先日書いた「昇給と愛の減少感」の続きになります。
うちの会社では、みんなの前で昇進を発表し、昇進した人を全員でたたえます。
その後、一人ひとりと経営者が面談し、そこで昇給を伝えます。
その際、経営者側からは期待していることとか、評価していることなども話します。
そして社員からは、昇進・昇給に関して、あるいはその他なんでも、経営者に対して言いたいことを言ってもらうようにしています。
実はまだ全員との面談が終わっていません。
出張や出向している社員もいるため、まだ4分の1くらいの社員が戻って来られないためです。
そういう状況ですが、すでに問題は起きています。
数名から尋ねられたのは、昇進にあたって、試験と上司による評価の判定割合についてです。
私の答は、「決めていない」というものです。
試験ですべての能力が測れるとも思わないし、上司の評価が正しいとも限りませんから。
我々が接した感じとか、お客様からの評判など、様々なことから総合的に評価します。
こんなこと当たり前だと思うのですが、社員にとっては当たり前ではないのですね。
ともかく見えるようにしてくれ、という要望が多いのです。
そんな人の評価を、そう簡単に見えるようにできると思いますか?
誰を昇進させ、誰を昇進させないか。結果は1つのものさしで示されますが、その選考過程のものさしは1本ではなく、何本も何十本もあります。
しかもそのものさしは長さや単位が違うものです。
砂糖5kgと荒縄1kmと、どっちの評価が高いかを決めるようなものです。
それに、社員同士が競争しているような状況が、私にはどうにも馴染めません。
社員は競争するのではなく、協力するものではないのでしょうか?
どっちが上であっても、それは定められた位置に過ぎず、それぞれの場で自分の力を発揮し、協力しあって大業をなす。
そういうものではないのでしょう?私は、そうであってほしいと思うのです。
そして、どんなに明確な判定を下したとしても、不満を持つ者は不満を持つのです。
今回も、明確に不満を表した社員が2人いました。
1人は、頭は良いのですが、勤務態度が良くないのです。遅刻が多いし、服装も規則違反を繰り返しています。
その社員はこう言います。
「自分は遅刻が多いかもしれないけど、他の社員より仕事が速いから、遅刻しない社員よりもよく仕事をこなしている。それなのに、そういう社員より評価が低いのは納得がいかない。それは、評価の基準がおかしいのだ。」
こんな感じです。
たしかに、その社員の言い分も正しいと言えます。その社員の価値観に基づくなら。
だから、どんな評価方法も全員を納得させるような基準などあり得ないのです。
もう1人は、同期の中の1人が3ランクUP、2人が2ランクUPだったのに、自分だけが1ランクUPなのは納得が行かないと言うのです。
これは、これまで評価が高いと言われながらも差がつかないことに不満を持つ社員が多い(声が大きい)ため、その不満解消の意味もあって、今回から大きく差をつけるようにしたためです。
けれども上司の評価は、それぞれの社員にフィードバックしてあります。その評価通りに結果に反映したのです。
そう説明すると、その社員はこう言いました。
「自分は他の同期の社員と違って、お客様との間に別の会社の社員が入っている。だから、どんなにがんばってもお客様から評価されないからだ。」
こう言って、職場環境が評価に悪影響を与えていると言うのです。
でも、全員が同じ仕事を同じ環境でするわけではないのですから、そういう差ができるのは当然ではありませんか。
質が異なるものを比べようとするのですから、どうやったって公平になどできません。誰かにとっての公平は、他の人にとっての不公平だからです。
評価する資質だって、何も1つの要素ではないのです。様々な要素があります。
たとえば性格が明るくて周りの人たちをやる気にさせてくれるという要素と、理解力があってプログラムを簡単に作ってしまうという要素と、どうやって比較しますか?
比較などできないでしょう。仮にそれぞれ点数をつけるとしても、その点数にどれだけ合理性があると言うのでしょう?
誰もその合理性を証明できないし、本人ですらはっきりしないことを、他の人に対して納得させられるはずがありません。
こちらを立てればあちらが不満を持ち、あちらを立てればこちらが不満を持つ。
そうされると、ついついおとなしい人にしわ寄せが行ってしまいがちです。
本当はそれは良くないと思うのですが、社員に辞められては困ると思うと、どうしても不満をあらわにする方をなだめようとすることになるのです。
会社が立ち行かなくなってしまえば、元も子もありませんから。
もちろん、程度というものはあります。
さっきの会社の価値観にしたがえないという社員ですが、どうしても理解してもらえないのであれば、「あなたの好きなようにしなさい」と言う他ありません。
「あなたの価値観が間違っているわけではないが、我々の価値観も間違っているわけではないと思っている。だから、その上でしたがえないと言うのであれば、お互いのためにも袂を分かつ方が良いかもしれないね。」
人はそれぞれ自由ですから、自分の節を曲げてまで、相手にしたがう必要性はないのです。
今回の件で、聖書にあった物語を思い出しました。
詳細なことを忘れてしまったので、記憶にある断片を書くことにします。
王には2人の息子がいて、そのうちの弟(ひょっとしたら兄)の方が王に言って、財産を分けてもらいます。
いわゆる生前贈与ですね。
財産をもらった弟は、王宮から出て放蕩三昧をするのですが、ついにそれを使い果たしてしまいます。
乞食のようになった弟は、もう王に頼るしかないと思って、重い足取りで王宮に戻ろうとします。
その姿を遠くから見つけた王は、駆け寄って服を着せてやり、温かく迎え入れました。そして子羊(ひょっとしたら子豚)を殺して宴会を開いたのです。
すると、残っていた兄(ひょっとしたら弟)が王に文句を言います。
「王様はこれまで一度だって、私のために子羊を殺して宴会を開いてはくださらなかった。それなのに、どうして弟のためにはそうしてやるのですか?」
明らかに嫉妬したのです。愛の減少感です。カイン・コンプレックスです。
すると王は言いました。
「あの弟は、王宮を出て行っていなくなってしまっていたのだ。今私はそれを見出した。だからそれを喜んで、宴会を開くのだよ。それにあなたには、すべてのものがあるではないか。これまでずっと私とともにいて、十分に贅沢をしていたではないか。」
こんな話です。
この結論がどうだったかも覚えていないのですが、まさにこの王は、親の立場であり、経営者の立場です。
兄と弟と、どっちを愛しているのだと問われても、どっちとは答えられません。
兄は兄として、弟は弟としてかけがえのない存在なのです。
社員が不満を持つことは、できれば避けたい。それは怖れているからではなく、彼ら自身が辛いと思うからです。
何かに不満を持つことは、それだけで辛いことなのですよ。
もし自分の愛する人が辛い状況にあったら、なんとかしてあげたいと思うでしょう?それと同じです。
でも、できることとできないことがあります。
辛い状況に置くことを、忍ばざるを得ないこともあります。基本的に相手は自由ですから、強制はできませんから。
そんなときはこう思うのです。
「いつかわかってくれる。いつかこれが、自分にとって良いことだったのだと、わかってくれる。」
そう信じて、自分の決めた道を進もうと思うのです。
2013年05月01日
2013年05月03日
いじめと自殺
2012年9月、兵庫県川西市の高校生が自殺しました。
その件で警察が、中傷する発言をしていたとして告訴された同級生3人を、侮辱容疑で書類送検したそうです。
自殺した少年の体が触れそうになると「菌がつく」と言ってからかったり、消しゴムをちぎって投げつけるなど、いじめられたのが自殺の原因だと訴えていたのです。
警察は、自殺の直接原因とまでは言い切れないものの、侮辱罪が適用できると判断したのでしょう。
しかし、この警察の対応には違和感を覚えます。
高校生の、つまり子どもの、学校での出来事です。
小学校や中学校なら、いじめとまで言わないものの、同級生や下級生を言葉でからかうことはよくあることです。
高校生にもなって、こんなくだらないことをする程度の低さは嘆くしかありませんが、それでも、侮辱罪に問われるほどのことでしょうか?
自殺した少年の両親の立場に立てば、悔しくて、少しでも恨みを晴らしたいかもしれません。
あるいは、別件逮捕のような手段を使ってでも、法廷で真実を明らかにしたいと考えたかもしれません。
しかし、このやり方で、本当に望みどおりになるでしょうか?
私には、そうなるとは思えないのです。
誰かが自殺すると、すぐにその加害者が糾弾されます。
このケースでは、いじめたとされる同級生3人です。
でも、悪いのはこの3人だとして、この3人を処罰すれば、すべてが解決するのでしょうか?
私はむしろ、そうやって誰かを加害者に仕立てて罪を着せることで、問題が解決しない状態になると思っています。
たとえばこの事件で、実際に3人がいじめを行い、それが引き金となって少年が自殺したのだとしましょう。
でも、それぞれの立場で、それぞれの事実があるのです。
「あれくらいのことで、普通、自殺なんかしないよなあ。オレたちが悪いんじゃないよ。ひ弱に育てた親の責任の方が大きいと思うぜ。」
加害者とされる同級生3人は、心底そう考えているかもしれません。
そこで罪を着せられ、処罰されたら、反省するというよりも恨みを抱くだけではないでしょうか。
「オレたちがこんなふうにされるのは、あいつが自殺なんかするからだ。オレたちこそ被害者だよ。あの親、絶対に許さねえ。」
そう考えて非行に走り、恨みを晴らそうとするかもしれません。
何度も言いますが、価値観は人それぞれなのです。
そして、その人の価値観において、その人は間違ったことをしません。常に自分は正しいのです。
それを力づくで他の価値観を押し付けようとしても、反発するだけです。
人はそもそも自由ですから、自由を奪われることを嫌います。そして抵抗するものなのです。
教育というのは、他の価値観を押しつけることでしょうか?
これまでの日本の教育を考えると、それが公教育でも家庭教育(しつけ)でも、そういう傾向があるように感じます。
本当の教育はそうではなく、自分の価値観で生きることを励ますことだと思うのです。
そして、自分で自分の価値観を、より大きな自分になるために変えていけるようサポートすること。
いじめという事件は残念なことですが、教育という視点に立つなら、絶好のチャンスだと思います。
その経験を無駄にすることの方がもったいない。
だから覆い隠したり、強制的になくそうとするのではなく、しっかりとその経験を味わわせることが大切だと思うのです。
いじめた人、いじめられた人、そしてそれを見た人。
それぞれの立場において、どんなふうに感じたのか、自分の感情を表現することです。
みんなで自分の感情を表現し、それを共有することで、他の視点での感情を体験することができます。
そして、それらを知った上で、どうあるのが自分らしいのかと問いかけるのです。
人は、どんなふうにもなれます。自由なのですから。
その出来事を通じて、体験を通じて、自分自身を創っていくのです。
出来事は、そのきっかけを与えてくれます。
つまり、それぞれの人にとって贈り物なのです。
せっかくの贈り物なのに、見ないふりをしたり、味わいもせずに否定したり、拒否するなんて、実にもったいないことです。
それでは、せっかく自殺という最大の贈り物をしてくれた少年に対して、申し訳ないではありませんか?
この世で生きている人は、出来事を通じて自分を進化させることができます。
そのために、この世で生きているのです。
そうであるなら、せっかくの贈り物を無駄にしては申し訳ない。そう思うのです。
その出来事によって、自分はどう感じたのか。まずは自分の感情を、素直にしっかりと味わうことです。
そして、次に他の人の立場で味わい直してみます。他の人が感じたことを聞くのは、本当に素晴らしいことです。
そうしたあとに、その体験を通じて、自分がどうあろうとするかを決めます。
教育とは、そういう自己創造を励ましたり、より深い体験にできるよう導くことではないでしょうか?
罪を問うても、罰を与えても、それはできません。
人を進化させるには、真の教育の手助けが重要なのです。
高校という教育の現場で起きたことなのに、その出来事が生かされないことを残念に思います。
知識を詰め込む教育とは縁を切って、真の教育に転換する日がはやく来るよう、私は願っています。
その件で警察が、中傷する発言をしていたとして告訴された同級生3人を、侮辱容疑で書類送検したそうです。
自殺した少年の体が触れそうになると「菌がつく」と言ってからかったり、消しゴムをちぎって投げつけるなど、いじめられたのが自殺の原因だと訴えていたのです。
警察は、自殺の直接原因とまでは言い切れないものの、侮辱罪が適用できると判断したのでしょう。
しかし、この警察の対応には違和感を覚えます。
高校生の、つまり子どもの、学校での出来事です。
小学校や中学校なら、いじめとまで言わないものの、同級生や下級生を言葉でからかうことはよくあることです。
高校生にもなって、こんなくだらないことをする程度の低さは嘆くしかありませんが、それでも、侮辱罪に問われるほどのことでしょうか?
自殺した少年の両親の立場に立てば、悔しくて、少しでも恨みを晴らしたいかもしれません。
あるいは、別件逮捕のような手段を使ってでも、法廷で真実を明らかにしたいと考えたかもしれません。
しかし、このやり方で、本当に望みどおりになるでしょうか?
私には、そうなるとは思えないのです。
誰かが自殺すると、すぐにその加害者が糾弾されます。
このケースでは、いじめたとされる同級生3人です。
でも、悪いのはこの3人だとして、この3人を処罰すれば、すべてが解決するのでしょうか?
私はむしろ、そうやって誰かを加害者に仕立てて罪を着せることで、問題が解決しない状態になると思っています。
たとえばこの事件で、実際に3人がいじめを行い、それが引き金となって少年が自殺したのだとしましょう。
でも、それぞれの立場で、それぞれの事実があるのです。
「あれくらいのことで、普通、自殺なんかしないよなあ。オレたちが悪いんじゃないよ。ひ弱に育てた親の責任の方が大きいと思うぜ。」
加害者とされる同級生3人は、心底そう考えているかもしれません。
そこで罪を着せられ、処罰されたら、反省するというよりも恨みを抱くだけではないでしょうか。
「オレたちがこんなふうにされるのは、あいつが自殺なんかするからだ。オレたちこそ被害者だよ。あの親、絶対に許さねえ。」
そう考えて非行に走り、恨みを晴らそうとするかもしれません。
何度も言いますが、価値観は人それぞれなのです。
そして、その人の価値観において、その人は間違ったことをしません。常に自分は正しいのです。
それを力づくで他の価値観を押し付けようとしても、反発するだけです。
人はそもそも自由ですから、自由を奪われることを嫌います。そして抵抗するものなのです。
教育というのは、他の価値観を押しつけることでしょうか?
これまでの日本の教育を考えると、それが公教育でも家庭教育(しつけ)でも、そういう傾向があるように感じます。
本当の教育はそうではなく、自分の価値観で生きることを励ますことだと思うのです。
そして、自分で自分の価値観を、より大きな自分になるために変えていけるようサポートすること。
いじめという事件は残念なことですが、教育という視点に立つなら、絶好のチャンスだと思います。
その経験を無駄にすることの方がもったいない。
だから覆い隠したり、強制的になくそうとするのではなく、しっかりとその経験を味わわせることが大切だと思うのです。
いじめた人、いじめられた人、そしてそれを見た人。
それぞれの立場において、どんなふうに感じたのか、自分の感情を表現することです。
みんなで自分の感情を表現し、それを共有することで、他の視点での感情を体験することができます。
そして、それらを知った上で、どうあるのが自分らしいのかと問いかけるのです。
人は、どんなふうにもなれます。自由なのですから。
その出来事を通じて、体験を通じて、自分自身を創っていくのです。
出来事は、そのきっかけを与えてくれます。
つまり、それぞれの人にとって贈り物なのです。
せっかくの贈り物なのに、見ないふりをしたり、味わいもせずに否定したり、拒否するなんて、実にもったいないことです。
それでは、せっかく自殺という最大の贈り物をしてくれた少年に対して、申し訳ないではありませんか?
この世で生きている人は、出来事を通じて自分を進化させることができます。
そのために、この世で生きているのです。
そうであるなら、せっかくの贈り物を無駄にしては申し訳ない。そう思うのです。
その出来事によって、自分はどう感じたのか。まずは自分の感情を、素直にしっかりと味わうことです。
そして、次に他の人の立場で味わい直してみます。他の人が感じたことを聞くのは、本当に素晴らしいことです。
そうしたあとに、その体験を通じて、自分がどうあろうとするかを決めます。
教育とは、そういう自己創造を励ましたり、より深い体験にできるよう導くことではないでしょうか?
罪を問うても、罰を与えても、それはできません。
人を進化させるには、真の教育の手助けが重要なのです。
高校という教育の現場で起きたことなのに、その出来事が生かされないことを残念に思います。
知識を詰め込む教育とは縁を切って、真の教育に転換する日がはやく来るよう、私は願っています。
2013年05月04日
幻想を幻想と見抜けば煩悩を断ち切れる
今日は土曜日なので、いつものように朝からゴルフの練習場へ行きました。
なかなか上達しませんけど、こうやって体を動かせるということは、それだけで十分に幸せなことですね。
土日に会社の車を使うのは、ドライバーさんの超過勤務手当を払ってあげるという意味もあります。
と言っても会社からではなく、私の懐からですけど。
まあ、私は経営者ですから、同じようなものですけどね。
練習場から帰る途中で、雨が降り始めました。
こちらの雨は、たいていはスコールです。ザーッと激しく降って、1時間ほどでやみます。
今日も、あたりが雲がかかったように見えるほどの雨。日本風に言うなら、バケツの水をひっくり返したような豪雨です。
こういうときは、傘を差しても役に立ちませんから、たいていの人は雨宿りです。タクシーもなかなか拾えませんし。
こういったことも、タイ人が時間を守らないというか、そもそも時間を守るべきという概念が乏しくなる原因でしょう。
「だって、しょうがないじゃない。雨が降ってたんだもの。」
以前なら、「それでも守れ!」と感じる自分がありましたが、今は、それもありなのかなあと思っています。
さて、今日も1人でオフィスに来ています。
ちょうど今朝、「神との対話」シリーズの「神とひとつになること」を読んだとき、ピンとくるところがあったので、そこをブログに書こうと思って本を持って来ました。
この本も、すでに半分以上、読み終えました。最近、本を読む時間が増えています。
ブログに書きたかったのは、「必要性という幻想から離れる」ことについて書かれた部分です。
私たちは、常に何らかの必要性を感じて生きています。
究極は、命の必要性ということになります。それを支える空気だとか、食べ物だとか。
また、文化的な生活の必要性、家族を養っていく必要性、称賛される必要性、愛される必要性など、程度に差はあっても、様々な必要性を感じています。
この必要性というものは幻想であり、それが幻想だと見抜くことによって、不安を取り去り、絶対安心の境地で生きられるということが、この本には書かれています。
必要性というのは、仏教的に言えば執着です。
何かに執着する心を手放せないから、それが得られないことが不安になります。
そしてその不安が、人の苦しみとなるのです。
仏教では執着を、煩悩が引き起こすとしています。煩悩とは欲望のことです。ですから、欲望を抑えることが重要になります。
そしてその欲望が起こるきっかけは、五感にあるとしています。見たもの、聞いたもの、触ったものなどの感覚が、欲望を引き起こします。
したがって仏教では、五感を働かせないようにすることも言われています。
夏の暑い時でも「暑い」と言うなとか、冬の寒い中でも裸足で野山を駆け回るなどの修行は、そういうところから来ているのでしょう。
僧侶が女性に触れてはいけないというのも、情欲の思いが起きないように、五感を制限するための戒めなのでしょう。
では、「神とひとつになること」では、どのように言っているのでしょうか?一部を引用しましょう。
「不安なしに生きるには、人生の(life:生命の)帰結はすべて完璧だと知ることだ。あながたが最も恐れている帰結、つまり死でさえも。」
(中略)
「自分の人生を(life:生命を)見つめれば、つぎの瞬間に達するために必要なもの、そして、いまここにいるあなたに到達するために必要だったものはすべて、いつももっていたとわかるだろう。その証拠は、いまここにあなたがいることだ。ほかに何も必要でなかったことは明らかだ。もっと何かが欲しかったかもしれないが、しかし何も必要ではなかった。あなたはつねに満たされていた。」
つまり、今の自分がここに存在する事実からして、これまでの人生で、必要なものが得られないということはなかったと言うのです。
これまでがそうであるなら、これからもまたそうである。それが人生というものだ。そう言うのです。
「すべては完璧になるから恐れることは何もないとわかれば、それまでは恐ろしいと思っていたことにも違った光があたる。闇ではなく、光のなかにあると見えてくる。あなたは不安を「冒険」と呼ぶようになるだろう。」
「この組み換えによって、人生はがらりと変わる。あなたが不安なしに生き、本来そのために創られた栄光を経験するだろう。」
「不安」から「冒険」へ。この言葉を変えるだけで、ビクビク・オドオドからワクワク・ドキドキに気持ちが変わりませんか?
たしかに人生は、何が起こるかわからない。それはゲームでもドラマでも、結末がわかっていたらつまらないのと同じです。
けれども怖れを抱きながらゲームをしたり、不安に悶々としながらドラマを見る人はいませんよね。
結果がどうであっても、本当の自分には何の関係もないことであり、影響がないとわかっているからです。
「必要性という幻想を幻想と見抜けば、幻想を本来の目的に使うことができる。栄光を体験し、真の自分を知る道具(ツール)として使える。」
「たとえば身体が必要だという幻想を使えば、あなたはそれを守り、大切にして、濫用するまいと思うだろう。そうすれば身体はさらに大きな栄光という本来の目的のために使える。」
(中略)
「幻想を現実と信じてしまうと、幻想を注意深く利用するための用心が不安に変わり、幻想にしがみつくことになる。愛が所有になり、所有が強迫観念になる。あなたは執着(attachment)の罠におちいる。幻想の中で迷子になる。」
(p.152 - 153)
幻想というのは、私たちの本質である「ひとつのもの」が、その素晴らしさを体験的に知るための道具なのです。
絶対的な領域では、比較することができません。白昼に明るい灯火をともすようなものです。その素晴らしさがわからないのです。
素晴らしく明るいものだということは知っていても、その素晴らしさがわからない。なぜなら、それしか存在しないから。
したがって、存在のすべてである「ひとつのもの」は、その定義からしても他に何も必要としない存在なのですが、その素晴らしさを体験的に知るために、必要性があるという幻想が必要だったのです。
その幻想があることによって、必要性がないということの素晴らしさを体験できるのです。
私たちの人生において、先が見えないことはしょっちゅうあります。
それによって、何かを失うかもしれないとか、何か重要なものを手に入れられないかもしれないという想像を、私たちが抱くことを可能にします。
けれどもそれが幻想だと知っていたら、その幻想を楽しみながら、安心していられるというわけです。
なぜなら、人生で起こることがすべて必然で無駄がないから。つまり、完璧だからです。
その信念が私たちを、私たちの人生の中の絶望の淵から救い上げてくれるのです。
私の人生も、けして順風満帆ではありませんでしたし、今もそうです。
でも今は、私には嵐の海を乗り切るための道具があります。
幻想を幻想として見抜くという考え方です。
私はそれを使って、自分の人生を生きようと思います。
その私の生き方をさらすことで、幻想にとらわれて苦しんでいる人たちへのメッセージとしたいと思うからです。
なかなか上達しませんけど、こうやって体を動かせるということは、それだけで十分に幸せなことですね。
土日に会社の車を使うのは、ドライバーさんの超過勤務手当を払ってあげるという意味もあります。
と言っても会社からではなく、私の懐からですけど。
まあ、私は経営者ですから、同じようなものですけどね。
練習場から帰る途中で、雨が降り始めました。
こちらの雨は、たいていはスコールです。ザーッと激しく降って、1時間ほどでやみます。
今日も、あたりが雲がかかったように見えるほどの雨。日本風に言うなら、バケツの水をひっくり返したような豪雨です。
こういうときは、傘を差しても役に立ちませんから、たいていの人は雨宿りです。タクシーもなかなか拾えませんし。
こういったことも、タイ人が時間を守らないというか、そもそも時間を守るべきという概念が乏しくなる原因でしょう。
「だって、しょうがないじゃない。雨が降ってたんだもの。」
以前なら、「それでも守れ!」と感じる自分がありましたが、今は、それもありなのかなあと思っています。
さて、今日も1人でオフィスに来ています。
ちょうど今朝、「神との対話」シリーズの「神とひとつになること」を読んだとき、ピンとくるところがあったので、そこをブログに書こうと思って本を持って来ました。
この本も、すでに半分以上、読み終えました。最近、本を読む時間が増えています。
ブログに書きたかったのは、「必要性という幻想から離れる」ことについて書かれた部分です。
私たちは、常に何らかの必要性を感じて生きています。
究極は、命の必要性ということになります。それを支える空気だとか、食べ物だとか。
また、文化的な生活の必要性、家族を養っていく必要性、称賛される必要性、愛される必要性など、程度に差はあっても、様々な必要性を感じています。
この必要性というものは幻想であり、それが幻想だと見抜くことによって、不安を取り去り、絶対安心の境地で生きられるということが、この本には書かれています。
必要性というのは、仏教的に言えば執着です。
何かに執着する心を手放せないから、それが得られないことが不安になります。
そしてその不安が、人の苦しみとなるのです。
仏教では執着を、煩悩が引き起こすとしています。煩悩とは欲望のことです。ですから、欲望を抑えることが重要になります。
そしてその欲望が起こるきっかけは、五感にあるとしています。見たもの、聞いたもの、触ったものなどの感覚が、欲望を引き起こします。
したがって仏教では、五感を働かせないようにすることも言われています。
夏の暑い時でも「暑い」と言うなとか、冬の寒い中でも裸足で野山を駆け回るなどの修行は、そういうところから来ているのでしょう。
僧侶が女性に触れてはいけないというのも、情欲の思いが起きないように、五感を制限するための戒めなのでしょう。
では、「神とひとつになること」では、どのように言っているのでしょうか?一部を引用しましょう。
「不安なしに生きるには、人生の(life:生命の)帰結はすべて完璧だと知ることだ。あながたが最も恐れている帰結、つまり死でさえも。」
(中略)
「自分の人生を(life:生命を)見つめれば、つぎの瞬間に達するために必要なもの、そして、いまここにいるあなたに到達するために必要だったものはすべて、いつももっていたとわかるだろう。その証拠は、いまここにあなたがいることだ。ほかに何も必要でなかったことは明らかだ。もっと何かが欲しかったかもしれないが、しかし何も必要ではなかった。あなたはつねに満たされていた。」
つまり、今の自分がここに存在する事実からして、これまでの人生で、必要なものが得られないということはなかったと言うのです。
これまでがそうであるなら、これからもまたそうである。それが人生というものだ。そう言うのです。
「すべては完璧になるから恐れることは何もないとわかれば、それまでは恐ろしいと思っていたことにも違った光があたる。闇ではなく、光のなかにあると見えてくる。あなたは不安を「冒険」と呼ぶようになるだろう。」
「この組み換えによって、人生はがらりと変わる。あなたが不安なしに生き、本来そのために創られた栄光を経験するだろう。」
「不安」から「冒険」へ。この言葉を変えるだけで、ビクビク・オドオドからワクワク・ドキドキに気持ちが変わりませんか?
たしかに人生は、何が起こるかわからない。それはゲームでもドラマでも、結末がわかっていたらつまらないのと同じです。
けれども怖れを抱きながらゲームをしたり、不安に悶々としながらドラマを見る人はいませんよね。
結果がどうであっても、本当の自分には何の関係もないことであり、影響がないとわかっているからです。
「必要性という幻想を幻想と見抜けば、幻想を本来の目的に使うことができる。栄光を体験し、真の自分を知る道具(ツール)として使える。」
「たとえば身体が必要だという幻想を使えば、あなたはそれを守り、大切にして、濫用するまいと思うだろう。そうすれば身体はさらに大きな栄光という本来の目的のために使える。」
(中略)
「幻想を現実と信じてしまうと、幻想を注意深く利用するための用心が不安に変わり、幻想にしがみつくことになる。愛が所有になり、所有が強迫観念になる。あなたは執着(attachment)の罠におちいる。幻想の中で迷子になる。」
(p.152 - 153)
幻想というのは、私たちの本質である「ひとつのもの」が、その素晴らしさを体験的に知るための道具なのです。
絶対的な領域では、比較することができません。白昼に明るい灯火をともすようなものです。その素晴らしさがわからないのです。
素晴らしく明るいものだということは知っていても、その素晴らしさがわからない。なぜなら、それしか存在しないから。
したがって、存在のすべてである「ひとつのもの」は、その定義からしても他に何も必要としない存在なのですが、その素晴らしさを体験的に知るために、必要性があるという幻想が必要だったのです。
その幻想があることによって、必要性がないということの素晴らしさを体験できるのです。
私たちの人生において、先が見えないことはしょっちゅうあります。
それによって、何かを失うかもしれないとか、何か重要なものを手に入れられないかもしれないという想像を、私たちが抱くことを可能にします。
けれどもそれが幻想だと知っていたら、その幻想を楽しみながら、安心していられるというわけです。
なぜなら、人生で起こることがすべて必然で無駄がないから。つまり、完璧だからです。
その信念が私たちを、私たちの人生の中の絶望の淵から救い上げてくれるのです。
私の人生も、けして順風満帆ではありませんでしたし、今もそうです。
でも今は、私には嵐の海を乗り切るための道具があります。
幻想を幻想として見抜くという考え方です。
私はそれを使って、自分の人生を生きようと思います。
その私の生き方をさらすことで、幻想にとらわれて苦しんでいる人たちへのメッセージとしたいと思うからです。
2013年05月06日
幸せは経験ではなく、意志である
今日は5月6日で会社はお休みです。
日本は5月5日の祝日が日曜と重なったので振替休日ですが、タイも5日が国王の即位(戴冠)記念日で、今日はその振替となっています。
今日は私の他にも出社している社員がいますが、ほとんど誰もいないオフィスで仕事をしています。
さて、先日も「神との対話」シリーズの「神とひとつになること」からピンと来たところを書いたのですが、今日も同様に書いてみたいと思います。
写真はちょっと見づらいですけど、ただ赤線が引いてあるだけでなく、文を囲ったり、上部に範囲の印をつけたり、ページの角を折ったりしているのがわかると思います。
少なくとも読むのは4回目だと思うのですが、何度読んでも、これだけ気づきが得られます。
まあ、それだけ理解が遅いとも言えますけど。(^_^;)
それはさておき、今日、紹介したいのは、幸せについて書かれていた部分です。引用しましょう。
「痛みからの解放は、必要なのではなく、そのほうが好ましいというだけだ。必要性から好ましさのレベルに移れば、あなたは自分の経験に比類ない力をふるえるようになる。」
(中略)
「肉体的な痛みのレベルより下ならば、必要性という幻想に対処するのはずっと容易だ。」
「幸せになるにはある人物が、成功するにはある仕事が、満たされるには感情的、物質的な何かが必要だとあなたは思うかもしれない。そのときこそ、「たったいまのわたしは、それなしで存在している」、そう気づくべきだ。」
「それなのに、なぜそれが必要だと思うのか?」
「よくよく考えてみれば、生きるのには、あるいは幸せであるためにさえ、それは必要ないと気づくだろう。」
「幸せは経験ではなく、意志である。」
「幸せに必要だと思うものがなくても、幸せになれると決めればいい。そうすれば幸せになる。」
(中略)
「あなたの経験は意思決定の結果であって、原因ではない。」
(p.198 - 199)
つまり、私たちが出くわす出来事というのは、結果であって原因ではない、ということなのです。
それはつまり、私たちの創造の「結果」であり、私たちの在り方の「原因」ではない、ということです。
原因が私たちにあり、私たちが原因そのものであるなら、出くわす出来事によって左右される必要性はありません。
私たちがそうありたいように、自分で在り方を決めれば良いのです。
そしてその在り方が原因となって、結果である出来事を創造します。あるいは引き寄せます。
このことが、大昔から多くの人が言い続けてきたことなのです。
一見、そうは見えません。幻想は、とても現実的ですから。
だから私たちは、何度もそのことを耳にしながらも、信じてこなかったのです。
何度も何度も、そう言われているのに信じないから、自分の真実とならなかったのです。
私はまだ、その一部を知ったに過ぎないでしょう。ほんの一部を体験しただけでしょう。
けれども、その体験によって、そのことが正しいと感じたのです。
もちろんそれは、私にとっての真実です。
ですから、あなたにとっても正しいことだとは言いません。私の言うことをすべて信じるよう強制したりはしません。
ただ、あなた自身で感じてほしいのです。
ひょっとしたら何か、自分が見逃してきたことがあるのではないか?
そう考えて、自分の心の中に答を探してほしいのです。
私は、私の人生をさらすことで、みなさんへのメッセージとしたい。そう思っています。
大昔から言われ続けてきたことが、本当に正しいのか?少なくとも私にとって、本当に正しいことなのか?
そのことを、私がそのように生きることによって、示そうと思うのです。
なぜなら、それがもっとも私らしい生き方だと思うから。
今、私は、そういう生き方ができることを、心から感謝しています。心から喜んでいます。
そして私は今、とても幸せです。
日本は5月5日の祝日が日曜と重なったので振替休日ですが、タイも5日が国王の即位(戴冠)記念日で、今日はその振替となっています。
今日は私の他にも出社している社員がいますが、ほとんど誰もいないオフィスで仕事をしています。
さて、先日も「神との対話」シリーズの「神とひとつになること」からピンと来たところを書いたのですが、今日も同様に書いてみたいと思います。
写真はちょっと見づらいですけど、ただ赤線が引いてあるだけでなく、文を囲ったり、上部に範囲の印をつけたり、ページの角を折ったりしているのがわかると思います。
少なくとも読むのは4回目だと思うのですが、何度読んでも、これだけ気づきが得られます。
まあ、それだけ理解が遅いとも言えますけど。(^_^;)
それはさておき、今日、紹介したいのは、幸せについて書かれていた部分です。引用しましょう。
「痛みからの解放は、必要なのではなく、そのほうが好ましいというだけだ。必要性から好ましさのレベルに移れば、あなたは自分の経験に比類ない力をふるえるようになる。」
(中略)
「肉体的な痛みのレベルより下ならば、必要性という幻想に対処するのはずっと容易だ。」
「幸せになるにはある人物が、成功するにはある仕事が、満たされるには感情的、物質的な何かが必要だとあなたは思うかもしれない。そのときこそ、「たったいまのわたしは、それなしで存在している」、そう気づくべきだ。」
「それなのに、なぜそれが必要だと思うのか?」
「よくよく考えてみれば、生きるのには、あるいは幸せであるためにさえ、それは必要ないと気づくだろう。」
「幸せは経験ではなく、意志である。」
「幸せに必要だと思うものがなくても、幸せになれると決めればいい。そうすれば幸せになる。」
(中略)
「あなたの経験は意思決定の結果であって、原因ではない。」
(p.198 - 199)
つまり、私たちが出くわす出来事というのは、結果であって原因ではない、ということなのです。
それはつまり、私たちの創造の「結果」であり、私たちの在り方の「原因」ではない、ということです。
原因が私たちにあり、私たちが原因そのものであるなら、出くわす出来事によって左右される必要性はありません。
私たちがそうありたいように、自分で在り方を決めれば良いのです。
そしてその在り方が原因となって、結果である出来事を創造します。あるいは引き寄せます。
このことが、大昔から多くの人が言い続けてきたことなのです。
一見、そうは見えません。幻想は、とても現実的ですから。
だから私たちは、何度もそのことを耳にしながらも、信じてこなかったのです。
何度も何度も、そう言われているのに信じないから、自分の真実とならなかったのです。
私はまだ、その一部を知ったに過ぎないでしょう。ほんの一部を体験しただけでしょう。
けれども、その体験によって、そのことが正しいと感じたのです。
もちろんそれは、私にとっての真実です。
ですから、あなたにとっても正しいことだとは言いません。私の言うことをすべて信じるよう強制したりはしません。
ただ、あなた自身で感じてほしいのです。
ひょっとしたら何か、自分が見逃してきたことがあるのではないか?
そう考えて、自分の心の中に答を探してほしいのです。
私は、私の人生をさらすことで、みなさんへのメッセージとしたい。そう思っています。
大昔から言われ続けてきたことが、本当に正しいのか?少なくとも私にとって、本当に正しいことなのか?
そのことを、私がそのように生きることによって、示そうと思うのです。
なぜなら、それがもっとも私らしい生き方だと思うから。
今、私は、そういう生き方ができることを、心から感謝しています。心から喜んでいます。
そして私は今、とても幸せです。
なぜ同じような出来事が何度も起こるのか?
ブログにも書いていますが、今は「神とひとつになること」を精読しています。
その中で、ふと考えさせられた一文がありました。
「あなたの観察力が鋭ければ、同じ状況や環境を何度も何度も、新たな自分自身を創造するまで繰り返し呼び寄せていることに気づくだろう。」
(p.194)
これは、人生において起こることには意味がない、という話の流れで書かれています。
たとえば、黒猫が前を横切ると不吉だと言われますよね。
そういう謎解きが必要なものは、何もないのだと言うのです。
もし、私たちに知らせたいことがあるなら、間違いようのない方法で知らせる方が良いからだと。
だから、起こる出来事には意味がないのです。
ただその出来事に、私たち自身が意味を与えるのだと。
これはどういうことかと言うと、出来事というのは私たちに、自分を定義する材料を与えてくれるだけだということなのです。
つまり、他人や環境など、あらゆるものとの関係で、「私は◯◯だ」という定義を行なっているのです。
そしてその定義によって、自分の人生を創造しているのだと。
雨が降るという出来事に、「ツイてないなあ」と思う人は、「私はツイてない人間だ」という定義を自分で行ったのです。
雨が降るという出来事に意味があるのではなく、出来事に意味を与えたのです。
ですから同じ出来事でも、「稲がよく育って嬉しいなあ」と考えることもできますよね。
「私は幸せだ」という定義を自分で行ったのです。
だから、何かが起こった時に「どうしてか?」と問うのをやめなさいと言います。
意味は私たちが与えるものなのだから、自分で選びなさいと言うのです。
どうして起こったのかを、自分で決めなさいと。
そして、さっきの一文です。
同じような出来事を何度も繰り返す。
私にも身に覚えがあります。
私は、同じような失恋を何度も繰り返しましたから。(笑)
微妙に状況が異なるものの、だいたい同じような感じです。
私は、自分には女運がないのかと思いました。
こんなに一所懸命に愛しているのに、どうして相手はその10分の1も応えてくれないのかと思いました。
そして、同じような体験を繰り返したのです。
さっきの一文に答があります。
「新たな自分自身を創造するまで」
つまり、私が同じような自分を創造していたから、同じような結果(出来事)が現れたのです。
出来事に意味があったとするなら、「同じ考えからは同じ結果しか現れないよ」と言うことでしょうか。
あるいは、「ほら、あなたが望んだ通りの結果だよ」と言うことでしょうか。
どうにでも言えますね。
そして私は、あまりに同じような出来事が起こるので、ついに飽きたのです。
そういう人生に飽き飽きしたのです。
だから、「どうでもいいや」とばかりに、必要性を捨てました。
良く言えば開き直ったのです。
もう愛されなくていいと決めたのです。
そして、自分の得にもならないことをしようと決めました。
それは、何も見返りがなくてもいいから、愛そうとすることでした。
私が新しい自分を選択したことによって、人生の流れが明らかに変わりました。
あれほど、うまくいかない女性関係ばかりだったのに、生まれて初めて、上手く行ったのです。
原因があるとすれば、それは私自身が変わったからです。
相手から愛されたい自分というものを捨て、相手がどうであろうと関係なく、無条件に愛そうとする自分に変えたのです。
まだ完全とは言えませんが、意図的にそうなろうとしています。
それまでの私は、自分の外に原因を探していました。
その原因に対処するため、自分ではないものになろうとしました。
それはすべて相手のため、と思い込んでいました。
でも、そうではありません。
本当は、私がとてもほしいと思っている相手からの愛情を得ようとして、相手がほしいと思うものと取引きしようとしただけなのです。
つまり、自分自身のためです。
そして、その努力が実を結ばないと、相手に原因があると考えて責めました。
あるいは自分に価値がないのだと自己卑下しました。
枝葉の部分で違いはあっても、幹はすべてこのパターンです。
だから、同じことを繰り返したのです。
私が同じように考えていたから、同じような出来事が引き寄せられただけだったのです。
人生を変えたいなら、相手を責めても、また自分を責めても、何の役にもたちません。
そんなことより、自分がどう考えているかを知って、その考え方を変えることです。
「私は◯◯である」というように、より自分らしい自分であることを宣言するのです。
そしてそうであるかのように考え、そうであるかのように行動するのです。
日々の出来事には、何の意味もありません。
その意味を与えるのは、自分自身です。
その与えた意味によって、自分とは何者なのかという定義をすることになります。
宇宙はその宣言をコピーし、私たちの人生に投影してくれるのです。
その中で、ふと考えさせられた一文がありました。
「あなたの観察力が鋭ければ、同じ状況や環境を何度も何度も、新たな自分自身を創造するまで繰り返し呼び寄せていることに気づくだろう。」
(p.194)
これは、人生において起こることには意味がない、という話の流れで書かれています。
たとえば、黒猫が前を横切ると不吉だと言われますよね。
そういう謎解きが必要なものは、何もないのだと言うのです。
もし、私たちに知らせたいことがあるなら、間違いようのない方法で知らせる方が良いからだと。
だから、起こる出来事には意味がないのです。
ただその出来事に、私たち自身が意味を与えるのだと。
これはどういうことかと言うと、出来事というのは私たちに、自分を定義する材料を与えてくれるだけだということなのです。
つまり、他人や環境など、あらゆるものとの関係で、「私は◯◯だ」という定義を行なっているのです。
そしてその定義によって、自分の人生を創造しているのだと。
雨が降るという出来事に、「ツイてないなあ」と思う人は、「私はツイてない人間だ」という定義を自分で行ったのです。
雨が降るという出来事に意味があるのではなく、出来事に意味を与えたのです。
ですから同じ出来事でも、「稲がよく育って嬉しいなあ」と考えることもできますよね。
「私は幸せだ」という定義を自分で行ったのです。
だから、何かが起こった時に「どうしてか?」と問うのをやめなさいと言います。
意味は私たちが与えるものなのだから、自分で選びなさいと言うのです。
どうして起こったのかを、自分で決めなさいと。
そして、さっきの一文です。
同じような出来事を何度も繰り返す。
私にも身に覚えがあります。
私は、同じような失恋を何度も繰り返しましたから。(笑)
微妙に状況が異なるものの、だいたい同じような感じです。
私は、自分には女運がないのかと思いました。
こんなに一所懸命に愛しているのに、どうして相手はその10分の1も応えてくれないのかと思いました。
そして、同じような体験を繰り返したのです。
さっきの一文に答があります。
「新たな自分自身を創造するまで」
つまり、私が同じような自分を創造していたから、同じような結果(出来事)が現れたのです。
出来事に意味があったとするなら、「同じ考えからは同じ結果しか現れないよ」と言うことでしょうか。
あるいは、「ほら、あなたが望んだ通りの結果だよ」と言うことでしょうか。
どうにでも言えますね。
そして私は、あまりに同じような出来事が起こるので、ついに飽きたのです。
そういう人生に飽き飽きしたのです。
だから、「どうでもいいや」とばかりに、必要性を捨てました。
良く言えば開き直ったのです。
もう愛されなくていいと決めたのです。
そして、自分の得にもならないことをしようと決めました。
それは、何も見返りがなくてもいいから、愛そうとすることでした。
私が新しい自分を選択したことによって、人生の流れが明らかに変わりました。
あれほど、うまくいかない女性関係ばかりだったのに、生まれて初めて、上手く行ったのです。
原因があるとすれば、それは私自身が変わったからです。
相手から愛されたい自分というものを捨て、相手がどうであろうと関係なく、無条件に愛そうとする自分に変えたのです。
まだ完全とは言えませんが、意図的にそうなろうとしています。
それまでの私は、自分の外に原因を探していました。
その原因に対処するため、自分ではないものになろうとしました。
それはすべて相手のため、と思い込んでいました。
でも、そうではありません。
本当は、私がとてもほしいと思っている相手からの愛情を得ようとして、相手がほしいと思うものと取引きしようとしただけなのです。
つまり、自分自身のためです。
そして、その努力が実を結ばないと、相手に原因があると考えて責めました。
あるいは自分に価値がないのだと自己卑下しました。
枝葉の部分で違いはあっても、幹はすべてこのパターンです。
だから、同じことを繰り返したのです。
私が同じように考えていたから、同じような出来事が引き寄せられただけだったのです。
人生を変えたいなら、相手を責めても、また自分を責めても、何の役にもたちません。
そんなことより、自分がどう考えているかを知って、その考え方を変えることです。
「私は◯◯である」というように、より自分らしい自分であることを宣言するのです。
そしてそうであるかのように考え、そうであるかのように行動するのです。
日々の出来事には、何の意味もありません。
その意味を与えるのは、自分自身です。
その与えた意味によって、自分とは何者なのかという定義をすることになります。
宇宙はその宣言をコピーし、私たちの人生に投影してくれるのです。
2013年05月07日
スマホ・ゲームの攻略法動画
一昨日、部屋で動画撮影をしました。
スマホのゲーム「LINE POP」で高得点を出す方法を解説したものです。
ゲームのやり方から高得点の出し方まで、1本の動画で表現できたらいいなと思って。
それを昨日、編集してYouTubeにアップしました。
タイトルは、「LINE POPで高得点。目指せ!100万点オーバー!!(200万点UPも可能)」です。
ちょっと画像が不鮮明だし、課題がたくさんありますね。
他の人の動画を見ると、スマホを固定してやってたり、撮影者が別にいたりして、割りと鮮明な画像になってます。
それと、YouTubeにアップすると、画像のサイズが変更されるため、挿入した文字が切れてしまった部分もありました。
これからは動画を使って情報を発信する時代なので、動画の扱いにも慣れておこうと思って、こんなことをして遊んでます。
遊びながら上達するのですから、こういうやり方が一番ですよ。
編集ソフトの「Power Director 10」を買ったのは1年以上前で、ずっと使わずにいました。使い方がよくわからなかったのです。
やっと重い腰を上げて、使い始めたところです。
因みにこのソフトの使い方も、YouTubeにアップされてますね。便利な時代になったものです。
さて、動画に収めた「LINE POP」の攻略法ですが、実はたいしたものではありません。
100万点以上出したことがある人なら、誰でも知っていることです。
そんな「大したことない」という情報でも、「すごい」と感じる人はいます。
情報って、そういうものなのです。
私の最高得点は290万点ちょっとですが、上には上がいます。
確認できただけで、500万点以上の人がいました。300万点以上も何人かいますね。
そういう人にとって、私の情報は取るに足らないものです。
でも、30万点くらいで伸びない人にすれば、私の情報は非常に役立つものだと思います。
以前、「一気にエベレストを超えちゃいました」という記事で、200万点オーバーしたときの喜びを書きました。
あれから、週に1〜2回は200万点オーバーが出せるようになりました。
これはゲームですけど、実生活も同じようなものだと思うのです。
200万点を1回も超えていないとき、200万点オーバーなんて無理だと思っていました。
しかし、1度でもそのレベルに達すると、その後は難なく出せるようになったのです。
私の技術が向上したからでしょうか?
それもあるかもしれませんが、それよりもメンタルの面が大きいと思います。
「無理だ。出せない。」という意識が、「大丈夫、いつか出せる。」に変わったのです。
そういう意味で、1回でも目標をクリアするということは、重要なワンステップかもしれません。
そういえば子どものころも、縄跳びで二重跳びがなかなかできなかったのですが、1回やる、2回やる、3回以上やる、というように、加速度的に上達しました。
そのときも、「他の子ができているんだから、自分にもできるはずだ」という思いが、無意識にあったと思うのです。
だから頑張れたし、諦めなかったのだと。
私が尊敬する上杉鷹山公も、こういう歌を子どもに残しています。
「為せば成る 為さねば成らぬ 何ごとも 成らぬは人の 為さぬなりけり」
「必ずできる」という思考を持ち続ける限り、それは現実になるのです。
スマホのゲーム「LINE POP」で高得点を出す方法を解説したものです。
ゲームのやり方から高得点の出し方まで、1本の動画で表現できたらいいなと思って。
それを昨日、編集してYouTubeにアップしました。
タイトルは、「LINE POPで高得点。目指せ!100万点オーバー!!(200万点UPも可能)」です。
ちょっと画像が不鮮明だし、課題がたくさんありますね。
他の人の動画を見ると、スマホを固定してやってたり、撮影者が別にいたりして、割りと鮮明な画像になってます。
それと、YouTubeにアップすると、画像のサイズが変更されるため、挿入した文字が切れてしまった部分もありました。
これからは動画を使って情報を発信する時代なので、動画の扱いにも慣れておこうと思って、こんなことをして遊んでます。
遊びながら上達するのですから、こういうやり方が一番ですよ。
編集ソフトの「Power Director 10」を買ったのは1年以上前で、ずっと使わずにいました。使い方がよくわからなかったのです。
やっと重い腰を上げて、使い始めたところです。
因みにこのソフトの使い方も、YouTubeにアップされてますね。便利な時代になったものです。
さて、動画に収めた「LINE POP」の攻略法ですが、実はたいしたものではありません。
100万点以上出したことがある人なら、誰でも知っていることです。
そんな「大したことない」という情報でも、「すごい」と感じる人はいます。
情報って、そういうものなのです。
私の最高得点は290万点ちょっとですが、上には上がいます。
確認できただけで、500万点以上の人がいました。300万点以上も何人かいますね。
そういう人にとって、私の情報は取るに足らないものです。
でも、30万点くらいで伸びない人にすれば、私の情報は非常に役立つものだと思います。
以前、「一気にエベレストを超えちゃいました」という記事で、200万点オーバーしたときの喜びを書きました。
あれから、週に1〜2回は200万点オーバーが出せるようになりました。
これはゲームですけど、実生活も同じようなものだと思うのです。
200万点を1回も超えていないとき、200万点オーバーなんて無理だと思っていました。
しかし、1度でもそのレベルに達すると、その後は難なく出せるようになったのです。
私の技術が向上したからでしょうか?
それもあるかもしれませんが、それよりもメンタルの面が大きいと思います。
「無理だ。出せない。」という意識が、「大丈夫、いつか出せる。」に変わったのです。
そういう意味で、1回でも目標をクリアするということは、重要なワンステップかもしれません。
そういえば子どものころも、縄跳びで二重跳びがなかなかできなかったのですが、1回やる、2回やる、3回以上やる、というように、加速度的に上達しました。
そのときも、「他の子ができているんだから、自分にもできるはずだ」という思いが、無意識にあったと思うのです。
だから頑張れたし、諦めなかったのだと。
私が尊敬する上杉鷹山公も、こういう歌を子どもに残しています。
「為せば成る 為さねば成らぬ 何ごとも 成らぬは人の 為さぬなりけり」
「必ずできる」という思考を持ち続ける限り、それは現実になるのです。
2013年05月08日
あなたのストーリー
「鏡の法則」で有名な野口嘉則さんの動画が、YouTubeで公開されることになりました。
2008年に発行された「心眼力」の刊行記念として創られた動画だそうです。
タイトルは「あなたのストーリー」。ハンカチかティッシュを用意して、ご覧ください。
「僕を支えた母の言葉」という動画もこのときに作ったものだそうですが、どちらも本当に素晴らしい作品です。
私たちは、本当は何もわかってないのに、なぜか自分のことだけは「上手くいかない」と決めてかかる傾向があります。
もちろん、私自身もそうでした。
「自分にはできるはずがない」ということにかけては、岩をも動かす信念がありましたね。(きっぱり)
ではその根拠は何かと尋ねたとしても、おそらく答えられるのはせいぜい「今までやってダメだったから」くらいでしょう。
中には、「いや、無理だって。だって無理だもの。無理に決まってるじゃない。」と、まったく理屈の通らない根拠を並べる人もいます。
本当は明快に説明したいけど、いくら探してもその理由が見つからない。でも、結論だけは正しいと信じている。と言うか、結論は変えたくない。
だから、何が何でもダメと、まるでガンコ親父のようになっちゃうんですね。
その頑(かたく)なな信念を、ほんのちょっとだけ変えてみませんか?
そういうお誘いです。
上の動画は、その可能性を見せてくれます。
「それを信じてやってみて、それでもダメだったらどうしてくれるんだ!?」
そう言って、保証を求めたがる人がいます。何を隠そう、昔の私自身です。(^^ゞ
そういう人には、こうお答えしましょう。
「やってみてダメだったとき、あなたに何かマイナスなことがありますか?」
おそらく、何もないはずです。
できると信じてやってダメでも、信じないでやってダメでも、最初から諦めても、結果は同じではありませんか。
少なくとも、他人から見える結果は同じです。
違っているのは、その人自身の内面です。
信じていたら、がっかりしますか?
その「がっかり」に耐えられないと思うから、最初から「がっかり」する可能性を消そうとしているのでしょう。
でも、そのリスクを犯さなければ、今以上の大きな自分にはなれません。
人は、自分が考えた通りの人になるのですよ。
何度失敗しても良いのです。
それをダメと言うのは、無関係な他人だけです。
人が何と言おうと、人の口に戸は立てられぬと昔から言われるように、放っておくほかないのです。
それよりも、自分を大切にしましょう。
私が尊敬する勝海舟氏も、このように言っています。
「行蔵(こうぞう)は我に存す。毀誉(きよ)は他人の主張。我に与らず、我に関せずと存候(ぞんじそうろう)。」
出処進退は自分自身が決めることだ。評判は他人が勝手に言うこと。自分にはまったく関係がないことだよ。
さあ勇気を出して、まずは自分の可能性を信じてみるところから、始めてみませんか?
2008年に発行された「心眼力」の刊行記念として創られた動画だそうです。
タイトルは「あなたのストーリー」。ハンカチかティッシュを用意して、ご覧ください。
「僕を支えた母の言葉」という動画もこのときに作ったものだそうですが、どちらも本当に素晴らしい作品です。
私たちは、本当は何もわかってないのに、なぜか自分のことだけは「上手くいかない」と決めてかかる傾向があります。
もちろん、私自身もそうでした。
「自分にはできるはずがない」ということにかけては、岩をも動かす信念がありましたね。(きっぱり)
ではその根拠は何かと尋ねたとしても、おそらく答えられるのはせいぜい「今までやってダメだったから」くらいでしょう。
中には、「いや、無理だって。だって無理だもの。無理に決まってるじゃない。」と、まったく理屈の通らない根拠を並べる人もいます。
本当は明快に説明したいけど、いくら探してもその理由が見つからない。でも、結論だけは正しいと信じている。と言うか、結論は変えたくない。
だから、何が何でもダメと、まるでガンコ親父のようになっちゃうんですね。
その頑(かたく)なな信念を、ほんのちょっとだけ変えてみませんか?
そういうお誘いです。
上の動画は、その可能性を見せてくれます。
「それを信じてやってみて、それでもダメだったらどうしてくれるんだ!?」
そう言って、保証を求めたがる人がいます。何を隠そう、昔の私自身です。(^^ゞ
そういう人には、こうお答えしましょう。
「やってみてダメだったとき、あなたに何かマイナスなことがありますか?」
おそらく、何もないはずです。
できると信じてやってダメでも、信じないでやってダメでも、最初から諦めても、結果は同じではありませんか。
少なくとも、他人から見える結果は同じです。
違っているのは、その人自身の内面です。
信じていたら、がっかりしますか?
その「がっかり」に耐えられないと思うから、最初から「がっかり」する可能性を消そうとしているのでしょう。
でも、そのリスクを犯さなければ、今以上の大きな自分にはなれません。
人は、自分が考えた通りの人になるのですよ。
何度失敗しても良いのです。
それをダメと言うのは、無関係な他人だけです。
人が何と言おうと、人の口に戸は立てられぬと昔から言われるように、放っておくほかないのです。
それよりも、自分を大切にしましょう。
私が尊敬する勝海舟氏も、このように言っています。
「行蔵(こうぞう)は我に存す。毀誉(きよ)は他人の主張。我に与らず、我に関せずと存候(ぞんじそうろう)。」
出処進退は自分自身が決めることだ。評判は他人が勝手に言うこと。自分にはまったく関係がないことだよ。
さあ勇気を出して、まずは自分の可能性を信じてみるところから、始めてみませんか?
2013年05月09日
ブッダに思いを馳せて
昨夜、帰宅してから本を読みました。
今は、「神との対話」シリーズの「新しき啓示」を読んでいます。
これは、9.11のテロを受けて、人類が人類に敵対する時代に、平和をもたらす方法を示す目的で書かれたものです。
あれから10年以上が過ぎますが、人類はその危機を回避するまでには至っていないようですね。
写真にあるように、缶ビールを飲みながらの読書は、私にとって至福のひとときです。
もうこれだけで充分だと感じます。ありがたいことです。
さて今日は、以前に読んだ別の本を紹介します。
すでに紹介している「ブッダのことば」と、「ブッダの 真理のことば 感興のことば」です。
仏教の最古の教典と呼ばれるスッタニパータが「ブッダのことば」で、同じくダンマパダ(法句経)が「真理のことば」です。
「感興のことば」はウダーナヴァルガの翻訳ですが、ブッダが感興をおぼえた時、ふと口にした言葉を集めたものという意味だとか。
「ブッダのことば」については、「死を悼むことについて」で一部を紹介しました。
釈迦がどういう生活をしていて、弟子などとどういう問答をしたのかがわかって面白いです。
釈迦の弟子が詩として口伝してきたものをまとめたもので、歴史上の人物としての釈迦を知ることができる貴重なものだそうです。
これを読むと、現代の仏教で言われている4つの真理である四諦(したい)は、言葉としては成立していないようです。
つまり、仏教が発展していく中で、四諦という形にまとめられたのだろうと思われます。
諸行無常や諸法無我に通じる考え方は、このときすでにあるようです。一部を引用しましょう。
「人々は「わがものである」と執著(しゅうじゃく)した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家(ざいけ)にとどまっていてはならない。」
「人が「これはわがものである」と考える物、−−それは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してはならない。」
(六、老い,805-806,p.181)
このように、「常住ではない」という言葉に、諸行無常の考えが現れています。
また、所有することは執着であって、その執着から離れることが悟りへの道であることも示しています。
家族とかの愛情さえ、釈迦は否定しているように感じます。愛することも執着だと言っているからです。
だから人間関係も絶って独りで歩めと言うのでしょう。
このように、何かにとらわれることを徹底的に避けようとしている感じがしました。
見解でさえ、どっちが勝れていると論争することを執著だとして、こだわらないようにと言います。
どっちが正しいとか、どっちが間違っているという論争には加わるなということです。
さらに、戒律でさえもこだわるなと言います。引用しましょう。
「一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なきこの(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか、「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。−−安らぎを固執することもなく。」
(一三、並ぶ応答−−長篇,900,p.197)
五感を通じて得られるものすべてにおいて、確かなものがあると思うなということを強調します。
「師(ブッダ)は言われた、「ウパシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、『何も存在しない』と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」」
(七、学生ウパシーヴァの質問,1070,p.225)
「(ブッダが答えた)、「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空(くう)なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、(死の王)は見ることがない。」
(一六、学生モーガラージャの質問,1119,p.236)
一方「真理のことば」は、仏教の教えという感じで、そこに釈迦の息吹を感じることはありませんでした。
でもその中には、第二次世界大戦後、日本の分割占領案に正面から反対したスリランカの元大統領が引用したブッダのメッセージがありました。
「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。」
(第一章 ひと組みずつ,5,p.10)
また、八苦にあげられている「愛別離苦(あいべつりく)」や「怨憎会苦(おんぞうえく)」について書かれた部分もありましたよ。
「愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。」
「それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。」
(第一六章 愛するもの,210-211,p.39-40)
このように言って、愛するもの、愛情、快楽、欲情、妄執などから離れるようにと言うのです。
だから出家して、家族からも離れ、独りで歩むことを推奨するのかもしれませんね。
因みにこの内容とほぼ同じものが、「感興のことば」にも書かれています。(第五章 愛するもの,p.177)
「真理のことば」には、「四つの句」という言い方で四諦(したい)について書かれています。
また他の部分を読んでも、ブッダが言ったことというより、仏教としてまとめられたものという感じがしました。
「感興のことば」の中に、1ヶ所だけ気になるところがありました。引用しましょう。
「この世は熱のような苦しみが生じている。個体を構成する(五つの)要素(=五蘊)はアートマンではない、と考える。ひとは「われはこれこれのものである」と考えるそのとおりのものとなる。それと異なったものになることは、あり得ない。」
(第三二章 修行僧,33,p.288)
唐突にこの文が出てきます。
五蘊というのは、人間の構成要素のことで、色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)の5つです。
色は身体のことで、残りの4つは心の働きとされます。
一方、アートマンとは、自我のことだとされます。
これから解釈すると、「自我(アートマン)は身体や心の機能ではなく、自分が「こうである」と思うもの、そのものである」ということでしょうか。
これには驚きました。
なぜなら、「神との対話」シリーズでも、このことが言われているからです。
私たちは、「私とは◯◯である」というものであると。
私たちはそう宣言することによって、そのようなものになると言うのです。
なぜなら、人生とは自分を創造することだから。
ブッダが実際、どのように考えて、どのように語ったのか、それを正確に知ることはできません。
けれども私は、ブッダがもっとも言いたかったのは、おそらく次のことだと思うのです。
苦しみを滅するには執着から離れること。執着から離れるためには、その姿を正しく見ること。
その姿を正しく見るとは、その対象が存在するように見える姿では存在していない、と見抜くということです。
では、見えているものは何なのか?
ひとことで言うなら幻想です。偽りの姿です。
だからその現実的に見えるものの真の姿を空(くう)であると見切って、そういうものだとして考えよということだと思うのです。
今は、「神との対話」シリーズの「新しき啓示」を読んでいます。
これは、9.11のテロを受けて、人類が人類に敵対する時代に、平和をもたらす方法を示す目的で書かれたものです。
あれから10年以上が過ぎますが、人類はその危機を回避するまでには至っていないようですね。
写真にあるように、缶ビールを飲みながらの読書は、私にとって至福のひとときです。
もうこれだけで充分だと感じます。ありがたいことです。
さて今日は、以前に読んだ別の本を紹介します。
すでに紹介している「ブッダのことば」と、「ブッダの 真理のことば 感興のことば」です。
仏教の最古の教典と呼ばれるスッタニパータが「ブッダのことば」で、同じくダンマパダ(法句経)が「真理のことば」です。
「感興のことば」はウダーナヴァルガの翻訳ですが、ブッダが感興をおぼえた時、ふと口にした言葉を集めたものという意味だとか。
「ブッダのことば」については、「死を悼むことについて」で一部を紹介しました。
釈迦がどういう生活をしていて、弟子などとどういう問答をしたのかがわかって面白いです。
釈迦の弟子が詩として口伝してきたものをまとめたもので、歴史上の人物としての釈迦を知ることができる貴重なものだそうです。
これを読むと、現代の仏教で言われている4つの真理である四諦(したい)は、言葉としては成立していないようです。
つまり、仏教が発展していく中で、四諦という形にまとめられたのだろうと思われます。
諸行無常や諸法無我に通じる考え方は、このときすでにあるようです。一部を引用しましょう。
「人々は「わがものである」と執著(しゅうじゃく)した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家(ざいけ)にとどまっていてはならない。」
「人が「これはわがものである」と考える物、−−それは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してはならない。」
(六、老い,805-806,p.181)
このように、「常住ではない」という言葉に、諸行無常の考えが現れています。
また、所有することは執着であって、その執着から離れることが悟りへの道であることも示しています。
家族とかの愛情さえ、釈迦は否定しているように感じます。愛することも執着だと言っているからです。
だから人間関係も絶って独りで歩めと言うのでしょう。
このように、何かにとらわれることを徹底的に避けようとしている感じがしました。
見解でさえ、どっちが勝れていると論争することを執著だとして、こだわらないようにと言います。
どっちが正しいとか、どっちが間違っているという論争には加わるなということです。
さらに、戒律でさえもこだわるなと言います。引用しましょう。
「一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なきこの(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか、「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。−−安らぎを固執することもなく。」
(一三、並ぶ応答−−長篇,900,p.197)
五感を通じて得られるものすべてにおいて、確かなものがあると思うなということを強調します。
「師(ブッダ)は言われた、「ウパシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、『何も存在しない』と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」」
(七、学生ウパシーヴァの質問,1070,p.225)
「(ブッダが答えた)、「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空(くう)なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、(死の王)は見ることがない。」
(一六、学生モーガラージャの質問,1119,p.236)
一方「真理のことば」は、仏教の教えという感じで、そこに釈迦の息吹を感じることはありませんでした。
でもその中には、第二次世界大戦後、日本の分割占領案に正面から反対したスリランカの元大統領が引用したブッダのメッセージがありました。
「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。」
(第一章 ひと組みずつ,5,p.10)
また、八苦にあげられている「愛別離苦(あいべつりく)」や「怨憎会苦(おんぞうえく)」について書かれた部分もありましたよ。
「愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。」
「それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。」
(第一六章 愛するもの,210-211,p.39-40)
このように言って、愛するもの、愛情、快楽、欲情、妄執などから離れるようにと言うのです。
だから出家して、家族からも離れ、独りで歩むことを推奨するのかもしれませんね。
因みにこの内容とほぼ同じものが、「感興のことば」にも書かれています。(第五章 愛するもの,p.177)
「真理のことば」には、「四つの句」という言い方で四諦(したい)について書かれています。
また他の部分を読んでも、ブッダが言ったことというより、仏教としてまとめられたものという感じがしました。
「感興のことば」の中に、1ヶ所だけ気になるところがありました。引用しましょう。
「この世は熱のような苦しみが生じている。個体を構成する(五つの)要素(=五蘊)はアートマンではない、と考える。ひとは「われはこれこれのものである」と考えるそのとおりのものとなる。それと異なったものになることは、あり得ない。」
(第三二章 修行僧,33,p.288)
唐突にこの文が出てきます。
五蘊というのは、人間の構成要素のことで、色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)の5つです。
色は身体のことで、残りの4つは心の働きとされます。
一方、アートマンとは、自我のことだとされます。
これから解釈すると、「自我(アートマン)は身体や心の機能ではなく、自分が「こうである」と思うもの、そのものである」ということでしょうか。
これには驚きました。
なぜなら、「神との対話」シリーズでも、このことが言われているからです。
私たちは、「私とは◯◯である」というものであると。
私たちはそう宣言することによって、そのようなものになると言うのです。
なぜなら、人生とは自分を創造することだから。
ブッダが実際、どのように考えて、どのように語ったのか、それを正確に知ることはできません。
けれども私は、ブッダがもっとも言いたかったのは、おそらく次のことだと思うのです。
苦しみを滅するには執着から離れること。執着から離れるためには、その姿を正しく見ること。
その姿を正しく見るとは、その対象が存在するように見える姿では存在していない、と見抜くということです。
では、見えているものは何なのか?
ひとことで言うなら幻想です。偽りの姿です。
だからその現実的に見えるものの真の姿を空(くう)であると見切って、そういうものだとして考えよということだと思うのです。
2013年05月10日
信念を変えるには言葉を変える
前にも紹介した野澤卓央さんのメルマガに、興味深いものがあったので紹介しましょう。
「人生を大きく変える力をつけるコツ」というタイトルです。
重要なところを引用しましょう。
◆------------- 引用始め -------------◆
数年後その人が思ったり、
話していた通りになる。
なんとかなると言っていた人は、
数年後、なんとかはなっている
状況にはなっていました。
でもそれ以上でもなく
そのままでした。
ダメだ、苦しい、無理!!
と言っていた人は、
そのときより更に苦しそうな
状況になっていました。
うまくいく!と、心の底から
言っていた人はそのときに比べて
より良い状態になっていました。
◆------------- 引用終り -------------◆
これは野澤さんが10年間、人の話をメモし続けた結果、わかったことなのだそうです。
メモしない本人は気づかないかもしれないけど、野澤さんはメモしたことで、その人が以前言っていたとおりになっていることに気づいたのだと。
たしかに、使う言葉が重要だと言う人は多いですよね。
斎藤一人さんなどもそうですし、他にも大勢います。
「ツイてる」「ありがとう」
そういう言葉をいつも使うようにしていると、幸運が訪れるのだと。
私も、同じように思います。
ただ、それは言葉に何か呪文のような力があって、魔法がかかるからではないと思います。
「神との対話」でも、創造のツールとして思考、言葉、行動があると言います。
でも、もっとも効果的ななのは「在り方」で、そこから思考が生じ、思考から言葉や行動が生じるのだと。
「「原因」と「結果」の法則」でも、私たちが普段考えることによって、現実は創られていると言います。
「引き寄せの法則」でも、考えることで現実を引き寄せると言います。
つまり重要なのは私たちの考え方(思考)であり、その考え方がそうだから、それにふさわしい言葉が出てくるのです。
けれども、思考を変えるのは容易ではありません。
なぜなら、思考は信念によって支えられており、私たちはその信念を意識していないからです。
「自分にはできない」という信念を持っている人は、何としてでもできない理由を探そうとします。
「だって無理だよ。99%無理だね。私は普通の人間だから」
理由にもならない理由をつけてでも、無理だということを証明しようとさえするのです。
では、どうすれば信念を変え、思考を変えることができるでしょうか?
「神との対話」の中では、理性から離れろと言います。理性が動き出す前に、行動してしまえと。
目の前に乞食が現れた時、ポケットの1ドルをあげようと思ったなら、考える前に行動しなさいと言います。
考えると、「これをあげたら昼飯が食べられなくなるなあ」などと、理性的な判断をしがちだから。
そして考える前に行動すると、今度はその行動を正当化するように、思考が変わってくると言うのです。
これは、私たちが普段、どんなふうに考えたり行動したりしているかを見ると、よくわかると思います。
私たちはたいてい、無意識に考え、言葉を発しています。それが行動となって現れます。
その結果、私たちは何かを経験します。経験するとは、感じることです。
その感じたことによって、何かで在るのです。私たちの在り方は、心の状態です。幸せ、イライラ、悲しみなど。
その在り方に応じて、私たちは考えます。その思考は言葉となり、行動となります。
こうして輪は完結し、このサイクルを繰り返します。
これが、私たちが現実を生み出しては体験するということなのです。
本当の出発点は「在り方」であると、「神との対話」では言います。つまりこうです。
在り方 > 思考 > 言葉 > 行動 > 現実 > 経験
ですから、「在り方」を変えるのがもっとも手っ取り早いというわけです。
しかし、より根源的なものは、なかなか変えづらいものです。
そこで、ピンときたときに行動を起こせと言ったのです。つまりそれは、直観にしたがえと言うことです。
そうすれば、行動が変わるから現実が変わり、その経験が変わります。
その経験は在り方に影響を与えます。
こうして悪循環を断ち切り、好循環に変えていくことができると言うのです。
同じことが、言葉を変えることによっても可能だと思います。
何があっても「ツイてる」と言う。「ありがとう」と言う。
そうすると、その言葉によって経験が変わります。その経験から在り方が影響を受けるのです。
たとえば、それまではレストランで給仕されても、「ありがとう」と言わなかったとしましょう。
それを「ありがとう」と言うように変えた。
最初は、「ちっともありがたくなんかないよ。こっちがお金を払ってるんだから。」と考えるかもしれません。
でも、「ありがとう」と言うのを繰り返し、習慣化すると、そういう考えがなくなるのです。
「ありがとう」と言うと、なぜかウエイトレスさんの笑顔がまぶしく見えたりします。
そして段々と、心から「ありがとう」と感じ、そういう気持ちで言えるようになります。
ですから、最初は言葉だけ変えるのでも良いと思います。ただし、本当に徹底的に繰り返すことです。
そういう意味では、1000回「ありがとう」と言うというような、行(ぎょう)にしてしまうのも、良い方法でしょうね。
本当に重要なのは1000回という数字ではありません。自分の思考が変わることが重要です。在り方が変わることが重要です。
けれども、そんなことを考えなくても、行としてやり続ければ、必ず効果が現れると思います。
私たちは、ついつい現実に流されたり、反応したりしてしまいます。
けれども、現実は単に結果であって、気に入らないなら原因を変えよと多くの人が言っています。
現れた現実を変えようとすると、それこそ四苦八苦しても、なかなか効果がありません。
そうではなく、原因である思考とか在り方を変えるようにするのです。
そのためには、現実から影響を受けないようにすることが大切です。
だから現実は幻想であると見抜いて、心の平安を保てと、仏教でも言うのです。
そういう意味で、現実に影響されずに良い言葉は使い続けるという行(ぎょう)は、理にかなっていると言えるでしょうね。
「人生を大きく変える力をつけるコツ」というタイトルです。
重要なところを引用しましょう。
◆------------- 引用始め -------------◆
数年後その人が思ったり、
話していた通りになる。
なんとかなると言っていた人は、
数年後、なんとかはなっている
状況にはなっていました。
でもそれ以上でもなく
そのままでした。
ダメだ、苦しい、無理!!
と言っていた人は、
そのときより更に苦しそうな
状況になっていました。
うまくいく!と、心の底から
言っていた人はそのときに比べて
より良い状態になっていました。
◆------------- 引用終り -------------◆
これは野澤さんが10年間、人の話をメモし続けた結果、わかったことなのだそうです。
メモしない本人は気づかないかもしれないけど、野澤さんはメモしたことで、その人が以前言っていたとおりになっていることに気づいたのだと。
たしかに、使う言葉が重要だと言う人は多いですよね。
斎藤一人さんなどもそうですし、他にも大勢います。
「ツイてる」「ありがとう」
そういう言葉をいつも使うようにしていると、幸運が訪れるのだと。
私も、同じように思います。
ただ、それは言葉に何か呪文のような力があって、魔法がかかるからではないと思います。
「神との対話」でも、創造のツールとして思考、言葉、行動があると言います。
でも、もっとも効果的ななのは「在り方」で、そこから思考が生じ、思考から言葉や行動が生じるのだと。
「「原因」と「結果」の法則」でも、私たちが普段考えることによって、現実は創られていると言います。
「引き寄せの法則」でも、考えることで現実を引き寄せると言います。
つまり重要なのは私たちの考え方(思考)であり、その考え方がそうだから、それにふさわしい言葉が出てくるのです。
けれども、思考を変えるのは容易ではありません。
なぜなら、思考は信念によって支えられており、私たちはその信念を意識していないからです。
「自分にはできない」という信念を持っている人は、何としてでもできない理由を探そうとします。
「だって無理だよ。99%無理だね。私は普通の人間だから」
理由にもならない理由をつけてでも、無理だということを証明しようとさえするのです。
では、どうすれば信念を変え、思考を変えることができるでしょうか?
「神との対話」の中では、理性から離れろと言います。理性が動き出す前に、行動してしまえと。
目の前に乞食が現れた時、ポケットの1ドルをあげようと思ったなら、考える前に行動しなさいと言います。
考えると、「これをあげたら昼飯が食べられなくなるなあ」などと、理性的な判断をしがちだから。
そして考える前に行動すると、今度はその行動を正当化するように、思考が変わってくると言うのです。
これは、私たちが普段、どんなふうに考えたり行動したりしているかを見ると、よくわかると思います。
私たちはたいてい、無意識に考え、言葉を発しています。それが行動となって現れます。
その結果、私たちは何かを経験します。経験するとは、感じることです。
その感じたことによって、何かで在るのです。私たちの在り方は、心の状態です。幸せ、イライラ、悲しみなど。
その在り方に応じて、私たちは考えます。その思考は言葉となり、行動となります。
こうして輪は完結し、このサイクルを繰り返します。
これが、私たちが現実を生み出しては体験するということなのです。
本当の出発点は「在り方」であると、「神との対話」では言います。つまりこうです。
在り方 > 思考 > 言葉 > 行動 > 現実 > 経験
ですから、「在り方」を変えるのがもっとも手っ取り早いというわけです。
しかし、より根源的なものは、なかなか変えづらいものです。
そこで、ピンときたときに行動を起こせと言ったのです。つまりそれは、直観にしたがえと言うことです。
そうすれば、行動が変わるから現実が変わり、その経験が変わります。
その経験は在り方に影響を与えます。
こうして悪循環を断ち切り、好循環に変えていくことができると言うのです。
同じことが、言葉を変えることによっても可能だと思います。
何があっても「ツイてる」と言う。「ありがとう」と言う。
そうすると、その言葉によって経験が変わります。その経験から在り方が影響を受けるのです。
たとえば、それまではレストランで給仕されても、「ありがとう」と言わなかったとしましょう。
それを「ありがとう」と言うように変えた。
最初は、「ちっともありがたくなんかないよ。こっちがお金を払ってるんだから。」と考えるかもしれません。
でも、「ありがとう」と言うのを繰り返し、習慣化すると、そういう考えがなくなるのです。
「ありがとう」と言うと、なぜかウエイトレスさんの笑顔がまぶしく見えたりします。
そして段々と、心から「ありがとう」と感じ、そういう気持ちで言えるようになります。
ですから、最初は言葉だけ変えるのでも良いと思います。ただし、本当に徹底的に繰り返すことです。
そういう意味では、1000回「ありがとう」と言うというような、行(ぎょう)にしてしまうのも、良い方法でしょうね。
本当に重要なのは1000回という数字ではありません。自分の思考が変わることが重要です。在り方が変わることが重要です。
けれども、そんなことを考えなくても、行としてやり続ければ、必ず効果が現れると思います。
私たちは、ついつい現実に流されたり、反応したりしてしまいます。
けれども、現実は単に結果であって、気に入らないなら原因を変えよと多くの人が言っています。
現れた現実を変えようとすると、それこそ四苦八苦しても、なかなか効果がありません。
そうではなく、原因である思考とか在り方を変えるようにするのです。
そのためには、現実から影響を受けないようにすることが大切です。
だから現実は幻想であると見抜いて、心の平安を保てと、仏教でも言うのです。
そういう意味で、現実に影響されずに良い言葉は使い続けるという行(ぎょう)は、理にかなっていると言えるでしょうね。
2013年05月11日
また大量に本を買いました
今月の後半、日本へ一時帰国する予定です。
それで、帰省した時に持ち帰ろうと思って、本をネットで注文しています。
別に帰省の時でなくてもネットで注文し、父親にEMSでこちらへ送ってもらっているのです。
ただ、EMSは月に1回くらいですが、他の荷物もあるので、本はせいぜい5冊くらいでしょうか。
今回は持って帰ればよいのだからと安心感があったためか、昨日数えたら、すでに20冊を超えていました。
やっと読まずに積んである本がほとんどなくなったと思ったのですが、またしばらく「積んどく」が増えそうです。
今回は、神渡良平さんの本を大量に買いました。
「安岡正篤立命への道」「一隅を照らす生き方」「中村天風「幸せを呼び込む」思考」「西郷隆盛人間学」など。
Facebookで見つけたので、フィードを購読させていただいてます。
それで、久しぶりに読んでみたくなったのです。
あれはもう30年くらい前になると思うのですが、私がまだ川崎市にいたころ、神渡さんも近くに住んでおられたのです。
私が神渡さんの本を読んでいることを知った知人が、「本人に会いに行く用があるんだけど、一緒に行かないか?」と誘ってくれたので、喜んでついていったのです。
なかなか、こういう機会ってないですからね。
神渡さんは私のことを覚えていないようですけど、まあ当然ですよね。
その他では、今回は教育関係が多いですね。
「子どもへのまなざし 」「親が変われば子は伸びる」「授業創造―松田昭一 教育実践の記録」「居場所のない子どもたち」など。
私の興味がある分野は、教育、哲学、農業のようです。
広島大学を中退して、教師になる夢は諦めたはずでしたが、どこか心の中に残っているのかもしれません。
学校の教壇に立ちたいとは思いませんが、子どもたちや若者のために、私が学んできたことを役立てることができたらと、切に思います。
農業は、あまり体験はないのですけど、なぜか気になるのです。
それで自然農法だとか有機農法で良さそうなものがあると、興味本位で買ってしまうのです。
今回も「自然農という生き方」を買いました。
自分では園芸をちょっとやったくらいで、なんら自慢できるような栽培体験はありません。
でも、土地によって生かされている私たち人間のことを思うと、土地をどう扱うのが良いのかと、考えざるをえないのです。
やっと、農薬だけでなく、化学肥料も良くないと言われ始めましたよね。
同じことが、人間にも言えますよね。
科学的に合成された成分を体内に取り込むのは良くない。
できるだけ自然のままがいいんだろうなあと、漠然と考えています。
いずれはどこかで晴耕雨読の日々を送るというのが、私の夢なのかもしれませんね。
あとはビールがあれば、言うことはありません。
それで、帰省した時に持ち帰ろうと思って、本をネットで注文しています。
別に帰省の時でなくてもネットで注文し、父親にEMSでこちらへ送ってもらっているのです。
ただ、EMSは月に1回くらいですが、他の荷物もあるので、本はせいぜい5冊くらいでしょうか。
今回は持って帰ればよいのだからと安心感があったためか、昨日数えたら、すでに20冊を超えていました。
やっと読まずに積んである本がほとんどなくなったと思ったのですが、またしばらく「積んどく」が増えそうです。
今回は、神渡良平さんの本を大量に買いました。
「安岡正篤立命への道」「一隅を照らす生き方」「中村天風「幸せを呼び込む」思考」「西郷隆盛人間学」など。
Facebookで見つけたので、フィードを購読させていただいてます。
それで、久しぶりに読んでみたくなったのです。
あれはもう30年くらい前になると思うのですが、私がまだ川崎市にいたころ、神渡さんも近くに住んでおられたのです。
私が神渡さんの本を読んでいることを知った知人が、「本人に会いに行く用があるんだけど、一緒に行かないか?」と誘ってくれたので、喜んでついていったのです。
なかなか、こういう機会ってないですからね。
神渡さんは私のことを覚えていないようですけど、まあ当然ですよね。
その他では、今回は教育関係が多いですね。
「子どもへのまなざし 」「親が変われば子は伸びる」「授業創造―松田昭一 教育実践の記録」「居場所のない子どもたち」など。
私の興味がある分野は、教育、哲学、農業のようです。
広島大学を中退して、教師になる夢は諦めたはずでしたが、どこか心の中に残っているのかもしれません。
学校の教壇に立ちたいとは思いませんが、子どもたちや若者のために、私が学んできたことを役立てることができたらと、切に思います。
農業は、あまり体験はないのですけど、なぜか気になるのです。
それで自然農法だとか有機農法で良さそうなものがあると、興味本位で買ってしまうのです。
今回も「自然農という生き方」を買いました。
自分では園芸をちょっとやったくらいで、なんら自慢できるような栽培体験はありません。
でも、土地によって生かされている私たち人間のことを思うと、土地をどう扱うのが良いのかと、考えざるをえないのです。
やっと、農薬だけでなく、化学肥料も良くないと言われ始めましたよね。
同じことが、人間にも言えますよね。
科学的に合成された成分を体内に取り込むのは良くない。
できるだけ自然のままがいいんだろうなあと、漠然と考えています。
いずれはどこかで晴耕雨読の日々を送るというのが、私の夢なのかもしれませんね。
あとはビールがあれば、言うことはありません。
●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。