最近は、多くの人が「すべてはつながっている」とか、「すべてはひとつのものだ」ということを言うようになりました。
私も「神との対話」シリーズを読むようになってから、そう考えるようになったのですが、実は大昔から言われてきたことなのですよね。
それが最近、特に2012年からスピリチュアルな時代に入ると言われるようになってから、あちこちで「つながり」を意識させられる表現を目にするようになりました。
たとえば成功哲学で「引き寄せの法則」というのがあります。
あれもまた、私たちがつながっているから可能な法則ですよね?もし私たちが本当にバラバラだったら、どうして何かが引き寄せられるのでしょう?
「神との対話」シリーズでは、「引き寄せの法則」が働く仕組をみごとに説明しています。
それは、この世のすべてが「ひとつのもの」であり、エネルギーだからです。
エネルギーは、波動とも言えます。そして、個々の振動数(周波数)を持っています。
振動と言えば、理科の実験で習った共鳴を思い出しませんか?
同じような音叉(おんさ)を離して置いて、片方を叩いて鳴らすと、もう一方の音叉も鳴り出すという実験です。
それと同じように私たちが表現した思考、言葉、行動というものは、固有の振動数(周波数)を持ったエネルギーだと言います。
そしてその波動は、静かな湖面に小石を落とした時の波紋が無限に広がっていくように、「ひとつのもの」の中で広がって行きます。
そのとき、同じ振動数に共鳴するものがあったら、どうなるでしょうか?
地球の反対側で、同時に同じ発明や発見をしたという話を聞いたことがありませんか?偶然の一致でしょうか?
そう、そういうものは「偶然の一致」と表現されます。
しかし、それは「ひとつのもの」であることを知らないから、表面だけ見て偶然だと言うのです。
あたかも偶然のように見える不思議な一致を意識することは、「「東の大富豪」の教え」で提唱されています。
シンクロニシティー(共時性)とも言われますが、「意味のある偶然の一致」ですね。
そしてまた、本田健さんも同じことを言われています。
健さんは、数多くの成功者にインタビューをして来られた方です。そういう人たちの共通点を、こう言っています。
「私がインタビューした中でも、ヒッチハイクしたことが縁で一緒にビジネスを始め、上場会社にまで成長させた人がいました。また、飛行機で隣り合った人から投資のチャンスをつかみ、財をなした人もいれば、レストランで隣になった人が最大の取引先になったなど、そんなことありえる?という話をたくさん聞いてきました。
彼らに共通するのは、いつも意識が鋭敏で、ほんの些細なチャンスも逃さないことです。同じような偶然が私たちの人生に起こっていても、単に気がつかないだけなのかもしれません。
シンクロニシティーを意識しはじめると、連鎖的に物事が起こってきます。予想外にいろいろなチャンスが広がっていき、ベストなタイミングで出会うべき人と出会うようになります。シンクロニシティーは、チャンスの自動ドアといってもいいでしょう。」
(「きっと、よくなる!」 本田健/サンマーク文庫 p.99)
こちらは小説ですけど、通称「またかな」こと「「また、必ず会おう」と誰もが言った。」という本でも、主人公の高校生がひょんなことから一人旅をすることになり、様々な人と出会うことで成長していくさまが描かれています。
しかし、この小説で喜多川泰さんが表現したかったのは、偶然の出会いというものはない、ということです。
自らの決断が、新たな出会いを引き寄せます。
誰かとの出会いで人生が変わるのですが、その出会いを演出しているのは、自分自身の決断なのです。
神渡良平さんは、「静寂の時間がいのちの根を養う」という本の中で、大自然と向き合ったり、瞑想や内観をするなどすることで、自分の内側を深く探求することの重要性を書かれています。
「神との対話」シリーズでも同様に、瞑想するなどして、自分の内側に入っていくことを勧めています。
また、本を読むことも良いと、今読んでいる「明日の神」にも書いてありましたね。
方法は何であってもかまわないのですが、自分の外に青い鳥を探し求めていては、いつまでたっても答が見つからない、ということなのです。
探す場所は、自分の内側です。
出来事や外的な環境は、すべて自分の心を映し出す鏡のようなもの。
ですから、鏡に映る自分の顔が気に入らないからと言って、鏡の中に手を伸ばして変えようとしても、無意味なことなのです。
それよりも、自分自身の顔を手入れすることです。
私自身は、一人本を読むというスタイルが好きです。
いつでもどこでも、時間があればカバンから本を取り出して読みます。
その瞬間は、本の文字に集中しているように見えて、実は自分の内面と語り合っているのです。
ですから共鳴したときは涙を流すこともあるし、様々な感情が湧いてきます。それをしっかりと味わうのです。
あなたもぜひ、あなたなりの方法を見つけて、自分ともっと語り合うようにしてみましょう。
2013年07月01日
2013年07月02日
出来事はすべて良いことです
最近、神渡良平さんや本田健さんの本など、数多くの本を読んでいます。
その中でよく出てくるのが、「出来事はすべて良いことだ」という考え方です。
斎藤一人さんなども、そう言われてますね。
この言葉を聞いた時、みなさんはどう思われるでしょうか?
「そんなことないよ、悪いことだって起こるでしょう。」
おそらくそんな感じだと思います。私も、そう考えていましたから。
この幸せ実践塾では、「起こる出来事はすべてニュートラル(中立)だ」と言っています。
ニュートラルとは、何の意味もないということです。
しかし人は、出来事に対して良いとか悪いとか意味を感じていますよね。それは、その人が意味をつけているからなのです。
だからそれを逆手に取って、自分で勝手に都合の良い意味をつけたら良いと言うのです。
どうせ勝手につけるのですから、それだったら自分の都合が良いようにつけた方が得するじゃありませんか。
そんな風に思っていたのですが、最近、私も少し考え方を変えました。
それは先ほど言ったように、「出来事はすべて良いことだ」という考え方について、検討しようと思ったからです。
たしかに、何の意味もなく出来事が起こるとしたら、それは偶然だということになってしまいます。
しかし私は一方で、「出来事は必然で無駄がない」ということも言っていました。
この整合性がとれないと感じるようになったのです。
もちろん、出来事に好き勝手に意味がつけられるということも、間違っているわけではありません。
出来事は単に結果なのですから、それにとらわれないようにするためには、都合の良い意味をつけた方が良いのです。
そうすることで私たちは、原因である自分の思考をコントロールできるのですから。
しかし、それとともに、やはり何らかの意図があって出来事が起きているとも言えるのです。
そのことを端的に表しているのが孟子の言葉です。
「天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、其の筋骨を労し、その体膚を餓やし、其の身を空乏(くうぼう)し、行ひ其の為すところに払乱(ふつらん)せしむ。 心を動かし、性を忍び、その能はざる所を曾益(ぞうえき)せしむる所以(ゆえん)なり。」
つまり、大きな使命を持っている人は、困難な状況を経験させられて、それを遂行するだけの能力を高めるように導かれる、ということなのです。
大病、貧乏、収監という3つの大難は、その人を痛めつけようとして起こる出来事ではなく、むしろ高めようとして起こる出来事なのだということになります。
しかし、そういう困難に出会った時に耐え切れず、たとえば自殺してしまった人はどうなるのでしょうか?
天の要請に応えられなかったとして、何か罰を受けるのでしょうか?
そんなことはないと思います。
なぜなら、天の使命というのは、その人が果たさなければならない義務ではないと思うからです。
人間が自由だということは、義務は存在しないということです。
自由とは、言葉通りに自由です。何をしても良いということです。ですから、何かをしなければならない(=義務)というものが存在するなら、それは自由の否定になってしまいます。
ですから、天が人に使命を与えるのは、義務であるはずがありません。それでは、せっかく与えた自由が台無しになってしまうからです。
ではなぜ、何らかの意図をもって、ある出来事を起こさせると言うのでしょうか?
そこで考えてみると、天(=生命)には意思があるということです。
それは、私たちが生きる目的でもあります。
その目的を私は、「自分らしさを体験すること」というように説明しました。
それはすなわち、天(=生命)自身が、自分を体験したがっている、そういう意志を持っているということなのです。
では天は、どんな体験をしたがっているのでしょうか?
たとえば不平不満を漏らしながら、誰かを恨むような体験をしたがっているでしょうか?
おそらく、そうではないと思います。なぜなら、そういう体験をしたとき、私たちは気持ち悪さを感じているからです。
喜びがないのです。幸せを感じないのです。それはつまり、「これは私じゃない」と、私の魂が言っているのです。
では、どんな困難な状況でも他の人を信じ、助け、愛するような体験はどうでしょう?
仮に自分にそういう体験がないとしても、そういうドラマや映画を見た時、どう感じるでしょうか?
感動し、涙をながすほど喜ぶのではありませんか?
それはすなわち、「これが私だ。ここに私がいる。」と、私の魂が言っているのです。
こういう自分自身の感情を感じてみると、天(=魂)が体験したがっているものとは、より大きな自分であり、偉大な自分であり、進化した自分であると言えると思います。
つまり、天(=魂)は成長したがっているし、成長を体験したがっていると言えるのです。
天がそういう意図を持っているとするなら、私たちをどういう出来事に導くでしょうか?
常に波風のない平穏な状況に置いておこうとするでしょうか?
そんなはずはありません。それでは、目的を達成できないからです。
したがって私たちは、自分の意思に反して、困難な出来事に遭遇することになります。
しかしそれは、私たちにとって悪いことではありません。なぜなら、私たちの魂が、自分を成長させるためにちょうど良い体験をさせようと意図して、そういう出来事に導いたのですから。
よく、「解決できない問題は起こらない」と言う人がいます。
それなども、上記のような背景があるとしたら、当然だと思えませんか?
本田健さんは、「人生を信頼しなさい」と言っています。
人生とは、すなわち私たちが遭遇する出来事であり、その出来事に導いている私たちの魂だと思います。
自分の魂が、自分にとって悪いことをするはずがない。
そう言葉にすると、当たり前のように聞こえますよね。
でも、困難な現実を目の前にした時、そう信じることができるでしょうか?そこが問題なのだと思うのです。
困難な現実に押しつぶされて、自殺しないまでも逃避したり、自暴自棄になってしまう人もいるでしょう。
けれども魂は、そういう私たちの意識を責めません。なぜなら、自由を与えているからです。
自由を与えるとは、愛するということです。魂とは、天とは、まったき愛なのです。
愛は愛するより他になく、恨みも嘆きもせずに、私たちの意識がいつか気づいて成長することを願っているのです。
出来事には、天(=魂)の意図があります。
けれども天は、その意図を私たち(=意識)に押し付けません。
ですから、そういう意味では、出来事に意味はないのです。私たち(=意識)は、私たちの自由意思として何らかの意味を出来事に与え、その出来事を経験し、自分に役立てれば良いのです。
出来事を利用して、自分自身を成長させたいですか?
もしそうなら、その出来事を与えられたことに感謝し、意図的に意味を与えることです。意識して、目覚めて生きることです。
逆に、もうしばらく眠っていたいのなら、成長したいと思わないのなら、これまで通りに出来事に反応し、怒ったり嘆いたり、感情が暴れるがままに放っておけば良いのです。
でもいつかは、そういう生き方に飽きるでしょう。「こんなのは嫌だ!」と叫ぶ日が来るでしょう。
天(=魂)は、ただその日を待っている。私はそう思うのです。
その中でよく出てくるのが、「出来事はすべて良いことだ」という考え方です。
斎藤一人さんなども、そう言われてますね。
この言葉を聞いた時、みなさんはどう思われるでしょうか?
「そんなことないよ、悪いことだって起こるでしょう。」
おそらくそんな感じだと思います。私も、そう考えていましたから。
この幸せ実践塾では、「起こる出来事はすべてニュートラル(中立)だ」と言っています。
ニュートラルとは、何の意味もないということです。
しかし人は、出来事に対して良いとか悪いとか意味を感じていますよね。それは、その人が意味をつけているからなのです。
だからそれを逆手に取って、自分で勝手に都合の良い意味をつけたら良いと言うのです。
どうせ勝手につけるのですから、それだったら自分の都合が良いようにつけた方が得するじゃありませんか。
そんな風に思っていたのですが、最近、私も少し考え方を変えました。
それは先ほど言ったように、「出来事はすべて良いことだ」という考え方について、検討しようと思ったからです。
たしかに、何の意味もなく出来事が起こるとしたら、それは偶然だということになってしまいます。
しかし私は一方で、「出来事は必然で無駄がない」ということも言っていました。
この整合性がとれないと感じるようになったのです。
もちろん、出来事に好き勝手に意味がつけられるということも、間違っているわけではありません。
出来事は単に結果なのですから、それにとらわれないようにするためには、都合の良い意味をつけた方が良いのです。
そうすることで私たちは、原因である自分の思考をコントロールできるのですから。
しかし、それとともに、やはり何らかの意図があって出来事が起きているとも言えるのです。
そのことを端的に表しているのが孟子の言葉です。
「天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、其の筋骨を労し、その体膚を餓やし、其の身を空乏(くうぼう)し、行ひ其の為すところに払乱(ふつらん)せしむ。 心を動かし、性を忍び、その能はざる所を曾益(ぞうえき)せしむる所以(ゆえん)なり。」
つまり、大きな使命を持っている人は、困難な状況を経験させられて、それを遂行するだけの能力を高めるように導かれる、ということなのです。
大病、貧乏、収監という3つの大難は、その人を痛めつけようとして起こる出来事ではなく、むしろ高めようとして起こる出来事なのだということになります。
しかし、そういう困難に出会った時に耐え切れず、たとえば自殺してしまった人はどうなるのでしょうか?
天の要請に応えられなかったとして、何か罰を受けるのでしょうか?
そんなことはないと思います。
なぜなら、天の使命というのは、その人が果たさなければならない義務ではないと思うからです。
人間が自由だということは、義務は存在しないということです。
自由とは、言葉通りに自由です。何をしても良いということです。ですから、何かをしなければならない(=義務)というものが存在するなら、それは自由の否定になってしまいます。
ですから、天が人に使命を与えるのは、義務であるはずがありません。それでは、せっかく与えた自由が台無しになってしまうからです。
ではなぜ、何らかの意図をもって、ある出来事を起こさせると言うのでしょうか?
そこで考えてみると、天(=生命)には意思があるということです。
それは、私たちが生きる目的でもあります。
その目的を私は、「自分らしさを体験すること」というように説明しました。
それはすなわち、天(=生命)自身が、自分を体験したがっている、そういう意志を持っているということなのです。
では天は、どんな体験をしたがっているのでしょうか?
たとえば不平不満を漏らしながら、誰かを恨むような体験をしたがっているでしょうか?
おそらく、そうではないと思います。なぜなら、そういう体験をしたとき、私たちは気持ち悪さを感じているからです。
喜びがないのです。幸せを感じないのです。それはつまり、「これは私じゃない」と、私の魂が言っているのです。
では、どんな困難な状況でも他の人を信じ、助け、愛するような体験はどうでしょう?
仮に自分にそういう体験がないとしても、そういうドラマや映画を見た時、どう感じるでしょうか?
感動し、涙をながすほど喜ぶのではありませんか?
それはすなわち、「これが私だ。ここに私がいる。」と、私の魂が言っているのです。
こういう自分自身の感情を感じてみると、天(=魂)が体験したがっているものとは、より大きな自分であり、偉大な自分であり、進化した自分であると言えると思います。
つまり、天(=魂)は成長したがっているし、成長を体験したがっていると言えるのです。
天がそういう意図を持っているとするなら、私たちをどういう出来事に導くでしょうか?
常に波風のない平穏な状況に置いておこうとするでしょうか?
そんなはずはありません。それでは、目的を達成できないからです。
したがって私たちは、自分の意思に反して、困難な出来事に遭遇することになります。
しかしそれは、私たちにとって悪いことではありません。なぜなら、私たちの魂が、自分を成長させるためにちょうど良い体験をさせようと意図して、そういう出来事に導いたのですから。
よく、「解決できない問題は起こらない」と言う人がいます。
それなども、上記のような背景があるとしたら、当然だと思えませんか?
本田健さんは、「人生を信頼しなさい」と言っています。
人生とは、すなわち私たちが遭遇する出来事であり、その出来事に導いている私たちの魂だと思います。
自分の魂が、自分にとって悪いことをするはずがない。
そう言葉にすると、当たり前のように聞こえますよね。
でも、困難な現実を目の前にした時、そう信じることができるでしょうか?そこが問題なのだと思うのです。
困難な現実に押しつぶされて、自殺しないまでも逃避したり、自暴自棄になってしまう人もいるでしょう。
けれども魂は、そういう私たちの意識を責めません。なぜなら、自由を与えているからです。
自由を与えるとは、愛するということです。魂とは、天とは、まったき愛なのです。
愛は愛するより他になく、恨みも嘆きもせずに、私たちの意識がいつか気づいて成長することを願っているのです。
出来事には、天(=魂)の意図があります。
けれども天は、その意図を私たち(=意識)に押し付けません。
ですから、そういう意味では、出来事に意味はないのです。私たち(=意識)は、私たちの自由意思として何らかの意味を出来事に与え、その出来事を経験し、自分に役立てれば良いのです。
出来事を利用して、自分自身を成長させたいですか?
もしそうなら、その出来事を与えられたことに感謝し、意図的に意味を与えることです。意識して、目覚めて生きることです。
逆に、もうしばらく眠っていたいのなら、成長したいと思わないのなら、これまで通りに出来事に反応し、怒ったり嘆いたり、感情が暴れるがままに放っておけば良いのです。
でもいつかは、そういう生き方に飽きるでしょう。「こんなのは嫌だ!」と叫ぶ日が来るでしょう。
天(=魂)は、ただその日を待っている。私はそう思うのです。
2013年07月03日
アロハ!
「ホ・オポノポノ」という、何とも言いづらい言葉をよく耳にするようになっていました。
そんなとき、サンマーク出版の鈴木七沖さんが、この本を紹介されていたのを見たのです。
実は、そのときは買わなかったのです。
しかしその後、神渡良平さんもホ・オポノポノについて本に取り上げておられるし、「やはりホ・オポノポノについて知っておく必要があるな」と感じました。
それでやっと買ってみた、というわけです。
ホ・オポノポノは、ハワイに伝わる伝統的なものだということは知っていました。
そして、「ありがとう、ごめんなさい、許してください、愛しています」の4つの言葉を言うということも。
でも、それ以外のことはよく知らなかったのです。
本を開いた最初から、私は圧倒されてしまいました。
まずはタイトルにもなっている「アロハ!」というハワイの挨拶なのですが、その意味が紹介されていました。
「『アロハ』とは、<今わたしはかみさまの前にいます>という意味だよ。
わたしもあなたもあの花も、今あなたが履いているその靴でさえも神性なる存在が創り出した完璧な存在。たとえどんなものが目の前に現れたとしても、すべての先には神性なる存在、もっと無限で偉大な何かが広がっているんだよ」(p.2)
イハレアカラ・ヒューレン博士の言葉として、著者の平良アイリーンさんが紹介しています。
これはつまり、「アロハ!」と言うとき、目の前の万物すべてに神を見ることにほかなりません。
なんと素晴らしい生き方でしょう。
「神との対話」シリーズで紹介されている瞑想法の1つに、目についた人やものをすべて自分だと考えてみる、というものがありました。
自分と神とは一体ですから、「アロハ!」とはまさに、その実践ではありませんか。
そしてさらに、ハワイの秘法ホ・オポノポノについて説明している部分で、私はまた驚きました。
「ホ・オポノポノとは、古代ハワイに伝わる問題解決法のこと。けんかや争い、病気など、自分たちでは解決できない問題が起きたときに、ネイティブハワイアンの特定の人間を仲介にはさんで実践されてきた問題解決方法です。」(p.5)
迷信や宗教などではなく、実践的な問題解決法だと言うのです。
私が抱いていたイメージが、ガラガラと音を立てて崩れた瞬間です。
この古代ハワイに伝わってきたホ・オポノポノを、故モーナ・ナラマク・シメオナ女史が、誰でも自分ひとりで活用できるようにしたものを、「セルフ・アイデンティティー・スルー・ホ・オポノポノ」と呼んでいて、それが現在、世界に広まっているのだそうです。
そしてホ・オポノポノでは、身の回りに起こるさまざまな出来事は、自分の潜在意識が溜め込んできた記憶が再生しているのだと説明します。
この潜在意識には、自分の記憶だけでなく、過去の人々や物の記憶もあるのだそうです。
この膨大な記憶を消去することによって、神性なる存在とつながり、インスピレーションが得られるようにする。
それがホ・オポノポノの問題解決法であり、クリーニングと呼んでいます。
この本は、著者の平良さんが、ヒューレン博士と接する中で指導されたことや感じたことを紹介しながら、ホ・オポノポノのクリーニングがどういうものであるかを表現しようとしたものです。
読み終えて、わかったようなわからないような感じがしていますが、それでも「ここには何かある」という感じがするのも確かです。
わからないことは体験してみるしかない。そう思って、私もホ・オポノポノをやってみようと思います。
2013年07月04日
自分で自分のコーチになる
最近、コーチングという言葉をよく聞くようになりました。
スポーツのコーチと同じコーチですが、「コーチすること」というような意味になるのでしょうね。
対象はスポーツだけでなく、ビジネスでも自分の生き方でも何でもよくて、その人が何か目標とするものを達成しようとしているとき、その支援をするのがコーチングです。
コーチングの基本は、技術や何かを指導することではありません。
「コーチングとは、会話によって相手の優れた能力を引き出しながら、前進をサポートし、自発的に行動することを促すコミュニケーションスキル」なのだそうです。
これは、「目からウロコのコーチング」(播磨早苗/PHP文庫,p.25)に書いてありました。
最近は職場でも、部下の指導にコーチングの技術を取り入れるところがあるようです。
全柔連は体罰で問題になっていますが、コーチングの技術は本人の自主性を重んじるので、体罰が必要になるような強制とは無縁のものです。
そのうち、子育てにもこのコーチングの技術が使われるであろうと、十分に予測できますね。
さて、今日このコーチングを紹介したのは他でもありません。
自分の成長ということを考えたとき、コーチングを受けるということは、とても有効なことだと思うのです。
最近、ある本を読んでいて、そのことに気づきました。
それは、本田健さんの「きっと、よくなる!」という本です。
「他人の意見に傷つかない」(p.83)と題して、以下の様に書いてありました。
「もし、誰かに何かをいわれたとしても、気にならなければ何ともありません。「いろいろあるけど、全部含めて自分だよね」と思えると、心が平安になります。自分のあり方にOKを出したら、いつもいい気分です!
他人の意見はさらりと受け止めて、不必要に自分を傷つけないようにしましょう。」(p.84)
言われることは、たしかにそのとおりだと思います。でも、それが簡単にできないから苦しいんですよね。
私自身、何度も何度も傷ついてきたから、そう思うのです。
「他人の口に戸は立てられぬ」と言うように、他の人は好き勝手なことを言います。
どんなに自分が傷つこうと、そんなことお構いなしです。
やめさせたいけど、他人を変えることはできません。
泣こうと、わめこうと、無視しようと、何をやっても他人は傷つけるようなことを平気でするものです。
自分が傷つかないようにするしかない。
結論はいつもそこに行き着くのですが、なかなかそれができないのです。
「健さんは、どうやってそれを実現しようとしているのだろうか?」
そんな疑問が湧いてきました。そして同じ本の中に、その答を見つけました。
「まず「自分育て」から始めよう」(p.189)と題して、以下の様に書いてありました。
健さんは、「人は、生まれつき豊かになるようにできている」と考えているそうです。
しかし、ほとんどの人が豊かに生きていない現実があります。
その原因は、子どものころに自分の才能を親や先生などの重要な大人たちから認めてもらえず、いつしかそれを自分でも受け入れるようになったからだと言うのです。
「小さいころから適切な励ましがなかった人は、自尊心が低いままに育ちます。だから何かをやろうとしても、失敗が怖くて前に一歩を踏み出せないのです。」(p.189)
私など、まさにこういう人間ですね。「石橋を叩いても渡らない」と自称するほど、臆病で傷つきやすい人間でしたから。
「では、そういう人間はどうすれば良いのか?」それを健さんは、次のように言います。
「でも、いまからでも遅くありません。「自分育て」から始めてみましょう。自分を認めてあげて、自分の中に眠る才能を少しずつ育ててあげるのです。傷ついた自尊心をもう一度取り戻してあげながら、本来の才能を見いだし、それに磨きをかける作業をやるのです。
あなた自身が自分のコーチになって、励ましてください。大切なのは、すぐに結果を出そうとしないことです。十年かかったとしても、あなたらしい才能が発揮できればしめたものです。」(p.190)
いかがでしょう。健さんは、自分で自分のコーチになって、じっくりと自分の才能を引き出し、育ててあげなさいと言っています。
コーチングの手法が、ここで活かされるわけです。
私が推奨している「鏡のワーク」は、このコーチングの手法を一部応用しています。
コーチングの技術として、まずはしっかりと聞くというものがあります。これは、相手をそのまましっかりと受け止めるということです。
簡単にいえば、わかってあげるというということです。共感してあげることです。
「鏡のワーク」でも、自分を否定しないように言っています。そのままでいいんだよと、まずは認めてあげることですね。
そこでしっかりと自己肯定感を作ることで、次の一歩を踏み出す力が湧いてくるのです。
カウンセリングやコーチングを受けてみるのも、1つの方法だと思いますので、そうしてみるのも良いでしょう。
セルフ・カウンセリングとかセルフ・コーチングという手法もありますので、それを学んでみるのも良いでしょう。
いずれにせよ、自己肯定感を高めて、自分の人生に対する絶対的な自信を作り出すことが目的です。
そうすることで、やっと自分らしく生きられるようになるのです。
スポーツのコーチと同じコーチですが、「コーチすること」というような意味になるのでしょうね。
対象はスポーツだけでなく、ビジネスでも自分の生き方でも何でもよくて、その人が何か目標とするものを達成しようとしているとき、その支援をするのがコーチングです。
コーチングの基本は、技術や何かを指導することではありません。
「コーチングとは、会話によって相手の優れた能力を引き出しながら、前進をサポートし、自発的に行動することを促すコミュニケーションスキル」なのだそうです。
これは、「目からウロコのコーチング」(播磨早苗/PHP文庫,p.25)に書いてありました。
最近は職場でも、部下の指導にコーチングの技術を取り入れるところがあるようです。
全柔連は体罰で問題になっていますが、コーチングの技術は本人の自主性を重んじるので、体罰が必要になるような強制とは無縁のものです。
そのうち、子育てにもこのコーチングの技術が使われるであろうと、十分に予測できますね。
さて、今日このコーチングを紹介したのは他でもありません。
自分の成長ということを考えたとき、コーチングを受けるということは、とても有効なことだと思うのです。
最近、ある本を読んでいて、そのことに気づきました。
それは、本田健さんの「きっと、よくなる!」という本です。
「他人の意見に傷つかない」(p.83)と題して、以下の様に書いてありました。
「もし、誰かに何かをいわれたとしても、気にならなければ何ともありません。「いろいろあるけど、全部含めて自分だよね」と思えると、心が平安になります。自分のあり方にOKを出したら、いつもいい気分です!
他人の意見はさらりと受け止めて、不必要に自分を傷つけないようにしましょう。」(p.84)
言われることは、たしかにそのとおりだと思います。でも、それが簡単にできないから苦しいんですよね。
私自身、何度も何度も傷ついてきたから、そう思うのです。
「他人の口に戸は立てられぬ」と言うように、他の人は好き勝手なことを言います。
どんなに自分が傷つこうと、そんなことお構いなしです。
やめさせたいけど、他人を変えることはできません。
泣こうと、わめこうと、無視しようと、何をやっても他人は傷つけるようなことを平気でするものです。
自分が傷つかないようにするしかない。
結論はいつもそこに行き着くのですが、なかなかそれができないのです。
「健さんは、どうやってそれを実現しようとしているのだろうか?」
そんな疑問が湧いてきました。そして同じ本の中に、その答を見つけました。
「まず「自分育て」から始めよう」(p.189)と題して、以下の様に書いてありました。
健さんは、「人は、生まれつき豊かになるようにできている」と考えているそうです。
しかし、ほとんどの人が豊かに生きていない現実があります。
その原因は、子どものころに自分の才能を親や先生などの重要な大人たちから認めてもらえず、いつしかそれを自分でも受け入れるようになったからだと言うのです。
「小さいころから適切な励ましがなかった人は、自尊心が低いままに育ちます。だから何かをやろうとしても、失敗が怖くて前に一歩を踏み出せないのです。」(p.189)
私など、まさにこういう人間ですね。「石橋を叩いても渡らない」と自称するほど、臆病で傷つきやすい人間でしたから。
「では、そういう人間はどうすれば良いのか?」それを健さんは、次のように言います。
「でも、いまからでも遅くありません。「自分育て」から始めてみましょう。自分を認めてあげて、自分の中に眠る才能を少しずつ育ててあげるのです。傷ついた自尊心をもう一度取り戻してあげながら、本来の才能を見いだし、それに磨きをかける作業をやるのです。
あなた自身が自分のコーチになって、励ましてください。大切なのは、すぐに結果を出そうとしないことです。十年かかったとしても、あなたらしい才能が発揮できればしめたものです。」(p.190)
いかがでしょう。健さんは、自分で自分のコーチになって、じっくりと自分の才能を引き出し、育ててあげなさいと言っています。
コーチングの手法が、ここで活かされるわけです。
私が推奨している「鏡のワーク」は、このコーチングの手法を一部応用しています。
コーチングの技術として、まずはしっかりと聞くというものがあります。これは、相手をそのまましっかりと受け止めるということです。
簡単にいえば、わかってあげるというということです。共感してあげることです。
「鏡のワーク」でも、自分を否定しないように言っています。そのままでいいんだよと、まずは認めてあげることですね。
そこでしっかりと自己肯定感を作ることで、次の一歩を踏み出す力が湧いてくるのです。
カウンセリングやコーチングを受けてみるのも、1つの方法だと思いますので、そうしてみるのも良いでしょう。
セルフ・カウンセリングとかセルフ・コーチングという手法もありますので、それを学んでみるのも良いでしょう。
いずれにせよ、自己肯定感を高めて、自分の人生に対する絶対的な自信を作り出すことが目的です。
そうすることで、やっと自分らしく生きられるようになるのです。
子どもの父親を公表しないといけないの?
今日Yahoo!ニュースを見ていたら、また面白い記事がありました。
「誹謗中傷、執拗な取材……“出産告白”の安藤美姫サイドが困惑」
アイススケーターの安藤美姫さんが、未婚で出産したことに関する報道です。
前の女性弁護士のときもそうでしたが、コメントに書かれた意見は、安藤さんに批判的なものが多いですね。
最近、自己責任の話題があったせいか、「自業自得」というものが目立ちます。
予想できたことだし、メディアを利用したのだから、不利益も受け入れるべきだと。
たまに、誹謗中傷ばかりのコメントに、あきれたと書く人もいますけどね。
それにしても、どうしてそっとしておけないのでしょうね?
マスコミもそうですが、マスコミがそうやって追いかけるのは、読者や視聴者が気にしているからです。
本人が言わないと言っているのですから、放っておいてあげれば良いのに。
それができないのは、好奇心が強いからではありません。
自分が幸せでないからです。
自分が満足していないから、他人の幸せが許せないのです。
いわゆる妬(ねた)みとか、嫉(そね)みと言われるもの。
嫉妬(しっと)心が強いのです。
また、「他人の不幸は蜜の味」とも言いますが、他人の失敗や不幸を好むのも、やはり自分が幸せではないからです。
自分と同じか、それ以下にまで他人を引きずり落とすことで、相対的に自分を高めようとするのです。
「あいつ、偉そうにしてるけど、実は◯◯なんだってさあ。」
こういう暴露話も、相手の評価を下げることで、自分を相対的に上げようとする試みです。
しかし、そういった試みはすべて、自分自身の評価を落とすだけです。
そのことは、もうほとんどの人が知っているでしょう。
だから「マスゴミ」などと言って、そういうどうでも良い情報を流すマスコミを揶揄(やゆ)したりもするのです。
マスコミの人は、「自分たちは大衆の期待に応えようとしているだけだ」と、まじめに考えている人もいます。
つまり、大衆の要望に応えることによって、人々にささやかな幸せをもたらそうとしているのだと。
だから自分たちの行いは正義であり、評価されるべきことだと考えています。
果たしてそうでしょうか?
たしかに、大衆が期待していることは間違いありません。
ですから、お金を払ってでも知りたいと思うのです。
けれども、それで人々が幸せになるでしょうか?
一時的に満足することは事実でしょう。
けれども、喉の渇きが癒えることはありません。
「もっともっと」と他人の不幸を欲しがり、幸せな人を引きずり落としたくなるのです。
そういう人々に対して、要求されるものを与え続けるのは、アルコール中毒患者にお酒を与えるのと同じ行為だと思います。
中毒患者、つまり何かに依存している人を助けるには、その依存対象からその人を、引き離さなくてはなりません。
それが本当の意味で、人を幸せにすることではないでしょうか?
そうでないと言うなら、法律は置いといても、ヤク中患者に麻薬や覚せい剤を提供することは、良いことだということになるでしょう。
「だって、相手が欲しがっているんだから。」
売れれば何でも良いのでしょうか?
お金が手に入るなら、何をしても良いのでしょうか?
それと同じことが、一人ひとりに対して言えます。
「だって知りたいんだもの。」
興味を満たせれば、それによって他の人がどうなっても良いのでしょうか?
自分が満足するなら、他の人を不幸にしても良いのでしょうか?
理由はどうにでも付けられます。
価値観は人それぞれであり、その人にとっては、それが正しいのです。
「だって、あいつが悪いんじゃないか。結婚もせずに出産したんだぜ。それで父親の名前も言えないって、後ろめたいことがあるからだよ。」
それが正しいかどうか、決めるのは自分自身です。
ですから、正しいかどうかを論じ合っても、あまり意味はありません。
問題は、それが本来の目的に役立つかどうか。
その選択によって、目的が達成できるかどうかが重要なのです。
私たちが何かを選択するのは、それによって自分を表現するためです。
つまり、自分自身を創るためです。
その目的に対してふさわしいかどうかが、選択基準となるべきでしょう。
ですから何かを選択したとき、それが自分らしいかどうかを感じ、自分らしくないなら改めるべきなのです。
それが、自分らしく生きるということですから。
しかし多くの人は、自分が選んだことに固執してしまいます。
間違いだったと認めることが不安だからです。
そこで選択を正当化しようとして、自分自身にウソをつきます。
そうやって徐々に、本当の自分から離れていくのです。
いずれにせよ、何かを選択することによって、自分とは何かということを表現することになります。
そしてその表現によって、自分の人生が創造されます。
自業自得だと言って誰かを責めるときのあなたは、本当にあなたらしいあなたでしょうか?
そういう自分を外から眺めたとき、美しいと感じますか?
今、あなたのその選択が、未来のあなたを創造したのです。
人生とは自分という人間を、一生かけて彫り上げていくようなものです。
あなたは、どんな自分を創りたいのでしょう?
あなたは今、その選択をしているのです。
「誹謗中傷、執拗な取材……“出産告白”の安藤美姫サイドが困惑」
アイススケーターの安藤美姫さんが、未婚で出産したことに関する報道です。
前の女性弁護士のときもそうでしたが、コメントに書かれた意見は、安藤さんに批判的なものが多いですね。
最近、自己責任の話題があったせいか、「自業自得」というものが目立ちます。
予想できたことだし、メディアを利用したのだから、不利益も受け入れるべきだと。
たまに、誹謗中傷ばかりのコメントに、あきれたと書く人もいますけどね。
それにしても、どうしてそっとしておけないのでしょうね?
マスコミもそうですが、マスコミがそうやって追いかけるのは、読者や視聴者が気にしているからです。
本人が言わないと言っているのですから、放っておいてあげれば良いのに。
それができないのは、好奇心が強いからではありません。
自分が幸せでないからです。
自分が満足していないから、他人の幸せが許せないのです。
いわゆる妬(ねた)みとか、嫉(そね)みと言われるもの。
嫉妬(しっと)心が強いのです。
また、「他人の不幸は蜜の味」とも言いますが、他人の失敗や不幸を好むのも、やはり自分が幸せではないからです。
自分と同じか、それ以下にまで他人を引きずり落とすことで、相対的に自分を高めようとするのです。
「あいつ、偉そうにしてるけど、実は◯◯なんだってさあ。」
こういう暴露話も、相手の評価を下げることで、自分を相対的に上げようとする試みです。
しかし、そういった試みはすべて、自分自身の評価を落とすだけです。
そのことは、もうほとんどの人が知っているでしょう。
だから「マスゴミ」などと言って、そういうどうでも良い情報を流すマスコミを揶揄(やゆ)したりもするのです。
マスコミの人は、「自分たちは大衆の期待に応えようとしているだけだ」と、まじめに考えている人もいます。
つまり、大衆の要望に応えることによって、人々にささやかな幸せをもたらそうとしているのだと。
だから自分たちの行いは正義であり、評価されるべきことだと考えています。
果たしてそうでしょうか?
たしかに、大衆が期待していることは間違いありません。
ですから、お金を払ってでも知りたいと思うのです。
けれども、それで人々が幸せになるでしょうか?
一時的に満足することは事実でしょう。
けれども、喉の渇きが癒えることはありません。
「もっともっと」と他人の不幸を欲しがり、幸せな人を引きずり落としたくなるのです。
そういう人々に対して、要求されるものを与え続けるのは、アルコール中毒患者にお酒を与えるのと同じ行為だと思います。
中毒患者、つまり何かに依存している人を助けるには、その依存対象からその人を、引き離さなくてはなりません。
それが本当の意味で、人を幸せにすることではないでしょうか?
そうでないと言うなら、法律は置いといても、ヤク中患者に麻薬や覚せい剤を提供することは、良いことだということになるでしょう。
「だって、相手が欲しがっているんだから。」
売れれば何でも良いのでしょうか?
お金が手に入るなら、何をしても良いのでしょうか?
それと同じことが、一人ひとりに対して言えます。
「だって知りたいんだもの。」
興味を満たせれば、それによって他の人がどうなっても良いのでしょうか?
自分が満足するなら、他の人を不幸にしても良いのでしょうか?
理由はどうにでも付けられます。
価値観は人それぞれであり、その人にとっては、それが正しいのです。
「だって、あいつが悪いんじゃないか。結婚もせずに出産したんだぜ。それで父親の名前も言えないって、後ろめたいことがあるからだよ。」
それが正しいかどうか、決めるのは自分自身です。
ですから、正しいかどうかを論じ合っても、あまり意味はありません。
問題は、それが本来の目的に役立つかどうか。
その選択によって、目的が達成できるかどうかが重要なのです。
私たちが何かを選択するのは、それによって自分を表現するためです。
つまり、自分自身を創るためです。
その目的に対してふさわしいかどうかが、選択基準となるべきでしょう。
ですから何かを選択したとき、それが自分らしいかどうかを感じ、自分らしくないなら改めるべきなのです。
それが、自分らしく生きるということですから。
しかし多くの人は、自分が選んだことに固執してしまいます。
間違いだったと認めることが不安だからです。
そこで選択を正当化しようとして、自分自身にウソをつきます。
そうやって徐々に、本当の自分から離れていくのです。
いずれにせよ、何かを選択することによって、自分とは何かということを表現することになります。
そしてその表現によって、自分の人生が創造されます。
自業自得だと言って誰かを責めるときのあなたは、本当にあなたらしいあなたでしょうか?
そういう自分を外から眺めたとき、美しいと感じますか?
今、あなたのその選択が、未来のあなたを創造したのです。
人生とは自分という人間を、一生かけて彫り上げていくようなものです。
あなたは、どんな自分を創りたいのでしょう?
あなたは今、その選択をしているのです。
2013年07月05日
読書は瞑想です
Facebookページの「幸せ実践塾」が、最近盛り上がっています。
それは、私が読んだ本を紹介していて、それに共感される方が多いからだと思います。
最近紹介した中で反応が大きかったのが、神渡良平さんの本ですね。
神渡さんもFacebookをされていて、友だちになっていただいているということも、反応が大きかった理由の1つだと思います。
それとやはり、神渡さんの優しい人柄でしょうか。
それほど有名でない方の、一隅を照らす生き方を感動的に紹介されるところが、人気の秘密かもしれません。
これまでにブログで紹介したのは、以下の本です。
「安岡正篤「宇宙と人生」」
「静寂の時間がいのちの根を養う」
「一隅を照らす生き方」
「中村天風「幸せを呼び込む」思考」
「安岡正篤 立命への道」
「西郷隆盛 人間学」
「神様が教えてくれた幸福論」 ※小林正観さんとの対談です。
次に反応があったのが、本田健さんの本です。
健さんの本を読むと、誰でも幸せに自由に生きられるんだよと、励ましてもらえます。
堅苦しさのない平易な文章は、若者にとっても読みやすいと思います。
これまでにブログで紹介したのは、以下の本です。
「きっと、よくなる!」
「幸せな経済自由人という生き方」
「あなたのお金はどこに消えた?」
「愛とは、怖れを手ばなすこと」 ※著者はジャンポルスキー氏ですが、健さんが翻訳しています。
「ユダヤ人大富豪の教え」シリーズ3冊
最後は、この本に反応があったのかどうかわかりませんが、私が強烈に押しているものです。
そう、「神との対話」シリーズですね。
Facebookページに「いいね!」を押してくださった方が500人を超えた記念(?)に、2007年10月13日に撮影したシリーズの写真を載せました。
改めて写真を見て気づいたのですが、このときはまだ9冊だったのですね。今はすでに12冊になっています。
それで昨夜、シリーズ12冊の記念撮影をしました。
最初に出版された「神との対話」は、もうすでに5〜7回くらい読んだと思います。
最後の「神よりしあわせ」でも、少なくとも3回読んでいますから。
何度読んでも飽きることがないというか、読むたびに新たな気づきが得られます。
今は、「明日の神」を読んでいますが、その中で読書することを勧めていました。
読書するのは、何も知識を得ることだけが目的ではありません。
本を読むことに没頭する中で、実は自分自身と対話するのです。本当の自分と出会うのです。
そういう意味で、読書もまた瞑想の一種と言えると思います。
あなたには、何度も読みたくなるような大好きな本がありますか?
もしそれがあるなら、あなたはいつでも幸せになれますよね?
不安や心配を遮断し、いま、ここに没頭させてくれる。だから、幸せでいられるのです。
それは、私が読んだ本を紹介していて、それに共感される方が多いからだと思います。
最近紹介した中で反応が大きかったのが、神渡良平さんの本ですね。
神渡さんもFacebookをされていて、友だちになっていただいているということも、反応が大きかった理由の1つだと思います。
それとやはり、神渡さんの優しい人柄でしょうか。
それほど有名でない方の、一隅を照らす生き方を感動的に紹介されるところが、人気の秘密かもしれません。
これまでにブログで紹介したのは、以下の本です。
「安岡正篤「宇宙と人生」」
「静寂の時間がいのちの根を養う」
「一隅を照らす生き方」
「中村天風「幸せを呼び込む」思考」
「安岡正篤 立命への道」
「西郷隆盛 人間学」
「神様が教えてくれた幸福論」 ※小林正観さんとの対談です。
次に反応があったのが、本田健さんの本です。
健さんの本を読むと、誰でも幸せに自由に生きられるんだよと、励ましてもらえます。
堅苦しさのない平易な文章は、若者にとっても読みやすいと思います。
これまでにブログで紹介したのは、以下の本です。
「きっと、よくなる!」
「幸せな経済自由人という生き方」
「あなたのお金はどこに消えた?」
「愛とは、怖れを手ばなすこと」 ※著者はジャンポルスキー氏ですが、健さんが翻訳しています。
「ユダヤ人大富豪の教え」シリーズ3冊
最後は、この本に反応があったのかどうかわかりませんが、私が強烈に押しているものです。
そう、「神との対話」シリーズですね。
Facebookページに「いいね!」を押してくださった方が500人を超えた記念(?)に、2007年10月13日に撮影したシリーズの写真を載せました。
改めて写真を見て気づいたのですが、このときはまだ9冊だったのですね。今はすでに12冊になっています。
それで昨夜、シリーズ12冊の記念撮影をしました。
最初に出版された「神との対話」は、もうすでに5〜7回くらい読んだと思います。
最後の「神よりしあわせ」でも、少なくとも3回読んでいますから。
何度読んでも飽きることがないというか、読むたびに新たな気づきが得られます。
今は、「明日の神」を読んでいますが、その中で読書することを勧めていました。
読書するのは、何も知識を得ることだけが目的ではありません。
本を読むことに没頭する中で、実は自分自身と対話するのです。本当の自分と出会うのです。
そういう意味で、読書もまた瞑想の一種と言えると思います。
あなたには、何度も読みたくなるような大好きな本がありますか?
もしそれがあるなら、あなたはいつでも幸せになれますよね?
不安や心配を遮断し、いま、ここに没頭させてくれる。だから、幸せでいられるのです。
2013年07月06日
反省するよりも観察すること
「反省しなさい」「反省が足りない」などと、よく言われたものです。
そう言って叱られるたびに、心の中には嫌な気分がありました。
頭では、謝らなければいけないと思う。けれども、それを受け入れることを心が許さないのです。
以前に「非難することの目的」にも書きましたけど、「神との対話」シリーズでは罪悪感と反省は違うと言っています。
「罪悪感は無意味だ。反省とは違う。反省とは自分がしたことがまずかったと思い、もう二度としないぞと思う気持ちだ。罪悪感はわたしたちを非難し、何をしようとも決して赦(ゆる)されないぞとおどす。反省は力を与えてくれるが、罪悪感は麻痺させて動きがとれなくしてしまう。」
これからすると、罪悪感を抱いたり抱かせたりすることは役に立たないけれど、反省させたり反省することは役立つことになります。
でも私は、「何かちょっと違うな」という気持ちがありました。
それは、言葉の定義です。
たしかに「神との対話」で書かれているように、罪悪感と反省という言葉を対比させて用いるときは、その説明のとおりだと思います。
反省というのは言葉のとおりに、自分の考えや行いを振り返って、どうすればもっと上手く行っただろう(=自分らしかっただろう)と、自分に尋ねてみることだからです。
しかし実際に私たちが遭遇する場面では、記事の最初に示したように、ある意味で恫喝的な言葉として使われます。
そこで言うところの「反省」とは、まさに「罪悪感」そのものを示しているのです。
「反省が足りない」ということを言う人は、相手が恐縮して罪悪感を抱いていないことに対して腹を立て、何とか罪悪感を抱かせようとしています。
「反省しなさい」と言って怒る人は、相手がうつむいて「ごめんなさい」と謝罪することを求めています。
以前、「なぜ謝罪を求めるのだろう?」という記事にも書いたように、それでは本当の意味で相手に反省させることはできません。
同じ「反省」という言葉を使っていても、その意味するところが違うように思うのです。
そんなことを考えていたとき、ふと思いついた言葉がありました。
それは「観察」です。
反省ではなく、観察した方が良いと思いついたのです。
観察とは、ある事象がどうして起こるのかを詳細に見ることです。ものごとの理屈を知ろうとすることです。
「神との対話」で言っている反省とは、まさに観察そのものではないでしょうか?
何かやったときに、上手く行かなかったのです。では、上手く行かせるにはどうすればよいか?
上手く行かなかった事象を、たんねんに調べてみることです。すでに起こったことを思い返しながら、そのときの心の動きを観察するのです。
実は最近、仕事上のことで非常に苛立つ(いらだつ)ことがありました。
私はもともと短気な性格だと思っていますが、そのときもある報告を見て、思わず声を発してしまったのです。
「何やってんだよー!こんなことしたら意味がないじゃないか!」
そしてそれを上司に報告し、どう対応するかを相談しました。
ところが、私が苛立つ理由を一所懸命に説明するのですが、どうも上司の反応が悪いのです。私の言葉が相手の心に届かない。そんな感じがします。
そうなると私は、さらに必死になって自分の理屈を説明しようとします。
そのときの私の気分は、正直に言って良くありません。
しかし、後で冷静になって考えてみたのです。
私は非常に苛立ったのに、上司はそうでもなかった。同じ事象を見ているはずなのに、その反応には大きな違いがあった。
だとしたら、私の中で感じていた苛立ちは、私固有の問題ではないだろうか?
そう言えば私は、同じようなケースで苛立つことがある気がする。そのケースを分析してみたら、苛立ちの原因がわかるのではないだろうか?
そんなことを考えてみたのです。
もしこのとき、反省することをしたら、どうなったでしょう?
反省するのは、私が苛立ったことに対する反省です。つまり、「苛立つこと」=「悪いこと」だから、それをやめるためにどうするかを考えるのです。
そうすると、多くの場合は相手のせいにします。自己正当化するのです。
そしてせいぜい、自分にも少しは非があったと認めるくらいで終わります。
これではまったく反省になっていません。ですから、同じような事象が起これば、また同じように反応するでしょう。
せいぜい、爆発しないように我慢する力が強くなる程度でしょうか。
これでは何も進歩していません。我慢するというのは、否定的な感情のエネルギーを解放せず、内に溜めておくだけのことですから。
これをストレスと呼びますが、ストレスが溜まればいつかは爆発します。
消えてなくなりはしないのです。解決を先延ばししているだけです。
そんなことがあったので私は、「反省」という言葉も使い方を誤らないようにしなければと思ったのです。
それならむしろ、反省ではなく観察と言った方が良いと思います。
たとえば子どもが何かいたずらをしたとき、以前なら「反省しなさい」と言ってしかる場合でも、「観察してみたらどう?」と言って解決方法を示してあげられます。
どうして上手くいかなかったのか?今度はどうすれば上手くいくのか?
その答を見つけない限り、何も解決しないし、何も進歩しないのですから。
そう言って叱られるたびに、心の中には嫌な気分がありました。
頭では、謝らなければいけないと思う。けれども、それを受け入れることを心が許さないのです。
以前に「非難することの目的」にも書きましたけど、「神との対話」シリーズでは罪悪感と反省は違うと言っています。
「罪悪感は無意味だ。反省とは違う。反省とは自分がしたことがまずかったと思い、もう二度としないぞと思う気持ちだ。罪悪感はわたしたちを非難し、何をしようとも決して赦(ゆる)されないぞとおどす。反省は力を与えてくれるが、罪悪感は麻痺させて動きがとれなくしてしまう。」
これからすると、罪悪感を抱いたり抱かせたりすることは役に立たないけれど、反省させたり反省することは役立つことになります。
でも私は、「何かちょっと違うな」という気持ちがありました。
それは、言葉の定義です。
たしかに「神との対話」で書かれているように、罪悪感と反省という言葉を対比させて用いるときは、その説明のとおりだと思います。
反省というのは言葉のとおりに、自分の考えや行いを振り返って、どうすればもっと上手く行っただろう(=自分らしかっただろう)と、自分に尋ねてみることだからです。
しかし実際に私たちが遭遇する場面では、記事の最初に示したように、ある意味で恫喝的な言葉として使われます。
そこで言うところの「反省」とは、まさに「罪悪感」そのものを示しているのです。
「反省が足りない」ということを言う人は、相手が恐縮して罪悪感を抱いていないことに対して腹を立て、何とか罪悪感を抱かせようとしています。
「反省しなさい」と言って怒る人は、相手がうつむいて「ごめんなさい」と謝罪することを求めています。
以前、「なぜ謝罪を求めるのだろう?」という記事にも書いたように、それでは本当の意味で相手に反省させることはできません。
同じ「反省」という言葉を使っていても、その意味するところが違うように思うのです。
そんなことを考えていたとき、ふと思いついた言葉がありました。
それは「観察」です。
反省ではなく、観察した方が良いと思いついたのです。
観察とは、ある事象がどうして起こるのかを詳細に見ることです。ものごとの理屈を知ろうとすることです。
「神との対話」で言っている反省とは、まさに観察そのものではないでしょうか?
何かやったときに、上手く行かなかったのです。では、上手く行かせるにはどうすればよいか?
上手く行かなかった事象を、たんねんに調べてみることです。すでに起こったことを思い返しながら、そのときの心の動きを観察するのです。
実は最近、仕事上のことで非常に苛立つ(いらだつ)ことがありました。
私はもともと短気な性格だと思っていますが、そのときもある報告を見て、思わず声を発してしまったのです。
「何やってんだよー!こんなことしたら意味がないじゃないか!」
そしてそれを上司に報告し、どう対応するかを相談しました。
ところが、私が苛立つ理由を一所懸命に説明するのですが、どうも上司の反応が悪いのです。私の言葉が相手の心に届かない。そんな感じがします。
そうなると私は、さらに必死になって自分の理屈を説明しようとします。
そのときの私の気分は、正直に言って良くありません。
しかし、後で冷静になって考えてみたのです。
私は非常に苛立ったのに、上司はそうでもなかった。同じ事象を見ているはずなのに、その反応には大きな違いがあった。
だとしたら、私の中で感じていた苛立ちは、私固有の問題ではないだろうか?
そう言えば私は、同じようなケースで苛立つことがある気がする。そのケースを分析してみたら、苛立ちの原因がわかるのではないだろうか?
そんなことを考えてみたのです。
もしこのとき、反省することをしたら、どうなったでしょう?
反省するのは、私が苛立ったことに対する反省です。つまり、「苛立つこと」=「悪いこと」だから、それをやめるためにどうするかを考えるのです。
そうすると、多くの場合は相手のせいにします。自己正当化するのです。
そしてせいぜい、自分にも少しは非があったと認めるくらいで終わります。
これではまったく反省になっていません。ですから、同じような事象が起これば、また同じように反応するでしょう。
せいぜい、爆発しないように我慢する力が強くなる程度でしょうか。
これでは何も進歩していません。我慢するというのは、否定的な感情のエネルギーを解放せず、内に溜めておくだけのことですから。
これをストレスと呼びますが、ストレスが溜まればいつかは爆発します。
消えてなくなりはしないのです。解決を先延ばししているだけです。
そんなことがあったので私は、「反省」という言葉も使い方を誤らないようにしなければと思ったのです。
それならむしろ、反省ではなく観察と言った方が良いと思います。
たとえば子どもが何かいたずらをしたとき、以前なら「反省しなさい」と言ってしかる場合でも、「観察してみたらどう?」と言って解決方法を示してあげられます。
どうして上手くいかなかったのか?今度はどうすれば上手くいくのか?
その答を見つけない限り、何も解決しないし、何も進歩しないのですから。
2013年07月08日
7月7日の思い出
昨日(7月7日)は七夕でしたね。各地で七夕のイベントがあったようです。
私にとって7月7日は、忘れられない日になりました。
七夕祭りの楽しい行事があったからではありません。何かがあったのではなく、何かがなかったのです。
そう、あれは6年ほど前のことでしたね。
その年の7月7日に、私は結婚するはずでした。
彼女の家でお坊さんを呼んで結婚式を行い、その後、バンコクで仲間内での披露宴を行い、日本でも披露宴を行うことにしていました。
それがたった1通のSMS(携帯電話のショート・メッセージ・サービス)でご破算になったのです。
詳しくは以前、「フラれてばかりの人生」という記事で書きましたので、そちらをご覧ください。
でも、その年の7月16日に今の妻と交際を始め、4年後には結婚することになりました。
人生は、何がどうなるかわかりません。
あの破談があったから、今の結婚生活があることは間違いなく、ある意味で今の幸せは、あの破談のお陰とも言えるのです。
あのとき私は、自分の人生を呪うこともできました。自暴自棄になることもできたし、相手のことをまったく考えない冷徹な人間になることもできました。
でも、そうなりたくなかったのです。
それは、私らしいと思えなかったから。
「私が苦しんで済むなら、それでいいじゃないか。」
そう自分自身を説得し、前向きに生きることに決めたのです。
なぜそのとき私は、そんなふうに考えられたのでしょうか?
もちろんこのことにも伏線があります。
1つは、20歳代前半での大失恋の経験です。
「辛い失恋もありました」で書いたように、呼吸もできないほど苦しみました。
その経験があったから、破談になったとき、それほど苦しまずに済んだのです。
また、それまで読んできた数多くの書物から得た知恵も、私の決断を助けてくれました。
とりわけ「神との対話」シリーズは、私に生きることの意味を教えてくれたという点で、手放せない本になっています。
「そうすることは自分らしいことか?」
「今、愛ならばどうする?」
この単純な2つの問いかけを教えてくれたのは、「神との対話」シリーズでした。
今、そのときの女性を思い出すことは、あまりありません。
仮に思い出したとしても、心はとても穏やかです。恨みとかの感情はまったくなく、むしろ感謝して、彼女の幸せを祈りたい気持ちです。
今思うに、私をフッた女性だけでなく、関わったすべての人々が、私を助けてくれたのだと思います。
優しい言葉も、ひどい仕打ちも、すべて私の今を創るもとになっています。
そういう人たちとの出会いがあったから、今の私がある。それは間違いないことなのです。
逆に言えば、今の自分を輝かせることができたなら、過去に出会った人々に栄光を捧げることになります。
自分の人生の中でくすんでいた人々を、一人ひとり磨き上げ、輝かせることができます。
そしてそうすることが、私にたくさんの贈り物をくれた人々に、報いることになるのだと思うのです。
過去でも未来でもなく、現在の自分がどうあるかによって、過去も未来も変えることができる。
そのことが、やっと実感できるようになりました。
これからも、7月7日が来るたびに、私は破談の経験を思い出すでしょう。
しかしそれは、私の心を突き刺す痛みではなく、私に愛を取り戻させてくれた有り難い出来事として、私の中で存在し続けるのです。
私にとって7月7日は、忘れられない日になりました。
七夕祭りの楽しい行事があったからではありません。何かがあったのではなく、何かがなかったのです。
そう、あれは6年ほど前のことでしたね。
その年の7月7日に、私は結婚するはずでした。
彼女の家でお坊さんを呼んで結婚式を行い、その後、バンコクで仲間内での披露宴を行い、日本でも披露宴を行うことにしていました。
それがたった1通のSMS(携帯電話のショート・メッセージ・サービス)でご破算になったのです。
詳しくは以前、「フラれてばかりの人生」という記事で書きましたので、そちらをご覧ください。
でも、その年の7月16日に今の妻と交際を始め、4年後には結婚することになりました。
人生は、何がどうなるかわかりません。
あの破談があったから、今の結婚生活があることは間違いなく、ある意味で今の幸せは、あの破談のお陰とも言えるのです。
あのとき私は、自分の人生を呪うこともできました。自暴自棄になることもできたし、相手のことをまったく考えない冷徹な人間になることもできました。
でも、そうなりたくなかったのです。
それは、私らしいと思えなかったから。
「私が苦しんで済むなら、それでいいじゃないか。」
そう自分自身を説得し、前向きに生きることに決めたのです。
なぜそのとき私は、そんなふうに考えられたのでしょうか?
もちろんこのことにも伏線があります。
1つは、20歳代前半での大失恋の経験です。
「辛い失恋もありました」で書いたように、呼吸もできないほど苦しみました。
その経験があったから、破談になったとき、それほど苦しまずに済んだのです。
また、それまで読んできた数多くの書物から得た知恵も、私の決断を助けてくれました。
とりわけ「神との対話」シリーズは、私に生きることの意味を教えてくれたという点で、手放せない本になっています。
「そうすることは自分らしいことか?」
「今、愛ならばどうする?」
この単純な2つの問いかけを教えてくれたのは、「神との対話」シリーズでした。
今、そのときの女性を思い出すことは、あまりありません。
仮に思い出したとしても、心はとても穏やかです。恨みとかの感情はまったくなく、むしろ感謝して、彼女の幸せを祈りたい気持ちです。
今思うに、私をフッた女性だけでなく、関わったすべての人々が、私を助けてくれたのだと思います。
優しい言葉も、ひどい仕打ちも、すべて私の今を創るもとになっています。
そういう人たちとの出会いがあったから、今の私がある。それは間違いないことなのです。
逆に言えば、今の自分を輝かせることができたなら、過去に出会った人々に栄光を捧げることになります。
自分の人生の中でくすんでいた人々を、一人ひとり磨き上げ、輝かせることができます。
そしてそうすることが、私にたくさんの贈り物をくれた人々に、報いることになるのだと思うのです。
過去でも未来でもなく、現在の自分がどうあるかによって、過去も未来も変えることができる。
そのことが、やっと実感できるようになりました。
これからも、7月7日が来るたびに、私は破談の経験を思い出すでしょう。
しかしそれは、私の心を突き刺す痛みではなく、私に愛を取り戻させてくれた有り難い出来事として、私の中で存在し続けるのです。
2013年07月09日
子どもへのまなざし
児童精神科医の佐々木正美さんが、お母さんや保育関係の方々に講演した内容をまとめた本です。
私は著者の佐々木正美さんという方を知らなかったのですが、誰かからこの本が素晴らしいと聞き、購入しました。
「子どもへのまなざし」というシリーズで、続と完を合わせて3冊になっています。
ネットで見ると、この3冊セットでも販売しているようですが、値段的には3冊の合計と同じようですね。何か保存ケースとかがつくのかもしれませんが、私はそれぞれバラで購入しました。
300ページ以上ある分厚い本で、装丁もりっぱです。これなら2,000円近い値段も高くはないでしょう。
しかし、それ以上に内容は素晴らしいもの。この値段ではもったいないと感じるほどでした。
子どもの成長期に合わせて、子育てで重要なことを話されています。
その中で乳幼児のときは、十分に愛される喜びを与えるだけで、子育ては充分だと言っています。
私がこれまで考えてきたことが裏打ちされたような気がして、とても嬉しいですね。
盲導犬の子でさえ、最初の1年はともかく甘えさせるのだそうです。そうやって人間との信頼関係を作ることが重要なのだと。
犬でさえそうなら、人間はなおさらそうでしょう。前に紹介した本吉圓子さんの本でも、そう言ってますよね。
躾(しつけ)をしないと良い大人になれないという勘違いは、いまだに根深くはびこっています。
けれども佐々木さんは、躾というのは期待することを伝えて、あとは待つことだと言うのです。
強制してやらせるのではなく、本人がその気になるのをじっと待つ。それが躾であり、子育てなのだと。
強制してやらせれば、すぐにできるようになるかもしれません。しかしそれは他律です。他者依存です。
そのまま大人になれば、私が感じていたように、「ルールを教えてくれ」と叫ぶような人間になるだけです。
自律した人に育てるには、自主性を発揮させるしかありません。
つまり、その子の自由に任せるということです。
この本を読むと、子育てには愛情しか要らないことがわかります。
子どもを強制する必要はなく、ただ愛情を持って見守るだけです。
しかし、多くの人はこの「愛情を持つ」ということができません。なぜか?
それは、その人が幸せでないからだと、佐々木さんは言います。
ですから保育関係者は、子育ての前に親育てが重要だと言うのです。
まず親が幸せであること。
親の幸せがなかったら、愛情を持った子育てはできず、自律した子どもには育たないからです。
最後に、子どもの成長段階に応じてやらなければならないことがありますが、乳幼児期の全受容が最も大切だということでした。
そして、その全受容を受けられなかった子どもでも、成長した後なるべく早い段階で全受容されることによって、自分を取り戻せると言います。
子どもに限らず、問題行動を起こす大人も、突き詰めてみれば子どものころの全受容がなかった。
つまり、絶対的な愛で愛されてこなかったのです。
そしてそれは、何歳になっても今から全受容されることで、回復するのです。
この本を子育てのバイブルにしたいという読者のコメントがありましたが、まさにそうだと思います。
子育てをしているお母さんだけでなく、すべての人に読んでもらいたい本だと思いました。
代表的日本人
言わずと知れた内村鑑三氏の本です。
この本は、もともと英語で書かれました。タイトルは「Japan and Japanese(日本及び日本人)」です。
日本にも西洋諸国に劣らない文化があり、だからこんなりっぱな日本人がいるのだということを、世界に知らしめようとしたのです。
アフリカ、中南米、アジアと、西洋列強は切り取り合戦を繰り広げ、植民地化を推し進めていた時代です。
文化的に低いと見るや、まさに毛のない猿のように扱った西洋人。
彼らに一目置かせ、日本は侮れないと思わせたひとつの要因が、この本にあるとも言われています。
※伊能忠敬氏が作った精巧な日本地図も、西洋人を驚かせたと言われています。
内村鑑三氏は、代表的な日本人として、5人の人の生きざまを紹介しています。
敬天愛人という言葉で知られる西郷隆盛氏は、西南の役で政府に逆らって死ぬものの、その人気は冷めることなく、英雄として親しまれています。
上杉鷹山公は、養子という身ながら、自分を律することで藩財政の大改革を成功させた名君です。
アメリカの元大統領、J.F.ケネディー氏は、上杉鷹山公を尊敬していたとも言われています。おそらくこの本によって知ったのでしょう。
二宮尊徳翁は、今ではその姿を見ることもないでしょうけど、昔はどの学校にも薪を背負って本を読む少年の銅像があったものです。
農民聖者と言われるように、身分制度が厳しかった時代に、最下層の身分でありながら藩の再建に貢献しました。
中江藤樹氏は近江の聖人と呼ばれますが、片田舎で村人たちに、ひっそりと学問を教えていただけの人です。
しかし、その人物の素晴らしさは噂となり、藩主までがわざわざ訪ねてくるまでになったのです。
岡山の熊沢蕃山氏も立派な人だったと聞いていましたが、中江藤樹氏の弟子だったのですね。
日蓮上人は、ある意味で革命家です。
どんな困難にもめげずに自ら信奉する教えを広め、ついには幕府を動かしてしまいました。
この本では、それぞれの人について簡単に紹介されているだけです。
本当にその人物の人となりを知りたければ、何冊もの本を読む必要があるでしょう。
でも、ぜひ読んでみたいという気持ちにさせてくれるのが、この本の魅力です。
最近は、英語での情報発信が少ないために、日本や日本人が誤解されることが多いように感じます。
現代にも神渡良平さんが紹介されるような一隅を照らす人々がたくさんいます。
そういう方々を、ぜひ英語で世界に紹介してほしいものだと思います。(私は英語が苦手なので)
上記の本は、英語との対訳になっており、外国人の方と回し読みしたり、英語の勉強をするのにも使えます。
また同じように英語で日本を紹介した本に、新渡戸稲造氏の「武士道」という本もあります。
新渡戸稲造氏と内村鑑三氏は、札幌農学校の同期生なのだそうです。
こちらも英語の対訳になっています。
ぜひ、利用してみてください。
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