明日からソンクラーンです。
公務員は今日からお休みのようで、アロハシャツのようなソンクラーンらしい服を着た人が目立ちます。
知らない方のために説明すると、ソンクラーンとはタイ正月とも呼ばれるタイの重要な祭日で、毎年4月13日から15日までの3日間がお休みになります。
今年は土日と重なるため、16日(火)が振替休日となっています。
それに加え、政府が12日(金)も休みに決めたため、公務員は今日から5連休となります。
諸外国の人からすると正月と言うより、水掛け行事が行われる水掛け祭りとして知られていますね。
しかし、タイ人にとっては正月ですから、昨夜くらいから帰省ラッシュが発生しているようです。
このソンクラーン中に私は、妻の実家へ行くことになっています。
妻の実家は、タイ東北部のイサン地方と呼ばれるところにあります。
バンコクからロットゥーと呼ばれる乗合いバンで行けば安いのですが、10時間以上かかります。
それで私たちは、バンコクから途中のウドンタニーまで飛行機で行き、そこから車をチャーターして行くことにしています。
飛行機が約1時間、車が約2時間ですから、待ち時間も加えるとアパートから5〜6時間くらいで行けるでしょうか。
イサン地方は内陸部ですから、気温はバンコクより大きく変動します。
数年前に初めて行ったときは、ちょうどソンクラーンのときだったのですが、40度を超える最高気温に参りました。
あやうく熱射病になりそうでしたから。
今年は、天気予報を見る限り、気温が低いようです。
最高でも37度くらいで、あとは32〜35度くらいと低めのようです。
因みに15日(月)のバンコクの予想は、最低が24度で最高が28度。ほとんど気温が上がらない涼しい1日になりそうです。
妻の実家では、特に何もやることがないので、本を読んだり、ビールを飲んでごろごろしたりして過ごします。
携帯電話の電波状況があまりよくないため、おそらくインターネットはほとんどつながらないだろうと思います。
それに、そういうときぐらい、ネットのことは忘れてのんびりしたいものです。
数年前に行ったときは、ソンクラーンのお祭り行事を見に行こうと、近所の人たちと数台の車に分乗して向かいました。
ところが、その途中で1台が自損事故。
私が乗った車を猛スピードで追い越した後、スリップして立ち木に激突したのです。
ビールを飲んで運転していて、ハンドル操作を誤ったということなのでしょう。
後部座席に乗っていた妊娠中の女性が亡くなってしまいました。
そんなこともあったため、そのときは何らお祭り騒ぎのないソンクラーンでした。
今年は妻の兄弟が帰ってこないと言うことなので、私も飲み相手がいません。
1人でボーっとしているか、妻が友達と一緒に遊びに行くのに付き合わされるか、どっちかでしょうね。
1回くらいは、水掛け祭りの行事に連れて行かれるかもしれません。
財布や携帯電話をビニール袋に入れてしっかりとガードして、たっぷりと水を掛けられるのも悪くはありません。
と言うことで、戻ってくるまでこのブログも更新しません。また、メールをいただいても対応できません。
18日か19日には再開できると思いますので、しばらくお待ちください。
そのときは、田舎の様子を写真でお伝えできると思いますので。
ではそれまで、みなさんごきげんよう!
2013年04月12日
今の自分のままで素晴らしい
今日は、野澤卓央(のざわ・たくお)さんのブログを紹介しましょう。
「小さなコツ塾」を開いて、生きるためのコツを教える活動をされています。
私も毎日、野澤さんのメルマガを読んでいます。
昨日も読んだのですが、その内容が心に残りました。
同じ内容がブログにあるので、そちらをお読みください。
「自分を好きになるコツ」についてです。
野澤さん自身が、10年かけてやっと気がついたというもの。
そのコツを説明している部分を引用しましょう。
◆------------- 引用始め -------------◆
自分を認められず空回りする
自分を客観的に見てみると、
二つの勘違いを続けて
いたことが分かりました。
一つは、
何かを手にすることで
自分を認めようとしていた。
仕事で成功し地位や名誉、
お金を手に入れれば、
高級な家、車、服、時計が
手に入れば自分を認められる
だろうという勘違い。
もう一つは、
完璧な自分になったら自分を
認められるだろうという勘違い。
(中略)
この二つの”だろう”が大きな勘違いでした。
10年間、いくら努力しても
その先にゴールはありませんでした。
一番の近道は、
今のありのままの自分を受け入れ、
自分で認め、温かく育てていくこと。
それができるようになると、
現実が一気に好転していきました。
(中略)
結局、
今のありのままの自分を認め、
受け入れ、愛さないない限り、
何をしても、何を手に入れても
永遠に満たされることはない。
◆------------- 引用終り -------------◆
つまり、何か素晴らしい価値を得ることができれば、自分のことが受け入れられるようになると考えたのは、間違いだったと言うのです。
それは非常に遠回りで、近道は今の自分を、そのまま受け入れることだったのだと。
これは、「本物の自信」と同じことですよね。
自信というものも、何かが他人より優れているから得られる自信と、何の根拠もなく持っている自信の2種類があります。
そして前者を、私は「偽物の自信」と呼んでいます。
後者の「根拠のない自信」こそが、「本物の自信」です。
なぜなら、他者との比較によって得られた自信は、同様に他者との比較によって簡単に崩れるからです。
したがって、その自信を保持し続けようとすると、常に他者との競争に勝たなくてはなりません。
そのためにどうするか?
強迫観念に駆られたように、自分を進化させる努力をする。
あるいは、負けない相手とだけ競争するよう、対象となる他者を絞る。
前者は疲弊するでしょうし、後者は性格がねじ曲がります。
ですから、本物の自信を持たなくてはなりません。
本物の自信は、今の自分をそのまま受け入れることです。
そのままで、自分は素晴らしく価値のある存在だと認めることから生じる自信です。
これは文字通りです。
学校の成績が悪い自分を、足が短くて胴が長い不恰好な自分を、異性にモテない自分を、そのまま受け入れるということです。
受け入れるとは、「それでいいんだよ」と認めることです。
では、どうして、そんな無価値と思える状態の自分を、「それでいいんだよ」と認められるのでしょうか?
どう考えたら、そんなふうに思えるのでしょう?
その考え方がわからない限り、本物の自信は得られません。
よく考えてくださいね。
たとえば成績が悪いという自分ですが、それは単に事実です。
この場合、「悪い」というのは価値判断ですから、正確に言えば、成績がクラスで下から10番以内に居続ける自分ということでしょうか。
その事実を変えることはできませんが、その評価を変えることは可能です。
その事実を「悪い」と呼ぶこともできますが、「良い」と呼ぶことも可能なのです。
悪いと考えるのは簡単なので、良いと考える例をあげましょう。
たとえば、成績の順位は、2番がいるから1番がいるのです。
もちろん、全員が同点なら全員が1番でしょうけど、それでは順位をつける意味がありません。
順位をつける人が1番を喜ぶのは、2番以下の人がいるからです。
と言うことは、下位の人がいてくれるから、相対的に上位の人が優越感を得られているわけです。
つまり、上位の人が喜べるのは、下位の人のお陰です。
下位の人は上位の人を、喜ばせてあげたのです。
他人を喜ばせてあげられる人って、素敵じゃありませんか?
上位の人は下位の人に感謝すべきですね。
自虐ネタではありませんよ。
事実、そうではありませんか?
つまり、事実(=自分の属性)をどう価値判断するかは、自分が決めることです。
自分が受け入れやすいように、意味を与えたら良いのです。
そして、そうなると、事実そのものには大した価値はなく、それよりも、そこにどういう意味を与えるかが、より重要だと言えますよね。
もしそうなら、その意味を与えている存在、つまり自分そのものの価値がはるかに素晴らしいことになります。
現実がどうであろうと関係なく、そこに意味を与えられる自分。
その素晴らしい価値を認識するだけで、最大級の自信が得られるわけです。
「でも現実には、成績が悪かったら良い大学にも入れないし、良い会社にも就職できないでしょ!?」
それこそ考え方次第です。
何を良いと言い、何を悪いと呼ぶかです。
入れた大学を「良い大学」と考えればよいのだし、就職できなければ、他の道を行けという天の導きだと考えれば良いのです。
それに、仮にレベルの高い大学に進学し、大企業に就職したとしても、それがどうしたと言うのです?
「みんなから尊敬されるし、お金も入るから、幸せになれるじゃないか。」
果たして、そうでしょうか?
そこがそもそも考え違いなのですよ。
中卒で社長になり、納税額日本一になった斎藤一人さんもおられます。
昔なら松下幸之助さんも、バリ島の兄貴こと丸尾孝俊さんも高学歴ではありませんから。
「それは特殊な例でしょう。確率的には、やっぱり高学歴でないと...。」
「確率的に」と言いましたね。
そこに、間違った考え方(信念)が表れています。
つまり、そう言うことによって、自分の人生は確率的に他の要因によって決まると、自分で宣言したことになるのです。
自分が認めたということは、自分がその意味を与えたと言うことです。
だからあなたの人生は、確率的に他の要因で決まる人生なのです。
成績や学歴など、自分の成功や幸せとは何の関係もありません。
容姿の優劣も、自分の成功や幸せとは何の関係もありません。
それを自分で認めないから、認められなくなるような出来事を引き寄せてしまうのです。
自分の信念が、自分の人生を創造しているのですよ。
もうそろそろ、自分でも気づいているのではありませんか?
あなたは、ある事実が原因で自分のことが好きになれず、自信を持てないでいると考えていた。
そう考えているから、そうなのです。
逆に言えば、もしそう考えなかったら、そうではないと言うことです。
あなたの人生は、あなた自身が創造しているのです。
自分が創造した通りの人生を、あなたは体験しているのです。
つまり、あなたは創造者です。
それって、素晴らしくないですか?
自信を持てるようなことではありませんか?
さらに言えば、あなたは創造者でなくなることはできません。
誰にもその能力を奪う力はないのです。
ただあなた自身が、創造者でないフリをすることができるだけです。
創造者でないフリをしながら創造するから、自分が創造したものに驚いている。
自分のマジックだと忘れていて、そのマジックに驚いているマジシャンのようなものですね。
今までのあなたは、まさにそうだったのです。
いずれにせよ、そんなおちゃめなことまでするあなたは、なんと素晴らしい存在でしょう。
自分のこと、好きになれませんか?
自分のことを好きになり、受け入れ、自信を持つなら、意識して、意図的に創造できるようになります。
そういう生き方を、あなたに提案しているのです。
「小さなコツ塾」を開いて、生きるためのコツを教える活動をされています。
私も毎日、野澤さんのメルマガを読んでいます。
昨日も読んだのですが、その内容が心に残りました。
同じ内容がブログにあるので、そちらをお読みください。
「自分を好きになるコツ」についてです。
野澤さん自身が、10年かけてやっと気がついたというもの。
そのコツを説明している部分を引用しましょう。
◆------------- 引用始め -------------◆
自分を認められず空回りする
自分を客観的に見てみると、
二つの勘違いを続けて
いたことが分かりました。
一つは、
何かを手にすることで
自分を認めようとしていた。
仕事で成功し地位や名誉、
お金を手に入れれば、
高級な家、車、服、時計が
手に入れば自分を認められる
だろうという勘違い。
もう一つは、
完璧な自分になったら自分を
認められるだろうという勘違い。
(中略)
この二つの”だろう”が大きな勘違いでした。
10年間、いくら努力しても
その先にゴールはありませんでした。
一番の近道は、
今のありのままの自分を受け入れ、
自分で認め、温かく育てていくこと。
それができるようになると、
現実が一気に好転していきました。
(中略)
結局、
今のありのままの自分を認め、
受け入れ、愛さないない限り、
何をしても、何を手に入れても
永遠に満たされることはない。
◆------------- 引用終り -------------◆
つまり、何か素晴らしい価値を得ることができれば、自分のことが受け入れられるようになると考えたのは、間違いだったと言うのです。
それは非常に遠回りで、近道は今の自分を、そのまま受け入れることだったのだと。
これは、「本物の自信」と同じことですよね。
自信というものも、何かが他人より優れているから得られる自信と、何の根拠もなく持っている自信の2種類があります。
そして前者を、私は「偽物の自信」と呼んでいます。
後者の「根拠のない自信」こそが、「本物の自信」です。
なぜなら、他者との比較によって得られた自信は、同様に他者との比較によって簡単に崩れるからです。
したがって、その自信を保持し続けようとすると、常に他者との競争に勝たなくてはなりません。
そのためにどうするか?
強迫観念に駆られたように、自分を進化させる努力をする。
あるいは、負けない相手とだけ競争するよう、対象となる他者を絞る。
前者は疲弊するでしょうし、後者は性格がねじ曲がります。
ですから、本物の自信を持たなくてはなりません。
本物の自信は、今の自分をそのまま受け入れることです。
そのままで、自分は素晴らしく価値のある存在だと認めることから生じる自信です。
これは文字通りです。
学校の成績が悪い自分を、足が短くて胴が長い不恰好な自分を、異性にモテない自分を、そのまま受け入れるということです。
受け入れるとは、「それでいいんだよ」と認めることです。
では、どうして、そんな無価値と思える状態の自分を、「それでいいんだよ」と認められるのでしょうか?
どう考えたら、そんなふうに思えるのでしょう?
その考え方がわからない限り、本物の自信は得られません。
よく考えてくださいね。
たとえば成績が悪いという自分ですが、それは単に事実です。
この場合、「悪い」というのは価値判断ですから、正確に言えば、成績がクラスで下から10番以内に居続ける自分ということでしょうか。
その事実を変えることはできませんが、その評価を変えることは可能です。
その事実を「悪い」と呼ぶこともできますが、「良い」と呼ぶことも可能なのです。
悪いと考えるのは簡単なので、良いと考える例をあげましょう。
たとえば、成績の順位は、2番がいるから1番がいるのです。
もちろん、全員が同点なら全員が1番でしょうけど、それでは順位をつける意味がありません。
順位をつける人が1番を喜ぶのは、2番以下の人がいるからです。
と言うことは、下位の人がいてくれるから、相対的に上位の人が優越感を得られているわけです。
つまり、上位の人が喜べるのは、下位の人のお陰です。
下位の人は上位の人を、喜ばせてあげたのです。
他人を喜ばせてあげられる人って、素敵じゃありませんか?
上位の人は下位の人に感謝すべきですね。
自虐ネタではありませんよ。
事実、そうではありませんか?
つまり、事実(=自分の属性)をどう価値判断するかは、自分が決めることです。
自分が受け入れやすいように、意味を与えたら良いのです。
そして、そうなると、事実そのものには大した価値はなく、それよりも、そこにどういう意味を与えるかが、より重要だと言えますよね。
もしそうなら、その意味を与えている存在、つまり自分そのものの価値がはるかに素晴らしいことになります。
現実がどうであろうと関係なく、そこに意味を与えられる自分。
その素晴らしい価値を認識するだけで、最大級の自信が得られるわけです。
「でも現実には、成績が悪かったら良い大学にも入れないし、良い会社にも就職できないでしょ!?」
それこそ考え方次第です。
何を良いと言い、何を悪いと呼ぶかです。
入れた大学を「良い大学」と考えればよいのだし、就職できなければ、他の道を行けという天の導きだと考えれば良いのです。
それに、仮にレベルの高い大学に進学し、大企業に就職したとしても、それがどうしたと言うのです?
「みんなから尊敬されるし、お金も入るから、幸せになれるじゃないか。」
果たして、そうでしょうか?
そこがそもそも考え違いなのですよ。
中卒で社長になり、納税額日本一になった斎藤一人さんもおられます。
昔なら松下幸之助さんも、バリ島の兄貴こと丸尾孝俊さんも高学歴ではありませんから。
「それは特殊な例でしょう。確率的には、やっぱり高学歴でないと...。」
「確率的に」と言いましたね。
そこに、間違った考え方(信念)が表れています。
つまり、そう言うことによって、自分の人生は確率的に他の要因によって決まると、自分で宣言したことになるのです。
自分が認めたということは、自分がその意味を与えたと言うことです。
だからあなたの人生は、確率的に他の要因で決まる人生なのです。
成績や学歴など、自分の成功や幸せとは何の関係もありません。
容姿の優劣も、自分の成功や幸せとは何の関係もありません。
それを自分で認めないから、認められなくなるような出来事を引き寄せてしまうのです。
自分の信念が、自分の人生を創造しているのですよ。
もうそろそろ、自分でも気づいているのではありませんか?
あなたは、ある事実が原因で自分のことが好きになれず、自信を持てないでいると考えていた。
そう考えているから、そうなのです。
逆に言えば、もしそう考えなかったら、そうではないと言うことです。
あなたの人生は、あなた自身が創造しているのです。
自分が創造した通りの人生を、あなたは体験しているのです。
つまり、あなたは創造者です。
それって、素晴らしくないですか?
自信を持てるようなことではありませんか?
さらに言えば、あなたは創造者でなくなることはできません。
誰にもその能力を奪う力はないのです。
ただあなた自身が、創造者でないフリをすることができるだけです。
創造者でないフリをしながら創造するから、自分が創造したものに驚いている。
自分のマジックだと忘れていて、そのマジックに驚いているマジシャンのようなものですね。
今までのあなたは、まさにそうだったのです。
いずれにせよ、そんなおちゃめなことまでするあなたは、なんと素晴らしい存在でしょう。
自分のこと、好きになれませんか?
自分のことを好きになり、受け入れ、自信を持つなら、意識して、意図的に創造できるようになります。
そういう生き方を、あなたに提案しているのです。
2013年04月18日
イサン地方へ行って来ました
ソンクラーン休暇を利用して、4月13日から17日まで、妻の実家があるイサン地方(タイ東北部)へ行って来ました。
バンコクから飛行機でウドンタニーまで行き、そこから親戚の人の車に乗せてもらって約2時間の道のりです。
部屋を出たのが11時くらいで、妻の実家に到着したのはだいたい17時くらい。約6時間かかりました。
かかった時間より、でこぼこのある道とクッションの良くないピックアップ・トラックの後部座席ということで、けっこう疲れました。
妻の実家は、その地域の中心地から10kmくらいのところにある村落にあります。
大きなマンゴーの樹が通り沿いにあって、その裏手に親族の家が数軒あるという集落になっています。
通りは一応舗装されていますが、ちょっと行くとすぐに赤土の未舗装になります。
また舗装されていても、穴があちこちに空いていて、まったく修理されていません。
日本で言うなら、昭和40年代くらいでしょうか。
親族はその集落で、寄り添うようにして暮らしています。
親族の集落の中心には中庭があって、そこに茅葺きの東屋(あずまや)があります。
そこに親族がそれぞれ、カオニァオ(おこわ)とおかずを持ち寄って、食事をしています。
近くのマンゴーの樹には、たくさんの実がなっていました。
まったくの自然の中なので、蚊や蝿を始め、虫がたくさんいます。
そして壁には、ヤモリの一種のチンジョックがたくさんいて、明かりに寄ってくる虫を待っていました。
チンジョックは鳴きます。日本のヤモリは鳴かないので、最初に見たときは驚きましたね。
チンジョックは体長10cmくらいまでですが、それより大きい体長20cmくらいになるトッケーという種類のヤモリもいます。
こっちは「トッケー!」と鳴くので、わかりやすいですね。
また妻の実家では、豚を10頭くらい飼っています。
子どもを産ませて売るのですが、今は相場が良くないのだとか。
高く売れないからやめようと考えていると言っていました。
翌日、お寺へお参りに行きました。
このときも親族で出かけました。
写真は、お参りを済ませた後、仏像に水を掛けているところです。
子どもたちがいっぱいいるでしょう?子どもからお年寄りまでが、一緒になって暮らしているコミュニティーなのです。
日本のコミュニティーは崩壊し、仮にあっても老人ばかりという感じです。
しかしタイでは、子どもがたくさんいるコミュニティーが健在です。
そういうしっかりとしたコミュニティーがあって、みんなで助け合って生活しているようです。
お寺でお参りすると、白い糸を手首に巻いてもらいます。
日本でも昔はやったミサンガと同じで、自然に切れるのを待ちます。
この白い糸は、巻いてもらうだけでなく、巻いてあげることもまた、その人の幸せを祈る行為になります。
親族の中の長老に対して巻いてあげ、また今度は長老たちから巻いてもらう。
そんな行事も体験しました。
最終日は、親族10人くらいで、近くのノンカーイ県へ遊びに出かけました。
2時間くらいかけて到着したのは、大きな像があるミュージアムのようです。
仏教に関するものが数多くありました。
また、池には魚もいて、餌を買ってあげたりします。
これもまたタンブン(功徳を積む)なのです。
遊びの中でも、仏教が色濃く反映されているのだなと思いました。
その後、メコン川のほとりまで行き、水上レストランで食事をしました。
写真にある川の対岸は、もうラオスです。
渡し船も走っていましたが、本当に近いですね。
橋は、この近くに1つと、ずっと離れたナコンパノム県に1つの、合計2つしかありません。
日本では、周りはすべて海ですから、こうやって国境を目の前にするというのも、新鮮な体験ですね。
ちなみにこのとき、携帯電話はラオスの電波を拾っていて、タイにいるのにローミング状態になっていました。
自動的にローミングになるというのも、困ったものですね。
今回のイサン地方の写真は、Facebookのアルバムに40枚ほど載せています。
Facebookのアカウントがないと見られないかもしれませんが、興味のある方はこちらをご覧ください。
バンコクから飛行機でウドンタニーまで行き、そこから親戚の人の車に乗せてもらって約2時間の道のりです。
部屋を出たのが11時くらいで、妻の実家に到着したのはだいたい17時くらい。約6時間かかりました。
かかった時間より、でこぼこのある道とクッションの良くないピックアップ・トラックの後部座席ということで、けっこう疲れました。
妻の実家は、その地域の中心地から10kmくらいのところにある村落にあります。
大きなマンゴーの樹が通り沿いにあって、その裏手に親族の家が数軒あるという集落になっています。
通りは一応舗装されていますが、ちょっと行くとすぐに赤土の未舗装になります。
また舗装されていても、穴があちこちに空いていて、まったく修理されていません。
日本で言うなら、昭和40年代くらいでしょうか。
親族はその集落で、寄り添うようにして暮らしています。
親族の集落の中心には中庭があって、そこに茅葺きの東屋(あずまや)があります。
そこに親族がそれぞれ、カオニァオ(おこわ)とおかずを持ち寄って、食事をしています。
近くのマンゴーの樹には、たくさんの実がなっていました。
まったくの自然の中なので、蚊や蝿を始め、虫がたくさんいます。
そして壁には、ヤモリの一種のチンジョックがたくさんいて、明かりに寄ってくる虫を待っていました。
チンジョックは鳴きます。日本のヤモリは鳴かないので、最初に見たときは驚きましたね。
チンジョックは体長10cmくらいまでですが、それより大きい体長20cmくらいになるトッケーという種類のヤモリもいます。
こっちは「トッケー!」と鳴くので、わかりやすいですね。
また妻の実家では、豚を10頭くらい飼っています。
子どもを産ませて売るのですが、今は相場が良くないのだとか。
高く売れないからやめようと考えていると言っていました。
翌日、お寺へお参りに行きました。
このときも親族で出かけました。
写真は、お参りを済ませた後、仏像に水を掛けているところです。
子どもたちがいっぱいいるでしょう?子どもからお年寄りまでが、一緒になって暮らしているコミュニティーなのです。
日本のコミュニティーは崩壊し、仮にあっても老人ばかりという感じです。
しかしタイでは、子どもがたくさんいるコミュニティーが健在です。
そういうしっかりとしたコミュニティーがあって、みんなで助け合って生活しているようです。
お寺でお参りすると、白い糸を手首に巻いてもらいます。
日本でも昔はやったミサンガと同じで、自然に切れるのを待ちます。
この白い糸は、巻いてもらうだけでなく、巻いてあげることもまた、その人の幸せを祈る行為になります。
親族の中の長老に対して巻いてあげ、また今度は長老たちから巻いてもらう。
そんな行事も体験しました。
最終日は、親族10人くらいで、近くのノンカーイ県へ遊びに出かけました。
2時間くらいかけて到着したのは、大きな像があるミュージアムのようです。
仏教に関するものが数多くありました。
また、池には魚もいて、餌を買ってあげたりします。
これもまたタンブン(功徳を積む)なのです。
遊びの中でも、仏教が色濃く反映されているのだなと思いました。
その後、メコン川のほとりまで行き、水上レストランで食事をしました。
写真にある川の対岸は、もうラオスです。
渡し船も走っていましたが、本当に近いですね。
橋は、この近くに1つと、ずっと離れたナコンパノム県に1つの、合計2つしかありません。
日本では、周りはすべて海ですから、こうやって国境を目の前にするというのも、新鮮な体験ですね。
ちなみにこのとき、携帯電話はラオスの電波を拾っていて、タイにいるのにローミング状態になっていました。
自動的にローミングになるというのも、困ったものですね。
今回のイサン地方の写真は、Facebookのアルバムに40枚ほど載せています。
Facebookのアカウントがないと見られないかもしれませんが、興味のある方はこちらをご覧ください。
2013年04月19日
犬も歩けば棒に当たりますね
すでにブログに書いていますが、4月13日から妻の実家があるイサン地方へ行って来ました。
犬も歩けば棒に当たるではありませんが、何か行動をすると、いろいろと考えさせられることがあるものです。
まず、11時に部屋を出る前に、ベランダの鳩よけを完璧にしておきました。
すでに、テグス(釣り糸)を網の目のように張り巡らしています。
それでも鳩に侵入されたため、侵入が可能と思われる下部のテグスをさらに強化してありました。
それなのに、それなのに、また最近、鳩に侵入されたのです。(泣)
これはもう最下部のテグスを、かいくぐって侵入したとしか思えません。と言うことで、ベランダの最下部をシートで塞いだというわけです。
本当に、鳩のしつこさには参ります。たしかに、侵入が容易でなくなればなくなるほど、外敵からも身を守りやすくなります。
したがって、ちょっとでも侵入可能なところがあると、鳩はかっこうの避難場所と思うのでしょう。
昨年、入居時にはすでにいた鳩のヒナが巣立つのを待って、鳩の追い出し作戦を開始しました。
それから、延々と鳩との知恵比べが続いています。
もうこのくらいで勘弁してほしいのですけどね。
続いて、空港に到着してからのことです。
国内線ですから、チェックインを早々に済ませると、すぐに出発ゲートへ行きました。
表示にしたがってB7で待っていました。どうやらバスで駐機場まで行くようです。
背景がわかりやすいようにと思って身体を傾けたのですが、無駄な努力でしたね。(笑)
しばらくすると、何やらタイ語でアナウンスがありました。
すると妻がすかさず、「行くよ。B2に変わったんだって。」と言います。
「えっ、そうなの?」そんな反応しかできない私です。アナウンスなど、どうせ理解できないからと、はなから聞いていませんから。
私たちが立ち上がって歩き始めてから、やっと他の人たちも次々と立ち上がり始めました。
このときほど、妻と一緒で良かったなあと思ったことはありません。(冗談ですよ。いつもそう思ってますって。)
最後は、帰りの飛行機を待つウドンタニーの飛行場での事件です。
妻が唐突に、「私、あなたにマイ・ソン・ジャイ(無関心)だった?」と尋ねます。
その日の朝食のとき、東屋に連れだされたものの、しばらくして妻は家に入っていき、そのまま戻らなかったのです。
妻が取って来いと言うから持って来た携帯電話も置きっぱなしで。
すでにみんな食べ終わり、おばあさんが残っているだけ。デザートが入った器も残ったままです。
「この状況で私はどうしたらいいの?このままここにいるのもなんだし、これらを置きっぱなしで立ち去ったんじゃあ、さすがにまずいんだろうなあ。」
そう思ったので、デザートの器と、ペットボトルの水と、妻の携帯電話を抱えて家に戻り、勝手口から覗いて妻がいたので、そこにそれらを置いたのです。
すると妻が怒ったように言います。
「携帯電話は部屋に持って行ってよ。それくらいわからないの?」
なんだかなあ。せっかく気を利かせて持って来てあげたのに。それとも、あのまま放っておいたほうが良かったの?あなたが私を放っておいたように。
それでその後で、「あなたは私に対してマイ・ソン・ジャイ(無関心)だね。」と言ったのです。
それ以外にも、いろいろとあったのです。
タイ語は多少話せても、イサン語(イサン地方の方言)はさっぱりという私なのに、フォローしてくれずに放っておかれることが。
私が日本へ連れて行く時は、いつもそばに居て、すべきことがあれば教えてあげるし、「部屋へ行って休んでもいいんだよ」と、選択肢を示していますから。
そんな思いもあって、妻にそう言ったことを、空港まで来てから妻が持ち出してきたのです。
妻が無関心だと思うかどうかに関して、私は嘘をつきたくありませんでした。だから正直に、「あなたは無関心だった」と言ったのです。
最初は穏やかに話していた妻ですが、やはり癇に障ったようです。だんだんと口調が厳しくなります。
「どこが無関心?それから?他には?」
私は、それ以上のことを言ってもしょうがないと思ったので、「いろいろ」「もう覚えてない」と答えて、話を終わらせようとしたのです。
ついに妻は怒ったのですが、さすがに空港の待合室で声を荒げるようなことはできないと思ったのか、無言になってしまいました。
「あーあ、旅の最後がやっぱりこれか。よくあることとは言え、なんだかなあ。」
そう思いながら、私も一人の世界にこもりました。
最終的には、いつものように妻が私をひっぱたいて、機嫌を直してくれましたけどね。
でも、このことは私に、いろいろと考えさせるきっかけになりました。
そして最終的には、「妻が私に対して無関心で良かった」と、心から思ったのです。
この気持ちの変化については、メルマガ「SJ通信」で詳細を書きますね。ブログ非掲載で。
気になる方は、今日中にメルマガ「SJ通信」をご購読ください。m(__)m
無料ですし、いつでも解除できますから。(笑)
犬も歩けば棒に当たるではありませんが、何か行動をすると、いろいろと考えさせられることがあるものです。
まず、11時に部屋を出る前に、ベランダの鳩よけを完璧にしておきました。
すでに、テグス(釣り糸)を網の目のように張り巡らしています。
それでも鳩に侵入されたため、侵入が可能と思われる下部のテグスをさらに強化してありました。
それなのに、それなのに、また最近、鳩に侵入されたのです。(泣)
これはもう最下部のテグスを、かいくぐって侵入したとしか思えません。と言うことで、ベランダの最下部をシートで塞いだというわけです。
本当に、鳩のしつこさには参ります。たしかに、侵入が容易でなくなればなくなるほど、外敵からも身を守りやすくなります。
したがって、ちょっとでも侵入可能なところがあると、鳩はかっこうの避難場所と思うのでしょう。
昨年、入居時にはすでにいた鳩のヒナが巣立つのを待って、鳩の追い出し作戦を開始しました。
それから、延々と鳩との知恵比べが続いています。
もうこのくらいで勘弁してほしいのですけどね。
続いて、空港に到着してからのことです。
国内線ですから、チェックインを早々に済ませると、すぐに出発ゲートへ行きました。
表示にしたがってB7で待っていました。どうやらバスで駐機場まで行くようです。
背景がわかりやすいようにと思って身体を傾けたのですが、無駄な努力でしたね。(笑)
しばらくすると、何やらタイ語でアナウンスがありました。
すると妻がすかさず、「行くよ。B2に変わったんだって。」と言います。
「えっ、そうなの?」そんな反応しかできない私です。アナウンスなど、どうせ理解できないからと、はなから聞いていませんから。
私たちが立ち上がって歩き始めてから、やっと他の人たちも次々と立ち上がり始めました。
このときほど、妻と一緒で良かったなあと思ったことはありません。(冗談ですよ。いつもそう思ってますって。)
最後は、帰りの飛行機を待つウドンタニーの飛行場での事件です。
妻が唐突に、「私、あなたにマイ・ソン・ジャイ(無関心)だった?」と尋ねます。
その日の朝食のとき、東屋に連れだされたものの、しばらくして妻は家に入っていき、そのまま戻らなかったのです。
妻が取って来いと言うから持って来た携帯電話も置きっぱなしで。
すでにみんな食べ終わり、おばあさんが残っているだけ。デザートが入った器も残ったままです。
「この状況で私はどうしたらいいの?このままここにいるのもなんだし、これらを置きっぱなしで立ち去ったんじゃあ、さすがにまずいんだろうなあ。」
そう思ったので、デザートの器と、ペットボトルの水と、妻の携帯電話を抱えて家に戻り、勝手口から覗いて妻がいたので、そこにそれらを置いたのです。
すると妻が怒ったように言います。
「携帯電話は部屋に持って行ってよ。それくらいわからないの?」
なんだかなあ。せっかく気を利かせて持って来てあげたのに。それとも、あのまま放っておいたほうが良かったの?あなたが私を放っておいたように。
それでその後で、「あなたは私に対してマイ・ソン・ジャイ(無関心)だね。」と言ったのです。
それ以外にも、いろいろとあったのです。
タイ語は多少話せても、イサン語(イサン地方の方言)はさっぱりという私なのに、フォローしてくれずに放っておかれることが。
私が日本へ連れて行く時は、いつもそばに居て、すべきことがあれば教えてあげるし、「部屋へ行って休んでもいいんだよ」と、選択肢を示していますから。
そんな思いもあって、妻にそう言ったことを、空港まで来てから妻が持ち出してきたのです。
妻が無関心だと思うかどうかに関して、私は嘘をつきたくありませんでした。だから正直に、「あなたは無関心だった」と言ったのです。
最初は穏やかに話していた妻ですが、やはり癇に障ったようです。だんだんと口調が厳しくなります。
「どこが無関心?それから?他には?」
私は、それ以上のことを言ってもしょうがないと思ったので、「いろいろ」「もう覚えてない」と答えて、話を終わらせようとしたのです。
ついに妻は怒ったのですが、さすがに空港の待合室で声を荒げるようなことはできないと思ったのか、無言になってしまいました。
「あーあ、旅の最後がやっぱりこれか。よくあることとは言え、なんだかなあ。」
そう思いながら、私も一人の世界にこもりました。
最終的には、いつものように妻が私をひっぱたいて、機嫌を直してくれましたけどね。
でも、このことは私に、いろいろと考えさせるきっかけになりました。
そして最終的には、「妻が私に対して無関心で良かった」と、心から思ったのです。
この気持ちの変化については、メルマガ「SJ通信」で詳細を書きますね。ブログ非掲載で。
気になる方は、今日中にメルマガ「SJ通信」をご購読ください。m(__)m
無料ですし、いつでも解除できますから。(笑)
2013年04月20日
ブッダのことば
前に読んだ「池上彰と考える、仏教って何ですか?」で紹介されていた、世界最古のお経とされる「スッタニパータ」を翻訳した本(中村元訳)です。
ピンときたら迷わず買う。その信条に従って、すぐにネットで購入しました。
文庫本ですが、全部で450ページもあります。そのうち本文は241ページまでで、あとは注釈などになっています。
最初の方は、同じような文が繰り返されていて、正直に言うと「なに言っているんだろう?」と、チンプンカンプンな感じです。
総じて、読みやすいものではありません。
ただ、全体が弟子や修行者たちからの質問にブッダが答えるという形式になっていて、その当時の様子やブッダの人柄、暮らしぶりなどを、思い浮かべることができます。
まだ仏教という宗教とか教団が確立されておらず、バラモン教の修行者として行動するブッダの様子がわかります。
一部を引用しましょう。
ナーラカという修行者が出家して托鉢の行を行おうとしていて、その最上の境地をブッダに尋ねました。するとブッダは、こう答えたのです。
「村にあっては、罵られても、敬礼されても、平然とした態度で臨め。(罵られても)こころに怒らないように注意し、(敬礼されても)冷静に、高ぶらずにふるまえ。」
(中略)
「淫欲のことがらを離れ、さまざまの愛欲をすてて、弱いものでも、強いものでも、諸々の生きものに対して、敵対することもなく、愛著(あいじゃく)することもない。」
(中略)
「その聖者は托鉢にまわり歩いてから、林のほとりにおもむき、樹の根もとにとどまって、座につくべきである。」
「かれは思慮深く、瞑想に専念し、林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足すべきである。」
(中略)
「『(施しの食物を)得たのは善かった』『得なかったのもまた善かった』と思って、全き人はいずれの場合にも平然として還ってくる。あたかも(果実をもとめて)樹のもとに赴いた人が、(果実を得ても得なくても、平然として)帰ってくるようなものである。」
「かれは鉢を手にして歩き廻り、唖者ではないのに唖者と思われるようにするのだ。施物が少なかったからとて軽んじてはならぬ。施してくれる人を侮ってはならない。」
(p.153 - 154)
このように、いちいち丁寧に教え諭しています。
この中でブッダが、どんなことが起ころうとも「善かった」と考えるように言っています。
つまり、出来事を選り好みせず、良いものとして受け止めよということです。
2500年も前に、すでにそういう教えがあったのですね。
2013年04月22日
愛は何も必要としない
今、「神との対話」シリーズの「神との友情(上)」を精読しています。
その中に、愛について書かれていた部分を、今朝、読みました。
何度も何度も読んでいるのですが、そのたびに「なるほどなあ。そうなんだよなあ。」と思います。
その内容を紹介しようと思ったのですが、本が手元にない(自宅にあるので)ため、引用ができません。
それでも今日は、そのことについて書きたい気分なので、私なりに解釈したことを書こうと思います。
まず、愛することと必要性を、同じものとか似ているものと勘違いしている人が、とても多いと思います。
「I love you.」と言ったあとで、続けて「I need you.」と言うのは、もう定番ですよね。
「あなたが居ないと、私は生きていけないの。」
こんな殺し文句に、クラクラっとしてしまう男性も多いでしょう。(笑)
何を隠そう、私自身がそうでした。
必要とされたかったし、相手の愛を必要としていたのです。
しかし、それが愛だと勘違いしていたために、私たちの、いえ、私の愛は悲惨なものになったのです。
相手に対して、様々なものを求めました。優しさだったり、気遣いだったり、貞操観念だったり。
そして相手にも、私を必要とすることを求めました。
私が必要とされていないように感じると、不安になってこう言ったのです。
「もう、ぼくのことを愛していないの?」
この何かを必要とする考え方は、相手に負担を強います。
「私がこれだけ想っているんだから、その十分の一くらい応えてくれたっていいじゃないか。」
だいたい、そんな風に誰もが考えるのです。
「たまには電話してきてくれてもいいでしょ。いつも私から電話してばかり。私のこと、そんなに好きじゃないの?」
相手は動揺するでしょう。
「私の何がいけないと言うんだろう?そんなに悪いことをしたのかなあ?」
そして、相手を失うかもしれないという不安が大きいと、自分を偽って相手に合わせようとします。
しかしそれは、自分の自由が犠牲にされることですから、徐々に耐えられなくなるでしょう。そしていつか、爆発するのです。
不安がそれほど大きくない場合は、束縛しようとする相手に耐えられなくなるでしょう。
「うっとうしいなあ、いちいち。いいじゃないか、オレにはオレのやり方があるんだからさ。」
いずれにせよ、その愛は破局を迎えることになるのです。
何が間違っていたのでしょうか?
それは、愛だと思いながら、相手の何かを必要としたことです。
ただ必要なものを必要と考えるだけだったら、まだ問題が少なかったのです。
たとえば奥さんがご主人に、毎月の生活費をもらおうとする。
「あなた、今月の生活費をくださいな。それがないと、家族が生活していけないんだから。」
愛とかどうとか関係なく、家族のために生活費が必要だと言えば、特に問題にはならないのです。
けれども、必要性を感じることが愛であり、またそれに応えることが愛であると勘違いすると、とたんに問題が大きくなります。
「あなた!どうして生活費をくれないのよ!あなたの家族でしょ?家族のことを愛していないの?」
「もちろん愛しているさ。でも、いろいろ事情があるんだよ。ちょっとくらい待てないの?そのくらいのこと、愛があるなら何とかやりくりしろよ!」
愛は、何も必要としないものです。
なぜなら、愛は無制限だから。
何にも制限されないということは、自由だということです。
愛は、相手が幸せであることを望むのです。
もしそうだとしたら、どうして相手の何かを必要とするでしょうか?
相手が幸せなら、それで良いではありませんか?
相手が自分に優しくないとしても、相手がそれで幸せそうにしているなら、喜んでいられるはずです。
仮に相手が浮気をしたとしても、それで相手が楽しいのなら、それすら喜んでいられるはずです。
相手が自由で、自分らしく生きているなら、そのことを喜べる。それが愛なのです。
それを勘違いして、自分が幸せになるために相手の何かが必要だと思い、その必要なものを手に入れるために自分の愛を差し出そうとする。
そんな取引きを愛だと思っているから、上手く行かなくなるのです。
取引きなら取引きとして、きちんと契約書を交わせば良いのです。
具体的に、誤解がないように、すべてのことを決めて、契約すれば良いだけです。
仕事や商売では、そのようにしているではありませんか?
もしどちらかがその契約に違反すれば、定められたペナルティーが課されて、契約が破棄されるだけのことです。
死ぬだ殺すだなどと、ドロドロの状態になる必要性など、どこにもないのです。
すべては、愛と必要性を同じようなものと勘違いしていることが原因です。
ですから、その違いをハッキリとさせることが重要です。
自分は今、相手の何かを必要としているのだろうか?
その必要性がある限り、本当の意味で相手を愛することはできないのです。
その中に、愛について書かれていた部分を、今朝、読みました。
何度も何度も読んでいるのですが、そのたびに「なるほどなあ。そうなんだよなあ。」と思います。
その内容を紹介しようと思ったのですが、本が手元にない(自宅にあるので)ため、引用ができません。
それでも今日は、そのことについて書きたい気分なので、私なりに解釈したことを書こうと思います。
まず、愛することと必要性を、同じものとか似ているものと勘違いしている人が、とても多いと思います。
「I love you.」と言ったあとで、続けて「I need you.」と言うのは、もう定番ですよね。
「あなたが居ないと、私は生きていけないの。」
こんな殺し文句に、クラクラっとしてしまう男性も多いでしょう。(笑)
何を隠そう、私自身がそうでした。
必要とされたかったし、相手の愛を必要としていたのです。
しかし、それが愛だと勘違いしていたために、私たちの、いえ、私の愛は悲惨なものになったのです。
相手に対して、様々なものを求めました。優しさだったり、気遣いだったり、貞操観念だったり。
そして相手にも、私を必要とすることを求めました。
私が必要とされていないように感じると、不安になってこう言ったのです。
「もう、ぼくのことを愛していないの?」
この何かを必要とする考え方は、相手に負担を強います。
「私がこれだけ想っているんだから、その十分の一くらい応えてくれたっていいじゃないか。」
だいたい、そんな風に誰もが考えるのです。
「たまには電話してきてくれてもいいでしょ。いつも私から電話してばかり。私のこと、そんなに好きじゃないの?」
相手は動揺するでしょう。
「私の何がいけないと言うんだろう?そんなに悪いことをしたのかなあ?」
そして、相手を失うかもしれないという不安が大きいと、自分を偽って相手に合わせようとします。
しかしそれは、自分の自由が犠牲にされることですから、徐々に耐えられなくなるでしょう。そしていつか、爆発するのです。
不安がそれほど大きくない場合は、束縛しようとする相手に耐えられなくなるでしょう。
「うっとうしいなあ、いちいち。いいじゃないか、オレにはオレのやり方があるんだからさ。」
いずれにせよ、その愛は破局を迎えることになるのです。
何が間違っていたのでしょうか?
それは、愛だと思いながら、相手の何かを必要としたことです。
ただ必要なものを必要と考えるだけだったら、まだ問題が少なかったのです。
たとえば奥さんがご主人に、毎月の生活費をもらおうとする。
「あなた、今月の生活費をくださいな。それがないと、家族が生活していけないんだから。」
愛とかどうとか関係なく、家族のために生活費が必要だと言えば、特に問題にはならないのです。
けれども、必要性を感じることが愛であり、またそれに応えることが愛であると勘違いすると、とたんに問題が大きくなります。
「あなた!どうして生活費をくれないのよ!あなたの家族でしょ?家族のことを愛していないの?」
「もちろん愛しているさ。でも、いろいろ事情があるんだよ。ちょっとくらい待てないの?そのくらいのこと、愛があるなら何とかやりくりしろよ!」
愛は、何も必要としないものです。
なぜなら、愛は無制限だから。
何にも制限されないということは、自由だということです。
愛は、相手が幸せであることを望むのです。
もしそうだとしたら、どうして相手の何かを必要とするでしょうか?
相手が幸せなら、それで良いではありませんか?
相手が自分に優しくないとしても、相手がそれで幸せそうにしているなら、喜んでいられるはずです。
仮に相手が浮気をしたとしても、それで相手が楽しいのなら、それすら喜んでいられるはずです。
相手が自由で、自分らしく生きているなら、そのことを喜べる。それが愛なのです。
それを勘違いして、自分が幸せになるために相手の何かが必要だと思い、その必要なものを手に入れるために自分の愛を差し出そうとする。
そんな取引きを愛だと思っているから、上手く行かなくなるのです。
取引きなら取引きとして、きちんと契約書を交わせば良いのです。
具体的に、誤解がないように、すべてのことを決めて、契約すれば良いだけです。
仕事や商売では、そのようにしているではありませんか?
もしどちらかがその契約に違反すれば、定められたペナルティーが課されて、契約が破棄されるだけのことです。
死ぬだ殺すだなどと、ドロドロの状態になる必要性など、どこにもないのです。
すべては、愛と必要性を同じようなものと勘違いしていることが原因です。
ですから、その違いをハッキリとさせることが重要です。
自分は今、相手の何かを必要としているのだろうか?
その必要性がある限り、本当の意味で相手を愛することはできないのです。
2013年04月23日
まず最初に自分の在り方を決める
昨日に続いて、「神との対話」シリーズの「神との友情(上)」の内容から、ピンと来た部分を紹介したいと思います。
今日は本を持って来たので、ちゃんと引用できますからね。(笑)
ご覧のように、本の中は青線と赤線でびっしりです。これだけ線を引いてしまうと、すべて重要ということになって、あまり意味がないのかなあとも思います。(笑)
まあでも、線を引きながら、ときどき読み返しながら、いろいろ考えながら読んでいるのです。
そうすることによって、徐々に自分のものになっていくんですね。
今日、紹介したいのは、人生で何か困ったこととか、問題が起きた場合の対処法についてです。
人生は、実は自分が創造したものを体験する場だ、というのが前提です。
そしてその創造のツールとしては、思考、言葉、行動があります。私たちは、考えることによって、話したり書いたりすることによって、あるいは行動で示すことによって、自分の人生を創造しているのです。
しかしここで、もう1つの創造のツールを説明しています。
厳密に言えば、上記の創造のツールを使うのですが、それを上手に使うための方法と言えるでしょう。
さっそく引用しましょう。
「だから、何かについて困ったり、迷ったりしたら、そのことで頭を悩ませてはいけない。問題があるとき、それに心をわずらわせてはいけない。否定的なもの、否定的な力、否定的な感情にとりまかれていたら、そのことを理性で考えてはいけない。」
(中略)
「だから、「在る」状態に移りなさい。」
(中略)
「感じているのが、あなたが「いる」状態だ。感情は魂の言葉だと言わなかったかな?」
(中略)
「どの瞬間にも、あなたは何らかの状態で「いる」と言っている。どんな状態に「いる」のかを正確に教えてくれるのが感情だ。感情は嘘をつかない。嘘のつき方を知らないのだ。感情は、その瞬間のあなたの状態を正確に伝える。感情を変えるには、ただ、自分の「在り方」を変えればいい。」
(中略)
「感情は自分の在り方への反応だ。在り方はコントロールできる。」
このように、問題を理性的に解決しようとするのではなく、まず理想的な、自分がそう在りたいと思う在り方を選択しなさいと言うのです。
そのために自分の感情をしっかりと受け止め、自分が選択した在り方かどうかをチェックすることが重要になります。
そしてこれは、意識しているかどうかの違いがあるだけで、実は、人は常に在り方を選択することで人生を創造しているのだと言います。
ほとんどの人は自分が自分の現実を創造していることを忘れているから、自分の在り方に注意を払わないのだと。
だから、出来事に反応するだけの生き方になってしまうと説明します。
そこで、目覚めて、意識して、自分で在り方を選ぶ存在として生きるようにと励ますのです。
「あなたはいま、目覚めている。目覚めているというのは、ある状態だ。あなたは目覚めている「存在」だ。目覚めているあなたは、そのあとどんな「在り方」でも選べる。賢明であることも、すばらしい存在であることも選べる。同情的で理解あふれる存在であることも選べる。忍耐強く、寛容な存在であることも選べる。」
「ただ幸せであることを選ぶっていうのはだめですか。」
「選べるよ。」
「どうやって?どうすれば、そうなれますか。」
「何かをすれば、なれるのではない。ただ、そう在ればいい。」
「幸せを「しよう」と思ってはいけない。ただ、幸せで「いる」ことを選びなさい。あなたの行為のすべては、そこから生じる。そこから誕生する。あなたの「在り方」があなたの行為を生み出す。」
私たちは、出来事に反応したり、予想される出来事に反応して、幸せになったり、そうならなかったりすると思いがちです。
けれどもそうではないと断定します。出来事に反応したり、予想される出来事に反応して、まず自分の在り方を選んでいるのだと言うのです。
その在り方から感情が生まれているだけで、出来事から感情が生まれるわけではないのだと。
だから同じ状況にも関わらず、異なる反応を示す人がいるのだと言います。
それは、その出来事がそれぞれの人にとって、異なる意味を持っているからです。そしてその意味は・・・。
「何を意味するかは、自分が決めるのだよ!あなたが意味を与えるのだ。あなたが決めるまでは何の意味もない、そのことを覚えておきなさい。なにごとも、何の意味ももっていない。あなたの「在り方」から、意味が生じる。」
「どんなときでも、幸せでいることを選ぶのはあなただ。あるいは悲しんでいることを選ぶのもあなただ。怒っていること、おだやかでいること、寛容であること、悟りを開いていること、何でも選べる。あなたが選ぶのだ。あなたが。あなたの外にある何かではない。しかも、あなたは好きなように選べる。それが偉大な秘密だ。」
「あなたは、何かが起こる前にも、起こったあとと同様に「在り方」を選べる。だから、ただ体験するのではなく、自分の体験を自分で創造することができる。」
(p.228 - 233)
このように言って、ときには理性から離れ、考えないことを勧めます。
理性とは、現実にあることや想像したことをデータとしてインプットし、それを処理する働きを言います。
しかしその現実とか想像したことは、私たちが勝手に創った幻想であって、真実ではないのです。
ですからその幻想にとらわれないようにするためには、いったん理性の働きから離れることが重要なのだと。
困ったことや問題というのは、何か手を打たなければもっと大変なことになるような気がして、気持ちが焦ってしまいがちです。
つまり、一所懸命に理性を働かせようとします。
でも、そういうときだからこそ、逆に理性から離れて、望ましい在り方を選択することで、問題が解決された現実(幻想)を創造する方が近道だと言うのです。
まず「在り方(存在)」があって、それによって出来事に意味が与えられます。その意味から感情が生じるのです。
感情は思考を呼び、思考は言葉となり、言葉はついに行動になります。
こうして私たちは、自分の人生を創造していると言うのです。
もし、あなたが幸せになりたいのなら、まず幸せになることです。
つまり、幸せという在り方を選択する(決める)のです。
そうすれば、どんな出来事が起ころうとも、出来事はすべてニュートラルですから、そこに都合の良い意味を与えることができます。
その意味を受け入れることによって、幸せな感情が湧き起こるでしょう。
その幸せな感情を、あなたは表現したくなるはずです。こうして思考が生まれます。
その思考を育てれば言葉となり、行動となるでしょう。
誰かに優しい言葉かけてあげたり、親切にしたくなったりしませんか?
そのとき相手が感謝してくれなくても、あなたはそれほど不満に感じないはずです。
なぜなら、あなたの心はすでに満たされていたから。幸せで満たされていたからです。
あなたは今、本当の愛を知ったのです。本当の愛に生きたのです。
今日は本を持って来たので、ちゃんと引用できますからね。(笑)
ご覧のように、本の中は青線と赤線でびっしりです。これだけ線を引いてしまうと、すべて重要ということになって、あまり意味がないのかなあとも思います。(笑)
まあでも、線を引きながら、ときどき読み返しながら、いろいろ考えながら読んでいるのです。
そうすることによって、徐々に自分のものになっていくんですね。
今日、紹介したいのは、人生で何か困ったこととか、問題が起きた場合の対処法についてです。
人生は、実は自分が創造したものを体験する場だ、というのが前提です。
そしてその創造のツールとしては、思考、言葉、行動があります。私たちは、考えることによって、話したり書いたりすることによって、あるいは行動で示すことによって、自分の人生を創造しているのです。
しかしここで、もう1つの創造のツールを説明しています。
厳密に言えば、上記の創造のツールを使うのですが、それを上手に使うための方法と言えるでしょう。
さっそく引用しましょう。
「だから、何かについて困ったり、迷ったりしたら、そのことで頭を悩ませてはいけない。問題があるとき、それに心をわずらわせてはいけない。否定的なもの、否定的な力、否定的な感情にとりまかれていたら、そのことを理性で考えてはいけない。」
(中略)
「だから、「在る」状態に移りなさい。」
(中略)
「感じているのが、あなたが「いる」状態だ。感情は魂の言葉だと言わなかったかな?」
(中略)
「どの瞬間にも、あなたは何らかの状態で「いる」と言っている。どんな状態に「いる」のかを正確に教えてくれるのが感情だ。感情は嘘をつかない。嘘のつき方を知らないのだ。感情は、その瞬間のあなたの状態を正確に伝える。感情を変えるには、ただ、自分の「在り方」を変えればいい。」
(中略)
「感情は自分の在り方への反応だ。在り方はコントロールできる。」
このように、問題を理性的に解決しようとするのではなく、まず理想的な、自分がそう在りたいと思う在り方を選択しなさいと言うのです。
そのために自分の感情をしっかりと受け止め、自分が選択した在り方かどうかをチェックすることが重要になります。
そしてこれは、意識しているかどうかの違いがあるだけで、実は、人は常に在り方を選択することで人生を創造しているのだと言います。
ほとんどの人は自分が自分の現実を創造していることを忘れているから、自分の在り方に注意を払わないのだと。
だから、出来事に反応するだけの生き方になってしまうと説明します。
そこで、目覚めて、意識して、自分で在り方を選ぶ存在として生きるようにと励ますのです。
「あなたはいま、目覚めている。目覚めているというのは、ある状態だ。あなたは目覚めている「存在」だ。目覚めているあなたは、そのあとどんな「在り方」でも選べる。賢明であることも、すばらしい存在であることも選べる。同情的で理解あふれる存在であることも選べる。忍耐強く、寛容な存在であることも選べる。」
「ただ幸せであることを選ぶっていうのはだめですか。」
「選べるよ。」
「どうやって?どうすれば、そうなれますか。」
「何かをすれば、なれるのではない。ただ、そう在ればいい。」
「幸せを「しよう」と思ってはいけない。ただ、幸せで「いる」ことを選びなさい。あなたの行為のすべては、そこから生じる。そこから誕生する。あなたの「在り方」があなたの行為を生み出す。」
私たちは、出来事に反応したり、予想される出来事に反応して、幸せになったり、そうならなかったりすると思いがちです。
けれどもそうではないと断定します。出来事に反応したり、予想される出来事に反応して、まず自分の在り方を選んでいるのだと言うのです。
その在り方から感情が生まれているだけで、出来事から感情が生まれるわけではないのだと。
だから同じ状況にも関わらず、異なる反応を示す人がいるのだと言います。
それは、その出来事がそれぞれの人にとって、異なる意味を持っているからです。そしてその意味は・・・。
「何を意味するかは、自分が決めるのだよ!あなたが意味を与えるのだ。あなたが決めるまでは何の意味もない、そのことを覚えておきなさい。なにごとも、何の意味ももっていない。あなたの「在り方」から、意味が生じる。」
「どんなときでも、幸せでいることを選ぶのはあなただ。あるいは悲しんでいることを選ぶのもあなただ。怒っていること、おだやかでいること、寛容であること、悟りを開いていること、何でも選べる。あなたが選ぶのだ。あなたが。あなたの外にある何かではない。しかも、あなたは好きなように選べる。それが偉大な秘密だ。」
「あなたは、何かが起こる前にも、起こったあとと同様に「在り方」を選べる。だから、ただ体験するのではなく、自分の体験を自分で創造することができる。」
(p.228 - 233)
このように言って、ときには理性から離れ、考えないことを勧めます。
理性とは、現実にあることや想像したことをデータとしてインプットし、それを処理する働きを言います。
しかしその現実とか想像したことは、私たちが勝手に創った幻想であって、真実ではないのです。
ですからその幻想にとらわれないようにするためには、いったん理性の働きから離れることが重要なのだと。
困ったことや問題というのは、何か手を打たなければもっと大変なことになるような気がして、気持ちが焦ってしまいがちです。
つまり、一所懸命に理性を働かせようとします。
でも、そういうときだからこそ、逆に理性から離れて、望ましい在り方を選択することで、問題が解決された現実(幻想)を創造する方が近道だと言うのです。
まず「在り方(存在)」があって、それによって出来事に意味が与えられます。その意味から感情が生じるのです。
感情は思考を呼び、思考は言葉となり、言葉はついに行動になります。
こうして私たちは、自分の人生を創造していると言うのです。
もし、あなたが幸せになりたいのなら、まず幸せになることです。
つまり、幸せという在り方を選択する(決める)のです。
そうすれば、どんな出来事が起ころうとも、出来事はすべてニュートラルですから、そこに都合の良い意味を与えることができます。
その意味を受け入れることによって、幸せな感情が湧き起こるでしょう。
その幸せな感情を、あなたは表現したくなるはずです。こうして思考が生まれます。
その思考を育てれば言葉となり、行動となるでしょう。
誰かに優しい言葉かけてあげたり、親切にしたくなったりしませんか?
そのとき相手が感謝してくれなくても、あなたはそれほど不満に感じないはずです。
なぜなら、あなたの心はすでに満たされていたから。幸せで満たされていたからです。
あなたは今、本当の愛を知ったのです。本当の愛に生きたのです。
2013年04月24日
死を悼むことについて
先日、「ブッダのことば」という本を読みました。
世界最古のお経とされる「スッタニパータ」を翻訳した本(中村元訳)です。
この本を読んで私なりに感じた、仏教の考え方(教え)について書いてみたいと思います。
仏教では、この世は苦しみであると見ます。
生老病死の四苦があると言うのですが、その中の死について、同書ではこう書いています。
「この世における人々の命は、定まった相(すがた)なく、どれだけ生きられるか解らない。惨(いた)ましく、短くて、苦悩をともなっている。」
「生まれたものどもは、死を遁(のが)れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。」
「熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れがある。」
(中略)
「このように世間の人々は死と老いとによって害(そこな)われる。それ故に賢者は、世のなりゆきを知って、悲しまない。」
「汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。汝は(生と死の)両極を見きわめないで、いたずらに泣き悲しむ。」
「迷妄(めいもう)にとらわれ自己を害っている人が、もしも泣き悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。」
「泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。」
「みずから自己を害いながら、身は瘠(や)せて醜くなる。そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。」
「人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕(とら)われてしまったのだ。」
(中略)
「たとい人が百年生きようとも、あるいはそれ以上生きようとも、終には親族の人々から離れて、この世の生命を捨てるに至る。」
「だから(尊敬さるべき人)の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。」
(中略)
「己(おの)が悲嘆と愛執と憂いとを除け。己が楽しみを求める人は、己が(煩悩の)矢を抜くべし。」
「(煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。」
(八、矢,574 - 593,p.129 - 131)
まず、「死後、人はどうなるか?」ということを知らない、ということを指摘します。
「どうなるかわからないのに、何を悲しむのか?」と言うわけです。
これに関しては、「千の風になって」という歌(日本語詞・曲:新井満,歌:秋川雅史)が流行った時にも、私は思いました。
あの歌の歌詞は、誰が作ったかわからない(※)英語の詩(「Do not stand at my grave and weep」)です。死んだ人が残った人に、語りかける内容になっています。
※メアリー・フライ作とするのが有力とも言われている。
私はこの墓にはいない。千の風になって、自由に大空を飛び回っている。だから、あなたは私のことを思って泣かないで。
もし、死後がそういうものであるとするなら、死者は自由を得て喜んでいるのかもしれません。
それがわからないのに、勝手に想像して嘆き悲しむというのは、おかしなことではないでしょうか?
大好きな人ともう会えないという喪失感から、悲しみの感情を抱くことはあるでしょう。
けれども、死んだ人のために嘆き悲しむ必要はないと思うのです。
次に同書では、嘆き悲しむことは自分を害(そこな)うことだ、と指摘しています。
悲しんで何か得になるなら良いけれど、特にもならないのなら、愚かなことではないかと言うのです。
それでも嘆き悲しむのは、悲しみに執着しているのだと言います。
ですから、その執着から離れ、煩悩を捨てて、心の平安を得るようにと諭すのです。
現代の仏教、特に日本の仏教は、「葬式仏教」と揶揄されるように、深く人の死と関わりあっています。
しかし元々は、死んだ人には関わらない、というのが仏教のスタンスだったようです。
このことは、「池上彰と考える、仏教って何ですか?」に詳しく書かれてありました。
仏教が日本に伝わった当初は、庶民の宗教ではなく、貴族の宗教だったようです。
仏教界は権力を持ち、庶民の苦しみには見向きもしなかったのだとか。
そこで宗教改革ならぬ仏教界の異端児が何人も出てきて、「庶民の苦しみを救わなくて何が仏教か?」とばかりに、新興宗教を起こすのです。
それが念仏仏教である浄土宗や浄土真宗です。日蓮宗も、この頃ですね。
今では伝統的なこれらの宗派も、当時は異端の宗教だったのです。
生きている人は布施や修業によって成仏する方法があるのですが、死んでしまった人はどうにもなりません。
輪廻転生によって、前世の因果にに応じて、来世の生まれが決まるのです。
しかし、残された人は、死んでしまった愛する人が、少しでも良くなるようにと思います。
でも、死んでしまった人自身ではどうにもならない。何とか助けることができないものか?
そこで生まれたのが、葬式とか法事だったのです。
この世から一所懸命に応援することで、閻魔大王などによる死者の審判を、少しでも有利にしてあげることができる。
そう説明することで、新たな仏教は庶民の葬式に浸透していったのだとか。
一方、キリスト教などの一神教は、輪廻転生を認めません。
人の一生は1回限りで、死後は天国に召されるか、地獄に突き落とされるかです。
したがってキリスト教の葬式も、残された人々が神に祈って、天国に召されるようにと嘆願するのです。
しかしこれも、後付けのようです。
イエス・キリストは、「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」(マタイによる福音書8-22)と言って、父親の葬儀に参列しようとした人を諭しました。
父親の葬儀に出ることよりも、自分に付き従ってくることの方が、その人にとって有益だと言うことなのでしょう。
葬儀を取り扱わなかった昔の仏教と、通ずるものがあるように思います。
人の死は、私が言うまでもなく、必ずやってきます。誰かが「人は死亡率100%だ」と面白い言い方をしていましたが、まさにその通りです。
生まれた瞬間から、死に向かって歩んで行くというのが、私たちの人生です。
そんな人生に、いったいどんな意味があるのでしょうか?死が苦しみであり、避けたいものであるなら、生きることがいったい何になると言うのでしょう?
まさに、そこです。
死は、本当に苦しみでしょうか?避けなければならないものなのでしょうか?
死から戻ってきた人の話もありますが、明確ではないと言うのが正直なところです。
けれども、可能性を考えてみることはできます。
どうせ避けられないのなら、思い切って、楽しくなる選択肢を選ぶこともできるでしょう。
私は今、死ぬことは怖くありません。
たとえ肉体は滅ぶとしても、私は肉体ではなく、私の生命は永遠に生きると信じているからです。
輪廻転生によって、何度も何度も、この世に生まれてくるし、またあの世にいるときでさえ、幸せでいられると思っているからです。
ですから、誰の死も悼(いた)みません。
儀礼上、そういう表現はするとしても、心の中では、死を嘆き悲しんだりはしません。
なぜなら亡くなった愛する人を、悲しませるようなことはしたくないからです。
彼らは、私が悲しむことを必要としていません。彼らは自由で幸せだから、私から必要とされることを望まないのです。
彼らもまた、完全な愛なのですから。
世界最古のお経とされる「スッタニパータ」を翻訳した本(中村元訳)です。
この本を読んで私なりに感じた、仏教の考え方(教え)について書いてみたいと思います。
仏教では、この世は苦しみであると見ます。
生老病死の四苦があると言うのですが、その中の死について、同書ではこう書いています。
「この世における人々の命は、定まった相(すがた)なく、どれだけ生きられるか解らない。惨(いた)ましく、短くて、苦悩をともなっている。」
「生まれたものどもは、死を遁(のが)れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。」
「熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れがある。」
(中略)
「このように世間の人々は死と老いとによって害(そこな)われる。それ故に賢者は、世のなりゆきを知って、悲しまない。」
「汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。汝は(生と死の)両極を見きわめないで、いたずらに泣き悲しむ。」
「迷妄(めいもう)にとらわれ自己を害っている人が、もしも泣き悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。」
「泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。」
「みずから自己を害いながら、身は瘠(や)せて醜くなる。そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。」
「人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕(とら)われてしまったのだ。」
(中略)
「たとい人が百年生きようとも、あるいはそれ以上生きようとも、終には親族の人々から離れて、この世の生命を捨てるに至る。」
「だから(尊敬さるべき人)の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。」
(中略)
「己(おの)が悲嘆と愛執と憂いとを除け。己が楽しみを求める人は、己が(煩悩の)矢を抜くべし。」
「(煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。」
(八、矢,574 - 593,p.129 - 131)
まず、「死後、人はどうなるか?」ということを知らない、ということを指摘します。
「どうなるかわからないのに、何を悲しむのか?」と言うわけです。
これに関しては、「千の風になって」という歌(日本語詞・曲:新井満,歌:秋川雅史)が流行った時にも、私は思いました。
あの歌の歌詞は、誰が作ったかわからない(※)英語の詩(「Do not stand at my grave and weep」)です。死んだ人が残った人に、語りかける内容になっています。
※メアリー・フライ作とするのが有力とも言われている。
私はこの墓にはいない。千の風になって、自由に大空を飛び回っている。だから、あなたは私のことを思って泣かないで。
もし、死後がそういうものであるとするなら、死者は自由を得て喜んでいるのかもしれません。
それがわからないのに、勝手に想像して嘆き悲しむというのは、おかしなことではないでしょうか?
大好きな人ともう会えないという喪失感から、悲しみの感情を抱くことはあるでしょう。
けれども、死んだ人のために嘆き悲しむ必要はないと思うのです。
次に同書では、嘆き悲しむことは自分を害(そこな)うことだ、と指摘しています。
悲しんで何か得になるなら良いけれど、特にもならないのなら、愚かなことではないかと言うのです。
それでも嘆き悲しむのは、悲しみに執着しているのだと言います。
ですから、その執着から離れ、煩悩を捨てて、心の平安を得るようにと諭すのです。
現代の仏教、特に日本の仏教は、「葬式仏教」と揶揄されるように、深く人の死と関わりあっています。
しかし元々は、死んだ人には関わらない、というのが仏教のスタンスだったようです。
このことは、「池上彰と考える、仏教って何ですか?」に詳しく書かれてありました。
仏教が日本に伝わった当初は、庶民の宗教ではなく、貴族の宗教だったようです。
仏教界は権力を持ち、庶民の苦しみには見向きもしなかったのだとか。
そこで宗教改革ならぬ仏教界の異端児が何人も出てきて、「庶民の苦しみを救わなくて何が仏教か?」とばかりに、新興宗教を起こすのです。
それが念仏仏教である浄土宗や浄土真宗です。日蓮宗も、この頃ですね。
今では伝統的なこれらの宗派も、当時は異端の宗教だったのです。
生きている人は布施や修業によって成仏する方法があるのですが、死んでしまった人はどうにもなりません。
輪廻転生によって、前世の因果にに応じて、来世の生まれが決まるのです。
しかし、残された人は、死んでしまった愛する人が、少しでも良くなるようにと思います。
でも、死んでしまった人自身ではどうにもならない。何とか助けることができないものか?
そこで生まれたのが、葬式とか法事だったのです。
この世から一所懸命に応援することで、閻魔大王などによる死者の審判を、少しでも有利にしてあげることができる。
そう説明することで、新たな仏教は庶民の葬式に浸透していったのだとか。
一方、キリスト教などの一神教は、輪廻転生を認めません。
人の一生は1回限りで、死後は天国に召されるか、地獄に突き落とされるかです。
したがってキリスト教の葬式も、残された人々が神に祈って、天国に召されるようにと嘆願するのです。
しかしこれも、後付けのようです。
イエス・キリストは、「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」(マタイによる福音書8-22)と言って、父親の葬儀に参列しようとした人を諭しました。
父親の葬儀に出ることよりも、自分に付き従ってくることの方が、その人にとって有益だと言うことなのでしょう。
葬儀を取り扱わなかった昔の仏教と、通ずるものがあるように思います。
人の死は、私が言うまでもなく、必ずやってきます。誰かが「人は死亡率100%だ」と面白い言い方をしていましたが、まさにその通りです。
生まれた瞬間から、死に向かって歩んで行くというのが、私たちの人生です。
そんな人生に、いったいどんな意味があるのでしょうか?死が苦しみであり、避けたいものであるなら、生きることがいったい何になると言うのでしょう?
まさに、そこです。
死は、本当に苦しみでしょうか?避けなければならないものなのでしょうか?
死から戻ってきた人の話もありますが、明確ではないと言うのが正直なところです。
けれども、可能性を考えてみることはできます。
どうせ避けられないのなら、思い切って、楽しくなる選択肢を選ぶこともできるでしょう。
私は今、死ぬことは怖くありません。
たとえ肉体は滅ぶとしても、私は肉体ではなく、私の生命は永遠に生きると信じているからです。
輪廻転生によって、何度も何度も、この世に生まれてくるし、またあの世にいるときでさえ、幸せでいられると思っているからです。
ですから、誰の死も悼(いた)みません。
儀礼上、そういう表現はするとしても、心の中では、死を嘆き悲しんだりはしません。
なぜなら亡くなった愛する人を、悲しませるようなことはしたくないからです。
彼らは、私が悲しむことを必要としていません。彼らは自由で幸せだから、私から必要とされることを望まないのです。
彼らもまた、完全な愛なのですから。
2013年04月25日
「幸せの公式」7日間補講の紹介
無料メール講座「『幸せの公式』7日間補講」の紹介です。
以前からやろうと思っていたのですが、やっと動画を作ることができました。メール講座を紹介する内容です。
初めて何かをやろうとすると、なかなか大変ですね。
YouTubeに動画をアップするまで、そんなに簡単ではありませんでした。
考えてみれば、初めてワープロなるものが登場したとき、パソコンができたとき、インターネットが広まった時など、そういう技術に乗り遅れないようにしようとして、悪戦苦闘したものです。
そして50歳も過ぎて、今度は動画デビューです。(^^ゞ
動画をカメラで撮ることは簡単なのですが、そこにタイトルをつけたり編集するのが一苦労。
そしてカメラの動画ファイルのタイプを一般的なものに変換するのも、そう単純ではなかったのです。
最初はファイルタイプをMP4に変換したのですが、映像と音声が微妙にずれます。
それでAVIにして一致したのですが、今度は動画ファイルのサイズが異常に大きい。
YouTubeにアップしようとしたら、一晩たっても終わっておらず、チェックしたら途中で止まっていました。なんで?
それを今朝、やっとアップしたというわけです。
まだ慣れてないこともあって、表情は固いし、話す内容もカミカミだし、滑舌も悪いし・・・。
まあでも、ここからスタートです。大丈夫。だんだんと良くなりますって。(*^_^*)
と言うことで、記念すべき第1号の動画をご覧くださいね。
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それを今朝、やっとアップしたというわけです。
まだ慣れてないこともあって、表情は固いし、話す内容もカミカミだし、滑舌も悪いし・・・。
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と言うことで、記念すべき第1号の動画をご覧くださいね。
2013年04月27日
愛と罰
4月はソンクラーンの休暇などがあるので、勤務日が少なくなります。
それなのに、社員の昇給や昇進などのためにやらなくてはならない作業もあり、本業の方が忙しいのです。
今年は昇給・昇進を決めるのが遅れに遅れて、やっと今日、決まった次第です。
そのため、通常なら休みなのですが、総務のスタッフが出勤しています。
そういった本業の忙しさがあって、昨日はブログを更新できませんでした。
まあたまには、そういう日があってもいいでしょう。と、自分に甘くします。(^^)
さて、別に仕事に限りませんが、生きていれば、他人が思い通りに動かないことはよくあることです。
自分に何の影響もないのなら良いのですが、時には危害を加えられることもあるでしょう。
そういうとき、私たちはつい、他人を動かそうとしてしまいます。
その最たるものが罰です。
つまり、物理的に他人に影響を与えることで、他人の考え方や行動を強制しようとする試みです。
このことについて、今読んでいる「神との対話」シリーズの「神との友情(下)」には、以下のように書かれています。
先日まで「神との友情(上)を読んでいましたが、もうすでに「神との友情(下)」も4分の3くらい読み終わっています。
「それで罰を与えようとする。だが報復するため−−つまり「仕返し」するため−−に罰しても、あなたがたが創りたいという社会はできない。高度に進化した社会は、罰からはほとんど学べないことに気づいた。それよりも、結果のほうが良い教師であると考えたのだ。」
(中略)
「罰は人工的に創られた結果だ。結果は自然のなりゆきだ。」
「罰は、罰される者とはちがった価値観をもつ外部の誰かが強制する。結果は、自己が内部で体験するものだ。」
「罰とは、それは悪いことだという他者の決定で、結果とは、それはうまくいかないという自分自身の体験だ。意図した結果を生まないという体験だ。」
(中略)
「とはいえ、あなたがたの多くは子供を育てるときに、その手を使うがね。そして、あなたがたが考え出したいちばん重い罰とは愛を与えないことだ。子供に、「こんな態度をとったら愛してやらない」と言う。愛を与えたり、とりあげたりして、子供をしつけ、矯正し、支配し、つくりあげようとする。神は、決してそのようなことはしない。」
(中略)
「真の愛は決して出し惜しみをしたりしない。それこそが、全面的な愛だ。愛には、最も間違った行動さえも包みこむ力がある。それだけではない。どんな行動でも「間違っている」とは言わない。」
(p.101 - 103)
このように言って、罰は役に立たないと言います。
「間違っている」とか「悪い」ではなく、「役に立たない」のです。
私たちが願うような、平和で、愛にあふれた社会、人間関係を築こうと思うなら、「役に立たない」のだと。
では、まだ何もよくわからない子どもを、野放しにしておけば良いのでしょうか?
その疑問に対しては、子どもが成熟しているかどうかで、対応に違いがあると言います。
成熟しているなら、罰を与えてコントロールしようとするのではなく、体験させ、その結果を自分で受け止めさせることが「役に立つ」のです。
まだ成熟していない子どもについては、以下のように言います。
「まだ未熟な場合には、いちばん早く成熟に導く方法は、できるだけ早くから自分で選択する自由を与えることだ。」
「それが愛だ。愛は手放す。だが、あながたがよく愛と混同する、必要だという思いは反対だ。」
「必要だと思うとしがみつく。それが愛と必要だという思いを見分ける方法だよ。」
「愛は手放すが、必要だという思いはしがみつく。」
(p.104)
可能な限り自由にさせ、体験させることが愛なのです。
自分の都合(=自分の必要性)から相手の自由を奪うなら、それは愛ではありません。
世間体とかが気になって、子どもの行動を制限しようとするなら、それは必要性であって愛ではありません。
それなのに、そういう親に限って「あなたのために言っているのよ!」と言って、責任を子どもに押し付けるのです。
けれども子どもは、直感でその嘘を見抜きます。
そして、親が本当には愛していないことを感じます。
それでも親に愛されたい子どもは、2通りの作戦のうちのどちらかを選びます。
1つは面従腹背です。いわゆる「良い子」になるのです。
けれども、それは自分自身を偽ることですから、その辛さに耐えられず、いつかは破綻します。
もう1つは、反抗することです。駄々をこねたり、暴れたり。何としてでも自由と愛の両方を得たいともがくのです。
しかしこれも、そういう親に受け入れられることではないため、多くの場合は愛を失うのです。
同書では続けて、愛について語ります。
「期待を手放し、要求を手放し、愛する者に押しつける規則や規制を手放す。制約されていたら、愛されていることにはならない。全面的な愛ではない。」
「あなただってそうだ。自分を制約して全面的な自由を与えないなら、自分を全面的に愛していることにはならない。」
「だが、選択は制約ではないことを忘れないように。自分がした選択を、制約と呼んではいけない。子供たち、愛する者のすべてが良い選択ができるように、もっている情報のすべてを与えてやりなさい。」
「「良い」とは、望んだ結果が生まれるような選択、彼らが最も望む結果になるとわかっているような選択のことだ。つまり、幸せな人生だ。」
「そのために、あなたが知っていることを分かち合いなさい。あなたが理解したことを教えてやりなさい。だが、自分の考えやルール、選択をひとに押しつけてはいけない。ひとが、自分とちがう選択をしたからといって、愛を出し惜しみしてはいけない。それどころか、ひとが貧しい選択をしたと思うときこそ、愛を示してやりなさい。」
(p.104 - 105)
人はみな、自由なのです。
自分で自由に選択し、その結果を自分で体験し、それによって新たな自分を選びたいのです。
そのことを認め、励ましてやることが愛だと言うのです。
罰によって、他人を強制することは愛ではありません。
愛は、他人の自由を認め、受け入れ、喜んであげることです。
仮に他人が自分を害するような選択をした場合でも、自分自身の必要性を手放す度合いに応じて、それさえ受け入れることができるようになると言います。
そうなったら、本当に自由になれますね。
私たちは、どこまで自由になれるでしょうか?どこまで愛になれるでしょうか?
それは、私たち自身の考え方しだいです。
あなたは、どこまで幸せになりたいと思っていますか?
その考えが、あなたの自由を、愛を、制限から解き放つのです。
それなのに、社員の昇給や昇進などのためにやらなくてはならない作業もあり、本業の方が忙しいのです。
今年は昇給・昇進を決めるのが遅れに遅れて、やっと今日、決まった次第です。
そのため、通常なら休みなのですが、総務のスタッフが出勤しています。
そういった本業の忙しさがあって、昨日はブログを更新できませんでした。
まあたまには、そういう日があってもいいでしょう。と、自分に甘くします。(^^)
さて、別に仕事に限りませんが、生きていれば、他人が思い通りに動かないことはよくあることです。
自分に何の影響もないのなら良いのですが、時には危害を加えられることもあるでしょう。
そういうとき、私たちはつい、他人を動かそうとしてしまいます。
その最たるものが罰です。
つまり、物理的に他人に影響を与えることで、他人の考え方や行動を強制しようとする試みです。
このことについて、今読んでいる「神との対話」シリーズの「神との友情(下)」には、以下のように書かれています。
先日まで「神との友情(上)を読んでいましたが、もうすでに「神との友情(下)」も4分の3くらい読み終わっています。
「それで罰を与えようとする。だが報復するため−−つまり「仕返し」するため−−に罰しても、あなたがたが創りたいという社会はできない。高度に進化した社会は、罰からはほとんど学べないことに気づいた。それよりも、結果のほうが良い教師であると考えたのだ。」
(中略)
「罰は人工的に創られた結果だ。結果は自然のなりゆきだ。」
「罰は、罰される者とはちがった価値観をもつ外部の誰かが強制する。結果は、自己が内部で体験するものだ。」
「罰とは、それは悪いことだという他者の決定で、結果とは、それはうまくいかないという自分自身の体験だ。意図した結果を生まないという体験だ。」
(中略)
「とはいえ、あなたがたの多くは子供を育てるときに、その手を使うがね。そして、あなたがたが考え出したいちばん重い罰とは愛を与えないことだ。子供に、「こんな態度をとったら愛してやらない」と言う。愛を与えたり、とりあげたりして、子供をしつけ、矯正し、支配し、つくりあげようとする。神は、決してそのようなことはしない。」
(中略)
「真の愛は決して出し惜しみをしたりしない。それこそが、全面的な愛だ。愛には、最も間違った行動さえも包みこむ力がある。それだけではない。どんな行動でも「間違っている」とは言わない。」
(p.101 - 103)
このように言って、罰は役に立たないと言います。
「間違っている」とか「悪い」ではなく、「役に立たない」のです。
私たちが願うような、平和で、愛にあふれた社会、人間関係を築こうと思うなら、「役に立たない」のだと。
では、まだ何もよくわからない子どもを、野放しにしておけば良いのでしょうか?
その疑問に対しては、子どもが成熟しているかどうかで、対応に違いがあると言います。
成熟しているなら、罰を与えてコントロールしようとするのではなく、体験させ、その結果を自分で受け止めさせることが「役に立つ」のです。
まだ成熟していない子どもについては、以下のように言います。
「まだ未熟な場合には、いちばん早く成熟に導く方法は、できるだけ早くから自分で選択する自由を与えることだ。」
「それが愛だ。愛は手放す。だが、あながたがよく愛と混同する、必要だという思いは反対だ。」
「必要だと思うとしがみつく。それが愛と必要だという思いを見分ける方法だよ。」
「愛は手放すが、必要だという思いはしがみつく。」
(p.104)
可能な限り自由にさせ、体験させることが愛なのです。
自分の都合(=自分の必要性)から相手の自由を奪うなら、それは愛ではありません。
世間体とかが気になって、子どもの行動を制限しようとするなら、それは必要性であって愛ではありません。
それなのに、そういう親に限って「あなたのために言っているのよ!」と言って、責任を子どもに押し付けるのです。
けれども子どもは、直感でその嘘を見抜きます。
そして、親が本当には愛していないことを感じます。
それでも親に愛されたい子どもは、2通りの作戦のうちのどちらかを選びます。
1つは面従腹背です。いわゆる「良い子」になるのです。
けれども、それは自分自身を偽ることですから、その辛さに耐えられず、いつかは破綻します。
もう1つは、反抗することです。駄々をこねたり、暴れたり。何としてでも自由と愛の両方を得たいともがくのです。
しかしこれも、そういう親に受け入れられることではないため、多くの場合は愛を失うのです。
同書では続けて、愛について語ります。
「期待を手放し、要求を手放し、愛する者に押しつける規則や規制を手放す。制約されていたら、愛されていることにはならない。全面的な愛ではない。」
「あなただってそうだ。自分を制約して全面的な自由を与えないなら、自分を全面的に愛していることにはならない。」
「だが、選択は制約ではないことを忘れないように。自分がした選択を、制約と呼んではいけない。子供たち、愛する者のすべてが良い選択ができるように、もっている情報のすべてを与えてやりなさい。」
「「良い」とは、望んだ結果が生まれるような選択、彼らが最も望む結果になるとわかっているような選択のことだ。つまり、幸せな人生だ。」
「そのために、あなたが知っていることを分かち合いなさい。あなたが理解したことを教えてやりなさい。だが、自分の考えやルール、選択をひとに押しつけてはいけない。ひとが、自分とちがう選択をしたからといって、愛を出し惜しみしてはいけない。それどころか、ひとが貧しい選択をしたと思うときこそ、愛を示してやりなさい。」
(p.104 - 105)
人はみな、自由なのです。
自分で自由に選択し、その結果を自分で体験し、それによって新たな自分を選びたいのです。
そのことを認め、励ましてやることが愛だと言うのです。
罰によって、他人を強制することは愛ではありません。
愛は、他人の自由を認め、受け入れ、喜んであげることです。
仮に他人が自分を害するような選択をした場合でも、自分自身の必要性を手放す度合いに応じて、それさえ受け入れることができるようになると言います。
そうなったら、本当に自由になれますね。
私たちは、どこまで自由になれるでしょうか?どこまで愛になれるでしょうか?
それは、私たち自身の考え方しだいです。
あなたは、どこまで幸せになりたいと思っていますか?
その考えが、あなたの自由を、愛を、制限から解き放つのです。
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