世の中には、悲惨な出来事があふれています。
あるいは、理不尽な犯罪や事件、あるいは事故が連日のように発生し、それらの一部がニュースとして報道されます。
私たちはそれを、新聞やTVのニュースなどで見聞きして、その内容に反応する生活を送っています。
このような悲しみや怒りを発生させる情報を常にインプットすることは、私たちにどういう影響があるでしょうか?
私が言うまでもないことですが、良い影響があるはずがありませんよね。
実際に、多くの人がそう言っています。
それでもニュース配信をやめられないのがマスコミというものです。
なぜなら、その仕事にその人たちの生活がかかっていると信じているからです。
私たちは何も、マスコミの態度を批判する必要性はありません。
見聞きしたくなければ、インプットしなければ良いだけなのです。
私がお勧めしているみやざき中央新聞も、そういう悪感情を引き起こすニュースを流すのは嫌だと考えて、感動や喜びをもたらす情報を届けたいという想いで作られたのだそうです。
情報を取捨選択するということは、大切なことです。
「これは自分にとって有益な情報だろうか?」
そう考えて、自分で判断することです。
不要ならTVのスイッチを切ったり、新聞を読まないという判断も必要だと思います。
先日読んだ、「だれもが幸せになるハワイの言葉 ホ・オポノポノ」でも、「夜のニュースは見ないほうがいい」と書いてありますね。
「夜のニュースでひどい事件を見て、「最悪だわ!」と暗い気持ちになったまま、クリーニングしないとする。すると、記憶は増大するわけです。」
(中略)
「クリーニングしないのであれば、夜のニュースは見ないほうがいいでしょう。クリーニングした結果、インスピレーションで「ニュースを見たほうがいい」と感じたときに見ればじゅうぶんだと思います。」(p.39)
私はいま、このホ・オポノポノのクリーニングを実践しています。
昨日の記事「ホ・オポノポノ的な見方について」で、ホ・オポノポノについて「私には理解できない」と書きましたけど、実践はしています。(笑)
それは、このやり方に効果があると認めているからです。
たとえば、何かで腹が立つことがあったとしましょう。
そんなとき、「あ、これがクリーニングすべきことなんだな」と気づくので、心の中で「ありがとう、愛しています」とつぶやくのです。
これは、その怒らせた相手とか現象に対して言っているのではありません。
膨大な記憶の中から、私にクリーニングしてもらいたくて再生してくれたものだと考えて、その記憶を見せてくれたウニヒピリ(潜在意識)に対して言っているのです。
そうすると、その瞬間に出来事と怒りの感情の間にある隙間が押し広げられます。
怒りが収まるというより、距離ができてコントロールしやすくなる、と表現したほうが適切でしょう。
そういう感覚になったとき、その隙間にある考えを取り出して検証します。
「何が私をそんなに怒らせたのだろう?」
すると、その背後にあった私の不安などが見えてきます。
「そうか、それが怖くて怒ったんだな。」
それから、その不安が現実ではないことを考えてみます。この世はすべて幻想なのですから。
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」と辞世で詠んだのは、太閤殿下の豊臣秀吉でしたね。
私の場合はそうやって、自分の感情を後から変えるようにしています。
とっさには反応してしまうとしても、その感情が心地よくないと感じたなら、心地よく感じられるように考え方を変えて、追体験するのです。
そうやって、自分の体験を良いものに塗り替えながら生活しています。
これをやると、怖いものがなくなります。
不幸になる心配がなくなるというか、幸せでいられないはずがないと思えるようになるのです。
ぜひ、お試しください。
2013年08月01日
2013年08月02日
ひとが否定されないルール
前に紹介した「伝わるのは愛しかないから」に続いて、日木流奈くんの本を紹介します。残念ながら、中古しか購入できないようですけどね。
前の記事にも書きましたが、NHKの番組で取り上げられたために、ヤラセではないかという疑惑があるようです。
アマゾンのレビューを見ても、半分くらいが最低評価をつけています。ただしそれは、本の内容に対してではなく、「ヤラセだから」という理由がほとんどでした。
私は、前にも書いたように、ヤラセかどうかは判断できません。ただ少なくともこの内容は、「神との対話」シリーズに匹敵するほど深いものがあると言えます。
今回も読みながら、思わず青ボールペンで線を引いちゃいました。もう売れません。(笑)
私が注目した部分のいくつかを、引用して紹介しましょう。最初は、罪悪感を感じて自己否定してしまう人に対するアドバイスです。
「その人たちが、もし今の自分の状態が、悪いことではなく、自分がそうなって当然なんだと認めてあげるところから始めると、とても楽になります。今の自分の状態を認めてあげて、自分に許しを与えるのです。ここに、言い訳や、自分は悪くないといったとらえ方をすると、またゆがみが起きますが、ただ認めてあげるということができたなら、人は最初の安らぎを得ることができます。心の病気も体の病気もすべて、「悪いのではない」と知ることから始めるのです。」(p.73)
他人に対してだけでなく、自分に対しても、善悪の価値観を押し付けないことが大切だと言います。
これって、なかなか出てこない発想なんですよね。そもそも善悪の価値観ありきからスタートする人がほとんどなのですから。
「それは、歴史を学ぶときもいっしょです。過去というのは学ぶためにだけ存在するのであって、それを理由にだれかを悪者にして、自分の正義を振りかざしても何にもならないのです。そうやって悪者を作っても、果たしてその人の心は晴れるでしょうか。(中略)
人は幸せになるために生まれてきたはずなのです。ならば、気づいた人は、今までどんな状態であっても幸せになることが大切な気がするのです。」(p.150)
他人や自分を裁くことには意味がない。そう流奈くんは見抜いています。罪を与えることより、気づいて改善し、幸せになることが大切なのだと。
これまで人類がこだわり続けて抜け出せなかった部分を、いとも簡単に突き抜けているのです。
「この一瞬をいかに生きられるようになるかは、過去を嘆かず、未来を憂えない体質に自分をすることが肝心です。(中略)
まずは自分を振り返ることから始めることが肝心です。ほかのだれかの行動をどうこうしようではなく、その起きた出来事や、他人が自分に向けてしたことに対して、自分がどう思ったか、どう対応したかなどを、もう一度、評価なく振り返ってみたときから、きっと何かが見えてくるのではないでしょうか。」(p.184)
私たちはすぐに、良いとか悪いとか評価をくだしてしまいます。流奈くんの姿勢は、つねに「評価しない」で「ありのままに見る」ことを貫いています。
「強制というものが存在しない中で、ただ受け入れられたとき、人はただ愛することができるのだと私は思います。
でも、昔、子どもだった大人は、やり直すには大人になりすぎてしまいました。では、そんな大人たちはどうしたらいいのでしょうか。(中略)
結論は、「今その時から始めなければならない」ということです。この瞬間を始まりとするのです。過去は過ぎたことで、今その傷ついている大人たちに必要なのは、自らを癒し、本当の意味で独立と共存を学ぶことだと思うのです。」(p.211 - 212)
つまり自由を認めることが重要だということです。子どもを強制したり、評価したりせず、自由にさせること。
それによって子どもは、自分らしく生きられるようになり、他人も自分も愛せるようになる。
これまでに紹介している子育てのプロの考え方とまったく一致しています。「子どもへのまなざし」でも、自由の重要性が説かれていました。
そして、すでに大人になった人たちへも、手遅れではないと言っています。
今から「自分を癒す」ことから始めて、少しずつ自分らしく生きられるようにしていくのです。
この点も、子育てのプロの考え方と符合します。そして、私が目指しているところです。
「今、一瞬に生きることを学べば、過去はただ未来へつなげるための学びとして存在するだけでよく、未来は憂えるものではなく、今こそがすべてだと言えるでしょう。」(p.213)
これはもう、高僧なみの達観です。驚きました。
「ですから、世の中で、個人的に起こっているように見える出来事も、各人が意識的に生きるために起きてくれた現象にすぎません。
起きた現象をどうとらえるかで、人々の意識の変革には大きな差が出るのです。病気になってくれる人、事故に遭ってくれる人、痴呆になってくれる人、不登校をしてくれる人、引きこもりをしてくれる人、心の病になってくれる人、そういった人々がいてくれるからこそ、私たちはそのゆがみに気づき、自分を見直すことができるのだと思うのです。」(p.229)
出来事はすべて必然で無駄がないと、私も常々言っています。
良いと思われる出来事も、悪いと思われる出来事も、すべてが自分のために起こっている。
それによって自分自身の在り方を見直し、決めることができます。その思考が、自分自身を創っていくのです。
「起きる出来事は大いなるものに任せるしかありません。自力ではどうすることもできないことが多いのですから。でも、その出来事の受け止め方は、自分の心がけ次第で大きく変わることになります。人が不幸なのは、「こうなるべきなのに、こうではなかったから自分は不幸だ」というのが多いような気がします。「こうなるべきだった」という仮定は、その人の思い込みでしかありません。」(p.231 - 232)
出来事がその人の幸不幸を決めるのではありません。その人の意志によって選択する考え方が決めるのです。
いかがでしょうか。これが、普通の人が書けるような内容だとは、私には思えません。
奇跡を認めたがらない人が多いことは、充分にわかっています。
しかし人は、自分が見たいものを見るのです。
奇跡に可能性の扉を開かない人は、たとえそこに奇跡が起きたとしても、それを見ることはありません。
これはどちらが良いとか、どちらが正しいとかいう問題ではなく、どちらの考え方を選択するかという問題です。
それぞれの人が、自分らしい考え方を選択すればよいと、私は思います。
2013年08月03日
妻が戻ってきました
今日の早朝、けたたましくアパートの部屋のチャイムが鳴って、私は叩き起こされました。
ひょっとしたらと思っていたことが的中したのです。田舎に帰っていた妻が戻ってきました。
7月24日に帰ってから、10日ぶりの帰宅です。
実は数日前に、メッセージで「今夜帰るかも」と知らせてきたのです。
ところがその後すぐに電話があって、「お金を振り込んでくれたの?口座に入ってないんだけど。」と機嫌が悪そうです。
お母さんの具合が悪くて大病院へ行くので、現金が必要だったのです。日本のように、どこでも健康保険で診てもらえるわけではありませんから。
私は間違いなく振り込んだので、「振り込んだよ。◯◯銀行へ。」と答えました。
その瞬間、妻がキレました。本当に瞬間沸騰湯沸し器ですよ。(笑)
「はーっ!?◯◯銀行!?それじゃあお母さんが引き出せないじゃないの!?」
そう言われて、お母さん用に別の銀行の口座を開いていたことを思い出しました。
でも、以前も振り込んでくれと言われて、振り込んだのは◯◯銀行だったのです。
「もう1つの口座情報は知らないからなあ。」私はそう思いました。
それから、妻が音信不通になりました。
「やれやれ、またグレちゃった。たぶん、明日は帰ってこないんだろうなあ。」
そう予想した通り、次の日の朝、妻は戻ってきませんでした。
そうなると困るのが着て行く服です。
自分で洗濯くらいはできますが、アイロンはかけたことがありません。
それでも、妻に不満を抱きながらただ待っているのはバカらしいので、7月30日(火)の夜、仕事から帰ってきてから洗濯をしました。
下着と靴下は、アイロンをかけなくても良いので、すでに干してあったものをそのまま取り込んでたたみ、洋服ダンスにしまってあります。
まだ取り込んでなかったワイシャツなどを隅に寄せ、空いたスペースに洗濯したものを干します。
妻が帰る前に洗濯したものを、1週間も取り込んでないのは私の不精ですけど、ご容赦ください。
ワイシャツは2週間分あるので、8月4日(日)に戻ってきていなかったら、アイロンをかけようと思いました。
ハンカチは面倒なので、アイロンをかけずにたたみました。どうせ見せるものでもないし、一度使えば同じですから。
これで万が一、妻が戻ってこなくても、とりあえず会社へ行くことと週末にソフトボールをすることは何とかなりそうです。
そう算段していたら、今朝、突然戻ってきたというわけです。
昨夜、田舎を出発しているはずですから、少なくとも夕方には決めていたはず。
それなのに何の連絡も寄こさなかったんですよね。
きっと、妻も気づいたのでしょう。
私が以前も◯◯銀行の方に振り込んだということを。
そして、その銀行のATMカードでおろせば、何の問題もないことがわかったはず。
だから、恥ずかしくて言えなかったのかな。そう思っています。
今朝、妻がさっそく料理を作ってくれました。久しぶりに食べる妻の手料理。
「田舎でおじさんの葬式のときに作ったら、みんなが美味しいってほめてくれたんだよ。」
そう言いながら、嬉しそうに田舎の料理を作ってくれました。
私は、妻のことを怒りませんし、批判もしません。
いつ帰るのか予定をはっきりさせないし、着て行く服のことでも私をさんざん心配させ、私が悪くもないのに思い込みで怒鳴った妻を。
なぜなら、妻は戻ってきたのですから、それで充分だと思うからです。
もし、妻が戻って来なかったら・・・。途中で交通事故にあうなどして死んでしまったら・・・。
不吉なことかもしれませんが、私はよく、そういうことを考えます。
それは不安から考えるのではなく、自分の考え方を正すためにそうするのです。
もしそうなったら、どっちにしても自分で洗濯しなければならないし、アイロンもかけなければならなかったのです。
今回はアイロンをかけずに済んだので、むしろラッキーだったと喜ぶべきこと。そう考えることもできます。
予定を知らせないことも、それは妻の自由だと思うのです。私も敢えて尋ねませんでした。
知らせたければ知らせるだろうし、仮に知らせてきたとしても、それが守られるとは限りません。それなら、同じことではありませんか?
なぜ予定を知らせなければならないのでしょう?もし知らせた予定通りにしなかったら、相手を責めたくなりませんか?
私はそういうことで妻を責めたくはないので、知らせるのも知らせないのも、妻の自由にさせたのです。
妻が誤解してキレたことも、私は責めません。
なぜなら、誤解は誰にでもあることですから。それに怒ったあとで誤解だと気づいた時の恥ずかしさと言ったら、やった経験のある人ならわかるでしょう。
それに、妻はもともとキレやすい性格なのです。それは、心に不安を抱えて育ったからです。
私は、それがわかっていて結婚したのです。
今回はまた、大好きなお母さんの具合も悪くなったということで、かなりイライラしていたようです。
ですから、彼女がキレて怒鳴りたくなる事情もわかるので、私は責めないのです。
責めて何かが良くなるなら考えますけど、悪くなるだけではありませんか。ですから、敢えてやろうとは思わないのです。
考え方というのは、人それぞれです。
人それぞれということは、批判する必要性はないということですよ。
批判して気持ちよくなるなら、いくらでもやったらいいでしょう。でも、その目的が相手を変えることにあるとしたら、まったく意味がないでしょうね。
今回の件を通じて私は、価値観が違う人への対応について学びました。
妻と私では、本当に真逆かと思うくらい価値観が違いますからね。
でも、だからこそ、夫婦という関係を続けるにふさわしいと、私は考えています。
これだけ違いがあるから、私は常に自分の考え方に対して挑戦を受けるのです。
そしてその課題に取り組むことで、自分自身を大きくしていくことができます。
だから妻には、感謝の気持ちしかありません。
「よくぞ私と結婚してくれたね。ありがとう。あなたのお陰で、私はもっともっと成長できるよ。」
私は妻のことを、心から愛しています。
◆お知らせ
先日、「起業家のホンネ」というサイトの取材を受けました。
私は起業家ではありませんが、経営者になったということで、取材対象になったようです。
参考までにご覧ください。
「タイへの出向がきっかけでサラリーマンから経営者に」
ひょっとしたらと思っていたことが的中したのです。田舎に帰っていた妻が戻ってきました。
7月24日に帰ってから、10日ぶりの帰宅です。
実は数日前に、メッセージで「今夜帰るかも」と知らせてきたのです。
ところがその後すぐに電話があって、「お金を振り込んでくれたの?口座に入ってないんだけど。」と機嫌が悪そうです。
お母さんの具合が悪くて大病院へ行くので、現金が必要だったのです。日本のように、どこでも健康保険で診てもらえるわけではありませんから。
私は間違いなく振り込んだので、「振り込んだよ。◯◯銀行へ。」と答えました。
その瞬間、妻がキレました。本当に瞬間沸騰湯沸し器ですよ。(笑)
「はーっ!?◯◯銀行!?それじゃあお母さんが引き出せないじゃないの!?」
そう言われて、お母さん用に別の銀行の口座を開いていたことを思い出しました。
でも、以前も振り込んでくれと言われて、振り込んだのは◯◯銀行だったのです。
「もう1つの口座情報は知らないからなあ。」私はそう思いました。
それから、妻が音信不通になりました。
「やれやれ、またグレちゃった。たぶん、明日は帰ってこないんだろうなあ。」
そう予想した通り、次の日の朝、妻は戻ってきませんでした。
そうなると困るのが着て行く服です。
自分で洗濯くらいはできますが、アイロンはかけたことがありません。
それでも、妻に不満を抱きながらただ待っているのはバカらしいので、7月30日(火)の夜、仕事から帰ってきてから洗濯をしました。
下着と靴下は、アイロンをかけなくても良いので、すでに干してあったものをそのまま取り込んでたたみ、洋服ダンスにしまってあります。
まだ取り込んでなかったワイシャツなどを隅に寄せ、空いたスペースに洗濯したものを干します。
妻が帰る前に洗濯したものを、1週間も取り込んでないのは私の不精ですけど、ご容赦ください。
ワイシャツは2週間分あるので、8月4日(日)に戻ってきていなかったら、アイロンをかけようと思いました。
ハンカチは面倒なので、アイロンをかけずにたたみました。どうせ見せるものでもないし、一度使えば同じですから。
これで万が一、妻が戻ってこなくても、とりあえず会社へ行くことと週末にソフトボールをすることは何とかなりそうです。
そう算段していたら、今朝、突然戻ってきたというわけです。
昨夜、田舎を出発しているはずですから、少なくとも夕方には決めていたはず。
それなのに何の連絡も寄こさなかったんですよね。
きっと、妻も気づいたのでしょう。
私が以前も◯◯銀行の方に振り込んだということを。
そして、その銀行のATMカードでおろせば、何の問題もないことがわかったはず。
だから、恥ずかしくて言えなかったのかな。そう思っています。
今朝、妻がさっそく料理を作ってくれました。久しぶりに食べる妻の手料理。
「田舎でおじさんの葬式のときに作ったら、みんなが美味しいってほめてくれたんだよ。」
そう言いながら、嬉しそうに田舎の料理を作ってくれました。
私は、妻のことを怒りませんし、批判もしません。
いつ帰るのか予定をはっきりさせないし、着て行く服のことでも私をさんざん心配させ、私が悪くもないのに思い込みで怒鳴った妻を。
なぜなら、妻は戻ってきたのですから、それで充分だと思うからです。
もし、妻が戻って来なかったら・・・。途中で交通事故にあうなどして死んでしまったら・・・。
不吉なことかもしれませんが、私はよく、そういうことを考えます。
それは不安から考えるのではなく、自分の考え方を正すためにそうするのです。
もしそうなったら、どっちにしても自分で洗濯しなければならないし、アイロンもかけなければならなかったのです。
今回はアイロンをかけずに済んだので、むしろラッキーだったと喜ぶべきこと。そう考えることもできます。
予定を知らせないことも、それは妻の自由だと思うのです。私も敢えて尋ねませんでした。
知らせたければ知らせるだろうし、仮に知らせてきたとしても、それが守られるとは限りません。それなら、同じことではありませんか?
なぜ予定を知らせなければならないのでしょう?もし知らせた予定通りにしなかったら、相手を責めたくなりませんか?
私はそういうことで妻を責めたくはないので、知らせるのも知らせないのも、妻の自由にさせたのです。
妻が誤解してキレたことも、私は責めません。
なぜなら、誤解は誰にでもあることですから。それに怒ったあとで誤解だと気づいた時の恥ずかしさと言ったら、やった経験のある人ならわかるでしょう。
それに、妻はもともとキレやすい性格なのです。それは、心に不安を抱えて育ったからです。
私は、それがわかっていて結婚したのです。
今回はまた、大好きなお母さんの具合も悪くなったということで、かなりイライラしていたようです。
ですから、彼女がキレて怒鳴りたくなる事情もわかるので、私は責めないのです。
責めて何かが良くなるなら考えますけど、悪くなるだけではありませんか。ですから、敢えてやろうとは思わないのです。
考え方というのは、人それぞれです。
人それぞれということは、批判する必要性はないということですよ。
批判して気持ちよくなるなら、いくらでもやったらいいでしょう。でも、その目的が相手を変えることにあるとしたら、まったく意味がないでしょうね。
今回の件を通じて私は、価値観が違う人への対応について学びました。
妻と私では、本当に真逆かと思うくらい価値観が違いますからね。
でも、だからこそ、夫婦という関係を続けるにふさわしいと、私は考えています。
これだけ違いがあるから、私は常に自分の考え方に対して挑戦を受けるのです。
そしてその課題に取り組むことで、自分自身を大きくしていくことができます。
だから妻には、感謝の気持ちしかありません。
「よくぞ私と結婚してくれたね。ありがとう。あなたのお陰で、私はもっともっと成長できるよ。」
私は妻のことを、心から愛しています。
◆お知らせ
先日、「起業家のホンネ」というサイトの取材を受けました。
私は起業家ではありませんが、経営者になったということで、取材対象になったようです。
参考までにご覧ください。
「タイへの出向がきっかけでサラリーマンから経営者に」
2013年08月05日
一冊の本、一本のペンから
お勧めしている「みやざき中央新聞」のWEB版を、さっき読んだところです。
今週号の社説は、また心が大きく動かされる内容だったので、ぜひ紹介したいと思います。
タイトルは「一冊の本、一本のペンから」です。ぜひ、購読して読んでみてくださいね。
その内容は、最初に「ターミネーター」という30年前の映画の話から始まります。
私もこの映画は大好きで、TVでの放送も含めると、5回は観たと思います。
その映画で命を狙われる少年は、未来の指導者です。その指導者を抹殺するために未来から送られたのが、ターミネーターでした。
社説を書かれた魂の編集長・水谷謹人さんは、先月の12日、国連本部で行われた歴史に残る名演説を聞いたとき、この「ターミネーター」という映画を思い出されたのだそうです。
それはどんな演説だったかというと、演台に立ったのはマララという名の16歳の少女でした。
そう、パキスタンでタリバン武装勢力(TTP)から銃撃され、九死に一生を得た、あの少女です。
彼女はブログで、女性教育を禁止したり、女子校を破壊したりするTPPの活動を批判していました。
それが欧米社会で話題となり、パキスタン政府はTPPへの弾圧を強めるとともに、彼女を勇気ある少女として表彰したのです。
ところがそのとき、ブログでは匿名だったのに、パキスタン政府はマララの実名を公表してしまいました。
それによって彼女は、TPPから命を狙われることになったのです。
瀕死の状態から2度の手術によって蘇ったマララは、こうして国連本部での演台に立ちました。
そこで彼女は言いました。
「私は誰にも抗議していません。タリバンや他のテロリストグループへの個人的な復讐心から、ここでスピーチをしているわけでもありません。」
それは、また命を狙われるのではという不安からではありません。彼女は、死をも怖れない強い人になっていました。
「テロリストたちは私たちの目的を変更させ、志を阻止しようと考えたのでしょう。しかし、私の人生で変わったものは何一つありません。次のものを除いて、です。私の中で弱さ、恐怖、絶望が死にました。強さ、力、そして勇気が生まれたのです。」
では彼女は、何のために、何を訴えようとしてスピーチをしたのでしょうか?彼女はこう言います。
「私は声を上げます。といっても、声高に叫ぶ私の声を届けるためではありません。声が聞こえてこない「声なき人々」のためにです。それは、自分たちの権利のために闘っている人たちのことです。平和に生活する権利、尊厳を持って扱われる権利、均等な機会の権利、そして教育を受ける権利です。」
「ここで話している目的は、すべての子どもたちに教育が与えられる権利をはっきりと主張することにあります。すべての過激派、とりわけタリバンの息子や娘たちのために教育が必要だと思うのです。」
彼女はただ、すべての子どもたちが教育を受けられるようにしてほしいと、世界の人々、つまり私たちに訴えかけます。
そうする力がある、特に先進国の、そして発展途上国の指導者に対して。
そして、そういう国の指導者を選んでいる国民に対してです。
マララはこのことを、まったく恨みのない純粋な愛から行なっています。それが次の言葉に表れています。
「私は、自分を撃ったタリバン兵士さえも憎んではいません。私が銃を手にして、彼が私の前に立っていたとしても、私は彼を撃たないでしょう。
これは、私が預言者モハメッド、キリスト、ブッダから学んだ慈悲の心です。
これは、マーティン・ルーサー・キング、ネルソン・マンデラ、そしてムハンマド・アリー・ジンナーから受け継がれた変革という財産なのです。
これは、私がガンディー、バシャ・カーン、そしてマザー・テレサから学んだ非暴力という哲学なのです。」
そして、このスピーチを聞く多くの人に対して、行動することを促してスピーチを締めくくります。
「無学、貧困、そしてテロリズムと闘いましょう。本を手に取り、ペンを握りましょう。それが私たちにとってもっとも強力な武器なのです。
1人の子ども、1人の教師、1冊の本、そして1本のペン、それで世界を変えられます。教育こそがただ一つの解決策です。エデュケーション・ファースト(教育を第一に)。」
スピーチはユーチューブ(英語)で聴くことができますが、和訳は「The Huffington Post Japan」などのサイトで見ることができます。(上の動画は日本語字幕付きです。)
私はこのスピーチを和訳したものを読みながら、涙がこぼれるのを止めることができませんでした。
私たち人類は、これほどまでに発展してきたというのに、いまだにこんな簡単なことができません。
それは、「仲良く暮らす」ということです。
世界を見ても、身近な人間関係を見ても、互いにいがみ合い、攻撃し合い、暴力をふるい合っています。
誰かが貧困から抜けだせないでいるのに手助けしないのは、暴力と同じです。
誰かが飢えているのに食料を分けてあげないのは、暴力と同じです。
誰かがまともな教育が受けられないでいるのに放っておくのは、暴力と同じです。
世界には有り余るほどの富があると言うのに、有り余るほどの食料があると言うのに、その気になればすぐにでも貧困や飢餓を終わらせ、すべての人に教育が与えられると言うのに、私たちはそういう社会を創ってこなかったのです。
「そんなこと言われても、自分には何もできないよ。」
そう言いたい気持ちもわかります。
けれど、私たち一人ひとりが自分のこととして考え、自分が責任を引き受けない限り、何も変わらないのです。
ホ・オポノポノを信じる人なら、そういう思いでクリーニングをすることも1つの方法でしょう。
またマララが言うように、ペンを握って訴え続けることも1つの方法でしょう。
何ができるかはわかりませんが、何かができるはずです。
自分もその責任の一端を引き受け、何かをしたい。
そういう思いがあれば、方法は見つかります。そして、さらに良い方法がないかと探せば良いのです。
今週号の社説は、また心が大きく動かされる内容だったので、ぜひ紹介したいと思います。
タイトルは「一冊の本、一本のペンから」です。ぜひ、購読して読んでみてくださいね。
その内容は、最初に「ターミネーター」という30年前の映画の話から始まります。
私もこの映画は大好きで、TVでの放送も含めると、5回は観たと思います。
その映画で命を狙われる少年は、未来の指導者です。その指導者を抹殺するために未来から送られたのが、ターミネーターでした。
社説を書かれた魂の編集長・水谷謹人さんは、先月の12日、国連本部で行われた歴史に残る名演説を聞いたとき、この「ターミネーター」という映画を思い出されたのだそうです。
それはどんな演説だったかというと、演台に立ったのはマララという名の16歳の少女でした。
そう、パキスタンでタリバン武装勢力(TTP)から銃撃され、九死に一生を得た、あの少女です。
彼女はブログで、女性教育を禁止したり、女子校を破壊したりするTPPの活動を批判していました。
それが欧米社会で話題となり、パキスタン政府はTPPへの弾圧を強めるとともに、彼女を勇気ある少女として表彰したのです。
ところがそのとき、ブログでは匿名だったのに、パキスタン政府はマララの実名を公表してしまいました。
それによって彼女は、TPPから命を狙われることになったのです。
瀕死の状態から2度の手術によって蘇ったマララは、こうして国連本部での演台に立ちました。
そこで彼女は言いました。
「私は誰にも抗議していません。タリバンや他のテロリストグループへの個人的な復讐心から、ここでスピーチをしているわけでもありません。」
それは、また命を狙われるのではという不安からではありません。彼女は、死をも怖れない強い人になっていました。
「テロリストたちは私たちの目的を変更させ、志を阻止しようと考えたのでしょう。しかし、私の人生で変わったものは何一つありません。次のものを除いて、です。私の中で弱さ、恐怖、絶望が死にました。強さ、力、そして勇気が生まれたのです。」
では彼女は、何のために、何を訴えようとしてスピーチをしたのでしょうか?彼女はこう言います。
「私は声を上げます。といっても、声高に叫ぶ私の声を届けるためではありません。声が聞こえてこない「声なき人々」のためにです。それは、自分たちの権利のために闘っている人たちのことです。平和に生活する権利、尊厳を持って扱われる権利、均等な機会の権利、そして教育を受ける権利です。」
「ここで話している目的は、すべての子どもたちに教育が与えられる権利をはっきりと主張することにあります。すべての過激派、とりわけタリバンの息子や娘たちのために教育が必要だと思うのです。」
彼女はただ、すべての子どもたちが教育を受けられるようにしてほしいと、世界の人々、つまり私たちに訴えかけます。
そうする力がある、特に先進国の、そして発展途上国の指導者に対して。
そして、そういう国の指導者を選んでいる国民に対してです。
マララはこのことを、まったく恨みのない純粋な愛から行なっています。それが次の言葉に表れています。
「私は、自分を撃ったタリバン兵士さえも憎んではいません。私が銃を手にして、彼が私の前に立っていたとしても、私は彼を撃たないでしょう。
これは、私が預言者モハメッド、キリスト、ブッダから学んだ慈悲の心です。
これは、マーティン・ルーサー・キング、ネルソン・マンデラ、そしてムハンマド・アリー・ジンナーから受け継がれた変革という財産なのです。
これは、私がガンディー、バシャ・カーン、そしてマザー・テレサから学んだ非暴力という哲学なのです。」
そして、このスピーチを聞く多くの人に対して、行動することを促してスピーチを締めくくります。
「無学、貧困、そしてテロリズムと闘いましょう。本を手に取り、ペンを握りましょう。それが私たちにとってもっとも強力な武器なのです。
1人の子ども、1人の教師、1冊の本、そして1本のペン、それで世界を変えられます。教育こそがただ一つの解決策です。エデュケーション・ファースト(教育を第一に)。」
スピーチはユーチューブ(英語)で聴くことができますが、和訳は「The Huffington Post Japan」などのサイトで見ることができます。(上の動画は日本語字幕付きです。)
私はこのスピーチを和訳したものを読みながら、涙がこぼれるのを止めることができませんでした。
私たち人類は、これほどまでに発展してきたというのに、いまだにこんな簡単なことができません。
それは、「仲良く暮らす」ということです。
世界を見ても、身近な人間関係を見ても、互いにいがみ合い、攻撃し合い、暴力をふるい合っています。
誰かが貧困から抜けだせないでいるのに手助けしないのは、暴力と同じです。
誰かが飢えているのに食料を分けてあげないのは、暴力と同じです。
誰かがまともな教育が受けられないでいるのに放っておくのは、暴力と同じです。
世界には有り余るほどの富があると言うのに、有り余るほどの食料があると言うのに、その気になればすぐにでも貧困や飢餓を終わらせ、すべての人に教育が与えられると言うのに、私たちはそういう社会を創ってこなかったのです。
「そんなこと言われても、自分には何もできないよ。」
そう言いたい気持ちもわかります。
けれど、私たち一人ひとりが自分のこととして考え、自分が責任を引き受けない限り、何も変わらないのです。
ホ・オポノポノを信じる人なら、そういう思いでクリーニングをすることも1つの方法でしょう。
またマララが言うように、ペンを握って訴え続けることも1つの方法でしょう。
何ができるかはわかりませんが、何かができるはずです。
自分もその責任の一端を引き受け、何かをしたい。
そういう思いがあれば、方法は見つかります。そして、さらに良い方法がないかと探せば良いのです。
体罰は教育に必要ですか?
今とってもホットな話題があります。
また体罰絡みですが、クラスメイトをナイフで脅した児童の頭を叩いた校長が、戒告処分を受けたというニュースです。
この市教委の対応に対して、校長を擁護する意見が殺到しているとか。
このくらいは躾の範囲だとして、愛のムチを認める人が多いようです。
この問題については、市教委の処罰が妥当かどうかという問題はあります。
しかしここでは、その部分については触れません。
ここで取り上げたいのは、校長が行った行為は教育と言えるかどうか、という点についてです。
結論から申し上げると私は、それを教育だとは思いません。
どんなに程度が軽いとは言え、叩くことは暴力です。
まず、言葉の定義をしなければなりません。
私が暴力と呼ぶのは、次のようなことです。
ある特定の価値観や考え方、または行為を強制する目的で、他人に苦痛や恐怖心を与えること。
つまり、相手が自由意志でそうすることを選択するのではなく、苦痛や恐怖心によって、無理やり押し付けられることです。
その苦痛や恐怖心を与える手段が、暴力だと考えます。
相手の自由にさせない、という点がポイントになります。
それに対して教育とは何かと言うと、次のようになります。
相手の自発性や自律性を促し、相手の成長を助けること。
つまり相手の自由意志で考えさせ、行動させる中で成長させることです。
このように、暴力と教育はまったく違うばかりか、真逆のことである考えています。
暴力と教育は、強制と自由ほどに、価値観が違うものなのです。
それで今回の校長の行為をみると、校長はナイフを持ち込んだ少年と、それを先生に通報しなかった複数の少年を、校長室に呼んで頭を平手で叩いたということになっています。
つまり、緊急避難的にナイフの危険から何かを守るために力を行使したのではなく、いわゆる躾として叩いたことがわかります。
これはどういうことかと言うと、「ナイフで脅してはならない」とか、「先生から言われたことに従え」という価値観を強制しようとして、少年に苦痛を与えたのです。
今度やったらまた苦痛を味わうことになるぞと脅して、恐怖心でその行為をさせないようにしたのです。
これを先ほどの定義に当てはめると、教育であるとは到底思えません。
完全に暴力です。
どんなにその価値観が、ある人にとっては絶対的に正しいものでも、相手の価値観に反しているなら、押し付けに過ぎません。
強制しようとして苦痛を与えたなら、それは暴力なのです。
では、教育ならどうしたでしょうか?
自発性や自律性を重んじるのであれば、まずその少年たちに、なぜそうしたのかを尋ねるでしょう。
少年には少年なりの理由があったはずです。
それがどんなに校長にとって納得できないものであったとしても、その少年にとっては正しいことなのです。
だから少年は、その理由(自分の考え方)を根拠に、ナイフで脅すという行為に出たのです。
周りの仲間たちも同様に、先生に通報しないという選択をしたのです。
ただ、その行為によって、目的が達成できたかどうかは別問題です。
その行為をする前は、その理由は少年にとって正しかったのです。
それで目的を達成できると、考えていたはずです。
でも実際にやってみた結果は、目的通りになったでしょうか?
そこを感じさせるのです。
そこを考えさせるのです。
もし上手くいってないとするなら、どこが間違っていたのかを一緒に考えます。
他の考え方はできないのか、どうすればもっと良くなるのかを、一緒に考えてあげるのです。
そして最終的に、どうするのが良いかを、少年自身に決めさせます。
自分の体験から学ばせる。
たいへんかもしれませんが、それが教育というものだと思うのです。
「ナイフで脅すのは悪い。」
「先生の言いつけは守るべきだ。」
それは、その校長の価値観です。
もしその校長が少年の立場だったら、同じことをやらなかったと言い切れるでしょうか?
考え方は人それぞれです。
同じ人でも時と場合によって変わります。
立場や事情が異なれば、考え方や価値観は変わるのです。
その事実を認めない限り、人はいつまでたっても正しいのは自分で、相手が悪いと言い張るでしょう。
もし人によって違うことを前提とするなら、苦痛を与えることで価値観や考え方を強制することなど、とてもできないはずです。
自分が正しく、相手が間違っている。
そう決めつけているから、平気でそれをやってしまうのです。
今回の事件で校長は、少年たちに手本を示しました。
相手に苦痛を与えることで自分の価値観を強制することは正しいことだ、という手本です。
そして、この考え方が世界中に蔓延しています。
これまでの大人たちが、そうやって子どもを教育してきたからです。
そして子どもたちは、大人がやることを真似ます。
自分が正しい。世間が間違っている。
だから暴力を奮ってもかまわない。
だから日常から暴力はなくならないし、世界的にも、いたるところで暴力の応酬が繰り広げられています。
お互いが、自分こそが正義だと言い合って。
そんな社会が、私たちの望みなのでしょうか?
暴力によって相手を強制しようとしても、これまでと同じことを繰り返すだけです。
いや繰り返すだけでは済みません。
昔よりはるかにパワーアップした武力は、人々や社会、この地球さえも、簡単に滅ぼしてしまうでしょう。
ブログで「子どもへのまなざし」という本を紹介しました。
子育てのバイブルと言う人もいるほど、お母さん方から評価されている本です。
その本でも、子育てに重要なのは愛することであって、強制することではないと書かれています。
それなのに、まだ多くの人が「愛のムチ」を信じているようです。
自分が正しくて相手が間違っているという偏狭な正義感を捨てない限り、暴力は有効であり続けるでしょう。
そして、暴力が有効だと信じている限り、平和な社会はやって来ません。
今はまだ、私のような考え方をする人は少数派のようです。
しかし私は、これを訴えずにはおられません。
批判されようと、無視されようと、本当の教育を行わなければ、私たちの社会は平和にはならないからです。
もちろん、だからと言って、私の考え方が絶対的に正しいとか、もっとも優れているなどと言うつもりはありませんよ。
それに、私の考えを、他の人に押し付けることもありません。
ただこれも1つの考えとして、私の考えを表明するだけです。
人は、自分がなりたいものになるのです。
自分が選びたいように選ぶのです。
その自由こそが人の本質であり、永遠に真実だと思うからです。
あなたがどう考え、どうするかは、あなた自身が選択すること。
願わくばその選択によって、上手くいくのかどうかをしっかりと検証してほしいと思うのです。
それは、あなた自身が幸せになるためにもっとも有効なことでしょうから。
また体罰絡みですが、クラスメイトをナイフで脅した児童の頭を叩いた校長が、戒告処分を受けたというニュースです。
この市教委の対応に対して、校長を擁護する意見が殺到しているとか。
このくらいは躾の範囲だとして、愛のムチを認める人が多いようです。
この問題については、市教委の処罰が妥当かどうかという問題はあります。
しかしここでは、その部分については触れません。
ここで取り上げたいのは、校長が行った行為は教育と言えるかどうか、という点についてです。
結論から申し上げると私は、それを教育だとは思いません。
どんなに程度が軽いとは言え、叩くことは暴力です。
まず、言葉の定義をしなければなりません。
私が暴力と呼ぶのは、次のようなことです。
ある特定の価値観や考え方、または行為を強制する目的で、他人に苦痛や恐怖心を与えること。
つまり、相手が自由意志でそうすることを選択するのではなく、苦痛や恐怖心によって、無理やり押し付けられることです。
その苦痛や恐怖心を与える手段が、暴力だと考えます。
相手の自由にさせない、という点がポイントになります。
それに対して教育とは何かと言うと、次のようになります。
相手の自発性や自律性を促し、相手の成長を助けること。
つまり相手の自由意志で考えさせ、行動させる中で成長させることです。
このように、暴力と教育はまったく違うばかりか、真逆のことである考えています。
暴力と教育は、強制と自由ほどに、価値観が違うものなのです。
それで今回の校長の行為をみると、校長はナイフを持ち込んだ少年と、それを先生に通報しなかった複数の少年を、校長室に呼んで頭を平手で叩いたということになっています。
つまり、緊急避難的にナイフの危険から何かを守るために力を行使したのではなく、いわゆる躾として叩いたことがわかります。
これはどういうことかと言うと、「ナイフで脅してはならない」とか、「先生から言われたことに従え」という価値観を強制しようとして、少年に苦痛を与えたのです。
今度やったらまた苦痛を味わうことになるぞと脅して、恐怖心でその行為をさせないようにしたのです。
これを先ほどの定義に当てはめると、教育であるとは到底思えません。
完全に暴力です。
どんなにその価値観が、ある人にとっては絶対的に正しいものでも、相手の価値観に反しているなら、押し付けに過ぎません。
強制しようとして苦痛を与えたなら、それは暴力なのです。
では、教育ならどうしたでしょうか?
自発性や自律性を重んじるのであれば、まずその少年たちに、なぜそうしたのかを尋ねるでしょう。
少年には少年なりの理由があったはずです。
それがどんなに校長にとって納得できないものであったとしても、その少年にとっては正しいことなのです。
だから少年は、その理由(自分の考え方)を根拠に、ナイフで脅すという行為に出たのです。
周りの仲間たちも同様に、先生に通報しないという選択をしたのです。
ただ、その行為によって、目的が達成できたかどうかは別問題です。
その行為をする前は、その理由は少年にとって正しかったのです。
それで目的を達成できると、考えていたはずです。
でも実際にやってみた結果は、目的通りになったでしょうか?
そこを感じさせるのです。
そこを考えさせるのです。
もし上手くいってないとするなら、どこが間違っていたのかを一緒に考えます。
他の考え方はできないのか、どうすればもっと良くなるのかを、一緒に考えてあげるのです。
そして最終的に、どうするのが良いかを、少年自身に決めさせます。
自分の体験から学ばせる。
たいへんかもしれませんが、それが教育というものだと思うのです。
「ナイフで脅すのは悪い。」
「先生の言いつけは守るべきだ。」
それは、その校長の価値観です。
もしその校長が少年の立場だったら、同じことをやらなかったと言い切れるでしょうか?
考え方は人それぞれです。
同じ人でも時と場合によって変わります。
立場や事情が異なれば、考え方や価値観は変わるのです。
その事実を認めない限り、人はいつまでたっても正しいのは自分で、相手が悪いと言い張るでしょう。
もし人によって違うことを前提とするなら、苦痛を与えることで価値観や考え方を強制することなど、とてもできないはずです。
自分が正しく、相手が間違っている。
そう決めつけているから、平気でそれをやってしまうのです。
今回の事件で校長は、少年たちに手本を示しました。
相手に苦痛を与えることで自分の価値観を強制することは正しいことだ、という手本です。
そして、この考え方が世界中に蔓延しています。
これまでの大人たちが、そうやって子どもを教育してきたからです。
そして子どもたちは、大人がやることを真似ます。
自分が正しい。世間が間違っている。
だから暴力を奮ってもかまわない。
だから日常から暴力はなくならないし、世界的にも、いたるところで暴力の応酬が繰り広げられています。
お互いが、自分こそが正義だと言い合って。
そんな社会が、私たちの望みなのでしょうか?
暴力によって相手を強制しようとしても、これまでと同じことを繰り返すだけです。
いや繰り返すだけでは済みません。
昔よりはるかにパワーアップした武力は、人々や社会、この地球さえも、簡単に滅ぼしてしまうでしょう。
ブログで「子どもへのまなざし」という本を紹介しました。
子育てのバイブルと言う人もいるほど、お母さん方から評価されている本です。
その本でも、子育てに重要なのは愛することであって、強制することではないと書かれています。
それなのに、まだ多くの人が「愛のムチ」を信じているようです。
自分が正しくて相手が間違っているという偏狭な正義感を捨てない限り、暴力は有効であり続けるでしょう。
そして、暴力が有効だと信じている限り、平和な社会はやって来ません。
今はまだ、私のような考え方をする人は少数派のようです。
しかし私は、これを訴えずにはおられません。
批判されようと、無視されようと、本当の教育を行わなければ、私たちの社会は平和にはならないからです。
もちろん、だからと言って、私の考え方が絶対的に正しいとか、もっとも優れているなどと言うつもりはありませんよ。
それに、私の考えを、他の人に押し付けることもありません。
ただこれも1つの考えとして、私の考えを表明するだけです。
人は、自分がなりたいものになるのです。
自分が選びたいように選ぶのです。
その自由こそが人の本質であり、永遠に真実だと思うからです。
あなたがどう考え、どうするかは、あなた自身が選択すること。
願わくばその選択によって、上手くいくのかどうかをしっかりと検証してほしいと思うのです。
それは、あなた自身が幸せになるためにもっとも有効なことでしょうから。
2013年08月06日
それでもあなたは素晴らしい!
以前、野口嘉則さんの「あなたのストーリー」や「僕を支えた母の言葉」を紹介しました。
どちらも感動的な泣ける動画付きですから、まだご覧になられていない方は、ぜひご覧くださいね。
この中で伝えたいメッセージに、「あなたは素晴らしい」というものがあるように感じます。
そして私も、このメッセージをみなさんにお伝えしたいと思っています。
結局、幸せになることも、そのファーストステップに過ぎないのです。
そのことが、この前の出版オーディションにチャレンジする中で、はっきりしたように思います。
その気づきを、簡単にお話しましょう。
これまで多くの人が、幸せというものを得ようともがいてきました。
何かを所有すれば幸せになれる。何かをすれば幸せになれる。
そういうように、何かの結果として幸せが手に入ると考えていたのです。
しかし幸せは、何かの結果として手に入るものではありません。
すくい取ったと思ったと同時に、指の隙間からこぼれていく水のようなもの。
本当は水を手で救うのではなく、自ら水に飛び込めば良いだけ。
それと同様に幸せも、結果として手に入れるようとするのではなく、単に幸せになれば良いのです。
幸せとは心の状態ですから、自分の自由意志で選択するものです。自分で決めるものです。
幸せとはそういうものですから、こんなものが人生の目標や目的にはなり得ません。
では何が目標や目的かと言うと、幸せを原因として生きることによって、より素晴らしい自分を表現することです。
まず幸せになると、これまで見えてきたものが、また違うように見えてきます。
たとえば昨日の記事「一冊の本、一本のペンから」にあったように、世界にはこの瞬間に、多くの子どもが飢餓で亡くなっています。
貧困のために満足な医療が受けられずに苦しんでいます。教育が受けられなくて、自立できずにいます。
もしあなたが本当に幸せなら、「なんとかしてあげたい」と感じるはずです。
人の本性は愛ですから、孟子が惻隠の情と説明したように、そういう気持ちが起こるのです。
その思いは情熱となり、自分自身をどんどん拡大させていくでしょう。
最初は、小さなことしかできないかもしれない。でもあなたは、それでは満足できない。もっと、もっと・・・。
たとえあなたが今、病弱で寝込んでいても、リストラされて困窮していても、引きこもっていても、関係ありません。
あなたが今、その場で幸せになれば、あなたの心の中から愛が溢れ出てくるのです。
「なんとかしたい。でも、自分に何ができるだろう?」
このように、「自分には何もできない。」から「何ができるだろう?」へと考え方が変わります。
「今は貧しくて、100円しか寄付できないけど、それでも、少しでも役に立ちたい。」
そう考えるかもしれません。
そしてその思いは、さらに拡大していきます。あなたの情熱が、あなた自身を拡大させずにはおかないのです。
そのときあなたは、使命に生きるでしょう。
そして使命に生きている自分を、とても幸せだと感じるはずです。
幸せを原因として生きると、さらにさらに幸せになる。
人とは、そういう存在なのです。
無限に進化発展する。それが人という存在です。
すべての人がそうです。一人残らずそうです。
だから間違いなく、あなたは素晴らしい存在なのです。
そのことに、あなた自身が気づいていないだけです。
ただ、あなたが目覚めかけると、周りの人はあなたに忠告するかもしれません。
「なに甘いことを考えてるの。あなたに大それたことができるわけないでしょ。もっと現実を見なさいよ。」
あるいは、批判や非難をしたり、誹謗中傷するかもしれません。
なぜ周りの人はそうやって、あなたを引きずりおろそうとするのか?
それは、周りの人たちが不安だからです。あなたが先に行ってしまうと、取り残されるような気がして不安なのです。
だから、元のままに留まらせようとします。そればかりか、自分より下に置こうとします。
そうやって、相対的に自分の地位を上げることで、不安から逃れようとするのです。
そういう周りの人の言葉を真に受けてはいけません。
私の言葉も含めて、他人の言葉は疑ってかかることです。
では何を信じるのか?
それは自分自身の内なる声です。
自分が何を感じているのか、本当はどうしたいのか、それを自分の中に探すことです。
私は、あなたが受け入れようと受け入れまいと関係なく、私が信じる道を行きます。
それが、このメッセージを伝えることです。
あなたは本当に素晴らしい!
どちらも感動的な泣ける動画付きですから、まだご覧になられていない方は、ぜひご覧くださいね。
この中で伝えたいメッセージに、「あなたは素晴らしい」というものがあるように感じます。
そして私も、このメッセージをみなさんにお伝えしたいと思っています。
結局、幸せになることも、そのファーストステップに過ぎないのです。
そのことが、この前の出版オーディションにチャレンジする中で、はっきりしたように思います。
その気づきを、簡単にお話しましょう。
これまで多くの人が、幸せというものを得ようともがいてきました。
何かを所有すれば幸せになれる。何かをすれば幸せになれる。
そういうように、何かの結果として幸せが手に入ると考えていたのです。
しかし幸せは、何かの結果として手に入るものではありません。
すくい取ったと思ったと同時に、指の隙間からこぼれていく水のようなもの。
本当は水を手で救うのではなく、自ら水に飛び込めば良いだけ。
それと同様に幸せも、結果として手に入れるようとするのではなく、単に幸せになれば良いのです。
幸せとは心の状態ですから、自分の自由意志で選択するものです。自分で決めるものです。
幸せとはそういうものですから、こんなものが人生の目標や目的にはなり得ません。
では何が目標や目的かと言うと、幸せを原因として生きることによって、より素晴らしい自分を表現することです。
まず幸せになると、これまで見えてきたものが、また違うように見えてきます。
たとえば昨日の記事「一冊の本、一本のペンから」にあったように、世界にはこの瞬間に、多くの子どもが飢餓で亡くなっています。
貧困のために満足な医療が受けられずに苦しんでいます。教育が受けられなくて、自立できずにいます。
もしあなたが本当に幸せなら、「なんとかしてあげたい」と感じるはずです。
人の本性は愛ですから、孟子が惻隠の情と説明したように、そういう気持ちが起こるのです。
その思いは情熱となり、自分自身をどんどん拡大させていくでしょう。
最初は、小さなことしかできないかもしれない。でもあなたは、それでは満足できない。もっと、もっと・・・。
たとえあなたが今、病弱で寝込んでいても、リストラされて困窮していても、引きこもっていても、関係ありません。
あなたが今、その場で幸せになれば、あなたの心の中から愛が溢れ出てくるのです。
「なんとかしたい。でも、自分に何ができるだろう?」
このように、「自分には何もできない。」から「何ができるだろう?」へと考え方が変わります。
「今は貧しくて、100円しか寄付できないけど、それでも、少しでも役に立ちたい。」
そう考えるかもしれません。
そしてその思いは、さらに拡大していきます。あなたの情熱が、あなた自身を拡大させずにはおかないのです。
そのときあなたは、使命に生きるでしょう。
そして使命に生きている自分を、とても幸せだと感じるはずです。
幸せを原因として生きると、さらにさらに幸せになる。
人とは、そういう存在なのです。
無限に進化発展する。それが人という存在です。
すべての人がそうです。一人残らずそうです。
だから間違いなく、あなたは素晴らしい存在なのです。
そのことに、あなた自身が気づいていないだけです。
ただ、あなたが目覚めかけると、周りの人はあなたに忠告するかもしれません。
「なに甘いことを考えてるの。あなたに大それたことができるわけないでしょ。もっと現実を見なさいよ。」
あるいは、批判や非難をしたり、誹謗中傷するかもしれません。
なぜ周りの人はそうやって、あなたを引きずりおろそうとするのか?
それは、周りの人たちが不安だからです。あなたが先に行ってしまうと、取り残されるような気がして不安なのです。
だから、元のままに留まらせようとします。そればかりか、自分より下に置こうとします。
そうやって、相対的に自分の地位を上げることで、不安から逃れようとするのです。
そういう周りの人の言葉を真に受けてはいけません。
私の言葉も含めて、他人の言葉は疑ってかかることです。
では何を信じるのか?
それは自分自身の内なる声です。
自分が何を感じているのか、本当はどうしたいのか、それを自分の中に探すことです。
私は、あなたが受け入れようと受け入れまいと関係なく、私が信じる道を行きます。
それが、このメッセージを伝えることです。
あなたは本当に素晴らしい!
2013年08月07日
運命を拓く
満を持してこの本を紹介しましょう。中村天風氏の「運命を拓く」です。
私はおそらくこの本を一度読んでいるはずなのですが、すっかり忘れていました。
改めて読み直してみると、その内容に驚かされます。
おそらく前に読んだとき、20代の後半だと思いますが、そのときはよく理解できなかったのでしょう。
ただ積極的な考え方、ポジティブシンキングをするのが良い、くらいだったのだと思います。
しかし、ここに書かれているのは、それだけではありませんでした。
宇宙がいったいどういうものかということ、その宇宙と人間がどういう関係にあるのかということなど、そういう深いところから導き出された理論なのです。
前に紹介した「「原因」と「結果」の法則」が1902年に執筆されたものでしたが、中村天風氏が辻説法を始めたのは1919年くらいのようです。
不治の病と言われた肺結核に冒され、救いを求めてアメリカやヨーロッパを訪ねるものの、その答は見つかりませんでした。
そしてそのヨーロッパから日本に帰る途中、エジプトで出会ったのがインドのヨギ、カリアッパ師だったのです。
師は天風氏を一目見るなり、治るからついて来なさいと言って、インドの奥地に誘いました。
そこで修行を重ねることで天風氏は悟りを開き、病気をも治してしまいました。
その天風氏の理論ですが、これはまさに引き寄せの法則です。
積極的な思考によって自分の運命が開かれる。だから、常に積極的な思考をするよう、そういう気持ちを保てるよう、様々な実践方法を示しています。
そして、その引き寄せの法則が有効であることを、この世の仕組から説明します。
「とにかく、たった一つの、宇宙の本体が産み出したものが、森羅万象である。したがって、森羅万象を包含している宇宙も哲学的に究極していくと、現象界に存在する一切の物質もこの宇宙本体から産み出されたものなのである。」(p.34)
「”気”というものは、一定一ヵ所に静かにしている気遣いはない。”気”が動くと、動いた”気”によって、物が創られるようになっている。(中略)
”気”が動いたときの、”気”の元を、哲学では”霊”と言っている。”霊”というと、すぐ魂を思い浮かべるが、それはいけない。
霊というのは、極めてスーパーな、見えない”気”に対する名称なのだから。」(p.35)
「現代の人間は、肉体が自分であると思っている人が多いのではないか。しかし人間というものは、その正体をつきつめていくと、何も見えない、また感じない、霊魂という気である。その霊魂が、現象界に命を活動させるために、その活動を表現する道具として肉体と心が与えられている。」(p.44)
「いかなる理由で、心の行う思い方や考え方が、生命を強くもし弱くもするのかというと、それは精神生命に、命を活かす力となる宇宙エネルギーを受け入れる第一機能があるからである。」(p.46)
このように、宇宙は「気」からできていると説明します。その宇宙全体の気を宇宙霊と呼びます。
これを神と呼ぼうと、アラーと呼ぼうと、何でもかまわないけれど、その1つの宇宙霊から分派してできたのがこの世のすべてであり、人もまたそうなのだと言うのです。
そしてそれらは分かれてバラバラになったのではなく、常に大本の宇宙霊とつながっており、人は心の働きによって、その宇宙霊の気を操ることができると言います。
これはもう、「神との対話」シリーズで説明されていることそのものです。
そして天風哲学の真髄を、このように説明します。
「天風哲学は、たとえ人生に苦難や苦痛はあろうとも、それを心の力で喜びと感謝に振り替えていくのである。心が積極的になれば、振り替えることが出来るのである。振り替える方法をいつも教えているではないか。
天風哲学が、世界的にユニークであるというのはここであり、同時にここが最も重要な点である。であるから天風哲学は、神秘的な宗教的な信仰で導くような、価値のない教え方を断じてしないのである。どこまでも真理そのもので導いていく努力をしているのである。」(p.69)
なんと力強い宣言でしょうか。
今からおよそ100年前に、中村天風氏は銀行の頭取まで務めた身分を捨て、辻説法を始めました。
多くの批判を受けながら、バカにされながら、それでもやむにやまれぬ心情から人々に真理を説いたのです。
後に著名人も天風氏の考えに共感するようになって、やっと世間に認められるようになりました。
考えてみれば、イエスも釈迦も、当時は異端児だったのです。
そういう人たちの勇気ある行動によって、多くの人が真理を知ることができるようになりました。
日本にも、そういう異端児がいた。そしてその異端児が、真理をもたらしたのです。
2013年08月08日
幸せになれない人の考え方
誰もが、今あるそのままで、たいした努力もなしに、幸せになることができる。
それが、私が勧めている幸せになる方法です。
いつもは、その方法を直接的にお話しているのですが、今日は逆に幸せになれない人の思考法について、考えてみたいと思います。
私がお勧めする方法とまったく逆のことをやっているわけですから、それを知れば逆に、どうすれば幸せになれるかもわかると思うのです。
幸せになれない人は、ともかく現実に引っ張られます。特に、他の人に対して引っ張られます。
これを別の言い方をすると、他人に依存している、ということになるのです。
具体的な例で見てみましょうか。
最近、私のブログの特定のページに、恐ろしいほどアクセスが集まっています。
「映画「ワールド・ウォー Z」を観ました(ネタバレ注意)」という記事です。
日本での公開が明後日(10日)のようですから、注目が集まっているのでしょう。
このブログは幸せになる方法について書いているので、映画の評論をしているわけではありません。
ですから上記の記事も、幸せになるという観点から書かれたものです。
しかし、検索して私のブログに辿り着いた人の多くは、幸せになる方法を求めているのではなく、純粋に映画の情報を知りたい方が多いのでしょう。
そのせいか、私が書いた記事に対して批判的な人が多いようです。
コメントを読んでいただければわかりますが、ほとんどが私への反論です。
誹謗中傷的なものはコメント欄に掲載していませんから、本当はもっと多いのです。
冷静に私の記事を読めば、私が映画を観て感じたことを書いているだけで、映画そのものへの批判でも批評でもないことがわかっていただけると思います。
あの展開だと満足できないのが私だと、自分の気持ちを表明しているだけなのです。
しかし私に批判的な方のコメントは、そう考える私をおかしいと断定しています。
そして、私の考え方を改めさせずにはおかないという気持ちが伝わってきます。
どうして他人である私が考えることを、放っておけないのでしょう?
私がそう考えることで、誰かが迷惑するのでしょうか?あるいは誰かに実害を与えているのでしょうか?
おそらくそんなことはないはずです。ただ単に、私が考えたいように考えることが気に入らないのでしょう。
他人の考えが気に入らないと批判する人は、他人を変えようとしています。
なぜなら、他人がそういう考え方をしていると、自分の気分が悪いからです。つまり不幸なのです。
だから気分良くなりたくて、その原因だと考える他人の考えを変えようとしています。
つまり幸せになろうとして、他人を変えようとしているのです。
他人が自分の思い通りに変わってくれれば幸せになる。でも変わってくれないと不幸のまま。
これはまさに、自分の幸不幸が他人に依存している状態ではないでしょうか?
DV(家庭内暴力)が問題になりますが、あれも同じことです。
相手(たいていは女性)を自分の意のままにしようとして暴力を振るうのです。
暴力は単に手段ですから、それが暴言であろうと、態度で脅すだけであろうと、無視することであろうと、その本質は同じです。
要は、相手を自分の思い通りにしたい、そうしないと自分の気分が悪いということです。
だから、相手を変えようとして、最終手段として暴力を振るうのです。
メルマガ「SJ通信」に書いたものを載せた記事「体罰は教育に必要ですか?」でも、そのことを指摘しています。
躾(しつけ)と称して子どもに体罰を与えるのも、その精神構造は同じです。
相手を変えようとして、その最終手段として暴力を振るっているだけです。
そこにも書きましたが、その精神構造の根底には、「自分は正しいが、相手は間違っている」という考え方があります。
上記の映画の感想に批判的なコメントをされてる方も、自分の考え方が正しく、私の考え方が間違っているという観点から批判されています。
考え方は人それぞれとか、考え方や感じ方が違うのは当然だという、現実的な発想がないようです。
なぜそんな風に考えてしまうかというと、不安だからです。
本当はただ、自分の考え方(価値観)と違う人がいるだけなのに、それをその人が正しいなら自分が間違っていることになりはしないか、と不安なのです。
あるいは、自分と違う考え方をする人が、自分の考え方を否定していると感じるのです。
自分の考えが否定されるということは、すなわち自分自身が否定されたのと同じ。そう感じてしまうのです。
疑心暗鬼と言ってしまえばそれまでなのですが、不安が強い人は、そういうように感じます。
だから他人と同じであることに安心するし、空気を読むだとか、常識にしたがうことに、異常に熱心になるのです。
そしてそれは自分だけではなく、他人にも押し付けずにはおれないという衝動になります。
私自身がずっとそうだったのですから、その気持はよくわかります。
他人の不自然(=自分とは違う)な言動に腹を立てるのは、自分が否定されたような気持ちになるからです。
自分が否定されることは、自分の存在が脅かされていると感じるほど、不安でたまらないのです。
だから必死で自分を守ろうとして、相手に対して攻撃的になります。
つまり、相手を批判したり、非難したり、誹謗中傷するのです。それが最終的に暴力へ行き着きます。
そういう不安でたまらない状態は、幸せではありません。不幸です。
そういう不幸な状態を必死で打開しようとして他人を変えようとするのですが、多くの場合、それは成功しません。
なぜなら、他人は別の存在で、違いがあるのが当然なのですから。
そして人は自由ですから、他人は他人の思うがままに行動します。言い換えれば、他人は変えられないのです。
逆の方から考えると、先ず最初に、人はそれぞれ違いがあるという現実があります。そしてそれぞれが自由です。
そういう厳然たる事実があるにも関わらず、その事実を無視して、他人は自分と同じようであるべきだと考えることに無理があります。
無理があるにも関わらず、そこに執着しているために、自分の思いを成し遂げることができずにいる。
思いが成し遂げられないのですから、不満が溜まります。ストレスが溜まります。イライラします。これが不幸の構造です。
このように、他人を変えようとする考え方の原因は、自分自身の心の不安にあります。
それなのに、その本当の原因に気づかず、他人とか周りの環境、つまり結果として生じている部分を直接に変えようとするから、それができずに不満が溜まってしまいます。
こういう考え方から脱却できない間は、本当の意味では幸せにはなれません。
時には他人や周りの環境が思い通りになることもあるでしょう。そんなとき、瞬間的にホッとし、幸せを感じることもあるでしょう。
けれどもそれは、どうなるか自分でコントロールできないものに依存した、不安定な幸せにすぎません。
ですから結局、いつまでたっても他人や環境に翻弄される生き方になるのです。
もちろん、ここで言っていることも私の考えであって、これが絶対的に正しいとか、優れているなどと言うつもりはありません。単に1つの考え方に過ぎませんよ。
同意される方は同意されたらいいし、同意したくない人は同意しなければ良いだけです。
自分の考え方で充分に幸せだと思われるなら、それで良いではありませんか。
幸せな人は、他人を変えてやろうなどとは思いません。他人には他人の自由があるとわかっているからです。
他人がどうかによって、自分の幸せが左右されることはない。
それがわかっているから、他人を自由にさせられるのです。
他人に依存している不幸な人だけが、他人を変えようとしてイライラを募らせるのです。
それが、私が勧めている幸せになる方法です。
いつもは、その方法を直接的にお話しているのですが、今日は逆に幸せになれない人の思考法について、考えてみたいと思います。
私がお勧めする方法とまったく逆のことをやっているわけですから、それを知れば逆に、どうすれば幸せになれるかもわかると思うのです。
幸せになれない人は、ともかく現実に引っ張られます。特に、他の人に対して引っ張られます。
これを別の言い方をすると、他人に依存している、ということになるのです。
具体的な例で見てみましょうか。
最近、私のブログの特定のページに、恐ろしいほどアクセスが集まっています。
「映画「ワールド・ウォー Z」を観ました(ネタバレ注意)」という記事です。
日本での公開が明後日(10日)のようですから、注目が集まっているのでしょう。
このブログは幸せになる方法について書いているので、映画の評論をしているわけではありません。
ですから上記の記事も、幸せになるという観点から書かれたものです。
しかし、検索して私のブログに辿り着いた人の多くは、幸せになる方法を求めているのではなく、純粋に映画の情報を知りたい方が多いのでしょう。
そのせいか、私が書いた記事に対して批判的な人が多いようです。
コメントを読んでいただければわかりますが、ほとんどが私への反論です。
誹謗中傷的なものはコメント欄に掲載していませんから、本当はもっと多いのです。
冷静に私の記事を読めば、私が映画を観て感じたことを書いているだけで、映画そのものへの批判でも批評でもないことがわかっていただけると思います。
あの展開だと満足できないのが私だと、自分の気持ちを表明しているだけなのです。
しかし私に批判的な方のコメントは、そう考える私をおかしいと断定しています。
そして、私の考え方を改めさせずにはおかないという気持ちが伝わってきます。
どうして他人である私が考えることを、放っておけないのでしょう?
私がそう考えることで、誰かが迷惑するのでしょうか?あるいは誰かに実害を与えているのでしょうか?
おそらくそんなことはないはずです。ただ単に、私が考えたいように考えることが気に入らないのでしょう。
他人の考えが気に入らないと批判する人は、他人を変えようとしています。
なぜなら、他人がそういう考え方をしていると、自分の気分が悪いからです。つまり不幸なのです。
だから気分良くなりたくて、その原因だと考える他人の考えを変えようとしています。
つまり幸せになろうとして、他人を変えようとしているのです。
他人が自分の思い通りに変わってくれれば幸せになる。でも変わってくれないと不幸のまま。
これはまさに、自分の幸不幸が他人に依存している状態ではないでしょうか?
DV(家庭内暴力)が問題になりますが、あれも同じことです。
相手(たいていは女性)を自分の意のままにしようとして暴力を振るうのです。
暴力は単に手段ですから、それが暴言であろうと、態度で脅すだけであろうと、無視することであろうと、その本質は同じです。
要は、相手を自分の思い通りにしたい、そうしないと自分の気分が悪いということです。
だから、相手を変えようとして、最終手段として暴力を振るうのです。
メルマガ「SJ通信」に書いたものを載せた記事「体罰は教育に必要ですか?」でも、そのことを指摘しています。
躾(しつけ)と称して子どもに体罰を与えるのも、その精神構造は同じです。
相手を変えようとして、その最終手段として暴力を振るっているだけです。
そこにも書きましたが、その精神構造の根底には、「自分は正しいが、相手は間違っている」という考え方があります。
上記の映画の感想に批判的なコメントをされてる方も、自分の考え方が正しく、私の考え方が間違っているという観点から批判されています。
考え方は人それぞれとか、考え方や感じ方が違うのは当然だという、現実的な発想がないようです。
なぜそんな風に考えてしまうかというと、不安だからです。
本当はただ、自分の考え方(価値観)と違う人がいるだけなのに、それをその人が正しいなら自分が間違っていることになりはしないか、と不安なのです。
あるいは、自分と違う考え方をする人が、自分の考え方を否定していると感じるのです。
自分の考えが否定されるということは、すなわち自分自身が否定されたのと同じ。そう感じてしまうのです。
疑心暗鬼と言ってしまえばそれまでなのですが、不安が強い人は、そういうように感じます。
だから他人と同じであることに安心するし、空気を読むだとか、常識にしたがうことに、異常に熱心になるのです。
そしてそれは自分だけではなく、他人にも押し付けずにはおれないという衝動になります。
私自身がずっとそうだったのですから、その気持はよくわかります。
他人の不自然(=自分とは違う)な言動に腹を立てるのは、自分が否定されたような気持ちになるからです。
自分が否定されることは、自分の存在が脅かされていると感じるほど、不安でたまらないのです。
だから必死で自分を守ろうとして、相手に対して攻撃的になります。
つまり、相手を批判したり、非難したり、誹謗中傷するのです。それが最終的に暴力へ行き着きます。
そういう不安でたまらない状態は、幸せではありません。不幸です。
そういう不幸な状態を必死で打開しようとして他人を変えようとするのですが、多くの場合、それは成功しません。
なぜなら、他人は別の存在で、違いがあるのが当然なのですから。
そして人は自由ですから、他人は他人の思うがままに行動します。言い換えれば、他人は変えられないのです。
逆の方から考えると、先ず最初に、人はそれぞれ違いがあるという現実があります。そしてそれぞれが自由です。
そういう厳然たる事実があるにも関わらず、その事実を無視して、他人は自分と同じようであるべきだと考えることに無理があります。
無理があるにも関わらず、そこに執着しているために、自分の思いを成し遂げることができずにいる。
思いが成し遂げられないのですから、不満が溜まります。ストレスが溜まります。イライラします。これが不幸の構造です。
このように、他人を変えようとする考え方の原因は、自分自身の心の不安にあります。
それなのに、その本当の原因に気づかず、他人とか周りの環境、つまり結果として生じている部分を直接に変えようとするから、それができずに不満が溜まってしまいます。
こういう考え方から脱却できない間は、本当の意味では幸せにはなれません。
時には他人や周りの環境が思い通りになることもあるでしょう。そんなとき、瞬間的にホッとし、幸せを感じることもあるでしょう。
けれどもそれは、どうなるか自分でコントロールできないものに依存した、不安定な幸せにすぎません。
ですから結局、いつまでたっても他人や環境に翻弄される生き方になるのです。
もちろん、ここで言っていることも私の考えであって、これが絶対的に正しいとか、優れているなどと言うつもりはありません。単に1つの考え方に過ぎませんよ。
同意される方は同意されたらいいし、同意したくない人は同意しなければ良いだけです。
自分の考え方で充分に幸せだと思われるなら、それで良いではありませんか。
幸せな人は、他人を変えてやろうなどとは思いません。他人には他人の自由があるとわかっているからです。
他人がどうかによって、自分の幸せが左右されることはない。
それがわかっているから、他人を自由にさせられるのです。
他人に依存している不幸な人だけが、他人を変えようとしてイライラを募らせるのです。
2013年08月09日
幸せになれる人の考え方
昨日の記事が「幸せになれない人の考え方」だったので、今日はその逆の観点から話をします。
しつこいと思われるかもしれませんが、何度も何度も、手を変え品を変えてインプットすることが重要だと思います。
そうすることで、徐々に自分の中にその考え方が形成されますからね。
そういう意味では、同じ文章を何度も読むというのも同様の効果があります。
同じ本を7回読むことを勧めていたのは斎藤一人さんでした。私も一人さんの本を7回読みましたよ。
そうすることで、そこに書かれていることが深く理解できるし、心に浸透してきます。
そのことを以前、「少しずつ腑に落ちていく」という記事にも書きました。
ですから、繰り返すことは重要なのです。
とは言え、同じことを繰り返すと飽きるものです。
これは人の本性だと思います。みんな飽きるんですよ、同じことだと。
そこで、ちょっとだけ変える、ということが大切になってきます。
本を繰り返し読む場合でも、少し間を置くことで、多少忘れている状態を作ることがコツですね。
だから毎回、新鮮な気持ちで読めます。
もちろん達人になると、その飽きるところをぐっと我慢し、同じように見える中に新鮮なものを見つけようと努力します。
昔の中国、殷という国の湯王という人が、そういうことをやっていました。
顔を洗う水を入れた洗面器に、自分を戒める言葉を彫り、それを毎朝見ては、自らの襟を正したそうです。
「湯 ( とう ) の 盤 ( ばん ) の銘に曰く、「 苟 ( まこと ) に日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり」と。」
まあそれくらい、同じことの繰り返しは飽きるし、マンネリになりがちだということです。
とまあ長い前置きでしたが、昨日とは視点を変えて、幸せになる人の考え方についてお話しましょう。
昨日の記事にも書いているように、幸せになる人となれない人は、考え方も逆なのです。
ではどの部分が逆かというと、他人や環境にとらわれる考え方か、とらわれない考え方か、という点です。
特に他人に依存することが多いので、その部分に焦点を当てました。
他人が自分の思い通りになることにとらわれると、そうならない現実に直面するために、幸せになれないのでしたよね。
幸せになれる人は、他人は他人だと割り切っているため、他人を思い通りにしようとは考えないのです。
そして、そもそも他人と自分とは違うとわかっていますから、他人から「常識に従え!」と強制するようなことを言われても、あまり意に介しません。
自分の頭で考えて、その人が言うようにした方が良いと思えば従うし、良いと思えないのであれば従わないのです。
つまり、表面上は他人の言に従うことがあっても、内面的には言いなりになっているのではなく、自分で決めているのです。
自分で自分のことを決めているのですから、その結果、何か不都合なことが起こったとしても、他人を責めるようなことをしません。
単に自分の選択が間違っていたと気づいたのですから、今度は別の選択をしようと考えるだけです。
いかがでしょう?とても自由だと思いませんか?
そうなのです。自由なのです。何にもとらわれないということは、まさにその言葉通りに自由なのです。
自由でいられるから、不満がありません。不満がないから、幸せでいられます。
このように、幸せになれる考え方をする人は、苦労もなしに幸せでいられるのです。
「そう簡単なように言うけど、他人の言動が気になってしまうんだもの、しょうがないじゃないの。」
そういう気持ちになる人は多いでしょうね。私もそうでしたから。
実はこれが、仏教などの宗教が解決しようとしてきた難問なのです。
執着を手放す。
口が酸っぱくなるほど、仏教ではこの重要性が語られています。
そのためにお坊さんは、厳しい修行をするのです。
でも、なかなかその執着心を手放せません。このことは、以前の記事「性欲を抑えるには座禅修行?」で触れています。
それほどまでに執着心を手放すことが難しいなら、一般の衆生は、どうやって手放せるでしょう?
中村天風氏は、この方法論において独自の「心身統一法」を編み出し、多くの人に影響を与えました。
私が提唱している方法は、それとはちょっと違いますが、様々な人のやり方から影響を受けて、私なりに考えたものです。
ですから私独自のものと言うより、多くの人が言っていることの寄せ集めみたいなものですね。
まあでも、効果があるならそれで良いではありませんか。私はそう思っています。
それで執着心を手放す方法ですが、そのポイントはいつも言うように、理論を知ることと、理論を知って実践することです。
理論で重要なのは、「必要性は存在しない」ということ。必要性を感じているけど、それは幻想だということです。
必要性が存在しないなら、執着する必要がないわけです。
あとは必要性が幻想だということを、徐々に自分の心に浸透させるために、実践を繰り返すことです。
実践方法はいろいろ書いていますので、「実践内容」や「鏡のワーク」のカテゴリをご覧ください。
わかってしまえば「なーんだ」というようなことなのですが、心がとらわれていると、なかなか気づかないことだと思います。
また、理解したとしても、気を許すといつの間にか、執着していたりするもの。
だから常に理論を学びつつ実践を繰り返す。これが重要になります。
「なんだか大変そうだねえ。」
そう思われるかもしれませんね。
そう思われるのでしたら、やらないという選択肢もあります。それで幸せでいられるなら、それで充分ではありませんか。
なかなか幸せになれない、もう今までの自分では嫌だ。そう感じたとき、思い出してみてください。
人は、自分の自由意志で決断するもの。それもまた、重要な理論ですからね。
しつこいと思われるかもしれませんが、何度も何度も、手を変え品を変えてインプットすることが重要だと思います。
そうすることで、徐々に自分の中にその考え方が形成されますからね。
そういう意味では、同じ文章を何度も読むというのも同様の効果があります。
同じ本を7回読むことを勧めていたのは斎藤一人さんでした。私も一人さんの本を7回読みましたよ。
そうすることで、そこに書かれていることが深く理解できるし、心に浸透してきます。
そのことを以前、「少しずつ腑に落ちていく」という記事にも書きました。
ですから、繰り返すことは重要なのです。
とは言え、同じことを繰り返すと飽きるものです。
これは人の本性だと思います。みんな飽きるんですよ、同じことだと。
そこで、ちょっとだけ変える、ということが大切になってきます。
本を繰り返し読む場合でも、少し間を置くことで、多少忘れている状態を作ることがコツですね。
だから毎回、新鮮な気持ちで読めます。
もちろん達人になると、その飽きるところをぐっと我慢し、同じように見える中に新鮮なものを見つけようと努力します。
昔の中国、殷という国の湯王という人が、そういうことをやっていました。
顔を洗う水を入れた洗面器に、自分を戒める言葉を彫り、それを毎朝見ては、自らの襟を正したそうです。
「湯 ( とう ) の 盤 ( ばん ) の銘に曰く、「 苟 ( まこと ) に日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり」と。」
まあそれくらい、同じことの繰り返しは飽きるし、マンネリになりがちだということです。
とまあ長い前置きでしたが、昨日とは視点を変えて、幸せになる人の考え方についてお話しましょう。
昨日の記事にも書いているように、幸せになる人となれない人は、考え方も逆なのです。
ではどの部分が逆かというと、他人や環境にとらわれる考え方か、とらわれない考え方か、という点です。
特に他人に依存することが多いので、その部分に焦点を当てました。
他人が自分の思い通りになることにとらわれると、そうならない現実に直面するために、幸せになれないのでしたよね。
幸せになれる人は、他人は他人だと割り切っているため、他人を思い通りにしようとは考えないのです。
そして、そもそも他人と自分とは違うとわかっていますから、他人から「常識に従え!」と強制するようなことを言われても、あまり意に介しません。
自分の頭で考えて、その人が言うようにした方が良いと思えば従うし、良いと思えないのであれば従わないのです。
つまり、表面上は他人の言に従うことがあっても、内面的には言いなりになっているのではなく、自分で決めているのです。
自分で自分のことを決めているのですから、その結果、何か不都合なことが起こったとしても、他人を責めるようなことをしません。
単に自分の選択が間違っていたと気づいたのですから、今度は別の選択をしようと考えるだけです。
いかがでしょう?とても自由だと思いませんか?
そうなのです。自由なのです。何にもとらわれないということは、まさにその言葉通りに自由なのです。
自由でいられるから、不満がありません。不満がないから、幸せでいられます。
このように、幸せになれる考え方をする人は、苦労もなしに幸せでいられるのです。
「そう簡単なように言うけど、他人の言動が気になってしまうんだもの、しょうがないじゃないの。」
そういう気持ちになる人は多いでしょうね。私もそうでしたから。
実はこれが、仏教などの宗教が解決しようとしてきた難問なのです。
執着を手放す。
口が酸っぱくなるほど、仏教ではこの重要性が語られています。
そのためにお坊さんは、厳しい修行をするのです。
でも、なかなかその執着心を手放せません。このことは、以前の記事「性欲を抑えるには座禅修行?」で触れています。
それほどまでに執着心を手放すことが難しいなら、一般の衆生は、どうやって手放せるでしょう?
中村天風氏は、この方法論において独自の「心身統一法」を編み出し、多くの人に影響を与えました。
私が提唱している方法は、それとはちょっと違いますが、様々な人のやり方から影響を受けて、私なりに考えたものです。
ですから私独自のものと言うより、多くの人が言っていることの寄せ集めみたいなものですね。
まあでも、効果があるならそれで良いではありませんか。私はそう思っています。
それで執着心を手放す方法ですが、そのポイントはいつも言うように、理論を知ることと、理論を知って実践することです。
理論で重要なのは、「必要性は存在しない」ということ。必要性を感じているけど、それは幻想だということです。
必要性が存在しないなら、執着する必要がないわけです。
あとは必要性が幻想だということを、徐々に自分の心に浸透させるために、実践を繰り返すことです。
実践方法はいろいろ書いていますので、「実践内容」や「鏡のワーク」のカテゴリをご覧ください。
わかってしまえば「なーんだ」というようなことなのですが、心がとらわれていると、なかなか気づかないことだと思います。
また、理解したとしても、気を許すといつの間にか、執着していたりするもの。
だから常に理論を学びつつ実践を繰り返す。これが重要になります。
「なんだか大変そうだねえ。」
そう思われるかもしれませんね。
そう思われるのでしたら、やらないという選択肢もあります。それで幸せでいられるなら、それで充分ではありませんか。
なかなか幸せになれない、もう今までの自分では嫌だ。そう感じたとき、思い出してみてください。
人は、自分の自由意志で決断するもの。それもまた、重要な理論ですからね。
2013年08月10日
幸福なる人生
前回の「運命を拓く」に続いて、中村天風氏の本を紹介します。
これは公益財団法人天風会が3万円で販売している「心身統一法 入門編」というCDを書籍化したものです。
今は亡き天風氏の肉声を聴くことができるCDですから、とても貴重なものです。そしてCDで聴くなら3万円する知識を、わずか2千円弱で得られるというのが、本の素晴らしいメリットかと思います。
この中で天風氏は、独自に編み出された心身統一法について、わかりやすく詳細に説明しています。
心身統一法というのは、まず健康法でもないし、修養法でもないと言います。もちろん宗教でもないと。
では何かと言うと、こう言います。
「心身統一法とは、人生を幸福に生かすのに必要な条件を完全につくり上げる方法。」(p.25)
アメリカのロックフェラーから、いくらでも金をあげるから来てくれと招待された天風氏。
それほどまでに価値があるのだと、心身統一法を説明します。
幸福の逆の不幸の最たるものは何かと言うと、病、煩悶(はんもん)、貧乏だと天風氏は言います。
ですから、これらから離れれば、幸福に至るというわけです。
それでどうすればそれらから離れられるかというと、「第一が体力、第二が胆力、第三が判断力、第四が断行力、第五が精力、第六が能力」という「六つの力の内容量を豊富に」することだと説明します。(p.33)
その六つの力の内容量を豊富にする方法が、心身統一法なのです。
では、どうすれば心身を統一することができるかというと、「心身統一の四箇条」を守ることだと言います。
それが「心」と「肉体」の、それぞれの「持ち方」と「使い方」なのです。
特に重要なのは心の持ち方と使い方で、積極的な心の持ち方をすることと、常に観念を集中する心の使い方をすることになります。(p.73 - 76)
このように順を追いながら、わかりやすく心身統一法について天風氏は説明します。
ここで書かれている内容の多くは、すでに多くの人が語っていることです。
それは天風氏自身も言っています。
ただ、具体的な方法論において、独自性があるのだということです。
たしかに、宇宙霊と人はつながっているとか、心が主で肉体が従だとか、だから心を働かせることでコントロールできるなどということは、他にも多くの人が言っています。
では違いがあるという具体的な方法論は何かと言うと、「感応性能を強く」することで、それを次のように説明します。
「この感応性能を強くするには、三つの条件が解決されなきゃいけないんです。第一が観念要素の更改、第二が積極観念の養成、第三が神経反射の調節。」(p.100)
そこからまた、それぞれの条件が何かという説明になりますが、ここまでにしておきましょう。
あとはぜひ、この本を読むか、CDをお聞きください。
最後に、健康な肉体のために食生活を改めるように言っています。
それは、動物性タンパク質が人の身体に害を与えているから肉食を控えるように、ということなのです。
プトマイントキシンという物質が含まれていて毒性があるように書かれていますが、この説明の真偽は何ともいえませんね。
と言うのは、「プトマイントキシン」で検索しても、科学的な説明がされているサイトが1つもなかったからです。
ただ、「神との対話」シリーズでも肉食の問題を指摘しているし、ベジタリアンが増えているのも事実。
こうなったら自分の身体で確かめるしかないと思い、私自身が肉食を減らすことにしました。(笑)
これでやってみて、目に見える変化があるなら、理由はともあれ、肉食をしない方が良いという説を信じられるからです。
どうなるかわかりませんが、私も楽しみながら実験したいと思います。
●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。