先日の記事「自信があれば楽しく生きられる」に書いたのですが、私の親友のHくんは、私とは正反対の明るくて陽気な性格でした。
そんな彼が、どうして私のことを気に入って友だちになってくれたか不思議な気がしますが、私は彼のことが羨ましかったです。
いつも大勢の後輩や友だちに取り囲まれ、慕われていましたから。
私などは、自分から近寄って行かない限り、気がつけば一人なんてことがしょっちゅうです。
ですから、遊びに誘われることがあれば、万難を排して付き合いましたよ。
そう、まさに「万難を排して」です。それだけ、執着していたのでしょうね。
先生に対して、ちょっとでも違う意見を言おうとすると、ほほがピクついて言えなくなります。いわゆるチック症ですよね。
目上の人に対して従順だったのは、嫌われるのが怖かったからです。
何かをすれば、それで好かれると期待するより、嫌われることが心配だった。だから目立たないようにしていたのです。
たまに褒められても、それをみんなの前でほこるとか、「ありがとう」と素直に賞賛を受け取ることもできませんでした。
「そんなことで喜んでも、また突き落とされるだけだ。」
そんな不安があったから、素直に喜べなかったのです。
でも心の中では、もっともっと誉めてほしかった。もっともっと「すごい!」と言って賞賛してほしかった。もっともっと、愛してほしかったのです。
そんなにも、愛されたくてたまらなかった。愛されることで、不安を解消したかったのです。
そんな私がこれまで、何百冊の本を読んで、たくさんの人の話を聞いて、自分を変えようとしてきました。
様々なことを試してみましたよ。50万円もする教材を買ったりもしたし、それこそいくら投資したかわかりません。
そうやってやっと得られたことを、このブログやメルマガでお伝えしています。
もちろん、私の言うことが絶対に正しいとか、誰に対しても効果があるなどと言うつもりはありません。
なぜなら、人それぞれだということも学んだからです。
でも、私が発する情報で、必ず助かる人がいるとも思っています。だからこうして、毎日のように情報を発信しているのです。
それを受けとめて、役立ててくれる人はたった1人かもしれない。それでも構わないと思っています。
そのたった1人の人のために、私がこれまでに得てきたすべてを、提供したいと思うのです。
ですから、もしあなたが今、内向的で傷つきやすい性格のために幸せになれないのだとしたら、ぜひこのブログを読んでほしい。
そしてメルマガも読んでみてほしい。
何かわからないことがあれば、遠慮せずに質問してほしい。メニューの「お問い合わせ」からメールを送ってください。
メールで質問をしてくださった方には、時間がかかっても必ずお答えします。
これまでの例だと、質問してくださったメールの2〜3倍の量の返信をさし上げていますね。(^^ゞ
1つ言えることは、私の方法でないとしても、内向的な性格が変わらないとしても、あなたは必ず幸せになります。
これだけは間違いありません。
あなたが幸せであることを望むなら、必ずそうなります。なぜなら、それが真実であり、私たちの本質だからです。
ですから、希望を捨てないでほしい。必ず道は開けるのですから。
2013年10月01日
2013年10月02日
自分を縛って苦しめているのは自分
ちょっと前に、婚外子に対する遺産相続の権利を、嫡出子の半分にするという民法の規定が違憲だとの判決が、最高裁でなされました。
諸外国では、すでに平等に扱うようになっており、ここにも日本の常識は世界の非常識があったわけです。
ところがネット上では、日本の伝統をぶち壊すものだとして、批判する意見が続出しているようです。
以前に、選択的夫婦別姓制度の導入に関しても、根強い反対があって、法案の提出さえできない状況がありましたが、それも根源的に同じ思考によるものでしょう。
それぞれの人がどう考えるかは、当然、それぞれの自由です。
ですから、私は誰がどう考えるかということに関して批判も非難もしません。
ただ私は、一番の価値観は自由だと思っています。なぜなら、私たちの本質が自由であるからです。
なので、そういう立場から、私の考えを書きたいと思います。
人は、自由が侵害されると喜べないのです。ですから人類は、命がけで自由を勝ち取る戦いをしてきたのです。
そして、基本的人権のもっとも重要なものとして、自由を位置づけてきました。
法律とか規則というものは、ある意味で自由の侵害です。ですから私は、そういうものは少なければ少ないほど良いと考えます。
特に、何かを規制することによって社会の価値観を守ろうとする考え方は、不要な規則を生み出していると思います。
最初に示した婚外子の差別や、別姓制度の否定も、その範疇です。
子どもには何の責任もないのに、親が結婚しているかどうかで法律上の差別を受けるということが、本当に正しいことだと考えるのでしょうか?
おそらく多くの人は、そうは考えていません。
正式に結婚せずに子どもを作ることが親の無責任であり、それを防ぐためには仕方ないことだと考えているのです。
でもこれって、論理的に矛盾していますよね。
不利益を被っているのは婚外子であって、その親ではありません。
結婚という制度を守ることが目的だとしたら、その目的に適っていないという意味で、これは役に立たない規則です。
また、突然に隠し子が現れて夫の不倫を知った妻が、自分の子と同じ相続権を主張されることが気に入らないという考えもあるでしょう。
でもこれも、論点がずれています。
まず妻の相続権は、子どもの数が増えても侵害されません。減ってしまうのは、嫡出子たちの方です。
それに今の法律では、不倫に対しては損害賠償を請求できます。いわゆる慰謝料ですね。
ですから、相続に関して差別することで解決する問題ではないのです。
では嫡出子はどうなのでしょう?たしかに、婚外子が現れれば、取り分が減るということはあります。
でも、様々なケースが考えられることを考慮しなければ、法律としては偏っていることになります。
たとえば、男性が結婚していない女性と一緒に暮らし、子どもも生まれ、穏やかに暮らしていたとしましょう。
ところがその男性が急死しました。子どもにとっては、最愛の父親が亡くなったのです。
そこに、他の女性がやってきて、自分はその男性の正式な妻だと主張します。そして、子どももいると。
法律的には結婚していない女性とその子どもの方が、その男性にとっては家族だったはずです。
ただその女性は、自分は結婚していないのだから、相続権がないことは知っていたでしょう。
でも子どもは、間違いなくその男性の子どもだし、遺産を相続できると思っていたはずです。
それが突然、本妻だと名乗る女性の家族が現れ、遺産のほとんどを根こそぎ奪っていく。
少なくともその女性やその子どもには、そう感じられるでしょうね。
「悪いのはその男性なのだから、その男性を恨め!」
そういう意見があることは知っています。でも、それは非嫡出子を差別する根拠にはなりません。
もし差別があったとしても、仕方ないと受け入れろというだけのことで、差別の解消が良いか悪いかの判断材料を提供していないからです。
話は変わりますが、最近、「できちゃった婚」を「授かり婚」と呼び変えて、推奨する動きがあるようですね。
それについて、賛否両論あるようです。
これまた、伝統を壊すとかの批判がありました。
たしかに伝統が崩れていくことには違いないでしょう。
でも私たちはすでに、平安時代や戦国時代、江戸時代の伝統さえ崩して生活しているではありませんか?
せいぜい、数十年前から行ってきたことを守ろうとしているだけ。
歴史を見ればそれは明らかなのに、自分が見ている範囲の伝統を、あたかも伝統のすべてかのように考え、それにこだわっているだけではありませんか。
私たちは、伝統の奴隷になるべきなのでしょうか?
今、ここで生きている私たちが、いわれのない制限を受けることで不便を感じているのなら、その制限の奴隷になるべきではない、と私は考えます。
すべての人を夫婦別姓にしなければならないと決めるなら、それもまた制限です。
でも、別姓にしたい人が別姓になるだけなら、それは個々人の自由ではありませんか。
多くの人は気づいていませんが、日本にも夫婦別姓の時代がありました。
日本の伝統と言うなら、夫婦別姓こそが伝統なのです。その伝統を変えたのが近代です。
たとえば源頼朝の奥さんの名前は知ってますよね?
源政子ですか?違いますよね。北条政子です。
それに、庶民が姓を名乗れたのは明治以降ですよ。伝統を守れというなら、姓を廃止しますか?
そういった歴史も知らずに伝統を守れと言うなら、それは「自分が伝統だと思っている価値観」を押し付けているだけのことです。
また現代の日本にも夫婦別姓はあります。知ってましたか?
何を隠そう、私たち夫婦がそうです。
私の姓と、妻の姓は同じではありません。それで戸籍に登録されています。
どうしてそうなるかと言うと、妻がタイ人だからです。
タイは選択的夫婦別姓制度を導入しているため、結婚しても姓を変更する必要がなかったのです。
そのタイでの婚姻を基に日本で結婚を届けたため、別姓のまま戸籍に登録されたというわけです。
それによって、家庭が崩壊しているでしょうか?
少なくとも私は、そうは思いません。
むしろ、互いに感謝しあってラブラブな夫婦、互いに思いやっている家族が他にあろうかと、自慢したいくらいです。
姓が異なっていることは、二人の間では何の障害にもならないのです。
もし障害があるとすれば、誰か他の人が、2人の姓が異なることで夫婦として扱わない場合でしょうね。
今のところ、日本に入国するときの税関審査でも、口頭で「夫婦です」と言うだけで、特に問題は起こっていません。(税関申告書は家族で1枚ですから。)
外国人と多く接している税関の人たちは、姓が異なるから夫婦じゃないとは、思わないのでしょう。
つまり、たいした問題じゃないのですよ、夫婦が別姓だって。
ならば、そうしたい人には、そうさせてあげたら良いではありませんか。
そうしたくない人は、そうしなければ良いだけです。
どうしてそう他人に対して狭量なのでしょう?どうして他人に、自分の価値観を押し付けなければ気がすまないのでしょう?
そんなにまで不安なのですか?
問題はそこにあります。
自分が苦しんでいるのは、自分が幸せになれないのは、自分と同じ価値観を共有しない他人のせいではありません。
どうしても他人に自分の価値観を受け入れさせなければならないと考える、そのこだわり、つまり執着心が、その人を苦しめているのです。
幸せになりたいなら、自分の心を解き放つことです。
こだわり、執着心、依存心というものを捨てて、自由になることです。
人は本来、自由なのですから。その自由な自分を狭いかごの中に入れていたのは、自分自身です。
そのことに気づけば、今すぐ、そのままで、誰もが幸せになれますよ。
諸外国では、すでに平等に扱うようになっており、ここにも日本の常識は世界の非常識があったわけです。
ところがネット上では、日本の伝統をぶち壊すものだとして、批判する意見が続出しているようです。
以前に、選択的夫婦別姓制度の導入に関しても、根強い反対があって、法案の提出さえできない状況がありましたが、それも根源的に同じ思考によるものでしょう。
それぞれの人がどう考えるかは、当然、それぞれの自由です。
ですから、私は誰がどう考えるかということに関して批判も非難もしません。
ただ私は、一番の価値観は自由だと思っています。なぜなら、私たちの本質が自由であるからです。
なので、そういう立場から、私の考えを書きたいと思います。
人は、自由が侵害されると喜べないのです。ですから人類は、命がけで自由を勝ち取る戦いをしてきたのです。
そして、基本的人権のもっとも重要なものとして、自由を位置づけてきました。
法律とか規則というものは、ある意味で自由の侵害です。ですから私は、そういうものは少なければ少ないほど良いと考えます。
特に、何かを規制することによって社会の価値観を守ろうとする考え方は、不要な規則を生み出していると思います。
最初に示した婚外子の差別や、別姓制度の否定も、その範疇です。
子どもには何の責任もないのに、親が結婚しているかどうかで法律上の差別を受けるということが、本当に正しいことだと考えるのでしょうか?
おそらく多くの人は、そうは考えていません。
正式に結婚せずに子どもを作ることが親の無責任であり、それを防ぐためには仕方ないことだと考えているのです。
でもこれって、論理的に矛盾していますよね。
不利益を被っているのは婚外子であって、その親ではありません。
結婚という制度を守ることが目的だとしたら、その目的に適っていないという意味で、これは役に立たない規則です。
また、突然に隠し子が現れて夫の不倫を知った妻が、自分の子と同じ相続権を主張されることが気に入らないという考えもあるでしょう。
でもこれも、論点がずれています。
まず妻の相続権は、子どもの数が増えても侵害されません。減ってしまうのは、嫡出子たちの方です。
それに今の法律では、不倫に対しては損害賠償を請求できます。いわゆる慰謝料ですね。
ですから、相続に関して差別することで解決する問題ではないのです。
では嫡出子はどうなのでしょう?たしかに、婚外子が現れれば、取り分が減るということはあります。
でも、様々なケースが考えられることを考慮しなければ、法律としては偏っていることになります。
たとえば、男性が結婚していない女性と一緒に暮らし、子どもも生まれ、穏やかに暮らしていたとしましょう。
ところがその男性が急死しました。子どもにとっては、最愛の父親が亡くなったのです。
そこに、他の女性がやってきて、自分はその男性の正式な妻だと主張します。そして、子どももいると。
法律的には結婚していない女性とその子どもの方が、その男性にとっては家族だったはずです。
ただその女性は、自分は結婚していないのだから、相続権がないことは知っていたでしょう。
でも子どもは、間違いなくその男性の子どもだし、遺産を相続できると思っていたはずです。
それが突然、本妻だと名乗る女性の家族が現れ、遺産のほとんどを根こそぎ奪っていく。
少なくともその女性やその子どもには、そう感じられるでしょうね。
「悪いのはその男性なのだから、その男性を恨め!」
そういう意見があることは知っています。でも、それは非嫡出子を差別する根拠にはなりません。
もし差別があったとしても、仕方ないと受け入れろというだけのことで、差別の解消が良いか悪いかの判断材料を提供していないからです。
話は変わりますが、最近、「できちゃった婚」を「授かり婚」と呼び変えて、推奨する動きがあるようですね。
それについて、賛否両論あるようです。
これまた、伝統を壊すとかの批判がありました。
たしかに伝統が崩れていくことには違いないでしょう。
でも私たちはすでに、平安時代や戦国時代、江戸時代の伝統さえ崩して生活しているではありませんか?
せいぜい、数十年前から行ってきたことを守ろうとしているだけ。
歴史を見ればそれは明らかなのに、自分が見ている範囲の伝統を、あたかも伝統のすべてかのように考え、それにこだわっているだけではありませんか。
私たちは、伝統の奴隷になるべきなのでしょうか?
今、ここで生きている私たちが、いわれのない制限を受けることで不便を感じているのなら、その制限の奴隷になるべきではない、と私は考えます。
すべての人を夫婦別姓にしなければならないと決めるなら、それもまた制限です。
でも、別姓にしたい人が別姓になるだけなら、それは個々人の自由ではありませんか。
多くの人は気づいていませんが、日本にも夫婦別姓の時代がありました。
日本の伝統と言うなら、夫婦別姓こそが伝統なのです。その伝統を変えたのが近代です。
たとえば源頼朝の奥さんの名前は知ってますよね?
源政子ですか?違いますよね。北条政子です。
それに、庶民が姓を名乗れたのは明治以降ですよ。伝統を守れというなら、姓を廃止しますか?
そういった歴史も知らずに伝統を守れと言うなら、それは「自分が伝統だと思っている価値観」を押し付けているだけのことです。
また現代の日本にも夫婦別姓はあります。知ってましたか?
何を隠そう、私たち夫婦がそうです。
私の姓と、妻の姓は同じではありません。それで戸籍に登録されています。
どうしてそうなるかと言うと、妻がタイ人だからです。
タイは選択的夫婦別姓制度を導入しているため、結婚しても姓を変更する必要がなかったのです。
そのタイでの婚姻を基に日本で結婚を届けたため、別姓のまま戸籍に登録されたというわけです。
それによって、家庭が崩壊しているでしょうか?
少なくとも私は、そうは思いません。
むしろ、互いに感謝しあってラブラブな夫婦、互いに思いやっている家族が他にあろうかと、自慢したいくらいです。
姓が異なっていることは、二人の間では何の障害にもならないのです。
もし障害があるとすれば、誰か他の人が、2人の姓が異なることで夫婦として扱わない場合でしょうね。
今のところ、日本に入国するときの税関審査でも、口頭で「夫婦です」と言うだけで、特に問題は起こっていません。(税関申告書は家族で1枚ですから。)
外国人と多く接している税関の人たちは、姓が異なるから夫婦じゃないとは、思わないのでしょう。
つまり、たいした問題じゃないのですよ、夫婦が別姓だって。
ならば、そうしたい人には、そうさせてあげたら良いではありませんか。
そうしたくない人は、そうしなければ良いだけです。
どうしてそう他人に対して狭量なのでしょう?どうして他人に、自分の価値観を押し付けなければ気がすまないのでしょう?
そんなにまで不安なのですか?
問題はそこにあります。
自分が苦しんでいるのは、自分が幸せになれないのは、自分と同じ価値観を共有しない他人のせいではありません。
どうしても他人に自分の価値観を受け入れさせなければならないと考える、そのこだわり、つまり執着心が、その人を苦しめているのです。
幸せになりたいなら、自分の心を解き放つことです。
こだわり、執着心、依存心というものを捨てて、自由になることです。
人は本来、自由なのですから。その自由な自分を狭いかごの中に入れていたのは、自分自身です。
そのことに気づけば、今すぐ、そのままで、誰もが幸せになれますよ。
2013年10月03日
上京物語
またまた喜多川泰さんの小説です。
電子書籍(Kindle版)だと、ちょっとした空き時間にスマホで手軽に読めるのがいいですね。
また、そういうときに読むには、小説のような読みやすい本がピッタリです。
ということで、読み終えるとすぐに買いたくなるのですが、すっかり喜多川さんのファンになっちゃいましたよ。
実はこの「東京物語」は、デビュー作の「賢者の書」よりも先に書いたものだとか。
そう言われてみると、このスタイルが「手紙屋」など他の小説に、色濃く影響を与えている気がしますね。
生き方に迷っている主人公に対して、他の誰かが的確なアドバイスを与える。
しかもそれは、本や手紙など、何かしら書かれたものによって。
今回は、大学進学する息子に対して、父親がアドバイスするというスタイルになっています。
前半と後半の二部仕立てになっていて、前半はなんだか煮え切らないフラストレーションがたまる展開です。
どうしてそうなっているかが後半明かされますが、なかなか凝った作りになっていますね。
前の「賢者の書」にもあった「時間を投資する」ということが、こちらにも書かれています。
こっちを読むと、その意味がよくわかる気がします。
結局、人は、ただ想像しているだけでは、何が自分に向いているかとかわからないのです。
実際にやってみる(=時間を投資する)ことによって、初めて得られる気づきがあります。
体験することの重要性は、私もわかっているつもりでした。でも、これを読むと、本当によくわかりますね。
また、「常識から離れること」を勧めています。
これが当然とか普通だという思い込みによって、真実ではないことを信じて生きてしまう。
そのことが、この小説にありありと描かれています。
「なるほどー。そうだよな。」と、何度ひざを打ったことか。
若い人にはぜひ読んで欲しい小説ですが、何歳になっても、ここから学んで生き直せると思います。
儒学者の佐藤一斎は、言志四録の中でこう言っています。
「少にして学べば壮にして為すこと有り。壮にして学べば老いて衰えず。 老いて学べば死して朽ちず。」
私は50歳を超えましたが、これからもますます学んでいこうと思いました。
2013年10月04日
心から応援すれば応えてくれる
昨日のメルマガ「SJ通信」では、幸せ実践の方法を1つお伝えしました。
それは、動物や植物に声を掛けるというものです。
これはすでに私が実践していることで、以前の記事「観葉植物に名前をつけました」でも紹介しました。
あれから1ヶ月くらいになりますが、植物たちはますます元気に大きく育っています。
写真だとはっきりわからないかもしれませんが、背の高いマリちゃん(私はそう名づけて呼んでいます)は、明らかに15cmは伸びてますよね。
これでもかというくらいに葉っぱを茂らせているはシンゴちゃんです。
もう鉢に近いところにある葉っぱは、上からはまったく見えないくらいです。
半年前の写真を撮っておけばよかったなあと、ちょっと残念に思っています。
そのときの写真と比べたら、その違いに驚くと思われるからです。
特に肥料をやったわけでもなく、ただ声を掛けてあげているだけ。
それが植物に通じるんですね。
人の心が動物にも伝わることは、すでにみなさんもご存知でしょう。
そして、植物も人の心を感じることができるという話も、サボテンを使った実験結果など、聞いたことがあるのではありませんか?
さらに言うなら、生きていると一般に言われないものも、人の心を感じるんです。
料理を作るとき、愛情をたっぷりと入れてあげると美味しくなるという話、聞いたことがありませんか?
「美味しくなーれ、美味しくなーれ。」
そう言いながらコーヒーを入れておられるのは、初代仮面ライダーの役をされた藤岡弘さんです。
「そんなの、ただの気持ちの問題でしょ?」
私も最初は、そう思っていましたよ。でも今は、それで美味しくなることはあると信じています。
なぜなら、すべての物質には心があるからです。
心が脳の産物だと信じている人には、ちょっと理解できない話かもしれませんね。
本当は、心というものは脳の中にあるのではなく、偏在しているのです。
その心が肉体を操っているのです。
ですから、動物や植物はもちろん、鉱物にも、原子の1個1個にも、心というものがあります。
私たちを構成する細胞の1つ1つに、心というものがあるのです。
昔の人は、それを肌で感じていたのだと思います。
ですから、お米の1粒に7人の神様が宿っておられるというように、様々なものに神性を見出して拝んだのでしょう。
ウソだと思うのなら、自分で試してみてはどうでしょう。
私の言うことを信じる必要はないし、むしろ信じてもらっては困ります。
なぜなら、そうすることは私に権威を置くことになるし、それでは幸せになれないからです。
権威は、自分の中に置くことです。
ですから自分で体験してみることが一番なのです。
体験して、それで楽しいとか嬉しいなどと良い気分になるのなら、それが自分らしいことです。
逆にそうならないなら、自分らしくないことです。
素直に自分の感情にしたがう。それが大切なんですね。
それは、動物や植物に声を掛けるというものです。
これはすでに私が実践していることで、以前の記事「観葉植物に名前をつけました」でも紹介しました。
あれから1ヶ月くらいになりますが、植物たちはますます元気に大きく育っています。
写真だとはっきりわからないかもしれませんが、背の高いマリちゃん(私はそう名づけて呼んでいます)は、明らかに15cmは伸びてますよね。
これでもかというくらいに葉っぱを茂らせているはシンゴちゃんです。
もう鉢に近いところにある葉っぱは、上からはまったく見えないくらいです。
半年前の写真を撮っておけばよかったなあと、ちょっと残念に思っています。
そのときの写真と比べたら、その違いに驚くと思われるからです。
特に肥料をやったわけでもなく、ただ声を掛けてあげているだけ。
それが植物に通じるんですね。
人の心が動物にも伝わることは、すでにみなさんもご存知でしょう。
そして、植物も人の心を感じることができるという話も、サボテンを使った実験結果など、聞いたことがあるのではありませんか?
さらに言うなら、生きていると一般に言われないものも、人の心を感じるんです。
料理を作るとき、愛情をたっぷりと入れてあげると美味しくなるという話、聞いたことがありませんか?
「美味しくなーれ、美味しくなーれ。」
そう言いながらコーヒーを入れておられるのは、初代仮面ライダーの役をされた藤岡弘さんです。
「そんなの、ただの気持ちの問題でしょ?」
私も最初は、そう思っていましたよ。でも今は、それで美味しくなることはあると信じています。
なぜなら、すべての物質には心があるからです。
心が脳の産物だと信じている人には、ちょっと理解できない話かもしれませんね。
本当は、心というものは脳の中にあるのではなく、偏在しているのです。
その心が肉体を操っているのです。
ですから、動物や植物はもちろん、鉱物にも、原子の1個1個にも、心というものがあります。
私たちを構成する細胞の1つ1つに、心というものがあるのです。
昔の人は、それを肌で感じていたのだと思います。
ですから、お米の1粒に7人の神様が宿っておられるというように、様々なものに神性を見出して拝んだのでしょう。
ウソだと思うのなら、自分で試してみてはどうでしょう。
私の言うことを信じる必要はないし、むしろ信じてもらっては困ります。
なぜなら、そうすることは私に権威を置くことになるし、それでは幸せになれないからです。
権威は、自分の中に置くことです。
ですから自分で体験してみることが一番なのです。
体験して、それで楽しいとか嬉しいなどと良い気分になるのなら、それが自分らしいことです。
逆にそうならないなら、自分らしくないことです。
素直に自分の感情にしたがう。それが大切なんですね。
2013年10月05日
ちょっとだけ背伸びしてみる
すでにブログに書いていますように、私は駅の窓口で切符を買うこともできないほど、内向的な子どもでした。
自分に自信が持てずに、何をするにも不安があったのです。
すぐに傷つくので、考えることは「どうすれば傷つかずに済むか」ということばかり。
とても自分らしく生きるなどというレベルではありませんでした。
そんな私でしたが、そればかりでは飽きるのでしょうね。時には破天荒なこともやりましたよ。もちろん、当時の私にとって破天荒だというだけですけどね。
中学校の休みの日、私は自転車に乗って走っていました。
狭い田舎とは言え、行ったことがない場所はたくさんあります。
「あの山の奥に入っていく道は、いったいどこまで続いているのだろう?」
ふと、そんなことが気になったのです。
「よし、今日は時間もあるし、行けるところまで行ってみよう。ダメなら引き返せばいいだけだから。」
私はそう考えて、山道を自転車で登って行きました。
最初は1時間でどこにも行き着かなかったら、引き返そうと思っていました。
しかし1時間走ると、道はまだまだ続きそうに感じられました。なぜなら、舗装された道がずっと続いていたからです。
「山の奥で行き止まりなら、こんなに良い道ができているはずがない。よし、もう1時間だけ行ってみよう。」
帰りの時間を考えると、それが限界でした。その日はたしか、夕方に何か約束があったのです。
さらに1時間走った頃、道が下りに転じました。どうやら新たな展開がありそうです。
そしてしばらく行くと、人家が見えてきたのです。
「ここ、どこだろう?でも、あの道の向こうにこんな人里があるなんて、びっくりだなあ。」
なんとなく、何かを達成したような気分になりました。
「ねえねえ、ぼく、ここは何ていうところ?」
道端で遊んでいた子どもに、場所を尋ねました。
知らない人に話しかけるのはドキドキものなので、話しかけやすい子どもを選んだのです。
子どもは、聞いたことがある町の名前を答えます。どうやら、となり町まで来たようです。
しかし、名前を聞いたことがある程度の町なので、地理がよくわかりません。
どうやって自分の家まで帰ったら良いのでしょう?もちろん引き返せば良いのですが、もっと良い道がありそうに思えました。
しばらく行って、今度は大人の人に道を尋ねました。
どうしても家に帰らなければいけないという必要性が、勇気を出させてくれたのです。
「すみません。◯◯町まで行きたいのですが、どうやって行ったら良いのでしょう?」
その人は、来た方とは別の道を指差して、「こっちへ行ったら◯◯町の△△地区に出るよ。」と教えてくれました。
家に帰るにはちょっと遠回りですが、私は教えてもらった新たな道へ進むことにしました。
そして2時間後、無事に私の町まで戻ってきました。
夕方の約束に間に合いそうにないので、途中で有線(当時は有線電話をこう呼んでいました)を借りて、相手に遅れることを伝えました。
時間は絶対に守ることが信条の私としては、珍しい出来事です。
けれども、なんだか清々しかったのです。
大きなことをやり遂げたような、まるで世界一周の冒険から帰ってきたような、高揚感があったのです。
「なに、たったそれだけ?それが冒険なの?」
おそらく、そう思われる方もおられるでしょうね。
でも、6歳くらいの児童におつかいをさせる「初めてのおつかい」というTV番組がありましたが、その人にとっては大冒険ということはあるのです。
他の人にとってどうであろうと、それは関係がありません。
だって、冒険するのはその人ですし、それによって本人のレベルがアップするだけなのですから。
自信を持てずに苦しんでいる人がいたら、どうぞこのことを参考にしてください。
他の人と比べて、同じようにしなくて良いのです。
自分のレベルで、ちょっとだけ背伸びしてやるようなことを、思い切ってやってみましょう。
他の人からどう思われても良いのです。自分が今のレベルから、少しだけアップするだけなのですから。
自分に自信が持てずに、何をするにも不安があったのです。
すぐに傷つくので、考えることは「どうすれば傷つかずに済むか」ということばかり。
とても自分らしく生きるなどというレベルではありませんでした。
そんな私でしたが、そればかりでは飽きるのでしょうね。時には破天荒なこともやりましたよ。もちろん、当時の私にとって破天荒だというだけですけどね。
中学校の休みの日、私は自転車に乗って走っていました。
狭い田舎とは言え、行ったことがない場所はたくさんあります。
「あの山の奥に入っていく道は、いったいどこまで続いているのだろう?」
ふと、そんなことが気になったのです。
「よし、今日は時間もあるし、行けるところまで行ってみよう。ダメなら引き返せばいいだけだから。」
私はそう考えて、山道を自転車で登って行きました。
最初は1時間でどこにも行き着かなかったら、引き返そうと思っていました。
しかし1時間走ると、道はまだまだ続きそうに感じられました。なぜなら、舗装された道がずっと続いていたからです。
「山の奥で行き止まりなら、こんなに良い道ができているはずがない。よし、もう1時間だけ行ってみよう。」
帰りの時間を考えると、それが限界でした。その日はたしか、夕方に何か約束があったのです。
さらに1時間走った頃、道が下りに転じました。どうやら新たな展開がありそうです。
そしてしばらく行くと、人家が見えてきたのです。
「ここ、どこだろう?でも、あの道の向こうにこんな人里があるなんて、びっくりだなあ。」
なんとなく、何かを達成したような気分になりました。
「ねえねえ、ぼく、ここは何ていうところ?」
道端で遊んでいた子どもに、場所を尋ねました。
知らない人に話しかけるのはドキドキものなので、話しかけやすい子どもを選んだのです。
子どもは、聞いたことがある町の名前を答えます。どうやら、となり町まで来たようです。
しかし、名前を聞いたことがある程度の町なので、地理がよくわかりません。
どうやって自分の家まで帰ったら良いのでしょう?もちろん引き返せば良いのですが、もっと良い道がありそうに思えました。
しばらく行って、今度は大人の人に道を尋ねました。
どうしても家に帰らなければいけないという必要性が、勇気を出させてくれたのです。
「すみません。◯◯町まで行きたいのですが、どうやって行ったら良いのでしょう?」
その人は、来た方とは別の道を指差して、「こっちへ行ったら◯◯町の△△地区に出るよ。」と教えてくれました。
家に帰るにはちょっと遠回りですが、私は教えてもらった新たな道へ進むことにしました。
そして2時間後、無事に私の町まで戻ってきました。
夕方の約束に間に合いそうにないので、途中で有線(当時は有線電話をこう呼んでいました)を借りて、相手に遅れることを伝えました。
時間は絶対に守ることが信条の私としては、珍しい出来事です。
けれども、なんだか清々しかったのです。
大きなことをやり遂げたような、まるで世界一周の冒険から帰ってきたような、高揚感があったのです。
「なに、たったそれだけ?それが冒険なの?」
おそらく、そう思われる方もおられるでしょうね。
でも、6歳くらいの児童におつかいをさせる「初めてのおつかい」というTV番組がありましたが、その人にとっては大冒険ということはあるのです。
他の人にとってどうであろうと、それは関係がありません。
だって、冒険するのはその人ですし、それによって本人のレベルがアップするだけなのですから。
自信を持てずに苦しんでいる人がいたら、どうぞこのことを参考にしてください。
他の人と比べて、同じようにしなくて良いのです。
自分のレベルで、ちょっとだけ背伸びしてやるようなことを、思い切ってやってみましょう。
他の人からどう思われても良いのです。自分が今のレベルから、少しだけアップするだけなのですから。
2013年10月07日
自分の成長した部分をほめる
前回の記事「ちょっとだけ背伸びしてみる」で、今の自分でできることより、少しだけ挑戦してみることをお勧めしました。
いきなりハードルを上げても、挑戦しようという気力が削がれるだけですからね。
特に内向的な人は、自分の価値を低く見ています。自己肯定感が乏しいのです。
自分ができないことにばかり意識を向けるため、自分の価値が認められないのです。
そういう人に、「青年よ、大志を抱け!」と言ってところで、はなからシュンとなってしまうだけで、何の意味もありません。
本当は、人は何もできなくても素晴らしい存在なのです。
しかし、自己肯定感の乏しい人は特に、何かができないと価値がないと考えてしまいがちです。
一足飛びに、何もできなくても価値があると思えるようになれば良いのですが、なかなかそう思えない人も多いでしょう。
ですから、少しでも自己肯定感を増すためのワンステップとして、小さな挑戦をお勧めしているのです。
これは実際に、私がたどってきた道でもあるのですから。
大人になって、1人で生きていくことに不安を抱いていた私も、この少しだけ挑戦することを繰り返すことにより、いつしか1人でも生きられるくらいにはなりました。
特に大きかったのが、広島で一人暮らしを始めたことです。
これも、家から通える大学がなかったのが幸いしました。挑戦せざるを得なかったのです。
下宿を探すのは、母親に手伝ってもらいました。引っ越しは父親に手伝ってもらいました。
完全に一人でやったわけではありませんが、初めてのことを何とかこなしていったのです。
昔から、「かわいい子には旅をさせよ」と言いますけど、本当にそうだなあと思いますよ。
前に、「「また、必ず会おう」と誰もが言った。」という本を紹介しました。ちょうど今、その映画が上映されているようです。
とても素晴らしい内容なので、ぜひ観ていただきたいですね。
私はこの本を2冊買って、甥っ子たちに贈りましたよ。ぜひ自ら進んで、人生に挑戦してほしいものだと思います。
さて、前置きが長くなりましたが、今日の本題に入ります。
このように、スモール・ステップを繰り返すことで、ある程度の自信はつくと思います。
けれども、これだけではまだ、他人の顔色をうかがうような生き方は変わらないのです。
さらに自己肯定感を高めるために、ぜひやって欲しいことがあります。
それは、「自分で自分をほめる」ということです。
それだけ聞くと、まるでナルシストみたいで嫌な感じを覚えるかもしれませんね。
でも、はっきりと言えば、多くの人が自己愛が足りません。自分に対して厳しすぎるのです。
たしかに何かに挑戦しようとするとき、現状を否定しないとステップアップできないと感じるかもしれません。
そういう方法でステップアップできる人も多いと思いますが、はたしてそれで幸せでしょうか?
幸せというのは、「もうこれで十分だ」という満足した感情です。
「まだまだこんなことでは満足できない」という思いとは、ちょっと違うことがわかると思います。
「現状に満足しちゃったら、成長できないでしょう?」
そう考えてしまいがちなことは理解できますが、それは本当でしょうか?
たとえば赤ちゃんをご覧ください。ハイハイできるようになると、次はつかまり立ちをして、歩くようになります。
その成長の過程で、赤ちゃんが現状に不満を抱いているでしょうか?
そんなことはないと思います。
今できることが楽しくて仕方ないはずです。
楽しいから、もっともっと楽しくなりたいのです。
同じように、今の自分をもっと楽しい気分にさせることが大切です。
そうすれば、さらに上を目指そうという意欲が湧いてくるでしょう。
不安を動機として上を目指すやり方は、いつしか心が疲弊します。
でも、愛を動機とするなら、疲れることを知らないでしょう。
自分をほめるやり方は、どんな方法でもかまいません。
私がやった方法は、「鏡のワーク」として紹介しています。
他にも、自分に対する応援歌を替え歌で作って歌うということもやりました。
最近始めて良かったのは、植物に声をかけることです。これは記事「心から応援すれば応えてくれる」で紹介しています。
ともかく、今、ありのままの自分を、そのまま認めてあげることです。
よくできたことがあったなら、そのことをほめましょう。できなかったとしても挑戦したなら、そのことをほめましょう。
できないことやダメなところに意識をフォーカスすることをやめ、できることや良いところを意識するのです。
騙されたと思って、1週間やってみてください。
必ず効果を実感できるでしょう。心地よさを感じるはずです。
あなたは、もっともっと進化成長する素晴らしい存在なのですよ。
いきなりハードルを上げても、挑戦しようという気力が削がれるだけですからね。
特に内向的な人は、自分の価値を低く見ています。自己肯定感が乏しいのです。
自分ができないことにばかり意識を向けるため、自分の価値が認められないのです。
そういう人に、「青年よ、大志を抱け!」と言ってところで、はなからシュンとなってしまうだけで、何の意味もありません。
本当は、人は何もできなくても素晴らしい存在なのです。
しかし、自己肯定感の乏しい人は特に、何かができないと価値がないと考えてしまいがちです。
一足飛びに、何もできなくても価値があると思えるようになれば良いのですが、なかなかそう思えない人も多いでしょう。
ですから、少しでも自己肯定感を増すためのワンステップとして、小さな挑戦をお勧めしているのです。
これは実際に、私がたどってきた道でもあるのですから。
大人になって、1人で生きていくことに不安を抱いていた私も、この少しだけ挑戦することを繰り返すことにより、いつしか1人でも生きられるくらいにはなりました。
特に大きかったのが、広島で一人暮らしを始めたことです。
これも、家から通える大学がなかったのが幸いしました。挑戦せざるを得なかったのです。
下宿を探すのは、母親に手伝ってもらいました。引っ越しは父親に手伝ってもらいました。
完全に一人でやったわけではありませんが、初めてのことを何とかこなしていったのです。
昔から、「かわいい子には旅をさせよ」と言いますけど、本当にそうだなあと思いますよ。
前に、「「また、必ず会おう」と誰もが言った。」という本を紹介しました。ちょうど今、その映画が上映されているようです。
とても素晴らしい内容なので、ぜひ観ていただきたいですね。
私はこの本を2冊買って、甥っ子たちに贈りましたよ。ぜひ自ら進んで、人生に挑戦してほしいものだと思います。
さて、前置きが長くなりましたが、今日の本題に入ります。
このように、スモール・ステップを繰り返すことで、ある程度の自信はつくと思います。
けれども、これだけではまだ、他人の顔色をうかがうような生き方は変わらないのです。
さらに自己肯定感を高めるために、ぜひやって欲しいことがあります。
それは、「自分で自分をほめる」ということです。
それだけ聞くと、まるでナルシストみたいで嫌な感じを覚えるかもしれませんね。
でも、はっきりと言えば、多くの人が自己愛が足りません。自分に対して厳しすぎるのです。
たしかに何かに挑戦しようとするとき、現状を否定しないとステップアップできないと感じるかもしれません。
そういう方法でステップアップできる人も多いと思いますが、はたしてそれで幸せでしょうか?
幸せというのは、「もうこれで十分だ」という満足した感情です。
「まだまだこんなことでは満足できない」という思いとは、ちょっと違うことがわかると思います。
「現状に満足しちゃったら、成長できないでしょう?」
そう考えてしまいがちなことは理解できますが、それは本当でしょうか?
たとえば赤ちゃんをご覧ください。ハイハイできるようになると、次はつかまり立ちをして、歩くようになります。
その成長の過程で、赤ちゃんが現状に不満を抱いているでしょうか?
そんなことはないと思います。
今できることが楽しくて仕方ないはずです。
楽しいから、もっともっと楽しくなりたいのです。
同じように、今の自分をもっと楽しい気分にさせることが大切です。
そうすれば、さらに上を目指そうという意欲が湧いてくるでしょう。
不安を動機として上を目指すやり方は、いつしか心が疲弊します。
でも、愛を動機とするなら、疲れることを知らないでしょう。
自分をほめるやり方は、どんな方法でもかまいません。
私がやった方法は、「鏡のワーク」として紹介しています。
他にも、自分に対する応援歌を替え歌で作って歌うということもやりました。
最近始めて良かったのは、植物に声をかけることです。これは記事「心から応援すれば応えてくれる」で紹介しています。
ともかく、今、ありのままの自分を、そのまま認めてあげることです。
よくできたことがあったなら、そのことをほめましょう。できなかったとしても挑戦したなら、そのことをほめましょう。
できないことやダメなところに意識をフォーカスすることをやめ、できることや良いところを意識するのです。
騙されたと思って、1週間やってみてください。
必ず効果を実感できるでしょう。心地よさを感じるはずです。
あなたは、もっともっと進化成長する素晴らしい存在なのですよ。
2013年10月08日
手紙屋 蛍雪篇
また喜多川泰さんの本を、Kindle版の電子書籍で読みました。
前に紹介した「手紙屋」の続編と言うか、姉妹編にあたる小説です。
喜多川さんは、この2つの小説を、ほぼ同時に書いたのだそうです。
どおりで微に入り細に入り、うまくリンクしている感じがします。
こちらは、大学受験を1年半後に控えた女子高校生に対するアドバイスになります。
この女子高校生が、実は前の「手紙屋」の中では、さり気なく重要な役割を演じていますが、その秘密がこの中で明かされています。
ドラマ展開の面白さは、ここで暴露すると台無しなので、そこはぜひ読んでみてください。
この小説も、成功哲学的な要素が散りばめられていて、「勉強」に対する喜多川さんの思いが込められています。
今も予備校で学生を教えておられるだけに、「勉強」に対する哲学というか、視点が素晴らしいです。
「勉強」も一つの道具だという視点は、本当に斬新なものでした。
また受験勉強の方法として、まず問題にあたるというのは、とても納得できます。
たとえば基本要素である英単語を覚えるよりも、長文読解を先にやってみるというやり方です。
わからないところは辞書で調べ、1つの問題を徹底的にやるということを書かれていました。
私も、高校生の時にこれを知っていたら、もっと良い点が取れたでしょうね。
私は数学や物理などは得意で、実はこういう勉強法をしていたのです。
中学の時は、さっさと教科書の予習を終え、2学期からは参考書の問題を解いていました。
またテストで100点取れなかったときなど、返された答案用紙を見て、必ずどこが間違っていたか、なぜ間違っていたかをチェックしていましたよ。
ある意味で、テストで100点取ることより、その問題を100%わかるようにすることに比重を置いていたと思います。
解けない問題が存在することが悔しかったというか、嫌だったのですね。完璧主義者ですから。(笑)
それと、勉強を例えるならマラソンよりも駅伝だという視点も、素晴らしいと思いました。
マラソンは、自分1人がねばってねばってゴールするというイメージです。
でも駅伝は、前の人の頑張りの上に、自分の頑張りを重ね、さらに次の世代につないでいくイメージです。
過去の人が苦心して発見したことを、わずか数分で学習できるというくだりは、本当に目からうろこでした。
ピタゴラスの三平方の定理とか、そこまで行かなくても面積や体積の求め方だって、最初の人は相当に苦労したはず。
その苦労のお陰で、私たちは容易にそういう計算ができ、生活に役立てることができています。
そう考えれば、自分が生まれた時より、少しでも良くして次の世代にタスキを渡したい。そう思いますね。
ぜひ、「手紙屋」と合わせて読んでみてください。
2013年10月09日
ホ・オポノポノでは、なぜ詫びるのか
以前の記事「ホ・オポノポノ的な見方について」で、ホ・オポノポノに対する私の考えを書きました。
正直に言って、いまいちピンと来ません。
この世の現象が幻想だとする点では納得するものの、潜在意識(ウニヒピリ)が見せてくれる記憶だということが納得できないのです。
「なんのために?」
それがわからないのです。
クリーニングされたいから見せてくれるのだとしても、「なぜクリーニングされたいのか?」とか、「どうしてクリーニングされなければ困るような仕組みになっているのか?」など、理解できないのです。
それともう1つ、私の心にブレーキをかけるものがありました。
それがクリーニングに使われる4つの言葉です。
「ありがとう」「愛しています」「ごめんなさい」「許してください」
最初の「ありがとう」「愛しています」はわかります。
でも、後半の2つは、言うことに抵抗を感じていました。
「なぜ私が詫びなければならないの?私は何も悪くないのに。」
しかし最近、この言葉の意味がわかるような気がしてきました。
今日は、そのことについて書きますね。
今朝もまた、日課にしているベランダの観葉植物たちへの声掛けをしました。
それぞれが、見事に成長しています。ハツラツとしたエネルギーを感じます。
そのときふと思ったのです。
「もし、この植物たちが突然枯れるようなことがあったら、自分はどう思うのだろう?」
声をかけることで植物たちが元気になる。
こういう因果関係なら納得できるし、喜ばしいことですけど、そうならないことだって考えられます。
「そのとき私は、なんと言って声を掛けるのだろう?」
「あるいは、誰かが私の意図しないところで、この植物たちを刈り取ったらどうだろう?」
さすがにベランダに侵入して刈る人もいないでしょうけど、一般の戸建住宅だと、庭の花を摘み取られたなんて話を聞いたことがあります。
丹精込めて育てたのに、その生を無残に終わらせることになってしまったら・・・。
そう考えたとき、私はこう言うだろうと思ったのです。
「ごめんね、何もしてあげられなくて。助けてあげられなくて、ごめんなさいね。許してね。」
「でも、ありがとうね。あなたのお陰で、私は幸せでいられたのですから。あなたのことは忘れない。ずっとずっと、愛しています。」
そのとき、ゾクッとするものを感じました。
「これって、ホ・オポノポノで言うクリーニングの言葉じゃないの?」
たしかに、私が刈り取ったのじゃないかもしれない。
けれども私は、その植物たちに詫びると思ったのです。
なぜなら、恨みを抱き続けることは、とても辛いことだからです。
愛する植物たちを、そんな辛い目には合わせたくない。
そういう思いから、私は詫びるのです。そして、刈り取った人を許してやってくれとお願いするのです。
自分が助けてやれなかったことに対する詫びでもあります。
そして立場が変われば、私自身も刈り取る人間になるかもしれないという思いでもあります。
ひょっとしたら過去に、あるいは過去世において、私は刈り取った人間かもしれない。
だから今生で、そういう体験をすることになったのかもしれない。
そう思えば、今生で刈り取った人のことを、一方的に悪いとは責められません。
悔しいし、悲しいけれど、それでもやはり責めたくないのです。
そういった様々な思いがぐるぐると頭の中で巡った結果、言葉として出てきたのが、「ごめんなさい」「許してください」だったのです。
ひょっとしたらホ・オポノポノのクリーニングの言葉にも、こういう背景があるのかもしれない。
そんな気がしてきました。
正直に言って、いまいちピンと来ません。
この世の現象が幻想だとする点では納得するものの、潜在意識(ウニヒピリ)が見せてくれる記憶だということが納得できないのです。
「なんのために?」
それがわからないのです。
クリーニングされたいから見せてくれるのだとしても、「なぜクリーニングされたいのか?」とか、「どうしてクリーニングされなければ困るような仕組みになっているのか?」など、理解できないのです。
それともう1つ、私の心にブレーキをかけるものがありました。
それがクリーニングに使われる4つの言葉です。
「ありがとう」「愛しています」「ごめんなさい」「許してください」
最初の「ありがとう」「愛しています」はわかります。
でも、後半の2つは、言うことに抵抗を感じていました。
「なぜ私が詫びなければならないの?私は何も悪くないのに。」
しかし最近、この言葉の意味がわかるような気がしてきました。
今日は、そのことについて書きますね。
今朝もまた、日課にしているベランダの観葉植物たちへの声掛けをしました。
それぞれが、見事に成長しています。ハツラツとしたエネルギーを感じます。
そのときふと思ったのです。
「もし、この植物たちが突然枯れるようなことがあったら、自分はどう思うのだろう?」
声をかけることで植物たちが元気になる。
こういう因果関係なら納得できるし、喜ばしいことですけど、そうならないことだって考えられます。
「そのとき私は、なんと言って声を掛けるのだろう?」
「あるいは、誰かが私の意図しないところで、この植物たちを刈り取ったらどうだろう?」
さすがにベランダに侵入して刈る人もいないでしょうけど、一般の戸建住宅だと、庭の花を摘み取られたなんて話を聞いたことがあります。
丹精込めて育てたのに、その生を無残に終わらせることになってしまったら・・・。
そう考えたとき、私はこう言うだろうと思ったのです。
「ごめんね、何もしてあげられなくて。助けてあげられなくて、ごめんなさいね。許してね。」
「でも、ありがとうね。あなたのお陰で、私は幸せでいられたのですから。あなたのことは忘れない。ずっとずっと、愛しています。」
そのとき、ゾクッとするものを感じました。
「これって、ホ・オポノポノで言うクリーニングの言葉じゃないの?」
たしかに、私が刈り取ったのじゃないかもしれない。
けれども私は、その植物たちに詫びると思ったのです。
なぜなら、恨みを抱き続けることは、とても辛いことだからです。
愛する植物たちを、そんな辛い目には合わせたくない。
そういう思いから、私は詫びるのです。そして、刈り取った人を許してやってくれとお願いするのです。
自分が助けてやれなかったことに対する詫びでもあります。
そして立場が変われば、私自身も刈り取る人間になるかもしれないという思いでもあります。
ひょっとしたら過去に、あるいは過去世において、私は刈り取った人間かもしれない。
だから今生で、そういう体験をすることになったのかもしれない。
そう思えば、今生で刈り取った人のことを、一方的に悪いとは責められません。
悔しいし、悲しいけれど、それでもやはり責めたくないのです。
そういった様々な思いがぐるぐると頭の中で巡った結果、言葉として出てきたのが、「ごめんなさい」「許してください」だったのです。
ひょっとしたらホ・オポノポノのクリーニングの言葉にも、こういう背景があるのかもしれない。
そんな気がしてきました。
2013年10月10日
執念深くネチネチと続ける
私、けっこう執念深いんです。(笑)
やり始めたらとことんやらないと気が済まないので、あまり新しいことを始めたくないと思うくらいです。
たとえば掃除などは、始めると大掃除になってしまいます。だから子どもの頃は、1ヶ月くらい平気で掃除しませんでした。
親から散々に注意され、ワタゴミが床に広がってくるまで、やりませんでしたよ。
その代わり、やり始めたら徹底的にやります。気になってしょうがないのです。じゅうたんを剥がして、床を雑巾がけしましたから。
そんな執念深い性格が、意外にも成功に導いてくれるのです。
たとえば友だちと一緒に釣りに行ったときも、友だちは釣れないと飽きて帰ってしまうのです。
私一人が、「もうちょっとやってから帰るよ」と言って残ったものです。
すると、そこから釣れ出すんですよね。
あとになってわかったことですが、魚がよく釣れるのは、「朝まずめ」「夕まずめ」と呼ばれる朝夕の時間帯です。
夕方5時くらいから日没にかけて、よく釣れるわけです。
魚釣りを趣味にしている人が、「釣りは短気な人の方がよく釣る」と言います。
意外に思われるかもしれませんが、そういうこともあるのかなと思います。だって私は短気な方ですから。
短気な人は、釣れないとすぐに場所を移動したり、仕掛けや餌を変えたりして、あれこれ試してみるのです。
どうもそれが良いとのこと。
釣りは魚次第ですから、魚が何を考えているかは、魚に聞くのが一番。
ですから、あれこれ変えて、魚に「これでどうですか?」と聞くやり方が良いのでしょうね。
短気な人は、けっこう執念深いのではないでしょうか。
できない自分に腹を立てながらも、徹底的にやろうとしてしまう。
私は、そういう性格でした。
また、小学校の時の縄跳びの上達にも、執念深い性格が生かされました。
二重跳びが1つの関門だったのです。これが、なかなかできません。
やっと1回だけ跳べるようになっても、もうしゃがみ込むくらいに体勢が崩れているので、2回目以降が続きません。
「他の人はできているのに、どうしてぼくはできないんだろう?」
くやしくて、一所懸命に考えましたよ。
そうしたとき、ふと気づいたのです。跳べている人はリズムが良いと。
そこで、縄を持たずにリズムだけマネをしてみました。いわゆるエアー縄跳びですね。
「なるほど、こういう感じで連続で跳びながら、素早く縄を回せばいいんだな。」
この練習方法は効果的でしたね。二重跳びの疑似体験をしながらですから、すぐに上達しました。
他の人が跳べているのだから、自分にもできるはずと思っていました。
そして執念深く練習を続け、練習方法を工夫することで、できるようになったのです。
成功の秘訣は、多くの人がいろいろなことを言っていますが、まとめると2つしかありません。
1.始めること
2.続けること
たったこの2つだけなのです。
「始める」ためには、それがやりたいという動機が必要です。そして、できるはずだという信念も必要です。
「続ける」には、その「できるはずだ」という信念を維持させる意思が必要です。つまり執念深いことです。
まあいろいろな言葉で表現できますけどね。「あきらめない」とか、「努力する」とか。
言葉は、それぞれの人が一番ピンとくるものを使えば良いと思います。
ともかく始めて、成功するまで続ければ、必ず成功するのです。
もちろん、一定期間内に成果をあげようとすると、上手くいかない場合もあるでしょう。
でも期限を設けないなら、必ず成功すると思います。
ということで、何かに挑戦して小さな成功体験を積み重ねることも、また自信をつけることにつながります。
ただこれは本質的な自信ではないため、こういう体験をいくら積み重ねても、それだけではダメです。
でも、多少でも自信があれば、積極的に生きるのに役立つでしょう。
そしてその積極的に生きようとする中で、本当の自信、つまり根拠のない自信を身につけられるようになるのです。
やり始めたらとことんやらないと気が済まないので、あまり新しいことを始めたくないと思うくらいです。
たとえば掃除などは、始めると大掃除になってしまいます。だから子どもの頃は、1ヶ月くらい平気で掃除しませんでした。
親から散々に注意され、ワタゴミが床に広がってくるまで、やりませんでしたよ。
その代わり、やり始めたら徹底的にやります。気になってしょうがないのです。じゅうたんを剥がして、床を雑巾がけしましたから。
そんな執念深い性格が、意外にも成功に導いてくれるのです。
たとえば友だちと一緒に釣りに行ったときも、友だちは釣れないと飽きて帰ってしまうのです。
私一人が、「もうちょっとやってから帰るよ」と言って残ったものです。
すると、そこから釣れ出すんですよね。
あとになってわかったことですが、魚がよく釣れるのは、「朝まずめ」「夕まずめ」と呼ばれる朝夕の時間帯です。
夕方5時くらいから日没にかけて、よく釣れるわけです。
魚釣りを趣味にしている人が、「釣りは短気な人の方がよく釣る」と言います。
意外に思われるかもしれませんが、そういうこともあるのかなと思います。だって私は短気な方ですから。
短気な人は、釣れないとすぐに場所を移動したり、仕掛けや餌を変えたりして、あれこれ試してみるのです。
どうもそれが良いとのこと。
釣りは魚次第ですから、魚が何を考えているかは、魚に聞くのが一番。
ですから、あれこれ変えて、魚に「これでどうですか?」と聞くやり方が良いのでしょうね。
短気な人は、けっこう執念深いのではないでしょうか。
できない自分に腹を立てながらも、徹底的にやろうとしてしまう。
私は、そういう性格でした。
また、小学校の時の縄跳びの上達にも、執念深い性格が生かされました。
二重跳びが1つの関門だったのです。これが、なかなかできません。
やっと1回だけ跳べるようになっても、もうしゃがみ込むくらいに体勢が崩れているので、2回目以降が続きません。
「他の人はできているのに、どうしてぼくはできないんだろう?」
くやしくて、一所懸命に考えましたよ。
そうしたとき、ふと気づいたのです。跳べている人はリズムが良いと。
そこで、縄を持たずにリズムだけマネをしてみました。いわゆるエアー縄跳びですね。
「なるほど、こういう感じで連続で跳びながら、素早く縄を回せばいいんだな。」
この練習方法は効果的でしたね。二重跳びの疑似体験をしながらですから、すぐに上達しました。
他の人が跳べているのだから、自分にもできるはずと思っていました。
そして執念深く練習を続け、練習方法を工夫することで、できるようになったのです。
成功の秘訣は、多くの人がいろいろなことを言っていますが、まとめると2つしかありません。
1.始めること
2.続けること
たったこの2つだけなのです。
「始める」ためには、それがやりたいという動機が必要です。そして、できるはずだという信念も必要です。
「続ける」には、その「できるはずだ」という信念を維持させる意思が必要です。つまり執念深いことです。
まあいろいろな言葉で表現できますけどね。「あきらめない」とか、「努力する」とか。
言葉は、それぞれの人が一番ピンとくるものを使えば良いと思います。
ともかく始めて、成功するまで続ければ、必ず成功するのです。
もちろん、一定期間内に成果をあげようとすると、上手くいかない場合もあるでしょう。
でも期限を設けないなら、必ず成功すると思います。
ということで、何かに挑戦して小さな成功体験を積み重ねることも、また自信をつけることにつながります。
ただこれは本質的な自信ではないため、こういう体験をいくら積み重ねても、それだけではダメです。
でも、多少でも自信があれば、積極的に生きるのに役立つでしょう。
そしてその積極的に生きようとする中で、本当の自信、つまり根拠のない自信を身につけられるようになるのです。
2013年10月11日
あなたは必要とされている
「どうせ誰も、オレのことなんか必要と思ってないんだよ。オレなんか、どうなったっていいんだよ。」
そう自暴自棄になったことがあるでしょうか?
私もかつて、こういう思いを抱いたことがありました。
「そんなことをしたら、親御さんが悲しむわよ。」
そう諭されたとき、「親なんか、ちっとも僕のことを心配していないさ。」なんて思おうとしたことも。
たしかに、天涯孤独の人だと、誰からも必要とされてないと思うことはあるでしょう。
「いつ私がいなくなっても、誰も困りやしないんだから。」
誰かからの愛に依存し、愛されることに執着していたころ、この問題を解決する術(すべ)が見つかりませんでした。
誰かから愛されなければ、他人を愛そうという気力が湧いてこない。
でも、その最初に愛してくれる人って、本当にいるんだろうか?
親が死んだり、親からも見捨てられた子どもは、どうすれば良いのだろう?
その答を、半世紀近く生きたころにやっと見つけましたよ。
私たちは、必要性があってこの世に生を受けたのです。
親も必要と思ってくれてるかもしれませんが、仮にそうでなくてもかまいません。
私たちは皆、それぞれに必要性があって生まれてきました。
その必要性とは、神を癒やすことです。
こう表現すると、なんだか宗教ぽく聞こえるかもしれませんが、特定の宗教の話ではありません。
私たちがこの世に生まれてくるには、生まれてくるなりの理由があるということです。
私は子どものころ、よく考えたものです。
「ぼくはどうして、20世紀の終わりごろに、この日本という国の、その中でも都会とは程遠い島根県の、その中にあっても発展していない西部の片田舎で生まれたのだろう?」
私自身が、なぜこの時、この場所で生まれなければならなかったのか、それを知りたかったのです。
普通に考えれば、「そんなのたまたまだよ」という答もあると思うのですが、私はそうは思いませんでした。
なぜかはわかりませんが、ちゃんとした理由があると思っていたのです。
その理由があることが、やっとわかりました。理由がわかったわけではありませんが、必ず理由があると確信できたのです。
それは、私たちは皆、一人ひとり異なっているからです。必ず違いがあるのです。何億人の人がいようと、たとえ一卵性双生児でも、必ず違いがあります。
その個性は、どうして生じるのでしょう?
それは、違いがある必要性があるからです。
なぜ違っていなければならないのか?
それは違うことによって、違った人生を送れるからです。
あまりに当たり前に聞こえるかもしれませんが、それぞれが別々の人生を送る必要性があることが、以下の話から理解できると思います。
神、それを生命と呼んでも、宇宙霊と呼んでもかまいませんが、無限に大きな存在です。
その神は、自分自身を体験的に知りたくて、この世を創ったのだと、「神との対話」に書かれています。
絶対的な領域では、比較することができません。どんなに自分が素晴らしいとわかっていても、観念でしかないのです。
相対的な領域があって初めて、比較することで、自分の素晴らしさを体験できるのです。
しかし、比較対象は、「自分でないもの」でなければなりません。でも、本質的には神しか存在しないのです。
そこで神は、自分自身をより小さなものに分割しました。
けれどもそれだけではダメです。存在は複数になっても、すべてが同じだからです。
神の素晴らしさを知るためには、神でないものが必要です。でも、神でないものは存在しないのです。すべてが神ですから。
そこで神は、自分自身であることを忘れることにしました。
小さく分割された神は、自分(=神)であることを忘れることによって、神らしくない存在であることができるようになったのです。
そうすることで、それぞれの小さな神たちは、それぞれの中に神性を見つけて、その素晴らしさを体験し、称えることができるようになったのです。
ですから私たちは、それぞれが神の一部であり、神のその部分を体験するために生まれたのです。
その1つひとつの部分がなければ、神は全体として成り立ちません。
神にとって、どの部分も全体に匹敵するほど重要で、その素晴らしさを体験するために必要としているのです。
だからあなたは、間違いなく素晴らしい存在なのです。
たとえ他の誰があなたを否定し、「いなくてもかまわない」と言ったとしても、神はそうは思いません。
あなたにしか果たせない役割があるからです。だからあなたを、この世に送り出したのです。
たとえあなたが、どんな重いハンデを背負っていても、あるいは過去にどんな過ちを犯したとしても、神だけはあなたを見捨てません。
永遠の地獄に突き落とすような神ではないのです。そんな器量の小さい神は、本当の神ではないのです。
だから安心してください。あなたは、けして見捨てられることがありません。そんなことは論理的に不可能なのです。
あなたは、神そのものなのですから。
そう自暴自棄になったことがあるでしょうか?
私もかつて、こういう思いを抱いたことがありました。
「そんなことをしたら、親御さんが悲しむわよ。」
そう諭されたとき、「親なんか、ちっとも僕のことを心配していないさ。」なんて思おうとしたことも。
たしかに、天涯孤独の人だと、誰からも必要とされてないと思うことはあるでしょう。
「いつ私がいなくなっても、誰も困りやしないんだから。」
誰かからの愛に依存し、愛されることに執着していたころ、この問題を解決する術(すべ)が見つかりませんでした。
誰かから愛されなければ、他人を愛そうという気力が湧いてこない。
でも、その最初に愛してくれる人って、本当にいるんだろうか?
親が死んだり、親からも見捨てられた子どもは、どうすれば良いのだろう?
その答を、半世紀近く生きたころにやっと見つけましたよ。
私たちは、必要性があってこの世に生を受けたのです。
親も必要と思ってくれてるかもしれませんが、仮にそうでなくてもかまいません。
私たちは皆、それぞれに必要性があって生まれてきました。
その必要性とは、神を癒やすことです。
こう表現すると、なんだか宗教ぽく聞こえるかもしれませんが、特定の宗教の話ではありません。
私たちがこの世に生まれてくるには、生まれてくるなりの理由があるということです。
私は子どものころ、よく考えたものです。
「ぼくはどうして、20世紀の終わりごろに、この日本という国の、その中でも都会とは程遠い島根県の、その中にあっても発展していない西部の片田舎で生まれたのだろう?」
私自身が、なぜこの時、この場所で生まれなければならなかったのか、それを知りたかったのです。
普通に考えれば、「そんなのたまたまだよ」という答もあると思うのですが、私はそうは思いませんでした。
なぜかはわかりませんが、ちゃんとした理由があると思っていたのです。
その理由があることが、やっとわかりました。理由がわかったわけではありませんが、必ず理由があると確信できたのです。
それは、私たちは皆、一人ひとり異なっているからです。必ず違いがあるのです。何億人の人がいようと、たとえ一卵性双生児でも、必ず違いがあります。
その個性は、どうして生じるのでしょう?
それは、違いがある必要性があるからです。
なぜ違っていなければならないのか?
それは違うことによって、違った人生を送れるからです。
あまりに当たり前に聞こえるかもしれませんが、それぞれが別々の人生を送る必要性があることが、以下の話から理解できると思います。
神、それを生命と呼んでも、宇宙霊と呼んでもかまいませんが、無限に大きな存在です。
その神は、自分自身を体験的に知りたくて、この世を創ったのだと、「神との対話」に書かれています。
絶対的な領域では、比較することができません。どんなに自分が素晴らしいとわかっていても、観念でしかないのです。
相対的な領域があって初めて、比較することで、自分の素晴らしさを体験できるのです。
しかし、比較対象は、「自分でないもの」でなければなりません。でも、本質的には神しか存在しないのです。
そこで神は、自分自身をより小さなものに分割しました。
けれどもそれだけではダメです。存在は複数になっても、すべてが同じだからです。
神の素晴らしさを知るためには、神でないものが必要です。でも、神でないものは存在しないのです。すべてが神ですから。
そこで神は、自分自身であることを忘れることにしました。
小さく分割された神は、自分(=神)であることを忘れることによって、神らしくない存在であることができるようになったのです。
そうすることで、それぞれの小さな神たちは、それぞれの中に神性を見つけて、その素晴らしさを体験し、称えることができるようになったのです。
ですから私たちは、それぞれが神の一部であり、神のその部分を体験するために生まれたのです。
その1つひとつの部分がなければ、神は全体として成り立ちません。
神にとって、どの部分も全体に匹敵するほど重要で、その素晴らしさを体験するために必要としているのです。
だからあなたは、間違いなく素晴らしい存在なのです。
たとえ他の誰があなたを否定し、「いなくてもかまわない」と言ったとしても、神はそうは思いません。
あなたにしか果たせない役割があるからです。だからあなたを、この世に送り出したのです。
たとえあなたが、どんな重いハンデを背負っていても、あるいは過去にどんな過ちを犯したとしても、神だけはあなたを見捨てません。
永遠の地獄に突き落とすような神ではないのです。そんな器量の小さい神は、本当の神ではないのです。
だから安心してください。あなたは、けして見捨てられることがありません。そんなことは論理的に不可能なのです。
あなたは、神そのものなのですから。
●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。