2013年11月02日
子どもの心に光を灯す
東洋のペスタロッチーと言われた東井義雄先生の本です。
これは、東井先生が広島県因島市立三庄中学校で行った講演をもとに編集したものだそうです。
この中で東井先生は、人と人がしっかりと出会うことの大切さを説いています。
「人間に屑はない」が持論の東井先生ですが、どんなにひどいと言われる人でも、それが特に子どもなら、しっかりと出会うことで変わるのだと言うのです。
たとえばやんちゃ者の雅樹ちゃんという少年は、女子便所のぞきをしたり、家の金を持ちだすなど、親や先生の言うことをまったく聞かない子どもだったそうです。
ところが、これは「何か燃え上がりたくてウズウズしている子どもの姿なんだ」(p.32)と見る井上先生と出会うことで変わったそうです。
初めて自分を肯定的に見てくれる大人と出会ったことで、雅樹ちゃんも、それなら少し言うことを聞いてみようかという気になったのだとか。
それまで掃除をしたこともなかったのに、掃除をするようになったそうです。
それで先生が、「雅樹ちゃん、見どころありますよ。」(p.34)と手紙に書いて、持ち帰らせたとか。
それを見たお母さんも大感激です。さっそく掃除用の雑巾を縫って、息子に持たせました。
翌日、学校でその雑巾を見ると、「がんばれしっかりしっかり」と太い刺繍がしてありました。
それを見た井上先生は、「お前、すばらしい雑巾持っているやないか。」(p.35)と喜んでやり、さらに校長先生に見せに行けとまで言ったそうです。
雅樹ちゃんの雑巾を見せてもらった東井校長も、「そんな雑巾、何万円出したって買われんぞ。」(p.35)と言って、一緒になって喜んであげたそうです。
こういうことがあって、雅樹ちゃんはどんどん頑張り屋になって行ったそうです。
そうなると、熱が出て体調が悪くても「先生の顔見んと、寝とれるかい」(p.38)と言って学校に行くようなやんちゃぶりも発揮します。
学校で井上先生が気づいて熱を計ると、38度以上もあったのだとか。
「人間屑はないんです。
みんないい子になりたがっているんです。やんちゃ者は、やんちゃ者しか持たぬやんちゃ者の値打ちを持っている。おとなしい奴は、おとなしい奴しか持たぬおとなしい奴の値打ちを持っている。」(p.38 - 39)
そう言って、お父さんやお母さんに、子どもとしっかり出会ってくださいと話しかけるのです。
東井先生の話には、このように子どもや先生、ご両親との体験談がたくさん出てきます。
また、子どもが書いた作文なども読まれ、子どもの気持ちを教えてくださいます。
こういう実例を示されることで、平易でとてもわかり易くなっているのです。
人はすべて素晴らしい存在だ。
それをはっきりと教えてくれる本です。
2013年11月04日
ライフトラベラー 人生の旅人
もう常連になった喜多川泰さんの小説です。
150ページもない短い小説ですが、教えられることがたくさんありました。
主人公の青年が、友人と一緒に旅に出る場面から話が始まります。
そして2人で話し合いながら、旅の準備を始めます。何を持って行くべきなのか?それが、この本のテーマになっています。
そして後半は、場面が一転します。ネタバレになるから書きませんけど、喜多川さんが得意な場面展開ですね。
示唆を受けたことを一部、引用しながら紹介します。
「旅先で不自由がないように完璧な準備をしていくと、
たしかに快適かもしれない。
でも、自分のいる場所では経験できないようなことを経験する機会もなくす。
だからぼくは、どうしても必要なものだけ持っていくことにしてるんだ」(p.20 - 21)
旅は、私たちに多くの気づきを与えてくれる素晴らしい体験です。
ですから私も、なるべく違うところに、できれば一人旅をと勧めています。
しかし喜多川さんは、さらに一歩進めて、あえて困難な状況を作り出そうと言うのです。
これには参りましたね。私は消極的に受け入れることを言っていましたが、喜多川さんは積極的に困難に飛び込めと言うのですから。
昔から「かわいい子には旅をさせよ」とか、「若いうちの苦労は買ってでもせよ」などと言います。
そういうことを知っているのに、喜多川さんから指摘されるまで気づかず、ついつい消極的になっていましたよ。
「人と人が出会っているときというのは、
じつは目に見えない<想い>と<想い>が出会っているときなのさ。
そして、同じ<想い>をいだく者同士が出会った時には、
必ず、見えないところで奇跡が始まっているんだよ」(p.41)
旅の目的は出会いにある。
このことを喜多川さんは、明確に示しています。
自分の「想い」を隠さずに表現すると、必ずそれに共鳴する人が現れます。
そうすることで奇跡が起こると言うのです。
「ほんとうは<経験>だけが<真の財産>だって知っているからね」(p.49)
おカネもモノも、場合によっては人脈なんていうものも、本物の財産ではありません。
自分が体験したことが財産だと言います。
これも、知っているようで、改めて気付かされました。
考えてみれば、たしかにそうなのです。
モノというのは、いつ消えてなくなるかわからないはかないものです。どんなに貯めこんでも、不安はなくなりません。
人もまた、いつ裏切られるかしれないものです。もし人を財産だと思えば、執着してしまうでしょう。
しかし、自分が体験したことは、誰からも奪われないし、消えてなくなることもありません。
その体験を重ねることで、私たちは進化成長します。
進化成長した自分は、そこから退化することはないのです。
「でも、みんな、何度もそれを繰り返して、そのまま大人になって、<やりたいこと>が<やらなきゃいけないこと>になるのを放置しているんだよ。でも自由に生きている大人も世の中にはいるんだ。その人たちは朝から晩まで<やりたいこと>だけをやって生きている。」(p.65)
最初はやりたくて始めたことも、すぐに「やらなきゃいけないこと」に変わります。
自由から不自由へと変化するのです。
それは、やることを義務にしてしまったから。
その原因を、取捨選択するようになったからだと言います。損か得かで、やるかやらないかを選ぶからだと。
だから逆に、目の前のことを何でも選ばずにとことんやろうと決めれば、ものごとに対して積極的に取り組めると言います。
そうなると、すべてがやりたいことになるし、その中からさらにやりたいことが見つかると言うのです。
自分がやりたいことを探していても、それは見つかりません。
目の前のことをとことんやってみる。そうすることで、やりたいことが見つかるのです。
旅について、また別の見方を示してくれる1冊です。
そしてそれは旅だけの話ではなく、・・・。
2013年11月07日
日本でおみくじを引きました
先月の帰省旅行の時、鎌倉の長谷寺でおみくじを引きました。
寺社巡りの旅だったのですが、なぜかそこではおみくじを引こうという気になったのです。
金色に輝く観音様の声でも聞こえたのでしょうかね。
なにやら漢文で書かれているのでよく読まず、目についた「半吉」だけを確認して、「まあ、こんなものか」と思っていました。
だいたいはそこで木の枝などにくくりつけて帰るのですが、そのときは「またあとで読もう」と思って持ち帰りました。
それを先日やっと読んでみたのですが、けっこう良いことが書かれていましたよ。
漢詩を次のように要約してありました。
「暗い雲が盛んに湧き、先に行けそうにない
光を求めても又未だ巡り会えない
(ところが)思いもかけぬ様子で一変する
一矢で二羽の鳥を射落とす程の幸福に見舞われよう」
どうです?これって半吉じゃなく、大吉みたいじゃありませんか。
現状はうまく行っていないように見えても、思いがけないことで状況が変わり、今度は想像以上の幸運に恵まれると言うのです。
まさに夜明け、春の到来、そんな感じです。
読み終えたら捨てるつもりでしたが、しばらく財布に入れておきます。(*^_^*)
私は、占いというものはあまり信じません。
昔は星占いとか、バイオリズムなど、いろいろ凝ってましたけど。
でも、この世の道理がわかってくると、そういうものに左右されることが、そもそも間違っているのだとわかったのです。
特に良くないのは、「不吉なことが起こる」という予言ですね。
まあ私も以前は、ノストラダムスの大予言を信じた口ですから、他人のことは言えませんけどね。
でも、恐怖心を煽って他人をコントロールするというやり方は好きじゃないし、やってほしくないなあと思うのです。
小林正観さんも、こう言っています。
「悪しき予言をする人は信じなくて良い」
私もそう思います。
たたりがあるとか、方角が悪いなどと、余計なお世話ですよ。
そういうことを信じるから、悪いことが起こった時に、「予言が当たった」と思い、また信じるようになります。
でもこれ、恐怖心(=不安)を肯定しているんですよね。
いつも言うように、不安というのは幻想です。実在しないものです。
でも、それを信じれば力を得て、存在し続けることになります。
つまりその人が、自分が信じることで存在させているのです。
占いも予言も、それほど意味があるものではありません。
ただ時間的な遠くを見て、「先にこんなものがあるから気をつけて」と言うくらいなものです。
穴があったって、必ずしも落ちるわけではありません。
穴があると知って気をつければ、その穴を活かすことができるかもしれないのです。
穴があることが悪いことじゃなく、その穴にどういう意味を与えるかが重要なのです。
だから私は、自分に起こることはすべて良いことだと決めています。
良いことしか起こらないのですから、何の不安もないのです。
寺社巡りの旅だったのですが、なぜかそこではおみくじを引こうという気になったのです。
金色に輝く観音様の声でも聞こえたのでしょうかね。
なにやら漢文で書かれているのでよく読まず、目についた「半吉」だけを確認して、「まあ、こんなものか」と思っていました。
だいたいはそこで木の枝などにくくりつけて帰るのですが、そのときは「またあとで読もう」と思って持ち帰りました。
それを先日やっと読んでみたのですが、けっこう良いことが書かれていましたよ。
漢詩を次のように要約してありました。
「暗い雲が盛んに湧き、先に行けそうにない
光を求めても又未だ巡り会えない
(ところが)思いもかけぬ様子で一変する
一矢で二羽の鳥を射落とす程の幸福に見舞われよう」
どうです?これって半吉じゃなく、大吉みたいじゃありませんか。
現状はうまく行っていないように見えても、思いがけないことで状況が変わり、今度は想像以上の幸運に恵まれると言うのです。
まさに夜明け、春の到来、そんな感じです。
読み終えたら捨てるつもりでしたが、しばらく財布に入れておきます。(*^_^*)
私は、占いというものはあまり信じません。
昔は星占いとか、バイオリズムなど、いろいろ凝ってましたけど。
でも、この世の道理がわかってくると、そういうものに左右されることが、そもそも間違っているのだとわかったのです。
特に良くないのは、「不吉なことが起こる」という予言ですね。
まあ私も以前は、ノストラダムスの大予言を信じた口ですから、他人のことは言えませんけどね。
でも、恐怖心を煽って他人をコントロールするというやり方は好きじゃないし、やってほしくないなあと思うのです。
小林正観さんも、こう言っています。
「悪しき予言をする人は信じなくて良い」
投稿 by 小林正観さんファンのページ.
私もそう思います。
たたりがあるとか、方角が悪いなどと、余計なお世話ですよ。
そういうことを信じるから、悪いことが起こった時に、「予言が当たった」と思い、また信じるようになります。
でもこれ、恐怖心(=不安)を肯定しているんですよね。
いつも言うように、不安というのは幻想です。実在しないものです。
でも、それを信じれば力を得て、存在し続けることになります。
つまりその人が、自分が信じることで存在させているのです。
占いも予言も、それほど意味があるものではありません。
ただ時間的な遠くを見て、「先にこんなものがあるから気をつけて」と言うくらいなものです。
穴があったって、必ずしも落ちるわけではありません。
穴があると知って気をつければ、その穴を活かすことができるかもしれないのです。
穴があることが悪いことじゃなく、その穴にどういう意味を与えるかが重要なのです。
だから私は、自分に起こることはすべて良いことだと決めています。
良いことしか起こらないのですから、何の不安もないのです。
2013年11月08日
何を理由に相手を愛するのですか?
今日のFacebookページに、妻に対する思いを書きました。
【何もかも違うあなたへ】
些細なことで、よくけんかしたね。
たいていは、あなたが怒ったんだけど。
車を避けて道路を渡ろうとした時も、あなたはすぐに怒った。
「どうして勝手に行くの!?」
「なぜ一緒に来ないの!?」
タイミングが合わなかったんだね。
あなたが買い物をしたとき、小銭がほしくてぼくにねだったことがあった。
そのとき、ぼくが渋い顔をしたら、あなたはまた怒った。
「私のために小銭も出せないの!?」
だって、言っておいたじゃない。
会社でヤクルトを買うのに、コインが必要なんだって。
だから、お札を出してお釣りをもらえばいいじゃないかって、ぼくは思ったんだよ。
でもあなたは、怒って口をきかなくなった。
生まれた国も違うし、年齢も、育った環境も、使う言葉も違う。
もちろん性別も違うし、何もかもが違ってたんだ。
だから、考え方や価値観が違っていても当然だと思うよ。
そんなあなたを、ぼくは愛することに決めたんだ。
ぼくが思ってもみないことで、あなたはよく怒り出す。
さっきまで仲良くしてたのに、急にヒステリーを起こす。
そんなときぼくは、こう思うんだ。
ありがとう。
ぼくとは違う考え方があるんだよね。
あなたは身をもって、それを示してくれる。
ごめんね。
怒るのはつらいでしょう。
そうまでしてぼくに、他の世界があることを教えてくれたんだよね。
一緒に暮らしてきて、ぼくはこう思うんだ。
あなたは、ぼくにとって最高のパートナーだなあと。
だって、あなたくらい、ぼくと違う人はいないからね。
あなたくらい、自分をはっきり見せてくれる人はいないからね。
結婚する時、ぼくは、ずっとあなたを愛すると決めたんだよ。
あなたがどうかに関係なく、ぼくが決めたことなんだ。
だから、あなたが変わっても変わらなくても、ぼくの思い通りであってもなくても、ぼくはあなたを愛するよ。
それがもっとも、ぼくらしいことだと思うから。
これから何があるかわからないけど、あなたに贈る言葉はこれしかない。
ありがとう。
いつも、いつも、ありがとう。
たくさん、たくさん、ありがとう。
あなたのことを、愛しています。
(結婚2周年に妻のことを思いながら)
(一部修正しました)
ちょっとキザっぽいですけど、今の正直な気持ちを書いてみました。
実際、本当にそう思うのです。
よく言っていますが、私が妻を愛するのは、私が愛すると決めたからです。
妻が美人だとか、かわいいとか、やさしいとか、関係ないのです。
(けして妻が不美人だとか、性格が悪いという意味ではありませんよ。)
だから、美人じゃなくなったとか、かわいく感じられないとか、やさしくしてくれないなどが、愛さない理由にならないのです。
多くのカップルは、この点が違います。
「目がかわいい」などの身体的な長所や、「いつも自分のことを気遣ってくれる」などの性格の良さを理由として、好きになります。
そして好きになったことを理由に、愛すると言うのです。
だから、簡単に別れるのですよ。
当たり前ではありませんか。
そもそもそれは、愛ではないのです。
愛は無条件だと、誰でも聞いたことがあるでしょう?
そしてそう言われれば、誰もがそうだとうなずくでしょう?
でも自分には、あてはめないのですね。
人は変わるものです。
それに、美人は3日で飽きるものですよ。
(その代わりにブスは3日で慣れると言いますけど。)
あるいは、相手が変わらなくても、自分の感じ方が変わるのです。
ですから、相手の何かを理由に愛すると言うなら、必ずそれは上手く行かなくなるのです。
愛する条件をつける限り、愛から遠ざかるのです。
長く寄り添ったカップルが、「惰性で続けているだけだ」などと言いますけど、ちょっと残念だなあと思います。
それはつまり、もう相手にワクワクするものを感じないけど、別れるほどの理由もないから、今の関係を続けているってことじゃありませんか。
せっかくのチャンスを、自ら逃しているとはこのことです。
どうしてその関係を、もっとワクワクする素敵なものにしようと思わないのでしょう?
ワクワクしない原因が相手にあると考えている限り、それは不可能なことです。
そこで新たな刺激を求めて、他にちょっかいを出すことになります。
いわゆる浮気ですね。
その浮気も、刺激を求めるだけならまだ良いのですが、本気になる人もいます。
自分の愛が、相手に依存するタイプの人です。
まあそういう人は、どこまで行っても終わりはありません。
だって常に相手次第なのですから、翻弄され続ける他にないでしょう。
自分の考え方次第だと気づいた時、相手に依存せずに愛せるようになります。
つまり、愛する理由を相手に置かないのです。
見た目に関係なく、性格の良し悪しに関係なく、ただ愛すると決めたから愛する。
無条件に愛するのです。
しかもそれは、義務であってはダメです。
義務とは強制です。
そこに自主性がありません。
自主性がないということは、自由でないということです。
自由がなければ喜びもなく、幸せにもなれません。
結局、長続きしないのです。
愛することを義務としてではなく、自由意志にしましょう。
ただ自分が愛したいから愛するのです。
それが自分らしいことだから、愛するのです。
これがわかるようになると、愛することが喜びになります。
だって自由なのですから。
相手に依存しないから、何も求めなくなります。
そのときやっと、これが本当に愛なのだとわかるのです。
愛、自由、幸せ。
これらは切っても切れない関係です。
どれかでなくなったとき、それらすべてを失うのです。
【何もかも違うあなたへ】
些細なことで、よくけんかしたね。
たいていは、あなたが怒ったんだけど。
車を避けて道路を渡ろうとした時も、あなたはすぐに怒った。
「どうして勝手に行くの!?」
「なぜ一緒に来ないの!?」
タイミングが合わなかったんだね。
あなたが買い物をしたとき、小銭がほしくてぼくにねだったことがあった。
そのとき、ぼくが渋い顔をしたら、あなたはまた怒った。
「私のために小銭も出せないの!?」
だって、言っておいたじゃない。
会社でヤクルトを買うのに、コインが必要なんだって。
だから、お札を出してお釣りをもらえばいいじゃないかって、ぼくは思ったんだよ。
でもあなたは、怒って口をきかなくなった。
生まれた国も違うし、年齢も、育った環境も、使う言葉も違う。
もちろん性別も違うし、何もかもが違ってたんだ。
だから、考え方や価値観が違っていても当然だと思うよ。
そんなあなたを、ぼくは愛することに決めたんだ。
ぼくが思ってもみないことで、あなたはよく怒り出す。
さっきまで仲良くしてたのに、急にヒステリーを起こす。
そんなときぼくは、こう思うんだ。
ありがとう。
ぼくとは違う考え方があるんだよね。
あなたは身をもって、それを示してくれる。
ごめんね。
怒るのはつらいでしょう。
そうまでしてぼくに、他の世界があることを教えてくれたんだよね。
一緒に暮らしてきて、ぼくはこう思うんだ。
あなたは、ぼくにとって最高のパートナーだなあと。
だって、あなたくらい、ぼくと違う人はいないからね。
あなたくらい、自分をはっきり見せてくれる人はいないからね。
結婚する時、ぼくは、ずっとあなたを愛すると決めたんだよ。
あなたがどうかに関係なく、ぼくが決めたことなんだ。
だから、あなたが変わっても変わらなくても、ぼくの思い通りであってもなくても、ぼくはあなたを愛するよ。
それがもっとも、ぼくらしいことだと思うから。
これから何があるかわからないけど、あなたに贈る言葉はこれしかない。
ありがとう。
いつも、いつも、ありがとう。
たくさん、たくさん、ありがとう。
あなたのことを、愛しています。
(結婚2周年に妻のことを思いながら)
(一部修正しました)
ちょっとキザっぽいですけど、今の正直な気持ちを書いてみました。
実際、本当にそう思うのです。
よく言っていますが、私が妻を愛するのは、私が愛すると決めたからです。
妻が美人だとか、かわいいとか、やさしいとか、関係ないのです。
(けして妻が不美人だとか、性格が悪いという意味ではありませんよ。)
だから、美人じゃなくなったとか、かわいく感じられないとか、やさしくしてくれないなどが、愛さない理由にならないのです。
多くのカップルは、この点が違います。
「目がかわいい」などの身体的な長所や、「いつも自分のことを気遣ってくれる」などの性格の良さを理由として、好きになります。
そして好きになったことを理由に、愛すると言うのです。
だから、簡単に別れるのですよ。
当たり前ではありませんか。
そもそもそれは、愛ではないのです。
愛は無条件だと、誰でも聞いたことがあるでしょう?
そしてそう言われれば、誰もがそうだとうなずくでしょう?
でも自分には、あてはめないのですね。
人は変わるものです。
それに、美人は3日で飽きるものですよ。
(その代わりにブスは3日で慣れると言いますけど。)
あるいは、相手が変わらなくても、自分の感じ方が変わるのです。
ですから、相手の何かを理由に愛すると言うなら、必ずそれは上手く行かなくなるのです。
愛する条件をつける限り、愛から遠ざかるのです。
長く寄り添ったカップルが、「惰性で続けているだけだ」などと言いますけど、ちょっと残念だなあと思います。
それはつまり、もう相手にワクワクするものを感じないけど、別れるほどの理由もないから、今の関係を続けているってことじゃありませんか。
せっかくのチャンスを、自ら逃しているとはこのことです。
どうしてその関係を、もっとワクワクする素敵なものにしようと思わないのでしょう?
ワクワクしない原因が相手にあると考えている限り、それは不可能なことです。
そこで新たな刺激を求めて、他にちょっかいを出すことになります。
いわゆる浮気ですね。
その浮気も、刺激を求めるだけならまだ良いのですが、本気になる人もいます。
自分の愛が、相手に依存するタイプの人です。
まあそういう人は、どこまで行っても終わりはありません。
だって常に相手次第なのですから、翻弄され続ける他にないでしょう。
自分の考え方次第だと気づいた時、相手に依存せずに愛せるようになります。
つまり、愛する理由を相手に置かないのです。
見た目に関係なく、性格の良し悪しに関係なく、ただ愛すると決めたから愛する。
無条件に愛するのです。
しかもそれは、義務であってはダメです。
義務とは強制です。
そこに自主性がありません。
自主性がないということは、自由でないということです。
自由がなければ喜びもなく、幸せにもなれません。
結局、長続きしないのです。
愛することを義務としてではなく、自由意志にしましょう。
ただ自分が愛したいから愛するのです。
それが自分らしいことだから、愛するのです。
これがわかるようになると、愛することが喜びになります。
だって自由なのですから。
相手に依存しないから、何も求めなくなります。
そのときやっと、これが本当に愛なのだとわかるのです。
愛、自由、幸せ。
これらは切っても切れない関係です。
どれかでなくなったとき、それらすべてを失うのです。
2013年11月11日
本当のことだから
みやざき中央新聞で講演内容が紹介されていたのを読んで、山元加津子さん、通称かっこちゃんのことを知りました。
養護学校の先生をされているそうですが、障害者とのふれあいの中に、この世の真実を感じ取られているようです。
それですぐに本を数冊、注文したのですが、なにしろ積ん読なもので、やっと1冊ほど読んだところです。
「みんな理由があって生まれてきたんだから」が信条のかっこちゃん。でも、その理念を大上段に振りかざしているわけではありません。
日常の障害者をはじめとした多くの人とのふれあいの中で、自然とそう感じられるようです。
たとえばナスカの地上絵のことも、誰が何のためにどうやって描いたかわからない、というのが専門家の意見ですが、かっこちゃんは「私はインカ帝国の謎がわかるよ」とさり気なく言います。
偉そうに自慢しているのではなく、「こうに違いない」と感じられることがあるのだとか。
たとえば日常的にふれあっている障害者の中には、正確な地図を描ける子がいるのだそうです。
上空から見て描いたとしか思えないような正確な縮尺の絵です。
地上にいても心を空に飛ばしながら絵を描いているのだろうなと、かっこちゃんは感じたのだそうです。
障害者の中には、そういった特殊な能力を持った人がたくさんいます。
しかしかっこちゃんは、それは障害者だから特別なのではなく、本当は人間がみな持っているもので、ただ使わないだけなのではないかと考えるのです。
このようなかっこちゃんの気づきを、実に不思議なことと考えることもできますが、私は「すごいなあ」と思いながらも、「そのとおりだなあ」と思います。
なぜなら、かっこちゃんの気づきは、「神との対話」などによって私が教えられたことと符合するからです。
たとえば、こんなことをかっこちゃんは書いています。
「もしかしたら、人は眠るときに、大きな力、言い換えれば”宇宙全体”とつながることができるのではないでしょうか。」(p.135)
眠る目的は肉体を休めることではなく、精神を休ませて絶対的な存在と一体化することだと、「神との対話」にも書かれています。
後半に書かれている、多発性硬化症(別名MS)という難病を患っている雪絵ちゃんという子の話には、本当に多くの示唆を与えられました。
「私、MSであることを後悔しないよ。MSだからこそ気づけたことがたくさんあるし、MSだからこそ出会えた人もたくさんいるよ」(p.138)
「もし、手が動かなくなっても、足が動かなくなっても、目が見えなくなっても、たとえ人工呼吸器で息をしなくてはならなくなっても、私はけっしてMSである自分を後悔しないよ。MSの雪絵そのまま、好きでいるよ。そしてせっかくMSになれたんだから、MSになって気がつけたことを、みんなにお話しするよ」(p.138 - 139)
そう雪絵ちゃんは言います。
その生き様は、かっこちゃんに多くの示唆を与えたようです。
この世は苦に満ちている(一切皆苦)として、四苦(生老病死)をお釈迦様は示されましたが、それらをひっくるめて「大きな愛に包まれて生きている」(p.63)と、かっこちゃんは感じているのでしょう。
「神様はどこにいるか?大きな力はどこにあるか?ずっとそのことを考えてきたのだけど、どこか特定の場所に神様がいるわけじゃなくて、それはすべての生き物の心の奥にあり、そして、その一つひとつが宇宙をつくっている。宇宙はひとつの命だし、私たちはそれぞれ宇宙の大切な部分なんだと、そう思ったのです。
一人ひとりが、宇宙のその大きな力、神様をつくっていたんだぁ−−そのことがわかったよって、今、叫びたいようなうれしい気持ちなのです。」(p.136)
「本当のことだから」、それが正しいとわかる。なぜか誰もがそう感じてしまう。世の中は、そんなふうにできている。
かっこちゃんの気づきに、私も共感します。
2013年11月12日
てっぺん!の朝礼
居酒屋「てっぺん」の大嶋啓介さんの本を読みました。
もうすでに多くの方がご存知かもしれませんが、バンコクにも「てっぺん」ができたことを知って、ふと読んでみたくなったのです。
もちろんそれだけではなく、みやざき中央新聞で紹介されていたとか、いろいろなきっかけがあったのですけどね。
読んでみて、さすがにすごいなあと思いました。
印象としては、体育会系のノリと言うのでしょうか、バカになってはしゃぐという感じがあります。
でも、それだけではなく、きちんと考えられているんだなということが、この本でよくわかりました。
「日本一のチームをつくる」という目標を掲げ、そのためにスタッフのモチベーションを高めることがリーダーのやるべきことだと言います。
悩んで、どん底まで行きながらも、へこたれずに這い上がってきた大嶋さんです。
その彼がつかんだものは、スタッフに良いストロークを与えるというものでした。
人間の心には、心の壺があって、そこにプラスとマイナスの要素が満タンに詰まっているのだと、たとえ話で説明します。
やる気がみなぎっている状態は、心の壺の中にたくさんのプラスがある状態だと。
だから、スタッフの心にどんどんプラスを与えてあげて、マイナスを追い出せば良いのだと言うのです。
では、どうやってプラスを与えるのか?
「その答えは単純明快。相手を心の底から認めてあげるということだけなんです。」(p.168)
「てっぺん」の朝礼は、まさにこのプラスを与える方法なのです。
「スピーチ訓練」や「ナンバー1宣言」、そして締めの「本気の握手」などは、そのことが目的になっています。
「てっぺん」では、この朝礼を公開しています。
なぜ流行る居酒屋にする重要なノウハウを秘匿せず、あえて同業他社に公開するのか?
それは、大嶋さんの目的が、流行る居酒屋をつくって日本一になることではなく、日本を元気にすることにあるからです。
その思いは、落語家の三遊亭歌之介さんが朗読するテープにあった「ウサギとカメ」のエピソードから生まれたと言います。
「ウサギとカメ」の話の解釈は、ウサギが油断したのが悪いとか、カメが地道に頑張ったのが偉いなど、いろいろあります。
それを、「見ているところの違いが、勝負を決めた」と解説していたと言うのです。
「つまり、あれは「カメばかりを見ているウサギ」VS「目標、ゴールをひたすら見ていたカメ」という構図こそ重要だと言うのです。」(p.204)
これによって目を開かれた大嶋さんは、居酒屋同士とかスタッフ同士の争いではなく、「各々が各々のてっぺんを目指す」という今の方針をつかんだようです。
さらにこの「ウサギとカメ」には後日談があり、小学校で講演をしたときに子どもが、どうしてカメはウサギを起こしてあげなかったのかと尋ねたのだそうです。
「一緒にゴールしたほうがもっと楽しいのに・・・」(p.206)
このことから、「共に勝つ」という理念も生まれました。
そしてこの理念が、後の居酒屋甲子園に通じていくのだそうです。
この本を読んで、私も「てっぺん」の朝礼を体験したくなりましたよ。
タイの居酒屋「てっぺん」でも、同じようにやっているのでしょうか。
もしそうなら、うちの会社のスタッフも、参加させてみたいですね。
2013年11月13日
超エゴイスティック宣言!
私はこれから、エゴを前面に出します。
「えーっ!!エゴは出さない方がいいんじゃないのかぁ?」
「ジコチュー(自己中心的)は嫌われるよ。」
そう心配してくださる方もおられるかもしれませんね。(ん?誰もいない?)
それはさておき、ここで言うエゴイスティックは、通常考えられているものとは違います。
通常のエゴとは、たとえば自分が儲かりさえすればいい、というようなエゴですよね。
損得で考えて自分が得をするなら、他がどうでもかまわないという考え方。
それに対して私が言うところの「超エゴイスティック」は、こうなります。
損得で考えて自分が得をするなら、他がどうでもかまわないという考え方。
「あれ?まったく同じじゃないの!?」
ハハハ、そう突っ込んでいただけると、あとが話しやすくなります。
実はそうなのです。
自分のことしか考えない点ではまったく同じなのです。
だから、エゴイスティックなのですよ。
でもそこに、「超」がつきます。
その「超」は何を示すかと言うと、本当の自分の損得という意味です。
たとえば、誰かが私に対して、ひどいことをしたとしましょう。
「お前ばかじゃないの。どっかへ消えてくれるとせいせいするんだけど。」
こんな子どものイジメみたいなことを、誰かに言われたとしましょうか。
普通なら頭に来ますよね。
「なんであなたに、そんなことを言われなきゃいけないの!失礼にもほどがある!」
そう言って腹を立てても当然のケースです。
でも私は、幸せでいたいんです。
本当の私は、幸せを願っています。
そういう私にとって、怒ることは役に立つでしょうか?
だから、超エゴイスティックでいきます。
誰かが私を怒らせ、幸せの座から引きずり降ろそうとしても、私はそれを認めません。
仮にその人が、地団駄を踏んで悔しがったとしても、そんなこと知ったこっちゃありません。
他がどうでもかまわないと、私は思っていますからね。
誰が何と言おうと、私は幸せでい続けるのです。
これが、超エゴイスティックな在り方です。
私は私自身のことしか考えません。
誰かに優しくするのも、それは究極的には自分のためです。
自分が優しい人間でいたいからです。
私は優しい人間だということを、宇宙に表現したいからです。
ですから、別にそれを他の人に示す必要もありません。
他の人がどう思うかなど、関係ないのですから。
私自身の評価は、私自身で行います。
他の人の評価など気にしないのです。
したがって、他の人からの高い評価も求めません。
お礼とか感謝とか、必要ないのです。
もちろん、高く評価されたら嬉しいです。
高く評価してくださった方には、素直に「ありがとう」と言いましょう。
でも、それだけのことです。
他の人の評価に執着することはしません。
では、他人が苦しんでいるのを見ても、何もしないのでしょうか?
何もしない自分を、私自身がどう評価するかです。
私は、そういう自分を、自分らしいと思いません。
そんな人間じゃ嫌なんです。
もっともっと素晴らしい人間になりたいし、美しく生きたいのです。
だから、今の私の望みに応じて、私らしく生きようと思います。
私は、超エゴイスティックに生きます!
「えーっ!!エゴは出さない方がいいんじゃないのかぁ?」
「ジコチュー(自己中心的)は嫌われるよ。」
そう心配してくださる方もおられるかもしれませんね。(ん?誰もいない?)
それはさておき、ここで言うエゴイスティックは、通常考えられているものとは違います。
通常のエゴとは、たとえば自分が儲かりさえすればいい、というようなエゴですよね。
損得で考えて自分が得をするなら、他がどうでもかまわないという考え方。
それに対して私が言うところの「超エゴイスティック」は、こうなります。
損得で考えて自分が得をするなら、他がどうでもかまわないという考え方。
「あれ?まったく同じじゃないの!?」
ハハハ、そう突っ込んでいただけると、あとが話しやすくなります。
実はそうなのです。
自分のことしか考えない点ではまったく同じなのです。
だから、エゴイスティックなのですよ。
でもそこに、「超」がつきます。
その「超」は何を示すかと言うと、本当の自分の損得という意味です。
たとえば、誰かが私に対して、ひどいことをしたとしましょう。
「お前ばかじゃないの。どっかへ消えてくれるとせいせいするんだけど。」
こんな子どものイジメみたいなことを、誰かに言われたとしましょうか。
普通なら頭に来ますよね。
「なんであなたに、そんなことを言われなきゃいけないの!失礼にもほどがある!」
そう言って腹を立てても当然のケースです。
でも私は、幸せでいたいんです。
本当の私は、幸せを願っています。
そういう私にとって、怒ることは役に立つでしょうか?
だから、超エゴイスティックでいきます。
誰かが私を怒らせ、幸せの座から引きずり降ろそうとしても、私はそれを認めません。
仮にその人が、地団駄を踏んで悔しがったとしても、そんなこと知ったこっちゃありません。
他がどうでもかまわないと、私は思っていますからね。
誰が何と言おうと、私は幸せでい続けるのです。
これが、超エゴイスティックな在り方です。
私は私自身のことしか考えません。
誰かに優しくするのも、それは究極的には自分のためです。
自分が優しい人間でいたいからです。
私は優しい人間だということを、宇宙に表現したいからです。
ですから、別にそれを他の人に示す必要もありません。
他の人がどう思うかなど、関係ないのですから。
私自身の評価は、私自身で行います。
他の人の評価など気にしないのです。
したがって、他の人からの高い評価も求めません。
お礼とか感謝とか、必要ないのです。
もちろん、高く評価されたら嬉しいです。
高く評価してくださった方には、素直に「ありがとう」と言いましょう。
でも、それだけのことです。
他の人の評価に執着することはしません。
では、他人が苦しんでいるのを見ても、何もしないのでしょうか?
何もしない自分を、私自身がどう評価するかです。
私は、そういう自分を、自分らしいと思いません。
そんな人間じゃ嫌なんです。
もっともっと素晴らしい人間になりたいし、美しく生きたいのです。
だから、今の私の望みに応じて、私らしく生きようと思います。
私は、超エゴイスティックに生きます!
2013年11月16日
「タバコと酒」の健康常識はウソだらけ
これはまた衝撃的なタイトルですね。
しかもこの本の著者は、医学博士の橋内章(はしうち・あきら)さん。
医者がこんなことを言うなんて・・・。天邪鬼の私は興味をひかれます。(笑)
はじめの方では、正式な研究結果を引用して、タバコや酒の害について語ります。
たしかに、喫煙者の肺がんなどは非喫煙者より高くなっていますし、死亡率も高まるようです。
でも、それは単に事実であって、原因ではないと言います。
なぜなら、その調査は肺がんになった人を様々な要素で分類したところ、たまたま喫煙者の割合が多かったというだけで、他に隠された因子があったかもしれないと言うのです。
たとえば別のある生活スタイルが本当の原因で、そういう人には喫煙者が多いだけなのかも、というわけです。
また、タバコには多くの発がん物質が含まれるとされていますが、あれも本当に喫煙でガンになることを証明してはいないのだそうです。
発がん物質を調べる研究は、その物質を投与するとき、急性症状を起こすよりギリギリ少ないくらい大量に投与するのだそうです。
1年くらいそれを続け、解剖してガンができていれば発がん物質とするというものだとか。
少量を20年くらいかけて投与するような、まさにタバコを吸うような感じの調査方法ではありません。
この方法の問題点は、少量の投与の影響がわからないことです。
たとえば放射線被曝ですが、大量被曝の害はもうご存知でしょう。
しかしこれも、少量ならむしろ健康に寄与します。つまり、「放射線=健康に悪いもの」とは言えないのです。
さすがに今は、大きな声では言えない雰囲気もありますが、科学的にそれは証明されています。
ですから人はわざわざ、放射線を浴びにラドン温泉などへ行くんじゃありませんか。
その地域は、他の地域より相対的に放射線量が高いのだそうですが、その地域住民はむしろ健康な人が多いそうです。
どんな物質でも、大量に摂取すれば体に悪いのです。どこまでなら害がないか、それを見極めた上でなければ、単に物質名だけで良いとか悪いなどとは言えないのです。
森鴎外の興味深い逸話(p.126)が書かれていました。
軍医総監にまで上り詰めた森鴎外ですが、ドイツで伝染病の第一人者だったこともあり、脚気を伝染病と考えました。
そのため、陸軍の脚気患者に精力をつけようとして、白米を食べさせたのだそうです。
しかし海軍では、まずい麦飯を食べさせていました。麦飯にはビタミンB1が多く含まれており、このために脚気で死ぬ兵士が少なかったそうです。
しかし森鴎外がいた陸軍では、実に2万人の死者を出したそうです。
森鴎外が白米を食べさせたのは、おそらく彼の善意だろうと言います。
体力が落ちているから、美味しい白米のご飯を食べさせてあげたかったのです。
しかしその善意がアダとなりました。
もし鴎外が、「ひょっとしたら自分は間違っているかもしれない」という気持ちを持っていたら、海軍では死者が少ないという情報も入って、他の方法を試すなどの対策が打てたかもしれません。
このエピソードから、何の根拠もないのに「タバコは体に悪い」というイメージだけが一人歩きし、医師もそれを疑うことなく「タバコをやめなさい」というのは危険なことだと言うのです。
たしかに、そうだと思いました。
もちろん、タバコが原因というか、症状を悪化させることがはっきりしている病気もあるそうです。
ただそれは、患者本人もタバコを吸うとつらくなることを自覚しているはずなので、自分で十分に判断できることだと言います。
また、痴呆症とかパーキンソン病の予防に関して、喫煙が効果があることが科学的に証明されているそうです。
それに昔は、タバコや酒は薬として考えられていたこともあったとか。
このように、これまで単にイメージで考えていたタバコや酒の害が、意外にも思い込みに過ぎなかったことが示されています。
ただ最後の部分は、このイメージ作戦は、優秀な喫煙者を妬んだ非喫煙者の策略だというような、ちょっと荒唐無稽な話になってしまっていて、それが残念ですね。
単に煙や臭いが嫌いだからという人の方が多いと思いますから。
2013年11月18日
人類との対話1
「神との対話」シリーズでおなじみのニール・ドナルド・ウォルシュ氏の最新作になります。
今度は神とではなく、人類と対話するという意味が、タイトルに込められているようですね。
読んでみると、どうやら7つの質問を中心にして、お互いに対話をしようではないかという誘いかけのようです。
その7つの質問が、とてもパワフルだと何度も力説しています。
ただ私は、その質問を読んで、自分でそれに答を出してみても、どうもあまりピンと来ません。
これは翻訳のせいなのか、あるいは私の感性が鈍いのか、なんとも言えませんけど。
たとえば、2つ目の問に、「生命について、わたしたちがまだ完全に理解しておらず、理解すればすべてを変えられるものが、あるだろうか?」(p.69)というものがあります。
この質問だと、たいていの人が「あります」とか「あるだろうと思う」と答えるのではないでしょうか。
つまり、自分が知らないことがまだあって、それによって大きく変わる可能性についてまで否定しないという態度です。
でも、それが何かまではわからないし、今すぐ自分にそれができるとも思わない。
それが多くの人の気持ではないかと思うのです。
だとすると、この質問にそう答えることによって、何か対話が始まるのでしょうか?何かが変わるのでしょうか?
今のところ私には、これで何かが変わるとは思えない、というのが正直な気持ちです。
また中盤では、さかんに政治的なことに言及しています。
二分法ではなく三分法でなければならないとして、政治、経済、文化を分けるべきだという主張です。
それは理解できなくもないのですが、ややこじつけという感じもします。
仮に三分法が正しい(=役に立つ)としても、どうしてそれが政治、経済、文化になるのか、その理由もわかりません。
という感じで、これまでのシリーズのように、読んでいてワクワクする感じが少なかったというのが、正直な感想です。
ただ、ところどころに「そうだなあ」と思わせる文章も散りばめられています。
でもそのほとんどは、これまでのシリーズで書かれていた文とほぼ同じことです。
肝心の、人類と対話することでどういう効果があるのかとか、それがどうして変革のうねりになるのかという道筋は、私には見えてきませんでした。
本の最後の部分は、これまでのシリーズに書かれていたように、そうは言っても重要なのは行動ではなく信念を変えることだ、というまとめになっています。
そうだとするならなおさら、途中で政治的な働きかけをせよと行動を促すものは何だったのか?という気持ちになります。
まだ完全に理解できていない部分もあり、消化不良だということを白状します。
ただこれまでも、このシリーズはこういう面があったことも付け加えておきます。
特にシリーズが後半になればなるほど、そういう傾向がありました。
それが、2度3度読むことで、徐々に消化されていったという経験もあります。
ですから、今の私の理解はこの程度ということにしておいて、またいつか読み返してみたいと思うのです。
まわりの人を幸せにする55の物語
最近、福島正伸さんのお名前を耳にする機会が増えました。
それで、本を読んでみようと思って何冊か購入しました。これはその中の1冊です。
「読みやすそうだなあ。」そう思って読み始めたのですが、まさかこういう本だとは思いませんでした。
最初の数ページで、もう虜(とりこ)になりました。部屋で1人で読みながら、ケタケタと声を出して笑ってしまいましたよ。
「大きな声では言えませんが、実はもう、
世界を変えるために動きはじめた人たちがいるのです。
彼らは秘密結社、その名も「国際救助隊」。
人や社会に貢献することを喜びとし、
いまできることから行動しています。」(p.9)
なんと仰々しいことでしょう。そしてこの本は、国際救助隊の隊員たちの「人に貢献する活動」の記録だと言います。
では国際救助隊とは、いったいどういう存在なのか?
「隊員は、自分の名誉のためでも、利益のためでもなく、すべては人のため、人類の未来のために、日常生活の中で、人や社会に貢献することを喜びとして行動する。」(p.12)
単に笑顔を見せることであっても良いのです。道を譲るとか、ゴミを拾うなど、ちょっとした思いやりが隊員の活動になります。
しかし隊員には、厳しい制限があります。
それは、この活動の目的が自分のためではなく、人類の未来のためだということに関連します。
ですから、たとえ命をかけるような場面であっても何気なく行動し、活動が終了したら、ただの「通りすがりの者」であるかのように振る舞わねばならないのです。
この「通りすがりの者」という表現が、私の笑いのツボにハマりました。どうやら私の笑いの感性は、他の人とは大きく異なるようですね。
「3.溝にハマった車を救出する」(p.30)というエピソードでは、積もった雪で溝に気づかず、ハマってしまった車を重機で助けたという話があります。
わざわざ重機を持ってこさせて助けたのです。それなのに、「もちろん、「通りすがりの者」ということで救助しました。」(p.30)という爽やかさ。
いや、単に爽やかというより、どこか滑稽なのです。
だって、名前はあるし、名乗って困るものでもありません。「名乗るようなものでもありませんから。」でも良いのですが、「通りすがりの者」と名乗るところがおかしいのです。
そんな活動を、私がまったく知らないところで多くの人がやっていたことに驚くとともに、これは現代版の「無財の七施」だなあと思いました。
自分に何か利益があるからするのではなく、ただ他の人を喜ばせることが人類の未来を素晴らしいものにするのだという信念で、この活動を楽しんでいます。
私もぜひ、国際救助隊に加入しようと思いました。
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