斎藤一人さんがFacebookページに、自信について載せておられます。
「私は自分を信じています
信じているからどんな問題ものりこえられる
ひとり」
やはり素晴らしいですね。
どんな方法を使おうと、すべてが希望通りになるなんてことはありません。
たとえ最終的には目標を達成するとしても、その過程では紆余曲折があるのです。
そういう想定外のことが起こるから人生は楽しいとも言えます。
斎藤一人さんは、自分を信じているから、そういう紆余曲折があっても乗り越えていけると言うのです。
その投稿を幸せ実践塾のFacebookページでシェアしたところ、「自信が持てません」というコメントをいただきました。
たしかに、わかっているんだけど自信が持てないという人は、多いだろうと思います。
私もそうでしたし、だから多くの人が幸せになれないのですから。
そこで私は、視点を変えてみたらどうかとアドバイスしました。
「自信が持てる」とか「自信が持てない」という言い方は、何かに依存している感じがします。
それをやめて、「自信を持つ」か「自信を持たない」かに変えてみてはどうかと。
そうすると、自分の自由意志で決めている感じになります。
視点を変えてみることで、自分がそれまで依存していたということに気づく。
これが大事だと思ったのです。
そこでは説明しませんでしたが、依存してしまうのは心に不安があるからです。
不安があるのは、何かの必要性を感じているからです。
特に、自分の生存に対する必要性を感じている間は、この不安から完全に逃れることはできません。
この必要性を完全になくすということは、かなり難しいと思います。
だって、この世はあまりに現実的で、とても幻想には思えませんからね。
水がなければ、空気がなければ、それだけで生命が絶たれてしまう。そう感じたとしても、不思議ではありません。
それでも修行などによって、必要性を減らすことは可能です。
ですから昔の武士は、殿様から「死ね!」と言われれば、何の抗弁もせずに切腹することさえ可能だったのです。
私はこの幸せ実践塾で、必要性が完全にないことを説明しています。
ただ、それが納得できるかどうかは別問題です。
理論を学びながら、実践を繰り返しながら、徐々に必要性を減らしていけばよいと思います。
話を戻しますと、自信を持つかどうか決めているのは自分なのだ、ということにまず気づく必要があります。
それがわからないと、そもそも「自信を持つ」とは考えませんからね。
「自信を持てる」かどうかという視点で見ている限り、他の何かに依存してしまいます。
そうすると翻弄されるので、自信が持てたように感じても、何かあると簡単に喪失してしまいます。
これを視点を変えて、依存する必要性がないのだと理解すると、やっと「自信を持つ」ことへのチャレンジが始まるのです。
どれだけ依存を捨て、自分だけを拠り所にできるか。そういう自分との戦い(本当は戦いではありませんけど)になるのです。
2013年08月11日
2013年08月12日
天翔ける日本武尊
これを単なる歴史小説と呼んでよいものか・・・。
読み終えた今、私の中にそういう思いが湧いてきます。
それはもちろん、「否、単なる小説ではない」という答を伴って。
作者は神渡良平さん。日本の精神的な拠り所でもある神話を、小説として現代に蘇らせました。
ただし、それは古語で書かれた神話を現代語訳したというものではありません。
古事記や日本書紀に描かれた神話の中に、人間の営みがあったことを表現しようとされています。
その根拠としては、「ホツマツタエ(秀真伝)」という縄文文献をあげておられます。
古事記や日本書紀は、新政権が自らを正当化するために、書き換えられたのではないかと判断されたのでしょう。
これにより、天照大神(あまてらすおおみかみ)は男性のすめら尊(みこと)として、日本を実際に統治したことになっています。
日本武尊(やまとたけるのみこと)も、世継ぎ候補として、西の熊襲(くまそ)を征伐し、次は東を従えに行き、最後は大和(やまと)に戻れずに死んでしまいます。
その過程で様々な物語があり、この小説では、それがすべて日本武尊の成長につながっているという視点から書かれているのです。
天皇には、神と人とをつなぐ役目がある。
だから自らに厳しくし、身を清め、心を磨いて、民草の親とならなければならない。
日本武尊は、そういう自分の立場を徐々に自覚しながら、立派な世継ぎとして成長していくのです。
神渡さんは、自ら日本各地を訪れ、この小説のための取材をされています。
伊勢神宮に参拝するときの詳細な描写がありますが、これなども神渡さん自身が何度も参拝された経験があるから書けることだと思います。
そして最後に、人とは何かということを、日本武尊の死に際の言葉として、的確に表現されていました。
「やっと気づいたよ、人はみんな神なんだって。神が人という衣を着て地上に現れ、それぞれに与えられている境遇で道を立てるのが人生なんだ。日本では古来、われわれを霊止(ひと)と呼んできたが、それはわれわれの本質は神の分霊(わけみたま)であって、肉体はその入れ物でしかないと直感していたからなんだ。
だから与えられている境遇に不満をいうのではなく、その状況の中で立派に道を開き、人としての証を立てる−−これが人生なのだ。」(下 p.268 - 269)
この部分を読んだとき、背筋がゾクゾクッとしました。
神渡さんの洞察というよりも、おそらく古代日本では、こういう見方をしていたのでしょう。
だから日本では昔から、死んだ人を神として祭ったのです。
また、「終わりに」で書かれていたので気づいたのですが、天照大神と弟の素戔嗚命(すさのうのみこと)との確執に関して、驚くべき解釈がありました。
兄を恨み、グレて大暴れした素戔嗚命は、高天原(たかまがはら)を追い出され、出雲で八岐の大蛇(やまたのおろち)を退治します。
その功績によって、再び宮中に戻ることを許されたというのが神話です。
しかしそこには、聖書にある兄カインと弟アベルの物語にあるような、持てる者(愛された者)と持たざる者(愛されなかった者)との葛藤があり、天照と素戔嗚はその葛藤を乗り越えたという解釈があったのです。
「ところがその葛藤が、日本の場合には、幸いなことに、歴史の当初において、天照大神と素戔嗚命の間で乗り越えられ、歴史的和解に至っていた。だからこそ「和をもって貴しとなす」ことが受け入れられる精神的土壌ができ上がったのだ。」(下 p.285)
世界を滅亡から救えるのは日本しかない。
そういうことを言う人がけっこういるようですが、私もそんな気がします。
キリスト教もイスラム教も、どちらもユダヤ教から生み出された兄弟のようなもの。
それがその葛藤を乗り越えられず、地球を滅ぼさんばかりの争いを続けています。
天照大神と素戔嗚命は、どうやってその葛藤を乗り越えることができたのか?
日本人としてその歴史を知ることは、世界を救う日本になるための第一歩なのかもしれません。
叱ることは教育に必要ですか?
またまた面白いニュースがありました。
今度は、万引きした子を叱るかどうかという議論です。
尾木ママこと教育評論家の尾木直樹さんは、「叱らない子育て論」を提唱している方。
その尾木ママが講演の中で、次のようなことを言われたのだとか。
「万引きしても怒鳴らず、『どうしたの?』と優しく声をかけて」
それを福井新聞が報道したところ、ネットで批判されるようになったようです。
万引きは犯罪なのだから、それは叱らないとダメだ。
悪いことを悪いとわからせるために、叱ることが必要だ。
だいたい、そのような意見です。
これに対して、尾木ママを擁護する意見もあるそうです。
怒るのは理由を聞いてからでも遅くない。
頭ごなしに叱るのが悪いと言っているだけ。
こんな感じです。
叱るのは絶対にダメなのか、それとも、叱り方の問題なのか。
結局、その真意がどうだったか、本人には確認できなかったようですね。
さて、前回の体罰の問題もそうですが、根本の問題が理解されていないと感じます。
「叱る」というのは、どういう意味か?ということです。
叱ることの本質を知ることで、その根本問題が見えてきます。
「怒ると叱るは違う」という人がいます。
たしかに、「怒る」は感情を爆発させることで、「叱る」は感情的にならないことだ、とも言えそうです。
では、感情を爆発させなければ良いのでしょうか?
尾木ママへの意見を見てください。
悪いことを悪いとわからせるために叱るべきだと言っていますよね。
悪いことを悪いとわからせるのに、どうして叱ることが必要なのでしょう?
もし理屈を教えたいなら、その理屈を納得できるように説明したら、それで良いではありませんか。
それなのに「説明」と言わずに「叱る」と表現するのはなぜでしょう?
擁護する側の意見も、怒るのは子どもの気持ちを聞いてからというものがあります。
子どもの気持ちを聞いた上で、なお怒らなくてはならない。
それが叱るということでしょうか。
このような意見から、叱るという言葉が意味するものが見えてきます。
つまり、「怒る」であろうと「叱る」であろうと、相手を強制しようとしていますよね。
相手に理屈を教え、納得させるだけではダメなのでしょう。
もし相手が納得しない場合は、恐怖心とか苦痛を与えてでも受け入れさせずにはおかない。
「叱る」という言葉には、そういう思いがあるのではないでしょうか?
もしそうなら、「叱る」とは相手を強制することです。
つまり、自由を奪うことです。
強制的に子どもに価値観を植え付けること。
それが「叱る」という行為なのです。
尾木ママはおそらく、それがダメだと言っているのでしょう。
私も同感です。
体罰の本質も強制でした。
強制することが問題だと気づかないと、体罰や叱ることの問題がわからなくなってしまうでしょう。
強制したら自律心が育ちません。
それが重要な問題なのです。
自分が、やってはいけないと考えたからやらないのではなく、誰かから叱られるからやらない。
そういうようになります。
つまり、叱られなければOKなわけですから、今度はバレないようにやるでしょう。
万引きは犯罪だから苦痛を与えて良いというのは、何も考えずに現状を追認しているだけです。
犯罪には罰を与えるものだと、何も考えずに思っているのです。
罰を与えれば、犯罪はなくなりますか?
もしなくなるなら、再犯なんてあり得ない話ではありませんか。
しかし、一度でも犯罪を犯した人の方が、犯罪への垣根が低くなります。
いくら罰を与えて脅しても、自律心のない人には何の効果もないのです。
したがって、それを言うなら犯罪だからこそ叱ってはいけないのです。
おそらく本人だって、それが犯罪だと知っていたはずです。
でも、それをやってしまうほどの動機があった。
そこを解決しない限り、その子の自律心は育ちません。
寂しくて、注目されたかったのかもしれません。
誰かから指示されて、断れなかったのかもしれません。
いずれにせよ、その子は何かに依存していて、自律心が育っていないのです。
何か問題があったとき、すぐに他人を批判するのは、自律心が育っていない証拠です。
不平不満から愚痴をこぼすのも、自律心が育っていないからです。
ぜんぶ他人のせい、環境のせいと考えるのは、それらに依存しているからです。
その依存心をなくさないと、自律心があるとは言えないのです。
自律心がない人は、他人の目ばかり気にします。
ルールがどうなっているかを気にします。
つまり、世間の価値観にしたがっていれば自分が責められないと感じているのです。
そのもの自体が善いか悪いかを、自分で決められないのです。
自分がルールを破ったにもかかわらず、「他の車だってスピードを出している」と言って逆ギレする人は、自律心がない人です。
そういう人は、バレなければ良いと考えて、平気で浮気をします。
浮気をすることが悪いからやらないと考えるのではなく、浮気は悪いと知っていてもやりたいから、バレなければ良いだろうと考えるのです。
同じスピード違反で捕まっても、自分は運が悪かっただけだと考える人は、まだ自律心があります。
たしかに法律違反ですが、自分では、この場所でこのくらいのスピードなら問題ないと判断したのでしょう。
もちろん法律違反ですから、ルールにしたがって処罰されます。
でも、それだけのことです。
ルールはルール。
それに従うかどうかは自分の心が決める。
それが自律した人の考え方です。
自律心のある人は、自分のルールを自分で決めます。
ですから、自分が理屈で納得したことには従うのです。
たとえば飲酒運転ですが、自律心のある人でも、これくらいのアルコールなら大丈夫だと考えるかもしれません。
しかしその後、様々な情報が入ってきます。
ちょっとしたアルコールでも、反射神経の活動が鈍ることがわかります。
飲酒運転で事故を起こした場合、制裁が大きいこともわかります。
そうなったとき、それでも飲酒した状態で運転するメリットがあるのかどうかを冷静に判断するでしょう。
その結果、やはり飲酒運転はやめようと決断するかもしれません。
そうなったらもう、感情に流されません。
だって、自分が決めたルールなのですから。
誰かに知られるかどうかなど、どうでも良いのです。
そのルールを守ることが自分らしいことかどうか。
それだけが問題になるのです。
体験というのは強力です。
万引きという体験を生かすには、そこでしっかりと感じて考えることです。
その気持ち悪さをごまかさずに感じ切り、他の何かのせいにすることをやめる。
そうしたなら、どうしてまたそんな体験をしたいと考えるでしょうか。
考えるはずがありません。
恥ずかしながら私も、万引きを体験しています。
それはブログに書いた通りです。
あのときは想像力が足りなくて、万引きされる側の気持ちがわかりませんでした。
でも後になって、何度も何度もその体験を思い出す中で、私はもう二度とやるまいと決めたのです。
あのとき、もし誰かに見咎められて叱られたら、私は言い訳をしたかもしれません。
そしてその言い訳を何度も繰り返すうちに、その言葉で自分自身を洗脳したでしょう。
「だって仕方ないじゃないか。盗まれる方だって悪いんだよ。」
もし私に自律心がなかったら、私が盗人になることさえ世間や周りの他人のせいにしたでしょう。
教育に、怒ることはもちろん、叱ることも必要ありません。
ましてや体罰という名の暴力も、まったく必要ではありません。
それらが必要なのは、緊急避難的に何かを防御するときだけです。
相手の暴力を止めるために暴力を用いる。
現状ではそれが必要になるでしょう。
しかしそういう防御は、教育とは何の関係もないものです。
教育は、相手の自律心を育てること。
尾木ママが言うように、愛情をたっぷりかけて育ててあげることだと思うのです。
今度は、万引きした子を叱るかどうかという議論です。
尾木ママこと教育評論家の尾木直樹さんは、「叱らない子育て論」を提唱している方。
その尾木ママが講演の中で、次のようなことを言われたのだとか。
「万引きしても怒鳴らず、『どうしたの?』と優しく声をかけて」
それを福井新聞が報道したところ、ネットで批判されるようになったようです。
万引きは犯罪なのだから、それは叱らないとダメだ。
悪いことを悪いとわからせるために、叱ることが必要だ。
だいたい、そのような意見です。
これに対して、尾木ママを擁護する意見もあるそうです。
怒るのは理由を聞いてからでも遅くない。
頭ごなしに叱るのが悪いと言っているだけ。
こんな感じです。
叱るのは絶対にダメなのか、それとも、叱り方の問題なのか。
結局、その真意がどうだったか、本人には確認できなかったようですね。
さて、前回の体罰の問題もそうですが、根本の問題が理解されていないと感じます。
「叱る」というのは、どういう意味か?ということです。
叱ることの本質を知ることで、その根本問題が見えてきます。
「怒ると叱るは違う」という人がいます。
たしかに、「怒る」は感情を爆発させることで、「叱る」は感情的にならないことだ、とも言えそうです。
では、感情を爆発させなければ良いのでしょうか?
尾木ママへの意見を見てください。
悪いことを悪いとわからせるために叱るべきだと言っていますよね。
悪いことを悪いとわからせるのに、どうして叱ることが必要なのでしょう?
もし理屈を教えたいなら、その理屈を納得できるように説明したら、それで良いではありませんか。
それなのに「説明」と言わずに「叱る」と表現するのはなぜでしょう?
擁護する側の意見も、怒るのは子どもの気持ちを聞いてからというものがあります。
子どもの気持ちを聞いた上で、なお怒らなくてはならない。
それが叱るということでしょうか。
このような意見から、叱るという言葉が意味するものが見えてきます。
つまり、「怒る」であろうと「叱る」であろうと、相手を強制しようとしていますよね。
相手に理屈を教え、納得させるだけではダメなのでしょう。
もし相手が納得しない場合は、恐怖心とか苦痛を与えてでも受け入れさせずにはおかない。
「叱る」という言葉には、そういう思いがあるのではないでしょうか?
もしそうなら、「叱る」とは相手を強制することです。
つまり、自由を奪うことです。
強制的に子どもに価値観を植え付けること。
それが「叱る」という行為なのです。
尾木ママはおそらく、それがダメだと言っているのでしょう。
私も同感です。
体罰の本質も強制でした。
強制することが問題だと気づかないと、体罰や叱ることの問題がわからなくなってしまうでしょう。
強制したら自律心が育ちません。
それが重要な問題なのです。
自分が、やってはいけないと考えたからやらないのではなく、誰かから叱られるからやらない。
そういうようになります。
つまり、叱られなければOKなわけですから、今度はバレないようにやるでしょう。
万引きは犯罪だから苦痛を与えて良いというのは、何も考えずに現状を追認しているだけです。
犯罪には罰を与えるものだと、何も考えずに思っているのです。
罰を与えれば、犯罪はなくなりますか?
もしなくなるなら、再犯なんてあり得ない話ではありませんか。
しかし、一度でも犯罪を犯した人の方が、犯罪への垣根が低くなります。
いくら罰を与えて脅しても、自律心のない人には何の効果もないのです。
したがって、それを言うなら犯罪だからこそ叱ってはいけないのです。
おそらく本人だって、それが犯罪だと知っていたはずです。
でも、それをやってしまうほどの動機があった。
そこを解決しない限り、その子の自律心は育ちません。
寂しくて、注目されたかったのかもしれません。
誰かから指示されて、断れなかったのかもしれません。
いずれにせよ、その子は何かに依存していて、自律心が育っていないのです。
何か問題があったとき、すぐに他人を批判するのは、自律心が育っていない証拠です。
不平不満から愚痴をこぼすのも、自律心が育っていないからです。
ぜんぶ他人のせい、環境のせいと考えるのは、それらに依存しているからです。
その依存心をなくさないと、自律心があるとは言えないのです。
自律心がない人は、他人の目ばかり気にします。
ルールがどうなっているかを気にします。
つまり、世間の価値観にしたがっていれば自分が責められないと感じているのです。
そのもの自体が善いか悪いかを、自分で決められないのです。
自分がルールを破ったにもかかわらず、「他の車だってスピードを出している」と言って逆ギレする人は、自律心がない人です。
そういう人は、バレなければ良いと考えて、平気で浮気をします。
浮気をすることが悪いからやらないと考えるのではなく、浮気は悪いと知っていてもやりたいから、バレなければ良いだろうと考えるのです。
同じスピード違反で捕まっても、自分は運が悪かっただけだと考える人は、まだ自律心があります。
たしかに法律違反ですが、自分では、この場所でこのくらいのスピードなら問題ないと判断したのでしょう。
もちろん法律違反ですから、ルールにしたがって処罰されます。
でも、それだけのことです。
ルールはルール。
それに従うかどうかは自分の心が決める。
それが自律した人の考え方です。
自律心のある人は、自分のルールを自分で決めます。
ですから、自分が理屈で納得したことには従うのです。
たとえば飲酒運転ですが、自律心のある人でも、これくらいのアルコールなら大丈夫だと考えるかもしれません。
しかしその後、様々な情報が入ってきます。
ちょっとしたアルコールでも、反射神経の活動が鈍ることがわかります。
飲酒運転で事故を起こした場合、制裁が大きいこともわかります。
そうなったとき、それでも飲酒した状態で運転するメリットがあるのかどうかを冷静に判断するでしょう。
その結果、やはり飲酒運転はやめようと決断するかもしれません。
そうなったらもう、感情に流されません。
だって、自分が決めたルールなのですから。
誰かに知られるかどうかなど、どうでも良いのです。
そのルールを守ることが自分らしいことかどうか。
それだけが問題になるのです。
体験というのは強力です。
万引きという体験を生かすには、そこでしっかりと感じて考えることです。
その気持ち悪さをごまかさずに感じ切り、他の何かのせいにすることをやめる。
そうしたなら、どうしてまたそんな体験をしたいと考えるでしょうか。
考えるはずがありません。
恥ずかしながら私も、万引きを体験しています。
それはブログに書いた通りです。
あのときは想像力が足りなくて、万引きされる側の気持ちがわかりませんでした。
でも後になって、何度も何度もその体験を思い出す中で、私はもう二度とやるまいと決めたのです。
あのとき、もし誰かに見咎められて叱られたら、私は言い訳をしたかもしれません。
そしてその言い訳を何度も繰り返すうちに、その言葉で自分自身を洗脳したでしょう。
「だって仕方ないじゃないか。盗まれる方だって悪いんだよ。」
もし私に自律心がなかったら、私が盗人になることさえ世間や周りの他人のせいにしたでしょう。
教育に、怒ることはもちろん、叱ることも必要ありません。
ましてや体罰という名の暴力も、まったく必要ではありません。
それらが必要なのは、緊急避難的に何かを防御するときだけです。
相手の暴力を止めるために暴力を用いる。
現状ではそれが必要になるでしょう。
しかしそういう防御は、教育とは何の関係もないものです。
教育は、相手の自律心を育てること。
尾木ママが言うように、愛情をたっぷりかけて育ててあげることだと思うのです。
2013年08月13日
また妻が田舎に帰りました
今朝7時の飛行機で、妻が田舎に帰りました。
先月の24日の田舎に帰り、今月の3日に戻ってきたばかりなのですが、またです。
ただ今度は、お義父さんが危篤だとのこと。妻は「どうしたらいいの?」と叫びながら狼狽していました。
昨夜はあまり寝ることもできず、今朝4時過ぎに起きて空港へ行き、また妻を見送ってきました。
今度は少し早かったのでアパートに戻り、小一時間ほど寝たので、少しは楽です。
妻のお義父さんは、たしか私より4つか5つくらい上なだけです。まだ60歳になっていません。
最近はお酒もビールも飲まないと聞いていましたが、4月に田舎に行ったときは、ソンクラーンのお祭りということもあって、一緒にビールを飲みました。
そんなに健康を害しているようにも思えなかったのですが、何があったのでしょう。
妻は多くを語らないし、仮に説明をしたとしても、タイ語では私がほとんど理解できないでしょう。
わかったのは危篤だということだけ。
とりあえず妻が先に田舎に帰り、様子を見ることになっています。
もし万が一、亡くなられるようなことがあれば、私も葬儀に出るために田舎に行くことになると思います。
人の命は、いつ、どこで失われるか、まったくわかりません。
生まれた瞬間から死に向かって歩むのが人生だとも言いますが、誰にも等しく平等に訪れるのが死です。
誰が先かという違いはあっても、必ず死にます。死亡率100%などと言う人もいますよね。
そういえば今週号のみやざき中央新聞にあった野澤卓央さんの講演録に、家族、財産、友だち、恋人など、大切なものはいずれ必ず失うのだ、ということが書かれていました。
「自分が死ぬときには必ず手放さなければいけません。どれだけ頑張って手に入れたものも必ず手放すということです。」
まるであるのが当然かのように思っているもの、自分の所有物であるかのように感じているもの、そういうものをすべて手ばなすこと。それが死だと言うのです。
身近な人の死を考えると、たしかにそうだなと改めて思います。
妻のお義父さんが今回は助かったとしても、必ずいつかは死にます。
そう考えると、その命の大切さを感じさせてくれたわけですから、昨夜からのドタバタも、悪いことではないと思います。
もちろん、今それを妻に言ったところで、受け入れることはできないでしょうけど。
<お知らせ>
このブログも1年以上になり、ずいぶんと書きたいことを書いてきました。
幸せ実践塾の「幸せになる方法」を知りたい方は、過去ログをご覧いただくだけで、充分な内容があると思います。
なのでこれからは、比重をメルマガ「SJ通信」の方へ移したいと思います。
ブログも更新しますが、内容的には軽いものになる予定です。
どうぞ、メルマガ「SJ通信」にご登録くださいますよう、お願いします。
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先月の24日の田舎に帰り、今月の3日に戻ってきたばかりなのですが、またです。
ただ今度は、お義父さんが危篤だとのこと。妻は「どうしたらいいの?」と叫びながら狼狽していました。
昨夜はあまり寝ることもできず、今朝4時過ぎに起きて空港へ行き、また妻を見送ってきました。
今度は少し早かったのでアパートに戻り、小一時間ほど寝たので、少しは楽です。
妻のお義父さんは、たしか私より4つか5つくらい上なだけです。まだ60歳になっていません。
最近はお酒もビールも飲まないと聞いていましたが、4月に田舎に行ったときは、ソンクラーンのお祭りということもあって、一緒にビールを飲みました。
そんなに健康を害しているようにも思えなかったのですが、何があったのでしょう。
妻は多くを語らないし、仮に説明をしたとしても、タイ語では私がほとんど理解できないでしょう。
わかったのは危篤だということだけ。
とりあえず妻が先に田舎に帰り、様子を見ることになっています。
もし万が一、亡くなられるようなことがあれば、私も葬儀に出るために田舎に行くことになると思います。
人の命は、いつ、どこで失われるか、まったくわかりません。
生まれた瞬間から死に向かって歩むのが人生だとも言いますが、誰にも等しく平等に訪れるのが死です。
誰が先かという違いはあっても、必ず死にます。死亡率100%などと言う人もいますよね。
そういえば今週号のみやざき中央新聞にあった野澤卓央さんの講演録に、家族、財産、友だち、恋人など、大切なものはいずれ必ず失うのだ、ということが書かれていました。
「自分が死ぬときには必ず手放さなければいけません。どれだけ頑張って手に入れたものも必ず手放すということです。」
まるであるのが当然かのように思っているもの、自分の所有物であるかのように感じているもの、そういうものをすべて手ばなすこと。それが死だと言うのです。
身近な人の死を考えると、たしかにそうだなと改めて思います。
妻のお義父さんが今回は助かったとしても、必ずいつかは死にます。
そう考えると、その命の大切さを感じさせてくれたわけですから、昨夜からのドタバタも、悪いことではないと思います。
もちろん、今それを妻に言ったところで、受け入れることはできないでしょうけど。
<お知らせ>
このブログも1年以上になり、ずいぶんと書きたいことを書いてきました。
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2013年08月15日
妻の実家へ行きます
一昨日、妻が実家へ帰ったことを書きました。
お義父さんが危篤だという知らせがあったからです。
その日の午後、永眠されたという知らせが届きました。
まだ還暦にも達していない57歳くらいの若さで、こんなにあっけなく亡くなられるとは想像もしていませんでした。
本当に人の命は、いつ尽きるものかわかりません。
親鸞上人は、次のような歌を詠んでいます。
明日ありと 思ふ心のあだ桜 夜半(よわ)に嵐の 吹かぬものかは
人は、いつどこで死ぬかわかりません。
けれど、死亡率100%と言われるように、必ず死にます。
誕生と同時に、死に向かって歩いているのが人生。
そう言うこともできるのです。
そう考えると、今というこの瞬間を、あだや疎かにはできませんね。
と言うことで、私も明日、妻の実家へ行きます。葬儀に出席するためです。
タイの葬儀は、前にも書いたように、数日間に渡って行われます。
その最終日が火葬の儀で、遺体を火葬するのです。
お義父さんの火葬は、17日(土)だそうですから、それが終わった翌日、私はバンコクに戻ってきます。
したがって、その間はブログの更新もメルマガの発行もできませんので、ご容赦ください。
また、前回の記事でも書いたように、これからはメルマガに比重を移します。
私の熱意のこもった文章を読みたい(?)と思われる方は、ぜひメルマガ「SJ通信」をご購読くださいね。
これまでは週に1回くらいの発行でしたが、頻度も増やそうと思っています。
→メルマガ「SJ通信」への登録はこちらからどうぞ
お義父さんが危篤だという知らせがあったからです。
その日の午後、永眠されたという知らせが届きました。
まだ還暦にも達していない57歳くらいの若さで、こんなにあっけなく亡くなられるとは想像もしていませんでした。
本当に人の命は、いつ尽きるものかわかりません。
親鸞上人は、次のような歌を詠んでいます。
明日ありと 思ふ心のあだ桜 夜半(よわ)に嵐の 吹かぬものかは
人は、いつどこで死ぬかわかりません。
けれど、死亡率100%と言われるように、必ず死にます。
誕生と同時に、死に向かって歩いているのが人生。
そう言うこともできるのです。
そう考えると、今というこの瞬間を、あだや疎かにはできませんね。
と言うことで、私も明日、妻の実家へ行きます。葬儀に出席するためです。
タイの葬儀は、前にも書いたように、数日間に渡って行われます。
その最終日が火葬の儀で、遺体を火葬するのです。
お義父さんの火葬は、17日(土)だそうですから、それが終わった翌日、私はバンコクに戻ってきます。
したがって、その間はブログの更新もメルマガの発行もできませんので、ご容赦ください。
また、前回の記事でも書いたように、これからはメルマガに比重を移します。
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これまでは週に1回くらいの発行でしたが、頻度も増やそうと思っています。
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2013年08月19日
イサン地方の葬式に参列しました
前回の記事「妻の実家へ行きます」に書いたように、妻の実家の葬式に参列して来ました。
タイの葬式は何度か出席したことがありますが、それはすべてバンコクで行われた葬式です。
それとはかなり違います。やっぱり田舎の葬式は濃いです。
妻の実家はイサン地方ですが、写真にあるようにかなり田舎です。
メインの大通りや街は舗装されていますが、それ以外はこんな感じで未舗装で、穴ぼこだらけです。
イサン地方特有の粘土質の赤土。細かな土の粒子は車も人も赤く染めてしまいます。
この時期は雨季なので、田んぼの稲も、他の野原の草も、青々と茂っていました。
葬式は、妻の実家で行われました。お寺で行われるバンコクの葬式とは、ちょっと様子が違います。
おそらくバンコクは家も狭くなったので、自宅で葬式や結婚式などができなくなって変わったのでしょう。
高床式の20畳くらいはあると思われる部屋の中央に、飾り棺が置かれています。飾り棺の中に棺があります。
上座は一段高くなっており、そこにお坊さんが並びます。
その前で家族や親族など、親しい人が座って式が行われます。
これは火葬の日の出棺前の写真なので、お坊さんが11人来ていますが、その前の数日は、朝と夕方にお坊さんが数人やってきて、読経をして帰ります。
近所の人達は、この家の周りにテントを建てるなどして椅子が並べてあり、そこに座って様子を見守ります。
こうやって毎日100〜200人の人がやってきて、この家の周りが賑やかになります。
お坊さんの読経が終わると、参列者に食事や飲み物を振る舞います。
近所の人は、それが目当てで来ているのではないかと思うほど。
いやおそらく、呼ぶ方も飲食を振る舞うことで人を集めているし、集まる人達も、それが目当てなのでしょう。
そうやって賑やかで忙しい1週間ほどを過ごすことで、家族は故人を亡くした悲しみに落ち込むことなく、時間を過ごせるのです。
火葬は、午後1時くらいから始まりました。
家で読経を済ませた後、出棺となります。
ピックアップトラックに棺を載せ、そこから紐を伸ばして、参列者が引いていくという形で火葬場へ向かいます。
行列の先導は、1人の男性が歩いていました。行列の進行速度を合わせる目的でしょう。
その後に先導車が続き、物悲しげな音楽を鳴らしながらゆっくりと進みます。
その先導車と最後の棺を載せた車との間に紐が渡されていて、それを参列者が引いて歩いて行きます。
途中、爆竹や音が出るだけの花火などを鳴らすのは、魔除けの意味もあるのでしょう。
また、賑やかにする意味もあると思います。
と言うのは、火葬場まで歩いて行く途中や火葬場でも、飴や金銀の紙に包まれたコインをバラまくのです。
それを子どもばかりか大人も一緒になって、キャーキャー言いながら拾います。
とても葬式とは思えない賑やかさです。棟上げ式の餅撒きを想像していただけると、様子がわかると思います。
火葬場に到着すると、壁のない礼拝所のような建物がありました。
壁がないのはお金がないからではなく、暑いから風通しを良くするためでしょうね。
ここでもお坊さんが前の一段高いところに座り、読経や故人の紹介が行われます。
故人の紹介では、いつ生まれて、誰といつ結婚し、子どもは誰でなどと経歴が話されます。
その中で、娘と結婚した相手として、私の名前も紹介されました。「夫、アカキアツチと結婚」という感じで。
タイ人にとっては、「シ」と「チ」の区別がつかないので、なかなかきれいに「アツシ」と発音できる人は少ないです。
話す人が言いにくそうだったため、周りからも笑い声が漏れ、場が和みました。
そしてお坊さん一人ひとりに、黄色い衣やお金をお布施として渡す儀式が行われます。
バンコクのお寺では、祭壇の上に上がって棺の前に置き、それを裏から出てこられたお坊さんが持ち去って行くのですが、だいたい同じようなものでしょう。
読経やお布施の儀式が終わると、いよいよ火葬です。
でも、どこに火葬場が・・・と思ったら、礼拝所からちょっと離れたところ、つまり野原に棺が置かれていました。
ブロックかコンクリートで台が作られており、その上に棺が置いてあります。どうやら野焼きのようです。
何かの飾りのようなもの(カンナくずのような薄い木か何かで作った造花?)を受け取り、故人と最後の別れをしに棺のところへ行って、その飾りのようなものを棺の中や外に置きます。
このとき棺の蓋が開けられているので、故人の顔を拝むことができます。
日本と違い、死に化粧をしていない個人の顔は、どす黒く変色し、とても生前と同じとは思えませんでした。
防腐剤を大量に使って腐らないようにすると聞いたことがありますが、おそらくそうなのでしょう。
そうでなければ暑いタイで、遺体を1周間も常温に置いておけませんから。
故人との最後の別れを済ませると、すぐに水で手を洗い清めます。
日本なら塩をまいて清めるのでしょうけど、タイでは水で流すようです。
この後、家に戻ってからはアップ・ナーム(水浴び=シャワー)をさせられました。
これも不浄のものを洗い清める意味があるそうです。
いよいよ火葬です。
棺の周りに丸太を立てかけて櫓状にしていきます。
そして油をまいてから、火を放つのです。
下から燃やすわけでもないので、かなり熱効率が悪そうな気がします。
重油などで焼く日本の火葬場なら、2時間もすれば骨と灰になってしまいますが、これでは丸太が全部燃えても、骨がかなり残りそうです。
ただ、日本なら遺族で骨を拾うのですが、こちらではそれは一部の男衆の仕事のようでした。
それで私たちはそこにはまったく立ち会わなかったので、燃え方がどうなのか確認できませんでした。
翌日、その男衆らによって、遺骨を墓所(納骨場所)に納めたようです。
これですべて終わりかと思ったら、それからも家にお坊さんを読んで読経をしてもらう儀式が続くのだとか。
集まる人は減っていくのでしょうけど、あと数日は飲食を振る舞うのだそうです。
亡くなった妻の父親は54歳だったそうです。私より3つ上ですね。
死因は破傷風だそうです。
よくわかりませんが、傷からウイルスが入って来て死に至る病気だとのことなので、おそらく破傷風で間違いないかと。
謹んでお義父さんのご冥福をお祈りします。
タイの葬式は何度か出席したことがありますが、それはすべてバンコクで行われた葬式です。
それとはかなり違います。やっぱり田舎の葬式は濃いです。
妻の実家はイサン地方ですが、写真にあるようにかなり田舎です。
メインの大通りや街は舗装されていますが、それ以外はこんな感じで未舗装で、穴ぼこだらけです。
イサン地方特有の粘土質の赤土。細かな土の粒子は車も人も赤く染めてしまいます。
この時期は雨季なので、田んぼの稲も、他の野原の草も、青々と茂っていました。
葬式は、妻の実家で行われました。お寺で行われるバンコクの葬式とは、ちょっと様子が違います。
おそらくバンコクは家も狭くなったので、自宅で葬式や結婚式などができなくなって変わったのでしょう。
高床式の20畳くらいはあると思われる部屋の中央に、飾り棺が置かれています。飾り棺の中に棺があります。
上座は一段高くなっており、そこにお坊さんが並びます。
その前で家族や親族など、親しい人が座って式が行われます。
これは火葬の日の出棺前の写真なので、お坊さんが11人来ていますが、その前の数日は、朝と夕方にお坊さんが数人やってきて、読経をして帰ります。
近所の人達は、この家の周りにテントを建てるなどして椅子が並べてあり、そこに座って様子を見守ります。
こうやって毎日100〜200人の人がやってきて、この家の周りが賑やかになります。
お坊さんの読経が終わると、参列者に食事や飲み物を振る舞います。
近所の人は、それが目当てで来ているのではないかと思うほど。
いやおそらく、呼ぶ方も飲食を振る舞うことで人を集めているし、集まる人達も、それが目当てなのでしょう。
そうやって賑やかで忙しい1週間ほどを過ごすことで、家族は故人を亡くした悲しみに落ち込むことなく、時間を過ごせるのです。
火葬は、午後1時くらいから始まりました。
家で読経を済ませた後、出棺となります。
ピックアップトラックに棺を載せ、そこから紐を伸ばして、参列者が引いていくという形で火葬場へ向かいます。
行列の先導は、1人の男性が歩いていました。行列の進行速度を合わせる目的でしょう。
その後に先導車が続き、物悲しげな音楽を鳴らしながらゆっくりと進みます。
その先導車と最後の棺を載せた車との間に紐が渡されていて、それを参列者が引いて歩いて行きます。
途中、爆竹や音が出るだけの花火などを鳴らすのは、魔除けの意味もあるのでしょう。
また、賑やかにする意味もあると思います。
と言うのは、火葬場まで歩いて行く途中や火葬場でも、飴や金銀の紙に包まれたコインをバラまくのです。
それを子どもばかりか大人も一緒になって、キャーキャー言いながら拾います。
とても葬式とは思えない賑やかさです。棟上げ式の餅撒きを想像していただけると、様子がわかると思います。
火葬場に到着すると、壁のない礼拝所のような建物がありました。
壁がないのはお金がないからではなく、暑いから風通しを良くするためでしょうね。
ここでもお坊さんが前の一段高いところに座り、読経や故人の紹介が行われます。
故人の紹介では、いつ生まれて、誰といつ結婚し、子どもは誰でなどと経歴が話されます。
その中で、娘と結婚した相手として、私の名前も紹介されました。「夫、アカキアツチと結婚」という感じで。
タイ人にとっては、「シ」と「チ」の区別がつかないので、なかなかきれいに「アツシ」と発音できる人は少ないです。
話す人が言いにくそうだったため、周りからも笑い声が漏れ、場が和みました。
そしてお坊さん一人ひとりに、黄色い衣やお金をお布施として渡す儀式が行われます。
バンコクのお寺では、祭壇の上に上がって棺の前に置き、それを裏から出てこられたお坊さんが持ち去って行くのですが、だいたい同じようなものでしょう。
読経やお布施の儀式が終わると、いよいよ火葬です。
でも、どこに火葬場が・・・と思ったら、礼拝所からちょっと離れたところ、つまり野原に棺が置かれていました。
ブロックかコンクリートで台が作られており、その上に棺が置いてあります。どうやら野焼きのようです。
何かの飾りのようなもの(カンナくずのような薄い木か何かで作った造花?)を受け取り、故人と最後の別れをしに棺のところへ行って、その飾りのようなものを棺の中や外に置きます。
このとき棺の蓋が開けられているので、故人の顔を拝むことができます。
日本と違い、死に化粧をしていない個人の顔は、どす黒く変色し、とても生前と同じとは思えませんでした。
防腐剤を大量に使って腐らないようにすると聞いたことがありますが、おそらくそうなのでしょう。
そうでなければ暑いタイで、遺体を1周間も常温に置いておけませんから。
故人との最後の別れを済ませると、すぐに水で手を洗い清めます。
日本なら塩をまいて清めるのでしょうけど、タイでは水で流すようです。
この後、家に戻ってからはアップ・ナーム(水浴び=シャワー)をさせられました。
これも不浄のものを洗い清める意味があるそうです。
いよいよ火葬です。
棺の周りに丸太を立てかけて櫓状にしていきます。
そして油をまいてから、火を放つのです。
下から燃やすわけでもないので、かなり熱効率が悪そうな気がします。
重油などで焼く日本の火葬場なら、2時間もすれば骨と灰になってしまいますが、これでは丸太が全部燃えても、骨がかなり残りそうです。
ただ、日本なら遺族で骨を拾うのですが、こちらではそれは一部の男衆の仕事のようでした。
それで私たちはそこにはまったく立ち会わなかったので、燃え方がどうなのか確認できませんでした。
翌日、その男衆らによって、遺骨を墓所(納骨場所)に納めたようです。
これですべて終わりかと思ったら、それからも家にお坊さんを読んで読経をしてもらう儀式が続くのだとか。
集まる人は減っていくのでしょうけど、あと数日は飲食を振る舞うのだそうです。
亡くなった妻の父親は54歳だったそうです。私より3つ上ですね。
死因は破傷風だそうです。
よくわかりませんが、傷からウイルスが入って来て死に至る病気だとのことなので、おそらく破傷風で間違いないかと。
謹んでお義父さんのご冥福をお祈りします。
2013年08月20日
後世への最大遺物
日本人を海外に紹介した「代表的日本人」の著書で知られる内村鑑三氏の、講演をまとめた本です。
「デンマルク国の話」と一緒になっていて、文庫本でわずかに150ページもありません。本文だけなら100ページ足らず。
しかし、この講演が本になって、増刷を重ねているという事実に、この本の内容の深さが現れているように思います。
実は私も、この本を過去に1回読んでいます。
「代表的日本人」を買うとき、また読んでみたくなって買ったのです。
もうすでに内容を忘れていたのですが、やはり読むに値する深い内容だと思いました。
どういう内容かというと、私たちが生きた証として何かを残したいという思いについて、内村鑑三氏の考えを述べたものです。
その動機として、天文学者のハーシェルが友人に語った言葉を紹介しています。
「わが愛する友よ、われわれが死ぬときには、われわれが生まれたときより世の中を少しなりとも善くして往こうではないか」(p.18)
このように紹介して、人生において何が遺(のこ)せるだろうか、という遺物について語るのです。
その中で、お金、事業、思想(文学)というものを検討します。
たしかにそれらを後世のために遺せれば、後世の人々の役に立つだろうし、素晴らしいことだと思うと言います。
しかしそれは、誰でもできるものではありません。環境や才能に恵まれた人にのみ許された、特別な遺物だと見るのです。
では、誰にでも遺せる最大の遺物とは何か?
その答は、ぜひこの薄い本を買ってお読みください。
ヒントとして、以下の様な人たちの例を取り上げていることを書いておきましょう。
まずは「フランス革命史」を書いたトーマス・カーライルです。
彼は、何十年かかかってこの本を書き上げました。
その原稿を友人に見てもらったところ、その友人が他の友人にその原稿を貸し、その他の友人の下女が、その原稿をストーブのたきつけにして燃してしまったのです。
カーライルは腹を立て、しばらくは何も手に付かない感じで過ごしたそうです。
しかし再びその執筆を始め、「フランス革命史」を完成させたのでした。
次に、二宮尊徳です。
両親を失い、伯父さんに養ってもらうことになったため、読書さえままならない生活を送ります。
そんな中でも自立する道を模索し、ついには自分の家や田畑を取り戻すまでになりました。
そしてさらに、二十ヵ村か三十ヵ村かの人々を助けるまでになったのです。
最後に内村鑑三氏は、このように言っています。
「たびたびこういうような考えは起こりませぬか。もし私に家族の関係がなかったならば私にも大事業ができたであろう、あるいはもし私に金があって大学を卒業し欧米へ行って知識を磨いてきたならば私にも大事業ができたであろう、もし私に良い友人があったならば大事業ができたであろうと。
こういう考えは人々に実際起る考えであります。しかれども種々の不幸に打ち勝つことによって大事業というものができる、それが大事業であります。
それゆえにわれわれがこの考えをもってみますと、われわれに邪魔のあるのはもっとも愉快なことであります。邪魔があればあるほどわれわれの事業ができる。勇ましい生涯と事業を後世に遺すことができる。とにかく反対があればあるほど面白い。」(p.72 - 73)
※読みやすくすために改行を入れました。
誰にでも後世に遺せる最大の遺物。
それをあなたも、遺そうと思いませんか?
2013年08月21日
きさま、何様のつもりだ!?
いきなり乱暴な言葉のタイトルですみません。m(__)m
でもこれ、本当は素晴らしい言葉なんですよ。
「・・・・・」
おそらく意味がわからないでしょうね。
では、説明しましょう。(^^)
まず、「きさま」ですが、現在は相手を下に見るときに使う言葉とされています。
でもこれ、漢字で書くと「貴様」です。貴いお方。高貴なあなた様。そんな意味です。
そして、それが「何様」かと尋ねているのです。
つまり、「高貴なあなた様はいったい、どういったお方なのでしょう?」という問いなのです。
冗談ではありません。
言葉の意味は、そういう意味になるのです。
そこで問題です。
この問に対して、あなたは何と答えますか?
その答が、あなたそのものなのです。
自分が自分のことを何だと考えているかによって、自分という存在が決まります。
なぜなら、自分を創造しているのは、自分自身だからです。
あなたは、自分をちっぽけな存在だと考えているでしょうか?あるいは、罪深い存在だと。
もしそう考えるのでしたら、あなたはそういうものなのです。
あなたが定義した通りの人間として、あなたの人生において表現されます。
それが正しいことは、あなた自身のことを考えてみるだけで、わかると思います。
たとえば成功する人は、自分は成功するにふさわしい人間だと考えています。
傲慢か謙虚かは、あまり関係ありません。
謙虚であっても、静かな自信をたたえた人はいますからね。
さらに言うなら、自分はちっぽけで罪深い人間だなどと考えるのは謙虚ではなく、傲慢で不遜だとも言えます。
「えーっ、逆でしょう?謙虚なんじゃないの?」
そう言いたいかもしれませんが、これほど傲慢で不遜な態度はありません。
なぜなら、人をこの世に生み出したのは天(てん)だ、とも言えるからです。
天を神と呼ぼうと、宇宙霊と呼ぼうと、空(くう)でも道(ドウ,タオ)でも、なんてもかまいませんよ。
ともかく絶対的で、唯一で、すべてであるものです。
それが奇跡的に生み出した人を指差して、「ちっぽけ」だとか「罪深い」などと揶揄(やゆ)するのは、傲慢の極みではありませんか。
これを不遜と呼ばなかったら、いったい何を不遜と呼びましょうや。
多くの人は、自分の命を自分のものと考えています。
ですから安易に、自分を卑下するのです。
まったく冗談じゃない。自分の命を自分が創れるとでも考えているのでしょうか?
そんなことが可能なら、ぜひそれを証明していただきたい。
クローンと言えども、人間が創ったものではありません。
すでにある生命を利用したまでのことです。
人に限らず、森羅万象の大本である生命を創りだせるのは、その生命のみです。
その生命のことを神と呼んだり、天と呼んだり、宇宙霊と呼んだりしているのです。
そういう偉大な素晴らしい存在が分化して、この世に現したものが人間です。
つまり、あなたです。
それが素晴らしくないなんてことが、あるとでも思うのでしょうか?
もちろん、素晴らしくないと考えることはできますよ。
多くの人がやっているように、自分に限らず他人でも、その価値を低く評価することはできます。
しかし、その本質の価値が減ることも、消えてなくなることもありません。
ですからあなたは、素晴らしい存在なのです。
それを自己卑下したら、天に対して失礼ではありませんか。傲慢で不遜な考えではありませんか。
私はそう思うのです。
ですから、「きさま、何様のつもりだ!?」と問われたら、堂々と答えてください。
「私は、素晴らしい存在だ!何ものにも代えがたい、特別で、価値のある存在だ!」
実際、あなたとは、そういう存在なのです。
でもこれ、本当は素晴らしい言葉なんですよ。
「・・・・・」
おそらく意味がわからないでしょうね。
では、説明しましょう。(^^)
まず、「きさま」ですが、現在は相手を下に見るときに使う言葉とされています。
でもこれ、漢字で書くと「貴様」です。貴いお方。高貴なあなた様。そんな意味です。
そして、それが「何様」かと尋ねているのです。
つまり、「高貴なあなた様はいったい、どういったお方なのでしょう?」という問いなのです。
冗談ではありません。
言葉の意味は、そういう意味になるのです。
そこで問題です。
この問に対して、あなたは何と答えますか?
その答が、あなたそのものなのです。
自分が自分のことを何だと考えているかによって、自分という存在が決まります。
なぜなら、自分を創造しているのは、自分自身だからです。
あなたは、自分をちっぽけな存在だと考えているでしょうか?あるいは、罪深い存在だと。
もしそう考えるのでしたら、あなたはそういうものなのです。
あなたが定義した通りの人間として、あなたの人生において表現されます。
それが正しいことは、あなた自身のことを考えてみるだけで、わかると思います。
たとえば成功する人は、自分は成功するにふさわしい人間だと考えています。
傲慢か謙虚かは、あまり関係ありません。
謙虚であっても、静かな自信をたたえた人はいますからね。
さらに言うなら、自分はちっぽけで罪深い人間だなどと考えるのは謙虚ではなく、傲慢で不遜だとも言えます。
「えーっ、逆でしょう?謙虚なんじゃないの?」
そう言いたいかもしれませんが、これほど傲慢で不遜な態度はありません。
なぜなら、人をこの世に生み出したのは天(てん)だ、とも言えるからです。
天を神と呼ぼうと、宇宙霊と呼ぼうと、空(くう)でも道(ドウ,タオ)でも、なんてもかまいませんよ。
ともかく絶対的で、唯一で、すべてであるものです。
それが奇跡的に生み出した人を指差して、「ちっぽけ」だとか「罪深い」などと揶揄(やゆ)するのは、傲慢の極みではありませんか。
これを不遜と呼ばなかったら、いったい何を不遜と呼びましょうや。
多くの人は、自分の命を自分のものと考えています。
ですから安易に、自分を卑下するのです。
まったく冗談じゃない。自分の命を自分が創れるとでも考えているのでしょうか?
そんなことが可能なら、ぜひそれを証明していただきたい。
クローンと言えども、人間が創ったものではありません。
すでにある生命を利用したまでのことです。
人に限らず、森羅万象の大本である生命を創りだせるのは、その生命のみです。
その生命のことを神と呼んだり、天と呼んだり、宇宙霊と呼んだりしているのです。
そういう偉大な素晴らしい存在が分化して、この世に現したものが人間です。
つまり、あなたです。
それが素晴らしくないなんてことが、あるとでも思うのでしょうか?
もちろん、素晴らしくないと考えることはできますよ。
多くの人がやっているように、自分に限らず他人でも、その価値を低く評価することはできます。
しかし、その本質の価値が減ることも、消えてなくなることもありません。
ですからあなたは、素晴らしい存在なのです。
それを自己卑下したら、天に対して失礼ではありませんか。傲慢で不遜な考えではありませんか。
私はそう思うのです。
ですから、「きさま、何様のつもりだ!?」と問われたら、堂々と答えてください。
「私は、素晴らしい存在だ!何ものにも代えがたい、特別で、価値のある存在だ!」
実際、あなたとは、そういう存在なのです。
2013年08月22日
月のメッセージ
前に「伝わるのは愛しかないから」や「ひとが否定されないルール」で紹介した、脳障害児の日木流奈(ひき・るな)くんの本です。
本と言うより、詩集とかエッセー集と呼んだ方が良いのでしょうか。短編のメッセージがまとめられています。
前半はエッセー集のようになっていて、それぞれが問題を抱えている人へのメッセージになっています。
たとえば、「他人の目が気になる人へ」とか、「勇気が持てない人へ」というようなサブタイトルが付けられています。
このメッセージの内容が、また実に素晴らしいのです。
前にも書きましたけど、「神との対話」シリーズで言われているようなことが、流奈くんの言葉で語られています。
「不安を感じている人へ」というサブタイトルのメッセージは、すべて引用して紹介したいほど秀逸でした。
「時間が流れているのではありません。
一瞬一瞬があるだけです。
常に一瞬がある。
この一瞬が変われば、過去も未来も変わります。
決めるのはあなた。
あなたの意志です。」(p.57 - 58)
このさり気なく語られている言葉がどれほど重いものか、おわかりになりますでしょうか?
流れている時間というのは幻想なのです。
一瞬一瞬があるだけ。絶対的な領域では、言葉で示すなら「今」「ここ」しかないのですから。
そして、相対的な領域で生きる私たちにできることは、「今」「ここ」を生きるだけ。
しかし、その一瞬が変われば、未来はおろか、過去も変わる。
「過去が変わる!?」
そう、過去が変わるんです。
そんな驚くべき真実が、さり気なく語られています。
しかも、それを決めるのは私自身。私にはできる、と言うことなのですね。
「人が生まれて必ず皆が経験する事−−それは死です。
その間に起こる事は何があっても問題とはならないのです。
試験に落ちても、会社を首にされても、おカネがなくなっても、
恋人と別れても、なんの問題もないのです。
ただ気づきという学びがあるだけなのです。」(p.58)
すべての出来事は良いこと。すべて必然で無駄がない。
それは、その出来事によって「気づきという学びがある」からです。
逆に言えば、「気づきという学び」のために、様々な出来事が起こっていると言えるでしょう。
「だから、ただ気づくだけでいいのです。
不安に思うことはありません。
罰が下るとか、そういう問題ではないのです。」(p.59)
出来事が起こる目的が気づきのためなら、私たちがすべきことは、それに気づくことです。
不安を覚える必要もないし、罪悪感を感じる必要もありません。
ただただ、「そうなんだ」と気づくだけでいい。
こういうところって、ホ・オポノポノ的な考え方と共通ですよね。
ですから、出来事に反応することなく、「大丈夫だ」という安心感の中で生きれば良いのです。
気づいて学んだなら、それを踏み台にステップアップして、さらに大きな自己として生きるだけのこと。
こういう素晴らしいメッセージが、たくさん散りばめられています。
2013年08月23日
電子出版しました
メンターの吉江さんから、電子出版の話を聞きました。
それでさっそく、どんなものかと思って調べてみました。
AmazonのKindleとか、楽天のKoboとかあることは知っていましたが、どんなものかは詳しく知らなかったのです。
まず楽天のKoboは、今のところ海外では使えません。
そうなると世界展開しているAmazonのKindleですが、わざわざハードを買うのも・・・。
そう思っていたら、iPadやスマホでも見ることが可能とのこと。調べてみると、Android端末でもKindle版の電子書籍が読めることがわかったのです。
そうなったら、試してみるのが一番です。
Amazonのサイトで調べると、GoogleストアからKindleアプリをインストールできるとわかり、すぐに検索して導入しました。
電子書籍には無料版もあるので、それを購入して、どんな風に読めるのか、試してみました。
これが意外とよく読めます。
小さいから読みづらいかと思っていたのですが、これなら大丈夫です。
次は、自分で電子書籍を出版する方法を調べました。
これも意外と簡単そうだったので、試してみることにしました。
コンテンツは、以前、「鏡のワーク」のやり方をPDFにしたものがあったので、それを流用することにしました。
Amazonのセルフ・パブリッシングのサイトでログインし、あとは指示に従いながら、2〜3時間かけてデータを登録しました。
審査に2〜3日かかるとのことでしたが、わずか1日で売り出されてましたね。
とりあえず100円(外国は0.99ドル相当)という値段にしておきましたので、よろしければどうぞ。
写真などのない簡素なものですし、表紙の画像もないので、本当に味気ない本です。
※2013年8月26日現在、表紙を追加したバージョンが販売されています。
でも、内容には自信がありますし、それなりのボリュームもあります。
これを読めば、すぐに自分で「鏡のワーク」をやってみようという気になるのではないでしょうか。
意外と簡単に出版できたので、びっくりしています。
これからまたコンテンツを考えて、電子書籍の出版もしていこうと思います。
それでさっそく、どんなものかと思って調べてみました。
AmazonのKindleとか、楽天のKoboとかあることは知っていましたが、どんなものかは詳しく知らなかったのです。
まず楽天のKoboは、今のところ海外では使えません。
そうなると世界展開しているAmazonのKindleですが、わざわざハードを買うのも・・・。
そう思っていたら、iPadやスマホでも見ることが可能とのこと。調べてみると、Android端末でもKindle版の電子書籍が読めることがわかったのです。
そうなったら、試してみるのが一番です。
Amazonのサイトで調べると、GoogleストアからKindleアプリをインストールできるとわかり、すぐに検索して導入しました。
電子書籍には無料版もあるので、それを購入して、どんな風に読めるのか、試してみました。
これが意外とよく読めます。
小さいから読みづらいかと思っていたのですが、これなら大丈夫です。
次は、自分で電子書籍を出版する方法を調べました。
これも意外と簡単そうだったので、試してみることにしました。
コンテンツは、以前、「鏡のワーク」のやり方をPDFにしたものがあったので、それを流用することにしました。
Amazonのセルフ・パブリッシングのサイトでログインし、あとは指示に従いながら、2〜3時間かけてデータを登録しました。
審査に2〜3日かかるとのことでしたが、わずか1日で売り出されてましたね。
とりあえず100円(外国は0.99ドル相当)という値段にしておきましたので、よろしければどうぞ。
写真などのない簡素なものですし、表紙の画像もないので、本当に味気ない本です。
※2013年8月26日現在、表紙を追加したバージョンが販売されています。
でも、内容には自信がありますし、それなりのボリュームもあります。
これを読めば、すぐに自分で「鏡のワーク」をやってみようという気になるのではないでしょうか。
意外と簡単に出版できたので、びっくりしています。
これからまたコンテンツを考えて、電子書籍の出版もしていこうと思います。
●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。