2013年03月25日

桜が咲きました

今年の桜は少し早いようで、4月を前に東京などでは満開のようです。

4月にイベントを計画していたところは、さぞや大変でしょうね。

桜が楽しめる期間は、せいぜい1週間から10日ほど。週末2回分ですからね。


造幣局の通り抜け

この写真は、2010年4月に一時帰国し、大阪へ行ったときに撮ったものです。

たまたま造幣局の通り抜けをやっていて、それを聞いてさっそく行ってみたのです。

たくさんの種類の桜があって、それはそれは見事なものでした。

もしチャンスがあるなら、また行ってみたいですね。


4月に帰国する場合は、たいていソンクラーンというタイ正月(水かけ祭り)の休暇を利用します。

ソンクラーンは4月13日から15日までの3日間ですから、その前後に土日が来ると、長期の休みが取れるのです。

ただ、どうしても4月の第2週以降になってしまうので、東京の桜はもう散りかけています。


ところが、大阪城の桜は遅咲きの種類なのか、そのころが満開なのです。

ですから、東京で満開の桜と出会うことはないのですが、大阪や、実家のある島根県では、けっこう見事な桜を見ることができます。


日本にいるときは、あえて花見に出かけるというようなことはありませんでした。

通勤の途中にある桜を見て、「あー、桜の季節だなあ。」などと思ったものです。

日本はどこへ行っても桜があって、なぜか桜を見ると「日本人なんだなあ」と思います。

 

タイに来た10年ほど前、この時期に全体がピンクの花に覆われている木があって、それを見て日本の桜を懐かしく思い出しました。

桜のようなタイの木

葉が少ない時期は、それこそ花ばかりの桜のような感じです。

ややピンクが強く、桜の花よりもボリュームがあります。

タイに来た当初は秋に1回一時帰国するだけだったので、ずっと日本の桜を見る機会がなかったのです。


4月に一時帰国するようになったのは、ここ数年のことです。

妻が桜が大好きなので、それなら一度見せてあげたいと思い、4月に帰国したのが最初でしょうか。

そのときは大阪城の桜を見せてあげられました。

 

10年前にタイに来たばかりの頃の話で思い出すのは、タイ語の先生から貸していただいたビデオテープのことです。

タイで人気のドラマだったということで、「クーカム」というドラマのビデオを貸してもらったのです。

クーカムとは、タイ語で「คู่กรรม」と書き、「運命の二人」のように訳されます。

クー(คู่)は対(つい)とかペアという意味。カム(กรรม)は行いとか業(ごう)、報い、運命などの意味があります。

女流作家のトムヤンティさんが書いた小説(日本語訳は「メナムの残照」)をもとにドラマ化されたもので、タイでは何度も映画やTVドラマになっています。

内容は、第二次世界大戦下のバンコクで、日本の軍人コボリ(小堀)と、タイ人女性のアンスマリン(日本名ヒデ子)が恋に落ちるというもの。

最後はコボリが死ぬという悲劇の物語です。


このとき私が見せてもらったビデオは、1990年に放送されて大人気となったもの。

それもそのはず、国民的な大スター、バードことトンチャイ・メーキンタイさんがコボリの役を演じていたからです。

私もバードの歌はよく聞きましたよ。「コン・マイ・ミー・フェーン(恋人がいない人)」なんて歌は、自虐的にカラオケで歌ったりしたものです。


その「クーカム」ですが、今年はTVドラマでも放送されており、コボリの役は人気俳優&歌手のビーさん、アンスマリン役は人気女優のヌーナーさんが演じています。


そしてTVドラマだけでなく、映画にもなります。

クーカム

「4 เมษา 56」と看板の下の方に書かれていますが、タイ歴2556年は西暦2013年ですから、2013年4月4日から上映されるということですね。

「เมษา(メーサーア)」は「เมษายน(メーサーアヨン)」の略で、4月の意味です。

コボリの役は、これまた人気俳優のナデートさん

アンスマリン役は、元バドミントンのナショナルチームの選手だったという新人女優のアマラワディーさんだそうです。


クーカムは、今やタイ人にとってなくてはならない物語となっています。

毎年のようにTVドラマや舞台、そして映画で演じられますが、これを観て、タイ人も自分たちのアイデンティティーを感じるのかもしれません。

ちょうど私が、サクラを見て日本人を感じるように。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:29 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月26日

病気の原因は100%完全に自分の思考にあります

ジェームズ・アレン氏の「「原因」と「結果」の法則」シリーズを読んでいます。

今は2冊目を読み終え、3冊目に入ったところです。

「原因」と「結果」の法則


今から100年以上も前に書かれた本ですが、どうしてこう言い切れるのだろうと不思議になるほど、明確に「すべての原因は自分の思考にある」と言っています。

その理屈からすれば当然のことですが、病気の原因もまた自分の思考にあるということになります。

「「原因」と「結果」の法則A」のp.97から「健康、成功、パワーの秘訣」と題して書かれています。

その中で、はっきりとこう言っています。

病気は、それを引き寄せる人のもとにやって来ます。それは、それに対する受け入れ態勢を整えている人のなかには喜んで進入するいっぽうで、清らかな強い思いをめぐらし、生命と癒しのエネルギーを発生させている人の前からは、一目散に退却します。

もしあなたがいま、怒り、不安、嫉妬、強欲といったものに身を任せていながら、肉体の完璧な健康を手にしたいと願っていたとしたら、あなたはいま、まったく不可能なことを願っています。あなたがそれらのネガティブな思いの支配下にあるとしたら、あなたの心のなかではいま、病気の種が休みなく蒔きつづけられているからです。

(p.105)


このように言って、病気の原因は100%完全に自分の考え方である、と言うのです。

では、ウイルスとか病原菌のようなものは、原因ではないのでしょうか?

それらは、単なるきっかけだと言います。

もしそれらが本当に原因なら、病原菌に感染したら100%病気にならないとおかしいと言うのです。

タバコと肺がんの関係もそうです。

どれだけタバコを吸っても肺がんにならない人もいれば、まったくタバコを吸わないのに肺がんになる人がいます。

つまり、タバコは肺がんのきっかけであって、原因ではないからです。


これはなかなか証明できないところですが、人の思考が健康に影響を与えることは、医者も認めるところです。

笑いは免疫力を高めるということが、科学的に証明されています。

また、昔の人はこんなことを言いました。

「人を呪わば穴二つ」

つまり、恨みの思考が自分の身体を痛めるのです。


そこで、どうせ証明できないのなら、「原因は100%自分の思考である」という考えを受け入れてみませんか?

なぜなら、もし原因が自分にあるなら、自分で変えることができるからです。

逆にそうでないなら、つまり原因が他者にあるなら、自分ではコントロールできないことになります。

どうなるかわからない他者の動向に怯えながら、日々を過ごすことになるのです。

どちらがより好ましいでしょうか?

自分が好ましいと思う考え方(信念)を選択すれば良いのです。その信念によって、自分が自分を創っているのですから。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:12 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「損して得とれ」の意味

さて、みなさんは、「損して得とれ」という言葉を聞いたことがありますよね?

どんな意味だと思います?

通常は、目先の小さな得にこだわらず、損してもいいからやることで、最終的にそれ以上の得をとればよい、という意味で使われます。

たとえば商売では、目玉商品だけで考えれば赤字でも、それで客を呼べれば売上が増えるので、最終的には得になるという考え方です。


これも間違ってはいないのですが、なんだか打算的で嫌な感じがしませんか?

「海老で鯛を釣る」ではありませんが、相手(お客)を騙しているような気がして、なんだかスッキリしません。


実はこの言葉、昔は「損して徳とれ」と言ったという説もあるようです。

意味は、自分が損することであっても、徳を積むことをやりなさいというようなものになります。


「徳を積む」というと、なんだか高貴な感じがして、気が引けるかもしれません。

でも、実は意外と身近なことです。


日本には、「傘かしげ」という習慣がありました。

わかりますか?

傘を差して歩きながら人とすれ違うときに、スッと傘を少しかしげます。

そうすることで、傘同士がぶつからないように、相手の人に気遣うのです。


傘をかしげるとき、多少雨に濡れるかもしれませんね。

それはある意味で自分の損になることです。

けれども、多少損であっても、相手を思いやる自分であることを選択する。

つまり徳をとった(=選んだ)のです。


「いい。これぐらい損してもいい。」

「それより、そんなことに意地を張って、嫌な気分になることの方がもったいない。」


そういう気持ちです。

 

電車に乗るとき、早く席を取ろうとして、人を押しのけて我先に乗り込む人がいます。

席に座るという得をとったために、徳を失ったのです。

立っているのは辛いかもしれません。

しかしその肉体的な辛さと、徳を積めなかった精神的な辛さは、どっちが辛いのでしょうね?


それによって、自分がどの段階にいるかがわかります。


その段階が上がるに応じて、苦しみから解放され、喜びに浸ることができるのです。

 

「負けるが勝ち」という言葉もあります。

これも、同じことを言っています。

勝つことにこだわると、大事なものを失ってしまうかもしれません。


人生には勝つことよりも重要なことがある。

それがわかる人は、精神的にかなり進化しているのです。

 

「いくら精神的に進化しても、肉体的、物質的に損するなら辛いだけじゃないか。」

そう思われる方もおられるでしょう。

はたして、そうでしょうか?


少なくとも私は、損を受け入れる覚悟をすることで、運が開けてきたと感じています。

このことは、「損を引き受ける覚悟を決める」というタイトルで、ブログにも書きました。


また、ずるい生き方をすることで、自分をごまかさなければ耐えられないという状況には陥らずに済んでいます。

自分の行為に言い訳をする必要性からも解放されます。

それに一度そういう覚悟をすると、次からは徳を選ぶことが容易になります。

だんだんと自分が浄化されていくような気持ち良さがあります。


とは言え、気が付かない間に、徳から離れていることもあります。

ですからやはり、常に自分の思考に気をつけておく必要性はありますけどね。


損しても徳を選ぶ生き方。

あなたも始めてみませんか?
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:16 | Comment(0) | SJ通信過去ログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月27日

将来が不安でたまらない人へ

私は子どものころ、成長して大人になっても、社会の中で生きていけるかどうか不安でした。

「何か間違ったことをしてしまうのではないか?」

そう思うと、とても1人では生きていけない気がしたのです。


ですから、大人になりたいと思ったことはあまりありません。

親の庇護のもとでぬくぬくと生きているのが楽だと思っていましたから。


そんな私でも、少しずつ変わっていくものです。

広島大学に通うために一人暮らしを始めたことは、大きな転機となりました。


それでも、漠然とした将来への不安が、完全に消えたわけではありません。

生き方のルールを求め、ルールに従うことを考えていたのです。

完全に他者に依存したままでしたね。



そんな私も、いつしか「自信たっぷりに見える」と人から言われるほど、性格が変わってきました。

本質的な性格が変わったとは思いませんが、たしかに以前の私のように、おどおどしたところはなくなったように感じます。

そしてここ数年、さらにその変化のスピードが増しているように思います。

今や、「雨でも風でも槍でも、何でも来い!」という心境です。 (*^_^*)

 

こんなふうに変われたのは、特に「神との対話」シリーズを読み続けたことが大きく影響しているように思います。

昨年10月から精読を始めた12冊のシリーズですが、2回り目に入って、今月18日からは「神との対話B」を読み始めています。

神との対話B

その中に、将来に不安を抱えている人に対する助言が書かれていたので、それを紹介します。

 

地球は将来、破滅するかどうかを神に尋ねたとき、神はこう答えます。

あなたがどうするのか、こっちが聞いているのだよ。あなたが、思考で、言葉で、行動で決定するんじゃないか。

(中略)

あなたがたが慎重でなければ、いま向かっているところへ行き着くだろう。したがって、向かっている行き先が気に入らないなら、方向を変えることだ。

どうすれば方向を変えられるのかという問に、神はこう答えます。

内側へ入っていきなさい。内なる知恵を探ってごらん。内なる知恵が何をしろと呼びかけているか、聞いてごらん。そして、そのとおりに行動しなさい。

(中略)

いちばん大事なのは恐れないことだ。いずれにしても、あなたがたは「死ぬ」ことはないから、恐れることは何もない。プロセスの展開を認識し、すべてはうまくいくと知っておだやかにしていること。すべてのものごとの完璧さにふれようと努めなさい。どこへ進もうとも、そこはほんとうの自分を創造するという経験にふさわしい場所なのだ、ということを覚えていなさい。

これが平和への道だ。すべてのものごとに完璧性を見ること。

最後に、なにごとからも「のがれ」ようとしてはいけない。抵抗すると、相手はますます強くなる。

そしてすべてを祝い、ゲームをするように言います。

瞬間瞬間が何をもたらすように思えても、その瞬間に喜びを見いだしなさい。喜び、それがほんとうのあなたであり、いつまでもそうなのだから。

神は不完全なものを創造することはできない。神が不完全なものを創造できると思っているのなら、それは間違いだ。だから、祝いなさい。完璧さを祝いなさい!微笑み、祝い、ただ完璧さだけを見て、ひとが不完全だと言うものに不完全なかたちでふれないように、注意しなさい。

ではそれで、大きな災害などを防ぐことができるのかという問いに、神は、仮にそういうことが起こったとしても、マイナスの影響を受けることはないと答えます。

恐れずに将来に立ち向かいなさい。「プロセス」を理解し、すべてに完璧さだけを見なさい。その平和、おだやかさ、静けさは、ひとが「マイナス」だという経験や結果をあなたから遠ざけてくれるだろう。

(p.140 - 142)

 

何をすれば良いか、どうすれば良いかがわからないという問いに、神は「答は自分の中にある」と答えています。

「わからない」と思うから、答が見つからないのです。

このことは、試験の時などで何度も経験しました。

わからないと思っていると、わからないのです。答はきっと見つかるはずだと信じていると、何かのきっかけで気づくのです。


そして、何が起ころうともプロセスとしては完璧だと考えるように言います。

仮にそれが自分にとって良くないことのように思えても、その出来事があったから成長できたということが必ずあるはずだから、ということなのです。

なぜなら、生命のプロセスとは進化することだからです。

そのために様々な変化が起こり、その中で私たちは様々な出来事に出くわすのです。


もし、起こることがすべて必然で、それが自分のためになるのであったら、どうでしょうか?

このことがスーッと心の中に入ってきたとき、私は大いなるものに包まれた安心感が身体中に充満したのを覚えています。


何も不安に感じることはありません。すべては完璧なのです。

進化しない生命はありません。進化は生命のプロセスなのです。

だから安心して、目の前のゲームを楽しむことです。


実際にゲームをやってみると、失敗することもあれば、上手くいくこともあるでしょう。

失敗することは悔しいことですが、辛いことではありません。

それと同じように、自分の人生を考えてみるのです。


仮にそれが間違っていたとしても、何か問題がありますか?

しょせん、裸で生まれてきて、裸で死んでいくだけではありませんか。

死んだ後のことは、残った人に任せればよいのです。

それよりも今を、自分らしく生きましょう。

そのためにも、不安を取り除いて安心することです。

どっちに転んでも、いつかは上がるすごろくゲームなのですから。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:30 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月28日

すべてを捨てても良いと思うとき

徳島県徳島市に「マチコミ図書室」という私立の図書室があります。

ここは、将来の日本を担う子どもたちに読んでもらいたいと思う本などを置いて、子どもたちのより良い成長のために作られたものだそうです。

そしてここは、「みやざき中央新聞」の公認ライブラリーとなっています。

「マチコミ図書室」のFacebookページもあって、そこでは同紙の過去の社説なども、ときどき画像で紹介しています。

その中から、先日紹介されていた「「宮崎映画祭」がやってくる!」と題した社説を紹介したいと思います。


最初は、このタイトルを見ても何の話題かわかりませんでした。

あとでわかったのですが、これは宮崎映画祭でアカデミー短編賞を受賞した「ビザと美徳」という映画が上映されることに関連して、杉原幸子さんから伺った話について書かれたものでした。

杉原幸子さんと聞いても、ピンと来ない人は多いでしょうね。私もまったく存じ上げませんでした。

でも、杉原千畝(ちうね)さんという名前なら、多くの方がご存知でしょう。幸子さんは、千畝さんの奥さんなのです。




日本のシンドラー(※)と呼ばれた杉原千畝さん。

※1993年に公開されたスティーブン・スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」が大ヒットしたとき、日本にも同じようなことをした人がいたとして、杉原千畝氏が注目されることになったため。映画は、ドイツ人実業家のオスカー・シンドラー氏が、1,100人以上ものユダヤ人の命を救ったという実話を元に作られた。

ご存知のように、ナチスドイツのユダヤ人狩りから逃れようとした人々に対して、最後までビザを発給し続けたという外交官です。

その数、2000人以上(※)。退避命令が出されて列車に乗ってからも、なおもビザを求めて押し寄せてくる人々のために、ビザを発給し続けました。

※社説では、後に助かったユダヤ人から聞いた人数として2000人という数字が書かれています。一般的には6000人のユダヤ人が助かったと言われています。

しかしあのビザは、日本政府の命令に反して発給されたものだったのです。

その経緯が、この社説の中で書かれていました。

 

「日本経由でアメリカへ逃れたい。だからビザを発給してほしい。」

そう言ってやってくるユダヤ人が、日増しに増えていったそうです。

当時、日本はドイツと同盟関係にありました。もしビザを発給して彼らを助ければ、外交問題に発展しかねません。

もちろん自分たちも、反逆分子として制裁を加えられる恐れもあります。


幸子夫人には当時、5歳、3歳、3ヶ月という3人の子どもたちがいました。

「子どもたちを守りたい。」母として、そういう思いがあっても当然だったでしょう。

日本政府に問い合わせた返事は、「ビザを出すな」でした。

内心、ホッとしたかもしれません。「命令だから仕方ない。」そう自分に言い聞かせることもできたでしょう。

でも窓の外を見ると、遠くからやっとの思いで歩いてきたのか、ボロボロの身なりのユダヤ人たちが、祈るような目でこちらを見ています。

中には、自分の子どもと同じくらいの年に見える子どももいます。

「この人たちを見捨てて良いのか?本当にそれで良いのか?」

心の中で、何度も同じ質問をしたことでしょう。


そんなとき、5歳になる息子さんが無邪気にも尋ねたそうです。

「あの人たち、何をしているの?」

幸子夫人は、悪い人に殺されるかもしれないから、助けてほしいと言って来ているのだと説明しました。

すると、息子さんが言ったそうです。

「かわいそうだね。助けてあげようよ。」

そう説明すれば、そう答えるのは当然という答です。けれども杉原夫妻は、その息子さんの一言で心を決めたのです。

「もう自分たちのことを考えるのはやめよう。人間として行動しよう。」

自分たちが制裁を受けるかもしれない。外交問題になるかもしれない。それによって、日本国民全員から非難され、罵倒されるかもしれない。

でも、これをやらなかったら自分たちは、人間ではなくなってしまう。

杉原夫妻が、すべてを捨てる覚悟を決めた瞬間です。

 

あとになって、自分でもそうすると言うのは簡単なことです。

その渦中にあるとき、本当にそういう決断ができるでしょうか?

自分が犠牲になるだけならまだいい。

自分だけでなく、子どもも犠牲にしなければならないかもしれない。

いや、日本全体を危険な方向へ押しやることになるかもしれない。

それでも、目の前の外国人の命を守ろうと思えるでしょうか?


おそらく杉原夫妻には、日頃から人の命を大切に思う信念があり、日本人も外国人も等しく重要な価値があるという信念があったのでしょう。

だからそういういざという場面でも、命を守ろうという選択ができたのだと思うのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:59 | Comment(0) | 幸せ実践塾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月29日

何があっても大丈夫

斎藤一人さんのFacebookページに、また素敵な言葉が載っていましたので紹介します。


何があっても大丈夫
天があなたを守っているから

          ひとり



そう言われると、そんな気持ちになるから不思議です。

えっ?そんな気持ちにはなれないですって?

では、その色紙の文字に添えて書かれていたこの言葉でどうでしょう。


何かあるとすぐ「もうダメだ」と思ってしまう人がいます。

でも、そう言いながら、もう何百ぺんもその人は「もうダメだ」を乗り越 えてきたんです。

それは、いつも天が守ってくれているからですよ。

だから、今度のことも大丈夫!!

次も大丈夫!!

その次も大丈夫!!

死ぬまで大丈夫だから、安心してくださいね。



「ダメだ」「もうダメだ」と言いながらも、ここまで乗り切ってきた人が、この言葉を読んでいます。

と言うことは、これまでも何とかなってきたわけですよね。

これまででさえ何とかなってきたなら、これからだって何とかなると考えたって、間違いじゃないでしょう。

だから大丈夫なのです。


「そう言っても死んだら終りじゃないか!?」

そういう極論は大好きです。(*^_^*)

もし死んだら・・・

死んだら死んだ時ではありませんか。


どうせいつかは死にます。人間は死亡率100%だそうですから。

大丈夫。心配しなくても、死ぬべき時には間違いなく死ぬことが約束されていますので。(笑)

それが早いか遅いかだけであって、自殺でもなければ、なかなかその時期までは自分の意志で決められません。

どうせ決められないなら、心配しても意味がないではありませんか。

だから、天に任せておけば良いのです。もっとも適当な時期に死なせてくれますからね。


考えてみれば、心配するようなことは何もないのです。

「就職できなかったらどうしよう。」「結婚できなかったらどうしよう。」「リストラされたら・・・」「フラれたら・・・」「病気になったら・・・」「事故にあったら・・・」...

そうなったら、そうなったときではありませんか。

心配することで何か対策が打てるなら、その対策を打っておしまいです。

それ以上、心を乱す必要性がありません。

その対策がわからないなら、わかろうとする以外に方法がないではありませんか。

 

私はかつて、そういった心配の塊でした。

ですから、「石橋を叩いても渡らない」と自分の性格を評したのです。

バカですね。石橋を叩いたら、さらに不安になって渡れるはずがありませんよ。

不安で不安で、怖くて怖くて、仕方なかったのです。


そんな私が、「心配するな」なんてことを言っています。

笑っちゃいますよね。そのくらい別人のようになりました。


もちろん、根本のナイーブな性格が変わったわけではありません。

けれども、心配が無意味だということがわかっているから、自分の考え方を変えることができるようになったのです。


不安を手放せば自由になれます。自由なら幸せでいられます。

そして、自分らしく生きることを選択できるようになるのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:47 | Comment(0) | 幸せ実践塾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月30日

生が輝くのは死があるから

「鏡の法則」を書かれた野口嘉則さんは、Facebookページに示唆に富んだ内容をよく書かれています。

ときどき「幸せ実践塾」のFacebookページでもシェアしています。


今回、ちょうど桜のシーズンだということで、桜の写真とともに、桜にまつわる話を書いておられます。

昔から、歌によく詠まれている桜です。

それぞれの人が、様々な思いを桜に込めたのでしょう。

そうした歌を紹介した後で、野口さんはこう言います。


たしかに桜は散り際が美しいですよね。

潔く散っていく桜を見ていると、

この世の万物が絶えず変化し続けていること、
そして、形あるものは必ず滅すること
に思い至ります。

だからこそ、今この瞬間のかけがえのなさが
際立つのだと思います。



そして、桜の花人の命にたとえた歌を紹介するのです。

散る桜 残る桜も 散る桜」 (良寛さん)

明日ありと 思う心のあだ桜 
夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは
」 (親鸞上人)

そして、この親鸞上人の歌からは、野口さんが好きなマハトマ・ガンジー氏の言葉が連想されると言います。

明日死ぬと思って生きなさい

 
これを読んだあと、いつものように「神との対話」シリーズを読んでいたのですが、関係するような話が出てきました。

こういうものに偶然はありませんから、私がこういうことを考える必要があったから、魂が導いたのだと思います。

「神との対話B」から、長くなりますが引用しましょう。


神は、輪廻転生があるということを言って、生(この世)から死(あの世)へ、死から生への移動は、自分(の魂)が決めていると説明します。

どんな魂でも、意志に反した経験が訪れることはない。そもそも不可能なのだ。魂がすべての経験を創造しているのだから。魂に欠けているものは何もない。すべてをもっている。

(中略)

特定のかたちにとどまっても、もう何の役にも立たなくなったとき、魂はかたちを変える。自分の意志で、喜んで形を変え、宇宙の車輪の上を進む。大きな喜びを感じながら。

魂にとっては、生も死も、ともに幸せな経験だと言います。

しかし私たちは死について考えようとせず、わけもわからずに恐れているから、人生が理解できないのだと言うのです。

どの瞬間も始まったとたんに終わる。それがわからないと、その瞬間のどこがこのうえなく大切なのかわからず、平凡なひとときにしか思えないだろう。

どんな交流も、「はじまりが始まった」瞬間に「終りが始まる」。そのことをよく考え、深く理解してはじめて、すべての瞬間の、そして人生そのものの貴重さが充分にわかるだろう。

死を理解しなければ、生命は与えられない。理解するだけではいけない。生を愛するように、死を愛する必要がある。

これが最後だと思えば、誰かと一緒のひとときが輝くだろう。どの瞬間も、経験するのはこれが最後だと思えば、はかり知れないほど重いものになるだろう。死から目をそむけているから、自分自身の生命を考えなくなるのだよ。


だから、死を深く見つめることだと言います。死を見つめて見抜くなら、死は幻想の仮面を脱ぎ、その真の姿を見せてくれると言います。

そうすればそこに喜びを加えることができ、幻想としての死を楽しむこともできるのだと。

死は決して終わりではなく、つねにはじまりだ。死は閉じられたドアではなく、開かれたドアだ。生命が永遠であることを理解すれば、死は幻想で、その幻想があなたの意識を身体に集中させ、身体が自分だと信じさせていることがわかる。だが、あなたは身体ではない。だから、身体が朽ちても、あなたとは何のかかわりもない。

死は、真の生命とは何かを教えてくれる。生命は、避けられないのは死ではなく、移ろいゆくことだと教えている。移ろいゆく、それだけが真実だ。不変なものは何もない。すべては変わる。一瞬一瞬に、一時一時に。

そしてこれが、仏教が「諸行無常」として示したことなのです。

花が散るのを見て、あなたは悲しむだろう。だが、花は樹全体の一部で、変化してまもなく果実をつけるのだとわかれば、花の真の美しさが見える。花が開いて落ちるのは、樹が果実をつける準備だとわかれば、生命が理解できる。そこを注意深く見つめれば、生命とはそれ自身のメタファー(暗喩)であることがわかるだろう。

あなたは花ではなく、果実でもない。あなたは樹だ。あなたは、わたしのなかに深く根を張っている。わたしはあなたが芽生える土であり、あなたの花も果実もわたしに還って、わたしはさらに肥沃な土になる。こうして生命は生命を生み、決して死を知ることはない。

(p.176 - 180)


茶道では、「一期一会」と言います。

この出会いが、今生の最後の出会いかもしれないと思いながら、心をこめて客をもてなすという心です。

死という幻想があるお陰で、私たちはそういう体験ができます。

本当は分離していない「ひとつのもの」である私たちが、一度しか出会わないかもしれない、という体験ができるのです。

そうすることで、この出会いが、生命と生命の出会いが、どれほど素晴らしく価値のあるものであるかを、実感することができるのです。


そう考えるなら、死は忌み嫌うものでしょうか?

むしろ、感謝しなければならないもの、感謝したくなるものとも言えます。

幻想を幻想と見抜くなら、死は私たちの体験に役立つだけで、私たちに苦しみをもたらすものではありません。

ですから、死をしっかりと見つめるようにと、神は言うのでしょう。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 19:55 | Comment(0) | 幸せ実践塾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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