最近のメルマガ「SJ通信」では、かなり過激だと思われる内容を書いています。
特に性的(セクシャル)な表現が過激だと思われるので、「(18禁)」とタイトルに入れ、そういうのを読みたくない方へ配慮しています。
私自身、これはちょっと過激だなあとは思うのですが、やはりここで遠慮していては私らしくないと思い、表現を緩めないようにしているのです。
こういう過激なメルマガを書くと、評価がはっきりとわかれますね。
メルマガの解除は、だいたいこういう過激なものを書いたあとに発生します。
その一方で、「良かった」という反応も、こういうメルマガの後の方が多いようです。
今回は、特に「良かった」という反応が多かったので、書いた本人が驚いています。
「別に共感されなくてもかまわない。ただ、私が真実だと思うことを、私の真実として語ろう。」
そういうつもりで書くのですが、それでも共感していただけると嬉しいですね。
感想を送ってくださった方もおられるので、その一部を紹介しましょう。
・Nさん
楽しく、学になります ありがとうございます。
・Rさん
いつも興味深く拝読させていただいております.
今までもやもやして,何とも府に落ちなかった性に対する幾つかの事柄が,今日の先生のメールで少し氷解しそうな気がします.
ありがとうございます.
・Fさん
いつも質の高いメルマガありがとうございます。今回の回は全くその通りと思います。
メルマガの最後にあるURLをクリックして、「良かった」と意思表示してくださったみなさん、そしてこのように感想を送ってくださったみなさん、どうもありがとうございました。
みなさんの励ましや応援は、私にとってブログやメルマガを書く力となります。
少しでも誰かの役に立っているのだと思うと、書きたいという意欲が増すのです。
ただ、共感していただくことは嬉しいのですが、そこに執着しないように考えています。
嬉しいからと言って執着すると、読者に媚びるようになります。
つまり私の真実を語るのではなく、読者ウケすることを書くようになってしまうのです。
商売的にはそれが王道かもしれませんが、私は、それは私らしいことではないと思うのです。
ですから、執着しないように心がけながら、これからもブログやメルマガを書いていくつもりです。
ところで、執着と言って思い浮かぶのは、幽霊ですよね。
ちょっとまだシーズンには早いかもしれませんが、タイはもう真夏ですから。
まあタイの場合、季節に関係なくお化けの映画がありますけどね。みんなピー(お化け)が大好きですから。
怖がるくせに、大好きなのです。怖いもの見たさでしょうか。
そのせいか、怖がらずにピーを見たいという欲求からか、ピーを題材にしたコメディーがけっこうあります。
今、上映されている「ピー・マーク・プラカノン」も、そんなコメディータッチの怪談です。
タイ人は、この映画を観て大爆笑するようで、そのヒットぶりがTVでも取り上げられていました。
劇場内で指さしながら大笑いする観客...。
あれっ、監視カメラの映像を、勝手にTV放映しちゃっていいの?ま、ここはタイですから、なんでもありですね。
と言うことで、いくら暗がりだからといって、おかしなことはしないようにしましょうね。
実際、変なことをしてて、捕まっちゃった人もいるようですから。
それはさておき、この映画の題材は、タイに昔から伝わる怪談「メー・ナーク」です。
好き合って駆け落ちした夫マークと妻ナーク。
しかし、マークが徴兵で出兵している間に、ナークは死んでしまいます。
マークが村に戻ると、死んだはずのナークが家にいます。
マークは村人が嘘をついたのだと信じず、幽霊のナークと生活するのです。
日本で言うなら、四谷怪談とか番町皿屋敷のような定番の怪談です。
それをコメディーにして、夫マークの視点で描いたものだそうです。
幽霊とかお化けを怖がるのは、世界中どこも同じかもしれませんね。
では、どうしてお化けが怖いのでしょうか?
実は私、今は幽霊とかお化けがまったく怖くないのです。
以前は怖がりで、夜中に1人でトイレに行けないほどだったのですが、最近はまったく平気です。
それでなぜ怖いのだろうと考えたのです。
幽霊は、執着心がとても強いのです。
もう執拗につきまといます。ストーカーと同じですね。
壁でもすり抜けてしまいますから、物理的に防ぐことができません。
何をされるかわからないという不安が、恐怖心を生み出しているのだと思います。
怪談を見ると、たいてい幽霊は人間を怖がらせて怖がらせて、最後は殺してしまいますよね。
でも、あれを観て私は思うのです。
「だったら最初からすぐに殺したらいいのに。」
殺すことが目的なら、さっさと殺したらいいと思うのですよ。
そうしたら、殺された人間も幽霊になりますから、今度は対等です。(笑)
と言うことは、幽霊の目的は殺すことではありません。
傷つけたいのではなく、愛されたいのです。
愛されたいという強い欲求が、愛への執着心が、「なんとかしてくれー!」という思いになってつきまとうのです。
そうだとしたら、愛してあげるしか方法はないのです。
愛するというのは、何も相手の欲求に応えることではありません。
相手を受け入れ、相手の自由を尊重し、相手が自由であることを喜んであげることです。
相手と意見が違っても、自分の意見を相手に押し付ける必要もないし、相手の意見を鵜呑みにする必要もないのです。
関心を持ちながら、無理に影響を与え合おうとはしない。
一見、無関心に見えるけれど、関心を持ち続けること。
それが、愛することだと思うのです。
それで相手が殺したいと言い、物理的に防ぐことができなかったなら、殺されるしか仕方ないではありませんか。
そう思っているので、私はもう幽霊が怖くないのです。
もし幽霊と出会ったなら、きっと出会う理由があると思うのです。
その体験を通じて、より自分らしい自分を表現する機会にしたい。
そう思うのです。
2013年04月01日
2013年04月02日
性善説か性悪説か
中学か高校か忘れましたが、古文だったか世界史だったかで、中国の思想について習いました。
その中に、性善説と性悪説というものがありました。
覚えてますか?
性善説は孟子が唱えたものです。一方の性悪説は、それに対する反論として荀子が唱えたものだそうです。
性善説とは、人は生まれつき善だが、成長すると悪行を学ぶというもの。
一方の性悪説はその逆で、人は生まれつき悪だが、成長すると善行を学ぶというもの。
つまり、いずれも人は成長したら善行も悪行も行うということを言っているのです。
世間によくある誤解は、性善説は「人の本性は善だから信じるべき」で、性悪説は「人の本性は悪だから疑うべき」だというものだそうですね。
性善説でも性悪説でも、信じるべきか疑うべきかとは関係がない、というのが本当の意味だそうです。
もともとは孟子の前には、人によって性が善の人もいれば悪の人もいるという説があって、それへの対案として、孟子は性善説を唱えたのだそうです。
それはさておき、孟子によると、人には四端の心という善の兆しが先天的に備わっているのだそうです。
四端の心とは、以下の4つの心です。(Wikipedia「性善説」より)
・惻隠:他者の苦境を見逃せない「忍びざる心」、
憐れみの心 → 仁
・羞悪:不正を羞恥する心 → 義
・辞譲:謙譲の心 → 礼
・是非:善悪を分別する心 → 智
これらの善の兆しの心を磨くことで、それぞれ仁義礼智という徳を備えることが可能になり、君子になるのだと言います。
惻隠の情の説明では、井戸に落ちそうな子どもを見つけたら、自分のことはさておいてでも駆けつけるのが人と言うものだ、という説明がありました。
つまり、自分の命とかもお構いなく、他者を助けようとするのが人の本性だと言うのです。
このことに関して、「神との対話」シリーズではちょっと違った解釈があります。
そもそも善とか悪などという固定的で絶対的な基準はない、というのが基本的な立場です。
何を善と呼び、何を悪と呼ぶかは人それぞれで、時代や地域によって異なるものだからです。
絶対的な善悪の価値観があるのではなく、それぞれの人が自分の価値観を選択することによって、自分とはどんな存在なのかを表明するのだとしています。
では、人の本性をどう考えるのかについて、「神との対話B」に上記の惻隠の情に関連するような記述があったので、そこを引用しましょう。
キリスト教などでは「原罪」と言って、人は生まれながらに罪を背負っているという考え方があります。つまり、人間の本性は「悪」だと言うわけです。そしてそこから、「適者生存」という考えが生まれ、強者(あるいは神の眼鏡に適った善い人)でなければ生き残れないという考えが生まれると言います。
「仲間を助けるためにはできるだけのことをするが、しかし自分自身の生存が問題になったら、まず自分のことを考える。そのためには、ひとを死なせもする。それどころか、自分や自分の仲間が生き延びるために必要だと思えば、他者を−−たぶん「弱者」を−−殺害する。それでこそ、「適者」だと。」
(中略)
「「基本的な本能」が「生存」にあるなら、そして、基本的な性質が「悪」なら、転落しそうな子供や溺れかけたひとを本能的に助けたりはしないだろう。ところが本能のままに行動するときは、どうしようかとは考えない。たとえ、自分の身が危うくなっても助ける。」
「したがって、あなたがたの「基本的」な本能が「生存」でないことも明らかだ。本能も性質も、あなたが何者であるかを、つまり公平と、ひとつであることと、愛を反映している。」
(p.282)
このあと、「公平」という言葉について、「平等」との違いを持ち出して説明します。
そこは省略しますが、要は基本的な暮らしを保証した上での機会の平等が公平だと言うことです。
話を戻すと、善悪という価値観ではなく、「ひとつのもの」「公平」「愛」が私たちの本性だと言っています。
これは、「神=生命=愛=すべて=ひとつのもの」という、「神との対話」シリーズを貫く1つの考え方からすると、当然の帰結かもしれません。
「ひとつのもの」が、自分のすべてを体験的に知るために分割し、忘却によって相対的な世界を創ったとしています。
そうであるから、私たちは「自分らしくない」自分を選択することもできます。
私たちには何でも選択できる自由があるからです。
その自由によって、私たちは何かを選択します。
そして、「これは自分だ」と言うものを「善」と呼び、「あれは自分じゃない」と言うものを「悪」と呼ぶのです。
「人は自分の価値観においては間違ったことはしない」という考えも、ここから来ています。
したがって、ナチスのヒトラーも、本人の価値観にしたがえば悪行をしたのではなく、善行をしたと言うのです。
「なんとかしてくれ!」というドイツ国民の要請に、ヒトラーは応えたのです。だから支持され、あのようなことができたのです。
つまり、当時のドイツの人たちの心が、ヒトラー現象を創ったのだとも言えます。そしてまた、当時の世界の人たちの心が、ドイツの人たちをそういう方向へ追いやったのだとも。
実際私たちは、何が善で何が悪だかはっきりしない出来事に、遭遇することがよくあります。
自分は良かれと思ってやったことが、あとになって周りの状況が見えてくると、なんだか良くないことのように見えてくる。
ですから善か悪かは相対的なものであり、状況が変われば、またその価値観も変わるのです。
そういう体験を通じて、私たちは常により「自分らしい」ことを表現するチャンスが与えられます。
つまり、人生に起こる出来事、問題というのは、すべてより自分らしい自分を表現するチャンス(機会)なのです。
以前が最高に良いと思っても、さらに素晴らしい自分になれるチャンスです。
ですから、悪を批判しないようにと言います。
善と悪は相対的なものです。したがって、悪があるから善も存在できるのですから。
それを悪と判断すること、つまり何を善と呼び、何を悪と呼ぶかは、最高の自己の表明として行うべきことです。
つまり悪は、批判して叩き潰す対象ではなく、単に未熟なのだから、助けて引き上げてあげる対象なのだと言うのです。
私はこの「神との対話」の考え方が好きです。
何か絶対的な善があると考えると、私たちの自由は消えてしまうからです。
どうしてもそこには、したがわされる自分という存在が生じるし、自由を奪われた心には恨みが芽生えるからです。
子どものころ私は、保育園の先生の机の上に、キャラメルが1個置かれているのを見つけました。
おそらく何も考えずに、私はそれを取り上げ、口の中に放り込んだのです。
帰り支度をするとき、口をモグモグしている私を見て、先生は私がキャラメルをつまみ食いしたことに気づきました。
そして軽く、たしなめるくらいのことをしたのだと思います。
その時初めて私は、「なんでそんなことをしたのだろう」と、自分の行為を振り返り、反省したのです。
ただ自分の肉体的な欲求を満たすことしか頭に浮かばなかった。
それが誰のものだとか、取ったら泥棒だと非難されるだとか、まったく考えなかったのです。
私の肉体だけのことを考えれば、美味しいものを見つけて食べることは、善であることに違いありません。
けれども、周りの状況が見えてきたとき、その行為は悪に変わったのです。
私は、自身のそういう経験を愛します。
そういう経験があるから、私はどうすることがより私らしいかを、体験的に知ることができたのですから。
今では、その悪と感じる行為をしたことを、私は良かったと思っています。
ですから、自分の悪も、そして他人の悪も、批判したいとは思いません。
私たちの本性は、「善」でも「悪」でもなく、「愛」なのです。
その愛の素晴らしさを体験するために、私たちは本性が愛であることを忘れた。
今、私たちは「愛」に戻る道を歩んでいるのだし、「愛」であることを思い出そうとしています。
私もそうだし、あなたもそう。そして他のすべての人がそうなのです。
だとしたら、どうしてその途上にあることを批判したり、非難する必要性があるでしょうか?
手を取り合って、助けあって、共に喜びながら帰り道を歩けば良いではありませんか。
般若心経の最後には、みんなで手を取り合って喜んで進みましょう、とあるのですから。
幼い頃、母を迎えに行った私たち兄弟姉妹は、母と一緒に手をつないで、童謡「七つの子」を歌いながら帰りました。
何もなかったけど、楽しかった。
みんなで一緒に我が家へ帰る道は、ただそれだけで楽しいものです。
私たちの人生とは、そういうものではないかと思うのです。
その中に、性善説と性悪説というものがありました。
覚えてますか?
性善説は孟子が唱えたものです。一方の性悪説は、それに対する反論として荀子が唱えたものだそうです。
性善説とは、人は生まれつき善だが、成長すると悪行を学ぶというもの。
一方の性悪説はその逆で、人は生まれつき悪だが、成長すると善行を学ぶというもの。
つまり、いずれも人は成長したら善行も悪行も行うということを言っているのです。
世間によくある誤解は、性善説は「人の本性は善だから信じるべき」で、性悪説は「人の本性は悪だから疑うべき」だというものだそうですね。
性善説でも性悪説でも、信じるべきか疑うべきかとは関係がない、というのが本当の意味だそうです。
もともとは孟子の前には、人によって性が善の人もいれば悪の人もいるという説があって、それへの対案として、孟子は性善説を唱えたのだそうです。
それはさておき、孟子によると、人には四端の心という善の兆しが先天的に備わっているのだそうです。
四端の心とは、以下の4つの心です。(Wikipedia「性善説」より)
・惻隠:他者の苦境を見逃せない「忍びざる心」、
憐れみの心 → 仁
・羞悪:不正を羞恥する心 → 義
・辞譲:謙譲の心 → 礼
・是非:善悪を分別する心 → 智
これらの善の兆しの心を磨くことで、それぞれ仁義礼智という徳を備えることが可能になり、君子になるのだと言います。
惻隠の情の説明では、井戸に落ちそうな子どもを見つけたら、自分のことはさておいてでも駆けつけるのが人と言うものだ、という説明がありました。
つまり、自分の命とかもお構いなく、他者を助けようとするのが人の本性だと言うのです。
このことに関して、「神との対話」シリーズではちょっと違った解釈があります。
そもそも善とか悪などという固定的で絶対的な基準はない、というのが基本的な立場です。
何を善と呼び、何を悪と呼ぶかは人それぞれで、時代や地域によって異なるものだからです。
絶対的な善悪の価値観があるのではなく、それぞれの人が自分の価値観を選択することによって、自分とはどんな存在なのかを表明するのだとしています。
では、人の本性をどう考えるのかについて、「神との対話B」に上記の惻隠の情に関連するような記述があったので、そこを引用しましょう。
キリスト教などでは「原罪」と言って、人は生まれながらに罪を背負っているという考え方があります。つまり、人間の本性は「悪」だと言うわけです。そしてそこから、「適者生存」という考えが生まれ、強者(あるいは神の眼鏡に適った善い人)でなければ生き残れないという考えが生まれると言います。
「仲間を助けるためにはできるだけのことをするが、しかし自分自身の生存が問題になったら、まず自分のことを考える。そのためには、ひとを死なせもする。それどころか、自分や自分の仲間が生き延びるために必要だと思えば、他者を−−たぶん「弱者」を−−殺害する。それでこそ、「適者」だと。」
(中略)
「「基本的な本能」が「生存」にあるなら、そして、基本的な性質が「悪」なら、転落しそうな子供や溺れかけたひとを本能的に助けたりはしないだろう。ところが本能のままに行動するときは、どうしようかとは考えない。たとえ、自分の身が危うくなっても助ける。」
「したがって、あなたがたの「基本的」な本能が「生存」でないことも明らかだ。本能も性質も、あなたが何者であるかを、つまり公平と、ひとつであることと、愛を反映している。」
(p.282)
このあと、「公平」という言葉について、「平等」との違いを持ち出して説明します。
そこは省略しますが、要は基本的な暮らしを保証した上での機会の平等が公平だと言うことです。
話を戻すと、善悪という価値観ではなく、「ひとつのもの」「公平」「愛」が私たちの本性だと言っています。
これは、「神=生命=愛=すべて=ひとつのもの」という、「神との対話」シリーズを貫く1つの考え方からすると、当然の帰結かもしれません。
「ひとつのもの」が、自分のすべてを体験的に知るために分割し、忘却によって相対的な世界を創ったとしています。
そうであるから、私たちは「自分らしくない」自分を選択することもできます。
私たちには何でも選択できる自由があるからです。
その自由によって、私たちは何かを選択します。
そして、「これは自分だ」と言うものを「善」と呼び、「あれは自分じゃない」と言うものを「悪」と呼ぶのです。
「人は自分の価値観においては間違ったことはしない」という考えも、ここから来ています。
したがって、ナチスのヒトラーも、本人の価値観にしたがえば悪行をしたのではなく、善行をしたと言うのです。
「なんとかしてくれ!」というドイツ国民の要請に、ヒトラーは応えたのです。だから支持され、あのようなことができたのです。
つまり、当時のドイツの人たちの心が、ヒトラー現象を創ったのだとも言えます。そしてまた、当時の世界の人たちの心が、ドイツの人たちをそういう方向へ追いやったのだとも。
実際私たちは、何が善で何が悪だかはっきりしない出来事に、遭遇することがよくあります。
自分は良かれと思ってやったことが、あとになって周りの状況が見えてくると、なんだか良くないことのように見えてくる。
ですから善か悪かは相対的なものであり、状況が変われば、またその価値観も変わるのです。
そういう体験を通じて、私たちは常により「自分らしい」ことを表現するチャンスが与えられます。
つまり、人生に起こる出来事、問題というのは、すべてより自分らしい自分を表現するチャンス(機会)なのです。
以前が最高に良いと思っても、さらに素晴らしい自分になれるチャンスです。
ですから、悪を批判しないようにと言います。
善と悪は相対的なものです。したがって、悪があるから善も存在できるのですから。
それを悪と判断すること、つまり何を善と呼び、何を悪と呼ぶかは、最高の自己の表明として行うべきことです。
つまり悪は、批判して叩き潰す対象ではなく、単に未熟なのだから、助けて引き上げてあげる対象なのだと言うのです。
私はこの「神との対話」の考え方が好きです。
何か絶対的な善があると考えると、私たちの自由は消えてしまうからです。
どうしてもそこには、したがわされる自分という存在が生じるし、自由を奪われた心には恨みが芽生えるからです。
子どものころ私は、保育園の先生の机の上に、キャラメルが1個置かれているのを見つけました。
おそらく何も考えずに、私はそれを取り上げ、口の中に放り込んだのです。
帰り支度をするとき、口をモグモグしている私を見て、先生は私がキャラメルをつまみ食いしたことに気づきました。
そして軽く、たしなめるくらいのことをしたのだと思います。
その時初めて私は、「なんでそんなことをしたのだろう」と、自分の行為を振り返り、反省したのです。
ただ自分の肉体的な欲求を満たすことしか頭に浮かばなかった。
それが誰のものだとか、取ったら泥棒だと非難されるだとか、まったく考えなかったのです。
私の肉体だけのことを考えれば、美味しいものを見つけて食べることは、善であることに違いありません。
けれども、周りの状況が見えてきたとき、その行為は悪に変わったのです。
私は、自身のそういう経験を愛します。
そういう経験があるから、私はどうすることがより私らしいかを、体験的に知ることができたのですから。
今では、その悪と感じる行為をしたことを、私は良かったと思っています。
ですから、自分の悪も、そして他人の悪も、批判したいとは思いません。
私たちの本性は、「善」でも「悪」でもなく、「愛」なのです。
その愛の素晴らしさを体験するために、私たちは本性が愛であることを忘れた。
今、私たちは「愛」に戻る道を歩んでいるのだし、「愛」であることを思い出そうとしています。
私もそうだし、あなたもそう。そして他のすべての人がそうなのです。
だとしたら、どうしてその途上にあることを批判したり、非難する必要性があるでしょうか?
手を取り合って、助けあって、共に喜びながら帰り道を歩けば良いではありませんか。
般若心経の最後には、みんなで手を取り合って喜んで進みましょう、とあるのですから。
幼い頃、母を迎えに行った私たち兄弟姉妹は、母と一緒に手をつないで、童謡「七つの子」を歌いながら帰りました。
何もなかったけど、楽しかった。
みんなで一緒に我が家へ帰る道は、ただそれだけで楽しいものです。
私たちの人生とは、そういうものではないかと思うのです。
2013年04月03日
久しぶりに寝坊しました
昨夜は、タイに来て以来の友人と、久しぶりに焼き鳥屋で会食しました。
もう12年になります。
お互いに、10年以上も同じところで暮らしているなんて、田舎以来のことだみたいなことを話して、この10年を懐かしみました。
そのせいでもありませんが、昨夜は夜中の2時くらいから明け方5時くらいまで、ほとんど眠れませんでした。
この日も暑くて室温が34度くらいだったのですが、23時くらいには扇風機をつけてベッドで横になりました。
しかし2時前くらいに、暑くて目が覚めました。
それで、エアコンを27度で1時間後に切れるように設定したのです。
ところが、身体の上側の表面は冷えるものの、ベッド側が冷えません。
何度も何度も寝返りをしていたら、1時間が過ぎてしまいました。
空気は冷えてきているので、今度は28度で1時間に設定したのですが、うまくシグナルが飛ばなかったようです。
1時間を過ぎてもエアコンがつきっぱなしだったのに気づいて、手動で切りました。
4時を過ぎたころ、明らかに気温が下がって寝苦しさがなくなったので、そのうち眠るだろうと思ってウトウトしていました。
そして目が覚めたら長針が30分くらいだったので、7時半の目覚ましが鳴るころだと思って起き、携帯電話の時間を見たらびっくりです。
なんと8時25分です。いつもは8時半に部屋を出るので、完全に寝坊でした。
おそらく寝室のドアを閉めていたため、リビングに置いた携帯電話の目覚ましの音が聞こえなかったのでしょう。
あわててヒゲを剃り、シャワーを浴び、着替えて部屋を出たのが8時35分でした。
我ながら、なんと素早い準備でしょう。
お陰で遅刻せずに済みました。 (^^ゞ
こんなとき、以前だったらまったく違った心情だったと思います。
「うわっ、なんで目覚ましが鳴らないんだよ!?ちくしょう、暑くてエアコンをかけたためにドアを閉めて、それで聞こえなかったんだ。なんでこんなに寝苦しいくらいに暑くなるんだよー!?」
もうすべて、周りのせいです。(笑)
目覚まし時計を設定している携帯電話をリビングに置いておくのは、目覚ましのアラームがうるさいと妻が言ったからです。
きっとそのことも取り上げて、妻が悪いと、妻のせいにしたかもしれません。
そして機嫌を悪くして、自分がいかにツイていないかと言って、運命を呪うのでしょう。
冷静に考えれば、すべて私に原因があります。
エアコンをかけてドアを閉めたなら、そのとき携帯電話をベッドルームへ入れても良かったのです。
あるいは、外気温が下がったとわかった時点で、寝室のドアを開けても良かったのです。
方法はいくらでもあったはず。
でも今は、こんなことで苛立ったりはしません。
まず思ったのはこうです。
「うわぁ、ラッキーだった。8時25分なら、10分くらいで着替えられるから、遅刻せずに行けそうだ。目覚ましが聞こえなくてもこの時間に目覚めて、本当に良かったよ。」
そして、どのくらいで部屋を出られるか、自分への挑戦だと思って急いで準備することを楽しんだのです。
暑くて寝苦しかった時も、嫌な気分にはなりませんでした。
眠れないなら、この眠れない状況を楽しもうと思ったのです。
その日あったことを反芻してみたり、これから起こりそうなことを想像して楽しんだり。
そんなふうに今あるがままで満足し、心穏やかに余裕を持っていられるのも、日頃の努力の賜物だと思います。
今日、「「原因」と「結果」の法則B」を読み終えました。これから最後の4冊目に入ります。
3冊目の本には、最後の方(p.186 - 191)に満足することについて書かれていました。
それによると、満足すべきものと満足すべきでないものがあるが、それを混同するから満足することに対して、良いとか悪いなど、相反する評価があると言うのです。
そして、満足すべきことは次の3つだと言います。
@自分の人生内で発生するすべてのこと
A自分がいま所持しているもの
B自分がめぐらす清らかな思い。
これらは満足することによって、「悲しみや落胆から」、「不安や不幸から」、「自らを苦悩に陥れる、けがれた思いから」、それぞれ「自由になる」と言うのです。
一方、満足してはならないものにも、以下の3つがあると言います。
@自分の知識
A自分の人格
B自分の知恵
これらに満足すると、進化や成長が止まってしまうのです。
ですから、「真の満足を感じている人たちは、精力的かつ勤勉に働き、あらゆる結果を、増加した知恵や知識とともに、穏やかな心で受け入れ」ると言います。
「足るを知る」とよく言われますよね。
現状に満足しなさいというわけです。
しかし、これに対して「現状に満足したら進歩しなくなるじゃないか?」という反論があることも知られています。
そのことについて、すでに100年以上前に答が与えられていたのですね。
自分の人生で起きた出来事や、今現在、持っているものについては、それで充分だと満足すべきだと言います。
けれども、自分の知識や知恵、人格といった成長するものに関しては、現状で満足してはならないと。
今の現実は、過去の自分の思考の結果です。
結果に対して文句を言っても、その結果を変えることはできません。
変えるべきは起きてしまった結果ではなく、それを引き起こした原因である思考です。
そう考えて研鑽を積むなら、より大きな自分を表現できるようになります。
昨日より今日、今日より明日と、日々成長していく自分を見るのは楽しいことです。
そういう成長の過程にあるのだとわかれば、穏やかな気持ちでいられます。
そして、出来事はすべて自分の成長のための最適な条件だとわかれば、それらを満足して受け入れることもできるでしょう。
寝苦しいほど暑かったのも、明け方まで眠れなくて寝坊したのも、すべて私にとって良いことです。
それを満足して受け入れるから、私は穏やかな心でいられるのです。
もう12年になります。
お互いに、10年以上も同じところで暮らしているなんて、田舎以来のことだみたいなことを話して、この10年を懐かしみました。
そのせいでもありませんが、昨夜は夜中の2時くらいから明け方5時くらいまで、ほとんど眠れませんでした。
この日も暑くて室温が34度くらいだったのですが、23時くらいには扇風機をつけてベッドで横になりました。
しかし2時前くらいに、暑くて目が覚めました。
それで、エアコンを27度で1時間後に切れるように設定したのです。
ところが、身体の上側の表面は冷えるものの、ベッド側が冷えません。
何度も何度も寝返りをしていたら、1時間が過ぎてしまいました。
空気は冷えてきているので、今度は28度で1時間に設定したのですが、うまくシグナルが飛ばなかったようです。
1時間を過ぎてもエアコンがつきっぱなしだったのに気づいて、手動で切りました。
4時を過ぎたころ、明らかに気温が下がって寝苦しさがなくなったので、そのうち眠るだろうと思ってウトウトしていました。
そして目が覚めたら長針が30分くらいだったので、7時半の目覚ましが鳴るころだと思って起き、携帯電話の時間を見たらびっくりです。
なんと8時25分です。いつもは8時半に部屋を出るので、完全に寝坊でした。
おそらく寝室のドアを閉めていたため、リビングに置いた携帯電話の目覚ましの音が聞こえなかったのでしょう。
あわててヒゲを剃り、シャワーを浴び、着替えて部屋を出たのが8時35分でした。
我ながら、なんと素早い準備でしょう。
お陰で遅刻せずに済みました。 (^^ゞ
こんなとき、以前だったらまったく違った心情だったと思います。
「うわっ、なんで目覚ましが鳴らないんだよ!?ちくしょう、暑くてエアコンをかけたためにドアを閉めて、それで聞こえなかったんだ。なんでこんなに寝苦しいくらいに暑くなるんだよー!?」
もうすべて、周りのせいです。(笑)
目覚まし時計を設定している携帯電話をリビングに置いておくのは、目覚ましのアラームがうるさいと妻が言ったからです。
きっとそのことも取り上げて、妻が悪いと、妻のせいにしたかもしれません。
そして機嫌を悪くして、自分がいかにツイていないかと言って、運命を呪うのでしょう。
冷静に考えれば、すべて私に原因があります。
エアコンをかけてドアを閉めたなら、そのとき携帯電話をベッドルームへ入れても良かったのです。
あるいは、外気温が下がったとわかった時点で、寝室のドアを開けても良かったのです。
方法はいくらでもあったはず。
でも今は、こんなことで苛立ったりはしません。
まず思ったのはこうです。
「うわぁ、ラッキーだった。8時25分なら、10分くらいで着替えられるから、遅刻せずに行けそうだ。目覚ましが聞こえなくてもこの時間に目覚めて、本当に良かったよ。」
そして、どのくらいで部屋を出られるか、自分への挑戦だと思って急いで準備することを楽しんだのです。
暑くて寝苦しかった時も、嫌な気分にはなりませんでした。
眠れないなら、この眠れない状況を楽しもうと思ったのです。
その日あったことを反芻してみたり、これから起こりそうなことを想像して楽しんだり。
そんなふうに今あるがままで満足し、心穏やかに余裕を持っていられるのも、日頃の努力の賜物だと思います。
今日、「「原因」と「結果」の法則B」を読み終えました。これから最後の4冊目に入ります。
3冊目の本には、最後の方(p.186 - 191)に満足することについて書かれていました。
それによると、満足すべきものと満足すべきでないものがあるが、それを混同するから満足することに対して、良いとか悪いなど、相反する評価があると言うのです。
そして、満足すべきことは次の3つだと言います。
@自分の人生内で発生するすべてのこと
A自分がいま所持しているもの
B自分がめぐらす清らかな思い。
これらは満足することによって、「悲しみや落胆から」、「不安や不幸から」、「自らを苦悩に陥れる、けがれた思いから」、それぞれ「自由になる」と言うのです。
一方、満足してはならないものにも、以下の3つがあると言います。
@自分の知識
A自分の人格
B自分の知恵
これらに満足すると、進化や成長が止まってしまうのです。
ですから、「真の満足を感じている人たちは、精力的かつ勤勉に働き、あらゆる結果を、増加した知恵や知識とともに、穏やかな心で受け入れ」ると言います。
「足るを知る」とよく言われますよね。
現状に満足しなさいというわけです。
しかし、これに対して「現状に満足したら進歩しなくなるじゃないか?」という反論があることも知られています。
そのことについて、すでに100年以上前に答が与えられていたのですね。
自分の人生で起きた出来事や、今現在、持っているものについては、それで充分だと満足すべきだと言います。
けれども、自分の知識や知恵、人格といった成長するものに関しては、現状で満足してはならないと。
今の現実は、過去の自分の思考の結果です。
結果に対して文句を言っても、その結果を変えることはできません。
変えるべきは起きてしまった結果ではなく、それを引き起こした原因である思考です。
そう考えて研鑽を積むなら、より大きな自分を表現できるようになります。
昨日より今日、今日より明日と、日々成長していく自分を見るのは楽しいことです。
そういう成長の過程にあるのだとわかれば、穏やかな気持ちでいられます。
そして、出来事はすべて自分の成長のための最適な条件だとわかれば、それらを満足して受け入れることもできるでしょう。
寝苦しいほど暑かったのも、明け方まで眠れなくて寝坊したのも、すべて私にとって良いことです。
それを満足して受け入れるから、私は穏やかな心でいられるのです。
2013年04月04日
ただじっとしているのもいい
何をどうすれば良いのか、自分ではまったくわからなかった。
何の気力も起こらず、ただ寝て、起きて、また眠くなるのを待つ日々。
起きて誰かと話をしても、たわいもない話をしているときはいい。
でもいつかは、「今のままじゃいけないよ。」という話題になってくる。
そうすると、自分が責められているような気持ちになって、とても辛くなった。
その辛さは、いつまでも私の心の中に残り、私を責め続けた。
だからその辛さから逃げるために、没頭するものを探した。
通常なら1回100円するゲームセンターのゲームが、そこは1回50円でできた。
古い機種だからだろう。昔やったことがあるようなゲームばかり。
「4回200円までにしておこう。」
最初はそんなことを思うのだが、それで終わるはずがない。
1度行けば、最低でも500円は使ってしまう。それで終われば良い方で、結局は最初に両替した1000円すべてを使ってしまうのだ。
親からもらう月に2万円の仕送りが、そうやってゲーム代に消えていった。
「こんなことやっていても何にもならないのに・・・。」
そう頭ではわかっていても、どうにもならなかった。
そんな引きこもりの日々は、いったいどのくらい続いたのだろう。
1年だったか、2年だったか。
将来に何の希望も見出だせなかったが、このままじゃいけないということだけはわかっていた。
「もういい。すべて捨てて、まっさらな状態からやり直そう。」
そう考えたとき、なんだか力が湧いてきた。
今から思えば、捨てる決意をするために、時間が必要だったのだと思う。
もちろん時間をかけずに済むなら、その方が良いのだろうけど。
でも、逆を言えば、時間をかけさえすれば何とかなるとも言えるわけだ。
猛烈な吹雪の中では、下手に歩き回らない方がいい。
同じように人生においても、木枯らしが吹き荒れているときは、身体を丸めてうずくまっているだけで良いのかもしれない。
自暴自棄になって転げ落ちるよりは、じっとしていた方がいい。
そうすれば、いつかは変わりたいという欲求が芽生えてくるから。
細木数子さんの六星占術が流行ったとき、私も自分を占ってみた。
木星人マイナス。
理詰め、几帳面、我慢強い、対人関係が不得手、大器晩成型、策士。そして、「石橋を叩いても渡らない」ほど慎重。
私が自覚している性格が、ピッタリ当たっていた。
そしてその占いによれば、大殺界の時は下手に動くなとのこと。
残念ながら、その引きこもっているときは大殺界ではなかったので、そういう意味では占いが当たったとは言えない。
でも、大殺界のとき、つまり人生で八方塞がりの時は、動かない方が良いというアドバイスは当たっているように思う。
ジタバタしたってどうにもならないときは、ジタバタするなってこと。
大丈夫、何とかなるから。そう思って、嵐が過ぎ去るのを待つ他ない。
「生きてさえいれば、何とかなるから。」
NHKのドラマ「開拓者たち」で、主人公のハツが口癖のように言っていた言葉が、なぜか心に響いた。
きっと私も、そういう体験をしてきたから、その記憶が思い起こされたのだろう。
何の気力も起こらず、ただ寝て、起きて、また眠くなるのを待つ日々。
起きて誰かと話をしても、たわいもない話をしているときはいい。
でもいつかは、「今のままじゃいけないよ。」という話題になってくる。
そうすると、自分が責められているような気持ちになって、とても辛くなった。
その辛さは、いつまでも私の心の中に残り、私を責め続けた。
だからその辛さから逃げるために、没頭するものを探した。
通常なら1回100円するゲームセンターのゲームが、そこは1回50円でできた。
古い機種だからだろう。昔やったことがあるようなゲームばかり。
「4回200円までにしておこう。」
最初はそんなことを思うのだが、それで終わるはずがない。
1度行けば、最低でも500円は使ってしまう。それで終われば良い方で、結局は最初に両替した1000円すべてを使ってしまうのだ。
親からもらう月に2万円の仕送りが、そうやってゲーム代に消えていった。
「こんなことやっていても何にもならないのに・・・。」
そう頭ではわかっていても、どうにもならなかった。
そんな引きこもりの日々は、いったいどのくらい続いたのだろう。
1年だったか、2年だったか。
将来に何の希望も見出だせなかったが、このままじゃいけないということだけはわかっていた。
「もういい。すべて捨てて、まっさらな状態からやり直そう。」
そう考えたとき、なんだか力が湧いてきた。
今から思えば、捨てる決意をするために、時間が必要だったのだと思う。
もちろん時間をかけずに済むなら、その方が良いのだろうけど。
でも、逆を言えば、時間をかけさえすれば何とかなるとも言えるわけだ。
猛烈な吹雪の中では、下手に歩き回らない方がいい。
同じように人生においても、木枯らしが吹き荒れているときは、身体を丸めてうずくまっているだけで良いのかもしれない。
自暴自棄になって転げ落ちるよりは、じっとしていた方がいい。
そうすれば、いつかは変わりたいという欲求が芽生えてくるから。
細木数子さんの六星占術が流行ったとき、私も自分を占ってみた。
木星人マイナス。
理詰め、几帳面、我慢強い、対人関係が不得手、大器晩成型、策士。そして、「石橋を叩いても渡らない」ほど慎重。
私が自覚している性格が、ピッタリ当たっていた。
そしてその占いによれば、大殺界の時は下手に動くなとのこと。
残念ながら、その引きこもっているときは大殺界ではなかったので、そういう意味では占いが当たったとは言えない。
でも、大殺界のとき、つまり人生で八方塞がりの時は、動かない方が良いというアドバイスは当たっているように思う。
ジタバタしたってどうにもならないときは、ジタバタするなってこと。
大丈夫、何とかなるから。そう思って、嵐が過ぎ去るのを待つ他ない。
「生きてさえいれば、何とかなるから。」
NHKのドラマ「開拓者たち」で、主人公のハツが口癖のように言っていた言葉が、なぜか心に響いた。
きっと私も、そういう体験をしてきたから、その記憶が思い起こされたのだろう。
2013年04月05日
「原因」と「結果」の法則
満を持して紹介しましょう。引き寄せ系のバイブルとも言われる「「原因」と「結果」の法則」です。
実はこの本、発売当初(2003年ごろ)にすでに読んでいたのです。
そのころは、これが100年前に書かれた本だということを、あまり意識していなかったのでしょうね。まったく記憶に残っていませんでした。
最近になって、Facebookでこの本が100年前に書かれたことを知り、興味を持ちました。
そして購入しようと思って探すと、なんと4冊のシリーズになっているではありませんか。
当時は、まったく気にしていませんでしたね。
内容的には「神との対話」シリーズとも似ている部分もあるので、もう充分と思ったのかもしれません。
しかし、今回この4冊を読んでみて、100年前にこれが書かれていたことの意義を、深く感じました。
著者のジェームズ・アレン氏が瞑想などによって得られた真理を、自分で実践して、これは間違いないし有用だと感じたことで、紹介しようとして書いた本です。
また、古今東西の思想家や宗教家、哲学者たちの考えにも触れ、これは昔から言われていることなのだと感じているようです。
私たちは永遠の生命であり、輪廻転生する身であり、思考によって自分に起こる出来事を創造しているということが、この本の太い幹となっています。
自堕落な欲を捨て去り、善の中に生きることが、私たちの幸せであるとも。
このことについては、ここに書かれていることだけ読んでも、なかなか理解が難しいかもしれません。
と言うのは、善と悪の意味が、一般的な人の使い方とは違うからです。不安、心配、批判などは、善ではないのだと言いますから。
ただ、思考が原因で出来事が結果であり、私たちの考えたものが引き寄せられる、という法則を前提に考えると、理解できると思います。
つまり、不安が引き寄せるのは、病気だとか悪い出来事ですから、善ではないとわかるのです。
批判は相手への攻撃ですから、攻撃の気持ちは攻撃という出来事を引き寄せるだけなのです。
「なぜそうなのか?」ということに関する説明はありません。
ただそういう不変の法則があって、私たちはそれから逃れられないのだと言うだけです。
その法則にしたがって善を追求することが私たちの幸せであり、そう生きるべきなのだということなのでしょう。
成功哲学の祖として知られるデール・カーネギー氏、アール・ナイチンゲール氏、ノーマン・ヴィンセント氏、オグ・マンディーノ氏など、多くの人が成功理論を補強する目的で引用したという「AS A MAN THINKETH」。
それを筆頭に、ジェームズ・アレン氏の本4冊をシリーズとして翻訳したのが、この「「原因」と「結果」の法則」シリーズになります。
古典とも言えるこの本を、ぜひお勧めしたいと思います。
2013年04月06日
これまでしたことのない話
斎藤一人さんがお弟子さんたちに話したことを、直弟子の舛岡はなゑさんが忠実に書き記したという本です。
対話をしながら話がどんどんと展開していく様が手に取るようにわかり、面白い1冊になっています。
また、斎藤一人さんの講演の録音を収めたCDもあるので、1冊で2度美味しいというものになっています。
この中で一人さんは、内神様と外神様がいて、内神様が自分の願いを叶えてくれるのだと言います。
キリスト教の神などは外神様で、自分の外にある神を信じても願いは叶えられないのだと。
それよりも、自分の中にある神様を信じれば、願いはすでに叶ったと過去形で言うなら、その言葉が届いて現実になると言うのです。
まさに、引き寄せの法則ですね。
この対話を読んでいて面白かったのは、自己卑下する人がけっこう多いのだということです。
だから自分の中に素晴らしいものがあるということが、なかなか信じられないのでしょうね。
まず自分の中にある素晴らしい内神様を信じる。
そうすれば、どんどんと願いが叶うようになる。
その流れを、わかりやすく説明してくれています。
2013年04月08日
加速度的に成長する
私自身のことを振り返ってみると、ここ5〜6年の精神的な成長には目をみはるものがあります。
自分のことをそう言うと、何だか偉そうに聞こえるかもしれませんが、自分で自分を認めてあげることも大切ですからね。
これは見せかけではなく、実際にそうなのです。間違いのない事実だと思っています。
そして、その成長のスピードが、加速度的に速くなっている気がします。
たとえば、タイに来た当初の12年ほど前ですが、私はタイの異文化に馴染めず、イライラしていました。
「なんでこうなるんだよー!おかしいじゃないか。ふつう、こうなるでしょう?」
そんな憤りを抱え、「タイは遊びに来るのならいいけど、仕事で来るものじゃない。」とさえ公言していたのです。
最初のカルチャーショックは、会社の近くの日本料理店でした。
店員が着物を着て応対してくれるという格式のある店。
そこで案内された席に座ると、やたらと寒く感じたのです。エアコンの風がまともに吹き付けていて、Tシャツ姿の私には、非常に寒く感じました。
「エアコンの風の向きを変えるとか、温度調整するとかできないのかなあ?」
そう思った私は、店員の女性に何とかしてほしいという意味でこう言いました。
「ここ、ちょっと寒いんだけど。」
日本だったら当然、「お客様、申し訳ございません。エアコンの設定を見てきましょうか?」とか言って、なんとか客の不快さを解消しようとするでしょう。
ところがタイは違うのです。その店員はこう言いました。
「私は暑いわ。」
そう言って、手であおぐ仕草までして、にっこりと微笑むのです。
いや、別にあなたと暑さ寒さの会話を楽しみたいわけじゃないんだけど・・・。
たしかに、着物をしっかり着ていますから、普通だったら暑いでしょうね。こちらも笑うしかありません。
笑わざるをえないけれど、「そうじゃないだろう!」という気持ちは消えませんでした。
こんなふうに、相手が自分の思い通りにならないことに腹をたてることが、とても多かったように思います。
そんな私に、タイの社会は遠慮なく文化の違いを見せつけてくれました。
頼んだことができない。納期を守らない。2つ依頼すれば1つは忘れる。
日本が、どれほど素晴らしい社会だったかと思いましたよ。
電車が1分と違わずに運行する。そのために、どれだけ多くの人が最大限の努力をしていることか。
約束をして守らないなんてことは恥ずべきことで、死んでも約束を守るくらいの気持ちが日本人にはありますし。
ところが、そんなことをしばらく続けていると、腹を立てることが苦痛になるのです。
腹を立てて苦しんでいるのは私自身です。相手はまったく苦しんでいません。こんな理不尽なことがあるでしょうか?
思いっきり殴ってやりたいなんて思ったことも1度や2度ではありませんが、そんなことをすれば身の破滅とわかっていますから、さすがにそれはやりません。
けれども、そうしたくなるほど辛かったのです。
そんなとき私の上司が、まったく関係のない会話の中で、こんなことを言いました。
「いろいろ考えると自分が辛くなるから、だから考えないようにするんだ。」
なるほどと思いましたね。
そして、それを応用するようにしました。
たとえば、うちの会社の運転手は、運転がとても慎重なのです。
まあ良く言えば慎重ですが、普通に言えばトロいです。
「いやいや、そこはもっと加速しようよ。」「えっ!?そのタイミングで出ないの?そこで出なかったら、ずっと出られないよ。」
そう言いたくなるほどです。(笑)
でも、考えてみると、それが良いこともあるのです。
たとえば、信号のない交差点で、こちらが直進しようとしていたとしましょう。右から来る車が、左ウインカーを出して交差点に侵入して来ます。
うちの運転手は、その車が左にハンドルを切るまで、けして前に進もうとはしません。
「ウインカーを出しているんだから、進めばいいのに。」
そう思うのですが、これは日本の常識です。タイでは、ウインカーを出しても曲がらなかったり、出さずに曲がったりが非常に多いのです。
出しても曲がらないのは、曲がる場所がその交差点の先だったりするからです。
日本だったら、間違われる可能性もあるから、交差点を通過してからウインカーを出しますよね。
つまり、ウインカーなんか信用できない、というのがタイの常識だと考えた方が良いのです。
ですから、私は彼の運転に目をつぶることにしました。
私が何も考えなくても、安全に目的地まで送り届けてくれるのですから、それで充分ではありませんか。
多少早いとか遅いとかあるでしょうけど、そんなのは道路の混み具合でも変わってくるので、余裕を持っておけば良いだけのことです。
そういうように考えることで、私はうちの運転手さんの運転には、まったくイライラしなくなりました。
むしろ、私とほぼ同じくらいの年齢なのに、安い給料でよく働いてくれて、申し訳ないくらいだと思います。心から感謝します。
そういう考え方をするようになると、今度は日本の異常さが見えてきます。
電車が1分遅れたことを理由に、駅員を殴った乗客がいたというニュース。最高のサービスを提供しようとして努力した結果が、客からの暴行なのですよ。
1分の遅れ、一部の間違いも許さないギスギス社会。それではストレスでうつ病になっても当然だと思いましたね。
逆にタイはゆるゆるですが、それでもなんとか上手く回っているのです。
つまり日本の質の高さは、生存のための不安からではないはずなのに、まるでその1点の瑕疵(かし)ですべての価値が崩壊するような不安があります。
だから1分遅れても許せないのです。
必ずしもタイが100%良くて、日本が100%悪いわけではありません。
また、足して2で割れば良いというものでもないでしょう。
私はただ、日本の考え(文化)が絶対ではない、ということに気づいたのです。
こうして、他の考え方もあるということを感じていたころ、絶対的な安心感に包まれるという神秘的な体験をしました。
「そうだったのか!」
腑に落ちると言いますが、まさにそんな感じです。
すべての出来事が自分にとって良いことであるなら、何が起ころうとかまわないのです。
何が起ころうともかまわなければ、何にも怯えることがなく、不安に身を固める必要がなく、自由にのびのびしていられます。
そのとき、そのことがはっきりとわかったのです。
しかし、そんな神秘体験の効果は長続きするものではありません。
「あれはいったい何だったのだろう?」
時間が経つにつれて、元に戻っていくような感覚。
でも、それでも着実に成長(進化)していたのですね。それも後になってみればわかります。
そのころから私は、ブログやSNSなどで自分の考えを表明することが増えました。
自分の真実を語ろうと思ったからです。
表明することによって、他の人とぶつかることもありました。
そのときは、まだ、相手が悪くて自分が正しいという、一面的な見方しかできませんでしたね。
相手も正しく、自分もまた正しいという、思い切った考え方ができなかったのです。
昨年10月から「神との対話」シリーズを精読するようになって、また多くの気付きが得られました。
何度読んでも、また読みたいと思う不思議な本です。
今日から「神との友情(上)」に入りましたが、その冒頭でもまた、今の悩みに直接答えてくれるような文がありました。
その文は、以前からそこに書かれていて、私も何度も見ています。
それなのに、今、また新たな気づきを与えてくれたのです。
それは、「離れる」ことが諸悪の根源だということです。
私たちが「ひとつのもの」であり、その本質に立ち返ろうとしているのなら、その反対の分離は本質から遠ざかるものです。
仏教でも「分別」を悪い意味で用いますが、分け隔てることが、あらゆる問題を引き起こすのです。
都会化することで、人々は密集して暮らすようになりましたが、逆にコミュニティーは破壊されて、つながりがなくなり、孤立化するようになった。
これがまさに都会が抱える問題の根源です。
もっと心理的に近づかないといけません。
親子で、夫婦で、家族で、会社で、地域で。
お互いに関心を持ち合い、相手をまるで自分であるかのように感じる。
そうしないと上手くいかないのだなあと、改めて感じたところです。
私自身、まだまだ発展途上です。
「まだ先があるのか!?」と落胆するのではなく、「おぉ、まだたっぷり楽しめるぞ!」という喜びが大きいですね。
なぜなら、不安がないからです。
不安がないから、変化を楽しめるのです。
変化とは進化です。成長です。そして、生命の本質は変化です。
だから私たちが生きることの象徴である人生は、楽しいものであるし、楽しまないとおかしいでのす。
今、やっとこのレベルまで来ました。
これから、もっともっと先を目指します。
あなたも一緒に、進化の旅を楽しみませんか?
自分のことをそう言うと、何だか偉そうに聞こえるかもしれませんが、自分で自分を認めてあげることも大切ですからね。
これは見せかけではなく、実際にそうなのです。間違いのない事実だと思っています。
そして、その成長のスピードが、加速度的に速くなっている気がします。
たとえば、タイに来た当初の12年ほど前ですが、私はタイの異文化に馴染めず、イライラしていました。
「なんでこうなるんだよー!おかしいじゃないか。ふつう、こうなるでしょう?」
そんな憤りを抱え、「タイは遊びに来るのならいいけど、仕事で来るものじゃない。」とさえ公言していたのです。
最初のカルチャーショックは、会社の近くの日本料理店でした。
店員が着物を着て応対してくれるという格式のある店。
そこで案内された席に座ると、やたらと寒く感じたのです。エアコンの風がまともに吹き付けていて、Tシャツ姿の私には、非常に寒く感じました。
「エアコンの風の向きを変えるとか、温度調整するとかできないのかなあ?」
そう思った私は、店員の女性に何とかしてほしいという意味でこう言いました。
「ここ、ちょっと寒いんだけど。」
日本だったら当然、「お客様、申し訳ございません。エアコンの設定を見てきましょうか?」とか言って、なんとか客の不快さを解消しようとするでしょう。
ところがタイは違うのです。その店員はこう言いました。
「私は暑いわ。」
そう言って、手であおぐ仕草までして、にっこりと微笑むのです。
いや、別にあなたと暑さ寒さの会話を楽しみたいわけじゃないんだけど・・・。
たしかに、着物をしっかり着ていますから、普通だったら暑いでしょうね。こちらも笑うしかありません。
笑わざるをえないけれど、「そうじゃないだろう!」という気持ちは消えませんでした。
こんなふうに、相手が自分の思い通りにならないことに腹をたてることが、とても多かったように思います。
そんな私に、タイの社会は遠慮なく文化の違いを見せつけてくれました。
頼んだことができない。納期を守らない。2つ依頼すれば1つは忘れる。
日本が、どれほど素晴らしい社会だったかと思いましたよ。
電車が1分と違わずに運行する。そのために、どれだけ多くの人が最大限の努力をしていることか。
約束をして守らないなんてことは恥ずべきことで、死んでも約束を守るくらいの気持ちが日本人にはありますし。
ところが、そんなことをしばらく続けていると、腹を立てることが苦痛になるのです。
腹を立てて苦しんでいるのは私自身です。相手はまったく苦しんでいません。こんな理不尽なことがあるでしょうか?
思いっきり殴ってやりたいなんて思ったことも1度や2度ではありませんが、そんなことをすれば身の破滅とわかっていますから、さすがにそれはやりません。
けれども、そうしたくなるほど辛かったのです。
そんなとき私の上司が、まったく関係のない会話の中で、こんなことを言いました。
「いろいろ考えると自分が辛くなるから、だから考えないようにするんだ。」
なるほどと思いましたね。
そして、それを応用するようにしました。
たとえば、うちの会社の運転手は、運転がとても慎重なのです。
まあ良く言えば慎重ですが、普通に言えばトロいです。
「いやいや、そこはもっと加速しようよ。」「えっ!?そのタイミングで出ないの?そこで出なかったら、ずっと出られないよ。」
そう言いたくなるほどです。(笑)
でも、考えてみると、それが良いこともあるのです。
たとえば、信号のない交差点で、こちらが直進しようとしていたとしましょう。右から来る車が、左ウインカーを出して交差点に侵入して来ます。
うちの運転手は、その車が左にハンドルを切るまで、けして前に進もうとはしません。
「ウインカーを出しているんだから、進めばいいのに。」
そう思うのですが、これは日本の常識です。タイでは、ウインカーを出しても曲がらなかったり、出さずに曲がったりが非常に多いのです。
出しても曲がらないのは、曲がる場所がその交差点の先だったりするからです。
日本だったら、間違われる可能性もあるから、交差点を通過してからウインカーを出しますよね。
つまり、ウインカーなんか信用できない、というのがタイの常識だと考えた方が良いのです。
ですから、私は彼の運転に目をつぶることにしました。
私が何も考えなくても、安全に目的地まで送り届けてくれるのですから、それで充分ではありませんか。
多少早いとか遅いとかあるでしょうけど、そんなのは道路の混み具合でも変わってくるので、余裕を持っておけば良いだけのことです。
そういうように考えることで、私はうちの運転手さんの運転には、まったくイライラしなくなりました。
むしろ、私とほぼ同じくらいの年齢なのに、安い給料でよく働いてくれて、申し訳ないくらいだと思います。心から感謝します。
そういう考え方をするようになると、今度は日本の異常さが見えてきます。
電車が1分遅れたことを理由に、駅員を殴った乗客がいたというニュース。最高のサービスを提供しようとして努力した結果が、客からの暴行なのですよ。
1分の遅れ、一部の間違いも許さないギスギス社会。それではストレスでうつ病になっても当然だと思いましたね。
逆にタイはゆるゆるですが、それでもなんとか上手く回っているのです。
つまり日本の質の高さは、生存のための不安からではないはずなのに、まるでその1点の瑕疵(かし)ですべての価値が崩壊するような不安があります。
だから1分遅れても許せないのです。
必ずしもタイが100%良くて、日本が100%悪いわけではありません。
また、足して2で割れば良いというものでもないでしょう。
私はただ、日本の考え(文化)が絶対ではない、ということに気づいたのです。
こうして、他の考え方もあるということを感じていたころ、絶対的な安心感に包まれるという神秘的な体験をしました。
「そうだったのか!」
腑に落ちると言いますが、まさにそんな感じです。
すべての出来事が自分にとって良いことであるなら、何が起ころうとかまわないのです。
何が起ころうともかまわなければ、何にも怯えることがなく、不安に身を固める必要がなく、自由にのびのびしていられます。
そのとき、そのことがはっきりとわかったのです。
しかし、そんな神秘体験の効果は長続きするものではありません。
「あれはいったい何だったのだろう?」
時間が経つにつれて、元に戻っていくような感覚。
でも、それでも着実に成長(進化)していたのですね。それも後になってみればわかります。
そのころから私は、ブログやSNSなどで自分の考えを表明することが増えました。
自分の真実を語ろうと思ったからです。
表明することによって、他の人とぶつかることもありました。
そのときは、まだ、相手が悪くて自分が正しいという、一面的な見方しかできませんでしたね。
相手も正しく、自分もまた正しいという、思い切った考え方ができなかったのです。
昨年10月から「神との対話」シリーズを精読するようになって、また多くの気付きが得られました。
何度読んでも、また読みたいと思う不思議な本です。
今日から「神との友情(上)」に入りましたが、その冒頭でもまた、今の悩みに直接答えてくれるような文がありました。
その文は、以前からそこに書かれていて、私も何度も見ています。
それなのに、今、また新たな気づきを与えてくれたのです。
それは、「離れる」ことが諸悪の根源だということです。
私たちが「ひとつのもの」であり、その本質に立ち返ろうとしているのなら、その反対の分離は本質から遠ざかるものです。
仏教でも「分別」を悪い意味で用いますが、分け隔てることが、あらゆる問題を引き起こすのです。
都会化することで、人々は密集して暮らすようになりましたが、逆にコミュニティーは破壊されて、つながりがなくなり、孤立化するようになった。
これがまさに都会が抱える問題の根源です。
もっと心理的に近づかないといけません。
親子で、夫婦で、家族で、会社で、地域で。
お互いに関心を持ち合い、相手をまるで自分であるかのように感じる。
そうしないと上手くいかないのだなあと、改めて感じたところです。
私自身、まだまだ発展途上です。
「まだ先があるのか!?」と落胆するのではなく、「おぉ、まだたっぷり楽しめるぞ!」という喜びが大きいですね。
なぜなら、不安がないからです。
不安がないから、変化を楽しめるのです。
変化とは進化です。成長です。そして、生命の本質は変化です。
だから私たちが生きることの象徴である人生は、楽しいものであるし、楽しまないとおかしいでのす。
今、やっとこのレベルまで来ました。
これから、もっともっと先を目指します。
あなたも一緒に、進化の旅を楽しみませんか?
2013年04月09日
地上最強の人を目指す
今の私と他の多くの方々、つまり以前の私との違いは、どれだけの不安を抱えているか、ということに尽きると思います。
「私の生い立ち」などでさんざん書いているように、私は本当に臆病で不安だらけの人間でしたから。
それが今は、「自信たっぷりに見える」と言われるほど、不安を感じることが少なくなりました。
あるいは、不安を感じた後、自分でその気持ちを訂正できるようになりました。
おそらく多くの方が、そんな風になりたいと思われるでしょう。
特にこのブログを真剣に読まれている方は、そうなるためのヒントを得たいと思い、その答を求めておられることと思います。
ですから私は、何も隠さずすべてをここに書いています。出し惜しみは一切ありません。
なぜならこれは、私が生み出したものではなく、過去から多くの人が言ってきたことですから。
それを広めるための役割の一端を、私も担がせていただきたいと思っているだけなのです。
理論的には、考え方を変えるだけです。信念を変える。そう言った方が正しいかもしれません。
けれども、なかなか考えたようには思えないのが人というものです。つまり、考えるより早く反応してしまうのです。
ただその反応というのも、長年の考え方の習慣が作り出したものです。ですから、根気強く考え方を変えることで、その習慣を変えることができます。
そのことを、理論と実践が重要だと表現しているのです。
さて、そんな実践方法にも、様々な方法があります。
私がこういった理論を知る前に実践していたのは、心の余裕を作り出すことでした。
ともかく不安だったので、「ではどうすれば安心できるか?」ということを考え、そうなるように現実を作り出したのです。
以前に書いた「私が家計簿をつけ始めた理由をお教えしましょう」にも、その実践を書きました。
生活して行けるかどうかが心配だったので、まずは家計簿をつけて、1年間にお金がいくらあれば生活できるかを知ろうとしたのです。
そして次に、その金額と同じだけ貯金しようと考えました。
それができれば、何かあっても1年は生活できるという安心感が手に入れられるからです。
これは1つの方法です。
これがベストではなく、これも1つの方法だというだけ。要は、自分が安心するのに何が必要かを考え、それを手に入れる計画を立て、実行しただけなのです。
特にまとまったお金があるというのは、それだけで安心感を与えてくれるものです。
ただし注意することがあります。それは、そのお金に執着するとダメになるということです。
本来、安心感を得るために貯めたお金なのに、執着してしまうと、それを失うことが不安になります。
たとえば100万円貯めて安心を得ようとしたとき、貯まったら安心できるはずですよね。
しかし100万円に執着すると、1円でも少なくなると不安になり、減る可能性を考えただけでも不安になります。
そのため、さらに安心感を得ようとして、もっともっと貯めたくなるのです。
こうなると、餓鬼道をまっしぐらです。(笑)
安心感のための蓄財が、不安との追っかけっこになってしまい、何をしても安心できない状態になるのです。
ですから、執着心を手放すことをどこかで覚えなければなります。
それはそうなのですが、まずはとっかかりとして、お金の余裕を作り出すことも効果的な方法です。
本当は、お金がなくても安心できるのが一番なのです。
お金がなくても何とかなると思えて、安心していられるなら、これが最強です。だって、何も失うことがないのですから。
どんな人が一番強いかと言うと、人それぞれ答があるでしょう。
腕力があるとか、格闘技の達人とか。あるいは銃の名手。それよりも、そういった人たちを雇えるお金持ちとか、権力を持った人。
でも、そういった人たちであっても、心に不安があれば弱くなるのです。
ですから、失うことをまったく怖れない人こそ、最強の人だと思うのです。裸で立てる人が、もっとも強い人なのです。
ですから、お金なんかなくても平気だよと言う人には、何をしても困らせることができません。
不安になどならないのです。
病気になって病院ヘ行けないとしても、「まあ、なんとかなるよ。」とか言って、楽しそうにしています。
他人はそれを見てバカだと言うかもしれませんが、本人の幸せを奪うことはできません。
そういう境地を、私は目指しています。
そして、必ずその境地に至れると自信を持っています。
なぜなら、あれだけ不安を抱えていた私が、ここまで来れたのですから。
ですから、あなたにだってできます。私は自信を持って、そう考えているのです。
「私の生い立ち」などでさんざん書いているように、私は本当に臆病で不安だらけの人間でしたから。
それが今は、「自信たっぷりに見える」と言われるほど、不安を感じることが少なくなりました。
あるいは、不安を感じた後、自分でその気持ちを訂正できるようになりました。
おそらく多くの方が、そんな風になりたいと思われるでしょう。
特にこのブログを真剣に読まれている方は、そうなるためのヒントを得たいと思い、その答を求めておられることと思います。
ですから私は、何も隠さずすべてをここに書いています。出し惜しみは一切ありません。
なぜならこれは、私が生み出したものではなく、過去から多くの人が言ってきたことですから。
それを広めるための役割の一端を、私も担がせていただきたいと思っているだけなのです。
理論的には、考え方を変えるだけです。信念を変える。そう言った方が正しいかもしれません。
けれども、なかなか考えたようには思えないのが人というものです。つまり、考えるより早く反応してしまうのです。
ただその反応というのも、長年の考え方の習慣が作り出したものです。ですから、根気強く考え方を変えることで、その習慣を変えることができます。
そのことを、理論と実践が重要だと表現しているのです。
さて、そんな実践方法にも、様々な方法があります。
私がこういった理論を知る前に実践していたのは、心の余裕を作り出すことでした。
ともかく不安だったので、「ではどうすれば安心できるか?」ということを考え、そうなるように現実を作り出したのです。
以前に書いた「私が家計簿をつけ始めた理由をお教えしましょう」にも、その実践を書きました。
生活して行けるかどうかが心配だったので、まずは家計簿をつけて、1年間にお金がいくらあれば生活できるかを知ろうとしたのです。
そして次に、その金額と同じだけ貯金しようと考えました。
それができれば、何かあっても1年は生活できるという安心感が手に入れられるからです。
これは1つの方法です。
これがベストではなく、これも1つの方法だというだけ。要は、自分が安心するのに何が必要かを考え、それを手に入れる計画を立て、実行しただけなのです。
特にまとまったお金があるというのは、それだけで安心感を与えてくれるものです。
ただし注意することがあります。それは、そのお金に執着するとダメになるということです。
本来、安心感を得るために貯めたお金なのに、執着してしまうと、それを失うことが不安になります。
たとえば100万円貯めて安心を得ようとしたとき、貯まったら安心できるはずですよね。
しかし100万円に執着すると、1円でも少なくなると不安になり、減る可能性を考えただけでも不安になります。
そのため、さらに安心感を得ようとして、もっともっと貯めたくなるのです。
こうなると、餓鬼道をまっしぐらです。(笑)
安心感のための蓄財が、不安との追っかけっこになってしまい、何をしても安心できない状態になるのです。
ですから、執着心を手放すことをどこかで覚えなければなります。
それはそうなのですが、まずはとっかかりとして、お金の余裕を作り出すことも効果的な方法です。
本当は、お金がなくても安心できるのが一番なのです。
お金がなくても何とかなると思えて、安心していられるなら、これが最強です。だって、何も失うことがないのですから。
どんな人が一番強いかと言うと、人それぞれ答があるでしょう。
腕力があるとか、格闘技の達人とか。あるいは銃の名手。それよりも、そういった人たちを雇えるお金持ちとか、権力を持った人。
でも、そういった人たちであっても、心に不安があれば弱くなるのです。
ですから、失うことをまったく怖れない人こそ、最強の人だと思うのです。裸で立てる人が、もっとも強い人なのです。
ですから、お金なんかなくても平気だよと言う人には、何をしても困らせることができません。
不安になどならないのです。
病気になって病院ヘ行けないとしても、「まあ、なんとかなるよ。」とか言って、楽しそうにしています。
他人はそれを見てバカだと言うかもしれませんが、本人の幸せを奪うことはできません。
そういう境地を、私は目指しています。
そして、必ずその境地に至れると自信を持っています。
なぜなら、あれだけ不安を抱えていた私が、ここまで来れたのですから。
ですから、あなたにだってできます。私は自信を持って、そう考えているのです。
2013年04月10日
ぶり返す!「怒り」「さびしさ」「悲しみ」は捨てられる!
何とも長いタイトルの本ですが、日米で4000人もの人を変えたというセラピストが書いた本だということなので、どういうことをやっているのか知りたくて読んでみました。
プロローグに、こう書かれていました。
「実は、つらい感情がわいてきて、どうしても止められないとき、本当は、わたしたちがずっと以前に負った”こころの傷”が傷んでいるのです。それは、子ども時代に負った「愛情飢餓」の痛みです。」
みごとに核心をついています。まあ著者の古宮昇氏は、心理学博士でもある臨床心理士ですから。当然と言えば当然ですね。
ただ、「愛情飢餓」という言葉に惹かれました。
だってこの一言で、みごとに問題の本質を捉えているのです。
愛情の欠乏じゃないのです。そんな生やさしいものじゃない。飢餓。まさにそう。ほしくてほしくて、餓死しそうなほどほしい愛情なのです。
本文は非常に読みやすく、著者自身の内面の問題と向き合った経緯なども取り入れながら、実例豊富に解説してあります。
いろいろなパターンに分けていますが、要は「愛情飢餓」なんですよね。
p.141には「「不幸のメリット」を捨てる」と題して、不幸から抜け出せない人は不幸のメリットを感じている、と指摘しています。
これはなかなか面白いと思いました。
たとえば、不幸なフリをしていると他人から関心を得られるとか。やったこと、ありませんか?私はあります。
またp.178の「「不幸せ思考」を「現実思考」に変える」では、感情は思考によって変わるので、その思考を変えることだと書いてあります。
まさに私が言っているのと同じですね。
ただ、具体的にどうするかについての解説が、少ない感じがします。
指示はされているのですが説明が少ないため、その通りにやって上手くいく人は多くないかも。
最終的にはセラピストなどに相談して、ということなのでしょうね。
もちろん、それほど問題が大きくないのであれば、この本に書かれていることをちょっと実践してみるだけでも、効果は感じられると思います。
最後に著者は、自分のミッションとして、「たくさんの人々が幸せで充実した人生を送る助けをする」ことだと書いています。
これには非常に共感します。
私自身も、同じような思いですから。
2013年04月11日
不幸のメリットとは
昨日紹介した「ぶり返す!「怒り」「さびしさ」「悲しみ」は捨てられる!」は、わかりやすい解説がたくさんありました。
気に入ったので著者・古宮昇さんのサイトを見て、さっそくメルマガを登録しました。
すると、その中の「私のカウンセリングの考え方」というページに、「神との対話」シリーズからの引用があるのを見つけたのです。
「古宮さんも読まれていたんだ。」
そう思ったら嬉しくなって、僭越にもメールを出してしまいました。
ミッションに共感するということとか、「愛情飢餓」が気に入ったので使わせてほしいということなどを書いて。
今日、メールBOXにアクセスすると、返事が届いていました。
「愛情飢餓」というのは、専門家の間では普通に使われる言葉のようですね。
「どうぞ赤木さんもお使いください。」と言っていただきました。
さて、上記の本の中で、すごくよくまとまってるなあと感じた部分がありました。
それが「不幸のメリット」です。(p.141 - 147)
タイトルを読んでもピンと来なかったのですが、その内容を読んで得心しました。
一部引用しながら、簡単に説明しましょう。
@関心が得られる
不幸だと、他人から同情してもらえたり、なぐさめてもらえるため、その快感がほしくて不幸のままでいることを無意識に選択することがよくあります。
A守ってもらったり、助けたりしてもらえる
「かわいそうで無力な犠牲者」を演じることで、周囲の人から助けてもらえる。その助けを引き出そうとして、ことさら犠牲者であることを主張することがあります。
B傷つけた人から、理解と愛情を求めている
自分を傷つけた人に対して、自分がどんなに傷ついたかを知らしめたくて、不幸から脱却しないという選択をすることがよくあります。
C罪悪感の苦しみを軽くしている
「幸せになると◯◯さんに申しわけない」と考えて、あえて幸せになる選択肢を排除します。
D自分は正しい、と信じていられる
自分が不幸なのは自分が間違っているのではなく、周りの環境や他人が悪いからだ。その考えが正しいことを証明しようとして、不幸のままでいることを選択します。
このように説明されるとスッキリしますね。
不幸な人は、自分が不幸であることが有利だ、つまりメリットがあると感じているから、いつまでたっても不幸なままでいようとするのです。
そしてそのことを、本人が気づいていないことが多いです。
無意識に自分のメリットとして不幸を選択している。つまり、不幸を愛しているのです。
そういう意味では、人はみな、自分が好きなことを選んでいるのですね。
不幸な人は、不幸が大好きだから、不幸なままでいるのです。ただ、自分が選んでいることに気づかないでいるだけ。
それは悪いことではありません。
でも、もし「もうそろそろ不幸にも飽きたから幸福になりたいなあ。」と思われるのでしたら、自分がどんな不幸のメリットを得たいと感じていたかを、しっかりとチェックしてみた方が良いでしょうね。
まずは自分の考え方に気づくことです。
そして、それを好ましい方向に変えることです。
方向を変えたなら、元に戻らないようにしっかりと見張ることです。
ほら、簡単でしょ?幸せは、選択するものなのですよ。
気に入ったので著者・古宮昇さんのサイトを見て、さっそくメルマガを登録しました。
すると、その中の「私のカウンセリングの考え方」というページに、「神との対話」シリーズからの引用があるのを見つけたのです。
「古宮さんも読まれていたんだ。」
そう思ったら嬉しくなって、僭越にもメールを出してしまいました。
ミッションに共感するということとか、「愛情飢餓」が気に入ったので使わせてほしいということなどを書いて。
今日、メールBOXにアクセスすると、返事が届いていました。
「愛情飢餓」というのは、専門家の間では普通に使われる言葉のようですね。
「どうぞ赤木さんもお使いください。」と言っていただきました。
さて、上記の本の中で、すごくよくまとまってるなあと感じた部分がありました。
それが「不幸のメリット」です。(p.141 - 147)
タイトルを読んでもピンと来なかったのですが、その内容を読んで得心しました。
一部引用しながら、簡単に説明しましょう。
@関心が得られる
不幸だと、他人から同情してもらえたり、なぐさめてもらえるため、その快感がほしくて不幸のままでいることを無意識に選択することがよくあります。
A守ってもらったり、助けたりしてもらえる
「かわいそうで無力な犠牲者」を演じることで、周囲の人から助けてもらえる。その助けを引き出そうとして、ことさら犠牲者であることを主張することがあります。
B傷つけた人から、理解と愛情を求めている
自分を傷つけた人に対して、自分がどんなに傷ついたかを知らしめたくて、不幸から脱却しないという選択をすることがよくあります。
C罪悪感の苦しみを軽くしている
「幸せになると◯◯さんに申しわけない」と考えて、あえて幸せになる選択肢を排除します。
D自分は正しい、と信じていられる
自分が不幸なのは自分が間違っているのではなく、周りの環境や他人が悪いからだ。その考えが正しいことを証明しようとして、不幸のままでいることを選択します。
このように説明されるとスッキリしますね。
不幸な人は、自分が不幸であることが有利だ、つまりメリットがあると感じているから、いつまでたっても不幸なままでいようとするのです。
そしてそのことを、本人が気づいていないことが多いです。
無意識に自分のメリットとして不幸を選択している。つまり、不幸を愛しているのです。
そういう意味では、人はみな、自分が好きなことを選んでいるのですね。
不幸な人は、不幸が大好きだから、不幸なままでいるのです。ただ、自分が選んでいることに気づかないでいるだけ。
それは悪いことではありません。
でも、もし「もうそろそろ不幸にも飽きたから幸福になりたいなあ。」と思われるのでしたら、自分がどんな不幸のメリットを得たいと感じていたかを、しっかりとチェックしてみた方が良いでしょうね。
まずは自分の考え方に気づくことです。
そして、それを好ましい方向に変えることです。
方向を変えたなら、元に戻らないようにしっかりと見張ることです。
ほら、簡単でしょ?幸せは、選択するものなのですよ。
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