このブログでは、私が幼かったころからのエピソードを交えながら、私が考えてきたことや、私の性格などを紹介しています。
それはある意味で恥ずかしいことでもあったのですが、すべてをさらして裸になることが、私自身の成長に役立つと思ったし、また、読んでくださる方にとっても、参考になると思ったのです。
そうやって自分の過去を思い出しながら明らかにしていく中で、私の考え方がどう変わってきたかも、よくわかるようになりました。
今日は、そのことをお話したいと思います。
子どものころの私は、内気で気が弱く、臆病な性格でした。駅で汽車の切符を買えないほど、不安の塊だったのです。
自分が想定した以外のことを言われたら、どう対応すれば良いかわからなかったのです。
そんな事態が発生したら、どうしたら良いかわからず、パニックになりそうだったのです。
だから、なるべくそういう可能性から逃げようとしました。初対面の人が苦手なのも、おそらくそこから来ているのでしょう。
そんな私でしたが、徐々に将来のことを考えるようになります。
いずれは大人になり、親の庇護から離れ、1人で暮らしていかなくてはなりません。
そのことを考えると、本当に怖かったのです。とても1人では生きていけないと思っていましたから。
しかし、ずっと親元で助けてもらえるわけではないことは、子どもの私にでもわかる現実です。
そこで私は考えました。
どんなことが起ころうとも、それをすべて想定内にしてしまえば良いのだと。
つまり、「こう来られたら、こうする。ああ来られたら、ああする。」というように、すべての対処方法を知っておけば、何が起ころうと慌てることがないはずです。
私は、懸命に知識を増やしました。家にあった平凡社の百科事典などを、片っ端から読んだのです。
自分の知識が増えてくると、他人の知識の無さが目についてきます。
「そんなことも知らないで、よく平然と生きているねえ。」
私は驚きとともに、努力をしない態度を無意識に非難したのです。バカにしたのです。
そういう気持ちは、自然と現れてしまうようで、私は皮肉屋になっていました。
そうやって雑学に強くなったものの、それでもすべてを想定内にすることはできませんでした。
やはり知らないことはたくさんあったし、まだ知らないことがたくさんあるという思いは、私の心に不安として残りました。
「いくら知識を蓄えても、すべてを想定することは不可能だ。」
その結論に達するのは、時間の問題だったと言えるでしょう。
そこで私は考えました。知識ではなく、どんな場面でも通用する判断基準のようなものを身につけるべきだと。
そういう判断基準のようなものを探していた時、歴史に耐えた古典を学ぶことだと説く本と出会い、それからは集中的に古典の解説本を読みました。
論語などの儒教関係が中心でしたが、老荘思想なども学びました。
そうやって、何が起ころうとも沈着冷静に対処できるような、しっかりとした自分を作ろうとしたのです。
いわば、知識から知恵へのシフトです。
古典をわかりやすく解説していることもあって、安岡正篤(まさひろ)氏の本もたくさん読みましたし、その影響で、雑誌の「致知(ちち)」も購読しました。
また、人の心理を知ることが重要だとも考えて、心理学に関する本もよく読むようになりました。
しかし、どんなに知恵を学び、己を修養していっても、やはり弱くて小さい自分が消えることはありませんでした。
「所詮、人とはこんなに小さくて無価値なものなのか?」
自分自身の弱さを、乗り超えることができなかったのです。
そのころは、自分に対してものすごく厳しい人間だったと思います。
会津藩の「什の掟(じゅうのおきて)」というのも、儒教から来ているものですが、「ならぬものはならぬ」と言うように、絶対的な価値観に従うことを自分に強要しました。
それだけでなく、同じように他人にも厳しさを求めたのです。
他人にも厳しいけど、自分にはもっと厳しい。
そう自分を評価していました。そしてそれを、「他人に厳しく自分に甘いよりマシだ。」と考えていたのです。
けれども、理性的にはそうあるべきだと思いながら、心のどこかでは「それは違う」と考えていたのです。
いくら自分に厳しくして社会に役立つ人間になろうとしても、完全には弱さを克服できないし、誰からも評価されない。
むしろチャラチャラとしたいい加減な感じの人の方が、異性からモテたり、友だちからも人気があったりする。
それでもかまわないと思いながらも、「なぜそうなるんだろう?」と考え、どこか満たされないものを感じていたのです。
今にして思えば、「神との対話」などと出会う中で、私は知恵からさらに直観へとシフトしたように思います。
理性的に考えれば、自分が自由であることは嬉しいものの、他人を自由にさせることは恐怖です。
ですから「責任のない自由はない」などと言って、他人を規制することを正当化します。
しかし、その他人を規制することを正当化するために、自分をも規制せざるを得なくなるのです。
こうして自由というものを望みながら、不自由を選択してきたことが、知恵の限界だったのだと思います。
今は、心の声に従って、理性を黙らせておくということを考えています。
つまり理性的な判断を封印し、自分の直観に従うという生き方です。
「人はパンのみに生きるにあらず」ということを言って、子どもらしい理想主義的な話をしたとき、父は「されどパンがなくては生きられない」と反論しました。
現実に生きる者として、家族の生活を支える責任を負うた者として、父としては当然のことだったのでしょう。
私がそれに反論できなかったのは、やはり理性的に考えれば、それは正しいことだったからです。
しかし今、私は、その壁に挑戦しようと考えています。
私の中には、どうしてもそれに立ち向かえと言う声が聞こえてくるのです。
理性的な判断をするから、不安を捨て去ることができない。だったら、理性を封印することだ。
無謀かもしれないし、大バカ者かもしれません。
けれども、「それが私らしい生き方だ」と言う心の声に、したがって生きてみようと思うのです。
先日、帰省した時に、25冊の本を持って帰りました。
傾向としては、哲学系か心理学系ですが、子どもの教育や生き方に関するものがほとんどです。
さらに、本田健さんの本なども追加注文したので、未読の本が30冊あります。
これらを読むことで、さらに自分自身をパワーアップさせたいと思っています。
2013年06月02日
2013年06月03日
神様が教えてくれた幸福論
私が大好きな著者、神渡良平さんと小林正観さんの対談が本になりました。
と言っても、もう5年前の発行ですけどね。
たまたまFacebookで検索して神渡良平さんを見つけたので、懐かしくてフィード購読させていただくというメッセージを差し上げ、それに返事をいただいたのがきっかけで本を買いました。
実はかれこれ25年くらいまえに、知り合いに連れられて神渡良平さんのご自宅を訪問しているのです。
そのころちょうど、安岡正篤氏の本などを読んでいて、安岡氏のことを書いた神渡さんの本も読んでいたのです。
それを知った私の知人が、「だったら今度会いに行くけど、一緒に行く?」と言うので、喜んでついて行ったというわけです。
神渡さんは私のことを覚えていらっしゃらないようでしたが、まあそれは当然ですよね。
小林正観さんは、昨年お亡くなりになられました。
箱根合宿に参加した時、ダイヤモンド社のエース編集者の飯沼一洋さんとお会いし、その飯沼さんが小林正観さんの本を手掛けられたと聞いて、買って読んだのです。
それが、「もうひとつの幸せ論」でした。
それまでも小林正観さんのお名前は存じ上げていたのですが、縁がなくて、本を読んでいなかったのです。
ところが、それからすぐに、実は小林正観さんの本を読んでいたことがわかりました。
それが、「ツキを呼ぶ「トイレ掃除」」だったのです。
まったく知らずに、話題になっていたから買って読んだ本だったのですが、それが小林正観さんの本だったのですね。
そういう縁浅からぬお二人が対談されているということで、興味深く読ませていただきました。
対談本ですから、文章は平易です。でも、内容は深いものがありますね。
お二人の思想のエッセンスに触れることができます。
求道者タイプの神渡良平さんに対し、ご利益主義の小林正観さんのように感じますが、それが深いところでつながっているのが面白いです。
真理に向かう道は1つではなく、いくつもあるということかもしれません。
また不思議な縁で、お二人とも昭和23年生まれなのだそうです。
そして、もう1人神様のことを話し始めた昭和23年生まれの人がいるのだそうです。それがなんと、斎藤一人さんでした。
なんだか不思議な縁ですね。
これからは1人の指導者の時代ではなく、複数の人が集まって、グループで指導する時代なのだと、「神との対話」シリーズに書かれていました。
天命に導かれて、多くの人がそういう役割を果たそうとしておられるのかもしれません。
2013年06月04日
超訳 ニーチェの言葉
ニーチェという哲学者の名前は、とてもよく知られていると思います。
けれども、彼がどのような思想を持っていたかについては、あまり知られていないかもしれません。
「ツァラトゥストラはかく語りき」という著書は有名ですが、そのタイトルは知っているものの、私は読んだことがありません。
私もまた、ニーチェという名前は知っていても、彼の思想はまったくと言ってよいほど知らない人の1人だったのです。
そんなとき、降って湧いたように売れはじめたのがこの本です。
「いまどき、どうしてニーチェなの?」
そういう思いを多くの人がいだいたようで、新聞の広告などでも、むしろそこを売りにして関心を呼ぼうとしている感じでした。
それからしばらく、この本は売れていたようで、ついに私も我慢しきれずに買ってしまったというわけです。
しかし、買ってはみたものの、なかなか読もうという気持ちになりません。そのため、かなり長い間、「積んどく」状態に放置されてました。(汗)
私が買った本は、第31刷で2011年3月10日となっています。おそらく買ったのは、2011年の後半か、2012年になってからだと思います。
そして読み始めたのは、2012年の後半くらい。それをつい先日、やっと読み終えました。
読むのに時間がかかってしまったのは、本の内容が難しいからではありません。むしろ、平易な言葉で書かれていて、簡単な部類に入るでしょう。
しかし、1ページごとに読み切りの内容になっていて、それが全部で232もあるのです。それぞれが、ニーチェの著作から抜き出したものになっています。
このように、まるで1日1話みたいになっているため、読み始めてもすぐに止まってしまうのです。それで時間がかかってしまったというわけです。
けれど、内容は素晴らしいものです。それに、その洞察の深さに驚かされる言葉が散りばめられています。
ニーチェは、思索して哲学体系を作り上げるというよりも、散文的に何の脈絡もなく深遠な哲学を語るような芸術家タイプだったようです。
ですからこの本も、散文的に1ページひとまとまりの内容になっているのです。
私が驚いたのは、ニーチェの洞察が「神との対話」シリーズで言われていることと、かなりダブっていたからです。
この当時、すでにこんなことを考えている著名人がいたのだということが、非常に驚きでした。
たとえば「009 自分の行為は世界に響いている」では、どんな行為や考え方も、世界に影響を与えると言います。「すべての行為や運動は不死なのだ」と言うのです。
これなどは、この世のすべてはエネルギーであり波動だと言う「神との対話」と同じことを言っています。水面の波紋がずっと伝わっていくようなものです。
また、「014 解釈のジレンマ」では、物事そのものに良い悪いがあるのではなく、その人がそう解釈するのだということを言っています。
これなども、出来事は中立(ニュートラル)で、そこにその人が意味を与えているのだとする「神との対話」と同じことを言っています。
あるいは「151 そのままの相手を愛する」では、愛とは好むものを手に入れたがったり、支配するものではなく、まったく違うものをそのままに喜ぶことだと言います。
愛は無条件だと言われますが、このことを明確な言葉で説明しています。
もちろんこのことも「神との対話」で語られていますが、ニーチェのころから言われているのに、いまだに多くの人が気がついていないという事実に驚いてしまいます。
私たち人類の精神的な進歩は、ある意味で遅々として進まなかったのだという事実を見せつけられた気がするからです。
100年以上も前の哲学者が語る言葉が、とても新鮮に感じられる1冊です。
2013年06月05日
西郷隆盛 人間学
鹿児島県生まれの神渡良平さんにとって、西郷隆盛という人物は、やはり特別な存在なようです。
幕末から明治にかけては、日本の歴史の中でも有数の、偉大な人物が排出された時代と言って良いでしょう。
その中にあって、西郷隆盛という人物は、ひときわ輝く巨星だったようです。
神渡良平さん自身も、何度かの挫折を味わいながら、自分の使命として、生き方を問う書物を世に送り出すことに気づかれたそうです。
西郷隆盛という人物も、実に遠島3回という経歴があり、しかもその中の1回は、けして本土に戻ることがないとされた沖永良部島への島流しだったのです。
それでも希望を捨てず、私心をなくし、公のために、天のために、心を尽くした至誠の人でした。
西郷の生き方をしのんでは、「自分ももっとがんばらなくっちゃなあ。」と、神渡さんも思われたのではないでしょうか。
私もまた、この本を読まさせていただいて、そう感じました。
遠島されたとき、西郷はフィラリアにかかったそうです。
蚊を媒介にした感染症で、手足の皮が象のように固くなる病気で、それによって西郷の陰嚢は腫れ上がり、馬に乗ることができないほどだったとか。
その治療の意味もあって、よく温泉につかっていたそうです。
そのエピソードを読んだ時、私は一層、西郷の強さを感じました。
身体の不具合は、それだけで気持ちを萎えさせるものです。
しかし西郷は、そうであっても誰かと話すときはきちんと正座をし、拳を膝に置いて真剣に聞いたのだとか。
それを思うと、「ここが痛いだとか、しんどいなどと言ってられないな。」という気持ちになります。
「自分がいま置かれている状況をいたずらに嘆くのではなく、それを受け入れ、それを楽しみ、そこでベストを尽くせば、青天白日の日がやってくるのだ。」
(p.145)
神渡さんはこのように西郷の生き様を書いて、西郷はどんな状況でもそれを受け入れ、楽しんでいたから、人を惹きつける笑顔でいたのだろうと考えているようです。
私たちと同じように、いや、それ以上に、日々の生活の中には悩ましいことがたくさんあったでしょう。
けれども西郷は、「それもまた良し」とそれらを受け入れ、誠を尽くすことだけを考えて生きたのです。
神渡さんの本の特徴は、格調の高い文語調の言い回しが散りばめられていることと、意表をついた話題転換です。
西郷の話をしていたかと思えば、フッと視点を変えて、自分の身の回りの出来事を語ります。
こうすることでその内容を、自分の身に置き換えて考えることができるようになります。
単に「かくあるべし」というような押し付けではなく、自然と「そうそう、自分もそうだよ」と思わせてくれるのです。
私はこの本を、バンコクからアユタヤへ行く車の中で読み始めました。
その日は、アユタヤに派遣されている社員の慰労を兼ねた懇親会の予定があったからです。
読み始めると、自然と背筋が伸び、まるで正座でもしているかのような面持ちで読み続けました。
感極まると、涙が頬を伝います。それを運転手さんに悟られないように、窓の外へ視線を移したりしました。
「こんなに頑張って、日本を支えてくれた人がいる。」
それを思えば、自分の悩みなど取るに足らないことのように感じます。
漢詩がたくさんあって、多少読みづらいかもしれませんが、西郷隆盛という人を身近に感じさせてくれる良書です。
2013年06月06日
なぜ謝罪を求めるのだろう?
「ごめんなさいって、ひとこと言ってくれたら、それで気が済むんだから。」
そう言って、他人に謝罪を求める人がいます。どうして、他人の謝罪を必要とするのでしょう?
そういう人は、相手が「ごめんなさい」と言っても、それだけではなかなか引き下がりません。
「言い方に心がこもってないんだよ。それじゃあ謝罪になってない。もっと本心から反省しないと。ほら手をついて、土下座して謝れ!」
このように、徹底的に罪悪感を抱かせないと気が済まないのです。あるいは、こういうことも言います。
「気持ちは形にしないとわからないだろう!?形だよ、形。いくら払うんだよ!?」
こうなるともう、立派な恐喝ですけどね。(笑)
けれど、これはいたるところで行われています。個人同士はもちろんのこと、集団同士でもそうです。
どうしてそんなに、他者に謝罪を求めるのでしょう?求める必要性があるのでしょう?そのことを、考えてみたことがありますか?
なおここでは、破損した物の弁償という話は置いておきます。これは謝罪があろうとなかろうと、関係がない話ですからね。
上記の例で示したように、謝罪を求めることの意味は2つあって、1つは相手に罪悪感を抱かせたいのです。
反省させたいというのは、ウソです。それはきれいごとに過ぎません。本心は、罪悪感を抱かせたいのです。
もし本当に反省させたいなら、強制的に謝罪させることは間違った方法ですから。その方法は有効ではないことが、はっきりしています。
本当に反省させるには、まずは相手の主張を受け入れることです。相手がしたことにもそれなりの理由があったと、認めてあげることが出発点になります。
その上で、他により良い選択肢がなかったかどうかを検討するのです。それによって、別の方法を選択したなら、もっと良い現実を導き出せたと気づいたとき、初めてのその人は反省するのです。
これは、とても重要なことですから、もう一度言います。
言葉や態度で恐怖感を与えたり、あるいは暴力で苦痛を与えたりしても、相手は反省しません。
反省というのは、もっと良い選択肢があったと認めることです。
ですから出発点は、必ず最初の選択肢にも理由があったと認めることなのです。
したがって、反省させたいというのが本音なら、謝罪を求めることは無駄な努力です。無意味な徒労です。
ですから本心は、反省させることではなく、罪悪感を抱かせたいからでしょう?、と言ったのです。
その自分の本心をごまかしていたら、いつまでたっても同じことを繰り返すでしょうね。
いつも相手に謝罪を求め、謝罪されないことに腹を立て、気分を害し続けるのです。そんな人生が望みですか?
では、どうして相手に罪悪感を持たせたいのでしょう。罪悪感とは、罰を与えて相手を苦しめることと同じです。
自分を傷つけたことへの代償として、同じだけ苦しめという復讐心です。
相手を自分以下にまで引きずり降ろし、相対的に優位に立つことによって、失った自分の価値を回復しようとする試みです。
その復讐心というのは、実は「もっと私の価値を認めて大事にしてよ!」という、愛を求める悲鳴でもあるのです。
ですから、「私が悪かった。あなたは悪くない。あなたの価値は毀損されてはならないものだった。あなたは重要な存在だった。」というように、相手に認めてもらいたいのです。
1回の謝罪で満足する人は、そもそも自分の価値が毀損されにくい人です。傷ついたと感じてもすぐに回復するので、執拗に謝罪を求める必要性を感じないのです。
謝罪を求めるということの2つ目の意味は、金銭を受け取ることです。
これにも実は2つの意味があって、1つは経済的な代償をもらうことでバランスを取ろうという考えです。
傷つけられたという事実は取り消せないので、その代わりに得したとという思いをさせてもらうことで、帳消しにしようとするのです。
慰謝料などというものは、まさにその典型ですね。
もう1つの意味は、先ほどの罪悪感を相手に抱かせることと同じで、相手が経済的に困窮し、苦しむことを望んでいるのです。
つまり復讐心です。
このように分析できますが、謝罪を求めることの主たる理由は、やはり復讐心だと思います。
なぜなら、得した思いをさせてもらってバランスをとるというのも、そもそもが傷つけられたことを消してもらいたいという思いがあったからです。
傷つけられたことを消してもらいたいと感じるのは、それは自分の力では回復できないと感じているからです。
自分で回復できるなら、わざわざ相手の謝罪という難しいことをやろうとしなくても、さっさと自分で回復してしまえば良いのですから。
つまり、謝罪を求める心理とは、傷ついた自分の心を自分で回復することができないと決め、傷つけた(と自分が思っている)相手によって回復させるように強要する思いなのです。
それはいわゆる復讐心であり、復讐心とは、相手が自分と同じかそれ以上に傷つくことを求め、それによって相手を自分と同じかそれ以下の無価値な存在にまで引きずり降ろし、相対的に自分の価値を引き上げて満足感を得たい衝動なのです。
このように、完全な他者依存であるために、謝罪されてもだいたいにおいて完全な満足に達することがありません。
したがって、いくら相手が謝罪しても、「まだ足りない」と言って、もっと謝罪することを求めるのです。
これにはきりがありません。
こういうもっと謝罪をと求める相手に対して、さらに謝罪を続けることは、相手を助けることになりません。
なぜなら、その人の望みは相手が自分以上に不幸になることですから。そうなって初めて、復讐心が満たされるのです。
でもそれは、罪悪感を抱いて自分が不幸になることです。
相手を不幸にすることで自分が幸せになれるという思いは間違っていますから、復讐を果たした相手は、最初こそ溜飲を下げるでしょうけど、そのうちに居心地が悪くなります。
その居心地の悪さを、今度は復讐を正当化することで救済しようとします。
「だってあいつが悪いんだもん。悪いやつは不幸になって当然だよ。」
しかしこれは、愛の対極です。本来の自分は愛ですから、本来の自分を偽ることになります。
そうやって、自分をごまかす旅を延々と続けることになるため、いつまでたっても幸せになれないのです。
必要なのは謝罪することではなく、そっとしておいてあげることだと思います。つまり解放してあげることです。
謝罪を続けたところで、その人はずっとその傷つけられた出来事を心の中で反芻し、いつまでも恨み続けるという苦しみを背負わなければなりません。
それよりもその人との関係を絶ち、見えなくなることで、その人が恨み続ける要因を取り除いてあげることです。
もちろんその前に、本当に悪かったとか間違っていたと気づいた部分があったなら、それは謝罪することが重要ですよ。
でも、謝罪というのは1回すれば充分です。それ以上は蛇足です。
何度も謝罪を繰り返すことで罪悪感を抱くようになったら、自分が幸せにはなれませんから。それでは意味がありません。
不安と罪悪感は、人にとって最大の敵なのです。
その人との関係を薄め、解放してあげて、ひそかにその人の幸せを祈ってあげることです。
謝罪を求める人は、苦しんでいるのです。助けてくれと訴えているのです。
ですから、苦しみから解放されるように、幸せになるように、祈ってあげるのです。そして、影で応援してあげることです。
逆に、自分が傷ついたと感じて相手に謝罪を求めたくなったら、ここに書いてあることを思い出してください。
相手に依存していても、その苦しみは消えません。
苦しみを消すには、相手を解放することです。許すことです。謝罪などいらないと言ってあげることです。
私は傷つかないと宣言しましょう。事実、そうなのですから。
その宣言によって、あなたは自分が傷ついていないことに気づくでしょう。そして、より大きな愛として、相手を包むことができるのです。
そう言って、他人に謝罪を求める人がいます。どうして、他人の謝罪を必要とするのでしょう?
そういう人は、相手が「ごめんなさい」と言っても、それだけではなかなか引き下がりません。
「言い方に心がこもってないんだよ。それじゃあ謝罪になってない。もっと本心から反省しないと。ほら手をついて、土下座して謝れ!」
このように、徹底的に罪悪感を抱かせないと気が済まないのです。あるいは、こういうことも言います。
「気持ちは形にしないとわからないだろう!?形だよ、形。いくら払うんだよ!?」
こうなるともう、立派な恐喝ですけどね。(笑)
けれど、これはいたるところで行われています。個人同士はもちろんのこと、集団同士でもそうです。
どうしてそんなに、他者に謝罪を求めるのでしょう?求める必要性があるのでしょう?そのことを、考えてみたことがありますか?
なおここでは、破損した物の弁償という話は置いておきます。これは謝罪があろうとなかろうと、関係がない話ですからね。
上記の例で示したように、謝罪を求めることの意味は2つあって、1つは相手に罪悪感を抱かせたいのです。
反省させたいというのは、ウソです。それはきれいごとに過ぎません。本心は、罪悪感を抱かせたいのです。
もし本当に反省させたいなら、強制的に謝罪させることは間違った方法ですから。その方法は有効ではないことが、はっきりしています。
本当に反省させるには、まずは相手の主張を受け入れることです。相手がしたことにもそれなりの理由があったと、認めてあげることが出発点になります。
その上で、他により良い選択肢がなかったかどうかを検討するのです。それによって、別の方法を選択したなら、もっと良い現実を導き出せたと気づいたとき、初めてのその人は反省するのです。
これは、とても重要なことですから、もう一度言います。
言葉や態度で恐怖感を与えたり、あるいは暴力で苦痛を与えたりしても、相手は反省しません。
反省というのは、もっと良い選択肢があったと認めることです。
ですから出発点は、必ず最初の選択肢にも理由があったと認めることなのです。
したがって、反省させたいというのが本音なら、謝罪を求めることは無駄な努力です。無意味な徒労です。
ですから本心は、反省させることではなく、罪悪感を抱かせたいからでしょう?、と言ったのです。
その自分の本心をごまかしていたら、いつまでたっても同じことを繰り返すでしょうね。
いつも相手に謝罪を求め、謝罪されないことに腹を立て、気分を害し続けるのです。そんな人生が望みですか?
では、どうして相手に罪悪感を持たせたいのでしょう。罪悪感とは、罰を与えて相手を苦しめることと同じです。
自分を傷つけたことへの代償として、同じだけ苦しめという復讐心です。
相手を自分以下にまで引きずり降ろし、相対的に優位に立つことによって、失った自分の価値を回復しようとする試みです。
その復讐心というのは、実は「もっと私の価値を認めて大事にしてよ!」という、愛を求める悲鳴でもあるのです。
ですから、「私が悪かった。あなたは悪くない。あなたの価値は毀損されてはならないものだった。あなたは重要な存在だった。」というように、相手に認めてもらいたいのです。
1回の謝罪で満足する人は、そもそも自分の価値が毀損されにくい人です。傷ついたと感じてもすぐに回復するので、執拗に謝罪を求める必要性を感じないのです。
謝罪を求めるということの2つ目の意味は、金銭を受け取ることです。
これにも実は2つの意味があって、1つは経済的な代償をもらうことでバランスを取ろうという考えです。
傷つけられたという事実は取り消せないので、その代わりに得したとという思いをさせてもらうことで、帳消しにしようとするのです。
慰謝料などというものは、まさにその典型ですね。
もう1つの意味は、先ほどの罪悪感を相手に抱かせることと同じで、相手が経済的に困窮し、苦しむことを望んでいるのです。
つまり復讐心です。
このように分析できますが、謝罪を求めることの主たる理由は、やはり復讐心だと思います。
なぜなら、得した思いをさせてもらってバランスをとるというのも、そもそもが傷つけられたことを消してもらいたいという思いがあったからです。
傷つけられたことを消してもらいたいと感じるのは、それは自分の力では回復できないと感じているからです。
自分で回復できるなら、わざわざ相手の謝罪という難しいことをやろうとしなくても、さっさと自分で回復してしまえば良いのですから。
つまり、謝罪を求める心理とは、傷ついた自分の心を自分で回復することができないと決め、傷つけた(と自分が思っている)相手によって回復させるように強要する思いなのです。
それはいわゆる復讐心であり、復讐心とは、相手が自分と同じかそれ以上に傷つくことを求め、それによって相手を自分と同じかそれ以下の無価値な存在にまで引きずり降ろし、相対的に自分の価値を引き上げて満足感を得たい衝動なのです。
このように、完全な他者依存であるために、謝罪されてもだいたいにおいて完全な満足に達することがありません。
したがって、いくら相手が謝罪しても、「まだ足りない」と言って、もっと謝罪することを求めるのです。
これにはきりがありません。
こういうもっと謝罪をと求める相手に対して、さらに謝罪を続けることは、相手を助けることになりません。
なぜなら、その人の望みは相手が自分以上に不幸になることですから。そうなって初めて、復讐心が満たされるのです。
でもそれは、罪悪感を抱いて自分が不幸になることです。
相手を不幸にすることで自分が幸せになれるという思いは間違っていますから、復讐を果たした相手は、最初こそ溜飲を下げるでしょうけど、そのうちに居心地が悪くなります。
その居心地の悪さを、今度は復讐を正当化することで救済しようとします。
「だってあいつが悪いんだもん。悪いやつは不幸になって当然だよ。」
しかしこれは、愛の対極です。本来の自分は愛ですから、本来の自分を偽ることになります。
そうやって、自分をごまかす旅を延々と続けることになるため、いつまでたっても幸せになれないのです。
必要なのは謝罪することではなく、そっとしておいてあげることだと思います。つまり解放してあげることです。
謝罪を続けたところで、その人はずっとその傷つけられた出来事を心の中で反芻し、いつまでも恨み続けるという苦しみを背負わなければなりません。
それよりもその人との関係を絶ち、見えなくなることで、その人が恨み続ける要因を取り除いてあげることです。
もちろんその前に、本当に悪かったとか間違っていたと気づいた部分があったなら、それは謝罪することが重要ですよ。
でも、謝罪というのは1回すれば充分です。それ以上は蛇足です。
何度も謝罪を繰り返すことで罪悪感を抱くようになったら、自分が幸せにはなれませんから。それでは意味がありません。
不安と罪悪感は、人にとって最大の敵なのです。
その人との関係を薄め、解放してあげて、ひそかにその人の幸せを祈ってあげることです。
謝罪を求める人は、苦しんでいるのです。助けてくれと訴えているのです。
ですから、苦しみから解放されるように、幸せになるように、祈ってあげるのです。そして、影で応援してあげることです。
逆に、自分が傷ついたと感じて相手に謝罪を求めたくなったら、ここに書いてあることを思い出してください。
相手に依存していても、その苦しみは消えません。
苦しみを消すには、相手を解放することです。許すことです。謝罪などいらないと言ってあげることです。
私は傷つかないと宣言しましょう。事実、そうなのですから。
その宣言によって、あなたは自分が傷ついていないことに気づくでしょう。そして、より大きな愛として、相手を包むことができるのです。
2013年06月07日
善悪の価値観は人それぞれです
倫理とも呼ばれますが、善悪の価値観は、人それぞれで絶対的なものはありません。
これは善悪に限らず、すべての価値観はそうなのです。
そう言うと、それに反論したくなる人は多いでしょうね。私自身も、絶対的な善悪の基準があると考えていましたから。
しかし、「神との対話」シリーズでは、価値観はすべて相対的なもので、絶対的なものはないと言います。
したがって、「神がそれを求めている」と言って何かを押し付けようとすることは、すべて間違っていると言うのです。
これを読んだとき、最初は驚きました。
だって、神様が善悪の基準を示されないとしたら、いったい私たちは何を頼りにしたら良いのでしょう?
また、人それぞれだということになれば、それこそ価値観が混沌として、みんなが好き勝手なことをしてしまいます。
盗んでもOK、殺してもOKだなんて、そんなことは受け入れ難いです。
それに対して、こう質問することで答えています。
「あなたは、神が禁止しないなら、法律で罰せられないなら、人を殺すのか?」
この問いを見たとき、仏教にも同じような話があったことを思い出しました。歎異抄にある親鸞と、その弟子、唯円との会話です。
親鸞は唯円に、「千人殺してくれば浄土に往生できる。さあ、どうする?」と問いかけます。
唯円は真剣に考えたものの、「千人はおろか1人も殺せません。」と答えました。
このことは、絶対的な価値観だとか絶対者の命令が、行動の基準になっているのではない、ということを示しています。
それを因縁と言うこともできますが、要は、その人が持つ価値観が抵抗しているのです。
その人は、その人自身の、そのときの価値観で、自分の行動を決めています。
そして、そうすることが適当だったという理由を、あとからでも付け足して補強するのです。
たとえば、「人殺しは悪い」と言われます。聖書にあるモーセの十戒でも、「殺すことなかれ」と神が命じたことになっています。仏教でも、不殺生戒という戒めがあります。
それなら、「人殺しは悪い」というのは、倫理的に正しいと言えるでしょうか?絶対的に正しい価値観と言えるでしょうか?
※参考:「人を殺してもいいですか?」
こんな絶対的に正しいと思えるようなことでさえ、例外があります。
戦争では、敵兵をより多く殺した人が英雄となり、勲章をもらえます。悪いことをして表彰されるって、おかしくありませんか?
死刑執行人は、人を殺すことで給料をもらいます。悪いことをしたら給料がもらえるって、おかしくありませんか?
「そんなの一部の例外だよ。基本的には人殺しは悪いことなんだから。」
そう言いたいかもしれませんが、そうでしょうか?
かつて、仇討ちは正義であり、推奨されることでした。仇討ちですよ。仕返しですよ。それが正しいことだったのですよ。
このように、人々はそのときどきにおいて、自分なりの基準を作り上げています。それが価値観です。
それを例外と呼ぼうと何と呼ぼうと、自分なりの価値観を持っているという点では同じことです。
そして、周りの人々の多くが賛同するだろうなと勝手に想像する価値観を、常識と呼んでいるに過ぎないのです。
※参考:「世の中に絶対的な価値観はありません」
中世のヨーロッパでは、魔女狩りを行うことが正義でした。
現在でも、正当防衛による殺人は、罪に問われません。そればかりか日本など多くの国では、育てられないという理由での中絶さえOKです。さらに、妊娠検査でダウン症などが疑われる場合も、中絶が認められています。
自分が生き残るためには、より良い暮らしをするためには、他人を殺してもかまわない。いや、むしろ他人を殺すべきだ。
しかし、それを単に「人殺し」と呼ぶと罪悪感を覚えるので、別の呼び方をします。あるいは、胎児にはまだ魂が宿っていない(=完全な人間ではない)などと言ってみたりもします。
そう考える人が多いから、私たちの社会のルールになっているだけです。
そういう自分の価値観によって、絶対的な価値観とされるものをねじ曲げておきながら、絶対的な価値観があるという考えを捨てようとはしません。
だから矛盾が発生するし、その矛盾を認めようとしないから、ますます自分の本心を無視して、自分をごまかすようになるのです。
そうやって自分自身を見失ってしまうため、自分がわからなくなり、自分として生きることができなくなります。
自分として生きることができないから、苦しくなるのです。
もし、この世に絶対的な価値観だとか、倫理などというものはないことを認めたら、どうなるでしょうか?
まず、他の人が自分の価値観にしたがわなくても当然だ、と考えるようになるでしょう。
自分にとって正しいことが、他の人にとって正しいかどうかはわからないからです。
そうなったら、他の人が自分の価値観にしたがわないことを責めるのではなく、他の人がどんな価値観を持っているのかを知りたくなるでしょう。
お互いの価値観を比べてみながら、どっちの価値観が、より目的達成に役立つかを検討するでしょう。
そうなのです。価値観というものは、自分の目的を達成するために役立つものでなくてはなりません。
自分の目的とは、自分がどうありたいかという在り方です。その在り方にふさわしい現実です。
豊かでありたい。幸せでありたい。平和でありたい。さまざまな目的があるでしょう。
その在り方は、すぐに自分の心で決めることができますが、それが現実に現れる過程では、その在り方にふさわしい言葉や行動として表現されます。
そのとき、どう表現するのがふさわしいかを決めているのが、価値観という基準なのです。
したがって、もし絶対的な価値観が存在しないことを認めるなら、自分の価値観の根拠を探さなくてはならなくなるでしょう。
自分はなぜそう考えるのか?なぜ、それを善いと言い、あれを悪いと言うのか?
そうやって考えることによって、自分とは何かが見えてくるし、より自分らしく意識して生きることができるのです。
平和であるために、幸せであるために、人殺しは正しいでしょうか?
それを考えなくてはならないのです。
中絶は正しいことでしょうか?レイプされて妊娠したときは、どうなのでしょうか?
それを考え、自分の価値観を決めることで、自分とは何かを決めているのです。
自分とは異なる価値観を持つ人間が存在することが、社会の平和を乱しているのでしょうか?
もしそう考えるなら、相手も同じように考えても当然ですよね。
そして互いに殺し合うことになります。それが、平和である、ということなのでしょうか?
どこか、おかしくありませんか?何か違っていると思いませんか?
大阪から東京へ行きたいのに、博多行きの新幹線に乗っても到達できません。間違っているのです。
間違っていたと気づいたなら、乗り換えることが大切です。罪悪感を抱くことも、自己正当化することも、何の役にもたちません。
あなたの価値観は、あなたがそう在りたいと願う目的に適っているでしょうか?
そのことを意識的に考えることが大切です。
その前提として、常識だとか神の意思などというような絶対的な価値観が存在するという間違った信念を、見直すことが大事なのです。
他者によって決められていると思い込んでいるけど、実は自分が勝手にそう思い込むことで、他の選択肢を捨てていたことに気づくことが重要なのです。
これは善悪に限らず、すべての価値観はそうなのです。
そう言うと、それに反論したくなる人は多いでしょうね。私自身も、絶対的な善悪の基準があると考えていましたから。
しかし、「神との対話」シリーズでは、価値観はすべて相対的なもので、絶対的なものはないと言います。
したがって、「神がそれを求めている」と言って何かを押し付けようとすることは、すべて間違っていると言うのです。
これを読んだとき、最初は驚きました。
だって、神様が善悪の基準を示されないとしたら、いったい私たちは何を頼りにしたら良いのでしょう?
また、人それぞれだということになれば、それこそ価値観が混沌として、みんなが好き勝手なことをしてしまいます。
盗んでもOK、殺してもOKだなんて、そんなことは受け入れ難いです。
それに対して、こう質問することで答えています。
「あなたは、神が禁止しないなら、法律で罰せられないなら、人を殺すのか?」
この問いを見たとき、仏教にも同じような話があったことを思い出しました。歎異抄にある親鸞と、その弟子、唯円との会話です。
親鸞は唯円に、「千人殺してくれば浄土に往生できる。さあ、どうする?」と問いかけます。
唯円は真剣に考えたものの、「千人はおろか1人も殺せません。」と答えました。
このことは、絶対的な価値観だとか絶対者の命令が、行動の基準になっているのではない、ということを示しています。
それを因縁と言うこともできますが、要は、その人が持つ価値観が抵抗しているのです。
その人は、その人自身の、そのときの価値観で、自分の行動を決めています。
そして、そうすることが適当だったという理由を、あとからでも付け足して補強するのです。
たとえば、「人殺しは悪い」と言われます。聖書にあるモーセの十戒でも、「殺すことなかれ」と神が命じたことになっています。仏教でも、不殺生戒という戒めがあります。
それなら、「人殺しは悪い」というのは、倫理的に正しいと言えるでしょうか?絶対的に正しい価値観と言えるでしょうか?
※参考:「人を殺してもいいですか?」
こんな絶対的に正しいと思えるようなことでさえ、例外があります。
戦争では、敵兵をより多く殺した人が英雄となり、勲章をもらえます。悪いことをして表彰されるって、おかしくありませんか?
死刑執行人は、人を殺すことで給料をもらいます。悪いことをしたら給料がもらえるって、おかしくありませんか?
「そんなの一部の例外だよ。基本的には人殺しは悪いことなんだから。」
そう言いたいかもしれませんが、そうでしょうか?
かつて、仇討ちは正義であり、推奨されることでした。仇討ちですよ。仕返しですよ。それが正しいことだったのですよ。
このように、人々はそのときどきにおいて、自分なりの基準を作り上げています。それが価値観です。
それを例外と呼ぼうと何と呼ぼうと、自分なりの価値観を持っているという点では同じことです。
そして、周りの人々の多くが賛同するだろうなと勝手に想像する価値観を、常識と呼んでいるに過ぎないのです。
※参考:「世の中に絶対的な価値観はありません」
中世のヨーロッパでは、魔女狩りを行うことが正義でした。
現在でも、正当防衛による殺人は、罪に問われません。そればかりか日本など多くの国では、育てられないという理由での中絶さえOKです。さらに、妊娠検査でダウン症などが疑われる場合も、中絶が認められています。
自分が生き残るためには、より良い暮らしをするためには、他人を殺してもかまわない。いや、むしろ他人を殺すべきだ。
しかし、それを単に「人殺し」と呼ぶと罪悪感を覚えるので、別の呼び方をします。あるいは、胎児にはまだ魂が宿っていない(=完全な人間ではない)などと言ってみたりもします。
そう考える人が多いから、私たちの社会のルールになっているだけです。
そういう自分の価値観によって、絶対的な価値観とされるものをねじ曲げておきながら、絶対的な価値観があるという考えを捨てようとはしません。
だから矛盾が発生するし、その矛盾を認めようとしないから、ますます自分の本心を無視して、自分をごまかすようになるのです。
そうやって自分自身を見失ってしまうため、自分がわからなくなり、自分として生きることができなくなります。
自分として生きることができないから、苦しくなるのです。
もし、この世に絶対的な価値観だとか、倫理などというものはないことを認めたら、どうなるでしょうか?
まず、他の人が自分の価値観にしたがわなくても当然だ、と考えるようになるでしょう。
自分にとって正しいことが、他の人にとって正しいかどうかはわからないからです。
そうなったら、他の人が自分の価値観にしたがわないことを責めるのではなく、他の人がどんな価値観を持っているのかを知りたくなるでしょう。
お互いの価値観を比べてみながら、どっちの価値観が、より目的達成に役立つかを検討するでしょう。
そうなのです。価値観というものは、自分の目的を達成するために役立つものでなくてはなりません。
自分の目的とは、自分がどうありたいかという在り方です。その在り方にふさわしい現実です。
豊かでありたい。幸せでありたい。平和でありたい。さまざまな目的があるでしょう。
その在り方は、すぐに自分の心で決めることができますが、それが現実に現れる過程では、その在り方にふさわしい言葉や行動として表現されます。
そのとき、どう表現するのがふさわしいかを決めているのが、価値観という基準なのです。
したがって、もし絶対的な価値観が存在しないことを認めるなら、自分の価値観の根拠を探さなくてはならなくなるでしょう。
自分はなぜそう考えるのか?なぜ、それを善いと言い、あれを悪いと言うのか?
そうやって考えることによって、自分とは何かが見えてくるし、より自分らしく意識して生きることができるのです。
平和であるために、幸せであるために、人殺しは正しいでしょうか?
それを考えなくてはならないのです。
中絶は正しいことでしょうか?レイプされて妊娠したときは、どうなのでしょうか?
それを考え、自分の価値観を決めることで、自分とは何かを決めているのです。
自分とは異なる価値観を持つ人間が存在することが、社会の平和を乱しているのでしょうか?
もしそう考えるなら、相手も同じように考えても当然ですよね。
そして互いに殺し合うことになります。それが、平和である、ということなのでしょうか?
どこか、おかしくありませんか?何か違っていると思いませんか?
大阪から東京へ行きたいのに、博多行きの新幹線に乗っても到達できません。間違っているのです。
間違っていたと気づいたなら、乗り換えることが大切です。罪悪感を抱くことも、自己正当化することも、何の役にもたちません。
あなたの価値観は、あなたがそう在りたいと願う目的に適っているでしょうか?
そのことを意識的に考えることが大切です。
その前提として、常識だとか神の意思などというような絶対的な価値観が存在するという間違った信念を、見直すことが大事なのです。
他者によって決められていると思い込んでいるけど、実は自分が勝手にそう思い込むことで、他の選択肢を捨てていたことに気づくことが重要なのです。
2013年06月08日
安岡正篤 立命への道
「西郷隆盛 人間学」に続いて、神渡良平さんの本を続けて読んでいます。
格調高い文章は、読み慣れていない人には読みづらいかもしれませんが、慣れてくると、その調子良いテンポに心が踊ります。
今回は、神渡さんが師父と仰ぐ安岡正篤氏について書いたものです。
神渡さんには他にも、「人生の師父 安岡正篤」「安岡正篤 人間学」「安岡正篤の世界」など、安岡正篤氏に関する著書がたくさんあります。
この本は、単に安岡氏の足跡を追ったものではなく、その影響を受けた人々の姿勢や活動を描くことで、間接的に安岡氏の偉大さを浮かび上がらせています。
また、安岡氏の薫陶を受けた人ではなくても、同じような考え方で生きた人の中に、安岡氏の心を訪ね歩いています。
このようにして何枚も何枚も色形の違ったピースを組み合わせるようにして、やはり安岡正篤氏が自分にとっての師父なのだと、神渡さんは再確認しようとしているかのようです。
けれども、それが単なる自己満足ではなく、読者の心にも「そうなんだよなあ」と響いてきます。
「むすび」という神道の精神が日本人のバックボーンになっていると、安岡氏は言います。
仏教で言うなら「縁起」となります。すぐれた因が、すぐれた縁で、すぐれた果をむすぶ。だから結果なのです。
日本は和の国です。大きな和と書いてヤマトと呼ぶ。和というのもまた、人々の絆であり、むすぶことです。
そして和は、人と人だけでなく、人と自然をむすびます。
人が人や自然と一体となるとき、つまり人がその二つと重なるとき、そこに天が現れます。
このように日本人は、古くから天を表現する生き方を模索してきたのです。
その精神があったから、戦後の大変な時期を乗り越え、奇跡の発展を遂げることができたのだと。
この本は、東日本大震災の後に書かれたものです。
その状況を、まさに敗戦後の日本と結びつけて書かれた部分が目立ちます。
どんな悲惨な状況にあっても、他者を恨むことなく、自分で歩こうとした世界で唯一の民族。それが日本人なのです。
日本文学研究の第一人者でもあるドナルド・キーン米コロンビア大学名誉教授は、2011年4月に、日本国籍を取得して永住を決意したと新聞に報道されました。
「日本は震災後、さらに立派な国になる」
そう確信したからだそうです。
この本では、随所に安岡正篤氏の著書からの引用があります。
それを読んで、私も驚きました。「神との対話」シリーズで言われていることを、何とそれよりも前に、安岡氏が言っていたからです。
「運命を開く(プレジデント社)」からの引用です。
「人間の生命というものは全きもの、無限にして永遠なるものです。その偉大な生命がなんらかの機縁によって、たまたま一定の存在になり、一つの形態を取るのです。我々人間が存在するということは、すでに無限の限定であり、無限の有限化であることを知る必要があります。この有限化を常に無限と一致させるということが真理であり、道理であり、道徳であります。」
これを読んだとき、私の背筋に電気が走りましたよ。まさにそうだと感じたからです。
神渡さんもこれを読まれ、こう感じられたそうです。
「−−私という存在は無限なる存在が有限化して現れたのだ。従って地上に出現した私という存在を練磨して、大本の無限なる存在に限りなく近づけることは、私に託された使命だ。私は私をつくり上げることを通して、天地創造に加担し、その一翼を荷っているのだ!」
(p.197 - 198)
日本人としての誇りを取り戻し、世俗のことに一喜一憂することをやめ、天の計らいの中に精一杯に生きる。
そういう気持ちにさせてくれる一冊です。
2013年06月10日
中村天風「幸せを呼び込む」思考
よく知られた中村天風氏の思想を、また違った切り口から紹介する神渡良平さんの本です。
中村天風氏は、ご自身でも本を書いておられるし、同氏を紹介している本はたくさんあります。その中には、すでに私が読んだ本もあります。神渡良平さんも、すでに天風氏のことを書かれていますね。
中村天風氏の思想を一言で言うなら、「思考が人生を創る!」に尽きるでしょう。
今さらながらですが、1900年ころの日本に、こういう思想を広めようとした人物がいたということは、驚く他ありません。
なぜなら、世界中に広がっている成功哲学の元は、ジェームズ・アレン氏の「「原因」と「結果」の法則」だと言われていますが、それとほとんど同じことを、ほぼ同じ時期に日本人が言っていたのです。
しかも、難しい哲学的な用語を使うのではなく、平易な言葉で、しかも実践的なことを言っていました。
潜在意識を活用するためのテクニックだとして、中村天風氏は言葉の威力を伝え、信念を変える方法を示したのです。
たとえば、つい口癖で否定的なことを言ってしまうことがあるでしょう。
そうしたときは、「・・・と昔はよく愚痴ったものだが、今は違う」と付け加えれば良いと言います。
そうすることで、わずか1メートル飛びのいて、弾丸列車をかわすことができるのだからと。(p.86)
これなどは、「ツキを呼ぶ魔法の言葉」にあった、「キャンセル」と言って前言を取り消すというのと同じですよね。
また、「こうなりたい」というように願うのではなく、あたかもそれが成就したかのようなイメージを心に描いて、その気持ちになるのが重要なのだと言います。
潜在意識の活用法として、よく知られた重要なテクニックです。
もちろんそのテクニックの背景には、この世に対する深い洞察がありました。
「宇宙は今なお生成化有しており、宇宙の根本主体の人間に対する願いは、進化と向上に寄与することなのではないか!」(p.52)
「人間はそれ自身、この宇宙の創造を司(つかさど)る造物主と称する宇宙根本主体である宇宙霊と自由に結合し得る資格を持っている!と同時に、造物主と共同活動を行う一切の力が与えられているのだ!」(p.52)
天風氏の悟りの核心だとして、神渡さんはこのように言い切っています。
これは、私にとっては驚きでした。なぜなら、これはまさに「神との対話」で言われている内容だったからです。
神とは生命であり、進化するプロセスである。人格を持った超弩(ど)級の存在ではない。それが、「神との対話」で語られていることです。
人というのは、神が作ったもの(=被造物)であると同時に、神が神自身を体験的に知ろうとした試み、つまり神自身なのです。
したがって、より素晴らしいもの、より偉大なものを、自然と求める性質があります。なぜなら、神がそういうものだから。
このような背景を理解していなければ、なぜ人が自分の人生を創造できるのかもわからないし、なぜすべてが上手くいくのかも理解できないでしょう。
「引き寄せの法則」や「「原因」と「結果」の法則」では、ただそういうものだとして語られています。
しかし、中村天風氏の思想の背景には、「神との対話」で示されているように、唯一絶対の存在である神(=生命)の目的と、その表れとしてのこの世(=宇宙)があるという関係への理解があるのです。
この本の素晴らしいところは、単に天風氏の思想を紹介するだけに終わっていないところです。
神渡さんが得意とする手法ですが、天風氏の思想を現実に表現した多くの人の具体的な活動を示すことで、その思想を浮き彫りにするのです。
最初に紹介しているのは、イハレアカラ・ヒューレン博士。ハワイに伝わる伝統的な心理療法ホ・オポノポノを広めておられる方です。
「ありがとう。ごめんなさい。許してね。愛しています。」
この4つの言葉によって、すべてが癒されると言うのです。
まさに天風氏が言うように、「感謝と歓喜の感情は、宇宙霊に正しい力を呼びかける、最高にして純なる合図ともいえる。」(p.12)ということなのです。
このように、多くの人々が天風氏が示す思考によって、幸せを創り出しています。
もちろん、必ずしも上手くいくばかりでなく、困難に直面することもあります。
しかしそれさえも、魂を向上させるために必要な困難なのだと思うことで、前向きに乗り超えることができるのです。
「古来、「天に棄物(きぶつ)なし」という。一見不利なように見えることも、回りまわって益となって働く。だから憂うことはない。どんな状況に立たされようと、それを感謝して受け、最善の努力をすれば道は開けていくという。私の場合もこれは真理だったのである。」(p.5)
「それは天風が言うところの「常に心に感謝と歓喜を持って事に当たれば、宇宙のエネルギーが流入する」に通じる。このように天風哲学は生きる知恵に満ちていて、私はどんなに助けられたかわからない。」(p.5)
神渡さんはこのように言って、中村天風氏の思想がどれだけ現実に役立つものであるかを説明するのです。
本吉円子の失敗させる!6歳までの子育て
「ん?なぜに子育て本の紹介?」
そう思われるかもしれませんね。私は男性だし、まだ子どもはいませんから。
けれども、子育てとか教育というのは、人間関係の根幹だという思いがあるのです。
そして人間関係こそが、その人の幸せだとか、その人らしさを発揮する上で、大きな影響を与えていると。
最近は児童虐待だとか学級崩壊、そしていじめなど、子どもに関する様々な問題が報道されます。
それを目にするたびに、「どうして愛さないのだろう?」と思うのです。
盲導犬を育てるとき、子犬は1年間、里親の元で愛情をたっぷりかけられるのだそうです。
その間は、怒ることはもちろんですが、無理にしつけすることも禁止です。ほめて、大事にして、甘えさせるのです。
「犬でさえそうやって育てるのに、人間の子をどうして同じように育てないのか?」
それが私にとっての疑問でした。
この本で本吉円子さんは、しっかりと抱いて甘えさせることが大切だと主張しています。
そのことを知って、私が考えていたことは間違いではないのだなと意を強くしました。
本吉さんは、叱らないで受け入れること、自由にさせることが重要だと言います。そこから自由保育が生まれました。
しかし、自由にすることは放任することではなく、一人ひとりの子どもに合わせて、真剣に徹底的に付き合うことなのだと言います。
また、虐待を受けるなどして問題を抱えた子どもの場合、その子を直接どうこうしようとする前に、まずは母親を受け入れることが大切だと言います。
母親が子どもを愛する感情を取り戻さない限り、問題は解決しないからです。
そしてトラブルを怖れないこと。排除しないこと。
なぜなら、トラブルによって人は育つのですから、トラブルは成長のためのチャンス(機会)なのです。
購入者のコメントに、「高飛車な感じがして嫌だ」というものがありました。
たしかに読んでいて、自分のやり方で間違いがないという自信が目につき、他の保育者をバカにしているように感じる部分もありました。
けれどもそれは、仮に自分が嫌われたとしても、このことを明確に伝えずにはおかないという強い信念の表れのようにも感じます。
子ども(大人でも)を無条件に受け入れ、しっかりとハグする。
まずはそこから始めてみませんか?
2013年06月11日
あふれるまで愛をそそぐ 6歳までの子育て
引き続き本吉圓子(もとよし・まとこ/円子とも書く)さんの本です。
こちらの方が「本吉円子の失敗させる!6歳までの子育て」の2年後に書かれた本のようで、編集の違いもあるでしょうけど、他の保育者を責めるような文は見あたりません。
子どもに対する愛情の重要性が、ひしひしと伝わってくる内容になっています。
書かれていることはだいたい同じなのですが、2冊読んでみて、2つの大きな柱があるように感じました。
1.子どもは甘えを必要としている。
2.子どもは本来、みんな良い子。
甘えを必要としているということに関しては、食欲や睡眠欲と同じレベルで、子どもが育つためには甘えることが重要な栄養なのだと言います。
ただし、甘えることと甘やかすことは違うと言って、好きなことを好きなだけさせるという放任には反対します。
甘えさせるというのは、たっぷりと愛をそそぐことだと言います。
では、どこまで注げば良いかというと、子どもが満足して「もういいよ」と言うまでだと言って、あくまでも子どもの感覚が重要だという考えです。
印象的なことが書かれていました。
それは、おねしょをする子は感受性が豊かだと言う話です。
実は私は、小学校6年生のころまで、ときどきおねしょをしていたのです。
本当におねしょが治ったのは中学1年生になってからで、たしか高校生になってからも1回やってます。(汗)
恥ずかしい話ですが、私はそういう子どもだったのです。ですから、本吉さんの言われることがよくわかります。
「そういう子どもはつらいことがあっても、それをいうとお母さんが悲しむことを知っていますので、なにもいわないで、そのつらさを自分一人で抱え込んでしまいます。それがおねしょや寝ぼけなどになって出てくるのです。」
(p.148)
私の両親も共働きでしたから、母は仕事から戻ってから、すぐに炊事を始めます。
やっと帰ってきた母親に甘えたくても、母は「あとでね」と言うばかりです。
食事が終わっても、後片付けは母がやります。それを待って、やっと甘えられると思ったら、今度は「疲れたから少し休ませてよ」と言って、テレビを見るのです。
甘えたい。でも、大変だということはわかる。その気持ちを、ずっと自分の中に押し殺して育ちました。
あるときは耐え切れず、おもちゃの鉄砲で撃ったこともありましたけどね。こっぴどく叱られました。
叱られながら、理不尽だと考えていたのです。
この中に、盲導犬の第一号になったチャッピーの話も出てきます。
どれだけ訓練しようとしてもダメで、盲導犬にすることを一度は諦めたチャッピーです。
それが、訓練を諦めてかわいがり始めた途端、言うことをきくようになったと言うのです。
今、盲導犬を育てるときは、最初の1年を徹底的に甘えさせることにしています。
そのことも、チャッピーの事例からわかったことなのかもしれませんね。
この本はタイトルにもあるように、「6歳までの子育て」用に書かれています。
けれども私は、これはすべての人に対して言える真理だと感じています。
子どもだけじゃない。今、大人になっている人だって、充分に甘えて育たなかった人は、心の奥に押さえつけているものがあるのです。
それを解放してあげないと、その人らしく生きることもできないでしょう。
誰もが本当は、たっぷりと甘える感覚を味わいたいのです。共感してほしいのです。
それを味わうことができたなら、何の不安もなく独りで生きていける。
そんな気がしてきました。
●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。