2013年06月11日

一隅を照らす生き方



また神渡良平さんの本です。

「一隅を照らす」という言葉は、神渡さんが師父と仰ぐ安岡正篤氏の言葉からいただいたものでしょう。

「一燈照隅万燈照国」

これは私も座右の銘にしている言葉ですが、自ら一燈を掲げて足元を照らすことで、それが万人に広がり、ひいては国全体を照らすことになるのだということです。

権力を握って上から全体をひっくり返すのではなく、まず自らが範となって行動で意思を示し、それに共感する人が集まってくることで、社会全体が変わっていく。

これは、「神との対話」シリーズでも同様のことを言っていて、いきなり政治体制を変えることを目指すのではなく、まず自分の信念を変えることを勧めています。


話を戻しますが、こういった「一隅を照らす」人々というのは、世間的にはあまり知られていない無名の人が多いものです。

神渡さんは、そういった人々にスポットライトを当て、それが真理とどう符合しているかを、古典の文言などを引用して説明します。

これはおそらく、神渡さんのライフワークというか、おそらく意図してこういう手法を使われているのでしょう。


この本の中で神渡さんは、荀子を引用して、なぜ学ぶかということを冒頭に説明しています。

(本当の学問は、立身出世や就職などのためにあるのではない。困窮しても苦しみ迷わないためである。将来を憂えて、心まで哀えてしまうことがないためである。禍(わざわい)も幸福も永遠に続くことはなくいずれ終わることを理解し、少しも迷うことがないためである)

(p.3)

このように言って、この本に書かれた人々の生きざまを学ぶことで、自分自身の生き方に役立てて欲しいと願われているのでしょう。


最後の方に、「日本は世界のモデル国家を目指そう」と題して、神渡さんの呼びかけが書かれています。

私は日本が国際社会においてもっと崇(あが)められる地位を占めるべきだと言っているのではなく、雛型としてのモデル国家「大宇宙の仕組みを体現する大和の国」を目指すべきだと言っているのだ。

(p.231)


諸外国の人が日本から何かを学ぼうとするとき、日本には世界の思想家と比べて遜色のない人々がいると言います。

そして、聖徳太子、空海、道元、良寛、二宮尊徳、中江藤樹、上杉鷹山などの名前をあげます。

そういう先賢の思想を明らかにし、広めることが、神渡さん自身の使命だと考えられておられるのでしょう。

それによって、日本が全体として徳のあるコミュニティーを形成できたとき、世界を救うという使命が果たせるのかもしれません。


このことには私も賛同します。

現在の世界には、宗教的にはキリスト教とイスラム教の対立があり、人種的には白人と黒人の対立があります。

それらの中間にあり、しかも、それらを包括する思想を持っているのが日本であると、私は常々思っていたからです。

「天」という思想は中国から渡ってきたものですが、日本人ほどその心を絶やさず持っている民族はいないのではないでしょうか。

そしてその「天」は、一神教の「神」をさらにスケールアップさせるものです。


私は「神との対話」シリーズによって、「すべてはひとつ」という思想を明確に知ったのですが、これはすでに大昔から言われてきたことでした。

仏教で言うところの「空(くう)」もそうですし、今、世界中で多くの人が、すべてが「一体」であることを感じ、そういう話をするようになっています。

そして最近、神渡良平さんの本をまた読み始めたことで、安岡正篤氏などもそういう思想を持っておられたとわかりました。

そして、そのことを表現するのに、「天」という言葉はぴったりだなあと感じたのです。


私も、だいそれたことができる立場の人間ではありませんが、自らの足元を照らしつつ、万燈照国の一助になろうと思います。

この本は、そういう気持ちを奮い立たせてくれました。

一隅を照らす生き方
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:54 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月12日

静寂の時間がいのちの根を養う



神渡良平さんの本の中では、比較的にさらっと読めてしまう本のように感じました。

この本は、いろいろな雑誌に書かれたものの中から、精神の成熟と静寂に関するものを集めて作られたようです。

そのため、それぞれの章ごとに話題が完結しており、また、雑誌の読者向けということもあってか、平易な文が多いように思います。

第一章は、アフリカを旅してキリマンジャロをご覧になった時の感動や、熊野古道を踏破されたときのエピソードが語られていて、旅行記のような読み物になっています。

また第四章は「一隅を照らす人々」として、ここでも無名の方の偉大な足跡を掘り起こされていて、読み手に勇気を与えてくれます。


しかし、この本を貫く神渡さんの考えは、一貫したものがあるように感じました。

それは、師父と慕う安岡正篤氏の考えでもありますが、天の計らいを受け入れて、己がやるべきこと(使命)に精進するという考えです。


心に残った部分をひとつ紹介しましょう。

安岡氏が政財界のトップたちに揮毫(きごう)した言葉に、「六中観」というものがあるそうです。

「死中、活有り
 苦中、楽有り
 忙中、閑有り
 壺(こ)中、天有り
 意中、人有り
 腹中、書有り」


「忙中、閑有り」は一般にもよく使われるので、聞き覚えのある方もおられるでしょうね。


これらの中の「死中、活有り」について、サッカーの日本代表監督を務めたこともあるジーコ氏のエピソード(p.140 - 142)が書かれていました。

彼が現役のとき、大怪我をしたことがあったそうです。復帰確率10〜15%とも言われ、4度の手術をしたのだとか。

そうして復帰してセリエAのウディネーゼに移籍したところ、元の所属クラブの会長から「ジーコは故障だらけで、ウディネーゼでももはやチームのお荷物だ」と酷評されたそうです。

それによって発奮したジーコ氏はプレースタイルを変え、自らが敵陣に切り込むのではなく、絶妙なパス回しで味方に点を取らせるようなゲームメーカーとして、才能の花を開かせたのです。


後にジーコ氏は、言われた当初は会長のことを恨んだと言いました。「調子のいいときは神様と持ち上げ、調子が悪くなるとさっさと切り捨てる、と。

しかし、そのことで発奮して自分の才能を開花させたということも事実です。それを受け入れたから、「だから今は会長に感謝しています」とジーコ氏は言ったのでしょう。

「ものごとにはいつも二つの側面があるものです。辛いことの後ろ側には、必ず良いことがくっついているものです。要はそれを探し出し、具体的なものにするために、努力することです。勝利は多くの犠牲と努力を払った者への最高の報酬なのです」

死地から復活したジーコ氏は、そう語ったそうです。


まさに、「死中、活有り」を、自分の人生で示したのです。

八方塞がりに思えるとき、それは何かが劇的に進化する兆候だと見抜くなら、絶望して心が折れることはありません。

「死中、活有り」の言葉は、そう私たちを励ましてくれます。

静寂の時間がいのちの根を養う
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:36 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月13日

宇宙と一体になること

最近、神渡良平さんの本をよく読んでいますが、それによって久しぶりに安岡正篤氏の思想に触れた気がしています。

それだけでなく、有名無名を問わず、多くの心ある人々の考え方にも触れました。

その結果、やはりこれは間違いないなと、改めて思うことがありました。


「すべてはひとつのもの」


「神との対話」シリーズでそう言っていますが、このことですべての問題が解決するというのが、私が得た結論です。

そしてそれは、昔から多くの人が語っていることに気づいたと、これまでも書いてきました。

それを神渡さんの本を通じて、再確認した次第です。


たとえば、「中村天風「幸せを呼び込む」思考」によれば、天風氏はこう言っているそうです。(p.171)

自分というものは、ひとりでいるのではない。常に宇宙霊というものに包まれていて、しかも宇宙霊は全知全能の力を持っている。それと結び付いている生命を自分が持っているのである。
   [運命を拓く(中村天風著/講談社)]


天風氏が言うところの「宇宙霊」とは、キリスト教などで言う「神」と呼ぶこともできるでしょう。東洋思想で言うなら「天」と言い換えることもできます。

このように、全知全能で宇宙を満たしているものとつながっている。そう天風氏は言うのです。


同じように、「安岡正篤 立命への道」によれば、安岡氏はこう言っているそうです。(p.197)

人間の生命というものは全きもの、無限にして永遠なるものです。その偉大な生命がなんらかの機縁によって、たまたま一定の存在になり、一つの形態を取るのです。我々人間が存在するということは、すでに無限の限定であり、無限の有限化であることを知る必要があります。この有限化を常に無限と一致させるということが真理であり、道理であり、道徳であります。
   [運命を開く(安岡正篤著/プレジデント社)]


生命は無限で永遠であるということは、天風氏が言う宇宙霊と同じものと考えられます。

その宇宙霊(生命)の一部が有限化したものが、人間の本質だと言うのです。つまり、私たちがよく言う「魂」というのは、無限で永遠な「生命」の一部であり、それはすべてつながっているのだと。


また、「一隅を照らす生き方」によれば、宮沢賢治氏もこう言っているそうです。(p.105)

自我の意識は、個人から集団へ、そこから社会へ、次には宇宙へと進化する。この方向は、古い聖者が踏み、また教えてきた道ではないか。新たな時代は、世界が一つの意識になり、生物となる方向にある。
  [農民芸術論(宮沢賢治)]


有限化し、分化した生命が、再び一体になる方向に進みつつある。そのことを宮沢氏は見抜いていたかのようです。


「静寂の時間がいのちの根を養う」では、もっと明確に安岡正篤氏の思想を伝えています。(p.148)

一 宇宙人生は自己を実現しようとする絶対者の努力だ。
 二 森羅万象は絶対者の顕現にほかならない。
 三 絶対者の造化を端的霊妙に表すものは人だ。
 四 絶対者は人間を通して、自ら《玄》から《明》に化した。
 五 その絶対者を見失うことがないかぎり、人間は無限に向上発展してやむことがない。
   [いかに生くべきか(安岡正篤著/致知出版社]


もうまさに、「神との対話」シリーズで言っていることそのままです。

おそらくこちらが先でしょうから、「神との対話」の方が、安岡氏の思想を取り入れたと言うべきかもしれませんね。


安岡氏が晩年に傾倒したとされる老荘思想は、無為自然という言葉に表わされるように、自然との一体化こそが重要だという思想です。

自然というのは、森羅万象であり、宇宙全体とも言えます。

それはつまり、天風師の言う宇宙霊であり、生命と言うこともできます。

老荘思想にも、そもそもすべては一体である、つまりひとつであるという考え方があったのです。


仏教では、大乗仏教の重要な教典である般若心経において、「色即是空 空即是色」として、「万物=空(くう)」という関係を示しています。

このことは、「般若心経の意味がわかった」で詳しく書きました。


そして真言宗を開いた空海(弘法大師)もまた、同じような悟りを得たと言われています。

彼は、国家試験に合格した官僧でもないのに、唐の恵果阿闍梨に会いたい一心で挑戦し、不可能と言われた遣唐使に選ばれました。

恵果阿闍梨空海と会ったとき、「お前が来ることは知っていた。待つこと久しかったが、今日やっと会えてとても嬉しい。」と言ったと記されています。

そして、短い期間で密教の秘法を伝授され、ついに空海は法統を受け継ぎ、真言宗の正嫡となって、日本に戻ってきたのです。


その空海が読んだ詩の中に、こういう文があります。

「声心雲水倶了々」

実はこれ、おじから形見分けにもらった掛け軸に書かれていた言葉だったのです。

昨夜、ふと思い出して開いてみたのですが、誰が書いたのかも、どんな意味なのかもわかりません。

けれど、その掛け軸がしまわれている桐箱が、素晴らしい造りなのです。

蓋を180度回転させて閉めても、ぴたりと吸い付くように閉まります。そしてその箱をなでてみると、まるで乙女の柔肌かと思うほど、優しい心地よさが手に伝わってきます。

「これはただものではない。」

直観でそう思いました。そこで、掛け軸や桐箱の蓋の裏に書かれてあった言葉を書き写してきて、ネットで検索して調べました。

そこで初めて、それが空海の詩の一部だとわかったのです。

そして、その掛け軸を書いた方は、島根県出身の高野山碩学・文学博士の高木伸元(しんげん)氏でした。

※伸元氏の「しん」は、正式にはゴンベンです。


この詩(元の漢詩を読みくだしたもの)の全体と、高木氏による解釈があったので紹介しましょう。

空海の声を聞く 弘法大師の詩文から

閑林に独坐す
 草堂の暁(あかつき)
 三宝(さんぼう)の声一鳥(いっちょう)に聞く
 一鳥声あり
 人心(ひとこころ)あり
 声心雲水(せいしんうんすい)
 倶(とも)に了々(りょうりょう)
      (性霊集 十)


この静けき奥深き山に、一人弘法大師は瞑想に耽られていた。その明け方、三宝の声、この三つの宝というのは、この仏法僧、仏と、その仏の説かれた教えと、その教えをですね、広められる出家者、お坊さんですね。それをこの三つの宝と呼びます。三宝の声、一鳥に聞く。あのぶっぽうそう、ぶっぽうそうと鳴きますから

奥深い山で深夜に瞑想をしていると、ぶっぽうそうという鳥の鳴き声が聞こえたのです。

その瞬間に、悟ったわけです。

鳥の鳴く声と、私の心と、そしてこの自然と、まさにそれは、「倶に了々」である。一体である、繋がっているということですね。

高木氏はこう言って、周りのすべてと自分が一体であるという感覚を得た体験と、空海の心境とを重ねて説明しています。


この「倶に了々」の部分ですが、「それぞれが明らかだ」と解釈している人もいます。

けれども、それでは意味が通じません。私は、高木氏の「一体である」「つながっている」という解釈を支持します。

 

ここ数日の間に読んだ本から、多くの人がこの世の本質を「ひとつのもの」であると言っていることを、改めて知りました。

ここに書きませんでしたが、上記で紹介した本の中には、他の方の同様の気づきについても紹介してあります。

そして、もともと一体のものであるけれど、そう気づくことが進化であり、重要なのだということも、同様に多くの人が語っています。

みなさんがどう思われるかはわかりませんが、私は、これを私の真実として受け入れます。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 10:08 | Comment(0) | 幸せ実践塾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神の慮り(おもんばかり)

ニューヨーク州立大学病院医療センターのロビーに、「ある病者の信条」と題した詩が掲げてあるそうです。

私はこのことを、神渡良平さん「静寂の時間がいのちの根を養う」という本で知りました。

その詩を以下に載せますので、じっくり読んでみてください。

<--------------- 「ある病者の信条」 --------------->
大きなことを成し遂げるために
力を与えてほしいと神に求めたのに
謙虚さを学ぶようにと弱さを授かった

より偉大なことができるようにと健康を求めたのに
より良きことができるようにと、病弱な体を与えられた

幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった

世の人々の称賛を得ようとして、権力を求めたのに
得意にならないようにと失敗を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられていた

言葉に表されていない祈りが叶えられていたのだ

ああ、私はあらゆる人の中で
もっとも豊かに祝福されていたのだ

<--------------- 「ある病者の信条」 --------------->


願ったような現実が得られないとき、不平不満を言うこともできます。

しかし、それは単にひとつの見方に過ぎません。

別の見方をするなら、実はそれこそがありがたいことなのかもしれないのです。


この詩を、サウンドセラピストのAikaさんが歌っておられます。タイトルは「神の慮り(おもんばかり)」です。

YouTubeで聴くことができますので、どうぞ聴いてみてくださいね。



Aikaさんは、アイカ・サウンドセラピーセミナーというのを各地で開いておられるようで、6月22日は広島であるようです。

透き通るような歌声に、癒されますよ。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 15:44 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月14日

居場所のない子どもたち



シュタイナー教育を実践する場所として、NPO法人「東京賢治の学校 自由ヴァルドルフシューレ」を作られた鳥山敏子さんの本です。

これも「みやざき中央新聞」の社説で鳥山さんのことを知って、興味が湧いたので買ったと思います。本当に有用な情報を提供してくださる新聞ですね。


鳥山さんは教師をやめた後、ワークを通じて親子の関係を見てこられたそうです。

何千人、あるいは何万人という人の心の奥底に押さえつけられてきた思いを知ることで、教育に関する問題、生き方に関する問題が見えてきたと言います。

この本では、そのワークの事例をいくつも紹介されていて、とてもわかりやすいです。


アダルト・チルドレン(AC)という言葉は、すでに多くの人が知るところとなっています。

虐待アルコール依存症など、機能不全家族の中で育ったことが原因で、成人してからもトラウマを持つという現象です。あるいは、そういう症状の人のことを言います。

けれど、そうした目立った症状として表れなくても、多かれ少なかれ、すべての人に言えることではないかと私は思います。


この本では、虐待や登校拒否、過食症や拒食症などの人の例も紹介されています。

性的虐待の問題も少し語られていますが、母と息子、父と娘の関係について、親が大人になりきれていないために起こるということが、ちょっとだけ説明されていました。

この部分は、もう少し掘り下げてほしいなあと、個人的に思いました。


鳥山さんは、子どもが子どもとして生きられないことが問題だと指摘します。

子どもが安心して自分らしさを表現できないため、その不安から、大人の役割を演じてしまうのだと。

充分に満たされない子どもとしての思いは、大人になってもインナーチャイルドとして心の奥底に残っています。

そのインナーチャイルドが癒されないと、自分が親からされたように自分の子に虐待したり、怒りっぽくなったり、あるいは自傷行為をしてしまうのだと。


この本を読みながら、私も子どものころを思い出しました。

忙しくしてかまってくれない母親に対して、「貧乏でもいいから、仕事をしないで一緒に遊んでよ!」と言いたかった。

父親にも、怒ったりせずにやさしく受け入れてほしかった。もっともっと甘えたかった。

それを我慢して、我慢して、良い子でいなければいけないと、必死で大人になろうとしていたのです。

中学3年生のとき、「もういいや」と感じて、反抗してみました。

それは、詰襟の制服のホックと第1ボタンを外すこと。

はい、それだけです。第2ボタンまで外す勇気はありませんでした。(笑)

バカバカしいでしょうけど、そんな反抗すらできなかったのです。


無意識に押し込めてきた子どもとしての自分。いわゆるインナーチャイルドを癒してやらなければ、自分をコントロールすることは難しいでしょう。

子どもを虐待してしまったり、拒食症や過食症になったり、あるいは引きこもりや自傷癖など、自分の意思でどうにもならないのは、そこに癒されていない自分がいるからです。

依存症も同様です。執着してしまうのは、心が癒されていないからです。

性欲が強いというのも、これも同様です。誰でも性欲はあります。けれど、満たされていれば執着しません。

性欲が強いのではなく、性欲を満たすことに執着しているのです。


インナーチャイルドを癒すためには、カウンセリングを受けたり、鳥山さんがされていたようなワークに参加することが有効だと思います。

あるいは、私が紹介しているような「鏡のワーク」などを自分でやることでも、良くなっていくでしょう。

そのためにも、まずは本当の自分を知ることが大切です。

この本は、本当の自分に気づくきっかけになると思います。

居場所のない子どもたち
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:06 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月15日

自然農という生き方



昨日紹介した「居場所のない子どもたち」鳥山敏子さんの本を探しているとき、なぜか自然農についての本が検索にひかかりました。

有機農法だとかいろいろな農業手法がありますが、なぜか自然農という言葉に惹かれました。

私自身、農業体験はあまりありませんが、いくつか本を読んで、農薬や化学肥料に頼らない農業にしなければいけないと感じていたのです。


検索にひかかったのは、鳥山さんと川口由一さんの共著となっている「自然農」だったのですが、その関連の本として、この「自然農という生き方」がありました。



どちらにしようか迷ったのですが、タイトルに惹かれてこちらにしました。

自然農の手法ではなく、その考え方に基づいた生き方というのが、心に響いたからです。


本はペーパーバック版で、あまり質の良い紙を使っていません。

これも、自然に優しいというテーマに合わせたものなのでしょうか。

内容は、文化人類学者で環境運動家の辻信一氏が、川口由一さんに尋ねるという形式になっています。


自然農というのは、有機農法とも違っていることが、すぐにわかりました。

まず不耕起が重要で、肥料など一切持ち込まないと言うのです。

土壌を改良するという考え方がありません。いえ、むしろそれを嫌います。

害虫とか益虫など、人間の恣意的な判断をせず、自然そのままを重視します。虫や草を敵にしない考え方です。

土は何でもよく、その上で行われている生命活動が重要なのだという考えです。

育った草が半年から1年で枯れます。生まれた生命がそこで死ぬのです。

その枯れ草が溜まって腐るわけですが、そこには小動物や昆虫、菌類などの生命活動があります。

それを川口さんは「亡骸(なきがら)の層」と呼ぶのですが、これが作物を育てると言うのです。


この本の前半は、川口さんがどういう経緯で自然農をすることになったかが書かれています。

川口さんがどこからそういった哲学的な考え方を得たのかわかりませんが、好きなこと、やりたいことを優先すべきだと考えるようになったそうです。

たいていの人はここで不安になり、「やっぱりまずお金を稼がないと」と考えてしまうのですが、川口さんは違っていました。

収入はありませんでしたが、子どもたちといっしょに芸術的な暮らしを送り、正しいこと、やりたいことのやれる日々で、毎日、幸せでした。

(中略)

お金のことでいうと、いのちの道、人の道からはずれるようなことさえしていなければ、必要なものは後からついてくる、という確信がありました。実際そうでした。人に恵まれる、仕事に恵まれる、場に恵まれる、お金に恵まれる。みんな後からついてきました。ぼくは好きなこと、やりたいこと、正しいこと、必要なことをして、生かされてきました。すべての人の生き方の基本はそうあるべきだと思います。

(p.55 - 56)


この確信は、いったいどこから来るのでしょうか?驚く他ありません。

自然農をすることで、近所からの苦情もあったそうです。

けれども川口さんは、けして自分の正義を主張しなかったそうです。

相手には相手の正義があるのだから、自分が正義を主張すれば、言い合いになってトラブルが大きくなるからと。


そして川口さんもまた、この世の実相を的確に表現されています。

いのちの世界はすべて一体にして、個々別々です。今生きているいのちも、過去のいのちも、未来のいのちとも、切り離すことのできない、ひとつの存在であり営みです。同時に、ぼくはぼく、あなたはあなた、過去は過去、太陽は太陽、それぞれ別々の存在であり営みでもある。

(p.100)

老子の無為自然という考え方に近いとも言えますし、「神との対話」シリーズで示されている考え方とも言えます。あるいは、宮沢賢治的な考え方と言いましょうか。

いずれにせよ、生命の実相は「ひとつのもの」という見方を多くの人がしており、川口さんもそうだと言えるようです。


川口さんは、全員が自然農をすべきとは言いません。

それぞれの人に、それぞれの使命があると言います。

しかし、どういうことをして生きようとも、その生き方は自然農に示される生き方であるべきだと言うことです。

単なる農業技術ではなく、人がどう生きるべきなのかという深い問いから生まれた、農業はどうあるべきかという問いの答え。それが自然農なのです。


現在、川口さんの自然農を学ぶ人たちの集まりがあって、川口さんもその指導をされてるそうです。

詳細は、赤目自然農塾「気楽に自然農」というWEBサイトをご覧ください。

自然農という生き方
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:05 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月17日

安岡正篤「宇宙と人生」



神渡良平さんが、人生の師父として私淑する安岡正篤氏の、思想から学んだことについて書かれた本です。

安岡氏に関する本はたくさんありますが、神渡さんほど安岡氏のことを書いた作家は、他におられないでしょうね。

神渡さんの本を読むと、タイトルに「安岡正篤」と書かれていなくて、必ずどこかで安岡氏の名前が出てきて、その思想が紹介されています。

それだけ、安岡氏に学ぶものが大きいと、神渡さんは考えておられるのでしょう。


この本は、安岡氏の思想を直接に解説したというより、その思想が他の人によって、どのように具現化されているかを紹介したものとなっています。

第三章では、「地の塩・世の光、一隅を照らす人々」と題して、有名無名を問わずに、一隅を照らす生き方をしている人々を紹介しています。

この中には、先日ブログにも書いたサウンドセラピストのAikaさんの話もありました。

また、俳優の滝田栄さんの話もあって、あの温かい人間味にあふれた印象が、こういうところから来ているのかとわかりました。

私も1回だけですが、滝田栄さんレ・ミゼラブルというミュージカルを見に行ったことがあります。たしか本田美奈子さんも出ていたはず。

あまり劇を見に行くことのない私ですが、そのときはなぜか見たくなったのです。せっかく東京で暮らしているのだからと、文化的なものに触れたい気持ちもありました。


この本に書かれた安岡氏の思想を、無謀を承知で私の言葉でまとめると、次の2つに絞られると思います。

1.生命は一体であり、私たち人間は、その無限な生命が具現化したものである。

2.私たちが一体である生命から分化して具現化したのには意味があるのだから、常にその無限の生命と対話しながら、分化したいのちをまっとうするべきである。


だから内省するとか、自分の中に入っていくとか、瞑想するなどということが大切になるのでしょう。そのためにも、独りでいる時間が重要です。


こんなことを言うと著者の神渡さんからは怒られるかもしれませんが、これが私が受け取ったこの本のメッセージです。

歌や小説などもそうですが、作品はできあがった瞬間からひとり歩きします。

作者がどういう思いでそれを作ったかなど、正確に伝わるものではありません。

そして、正確に伝わる必要もないと思います。

それを受け止める側は、その人としてそれを受け取り、自分に役立てれば良いのです。


ここに紹介されていた畑山さんは、不治の病HAMの患者さんです。

畑山さんは、「神との対話」を読んでいて、高次の意識を与えられたそうです。

※本の中で「ニール・ドナルド・ウォルシュの『神との対話』(PHP研究所)・・・」(p.219)と書かれていますが、「神との対話」というタイトルの本はサンマーク出版です。本のタイトルが「10代のための「神との対話」」ならPHP研究所になります。おそらく畑山さんは、「10代のための・・・」の方を読まれたのでしょう。

 

現状に不平を言わず、ただただ感謝して受け止めます。私を伸ばしてくださるために、あらゆるものを与えてくださり、本当にありがとうございます。私はただがんばっていけばよろしいのですね」(p.220)

そのように感じて、進行性の不治の病になったにも関わらず、前向きに生きられるようになったそうです。

安岡正篤「宇宙と人生」
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:32 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

幹事は大変だと改めて思いました

昨日は、ソフトボール仲間のゴルフコンペがありました。

「へたくそソフトボール」と称して、老若男女が上手も下手も関係なく集まって楽しむソフトボールを、バンコクの日本人仲間を中心に行なっています。

その集まりの中にも、ゴルフ好きのメンバーが多数います。そこで持ち上がったのが、チームの垣根を超えてゴルフを楽しみましょう、という話でした。

ソフトボールだと、どうしてもチームごとに固まってしまいます。ゴルフなら、同じパーティーのメンバー同士の交流もできますからね。

題して、「へたくそソフトボール・ゴルフコンペ(HSG)」です。ゴルフなのかソフトボールなのか、よくわからない名前ですね。(笑)

第2回HSG


今回は2回目だったのですが、その幹事を、私が所属するチームがやることになりました。

成り行き上、チームの代表になっている私がやることになってしまいました。(汗)


初めてゴルフコンペの幹事をやったのですが、改めて幹事という裏方仕事は大変だなあと思いましたよ。

参加するだけの人は自分のことだけ考えていれば良いのですが、幹事は全体を見なければなりません。

いろいろなことを想定して、あれこれ手配しなければなりません。

それだけでも大変だと思いますが、ましてやここはタイですから。タイ特有の困難なことがあるのです。


それは一言で言えば、「コミュニケーションの問題」です。

意思疎通ができないというか、思っていることが思っているままに伝わらないのです。

もちろん言葉の問題もありますが、それ以上に文化の問題が大きいと感じています。気持ちや考えていることが伝わりません。


コンペの予約などは言葉の問題もあるので、会社のスタッフにお願いしました。

そのため、私と会社のスタッフの間、会社のスタッフとゴルフ場の電話担当者の間、ゴルフ場の電話担当者と各部署の担当者の間の、それぞれでコミュニケーション・ミスが発生したようです。

今回のコンペが終わるまでに、思い通りにならなかったことを、以下に箇条書きにします。


1.プレー代が、問い合わせた時は1人1,200B(約3,750円)だったのに、正式に予約した後から1人1,300Bだと言われた。(言った言わないの水掛け論になるので、あきらめました。)

2.パーティーの飲食代が1人300B(約950円)と言われたので、ビールは含まれるか尋ねると、「含まれる」との回答。あとでビールの量に制限があるのかと尋ねると、「含まれるのはソフトドリンクだけ」と言ってきた。(飲食代にソフトドリンクが含まれるかなど、わざわざ尋ねるわけもないのに。)

3.事前にパーティー会場の場所を知っておこうと思い、図にかいて「ここですか?」と場所を尋ねたら、違うと言って他の場所を教えてくれた。けれど実際にはその場所に会場らしきものはなく、私が示した場所が会場だった。(まったく複雑じゃないのに、敢えて図にしたのにわからない理由が理解できません。)

4.ニアピン用に立てる旗を用意してくれると言うので、各ホールに事前に立てておくのではなく、8本を手渡ししてほしいとお願いし、渡してくれる担当者の名前と携帯番号まで確認しておいた。しかしゴルフ場へ行ったら、旗はすでに各ホールに立てられていた。(「わざとでしょ?」と言いたくなります。)

5.パーティー会場の前にコンペの名前を表示するからと言われたので、「HSG 2nd」と伝えたのに、会場には何も書かれていなかった。

6.パーティー費用の計算は、コンペの予約人数か、それとも実際にパーティーに参加した人の人数かと尋ねたら、実際の人数だと答えたから、人数の増減は問題ないと考えていた。しかしコンペの5日前になって、予約人数で計算するから確定してくれと言われた。(実際の人数の増減があったときどうするかがわからないと、コンペ参加費の計算ができない。だからわざわざ尋ねたのに・・・。)

7.パーティーの精算内容を確認したら、人数が概算申込み時の人数になっていた。(なんのために予約人数を確定させたのだか。しぶしぶでも訂正に応じてくれたから、結果的には予定通りですけど。)


こういった意思疎通が上手くいかないことが発覚するたびに、私は無力感に打ちひしがれ、怒りを通り越して呆れる気持ちになるのです。

「だから何度もわざわざ確認したのに・・・。」

そうした努力が水の泡です。そのたびにオロオロし、怒り、慌てふためく惨めな私が現れるのです。

怒声を浴びせるようなことはしませんが、言葉や態度には現れていたでしょうね。

今になって思えば、自分の未熟さを恥ずかしく感じますが、敢えて正直に書くことにしました。


かっこうをつけても仕方ありません。私はまだまだ、このレベルです。

そのたびに何とか自分を変えなければと思うのですが、すぐには思うようになりません。

こういうトラブルを鷹揚と受け止め、にこやかにしていられたら素敵なんでしょうけどね。

 

けれど、多少は自分を変える努力はしています。

パーティーが終わった後、余った料理を持ち帰るために、袋に詰めてもらいました。

給仕の子は、料理を手際よくビニール袋に入れ、その口を輪ゴムで縛ります。

私も手伝ったのですが、料理を袋いっぱいに詰めると、輪ゴムで縛れないのです。それなのにその給仕の子は、なんでもないように簡単に縛ります。

「みごとなものだなあ。」

そう感心したとき、精算内容が間違っていたとか、袋詰を依頼してもなかなか来てくれなかったことなどへの不満が、スーッと引いていったのです。


私は、料理を詰めてくれた給仕の子にお礼を言って、チップを100Bほどあげました。

ちょっと多すぎるかとも思ったのですが、諸々のお礼だと思って、思い切ってあげたのです。

心から他の人を素晴らしいと思うとき、ありがたいと感じるとき、心は浄化されるのですね。
 

部屋に戻ってから、読みかけだった「安岡正篤「宇宙と人生」」を読みました。

するとそこに、今回の出来事を象徴するようなことが書かれていて、私の胸を打ちました。

冒頭に安岡正篤の言葉を引用したように、東洋思想の根幹にある考え方が「自反」、すなわち自らに反(かえ)るである。
「お前のせいでこうなったんだ。どうしてくれる!」
 といきり立つのではなく、このトラブルは私に何を伝えようとしているのだろうかと、心の耳を澄まして聴き入る。何が起ころうとも甘んじて受け止め、自分の身に振り返って考える。すると、大切なメッセージが見えてくる。
」(p.190)


「あー、そうだった、そうだった。すべての出来事は贈り物だったんだ。」

思い通りにならないとき、つい「相手が悪い」と思ってしまう。そうじゃないと、まるで「自分が悪い」ことにされてしまいそうだから。

でも、そういう視点から離れて見れば、別の見方もできます。

「天はこうやって、やることなすことを空乏(くうぼう)にして、私自身の精神を鍛えてくださっている。」

孟子の言葉によればそうなるのですが、それもまた1つの見方です。

「こうやって苦労したからこそ、幹事をやる人の苦労がわかる。次からは幹事の人をもっと助けてあげよう。」

そういう優しい気持ちを抱けるようになるのも、また別の見方をしたからです。


陽明学では、「事上練磨」と言います。

学問は頭のなかで行うのではなく、実体験に基づくべきであると。そうすることで、より学問を究めることができる。実際に役立てられない学問は、学問ではないのです。


まだまだ未熟ですが、時間をかければこのように穏やかな状態に戻れます。

本を読みながら思索する時間が、私を本来の私に引き戻してくれるのです。

手元に読む本があって、自省する時間があるということは、とてもありがたいことだと思います。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 16:39 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月18日

願いは常に叶っている

「ザ・シークレット」とか「引き寄せの法則」などによれば、この世はすべて思い通りになることになっています。

なぜなら、この世の出来事は結果で、その原因は、私たちの考えたこと、つまり思考にあるからです。

いわゆる「引き寄せ本」の元祖とされる「「原因」と「結果」の法則」でも、繰り返し言っているのは、思考が原因だということです。


そういう本を読んで、多くの人は感動します。

そして、自分も引き寄せの法則を利用して、幸運なことを引き寄せようとやってみます。

そして、大半の人が挫折します。(笑)


なぜか?

詳しくは「引き寄せの法則には盲点があった」で書いていますので、そちらをご覧ください。

ポイントをお話すると、1つは上手く使えないことです。つまり、自分の思考を思い通りにコントロールできないという問題があります。

もう1つは、思考は私たちの顕在意識(いわゆる意識)だけが行なっているのではなく、魂の思考もあるということです。

そして魂の方が強いので、そちらの意思が現実に現れるのです。いわゆる運命と呼ばれるものですね。


このことを理解しないと、「なんでも思い通りになる」と「ザ・シークレット」などでは説明するため、喜んで舞い上がってしまいます。

そして、当然のことながら思い通りにならない現実を突きつけられて、とたんに失望してしまうというわけです。

 

けれど、最近になってふと、「それでも思い通りになっているんだな」と直感的に感じることがありました。

それを教えてくれたのは、神渡良平さん「静寂の時間がいのちの根を養う」で紹介されていた、「ある病者の信条」という詩です。

これも先日の「神の慮り(おもんばかり)」で紹介していますので、そちらをご覧ください。


これを読むと、願い通りにならない現実が次々に押し寄せてきているのに、作者は最後にこう言うのです。

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられていた



意識して、こうであってほしいと思った思考の通りににはなっていないのです。

それを、「思い方が間違っていたからだ」とか、「思考をうまくコントロールできなかったからだ」というようには考えていません。

そういう現実しかないのに、「願いはすべて聞き届けられていた」と感じているのです。


そう感じる理由を、こう説明します。

言葉に表されていない祈りが叶えられていたのだ

つまり、意識して願ったことではなく、無意識の願いが叶っていたのだと。


先ほどの「引き寄せの法則」がうまく働かない2つ目の理由が、このことを説明しています。

つまり、魂の願いが聞き届けられていた、というわけです。


ただそのことを、どう受け止めるかによって、印象が違ってきます。

運命だと考える人は、自分(=顕在意識)以外の何か(=魂)によって与えられているもので、自分には抵抗できないと考えます。

けれど、魂こそが自分の本質だと考える人は、それは自分が願ったことだと感じるのです。


そう感じるとき、小さな自分(=顕在意識)は、大いなる自分(=魂,宇宙意識)と一体になっています。

すべてが一体だと感じるとき、すべての出来事は願い通りになるのです。


 

上記の詩の作者は、それに気づいたから、自分に起こるすべてのことを「ありがたい」と受け止められたのでしょう。

思い通りでない現実の中に、神の栄光を見たと言っても良いかもしれません。


「なんだ、それじゃあいつも不満な現状に甘んじてろってことじゃないか。そんなの詭弁だよ。」

そう文句を言いたくなるかもしれませんね。

そこが大きな関門です。


この関門は狭いので、なかなか潜り抜けることができません。

多くの人がこの関門に跳ね返され、不遇をかこつことになるのです。

あるいは、仮に上手く行ったとしても、常に転落する不安を抱えているため、安住の地がないのです。

安住の地を求めて、もっともっと所有しようとあくせくします。餓鬼道をまっしぐらです。(笑)


しかし、この関門を一度でもくぐり抜けると、そこに今までにない世界が広がっていることに気づきます。

すべてが完璧だったと認識する瞬間です。

不完全だと思っていたことが、実はその不完全さこそが完璧だということがわかるのです。

完璧に不完全なのですから、その不完全が不完全のままに美しく光ります。


その美しさに触れたとき、価値観が一変します。

多くを求めてあくせくすることが、苦しくなるのです。

「これは自分じゃない!」という内なる声が、どんどん大きくなるのです。


理屈(=論理)では、簡単に説明できます。

それは、すべては「ひとつのもの」であるということと、この世は幻想にすぎないことを理解するだけです。

けれども、それを感じて得心することは、自分でやるしかありません。

何度も何度も繰り返して、腑に落ちるまで自分に言い聞かせるのです。

そして、自分の心の中に分け入って行って、そこに自分の真実を見つけるのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 19:15 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月19日

こんなことをやって何になるのか?

この「幸せ実践塾」というブログを立ちあげて、1年以上になります。

目的は、幸せになる生き方を伝えることです。

これを読んでくださった方が、1人でも幸せになってもらえたら嬉しいし、そういう生き方に目覚めてくれるといいなあと思ったからです。

もちろん、このように「幸せな生き方」というメッセージを伝えることが、私らしい生き方であるという思いもあります。

ですから私は、自分がこれをやりたいからやっている、とも言えるわけです。


ただいつも言うことですが、私のメッセージが正しいなどと言うつもりはありません。

これは私にとっての真実であり、1つのやり方に過ぎないからです。

他のやり方の方が上手くいくかもしれないし、私のやり方では上手くいかないという人もいると思います。

ですが、今、私がわかっていることを伝えることしか、私にはできません。また、それで良いと思っています。

私自身も日々進化している存在であり、その変化によって、メッセージも変わってくるかもしれませんから。

 

これを私の真実として伝えるために、私は自己開示することに決めました。

以前なら恥ずかしくて言えなかったようなことも、こういう人間がいるという実例を示す目的で、包み隠さずに書いてきました。

そうする方が、メッセージが伝わりやすいと考えたからです。

そしてまた、それは私が真実を語る訓練でもありました。


それがこのブログであり、またメルマガなのです。

自分をすべてさらけ出すことで、多少なりとも他の人に影響を与え、変化のきっかけになってくれれば良いと思っています。


しかし、この1年の成果というものを考えると、愕然とするときもあります。

「なんだ、1年もかけてこの程度のことしかできないのか。」

意気消沈し、もうやめてしまおうかという衝動にかられることもあるのです。


時には、心ない批判をいただくこともあります。

黙っていれば批判されることはなかっただろうと思うと、「私はいったい何をやっているんだろう?」と迷うこともありました。


けれども、そのたびに思い直すのです。

「やりたいことをやらないとしたら、この一生にはどんな意味があるというのだろう?」


ただ、周りに反応し、嫌なことを避け、年をとって死んでいく。

そんな人生が私の望みだったのでしょうか?

いや、それは違う。

もう50年も生きてきたのだから、あとは自分の使命に生きようと決めたはずだ。


読みかけの本を開くと、まさにこのときに読むべきという箇所と出合います。

「そうだなあ、やっぱり自分は、これをやるしかないんだなあ。」

改めてそんな気持ちになるのです。


「そんなことをやってて、いったい何になるの?自己満足してるだけじゃないの。」

そう言われるかもしれません。

それに対しては、今は、信じるしかないと思っています。

 

私たちは「ひとつのもの」です。すべては一体なのです。

水面に起こった波紋は、薄まるとしても消えることなく、どこまでも広がっていきます。

それと同じように、「ひとつのもの」の中で発生した思考は、言葉は、行動は、果てしなく波動として広がっていくのです。

そしていつか、どこかで、誰かが、その波のエネルギーに感応してくれるはず。


「一燈照隅 万燈照国」

尊敬する安岡正篤氏の言葉を、私の座右の銘としています。

私にできることは、取るに足らないことかもしれない。けれど、暗闇に自ら一燈を掲げ、自分の足元を照らそう。

あちこちで同じように一燈を掲げる人が現れてくれば、その勢いは全国津々浦々に広がり、ついには国中を照らす明かりとなる。

けれども最初は、誰かがどこかで、小さな明かりを掲げなければならない。

バカにされるかもしれない。攻撃されるかもしれない。

しかし、それが自分の真実なら、それが人として、生命として、なすべきことであると思うのなら、たとえ相手が千万人の敵であろうとも、1人で立ち上がらなければならない。

そう日々に思い返しながら、「よし、今日もがんばろう!」と勇気を振り絞るのです。


仮に今、このブログを読んで感応する人が1人もいなくてもかまわない。

こうしてネット上に残っている限り、いつか誰かが読んで、これに感応するかもしれないから。

平均寿命通りに生きるとしても、この世で活動できるのはあと30年ほどに過ぎません。

やらないで後悔するより、思い切って行動することを選びたい。

そんなことを思うこのごろです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:27 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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