2013年03月13日

あれから2年が経過しました

3月11日は、東日本大震災があった日です。

あれからもう2年が経過したのですね。

記憶に残る大きな災害や事件・事故としては、上位3位以内に入るものだと思っています。


あの日、私はオフィスで仕事をしていました。

インターネットのニュースで大地震があったことを知りましたが、最初は、その前に新潟などであった地震と同様なものだと思っていたのです。

続いて津波警報が発令されましたが、またいつものように、津波が来てもたいしたことはないのだろうと、まったく平和ボケした気分でいたのです。

そんな私が、「これはただならないことだ」と感じたのは、「大津波警報」という文字を見た時でした。

今まで見たことがない「大津波」という文字。地震のマグニチュードも当初のM7クラスからM8クラスへ引き上げられました。(最終的にはM9クラスになりました。)


それからニュースを見ても、被災地の情報はあまり入ってきません。

それよりも、東京の帰宅難民のことが大問題になっていました。


翌日になって、やっと被災地の情報が入ってくるようになりました。

そのとき初めて、とんでもないことが起こったとわかったのです。

その日は仕事そっちのけで、ネットに流れるニュースを追っていたように記憶しています。

 

あれから2年ですか。本当に早いものです。

自然災害を天罰とか言って、神や仏が罰を下していると考える人もいるようですが、私はそういうのは信じません。

なぜなら、神や仏がそんなことをする必要性がないことが、論理的にわかっているからです。

では、なぜそういうことが起こるのか?


「神との対話」シリーズでは、それは人間の集合意識によって創造されるとあります。

どんな出来事も偶然には起こらないし、個人的な経験というレベルで言うなら、その人の承諾なしには起こらないと言うのです。

つまり、自然災害というものも、私たちグループのどこかのレベルでの思考によって起きていますが、それによって知り合いが被災するとか、自分自身が被災するなどの個人的な体験は、その人自身のどこかのレベルの思考が原因なのです。


そう聞くと、被災者や知人が被災した人は辛いかもしれません。

天罰と言われるのと同様に、「自分が何か悪いことをしたからだとでも言うのか!?」と、怒りをぶつけたくなるでしょう。

でも、「その人が悪い」という意味での原因ではありません。

このことは、簡単に説明できることではなく、また、簡単には納得できないと思います。

ですからここでは、「被災した人が悪い」ということは100%ない、ということだけわかってください。

 

私たちは、起きてしまった出来事を変えることはできません。

けれども、その出来事に対する経験を変えることはできます。


経験とは、その出来事によって何を感じたか、ということだからです。

出来事はすべて、私たちに何かを経験させるために起こります。

そして何を経験するかを決めるのは、100%私たちの意識、つまりその出来事に対する考え方なのです。



あの出来事を天罰だと考えることもできます。

そうすれば私たちは、「自分は罰をくだされるほど悪い人間なのだ、罪深い人間なのだ。」というように感じ、自己卑下したり、罪悪感を感じるでしょう。

出来事とそれに付随する感情が、私たちの経験なのです。


しかし、同じ出来事に対して、別の考え方を選択することもできます。

たとえば孟子にあるようにあれは天が与えてくれた試練で、私自身を成長させ、世の中に役立つ人間として育てるためのものだったのだと考えることもできます。

もしそう考えるなら、自己卑下したり、罪悪感を感じたりはしないでしょう。

むしろ、この経験を生かさずにはおかないと、奮起するでしょうね。


両者の違いは何なのでしょうか?

それは、起きた出来事に対してどう考えたか、つまりどういう意味を与えたかということの違いです。

孔子は、君子であっても困窮するような出来事に遭遇すると言いました。

ただ君子は、そういう出来事に遭遇しても狼狽しないのだと。


被災した事実を変えることはできません。

けれども、その出来事を生かして、前に進むことはできます。

「チャンスはピンチの顔をしてやってくる」でも書きましたが、たいへんな出来事が起こったときこそ、冷静になって考えるべきです。

私たちが、自分自身の人生をより良いものにしたいと願うなら、出来事に対する自分の考え方を点検することです。


3.11の記憶は、これからも消えることはないでしょう。

私はその出来事を、単に不幸な忌まわしい出来事としてではなく、日本の将来のために役立つ出来事として考えたいと思うのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:50 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月14日

朝の体操で心も身体も元気に

最近、朝の体操を習慣にしようと思って実践しています。

両ヒザに続いて右ヒジも痛めたことや、子どものころから身体が固かったこともあり、ストレッチなどをしなければいけないなとは思っていたのです。

それにこの年になると、四十肩や五十腰、ギックリ腰など、老齢によくある障害も心配です。

50年間、文句も言わずに私の行動を支えてくれた肉体を、もっと大事に扱ってあげないといけないなあという気持ちもあります。

年をとることで私にもやっと、肉体をメンテナンスすることの重要性が実感できるようになったということです。


そういうことがあって、ストレッチ系の体操をやることにしました。

やる内容に特に決め事はないのですが、主にこんなことをやっています。

背伸びや肩回し・・・これは四十肩とか五十肩と呼ばれる障害を防止するためです。
アキレス腱伸ばしと前後開脚・・・アキレス腱の障害を防止するためと、股関節の障害を防止するためです。
脚回しとヒザ回し・・・股関節と膝関節の柔軟性を保つことと、その周りの筋肉強化のためです。
肩入れ・・・肩関節の柔軟性を保つためです。
首曲げ首まわし・・・首関節の柔軟性を保つためです。

他にも気持ちよくなるようなストレッチングをやってます。


まったくの我流ですが、痛くならない程度に徐々に約10秒かけて伸ばします。

旋回系も、それぞれ10回ずつやります。

これだけやって、だいたい5〜10分で収まります。


心なしか、不安だった膝関節がしっかりしてきたような気がしています。

今までは階段を降りるときなど、グキッといってしまうのではないかという不安があり、つま先からそっと下ろしながら階段を降りたのです。

それが最近は、まだ同じようにやってますけど、以前ほどヒザを心配しなくなりました。


この感覚は、ヒザを痛めた人にしかわからないかもしれませんね。

痛くはないのですが、関節周りが弱くて、無理な力がかかるとグキッといきそうな感覚があるのです。

今は、右ヒザにまだその感覚が残っていますが、左ヒザはほとんどなくなりました。

これがなくなると、思い切り走れるのですけどね。


幸せになるのに重要なのは精神、つまり思考をコントロールすることですが、だからと言って、肉体的なことを疎かにして良いということではありません。

なぜなら、肉体をどう扱うかという考え方(思考)が、幸せになる上でも重要になるからです。

健康な肉体であることが重要なのではなく、健康な肉体であろうとすることが重要なのです。


これはまた、お金に対しても同じことが言えます。

幸せになるのに、十分な、あるいはそれ以上のお金を稼ぐこととか、お金を持っていることが重要なわけではありません。

けれどもそれは、お金を粗末に扱って良いということではないのです。

お金を大切に扱おうとする考え方(思考)が、幸せになる上で重要なのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 11:58 | Comment(0) | 実践内容 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月15日

マザー・テレサの名言

マザー・テレサを知らない人は、おそらくいないでしょうね。

世界中で「マザー」と言えば、マザー・テレサのことを指すとも言われます。

それだけ多くの人から愛され、支持された女性です。


では、マザー・テレサが何をしたかご存知ですか?

ノーベル賞を受賞するほど有名な方ですが、彼女がやったのは大したことではありません。

街に出かけて、もう死を待つばかりで横たわっている人を見つけては、連れて帰って水を与えたり、身体を拭いてあげたりしたのです。

もちろん、それとて普通の人が簡単にできることではありません。

ですがマザーは、どんな人に対してもその内に神を見るように接し、汚いとか、わずらわしいなどとは思わなかったのです。


「そんな死ぬことが確実な人の世話をするより、介抱すれば助かりそうな人を助けた方が、世の中の役に立つのではありませんか?」

ある人が、そうマザーに助言したそうです。

それに対してマザーは、こんなことを言ったそうです。

「この人たちは、生まれてきて良かったと思うことなく、死のうとしています。ですから私は、この人たちのこの世の命を助けようとしているのではなく、生まれてきて良かったと思ってもらうために介抱しているのです。」


人としてこの世に生まれた以上、いつかはこの世を去る時がやってきます。

その死の時、生まれてきたことを恨んで死ぬより、満足して死ねる方が素晴らしいと思いませんか?

人間には、その価値がある。だから、人間としての尊厳を思い出してもらおうとして、マザーは死にそうな人の心を助けようとしたのです。


今日、Facebookで紹介されていたマザーの言葉を読んで、改めてマザーの偉大さを実感しました。

その言葉を引用しましょう。


人は不合理、非論理、利己的です。
気にすることなく、人を愛しなさい。

あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。
気にすることなく、善を行いなさい。

目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。
気にすることなく、やり遂げなさい。

善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう
気にすることなくし善を行い続けなさい。

あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。
気にすることなく正直で誠実であり続けないさい。

助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。
気にすることなく助け続けなさい。

あなたの中の最良のものを世に与え続けなさい。
けり返されるかもしれません。
気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。



価値観というものは人それぞれです。何を「善い」と言い、何を「悪い」と呼ぶかは、それぞれの人が決めるのです。

けれども多くの人は、「常識だ」とか「一般的に」などと言って、自分の価値観を他人に押し付け、他人をコントロールしようとします。

マザーはそのことに対して、抵抗するように訴えます。

自分自身の価値観にしたがって、他人を気にせず自分らしい行動をしなさいと励ますのです。


また、もし、それまでの価値観が今の自分にふさわしくないと感じる時が来たら、そのときは迷わずに大胆に価値観を変えることも大切です。

もう古い価値観に縛られていてはいけません。卒業の時なのですから。

常に今の自分にしたがうこと。体験の中に自分の声を聞くこと。

それが大切なことだと思うのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:52 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月16日

オンライン講座を始めました

幸せ実践塾のオンライン講座を始めました。

ナレッジサーブのシステムを利用したもので、以下のネット講座になります。


ネット講座「幸せな生き方を実践する講座」

ネット講座「幸せな生き方を実践する講座」


月額2,000円ですが、第1章だけ無料お試し受講が可能です。

しかも、その第1章に講座内容のすべてのエッセンスが書かれているという、サービス精神が旺盛なのか、単にバカなのか、よくわからないと言われるしろものです。

なので、お試し受講だけされて、そのエッセンスとなる知識を得て、あとは自分で実践するという方法もありです。

そのやり方なら、1円も使わずにやれますからね。


もちろん、正式受講されるのもOKです。

これも月額2,000円ですが、テキストの内容を読むだけなら、1週間も必要ではなく、1日でOKという量です。

しかも最後の第8章には、PDF版のテキストがダウンロードできるようになっていますので、あとで何度でもテキストを読み直すこともできます。

つまり、受講期間は無制限ですが、2,000円払って1ヶ月だけ受講するという方法も可能なのです。


「じゃあ、何のために受講期間を無制限にしているの?」

ということになりますが、この正式受講中の特典として、メール相談が受けられるようになっているのです。

メールを読んで、それに対して返事を出すというのは、けっこうな時間がとられるものです。

仮に1回のメールのやりとりで1時間使うとすれば、月に2回、メールのやりとりをした場合の私の時給は1,000円ということです。

破格だと思いませんか?


1度でも私のメール相談を受けた方ならおわかりでしょうけど、私の返信はすっごく長いです。

しかも情熱的です。それだけ、精魂を傾けて返信を書いています。

ただ書いて送るだけではなく、何度も読み直しをします。

ですから、1通のメールのやり取りに、本当に1時間くらいかかるのです。


たとえばこのブログを書くのでも、1記事にだいたい1時間くらいかかります。

つまり、メール相談をされる方のためだけに、ブログの記事を書くのと同じくらいのことをやるのです。


と言うことで、それだけの価値があるなと思われた方だけ、正式受講を継続していただければと思っているのです。

なお正確には、受講料の大半はナレッジサーブのシステム使用料として支払われるので、私が受け取る分は多くありません。

時給1,000円どころか、500円以下になりそうな感じです。

まあでも、この講座を受講された方が、一歩でも幸せに近づけたと思っていただけるなら、こんな嬉しいことはありませんからね。

私が忙しくて手が回らなくなれば、値上げするかもしれませんけど、それまではこの値段でやっていくつもりです。


なお、メール相談やセッションなどは、SJ会員に登録していただいても、割引価格で受けることができます。

ご希望の方がおられましたら、そちらもご検討ください。


また、Facebookに幸せ実践塾のページを作りました。

Facebookをされてる方は、こちらに「いいね!」していただけるとありがたいです。

ときどき、お知らせや有意義な情報を書こうと思っています。


Facebookページ「幸せ実践塾」

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どうぞ、よろしくお願いします。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 17:48 | Comment(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月18日

子育ては老人が担うべき仕事

昨日、「神との対話A」を読み終え、引き続いて「神との対話B」を読み始めました。

「神との対話A」から「神との対話B」へ

いつも言うことですが、何度読んでも「神との対話」シリーズは飽きません。

そのたびに新たな気づきがあります。


昨年10月から精読を始めたときは、気になったところに青ペンで線を引きました。

今回は赤ペンで線を引いていますが、必ずしも同じ場所に引くとは限りません。

前回は何となく読んでスルーしてしまったところが、今回は気になったのです。


昨夜から今朝にかけて読んだところに、子育てに関する記述がありました。

その中で、子育ての問題について語っています。

この世の子育ての問題は、親が子を所有するという考え方によるものだと言います。

つまり子どもは親の所有物だから、親が子育ての責任を担わなくてはならない、という価値観です。


そう指摘されてみると、たしかに私たちは、「親が子を責任持って育てるのは当然だろう。」と、無意識に感じています。

でも、それは本当でしょうか?


「何言ってるの?動物だって、子を育てるのは親じゃないの。親が子を育てるのは、義務とか責任とか言う以前のことでしょう。」

そういう反論があるのはわかってます。

けれど、そうとは言い切れない思いもあるのです。


まず人間は、子育てに非常に長い時間がかかります。

動物では、最長でもだいたい1年でしょう。

もちろん寿命の違いもありますが、親が次の子どもを産む段階になれば、それまでの子育ては終わるというのが動物界の子育てです。

けれども人間は、今では20年くらい子育てをします。

肉体的な成長もそうですが、精神的な成長にも子育てが影響します。いわゆる教育の問題です。

同じ「子育て」とは言っても、動物のそれとはまったく次元が異なっているのではないでしょうか?


私は、広島大学の学校教育学部を中退しました。

理由は人生をリセットするためというのがメインでしたが、少なからず「私のような人間が教師になってはいけない」という思いもありました。

「自分自身でさえきちんと導けないような人間が、他人を教えるなんておこがましいにも程がある。」

TVドラマの「金八先生」を観て、あんな先生になりたいと憧れていました。

けれども、私にそんな資格(資質)があるのだろうかと考えると、どうしても踏み出すことができなかったのです。

「神との対話B」にも、この世では自分の精神を養っている段階で子育ての責任まで負わされるため、無理が生じているのだと指摘します。

そのことが自分の経験と照らしあわせて、とてもしっくりするのです。


私の妹に子どもがいるので、ときどき田舎の実家へ連れて帰っていました。

孫がかわいい私の両親は、それはそれは満面の笑顔でかわいがっていました。

その姿を見たとき、私はこう思ったのです。

「私も、こんなふうに育てられたかったなあ。」

少々の間違いを叱られることもなく、余裕を持って受け入れてくれます。

考えてみれば、当然のことですね。私の親もまた、年月とともに成長したのです。


私が子どものころ、両親は30〜40歳くらいでした。

まだ精神的に熟してはいなかったのです。

仕事上のストレス、日常生活のストレス、そこに子育てのストレスが重なったのでしょう。

自分勝手で、理屈よりも自己都合を優先する父親の態度に、私は腹を立てました。

そんな父親から叩かれたり、倉庫に閉じ込められたりされることを恨みました。

甘えたいときに甘えさせてくれない母親を憎みました。

大好きな両親、もっとも愛したい両親を受け入れられないことに苦しんだのです。

 

子どもを産むのは若者の役割です。

けれども、だからと言って子育ての責任まで負わせる必要があるのでしょうか?



もし、社会システムが変化して、親が子育ての責任を追求されることが一切なくなったら、どうなると思いますが?

まず、人口減少に歯止めがかかるでしょう。逆に、わずかながら上昇に転ずると思います。

そして、保育所の待機児童問題が解消します。


働く世代が子育てしようとするから、保育所が大量に必要になるのです。

子どもを老齢者が預かるようになれば、本当の意味での保育所は、それほど要らないのです。


「そんなことをしたら、親子関係が上手く行かなくなる。親からの愛情をもらえなかった子が、精神的にひねくれてしまうじゃないか。」

そう反論したい人もおられるでしょう。でもそれは、杞憂というか、それこそ偏見だと思うのです。

親が子を捨てるわけではありません。同居も可能です。ただ、社会全体で子育てを行うというシステムを導入するだけです。

現に、昔の日本にはそれがありました。

乳母の存在です。

また長屋など、近所同士で助け合うというシステムも自然にありました。

子どもたちは親がいないときも、近所の家に上がり込んで、そこの大人が面倒をみたのです。


子どもを親の所有物と考えている限り、親は子育ての費用をすべて負担することになります。

だから子どもを産めないし、産む年齢が高くなるし、保育所の待機児童の問題も起こるのです。

 

もし、社会全体で子育てをすると決めたら、どうなるでしょう?

「子は国の宝」と思うのでしたら、それは自然なことでしょう。


たとえば、子どもが生まれたらその子に子育て費用が国から支給されます。

1人につき月額10万円です。

因みに日本の20歳以下の人口は、約2,400万人です。

1人に年間120万円を支給すると、約28兆円の予算が必要です。

消費税でまかなうなら14%分です。

このくらい負担できませんか?


もしこれが実現すれば、母子家庭の貧困問題が解消します。

保育園の待機児童問題も解消するし、児童虐待問題も緩和されるでしょう。

そして何より、より多くの子どもがたっぷり愛されて育つようになるため、非行や犯罪なども減少するはずです。


理想論に思われるかもしれませんが、他人の子どもは自分とは関係がないという考え方を持ち続ける限り、私たちの社会が抱えている問題は解消しません。

なぜなら、それは私たちの本質に反するからです。

私たちの本質とは、私たちは「ひとつのもの」だということです。

他人のことを自分のこととして考えない限り、問題は解決しないと思うのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:14 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月19日

池上彰の宗教がわかれば世界が見える



「池上彰と考える、仏教って何ですか?」に続いて、世界の宗教について書かれた本を読んでみました。

前半は、池上彰さんが体験的に知った世界と宗教の関わりについて書かれています。

特に政治と宗教がいかに密接につながっているかがわかります。

アメリカがキリスト教、特にプロテスタントの宗教国だってこと、私を含めて多くの人が意識していなかったでしょうね。

イスラム国家だけが宗教国のように思われますが、実はぜんぜん違うということです。

また、独特の切り口で、中国もまた宗教国家だと言います。

なるほど、そういう見方があったのかと、これまた目からウロコです。


後半は、それぞれの宗教に詳しい方々との対談となっていて、その宗教の本質をえぐり出そうとしています。

なかなか難しい試みで、消化不足のように感じる部分もありますが、全体的には非常にわかりやすいです。


イスラム教に関しては、私もあまりよく知っていなかったのですが、アラーがGODと同じ意味だというのには驚きました。

つまり「アラーという神」を信じる宗教ではなく、単に「神」を信じる宗教なのです。

神は唯一ですべてですから、神以外に神は存在しません。ヤーウェもエホバもゴッドもアラーも、言語が違っているだけで、意味は単に「神」だったのです。

その神について、「我ら民族こそが選民だ」と考えているのがユダヤ教で、「イエスという人の形で神が現れ、すべての民を救うと言った」ということを信じるのがキリスト教です。


ユダヤ教はイエスを神とは認めませんし、メシア(救い主=キリスト)とも認めません。

キリスト教は、ユダヤ教の律法は旧(ふる)い神との契約で、イエスが現れて、人は新しい契約を神と結んだのだとします。

ですからキリスト教の聖書には、旧約聖書と新約聖書があるのです。

旧約聖書とはユダヤ教の聖書です。


一方、イスラム教の創始者のムハンマド(モハメット)は、天使から啓示を受け、神の言葉を伝えることにしました。

そしてユダヤ教徒が多くいた土地でそれを語ったのですが、ユダヤ教徒はこれを信じませんでした。

なぜなら、ムハンマドがアラブ人で、アラビア語で語ったから。神がアラビア語で預言されることなどないというわけです。

ユダヤ教徒から受け入れてもらえなかったムハンマドは、ユダヤ教とは別の宗教、つまりイスラム教を打ち立てます。

ユダヤ教徒は神の新たな預言を受け入れなかったのだから、神は彼らか離れ、自分たちを祝福してくださると考えたのです。


こうして、同じ「神」を信じる3つの考え方が、それぞれの宗教となったというわけです。

なるほど、そういう成り立ちがあったわけですね。

兄弟のような宗教と言われますが、まさにその通りでした。

日本人からすれば、同じ宗教の宗派にすぎないんじゃないかと思うほどです。


最後に、「宗教はよく死ぬための予習」と題して、日本人の宗教との関わりについて書いています。

ただこれは、本のタイトルとはまったくかけ離れた内容で、こういう結論をもってくると、本全体がチグハグな感じがします。

まあでも、世界の宗教を知るための入門書としては、非常にわかりやすく書かれていると思います。

池上彰の宗教がわかれば世界が見える
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:07 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月20日

巡るサービス



需要がそれほどあるとも思えない地方のビジネスホテルが、90%を超える高稼働率を維持して大繁盛している。

どうしてそんなことが可能になったのか?


もうこれだけでワクワクして、答を知りたくて知りたくて、買っちゃいました。(^^)

でも、読み始めてすぐに、これは私自身へのメッセージだと気づいたのです。


顧客サービスということはよく言われますが、サービスではいけないと言います。サービスではなく、ホスピタリティが重要なのだと。

では、サービスとホスピタリティとは、何がどう違うのでしょうか?

本書では、それを単純明快に示します。

サービスは、全員に平等に提供するもの。ホスピタリティは、目の前のその人に対してだけ行うもの。

ホテルのガウンが気に入ったから欲しいという客に、ちゅうちょなく「差し上げますよ」と言えるのがホスピタリティ。

そこを、「この客にそれをやったら、他の客にも同様にしなければならなくなる。」と怖れて、断ってしまうのがサービス。


このホテルの従業員が宿泊客に対して行なっているのは、純粋に一人ひとりの客に関心を寄せ、喜んでもらいたいという気持ちの表現なのです。

これを愛と呼ばずに、何と呼べるでしょうか。


これを読みながら、私は深く反省しました。

「私は私の会社の社員を、本当に愛していただろうか?」

大事に思っていると言いながら、平等に接することを考えていました。

社員の結婚式だって、全員の結婚式に都合よく出られるとは限らないからという理由で、不平等にならないようにと考えました。

それで、出席する回数を絞ろうとして、一定のポジション以上の社員の結婚式にだけ、出席するように決めていたのです。

まさに本が指摘するサービスを行なっていたのであって、ホスピタリティではなかった。愛ではなかったのです。


そう考えると、他にも私自身の問題点が見えてきました。

「私は社員のことを、どれだけ知っているのだろう?本当に関心を寄せていたのだろうか?」

上司というのはうっとうしいものだという考えから、なるべく関わらない方が社員も喜ぶだろうと思って、遠慮していたのです。

会社の旅行も、最初は社員と一緒にバスに乗って行ったのですが、日本人に社員が気を使うのです。

タイ語がわからないから、通訳の子がずっとつきっきりです。

そういうのを申し訳ないと思い、次からは会社の乗用車で行くようになり、ついにはパーティーだけ参加するとか、まったく行かないというようになっていました。

その遠慮が習い性となって、いつしかよそよそしい関係になっていたのですね。


私が社員を愛さないのなら、社員がお客様を愛さなくなっても当然ですよね。

社員同士だって、愛さなくなるでしょう。

正直に言えば、いくら言っても、社員が言うとおりに動かないことを、不満に感じていた私です。

でもそれは、私が間違っていました。

大切なのは動けと言うことではなく、私自身が示すことだったのです。



この本は、まさに私のために書かれた本でした。

本当に愛するとはどういうことなのかを、改めて気づかせてもらいました。

この時期にこの本に出会えたことを、心から感謝します。

巡るサービス
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:02 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月21日

それを知りたかったら、それを教えなさい

「お金儲けの方法は、お金をたくさん儲けている人がよく知っている。だから、お金儲けをしていない学者の言うことを聞くより、お金持ちに尋ねるのが正しい。

こんな話をよく耳にします。

特に情報商材などのセールスレターなどで。


それもたしかに一理あるのですが、私は、必ずしもそうではないと思っています。

たとえば、こんなことも言われますよね。

「名プレーヤー、必ずしも名監督ならず。」


野球の場合が多いですけど、プロ選手として活躍した人が、必ずしもリーダーとして成功するとは限らないのです。

つまり、自分でやることに長けている人と、それを教えることに長けている人は、一致するわけではないということです。

そうであるなら、お金儲けの上手い人が、必ずしもその教え方が上手いわけでもありませんよね。


もう1つ、こんなことをよく言われます。

「それを教える者が、もっともよくそれを学ぶ。」

どういうことかと言うと、教わっている人よりも教えている人の方が、その教えている内容を学ぶことになる、と言うことです。


実はこれ、私は経験上、よくわかるのです。

小学校、中学校のころですが、私は勉強がよくできる子でした。

特に算数や数学は抜群で、授業中に困るようなことはまったくありません。

しかし、同じクラスの中には、理解の遅い生徒もけっこういます。

授業は、理解が遅い生徒のペースで行われるため、私は暇で暇で仕方ありません。

すると先生がこう言うのです。「赤木くん、隣りの子に教えてあげてね。」

私は、理解が遅い子がわかりやすいように、丁寧に教えます。

するとそのことによって、私はその内容がより深くわかるようになったし、覚えようとしなくても覚えられたのです。

そのお陰で私は、算数や数学の復習をすることが全くなかったのに、優秀な成績を保てたのです。


また、広島大学の時には中学生の家庭教師というアルバイトもしました。

中学校の教科書なんて、もう何年も見ていません。教える内容も、一から勉強しなければならない感じです。

あることを教えようとすると、「なぜそうなっているのだろう?」という疑問が次々に出てきます。

それらについても調べていると、けっきょく、教えることの何倍も勉強することになったのです。


こうした経験から言えるのは、「本当にそのことを学びたいと思うなら、誰かに教えようとするのが一番だな。」と言うことなのです。

つまり、そのことを深く知っているから教えるのではなく、深く知りたいと思うから教えるのです。

 

このことは、「神との対話」シリーズにも書かれていました。

私たちは、知っていることしか体験できません。ですから、「経験」の前に「知る」ことが大切なのです。

たとえば、もし自分が金持ちになりたいのであれば、その「経験」をしたいのであれば、その前に「自分は金持ちだ」ということを「知る」必要があるのです。

けれども私たちは、経験していないことを知ることができません。

そこにジレンマがあるのです。


そこで神は、私たちは本当はすべてを知っていると言います。

そしてもし、それを知っているということを知りたいのであれば、誰かに教えることだと言うのです。

教えるためには、それを知っていなければなりません。

したがって、教えるという行為をすることによって、自分がそれを知っているということを経験する(=知る)ことになるのです。

そして、自分がそれを知っていることを知ったのですから、「それを知っている」という経験が導かれると言うのです。


わかりますか?

私たちは「忘却」によって、知っていることを忘れているだけです。

そのことを認め、本当は知っているんだよと気づくことで、その知りたい(=忘れている)知識が与えられる(=思い出す)のです。

ですから今は知らないことであっても、それを知って体験したいと思うなら、それを教えるべきなのです。


と言うことで、私はこうして幸せや愛について語っています。

それは私自身がもっともっと知りたい(=思い出したい)からです。

以前と比べたら、随分と進歩したと思っています。何が起ころうと、幸せでいられる自信はありますから。

でも、昨日の記事の「巡るサービス」でも書いたように、ついつい現実のドラマにのめり込んで、自分を見失ってしまうこともあります。

ですから、もっともっと進化したいのです。

私が誰かに教えるのは、私自身がもっともっと進化するためです。

そして、そうやって私が私のために進化しようとすることが、また他の人のためにもなると思っているのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:03 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月22日

幸せになりたいなら、幸せになりなさい

またまた禅問答みたいでスミマセン。

でも、これもまた真実なのですよ。

「幸せになりたいなら、幸せになりなさい。」


何かがなければ幸せになれないというように、幸せになる条件を考えるから、なかなか幸せになれないのです。

違いますか?

「同期の子も後輩も結婚して辞めていくのに、私だけ結婚できずに残ってしまう。私も幸せになりたーい!」

結婚することが幸せだと思っているのですね。


お金があったら幸せ。希望どおりの就職ができたら幸せ。病気が治ったら幸せ。子どもができたら幸せ。・・・

そんなふうに、何かの条件を原因とし、幸せな状態を結果と考えるから、なかなか幸せになれません。


もちろん、そういう条件が揃えば「幸せになりやすい」というのも事実です。

しかし、幸せになるかどうかを決めているのは自分の心です。そこに気が付かない限り、仮に幸せになったとしても、すぐにまた転落してしまうでしょう。

幸せになると、その条件が消えてしまうことを怖れるからです。

あるいは、条件は変わらなくても、それに慣れてしまって、「もっともっと」と餓鬼道を突き進むことにもなります。


「足るを知る」という言葉があります。

これは、高望みをすると叶えられずに失望するから、現状で満足しなさい、という意味のように考えられています。

しかし、その解釈は間違っていると思います。


私の解釈は、現状の中に幸せの種を見つけて満足することで、さらなる幸せを引き寄せることができる、というものです。

ないものを探して不満を抱えるのではなく、あるものを探して満足感に浸る。

そうすると、その満足感が原因となって、満足感を体験するような出来事が結果として引き寄せられるのです。



ですから、幸せになりたかったら、まず幸せになることなのです。

「美味しいものを食べたら、いつでも幸せな気分になれます。」

こういう女性はけっこういますよね。

「お前、安上がりでいいなあ。」なんて言われても、「てへっ」と笑ってしまう憎めないキャラ。

こういう人は、幸せになりやすいですよね。


もちろんそういう人でも、仮に美味しいものが食べられなくても、幸せになることができると知っていれば、もう鬼に金棒です。

「気持ちいい朝の空気だな。こんな空気を味わえるなんて、なんで幸せなんだろう。」

「今日の夕日はとってもきれいだなあ。こんな夕日が見られて幸せ。」

最初は、ぎこちなくてもかまいません。

そのうち慣れて、本当に幸せを感じられるようになります。


私は東京で暮らしていたとき、電車の中で泣きそうなくらい幸せな気分になったことがありました。

あのときは、「のど」の仕組みを考えていたのです。

私たちは無意識に息をしたり、ものを飲み込んだりしてますが、よくよく考えると不思議だと思いませんか?

同じようなところに気管と食道があって、どうして間違わずに入っていくのだろうって思ったのです。

生まれた時から、誰に教わるでもなく、そんなことをしていました。そのお陰で生き続けてこれたとも言えます。

「いったい誰がこんな仕組みを考えて、無意識にできるようにしてくれたんだろう?」

そんなことを考えると、息ができることが、ものを飲み込めることが、ありがたくて、ありがたくて、仕方ない気持ちになったのです。

誰に対してということもなく、ただただ感謝したい気持ちになったとき、涙がこぼれそうになりました。


考えてみると、私は以前からそんなことをやってたのですね。

今は意識してそういうことをやってますけど。

でも、これは意識してやるべきだと思います。

もし、あなたが幸せになりたいと思うなら、意識してやりましょうよ。そうすれば、今すぐにでも、幸せになれます。

そして、これを続けることで、あらゆる不安から解き放たれて、幸せの中で生きられるようになるのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:05 | Comment(0) | 幸せ実践塾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月23日

「困ったこと」か「面白いこと」か

「幸せ実践塾」というFacebookページを作ったことを、先日お知らせしました。

Facebookページ「幸せ実践塾」

そちらでは主に、他のFacebookユーザーが発信している「幸せを感じられる情報」をシェアするようにしています。


斎藤一人さんのFacebookページもあって、そちらには斎藤一人さんの言葉や、笑える写真などが紹介されています。

今日も、その中から一部をシェアさせていただきました。

その言葉がとても良かったので、こちらでも紹介しますね。


困ったことがおきたら
面白いことがおきたと言ってみな
奇跡がおきるから

          ひとり



斎藤一人さんは、「ツイてる」と言うだけでいいんだと言います。

そう言いながら、ツイてないと考えることは難しいから、そう言っているうちにツイてることを実感するようになり、さらにツイてることが起こるからと言うのです。

上記の言葉も、斎藤さんらしいです。

「ありがとう」と言うのと同じで、起きた出来事をまず「面白いこと」だと考えてみなさい、と言うのです。

その習慣が身につけば、奇跡が起こって、本当に面白いことが起こるようになるからと。


今、「「原因」と「結果」の法則」を読んでいますが、そこにもそういうことが書かれています。

「「原因」と「結果」の法則」

この本は、今から100年以上前にジェームズ・アレンによって書かれたもので、引き寄せとか潜在意識の働きとして、思考が原因で出来事が結果だという思想のバイブル的な存在です。

以前に一度読んだのですが、そのときはシリーズで4冊あるとは知らず、1冊目だけを読んでいました。

ちょうどそれを知る機会があったので、4冊まとめて買って読んでいます。


さっそく、私の求めていた答に出会いました。

2冊目のp.62に「従業員とのトラブルが絶えない人へ」というタイトルがあり、すぐにこれは私へのメッセージだと感じたのです。

そこには、トラブルの原因は従業員ではなく、私自身だと書かれていました。

つまり、私の考え方が原因となって、トラブルという結果が表れているのだと。

そしてその解決方法ですが、それは黄金律を適用することでした。

自分が従業員だったときにしてほしかったことを、今、彼らにしてあげなさい。


知ってはいたのに、すぐに思い出さないことはあるものです。

でもこうやって、必要なときに思い出させてくれる。

本当に、ありがたいことだなあと思うのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 14:40 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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