一昨日の記事にも書きましたが、本業の方は昇給・昇進の作業で忙しくしていました。
今は経営者として、社員の給料を決める立場ですが、以前は一般の社員として働いていましたので、両方の気持ちを体験させてもらってます。
社員からすると、昇給がいくらになるかとか、昇進するかどうかは、経営者(上司)から自分がどう評価されているか、という証になるのです。
どれだけ口で「あなたは能力も高くて素晴らしい」と言われても、昇給・昇進で形に現れないと、だんだんと不満に感じます。
「あんなに仕事ができないやつと自分の昇給額が、どうして同じなの?」
このように他人と比べて、自分の取り分が少ないと主張するのです。
そういう気持ちはわかります。私も、同じようなことを体験してきましたから。
ただ私の場合、あまり強くは感じませんでした。
それは、本を読んで生き方を学んできたこととも関係します。
たしか論語にあったと思うのですが、「世間に名前が知られるようになるかどうかを気にするより、評価にふさわしい実力があるかどうかを気にすべきだ。」というようなことが書かれていました。
また、「借りの多い人生より、貸しの多い人生のほうが良い。」ということが書かれた本もありました。
それにも共感したので、自分の評価がどうかよりも、評価される以上の働きをしようと思ったのです。
それに私は、2つの大学に通った関係上、社会人になるのが他の人より4年遅れています。
ですから、高校までの同級生と比べると、明らかに給料が少なかったのです。
年下の先輩に仕事を教わりながら、いつかは実力で追い越そうと思っていました。
そういうこともあって、あまり近視眼的な見方をしなかったのです。
それでも、昇給のときの金額は気になりました。
「なんだ、あれだけ評価が高いと言われても、1万円も昇給しないのか。1年先輩を追い越すには、あとどれだけかかるのだろう。」
そんなことを考えたこともあったのです。
今、経営者として社員の給料を決めようとすると、やはり経営者としての立場から考えてしまいます。
予算が青天井なら、いくらでも上げてあげたいのです。
でも、そんなことをすれば、経営が破綻するのはわかりきったこと。だからできない。
その怖れの元になっている考えは、主に以下のようなものです。
まず、社員は毎年昇給することを当然だと考えています。
つまり、今年より来年、来年より再来年と、増えていくのが当然だと。
そうすると経営者としては、少なくとも数年先、もっと言えば10年くらい先の給料がいくらなら適当なのか、ということを考えざるを得ません。
そして当然、今年の給料は、その未来の給料までの曲線の一部として定められるのです。
今年、大幅に昇給してあげたい。でも、もしそれをやったら、来年はそれよりもさらに高い給料を払わなければならない。下げることは、法律上もできないのですから。
誰かの給料が増えるということは、それだけ経費の予算を食いつぶすと言うことです。
会社の利益を目的とする立場の経営者としては、経費を抑えることも、また目的なのです。
また、社員は他者との比較で自分の評価を考えます。
まずは同期の社員と比較し、自分の評価が高いのか低いのかを考えるでしょう。
そして、同期ではない他の社員とも比較します。
「入社して間もない社員の昇給額が大きいのに、もっと大変な仕事をしている中堅社員の昇給額が少ないのはどうして?」
給料の総額に予算があると、その配分に経営者は頭を悩ませます。
どこかの層を手厚くすれば、どこかを削るしかありません。
日本と違って、転職することが当然と考えている人が多いタイでは、仕事を覚えて使えるようになった社員がどんどん辞めてしまうので、とても影響が大きいのです。
ですから、そういう社員が辞めないようにするために、入社してから3〜5年くらいの社員の昇給額を大きくしてあります。
でもそうすると、30歳くらいからの昇給額が目立って抑えられるようになり、それ以降の社員が不満に感じるのです。
以前にハマった宗教では、「愛の減少感」ということを教えていました。
神は完全な愛なのだらから、神からの愛が減ることはない。けれども、それを受け取る側の人間が、「愛が減った」と感じることがあるのだと。
聖書の中で、アベルとカインの物語があります。
その中でカインは、弟のアベルを殺してしまいます。理由は、神がアベルだけを愛して、自分を愛してくれなかったから。
カインはそう感じたのですが、それを「愛の減少感」と呼ぶのです。
できの悪い社員が自分と同じだけ給料をもらうと、なんだか自分の価値(評価)が損なわれたような気がする。
「あなたは、あなたとして充分な額をもらっているじゃないか。」
そう言われても、評価されていないと感じてしまうのです。
今回の昇給・昇進でも、本当に頭を悩ませました。
できないと思われる社員だって、良いところはたくさんあるのです。
それなのに、ある特定の価値観だけで能力を判断し、給料で差をつけるべきなのでしょうか?
差をつけられた社員は、どうして自分の評価が低いのかと、不満に感じるかもしれません。
結局、どうやっても全員を満足させることはできないのです。
誰もが満足する答があるなら、とっくの昔にその解決策が示されているでしょう。
答がないからこそ迷うのであり、迷うからこそ自分らしさを発揮できる余地があるのだと思います。
最終的な拠り所は、「そうすることは自分らしいか?」という質問の答しかありません。
誰もが満足する完璧な判断ではないし、他の人とは違うかもしれないけれど、「これが私だ」という結論を出すしか他に仕方がないと思うのです。
そしてその自分らしさを考えるとき、もう1つの質問を自分に対してします。
「今、愛ならどうする?」
経営と関係ないと思われるかもしれませんが、私は、経営もまた人生の一部だと思うのです。
人生の一部だということは、私の一部だと言うことです。つまり、私自身の表現なのです。
どれだけ怖れを手放せるのか?不安を捨て去り、どれだけ愛として生きられるのか?それが私自身への挑戦です。
今日、社員全員に、昇給と昇進を発表します。
社員がそれをどう受け止めるか、それはわかりません。
少しでも気持ちを汲んでくれれば良いがと思いますが、それへの執着は捨てます。
社員たちがどう思うかは、社員たちの自由です。
ただ、私はこの状況の中で、自分らしい表現ができただろうか、もっと良い表現がなかっただろうかと、これからも考えると思います。
そして、こういう現実を生きることができることを、心からありがたいと思うのです。
2013年04月29日
2013年04月30日
生命とは何でしょう?
ちょっと大上段に構えて、「生命とは何か?」ということを考えてみたいと思います。
みなさんは生命って、何だと思いますか?
まあ、いきなりこんな抽象的な質問をされても、答えにくいでしょうね。
では、人は生命ですか?動物は?植物は?
「自然に成長するものは生命だよ。」
「いや、それらは生命が宿っているのであって、その物質的な塊が生命ってわけじゃないでしょう。」
たしかに、人や動物が死んだ後の死骸を、生きているときのものと同じとは言いがたいですよね。
では、刈り取った植物は?
「刈り取られても、また植えれば生えてくるから、まだ生命がなくなってはいないんじゃない?」
では、枯れてしまったらもう生命じゃない?クローン技術を使ったらどうでしょう?
細胞1つからでも元の生命体が復元できるとしたら、生命が朽ちるときって、いったいいつなのでしょうね?
細胞のすべてが死んだ時でしょうか?
ガイア理論というのがあります。
地球全体が、まるで1つの生命体であるかのように、恒常性を保っているというものです。
たしかに、地球上の生態系は不思議です。
たとえば二酸化炭素を必要とする植物が酸素を排出し、酸素を必要とする動物が二酸化炭素を排出するという、みごとなバランスがあります。
個別に見ても、花は虫によって受粉を助けられ、子孫を残すことができます。一方で虫は、花から蜜をもらうことで生きることを助けてもらっています。
1つ1つの生命体を切り離して生命を考えることもできますが、もっと大きな視点に立てば、その全体を生命と考えることもできるのです。
よく、自然は弱肉強食と言われます。
でも、本当にそうなのでしょうか?
肉食動物に襲われて生命を絶たれ、食べられてしまう。そのシーンを残酷と思うから、そのように考えるのではないでしょうか。
でも、別の見方もできると思います。
食物連鎖の上位に立つ動物は、その下位の動植物によって生命を支えられている。
つまり、弱いものを襲って好き放題にしているのではなく、弱いものがいてくれて生命の維持に必要な物を分け与えてくれるから、生きながらえているのだと。
自然界では、無用に相手を殺すことはありません。
ですから、弱者も生き残ることができます。
いえむしろ、弱者こそが生き残っているというべきでしょう。
そうして、全体としてはお互いに補完する関係を保っているのです。
昨夜、部屋の中でアリの行列を見つけました。体長1mmくらいの小さなアリです。
どうやらゴミ箱に捨てたアイスクリームの袋にたかっているようです。
「マンションの11階なんだけどなあ。本当に、タイはすごいよ。」
そう思いながら、私はティッシュでアリを拭きとりました。かわいそうと思いながらも。
そのとき、ふとこんな考えが湧いてきたのです。
アリは、その1匹1匹が生命体であると同時に、巣を作っている全体が1つの生命体じゃないのだろうか?
まるで本体が巣の中にあって、外に出て餌を探し回っているアリたちは触肢ですね。
もう部屋中、いたるところをくまなく這いまわっています。よく迷子にならないものだと、感心しますよ。
そして触肢が餌を発見すると、神経は本体に餌の在り処を伝えます。餌の在り処を伝えようとするアリの動きは、まさに神経ではありませんか。
その情報を本体が得ると、今度はその餌を捕獲するために手が動き出すのです。捕獲隊、出動です!
蜂もそうですが、働きアリは、それぞれに役目があるそうです。
そして、巣の中で休んでいるのが役目のアリもいるのだとか。
外で何か事故があって、たとえば誰かにティッシュで拭き取られるなどして大量に働きアリが死ぬと、休んでいたアリが働きアリとなって活動し始めるのです。
トカゲの尻尾切りじゃありませんが、一部が死ぬことを何とも思っていないかのように。
「なんか、こいつらすっげーなー!」と、妙に感心してしまいました。
アリが気になっている方のために言うと、拭きとったのはほんの一部です。
ゴミ箱の中のアリの餌になりそうなものを片づけ、とりあえず大量発生という状況だけはなくしました。
でも、相変わらずあちこちに這い回っているんですよね。
本を読んでいると本の角のあたりをチラチラと走り回ったり。まあ、かわいいと思えなくもありませんがね。
でも、自分の身体中を這い回っていると想像すると・・・。(^_^;)
さて、話を戻しましょう。
もし、生命というものが、個々の生命体で分断されたものではなく、全体を包み込んでいるものだとしたら、どうなるでしょうか?
私は、その可能性があると思います。と言うより、そうだと信じています。
アリですら、1つの生命のように生きるのです。
自然界は、共存共栄しているのです。
どうしてそれが、個々にバラバラなどということがあるでしょうか?
私は、ガイア理論を詳しく知っているわけではありませんが、地球全体というより、宇宙全体が生命だという方が的を射ている気がします。
地球は地球単独として存在しているわけではないし、存在できるわけではないからです。
そして、死ぬということが、生命がなくなることとも思いません。
私たちは常に変化するものであり、死もまた変化の1つに過ぎないと思うからです。
そういう意味では日々が死であり、誕生なのです。
生命とはこの世の全体、つまり宇宙全体であり、過去も現在も未来もあり続けるもの。
ただその姿を刻一刻変えながら、進化し続けるもの。
もしそうであるなら、生命は永遠であると言えます。
子孫を作るから永遠なのではありません。もともと生命が永遠なのです。
その永遠の生命の中で、増えもせず、減りもせず、絶え間なく変化を続けているのです。
そして私たちは、その生命の一部であり、生命を観察することができるものです。
他の動植物や鉱物などは、単に存在するだけですが、私たち人間は、生命を観察できます。
つまり自分自身について、客観的に考えることができます。
何のために?
私は、それこそが人間が創造者であることの証だと思うのです。
私たちは観察し、変えることができます。
変化は生命の常ですが、私たちは意図的に変えることができます。
私たちは共同で、この世を創っている。共同で、生命として生きているのです。
さて、もしそうだとしたら、何かが変わるでしょうか?
おそらく人は、バラバラだという認識を捨てるでしょう。
気に入らないから殺すとか、自分たちとは違うから殺すというような、無益な殺生はなくなるでしょう。
なぜなら、他人にすることは自分たちにすることだから。
口が自分と違うと言って鼻に噛みつかないように、他人を痛めつけることを喜ばなくなるでしょう。
それは、私たちの理想ではないのでしょうか?
もしそうなら、元になっている信念を変えることです。
私たちはバラバラな存在ではなく、ひとつのものだという信念に変えるのです。
行動するよりもまず、自分の信念を点検し、自分らしいものに変えるのです。
そうすれば、自ずとそれは思考として、言葉として、行動として現れるでしょう。
そして、それらによって、私たちはこの世を創るのです。
みなさんは生命って、何だと思いますか?
まあ、いきなりこんな抽象的な質問をされても、答えにくいでしょうね。
では、人は生命ですか?動物は?植物は?
「自然に成長するものは生命だよ。」
「いや、それらは生命が宿っているのであって、その物質的な塊が生命ってわけじゃないでしょう。」
たしかに、人や動物が死んだ後の死骸を、生きているときのものと同じとは言いがたいですよね。
では、刈り取った植物は?
「刈り取られても、また植えれば生えてくるから、まだ生命がなくなってはいないんじゃない?」
では、枯れてしまったらもう生命じゃない?クローン技術を使ったらどうでしょう?
細胞1つからでも元の生命体が復元できるとしたら、生命が朽ちるときって、いったいいつなのでしょうね?
細胞のすべてが死んだ時でしょうか?
ガイア理論というのがあります。
地球全体が、まるで1つの生命体であるかのように、恒常性を保っているというものです。
たしかに、地球上の生態系は不思議です。
たとえば二酸化炭素を必要とする植物が酸素を排出し、酸素を必要とする動物が二酸化炭素を排出するという、みごとなバランスがあります。
個別に見ても、花は虫によって受粉を助けられ、子孫を残すことができます。一方で虫は、花から蜜をもらうことで生きることを助けてもらっています。
1つ1つの生命体を切り離して生命を考えることもできますが、もっと大きな視点に立てば、その全体を生命と考えることもできるのです。
よく、自然は弱肉強食と言われます。
でも、本当にそうなのでしょうか?
肉食動物に襲われて生命を絶たれ、食べられてしまう。そのシーンを残酷と思うから、そのように考えるのではないでしょうか。
でも、別の見方もできると思います。
食物連鎖の上位に立つ動物は、その下位の動植物によって生命を支えられている。
つまり、弱いものを襲って好き放題にしているのではなく、弱いものがいてくれて生命の維持に必要な物を分け与えてくれるから、生きながらえているのだと。
自然界では、無用に相手を殺すことはありません。
ですから、弱者も生き残ることができます。
いえむしろ、弱者こそが生き残っているというべきでしょう。
そうして、全体としてはお互いに補完する関係を保っているのです。
昨夜、部屋の中でアリの行列を見つけました。体長1mmくらいの小さなアリです。
どうやらゴミ箱に捨てたアイスクリームの袋にたかっているようです。
「マンションの11階なんだけどなあ。本当に、タイはすごいよ。」
そう思いながら、私はティッシュでアリを拭きとりました。かわいそうと思いながらも。
そのとき、ふとこんな考えが湧いてきたのです。
アリは、その1匹1匹が生命体であると同時に、巣を作っている全体が1つの生命体じゃないのだろうか?
まるで本体が巣の中にあって、外に出て餌を探し回っているアリたちは触肢ですね。
もう部屋中、いたるところをくまなく這いまわっています。よく迷子にならないものだと、感心しますよ。
そして触肢が餌を発見すると、神経は本体に餌の在り処を伝えます。餌の在り処を伝えようとするアリの動きは、まさに神経ではありませんか。
その情報を本体が得ると、今度はその餌を捕獲するために手が動き出すのです。捕獲隊、出動です!
蜂もそうですが、働きアリは、それぞれに役目があるそうです。
そして、巣の中で休んでいるのが役目のアリもいるのだとか。
外で何か事故があって、たとえば誰かにティッシュで拭き取られるなどして大量に働きアリが死ぬと、休んでいたアリが働きアリとなって活動し始めるのです。
トカゲの尻尾切りじゃありませんが、一部が死ぬことを何とも思っていないかのように。
「なんか、こいつらすっげーなー!」と、妙に感心してしまいました。
アリが気になっている方のために言うと、拭きとったのはほんの一部です。
ゴミ箱の中のアリの餌になりそうなものを片づけ、とりあえず大量発生という状況だけはなくしました。
でも、相変わらずあちこちに這い回っているんですよね。
本を読んでいると本の角のあたりをチラチラと走り回ったり。まあ、かわいいと思えなくもありませんがね。
でも、自分の身体中を這い回っていると想像すると・・・。(^_^;)
さて、話を戻しましょう。
もし、生命というものが、個々の生命体で分断されたものではなく、全体を包み込んでいるものだとしたら、どうなるでしょうか?
私は、その可能性があると思います。と言うより、そうだと信じています。
アリですら、1つの生命のように生きるのです。
自然界は、共存共栄しているのです。
どうしてそれが、個々にバラバラなどということがあるでしょうか?
私は、ガイア理論を詳しく知っているわけではありませんが、地球全体というより、宇宙全体が生命だという方が的を射ている気がします。
地球は地球単独として存在しているわけではないし、存在できるわけではないからです。
そして、死ぬということが、生命がなくなることとも思いません。
私たちは常に変化するものであり、死もまた変化の1つに過ぎないと思うからです。
そういう意味では日々が死であり、誕生なのです。
生命とはこの世の全体、つまり宇宙全体であり、過去も現在も未来もあり続けるもの。
ただその姿を刻一刻変えながら、進化し続けるもの。
もしそうであるなら、生命は永遠であると言えます。
子孫を作るから永遠なのではありません。もともと生命が永遠なのです。
その永遠の生命の中で、増えもせず、減りもせず、絶え間なく変化を続けているのです。
そして私たちは、その生命の一部であり、生命を観察することができるものです。
他の動植物や鉱物などは、単に存在するだけですが、私たち人間は、生命を観察できます。
つまり自分自身について、客観的に考えることができます。
何のために?
私は、それこそが人間が創造者であることの証だと思うのです。
私たちは観察し、変えることができます。
変化は生命の常ですが、私たちは意図的に変えることができます。
私たちは共同で、この世を創っている。共同で、生命として生きているのです。
さて、もしそうだとしたら、何かが変わるでしょうか?
おそらく人は、バラバラだという認識を捨てるでしょう。
気に入らないから殺すとか、自分たちとは違うから殺すというような、無益な殺生はなくなるでしょう。
なぜなら、他人にすることは自分たちにすることだから。
口が自分と違うと言って鼻に噛みつかないように、他人を痛めつけることを喜ばなくなるでしょう。
それは、私たちの理想ではないのでしょうか?
もしそうなら、元になっている信念を変えることです。
私たちはバラバラな存在ではなく、ひとつのものだという信念に変えるのです。
行動するよりもまず、自分の信念を点検し、自分らしいものに変えるのです。
そうすれば、自ずとそれは思考として、言葉として、行動として現れるでしょう。
そして、それらによって、私たちはこの世を創るのです。
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