2013年05月13日

タイの映画を観て泣きました

タイの怪談映画「ピー・マーク・プラカノン」が大ヒットしていると書いたのは、もう1ヶ月以上も前の4月1日の記事でした。

2週間か3週間前には、入場者が500万人を超えたと発表していました。空前の大ヒットのようです。

同時に上映されていた「クー・カム」(同小説の日本語訳は「メナムの残照」)を推しのけて、大ブレークしています。

昨夜、妻と映画を観に行ったのですが、「スター・トレック」を観た後、2本目の映画として、この「ピー・マーク・プラカノン」を観ました。

洋画のお化けものもあったのですが、私はそういうのは好きじゃないので、それなら大ヒットしている映画を観てみようと思ったのです。

「ピー・マーク・プラカノン」

妻はすでにこの映画を観ていて、「これならもう1回観てもいいから、一緒に行こう。」と言われていたのを、実はずっと断っていたのです。

だって、すでに観たことがある人とコメディー映画を観ても、面白くないでしょう?(怪談ですがコメディーです。)

隣から、次はどうなるなんてことを、ささやかれるに決まってますからね。

それでもまあいいかと思って、この映画を観ました。以下、映画の内容に触れますので、ネタバレ注意でお願いします。

 

映画が始まると、もうすでに妻はハイ・テンションです。

「ほら、いくら撃たれても死なないんだよ。」

主人公のピー・マーク(マークお兄さん)は、友だちと一緒に徴兵されて戦地へ行ったのです。

そして、やっとの思いで生き残って、愛する妻、ナークが待つ故郷、プラカノンへ戻ります。

ところが、プラカノンでは異変が起こっています。

身重のナークは死んでいて、ピー(お化け)になっていました。一緒に亡くなった子どもと共に。

村人がナークの正体をバラそうとすると、必ず死ぬのです。その呪いを怖れて、誰もマークに本当のことを言いません。


すると隣で妻が言います。

「マークは、ナークが死んでいることを、もう知っているんだよ。」

まだ何もわからない状態なのに、そうやってネタばらしをします。


途中までは、ドタバタのギャグがあって、コメディーとして笑わせてくれます。

私には何がそんなにおかしいのか、よくわからないことも多かったのですが・・・。


しかし、最後の最後に、泣いてしまいました。

ナークがお化けだということに気づいた友だちは、マークを連れてお寺にこもります。ナークの呪いから守ってもらおうとしたのです。

しかし、ここでもドタバタがあり、僧侶は逃げ出し、マークと友だちは寺の中に閉じ込められてしまうのです。

彼らを殺そうと、ナークの腕がするするっと伸びたとき・・・、


マークは自ら一歩進み出ました。そして、2歩3歩と・・・。

マークのほほに涙が伝います。自分は殺されてもいい。愛する妻に殺されるなら本望だ。そう覚悟を決めたかのようです。

ろくろ首のように伸びてきたナークの腕は、今まさにマークの首を絞めようとしています。

しかし、その手は思いとどまって、マークのほほを伝う涙を、そっと拭い取ったのです。


「どうして?あなたはお化けが死ぬほど恐いと言っていたじゃないの。私が怖くないの?」

そう問うナークに、マークが答えました。

「お化けは死ぬほど恐いよ。それは変わらない。でも、ぼくはナークのことが大好きなんだ。ナークを愛する気持ちの方が、お化けが恐い気持ちより勝っているんだよ。」

そしてマークは、ずっと前からナークがお化けであると気づいていたことを話します。

そして、それを知った時の思いを、こう語るのです。


「ぼくは、愛するナークを1人残して戦争へ行った。何度も死にかけたけど、そのたびにナークの写真を見て、村に戻ることだけを生きがいに、気力を振り絞ってきたんだ。」

「ぼくにとっては、国を愛するよりも、村を愛するよりも、ナークを愛することが一番重要なんだ。」

「でもナークは1人で、ぼくのことを思いながら死んでしまった。だからお化けになっても、ぼくを待っていたんだよね。」

「そんなナークを、ぼくには捨てることなんてできない。ナークのことが大好きだから。」

「お化けのままのナークでいい。そのままでいいから、一生愛して、暮らしていこうと思ったんだよ。ナーク!あなたのことが大好きなんだ。」



かなり思い込みで書いていますが、もう、このあたりで涙ボロボロです。

相手がどんな姿でもかまわない。ただ存在してくれさえすればそれでいい。

その愛の心に触れた時、感動の波が襲ってきたのです。


その後は、住民たちのお化け排斥運動にも負けず、マークとお化けのナークは、幸せに過ごしましたとさ。

というめでたしめでたし(?)の結末です。


笑いあり、涙ありの物語は、さすがタイの映画だと思いましたよ。

日本では上映されないのでしょうね。

もし、DVDが売り出されることがあったら、ぜひご覧になってみてください。

「スター・トレック」も、キャプテンが命を懸けて船員を守ろうとする感動的なものでしたが、私にとっては、「ピー・マーク・プラカノン」の方が感動しました。

いやー映画って、本当に本当にいいもんですね。(水野晴郎ふうに)
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 17:18 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月14日

自分だけが特別なんじゃない

今年は、私の故郷、島根県の出雲大社遷宮が行われています。

平成の大遷宮と呼ばれるもので、60年ぶりに行われるのだそうです。

また、伊勢神宮式年遷宮も10月に行われる予定ですが、こちらは20年に1回の行事です。

今年は、出雲大社と伊勢神宮が共に遷宮を行うという、珍しい年になりました。

60年に1回と20年に1回なら、60年毎に一緒に行うことになりそうですが、そうはならないようです。

つまり、きちんと20年ごととか、60年ごとにできない事情が発生するためです。

それで、今年がたまたま一致したというわけです。そういう意味で、特別な年と言えるかもしれませんね。


昨年は、古事記編纂(へんさん)1300周年ということで、出雲でもキャンペーンをやっていました。

出雲大社も伊勢神宮も、ともに日本という国の成立に深く関わっています。

そういう歴史を知るために、古事記を読んでみるのも良いかもしれませんね。

とは言っても、原文ではなかなか読みづらいし、現代語訳にしても、とっつきにくいかもしれません。

そんなときにお勧めなのが、「まんがで読む古事記」です。

「まんがで読む古事記」

漫画というのは、ストーリーが自然と頭に入ってくるので、全体をつかみやすいです。

実は「三国志」も漫画で読んだ方が、印象に残っています。


古事記に描かれた神話は、様々な形で現代に受け継がれています。

私の田舎で行われている神楽も、その1つです。

主に石見(いわみ)地方と呼ばれる、島根県の西半分で広く行われているのが、石見神楽と呼ばれるものです。

私の田舎の神楽の様子を動画にしたので、雰囲気を味わってみてください。



これは、天照大御神がお隠れになったという古事記に書かれている物語で、「磐戸(いわと)」と呼ばれるものです。




こちらは、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇が塵輪(じんりん)と呼ばれる鬼を退治する物語です。


島根県は横に長いですが、昔は2つの別々の国で、それぞれ石見の国出雲の国と言いました。

ですから言葉も、「出雲のズーズー、石見のガーガー」と言われるように、方言が異なっています。

そういうこともあって、同じ島根県ですが、石見の人間は出雲とは違うと考え、出雲の人は石見とは違うと考えたりします。

私は石見の人間ですから、やっぱり石見が好きですね。

ですから石見神楽にも、特別の愛着を持っています。

「なぜこの素晴らしさがわからないのだろう?」と、不思議に思いますね。

 

さて、そんなお国自慢ですが、これも長い歴史を経て培われてきたものです。

歴史を重ねることで、故郷への愛着が深まっていきます。

それぞれが我が故郷を自慢して盛り上がっているうちは良いのですが、違いを理由に他者を攻撃したり、排斥しだすと大きな問題になります。


最近は特に、ナショナリズムの高揚から、偏狭な考え方になってしまい、我が国がより優れているとか、我が民族がより優秀だというように、競い合っているところが見られます。

それぞれの人のアイデンティティーを支える意味で、ナショナリズムにも役に立つ部分があります。

けれどもそれが高じて、他を排斥したり、おとしめたりするようになると、大きな問題に発展しがちです。


現在の世界を見てみると、戦争や紛争の要因は主に、宗教ナショナリズムです。

そしてその宗教とナショナリズムに共通しているのは、「自分たちが正しく、相手が間違っている。」とか、「自分たちが優れていて、相手は劣っている。」という考え方です。

あるいは、「自分たちこそが特別だ」という考え方です。

そういう優劣を競う考え方を捨てない限り、世界に平和が訪れないことは、明白なことではないでしょうか?



もし、それが明白なら、どうしてそうしないのでしょう?

言葉では世界平和と言いながら、本心ではそれを望んでいないのではないでしょうか?


たしかに、自分たちは特別かもしれません。けれども、他の人たちも同様に特別なのです。

ある面で、私たちが優れているかもしれません。けれども、別のものさしを使えば、他の人たちの方が優れているとも言えるのです。


私たちには、違いがあります。

違いとは、言葉通りに違っているというだけで、良いも悪いもないのです。優れているも劣っているもないのです。

バラの花は、ユリの花より優れているのでしょうか?ただ違っているだけです。

メダカは鯉より劣っているのでしょうか?ただ違っているだけです。


違いがあるからこそ私たちは、自分とは何かを定義できるのです。

たとえば真っ白な空間に真っ白なボールが浮かんでいたら、どうやって自分自身を定義するでしょう?

壁が青かったり赤かったり、あるいは黒かったりするから、自分は白いと定義できるのです。

違いがある他者が存在するお陰で自分が存在するのだと思えば、どうして他者をバカにできるでしょう?

 

自分のことが大好きで、自慢したい気持ちはよくわかります。それだけ自分は特別なのです。

けれども、それと同じくらい、他人にとってはその人自身が特別なのです。

私たちは違っていますが、それぞれ同じように特別な存在です。

どっちが正しくてどっちが間違っているとか、どっちが優れていてどっちが劣っているなんでことはありません。


そういう考え方に立って、宗教やナショナリズムを見直してみる時ではないかと思うのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:54 | Comment(0) | 幸せ実践塾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月15日

事実と価値観を区別する

橋下大阪市長の発言が、また問題視されていますね。

戦時下の慰安婦制度を容認し、在日米軍にも風俗の利用を促しているなどと、あちこちから批判されているようです。

中には、「当たり前のことを言っている」という、橋下市長を擁護する発言もあるようです。


この橋下市長の発言内容に対する私の意見は、ここでは控えさせていただきます。

もし機会があれば、メルマガ「SJ通信」の方で書きますので、そちらをご購読ください。

 

ここでは、この発言と反応の中に示されていることについて、別の視点から考えてみたいと思います。

橋下市長の発言を擁護するわけではありませんが、発言内容と批判内容があまりにちぐはぐでかみ合わないので、違和感を覚えたからです。


まず橋下市長の発言を毎日新聞の14日の報道から見てみると、以下のようになっています。

日本維新の会の橋下徹共同代表は14日、第二次世界大戦中の旧日本軍による従軍慰安婦制度について、自らのツイッターで「当時の世界各国の軍が、軍人の性的欲求の解消策を講じていた」と述べ、当時は必要だったとの認識を改めて示した。一方で、「今の視点で慰安婦が良いか悪いかと言われれば、良いことだとは言えない」とも書き込んだ。

つまり「事実」として、戦時下に兵士の士気を上げるために、性欲を満たすために何らかの措置をとったのは、日本だけではない、と言っています。


ここは重要なところなのですが、大昔は、略奪が当たり前でした。つまり現地調達です。女性は戦利品だったのです。

それが「事実」だったし、それが「価値観」においても正しいことだったのです。

たとえば十字軍の遠征がそうです。兵士は、略奪富豪になることが1つの夢だったのです。


これは歴史的な「事実」ですし、当時の「価値観」としては正当なものでした。

そして当時の「価値観」として正当だったということも、歴史的な「事実」です。


しかし、あまりに略奪がひどいと現地民を手なづけることができません。

それでは占領政策を円滑に進める目的に合致しないので、略奪やレイプなどを軍律で禁止するようになりました。

もちろん理由はそれだけではなく、人道的な観点もあったでしょう。

因みに旧日本軍は軍律が厳しく、略奪などがほとんどないとして、紳士の国イギリスからも称賛され、日英同盟を結ぶきっかけになったと言われます。

それもまた、歴史的な事実として知っておくべきことでしょう。


けれども、どれだけ軍律を厳しくしても、兵士の性欲が消えてなくなるわけではありません。

現地民を好き勝手に陵辱(りょうじょく)するような事態は避けなければなりませんから、窮余の策として民間の風俗業者を手配したりしたのです。

歴史的な事実という観点で見るなら、手当たり次第に陵辱することが当然の時代から進歩し、性サービスを提供してもらう代わりに金品を与えるという、売買春によって性欲を満たすようになりました。

ですから、歴史的な「事実」という点で、橋下市長の発言が間違っているわけではないと思われます。


5月15日付けの読売新聞「慰安婦発言 広がる波紋」には、「Q&A従軍慰安婦問題とは」と題して、事実について解説してあります。

それによると、戦時下で行なっていた各国の慰安婦制度について、「慰安婦と戦場の性」(新潮選書/秦郁彦著)が、@「自由恋愛」型(米英)、A慰安所型(日独)、Bレイプ型(ソ連)に分類し、その実情を説明している、と紹介しています。


 

次に「価値観」の視点ですが、橋下市長は、第二次世界大戦当時のこととして、当時はそういう価値観だったと言っています。

そしてさらに、現在の価値観とは合わないということも。


これに対して、自民党の野田聖子総務会長は、次のように批判したそうです。

論外だ。男性の矜持(きょうじ)はどこに行ったのか。コメントしようがない発言だ。」(産経新聞5月14日配信)

民主党の辻元清美衆議院議員も、映画「戦争と一人の女」のトークイベントに出席したときに、次のようにコメントしたそうです。

国会は大騒ぎです。私自身、橋下さんの発言には気が滅入った。慰安婦を認める認めない以前に、戦争を認めてはいけない。橋下さんに最大の反戦映画であるこの映画を観に来いと言いたい。」(シネマトゥデイ5月14日配信)


まあ政治家の発言は他の意図もあるでしょうから、これだけ捉えても仕方ないとは思いますが、どちらも論点がずれています。

まず橋下市長の発言の中に、戦争容認とか戦争賛美の内容は含まれていないし、現在の価値観で慰安婦が必要だなどという内容も含まれていません。

むしろ、今の価値観からすれば慰安婦は問題だという発言内容です。

ですからこれは、単に自分の政党をアピールする目的か、国際的な問題になることを怖れての火消しであろうと思われます。


また上田清司埼玉県知事は、次のように反論したそうです。

慰安婦は必要ではなかった。人間の性欲を処理する機関がないとだめだという考えにはくみしない。

そして軍人相手の売春がビジネスとなった歴史的事実にも触れ、「人類はそういうことを認めていない」とも。(産経新聞5月15日配信)


これなども、論点がかみ合わない最たる例ですね。

軍に性欲を処理する機能が必要ないという持論は理解しますが、それは歴史が証明していません。

歴史的な事実は、軍律がなければ略奪・陵辱のし放題だったということです。

それを防ぐ目的で軍律を定め、その不満のはけ口として、風俗産業を利用したのです。

それを良しとするかどうかはそれぞれの人の価値観であって、歴史的な事実とは何の関係もありません。

それに「人類はそういうことを認めていない」と言うなら、どうして歴史はそうだったのでしょうか?

人類が認めないのなら、いったい誰が認めたのでしょう?

間違いなく、当時の人々の価値観が、それを認めたのです。その過去の価値観を、現在の価値観で批判しているだけです。
 

また、その後で橋下市長が在日米軍に、沖縄の風俗を利用することを勧めています。

日本の現状からすれば、貧困からそこ(風俗店)で働かざるを得ないという女性はほぼ皆無。皆自由意思だ。だから積極活用すれば良い。

アメリカはずるい。一貫して、公娼(こうしょう)制度を否定する。しかし米軍基地の周囲で風俗業が盛んだったことも歴史の事実。」(毎日新聞5月14日配信)


つまり、法律で認められた風俗を利用することは、誰かを虐待しているとも思えないので、人権上も問題がないという考えです。

そして、アメリカは軍律で買春を禁止しているそうなのですが、実態は、軍基地の周辺で風俗産業が盛んになっていることを指摘しています。


まず米軍基地の周辺で風俗産業が盛んだという指摘は、事実だと思います。

たとえば、ベトナム戦争の中継基地が置かれたバンコクでは、アメリカ軍のための施設としてそういう一体が作られ、それが現在も残っています。

もちろん軍が作ったわけではないのでしょうから、従軍慰安婦とは呼ばれません。

けれどもそう呼ばれないだけで、実態はアメリカ軍のための風俗施設です。

そういう事実を、橋下市長は指摘しています。


これに対する批判として、「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」の桑江テル子理事は、こう言って憤慨したそうです。

女性を性の道具として都合よく利用することだけを考えている。弁護士なのに女性の人権を無視しており、全く話にならない。橋下市長にリーダーの資格はなく、市長を即刻辞めてほしい。」(毎日新聞5月14日配信)


風俗が女性の人権を無視しているかどうかは、これは難しい問題です。つまり、結論が出ていないということです。

その証拠が、法律上、一定の風俗産業が認められているという事実に示されています。

そして風俗産業そのものは、世界的にも女性の人権侵害だとはされていません。
(※人権侵害だと主張し、それを広める活動をしている人はいますが、世界全体の統一された意思ではない、という意味です。)

橋下市長は法律上認められていることを根拠に、それを前提に主張しているのですから、この批判も的外れと言わざるを得ません。

 

橋下市長の主な発言と、それに対する批判の一部を取り上げましたが、批判の多くは、似たり寄ったりです。

まず、事実を批判しているものはありませんでした。

そして、橋下市長が当時の価値観と現在の価値観に分けて発言しているのに、批判している人は現在の価値観で当時の価値観を批判しているだけのようです。

現代に生きる人が中世の魔女狩りを、「なんでそんなバカげたことをするのか!?」と言って批判するようなものです。

現代になったから、その愚かさがわかったのです。それだけ進歩できたのです。

そして、そういう的はずれな批判をして、橋下市長個人を非難しています。


こういうやり方では、議論がかみ合わないのは当然だし、声が大きいものが勝つという暴力至上主義を認めているようなものです。

本当に全体で良くなろうと考えているなら、このような批判の仕方では、何も変わらないのではないでしょうか?


最低でも、事実と価値観は分けて議論すべきです。

まず、事実の認識に誤りがあるのかどうかという視点が重要です。今回の件では、事実に関する批判はありませんでした。

次に、価値観が目的にかなっているかどうかという視点が重要です。

そして、当時の価値観を現在の価値観で批判しても意味がない、という考えを共有することが大切です。

なぜなら、当時の人にとってみれば、それが最善だったのですから。


当時の価値観を批判するのではなく、当時の価値観で目的が達成できたかどうかを検証することです。

その結果、目的が達成できていないと判断するなら、新しい価値観を採用するだけではありませんか?



何かの価値観を絶対的なものと考え、ある価値観をその人と結びつけて考えるために、今回のような人物批判が出てくるのだろうと思います。

けれども、人物批判は怨みを生み出すだけで、何のメリットもありません。

世の中に平和がもたらされないのは、このようにして互いに憎しみ合うからではないでしょうか?


私達の目的は、私たち全体として平和で幸せな社会を、実現することではないのでしょうか?

一部が特別だと考え、他者を切り捨てるやり方は上手くいかないと、何千年の歴史で学んできたのではないのでしょうか?

だとしたら、憎しみから辛辣な批判を投げかけることは、その目的に反することは明白です。


その価値観で目的を達成できないと気づいたなら、大胆に価値観を変えることです。

他の考え方を選択することです。

人はいつでも自由に変われるし、変わるべきなのです。

絶対的な価値観があると信じたり、価値観と自分を同一視したりしていると、いつまでも古い価値観にしがみつくことになります。

私たちは今こそ、新しい価値観を受け入れるときだと思うのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 14:02 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月16日

問題は決してなくならない

メルマガ「SJ通信」では、最近の2回で、私の周囲で起こったドタバタ劇について書きました。

内容はちょっと公開できませんので、どうしても知りたいという方は、「SJ会員」にご登録の上、過去ログからダウンロードしてご覧ください。(今現在はまだ掲載していませんが、近日中に過去ログに入ります。)


「まったく、どうしてこうなっちゃうのかなあ。」

そう言って嘆きたくなるような問題は、私たちの人生ではよく起こります。

それで友だちなどに話をして、共感してもらおうとすることがありますよね。

そんなとき、友だちからこう言われたことはありませんか?

「それくらいなら、まだいい方だよ。オレなんて先日、・・・なことがあったんだぜ。」

共感してもらいたかったのに、軽んじられたような気がして、なんだか話をして損した気分になってしまいます。


でも、ここでちょっと考えてみてほしいのです。

人生における問題って、誰にもあるのでしょうか?なくなることはないのでしょうか?


どんなに恵まれているように思われる人だって、様々な問題を抱えています。

ですから、芸能人の美男美女のカップルに不倫騒動など起こると、興味津々で雑誌やTVのバラエティー番組などを見てしまうのでしょう。

他人の不幸は蜜の味とも言いますが、「へー、あれだけ幸せそうだったのに。人はわからないもんだよねー。」などと言いながら、問題があるのは誰も同じなのだと思って安心するのです。

 

さて、もし人生から問題がなくならないのだとしたら、私たちの生き方を改める必要があると思えませんか?

問題が起こると、何とかそれを解決しようとします。

それは良いのですが、問題が起こるたびにうんざりし、問題が起きていないときでも、問題が起こるのではと不安になって、気分がスッキリしないというのは、どこか変ですよね。

だって、どうせ問題がなくならないとわかっているのに、うんざりしたり不安になるのでは、人生そのものを楽しめないということではありませんか?

むしろ逆に、問題が起こったら喜び、問題が起こっていないときは、ワクワクしながら今か今かと待ち構える、というような生き方ができたら、人生が楽しいと思いませんか?

 

実は、人生から問題がなくなることはありません。(きっぱり)

なぜなら、人生の意義から考えてみても、問題がない人生は、人生の意味がないからです。


私たちの人生は、自分自身を進化させ、より高く大きな自分を表現するためにあります。

そうだとしたら、より大きな自分になるための機会(チャンス)が必要ですよね。

それが、人生で起こる様々な問題なのです。


ふとしたことで友だちやご近所さんとケンカしたり、歩いていて犬の糞を踏んづけたり、突然会社からリストラされたり、乗っていた電車が事故でストップしたり、・・・。

このように、様々な問題が起こるのです。

そのとき、あなたはどういう自分であることを選ぶのでしょうか?

問題とは、一見するとピンチに見えます。しかし、ピンチに見える時がチャンスなのです。

そういう、どうすれば良いか迷うような状態だからこそ、より大きな自分を選ぶことができるのです。


聖書にも、イエスの言葉としてこんなことが書かれています。

自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。 また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。

(新約聖書・ルカによる福音書 6章32-35節)


つまり、愛しやすい人を愛することは、そんなに大したことではないのです。自分が大きくなっていませんから。

けれども、愛しがたい人が目の前に現れたら、そこで葛藤が起こります。

「愛すべきなのだろうけど、大変だなあ。」

その葛藤があるからこそ、乗り越えた時に自分が大きくなるのです。


たとえば恋人から、「あなたって最低ね」と文句を言われたとしましょう。

「ちくしょう!オレにだって言い分はあるんだ。だいたいお前に、そんなことが言える資格があるのか!?」

そう心の中で反論したくなります。大きな問題が発生したのです。

そこです。そのときです。チャンスは目の前にあります。

 

ですから、どんなに豊かになっても、どんなに人間的に優れた人になっても、人生の問題はなくならないのです。

その人に合ったぴったりの問題が現れます。

そして、「さあ、この状況で何を選択するの?どういう自分であろうとするの?」と、私たちに問いかけてくるのです。


そしてさらに言えば、この問題は私たち自身が創っています。引き寄せていると言っても良いでしょう。

なぜなら、自分の進化(成長)にもっとも関心を持っているのは、自分自身だからです。

自分がどんな課題を持って人生を歩んでいるか、知っているのは自分だからです。


ですから、自分で自分にとってもっともふさわしい状況を創りだし、自分の成長を促そうとしているのです。

人生とは、自作自演のドラマなのですよ。しかも、アドリブが効くドラマです。

 

そう考えてみたら、人生がつまらなく感じられますか?

もしそうなら、自己の成長の喜びを、まだしっかり味わっていないからです。

思い出してください。

何かができるようになったときの、あの嬉しかった出来事を。

誰もがそういう経験をしているはずです。進化しない人は、誰もいないからです。


その嬉しかった気持ちを思い出せば、人生に対する見方が変わるでしょう。問題に対する捉え方を変えられるはずです。

問題は、決してなくなりません。

ですから、問題から逃げようとするのではなく、問題を歓迎しましょう。

そして、それがチャンスなのだと思って、問題の解決に取り組みましょう。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 14:48 | Comment(0) | 幸せ実践塾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月17日

使命とは命を使うこと

Facebookのモエル株式会社さんのページに、素敵な言葉が紹介されていました。

「あなたの命 何に使う?」

「みとめの3原則」を書かれた木戸一敏さんが書かれたしおりだそうです。

私のFacebookページ「幸せ実践塾」でも、シェアさせていただきました。


使命というのは、命を使うと書きます。

自分の命を使ってやることが使命なのだ、ということです。

もし、あなたの寿命があと1年だったら、あなたは今日、何をしますか?

もし半年だったら?3ヶ月だったら?1ヶ月だったら?・・・

そう考えていったとき、それでも変わらずに今日これをやろうというものがあったら、それがあなたの使命です。


良く死ぬということは、良く生きるということ。

そんな言葉を聞いたことがありますが、まさにそうですね。私たちは、死を意識することによって、生を輝かせることができます。

死までの短い時間を意識した時、その生の大切さを実感し、無駄にしたくない、有効に使いたいと思うのです。


最初は、どうせ死ぬのだからと、享楽的に残りの人生を過ごそうと考えるかもしれません。

けれども、それでは虚しい、と感じるようになります。

「自分はいったい、何のために生まれたのか?」

そう自分自身に問い、自分の内側深くに入っていくことで、自分の使命を見つけ出すのです。

 

「もし、半年後に死ぬとわかったなら、私は何をするのだろう?」

木戸さんが書かれた言葉を読んで、私も自問自答しました。


もし半年後に死ぬなら、生活のためのお金が必要だとか、そんなことはもう考えないでしょうね。

儲かるとか、儲からないとか、そんなことはどうでもいい。

それよりもっと重要で、「私がやらなければ誰がやるのか?」と思えることをやるでしょう。

それは、今やっているようにブログを書いたり、メルマガを書いたりすること。

そして、私が普段言っているような生き方をして、私自身をメッセージにすることです。

そうすることが、私らしい生き方だなあと思うのです。



たしかに、私が言っていることは、かなり風変わりだと思います。

私の考え方は、多くの人の言う「常識」に反することでしょう。

けれども私は、それを理由に私の考え方を捨てる気持ちにはなれません。

なぜなら、これが真実だと、私自身が確信しているからです。


今までの考え方では、人々は幸せを求めながら、そうはなれなかった。

常に出来事に翻弄され、悪いことが起きると抵抗してさらに傷つくか、せいぜい諦めることで、出来事をなかったことにしようと考えるだけでした。

抑圧された悲しみや憎しみ、そして怒りは、表面上はその炎が消えたように見えても、灰の下でくすぶる炭火のように、内部では赤々と燃えています。

その赤い火に焼かれて、人々は苦しみ続けるのです。


多くの宗教が、その根源的な苦悩に立ち向かいました。

けれども、組織的な宗教はどれも、その試みに成功しませんでした。1000年も2000年も費やしながら、目的を達成していないのです。

そして成功しなかったばかりか、それまで以上に人々に苦痛を与えるようになっています。

なぜ、本来は人々を幸せにするためにある宗教が、憎しみを助長し、いがみ合いを推し進め、対立と暴力の応酬を推奨するのでしょう?

明らかにおかしいのです。何かが間違っているのです。


それがわかっているなら、他の方法を模索すべきではありませんか。

今までのやり方では、何かが間違っているのです。今までの考え方では、何かが足りないのです。

私は、それを見つけました。それは、大昔から大勢の人が語ってきたことでした。

「なんだ、それだったら知っているよ。」

そういう内容でしたが、多くの人はそれを真実だと信じず、そのように生きて来なかったのです。

まるで目的地までの道順を聞きながら、それに従わずに迷子になっているようなものです。


なぜ、信じられないのでしょうか?どうして、それを選択しないのでしょうか?

もし、その理由が明らかになれば、人々は選択するようになるかもしれません。

そして誰かがその道順で目的地に到達して見せれば、「ひょっとしたらこれが真実かもしれない」と人々は思い、自分の考えを変えるかもしれません。

そうすれば大勢の人が、この世にあって苦しみから逃れ、平安と幸せの中で生きることができるでしょう。


では、それを誰がやるのか?

ブッダは、それをやりました。イエスも、それをやりました。ガンジーも、マザー・テレサも、それをやりました。

他にも大勢の人が、そのことを自らの使命として生きたのです。そして今も、そういう使命に生きている大勢の人がいます。

ですから、私もまた、そういう人たちの中の1人になりたいと思います。


仏教では、終末に阿弥陀仏がやってきて、人々を救うと言います。

もしそうなら、現代に生きて人々の救いを使命として生きる人は、阿弥陀仏なのかもしれません。

そういう表現を使うなら、私の使命も、阿弥陀仏として生きることと言えるでしょう。


ただ、別に偉大な人になるとか、宗教的指導者になるという意味ではありません。いえ、絶対にそうはなりません。

どこにでもいる平凡なおじさんとして、いや、ちょっと風変わりなおじさんとして、生きるつもりです。

なぜなら、特別な存在になってしまえば祭り上げられるだけで、人々からは離れてしまうからです。

「お前みたいな人間が偉そうなことを言うなよ。」と言われるような愚かな存在でありながら(実際そうですが・・・)、道を説く人になろうと思うのです。

なんとなく、宮沢賢治氏の生き方に似ているかもしれませんね。

 

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:31 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月20日

女は男より劣っているのか?

「男性と女性は、どっちが優れているのでしょうか?」

などと質問すると、日本ではきっと、時代遅れのような目で見られるでしょうね。

外国ではよくわかりませんが、多くの国で日本と同じような反応があると思います。

しかし、そうやって男女平等が当然だと言う人は、本当にそう考えているでしょうか?


世界の人々に絶大な影響を与えている組織的な宗教では、おそらくそのほとんどが、男尊女卑を説いています。

キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、ユダヤ教など。


特に旧約聖書を教典とするユダヤ教、キリスト教、イスラム教では、神が男性を創り、その男性の一部から女性が作られたのだから、女性は男性に仕えるべきだとしています。

その教えに従って、女性は性的な快楽を得られないように陰部を切除するなんてしきたりも、まだ一部の地域で残っています。

女性の性は、男性に快楽を与えるためのものだと考えられているからです。

これらの宗教では、聖典は無謬(むびゅう)だとして、誤りがないというところに信仰の根拠を置いています。

ですから言葉でなんと言おうと、人々は心のより深い信念の部分で、男尊女卑を信じているのです。


その他の宗教がどうかと言うと、日本にも影響があった儒教は、明らかに男尊女卑ですよね。

そして仏教もまたそうです。

現代は尼僧も認められていますが、作られた当初の仏教では、女性が僧になることは考えられていませんでした。

教典の中にも明確に、女性は男性より劣っていて、女性が何回も生まれ変わることによって、より上位のレベルの男性になるのだと示されています。

タイでは女性は不浄だからという理由で、僧侶に触れることは許されません。


こういった感じですから、人々の中に男尊女卑の信念が植え付けられていても、不思議ではありません。

男尊女卑を否定することは、それはすなわち宗教を否定することであり、救われるという信仰を捨てることを意味するのですから。

 

しかし、人はその深いところで、その誤りに気づいています。

ですから現代では、多くの人が男女平等こそが正しい姿だと考えるようになったのです。


私も子どものころ、不思議に思ったことがありました。

男尊女卑が当然の昔の田舎ですから、料理は女たちの仕事です。

親戚の人が訪ねてきたときも、男たちは居間で座って雑談をし、女たちは台所で料理をします。

料理ができると、できたものから居間に運ばれ、男たちはすぐにそれを食べます。

けれども、支度がすべて終わっていない女たちは、まだ台所にいて料理を続けています。

子どもたちは男たちと一緒に、先に食べなさいと言われます。

「どうして一緒に食べないんだろう?」


私は、母が大好きでした。

だから、大好きな母と一緒に食事をしたかった。

それなのにどうして、母は一緒に来て食べてくれないのか?


「これは何かおかしい。」

子ども心に、そう感じたのです。

 

役割の分担があることは、たしかなことです。

いくら頑張っても、男には子どもを産めませんし、母乳を与えることもできませんから。

しかし、役割を分担することと、どっちが優れているかということと、同じではないことは明らかです。


ただ違うだけなのに、そこに優劣をつけたがるのは、自分に自信がないからです。

社会的な正義であるかのように、神が決めた絶対的な倫理であるかのように、他に権威をもとめることで、自分の自信のなさを覆い隠し、不安が見えないように取り繕っているだけです。

何の根拠もなかったのに、ただ権力を握りたかった男性が、自分たちが優位になるような状態を作るために、都合の良い理由を作っただけなのです。

 

男女平等の価値観が正しいことだと受け入れることは、実はとても大きな意味があります。

それは、組織的な宗教に対して、その無謬性に疑問を呈することになるからです。


無謬だと思われる教典の中に、神の教えの中に、時代に合わないことがある

もしこの考え方が浸透するなら、宗教は飛躍的に進化することでしょう。


自分の教えに従わない人間は殺してもかまわない。それどころか、積極的に殺せと神は言った。

それを根拠に、どれほど多くの戦争が行われ、どれほど多くの人が殺されてきたでしょうか。

「だって聖典にそう書いてあるんだもの。」「宗教的指導者が、それが神の教えだと言うんだから。」

そういう言い訳が、通用しなくなるでしょう。


たしかに教典に、そういうことが書いてあるかもしれない。

けれども、同じように書かれている男尊女卑を、あなたの心は否定したのではないのですか?

そうだとしたら同じように、あなたの心は、「殺せ!」と命じる神の声を、「それはウソだ!」と否定しているのではないのですか?


真実は、自分の心の中にあります。


あなた自身が自分の心の中の深いところに入っていって得られたもの、それが真実です。

神の声を聞いたという者を信じてはいけません。どんな聖典も、そのまま鵜呑みにしてはダメです。

なぜなら、そうすることで自分を蔑(ないがし)ろにし、自分の中の真実に気づけなくなるからです。


その経験によって、自分はどう感じたのか?

それを大切にすべきなのです。


あなたは、他の誰と比べても劣らないほど、素晴らしい存在です。

私たちの間に、優劣などというものは存在しません。

なぜなら私たちは、「ひとつのもの」なのですから。

「ひとつのもの」なのに、優劣が存在するはずがないではありませんか。


ですから自信を持って、自分の心の声を聞くべきです。

あなたの心が「これが正しい」と思うもの、それこそが、あなたの真実なのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:57 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月21日

すべての答は自分の中にある

昨日の記事で、男女平等と男尊女卑のどちらが正しいのか、ということを書きました。

ここでいう「正しい」とは、絶対的な真理だという意味ではありません。

自分の価値観において、正しいかどうかです。つまり、自分の真実です。


そしてこの正しさは、何の根拠もありませんし、根拠を必要としません。

ただ、自分がそう感じるものです。自然とそう感じてしまうのです。

そういった自分の真実を知り、その真実に忠実に生きることが、自分らしい生き方になります。


ただそのとき、注意することが2つあります。


1つは、他人の価値観を自分の価値観だと思い込んでいるのでは、という注意です。

そういう人は、「常識だよ」とか「普通はこうする」といった、自分以外のものに権威を求めます。

西欧人なら、「聖書にそう書いてある」と、聖典を根拠にするのでしょうね。あるいは、「宗教指導者がそう言っている」などと言うかもしれません。


そうやって他人の価値観に合わせようとすると、だんだんと恨みがたまります。

なぜなら人の本質は自由であり、自分らしく生きたいと思っているからです。

それが制限されるのですから、何に対してかわからないけど、恨みがたまるのです。それをストレスと呼ぶ人もいます。

「良い子症候群」などと呼ばれますが、反抗期のない、親に従順な良い子は、親の愛を得たいがために、自分自身を偽って生きています。

ですからそれがいつか爆発して、非行に走ったり、逆に自分を殺してしまう衝動になったりするのです。


もう1つの注意は、過去の自分の真実を絶対視していないか、というものです。

この世はすべて変化します。変化しないものは一切ありません。諸行無常と言われる所以(ゆえん)です。

その「すべて」の中には、当然、自分自身も含まれます。

私たちは、日々変化し、常に成長を続けているのです。

昨日のあなたは、今日のあなたではありません。

ですから、昨日まで自分の真実だと言っていたことに、いつまでもとらわれていてはいけないのです。

今日感じる真実が、昨日のそれではないと思ったときは、だいたんに変えるべきです。

 

この2つのことを注意していないと、本当の自分の真実を明らかにするチャンスを逃してしまいます。

そのチャンスを逃せば、自分らしく生きることができないでしょう。


自分らしく生きていない時、あなたの魂は感情という言葉で、あなた自身に知らせてくれます。

「なんだか気分がむしゃくしゃする。」「気分が冴えないなあ。」「どうも、しっくりしない。」など。

幸せな生き方をしようとしていても、そう感じる時があります。

そのときは、もう一度、自分自身を振り返ってみることです。

「何かにとらわれているのではないか?」


ブッダは、教えにも戒律にもとらわれるな、と言いました。

執着しないとは、言葉通りに、あらゆるものの必要性を排除することです。

その必要性を排除する必要性さえも、排除することです。

そのようにして、完全に自由な状態に自分を置くことで、本当の自分の進むべき道が見えてきます。


人は本来、誰からも、何も、教わる必要性はありません。

自分が自分の心の声に耳を傾ければ、すべて聞こえてくることです。

ときには答が、誰かの言葉で語られたり、何かの書物に書かれていたりするかもしれません。

けれど、その言葉の中に真実を発見するのは、その人自身の心です。

自分の心が感応したから、それが真実だと感じるのです。


私たちはすでに、答を知っているのです。

それを知らないふりをして生きているだけで、本当は知っています。

ですから、本当は知っているということを知れば、あとはそれに気づくだけなのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:49 | Comment(0) | 幸せ実践塾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月22日

イタリアン料理店で入店拒否された乙武さんの場合

ネットでニュースを見ていたら、イタリアン料理店で入店を拒否された「五体不満足」乙武洋匡さんが、Twitterで店を批判したということが話題になっていました。



乙武さんが店名をあげて批判したため、お店に対して批判する多くのツイートが流されただけでなく、お店に批判の電話をする人も大勢いたとか。

それに対して、逆に乙武さんを非難する声も出てきました。障害者は弱者と言うけれど、乙武さんほどの有名人になれば、その言論で相手に多大な打撃を与えることもできるわけで、店名をあげての批判は強者による弱者叩きだと。

そこで乙武さんは、ブログに「イタリアン入店拒否について」と題して書くことで、店名をあげて批判することになった経緯を説明しています。


私もそのブログ記事を読みましたが、第一印象は、「乙武さんって、本当に正直な方だなあ。」というものでした。

店名をあげてツイートすることになったのには理由があるとしながらも、そうしてしまったことを「あきらかに正常な判断能力を失っていた」として、「深く恥じ入る」と反省されています。

そして、その行為が社会的正義からというより、「普段から応援してくださっているみなさんに泣きつきたかったのだ。愚痴りたかったのだ。そうでもしなければ、とてもやりきれなかったのだ。」と、自らの弱さをさらけ出しておられます。


乙武さんが正直に、あの日の出来事を語ってくださったお陰で、どういうやり取りがあったのかが手に取るようにわかりました。

そしてこのことは、私たちが抱える多くの問題を考える上で、とても役に立つ事例だと私は思ったのです。

それでFacebookページ「幸せ実践塾」にも、そのことを書きました。

このブログでは、そのことをさらに掘り下げて書きたいと思います。



具体的にどのようなことがあったかは、まず乙武さんのブログを読まれてくださいね。

その方がわかりやすいと思います。

その上で、その状況について以下に解説しますので、こちらをご覧ください。


まず、店は店主とホールスタッフの2名で、忙しそうに営業していました。

乙武さんは、誰か店の人に手伝ってもらって店まで運んでもらうしか、入店する方法がなかったのです。

ホールスタッフは、手が空いたら手伝いに行くと言いましたが、外で10分待っても、まだ来てくれませんでした。

それで乙武さんの友人(女性)は、再び店まで行ったのです。

そのとき、乙武さんの友人に気づいたホールスタッフが手伝いに行こうとしたところ、店主が出てきて、「車いすのお客様は、事前にご連絡いただかないと対応できません」と言ったのでした。


このときの店主の気持ちを想像してみてください。

おそらく、最初に乙武さんの友人がホールスタッフに手伝ってくれと言った後、その話を聞いてこんなことを思ったでしょう。

「この忙しい時に入るのを手伝ってくれだなんて、やめてくれよ。迷惑なんだよなあ。第一、車椅子で来るなら、予約の時からそう言っておくべきじゃないか。」

店主は、自分が被害者だと考えたのです。

迷惑な客によって、無理難題を押し付けられようとしているのですから。

しかも困ったことに、相手は障害者です。下手をすれば、こちらが弱い者いじめをしていると思われかねません。

「まったく迷惑な客だなあ。なんでこっちがそんなことまで気を使わなきゃならないんだよ。」

突然現れた迷惑な客によって、仕事が妨げられるばかりでなく、精神的にも負担を強いられた。そう考えたのでしょう。

だから、ここは何としてでも断ろうと決めたのでしょうね。


ところが、乙武さんの友人は、ホールスタッフが手伝ってくれると言ったのだから、当然、入店できると考えていました。

そこに突然、邪魔者(店主)が現れて、まるで自分たちが迷惑な存在かのように言われ、排除しようとするような対応をされたのです。

それで「ひどくショックを受け」、「車いすの人が来たら、迷惑ってことですか?」けんか腰の詰問になったのでしょう。

そのときの乙武さんの友人の立場に立てば、その気持ちはよくわかります。


けれど、痛いところをつかれた店主は、さらに悔しく感じたでしょう。

「ちくしょう、反論しづらい理由をかざして、まだ無理難題を押し付けようとするのか!?わがままもいい加減にしろよ!」

そんなふうに感じたことでしょう。

正直に言えば、迷惑だったのです。そう感じていたはずです。歓迎できない客だと、どれだけ言ってやりたかったことか。

でも、その本音を言うことは、自分の首を絞めることになります。

その本音と建前の間に落ち込むことで、自ら苦しんだのです。


ところが、そうした対応に耐えかねた乙武さんの友人は、怒って、泣きながら店の外に出ました。

そしてこのことが店主を、さらに追い込みました。

「なんだか自分が、客を困らせて泣かせてしまった悪者みたいじゃないか。」

乙武さんの友人は、おそらくそのとおりだと感じたのでしょう。

しかし店主にとっては、そういうことを他の客に見せつけられることは、営業妨害も甚だしいことだと感じられたはずです。

それで後を追いかけ、きっちりと話をつけようと思ったのではないでしょうか?


そして言ったのです。

店はもともと、車椅子に対応できるようになっていないのだと。そして、車椅子で来るなら、予約時にそう告げることが常識ではないかと。

それはつまり、店主が自分の正当性を主張したのです。

「私が悪いんじゃないよ。悪いのはあんたらだよ。そこをちゃんと理解してよね。」

そんな気持ちがあったから、常識がない客だと小バカにしたような対応になったのでしょう。


しかし今度は、乙武さんがその対応に反応しました。まさに反応してしまったのです。

「店に入れないのは仕方ないとしても、だからと言って店の人が客をバカにしていいのか?」

たてまえはそうですが、本音は違います。

本音は、単に自分が傷ついたのです。これまで、どこへ行っても丁寧に扱われたのに、初めてバカにされた。だから、自分の価値が損なわれる気がして、その不安に耐えられず、心が悲鳴をあげたのです。

「じゃあ、それが本当に常識なのか、広く世に問うてみましょうよ」

「ええ、どうぞ」



こうして、売り言葉に買い言葉で、不毛な戦いになってしまったのです。

どちらも本当は、自分を守ろうとしただけなのです。

自分が傷つくことを怖れ、その不安から、必死で防御しようとしたのです。

すべての攻撃は、その人にとってみれば防御です。

そのことを理解しない限り、人に対する人の闘争は終わらないでしょう。

 

乙武さんは、自分にも落ち度があったと認めながら、なお、相手の落ち度を責めています。

僕にだって、それくらいの理性と常識はあるつもりだ。
相手が、理性と常識あるコミュニケーションを図ってくださるなら。


つまり、自分に非があったことは認めるが、それ以上に、相手に非があると言いたいのです。


私たちは、どうしてもこの罠に落ち込んでしまいます。私もそうでした。

「他にスピード違反している車はいっぱいいるじゃない。どうして私の車だけ取り締まるの?不公平じゃないか!?」

自分が違反したことを棚に上げ、他を責めることで、自分の正当性を認めてもらいたかったのです。


しかし乙武さんは、心の奥深くで、それでも癒されない何かを感じていました。

だから、「だが、あの日の僕は、あきらかに正常な判断能力を失っていた」と正直に告白し、「もし、僕があのとき冷静さを保っていられたなら」として、もっと自分や社会を高める方向に役立てることができたと想像するのです。

そして、こんなふうにも想像しています。

もしかしたら、あの店主も、ただ不器用で、人づきあいがうまくないだけなのかもしれない。もしそうだとしたら、もう一度、あの店に行って、カウンター席にすわって、「シェフ、この料理おいしいですね」なんて会話を交わしながら、舌鼓を打てたらいい。そこでふたりで写真を取って、Twitterでアップでもしたら、今回の幕引きとしては美しいのかもしれない。


おそらく、これが乙武さんの本心でしょう。店主と仲良くなって、心の中のしこりを取り去ってしまいたいのです。

しかし、本当は仲直りすべきだと本心でわかっているのに、それでもそれができない自分がいることにも気づいています。

ですから、「そんな未熟な自分が、いまはただ腹立たしい。まだまだ、僕は人間が小さいのだと痛感させられる。」と、また正直な思いを吐露(とろ)されているのです。


乙武さんは、誰かに助けてもらいたがっているのでしょうね。店主との仲をとりもってもらいたいのです。

だから最後の追伸に、こんなことを書いたのです。

P.S.でも、やっぱり、店主がお許しくださるのなら、いつの日か再訪してみたいな。だって、お店の料理、本当においしそうだったから。


乙武さんの本心は、自分がどうありたいかをはっきりと理解しています。

でも、それができない小さな自分があると思っています。その正体は不安です。

自分を傷つけた相手を許す(認める)ということは、すなわち、自分は傷つけられて当然の無価値な人間だと認めることになる、と感じています。

ですから、それができないのです。

でも、その考え方が間違っているとしたら・・・。


乙武さんが未熟なわけでも、人間が小さいわけでもありません。

ただ単に、思い違いをしているだけなのです。

人は傷つかない。誰も他人を傷つけることはできない。

この事実を忘れているのです。

その事実を忘れ、自分は傷ついたと想像しただけです。


なぜ傷つくなどと想像できたのか?

それは、自分に対する絶対的な自信を持っていなかったからです。誰が何と言おうと、失われることのない価値があると、理解していなかったからです。

だから、他人の言動で容易にその価値が毀損(きそん)され、傷つくと想像したのです。そんなことは、本当は不可能なのに。

 

よくよく見れば、店主の目の奥に恐怖を見てとることができたでしょう。

店主もまた、乙武さんと同様に、傷つきやすいかわいそうな人だったのです。

恐怖に震える犬が尻尾を股間に挟みながらも、盛んに吠え立てることがあります。

攻撃は防御なのです。傷つく怖れ(不安)から守ろうとした反応に過ぎないのです。

もし、そういう犬がいたら、攻撃し返すのですか?

それとも、「大丈夫、何を恐れているの?心配しなくていいよ。私は何もしないから。」と言って、優しい眼差しで見つめてあげるのですか?


相手を許し、認めたとしても、相手はすぐに心を開かないかもしれません。

それは、相手自身が決めることですから。

けれども少なくとも自分は、心穏やかでいられたはずです。

 

今回の乙武さんの事例は、あらゆる争いに通じるものです。

両者が共に、自分こそが正義だと考えています。

そして、傷つくことへの怖れから自分を守ろうとして、必死に相手を攻撃したのです。


またこの事例が示すように、いくら相手を攻撃しても、心が休まらないことも事実です。

心が休まる方法は、ただ1つです。

相手を許し、自分も許し、相手と仲直りすること。


貴重な事例をさらしてくださった、乙武さんに感謝します。

きっと多くの人が、この事例に学んだことでしょう。

乙武さんがどう思うかはわかりませんが、間違いなく彼は、私たちに大きな贈り物をしてくださったのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 10:31 | Comment(0) | 幸せ実践塾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月27日

帰省してきました

5月23日からブログの更新がストップしていましたが、田舎に帰省していたのです。

24日がタイの祝祭日のため、23日だけお休みをいただいて、週末と合わせて4連休にしたのです。


まず22日(水)の夜便でバンコクを出発し、23日の朝に羽田に到着。すぐに国内線に乗り換えて広島へ。そこからはレンタカーです。

実家へ帰る途中、この日は3ヶ所のお花畑に立ち寄りました。


最初は世羅ゆり園です。

この時期はちょうど、ビオラがきれいに咲いていて、ビオラで大地に絵が描かれていました。

世羅ゆり園のビオラ

ハウスでは、たくさんのユリも咲いていて、とてもきれいでした。


次はその近くの世羅ふじ園です。

しかし、行くのが1週間遅かったようです。藤はもうほとんど散っていて、わずかにその名残(なごり)があるという感じでした。

世羅ふじ園の藤の下で

他に植えてあったポピーやリビングストンデイジーという花は、きれいに咲いてましたけどね。

藤がもう見頃を過ぎていたため、入園料も700円→500円に値引きされてました。


最後に訪れたのは、黒瀬農園の「香山ラベンダーの丘」です。

ラベンダーにはちょっと早かったのですが、ポピーがきれいに咲いていました。広いお花畑にいっぱいのポピーは、もうそれだけで異次元の世界ですね。

黒瀬農園の「香山ラベンダーの丘」のポピー

この日の観光はこれで終わりで、夕方には実家へ戻りました。父と母が温かく出迎えてくれました。


次の日は、母方のおじさんを尋ねました。子どもの頃からお世話になった方なので、様子をうかがいに行ったのです。

その後で、この日もお花畑へ行きました。国営備北丘陵公園です。

それはそれは広い公園で、とても歩いて回ることができません。駐車場に車を停め、レンタサイクルで公園を回ります。

一部はお花畑(花の広場)になっていて、そこもしっかり見てきました。

国営備北丘陵公園の花の広場

アイスランドポピーやネモフィラなどが、ここもきれいに咲いてました。


ただ、暑い!タイから来たというのに、日本はどうしてこう暑いんだー!と感じるくらいに暑かったです。

日中の最高気温は、27度くらいだったでしょうか。それでも、日差しが強かったです。

童心に返って、大芝生広場という広大な芝生の公園の一角で、妻と一緒に四つ葉のクローバーを探しましたよ。

虫食いでしたが、1つ見つけました。きっと良いことがあるでしょう。


次の日は、近くの水族館へ行きました。県立しまね海洋館アクアスです。

サメや深海の魚、ペンギンやアザラシ、イカやクラゲなど、さまざまな海の生物を見て楽しめます。

しまね海洋館アクアスのクラゲ

しかし、なんと言ってもここの見ものはシロイルカです。このシロイルカくんが、水中で息を吐いて、丸い輪を作るのです。ちょうど、煙草の煙を吹き出して輪にする人がいますが、あれと同じ感じですね。

シロイルカというだけでも癒されるのに、それが空気の輪を作って歓迎してくれます。この空気の輪は、「幸せのバブルリング」と言って、商標登録されているそうです。




その「幸せのバブルリング」をさらに進化させたのが、「マジックリング」と呼ばれるもの。

どうやって作っているのかわかりませんが、みごとな輪を一瞬のうちに作ってくれます。これはもう、本当に職人技ですね。




この後は父方と母方の墓参りをして、帰省は終わりです。

翌日はまた広島空港へ車で向かい、そこから羽田へ飛び、東京で友人と会食をして、また深夜便で羽田からバンコクに戻りました。

今朝、バンコクに到着し、部屋に戻って着替えをして、会社に出てきました。

ちょっと肉体的にはハードでしたが、時間を有効に使えるのがいいですね。


今回は、私の実家の近くの観光地で、心を癒されてきました。

ただ、それよりも感動的なことがあったのですが、それはまた別の機会に書くことにします。

時にはこうやって休みをとって、自然や花、動物などと触れ合うのもいいですよ。
 

posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:50 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月28日

再入国時のビザ番号は?

タイに住んでいる人しか関係がない話題ですけど、入国審査ではいろいろと悩むことがあるのです。

その1つが、タイの入国カード(出入国カードの半分)に記入するビザ番号(Visa No.)です。

そこには14桁の枠があるだけで、何を記入すればよいか、具体的な説明はありません。

手引書を読んでも、「ビザ(査証)所持者のみ記入」とあるだけです。


日本などタイ国外で旅行ビザなどを取得して入国する場合は、何も問題はありません。そのビザ番号を書けば良いのです。

ところが、問題が起こるケースがあります。それは再入国時です。

入国した後に一度でも出国すると、最初の入国時に使ったビザは無効になってしまいます。

なので出国時は、再入国許可(リ・エントリー・パミット:RE-ENTRY PERMIT)を取得して、もともと許された滞在期間を保証してもらうのです。


そこで問題になるのは、再入国するときに入国カード(ARRIVAL CARD)に記入するビザ番号は、「どの番号を書けば良いのか?」ということなのです。


長期滞在者だと、最初に入国した時のビザの期限が切れ、タイ国内でビザの更新を行います。

私も仕事で来ているので、Bビザ(ビジネス・ビザ)を毎年更新しています。

入国して1年が近づくと、ビザの更新を行います。すると、パスポートには以下のような記入が加えられて、滞在可能期間が延長されます。

更新されたBビザ

これは2010年11月2日に更新申請し、調査期間として11月30日までの滞在期間延長が認められた後、正式に2011年11月15日までの滞在許可をもらったことが記されています。

左上が番号で、「13602/53」と書かれています。


私は最初、この番号を入国カードに書いていました。

だって、これがビザ更新して滞在期間を延長したものだし、これによって私は、タイに滞在することが認められているのですから。


一方、再入国許可(リ・エントリー・パミット)のスタンプはこうなっています。

再入国許可(リ・エントリー・パミット)

これはマルチプルなので、期間内は何度でも再入国が可能になります。

そしてここにも似たような番号が書かれていて、Number欄に「21727/54」とあります。

 

ある日、日本から戻ってきて入国審査を通過しようとした時、トラブルが発生しました。

審査官が私に、「ビザがない」と言うのです。

「いや、そんなはずはないよ。」そう思ってパスポートをめくり、滞在期間が更新されたビザのページを示しました。

すると審査官は、「これはビザじゃない」と言います。

私は困ってしまいました。

「でも、以前も同じようにして、何度も入国しているんだけど・・・。」

審査官は、「おまえはこれが読めないのか?」とバカにしたような口調で、更新されたビザに書かれている英語を読み上げます。

私には、彼が何を言わんとしているのか、さっぱりわかりません。

後に並んでいる人に迷惑をかけていると思うと、それだけでも恐縮してしまいます。


そのときピンと来て、「ひょっとしたら、こっちがビザか?」と、再入国許可の方を指して問いました。

すると審査官は、「うーぅ」とアゴをしゃくるようにして言ったのです。

私は入国カードのビザ番号を、再入国許可の番号に書き換え、それで何とか入国することができました。

後に並んで待っておられた方々には、本当にごめんなさいね。

 

たしかに、これまでは何度も、更新されたビザの番号を書いて問題なく通っていたのです。

他の方のブログを読んでも、「どっちを書いてもいいよと言われた」という情報もありました。

しかし中には、機嫌の悪い審査官もいて、再入国許可がビザだと主張して譲らない人もいることを、知っておいた方が良いかもしれません。


考えてみると、言葉の使い方があいまいだったように思います。

ビザ(査証)というのは、入国審査において必要な、身元審査の一種であって、それだけで滞在が許可されるものではありません。

仮に1年ビザであっても、入国審査で半年の滞在を許可するスタンプを押されてしまうと、半年しか滞在できないのです。


そういう意味では、再入国許可(リ・エントリー・パミット)の方が、入国審査におけるビザの役割を果たしているとも言えます。

それがなければ、更新されたビザというものは、何の効力もないのですから。


また、ビザ更新と言ってしまうので、滞在期間の延長を示す記述をビザと思ってしまうのですが、考えてみればあれは、入国時に押される滞在期間を許可するスタンプと同じようなものかもしれませんね。

いわゆる滞在許可とか在留許可と呼ばれるものです。

それらは単に、その期間なら合法的に滞在できますよということを示すもので、期限までに出国すれば、その効力は消えてしまいます。


「それなら再入国許可の番号を単にNumberにせず、Visa No.にしてくれよ!あるいは、RE-ENTRY VISAにしてくれ。」と考えてしまうのは、私がIT業界にいるからかもしれませんね。

言葉がちょっとでも違うと、それは別のものを意味しているのではないかと、職業上そう思ってしまうのです。

「ビザだったらどこかにVISAと書いてあるべきだろう。」

それが当然のことだと私などは思うのですが、世の中はそうではないことの方が多いようにも思います。


人にはそれぞれ、自分の基準というものがあるので、それで良いという人もいれば、それじゃダメだという人もいます。

どっちが正しくてどっちが間違っているかではなく、それぞれの価値観においてはどちらも正しいのです。

私自身は、なるべく寛容な生き方をしたいと思います。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:08 | Comment(0) | └ タイのお役立ち情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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