば、あなたは反撃し、もうたくさんだ、と言うことができる。癒しの道を見つけ、自分の夢を変容させることができる。苦しみは、リアルでさえない。この地球の夢は、単なる夢なのである。」(p.79)

私たちが本質的に自由であり、それを自分自身で制限することで不自由という幻想を創りだしています。

ですから、私たちがそのことに気づき、自分の見方を変えることで、幻想を創り変えることができるのです。


個人の自由を獲得する最後の道は、「死への入門」に対して備え、死それ自体を、自分の師とすることである。」(p.95)

ここでは死を考えることで、死からも自由になれることを示しています。

このようにして、4つの約束を実践しながら、段階を追って本来の自分自身になる。その方法が示されているのです。

四つの約束
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 22:17 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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