昨日、スロートレーニングを紹介されている山田豊治さんとホテルで会いました。
58歳とは思えない筋肉隆々の方ですが、けして怖い方ではなく、気さくな方です。
昨年、タイに来られるときに知り合いを通じて紹介され、それ以来、Facebookでつながっていました。
インターネットで月に500万円以上の収入を得たこともあるという、すごい方なのですね。
昨日は、タイと日本を行ったり来たりしながら生活したいと考えている人のためのアドバイスがほしいと言われ、対談させていただきました。
私は映っていませんが、対談の動画を録画されたので、近々、有料で公開するような話をされてましたね。
気になる方は、山田さんのメルマガに登録しておかれると良いでしょう。
昨夜は、また妻と一緒に映画を見ました。
ダイ・ハードです。ウイリー・ウイリアムスが、父親役で出ていましたね。懐かしいです。
ネタバレになるから詳しくは書きませんが、アクションは十分に楽しめました。
ただ、初期のダイ・ハードにあったような、ウイリーが半ベソをかきながら、愚痴りながらも悪に立ち向かうという感じではありません。
やはり父親としての責任感でしょうか。
「おまえ、何やってるの?こうすればいいんだよ。」
そんな感じで、ひょうひょうとやってのけます。
まあ、人は変化するものですから、映画の登場人物としても、変化していくのでしょうね。
映画の前に、韓国料理屋で焼肉を食べました。
この日は年に4回あるブッダの日(仏教上の重要な祭日)で、ホテル以外は酒類の販売が禁止されます。
まあ、原則的にということですけどね。
そのため、歓楽街は休みのところが多かったと思います。
それなのに、ビールを飲ませてもらいました。
このビルの上がホテルになっているから、このレストランはホテル内のレストランと同じ扱いになっているのかもしれませんね。
飲めないと思っていただけにラッキーでした。
さて、前置きが長くなりましたが、今日の本題です。
例によって、毎日読んでいる「神との対話」シリーズについてです。
一回り終わって、また最初の「神との対話」を読んでいますが、この本を読むのはもう5回目くらいだと思います。
前回は青いボールペンで線を引きながら精読したのですが、今回は赤いボールペンで線を引いています。
面白いことに、前回引いたところとは別の場所に線を引くことがけっこうあります。
それだけ、読むごとに感じ方が変わっているということでしょうね。
昨日から今朝にかけて読んだのは、幸せな人間関係を築く方法でした。
p.164から書かれていますが、p.169まで読みました。
まず驚くべきことは、人間関係においては自己中心的であるべきだと言うのです。
この表現だと、おそらく多くの人は勘違いするでしょうね。
でも、よくよく読んで理解すると、なるほどと納得するのです。
自己中心的という意味は、相手との関係の中でも、自分が何を考えているのか、どうしたいと思っているのかということに関心を払うということです。
たとえば相手が言うことを聞かないとき、「何で言うことを聞かないんだ!」と怒るのは、怒って相手を変えようとする行為です。
つまり、関心が相手に向いているのであって、自分に向いているのではありません。
ですから、自己中心的になるという意味は、まずは自分の感情に注目し、しっかりと受け止めることです。
「あー、今自分は怒っているんだなあ。どうして怒っているんだろう?相手が言うことを聞かないと、どうして怒りの感情が湧いてくるんだろう?」
そういうように、常に自分のことに注意を払うということなのです。
また、こういうことが書かれています。
「ほとんどのひとは、相手との関係で何を与えられるだろうかと考えるのではなく、何が得られるだろうかと考えて、関係を結ぶ。」
(中略)
「「あなたを失望させたくない」ばかりに、相手はほんとうの自分らしくない努力をし、自分らしくない行動をしようとして、やがてはそれに耐えられなくなる。相手は、あなたの期待を満たせなくなる。割り当てられた役割を演じられなくなる。そこで、恨みが生じる、怒りが湧き起こる。」
(P.165-166)
どうですか?核心をついていると思いませんか?
相手を愛すると言いながら、実は愛されたいと願っているのです。
愛されたいという願いを叶えるために、その取引材料として、愛そうとするのです。
ですから、思ったような愛が得られないとき、取引材料である愛を惜しむことで相手を脅して、相手の愛を得ようとします。
「言うことを聞かないなら、ママはもう知りません。勝手にしなさい!」
そう言って子どもを叱るとき、それは子どもから愛(=従順)を得られないから、代わりに自分の愛を与えないぞと脅して、従わせようとしているのです。
「いつも私から電話をして、あいつはちっとも電話をしてくれない。そんなに無関心な態度をとるなら、浮気しちゃうぞー。他のボーイフレンドと会ってみようかな。」
そう考えるとき、彼氏からの愛(=関心)を得られないから、代わりに自分の愛がなくなるぞと脅すことで、彼氏の愛を引き出そうとしているのです。
こういう相手に対する強制は愛ではないし、相手の自由を奪うものです。
相手がその人の愛を必要としている場合、仕方なく自分らしさを捨て、その人にしたがうかもしれません。
けれども、それは長くは続きません。人は、自分らしく生きないことには耐えられないからです。
そして、自分らしくない生き方をさせようとした相手を恨むことになるのです。
あるいは、そういう生き方をしてしまった自分を恨み、自分を愛せなくなるのです。
このように、人間関係の破綻は、相手に関心を払うことによって生じると言います。
相手がどう考えるとか、どう行動するとかに関係なく、そういう出来事に対して自分がどう考えるかに常に注目する。
それが、人間関係を役立てることになるし、幸せな人間関係を築くコツだと言うのです。
いかがですか?なかなか奥深くて、核心をついていると思いませんか?
この「神との対話」ですが、買ったのはおそらく1997年の10月くらいではなかったかと思います。
と言うのは、この本は初版で、発行が1997年9月30日となっているからです。
最初に読んでから、もう15年が過ぎたのですね。
本はボロボロですが、内容はいまだに色あせていません。
これからも、読み続けたいと思っています。
2013年02月26日
2013年02月27日
同じ事情で相反する判決が
昨日、ネットでニュースを見ていたら、興味深いものがありました。
それは、大阪市で起こった中年の男が実の姉を殺したという殺人事件の、二審判決を伝えるものでした。
犯人の男は発達障害の一種のアスペルガー症候群と認定されていました。
そして一審の判決では、この病気のために再犯の恐れがあるが、社会に受け皿がないため、なるべく長く社会から隔離しておくことが社会の利益になるとして、求刑より4年長い懲役20年が下されたのです。
この一審判決を報じるニュースを見たとき、私は違和感を覚えました。
社会がその責任を果たさないという理由で個人の自由を奪って良いものでしょうか?
現在の法律では、精神障害などで本人に責任能力が足りないと判断されると、それに応じて罪に問われる度合いも減らされることになっています。
それが良いかどうかは別として、その法体系からしても、矛盾があると感じました。
案の定、日本社会福祉士会や日本弁護士連合会なども、「障害への無理解と偏見に基づく判決だ」として、抗議の声を上げました。
そして迎えた大阪高裁での二審判決だったのです。
判決では、「犯行の動機に障害が大きく影響しており、責任を軽くする事情ととらえるべきだ」として、一審とはまったく逆の見方を示しました。
そして求刑よりも短い懲役14年を言い渡したのです。
この一連の出来事で私が感じたのは、裁判というのは、かくも裁判官の価値観に左右されるものだ、ということです。
同じ事情を考慮しながら、かたや懲役期間を増やすのが社会的な正義として妥当だと判じ、もう一方は逆に減らすのがふさわしいと判断したのです。
裁判のように、法と正義に基づいて厳格に判断されるものでさえ、このように結果が分かれます。
そうであるなら、一般的な私たちの価値観が、バラバラであっても当然のことだと思えませんか?
私が裁判で面白い(おかしい)と感じることが他にもあります。
それは、被告が素直に罪を認めたかどうかで、刑罰の重さが変わるということです。
やってもいないことや、あるいはそれを罪(=法律違反)だと思っていない被告が、裁判で無実を訴えたとしても、判決が有罪なら、反省する態度が見られないとして刑罰が加算されます。
これって、おかしなことだと思いませんか?
もしこれが正しいとするなら、検察によって起訴されたら、争わない方が得だということになります。
そして実際にそうだから検察や警察は、「素直に認めれば罪が軽くなるぞ」と言って、自白を誘導するのです。
そのしつこさに耐え切れず、また自分が認めさえすればすべてが丸く収まるのだという思いから、気の弱い人は認めてしまうことになるのでしょう。
「本当にやってないなら認めるな。もし認めたなら、認めたやつが悪いんだから、自業自得だよ。」
私の周りにも、そういう価値観の人はいます。
それも一理ありますが、私は同意できません。
そもそも刑罰とは、何のためにあるのでしょう?
再犯防止の抑止力ですか?
もちろん、その一定の効果はあることを認めます。
けれども、万全でないことだけは確かです。
ですから世の中から犯罪がなくならないのですから。そして、再犯も非常に多いです。
そして、抑止力と言うなら、反省しているかどうかで罪が変わるのはおかしなことです。
では、更生させて社会復帰させるためのものでしょうか?
名前ではなく番号で呼ばれるような、非人間的な扱いをされる刑務所が、更生に役立つとは思えません。
せいぜい、「二度とここには来たくない」という抑止効果が生まれるかどうかで、とてもシステム的に更生を促すものになっているとは思えないのです。
そして、もし目的が更生させて社会復帰させることであるなら、刑期は更生するまででなければおかしな話です。
つまり、今の裁判と刑罰という社会システムは、矛盾だらけであるにも関わらず、単にそれがないよりマシだろうくらいの感覚で運用されているとしか思えません。
ですから、判決で有罪になったからと言って、まるで人間ではないかのように非難されるのもおかしいし、少なくとも私はそういう気持ちを抱きたくはありません。
犯罪を犯した人であっても、その人にはその人なりの理由があり、その人の価値観にしたがえば間違ったことはしていないのです。
本当は、その人の価値観を検証し、それをどうすれば変えてもらえるかを一緒に考え、社会全体の資産とすべきものだと思います。
犯罪者を隔離し、除け者にして、社会から葬ることでは、犯罪というものはなくなりません。
それはもう長い歴史が示しています。
そんな社会を、これからもずっと続けて行きたいのでしょうか?
いつまでも犯罪者に怯えながら暮らし、安全のために多大なコストを負担する社会で過ごしたいのでしょうか?
子孫に、そういう社会を残したいのでしょうか?
私は、それらの質問にNOと答えます。
ですから微力であっても、理想を追求していきたいと思うのです。
そのためにはまず自分から。自分が理想的な存在になることが、まず重要なことだと考えています。
今読んでいる「神との対話」には、こういうことが書かれています。
「不安でなければ正しい者にならず、正しいことをしないのか?おどされなければ、「善良」にならないのか?」(p.62)
抑止力というもので恐怖を与えて、ある一定の価値観にしたがわせるやり方は、人間性を無視したものです。
このようなやり方は必ず歪(ひずみ)を生み出すでしょう。
すぐに手放せとは言いませんが、もっと人間性に基づいた方法があるはずだし、そちらへシフトすべきだと思います。
また、「神との対話」の中で神は、人間に求める戒律(規則)というようなものはないと、以下のように言います。
「十戒などというものはない。」
(中略)
「わたしが誰に戒律をまもれと命ずるというのか?わたし自身に?それに、そんな戒律がどうして必要なのか?わたしが欲するものは何でも存在する、そう言ったではないか?それなら、どうして誰かに戒律をまもれと命ずる必要があるのか?」
「それに、もしわたしが戒律を課すなら、当然まもられるはずではないか?どうしても命令したいと思ったくせに、命令がまもられるかどうか、なりゆきを見ているなんて、おかしくはないか?」
(中略)
「わたしは自分の姿をかたどり、自分に似せてあなたがたを創造し−−祝福した。そして、あることを約束し、言質を与えた。前にも話したように、あなたがたがわたしとひとつになる時がきたときはどうなるか、という約束だ。」
(p.129-130)
このように言って、モーゼの十戒は、実は神が人間に与えた言質だったと言います。
すなわち、「殺すな」という命令ではなく、「殺さなくなるだろう」という兆候です。
「盗むな」ではなく、「盗まなくなるだろう」ということです。
そしていずれ人間が成長したとき、そうなると約束したのです。
ですから、人間性の進化を通じてしか、犯罪のない世の中は生まれないと思うのです。
夢物語のように思いますか?
そうかもしれません。
でも法華経には、仏が人間に素晴らしい約束をしたことが書かれています。
それは、私たちは今後何億回、何兆回という生まれ変わりの後、一人残らず救われて仏になるというものです。
この素晴らしいところは、「必ず救われる」という約束です。ハズレはないのです。
ですから、大いなる希望を胸に、生きていこうと思います。
なお、裁判の問題に関しては、以下の記事でも書いていますので、合わせてご覧ください。
「生命の尊さを考える」
「罪を着せることが目的ですか?」
「人はみな自分が正しいと信じている」
それは、大阪市で起こった中年の男が実の姉を殺したという殺人事件の、二審判決を伝えるものでした。
犯人の男は発達障害の一種のアスペルガー症候群と認定されていました。
そして一審の判決では、この病気のために再犯の恐れがあるが、社会に受け皿がないため、なるべく長く社会から隔離しておくことが社会の利益になるとして、求刑より4年長い懲役20年が下されたのです。
この一審判決を報じるニュースを見たとき、私は違和感を覚えました。
社会がその責任を果たさないという理由で個人の自由を奪って良いものでしょうか?
現在の法律では、精神障害などで本人に責任能力が足りないと判断されると、それに応じて罪に問われる度合いも減らされることになっています。
それが良いかどうかは別として、その法体系からしても、矛盾があると感じました。
案の定、日本社会福祉士会や日本弁護士連合会なども、「障害への無理解と偏見に基づく判決だ」として、抗議の声を上げました。
そして迎えた大阪高裁での二審判決だったのです。
判決では、「犯行の動機に障害が大きく影響しており、責任を軽くする事情ととらえるべきだ」として、一審とはまったく逆の見方を示しました。
そして求刑よりも短い懲役14年を言い渡したのです。
この一連の出来事で私が感じたのは、裁判というのは、かくも裁判官の価値観に左右されるものだ、ということです。
同じ事情を考慮しながら、かたや懲役期間を増やすのが社会的な正義として妥当だと判じ、もう一方は逆に減らすのがふさわしいと判断したのです。
裁判のように、法と正義に基づいて厳格に判断されるものでさえ、このように結果が分かれます。
そうであるなら、一般的な私たちの価値観が、バラバラであっても当然のことだと思えませんか?
私が裁判で面白い(おかしい)と感じることが他にもあります。
それは、被告が素直に罪を認めたかどうかで、刑罰の重さが変わるということです。
やってもいないことや、あるいはそれを罪(=法律違反)だと思っていない被告が、裁判で無実を訴えたとしても、判決が有罪なら、反省する態度が見られないとして刑罰が加算されます。
これって、おかしなことだと思いませんか?
もしこれが正しいとするなら、検察によって起訴されたら、争わない方が得だということになります。
そして実際にそうだから検察や警察は、「素直に認めれば罪が軽くなるぞ」と言って、自白を誘導するのです。
そのしつこさに耐え切れず、また自分が認めさえすればすべてが丸く収まるのだという思いから、気の弱い人は認めてしまうことになるのでしょう。
「本当にやってないなら認めるな。もし認めたなら、認めたやつが悪いんだから、自業自得だよ。」
私の周りにも、そういう価値観の人はいます。
それも一理ありますが、私は同意できません。
そもそも刑罰とは、何のためにあるのでしょう?
再犯防止の抑止力ですか?
もちろん、その一定の効果はあることを認めます。
けれども、万全でないことだけは確かです。
ですから世の中から犯罪がなくならないのですから。そして、再犯も非常に多いです。
そして、抑止力と言うなら、反省しているかどうかで罪が変わるのはおかしなことです。
では、更生させて社会復帰させるためのものでしょうか?
名前ではなく番号で呼ばれるような、非人間的な扱いをされる刑務所が、更生に役立つとは思えません。
せいぜい、「二度とここには来たくない」という抑止効果が生まれるかどうかで、とてもシステム的に更生を促すものになっているとは思えないのです。
そして、もし目的が更生させて社会復帰させることであるなら、刑期は更生するまででなければおかしな話です。
つまり、今の裁判と刑罰という社会システムは、矛盾だらけであるにも関わらず、単にそれがないよりマシだろうくらいの感覚で運用されているとしか思えません。
ですから、判決で有罪になったからと言って、まるで人間ではないかのように非難されるのもおかしいし、少なくとも私はそういう気持ちを抱きたくはありません。
犯罪を犯した人であっても、その人にはその人なりの理由があり、その人の価値観にしたがえば間違ったことはしていないのです。
本当は、その人の価値観を検証し、それをどうすれば変えてもらえるかを一緒に考え、社会全体の資産とすべきものだと思います。
犯罪者を隔離し、除け者にして、社会から葬ることでは、犯罪というものはなくなりません。
それはもう長い歴史が示しています。
そんな社会を、これからもずっと続けて行きたいのでしょうか?
いつまでも犯罪者に怯えながら暮らし、安全のために多大なコストを負担する社会で過ごしたいのでしょうか?
子孫に、そういう社会を残したいのでしょうか?
私は、それらの質問にNOと答えます。
ですから微力であっても、理想を追求していきたいと思うのです。
そのためにはまず自分から。自分が理想的な存在になることが、まず重要なことだと考えています。
今読んでいる「神との対話」には、こういうことが書かれています。
「不安でなければ正しい者にならず、正しいことをしないのか?おどされなければ、「善良」にならないのか?」(p.62)
抑止力というもので恐怖を与えて、ある一定の価値観にしたがわせるやり方は、人間性を無視したものです。
このようなやり方は必ず歪(ひずみ)を生み出すでしょう。
すぐに手放せとは言いませんが、もっと人間性に基づいた方法があるはずだし、そちらへシフトすべきだと思います。
また、「神との対話」の中で神は、人間に求める戒律(規則)というようなものはないと、以下のように言います。
「十戒などというものはない。」
(中略)
「わたしが誰に戒律をまもれと命ずるというのか?わたし自身に?それに、そんな戒律がどうして必要なのか?わたしが欲するものは何でも存在する、そう言ったではないか?それなら、どうして誰かに戒律をまもれと命ずる必要があるのか?」
「それに、もしわたしが戒律を課すなら、当然まもられるはずではないか?どうしても命令したいと思ったくせに、命令がまもられるかどうか、なりゆきを見ているなんて、おかしくはないか?」
(中略)
「わたしは自分の姿をかたどり、自分に似せてあなたがたを創造し−−祝福した。そして、あることを約束し、言質を与えた。前にも話したように、あなたがたがわたしとひとつになる時がきたときはどうなるか、という約束だ。」
(p.129-130)
このように言って、モーゼの十戒は、実は神が人間に与えた言質だったと言います。
すなわち、「殺すな」という命令ではなく、「殺さなくなるだろう」という兆候です。
「盗むな」ではなく、「盗まなくなるだろう」ということです。
そしていずれ人間が成長したとき、そうなると約束したのです。
ですから、人間性の進化を通じてしか、犯罪のない世の中は生まれないと思うのです。
夢物語のように思いますか?
そうかもしれません。
でも法華経には、仏が人間に素晴らしい約束をしたことが書かれています。
それは、私たちは今後何億回、何兆回という生まれ変わりの後、一人残らず救われて仏になるというものです。
この素晴らしいところは、「必ず救われる」という約束です。ハズレはないのです。
ですから、大いなる希望を胸に、生きていこうと思います。
なお、裁判の問題に関しては、以下の記事でも書いていますので、合わせてご覧ください。
「生命の尊さを考える」
「罪を着せることが目的ですか?」
「人はみな自分が正しいと信じている」
さっさと幸せになっちゃいましょう
ちょっと時間があったので、以前に書いたブログの記事を読んでいました。
何度も読み直すと、書き間違いやわかりにくい表現を訂正することもできるし、自分の考え方を点検することもできます。
ですから、けっこう頻繁に過去記事を読んでいます。
今回は、「幸せの公式」というカテゴリの記事を読みました。
これがこのブログのキモというか、もっとも重要な部分です。
もうこれさえ読んで理解していただければ、あとはもう読む必要がないくらい、このブログのエッセンスなのです。
我ながら、実にシンプルにまとめてあるなあなんて、自慢したいくらいですよ。
それを読みながら思いました。
幸せになることは、ぜんぜん難しいことじゃないんだなあって。
本当に、昔の私からすれば考えられないくらいの変化です。
ともかく不安で心配で、100%できると思えないとやらない性格でしたから。
まあでも、そういう性格にも良いところがあるんですよ。
私はIT業界で、プログラマーとかSEという職種でしたが、システム開発では100%完璧が求められますからね。
テストをやるときは、不安になったものです。
「本当にこれで完璧だろうか?」
「どこかに見落としていることがあるのでは?」
そういう不安から、何度も何度も考え直すのですが、それによって穴を見つけ出すこともありましたからね。
ただ私の場合、心配症ではあっても、どこかで「なんとかなるさ」という気質も兼ね備えていました。
思うに、心配症の性格は母譲り、奔放な性格は父譲りですね。
それがあったから、あまり自己嫌悪に陥ることもなかったし、本気で自殺したいと考えるまでには至りませんでした。
そしてそういう性格だったからこそ、繊細で傷つきやすい性格から、大らかで自由な性格へと、容易にシフトできたのかもしれません。
でも、「幸せになること」そのものは、けして難しいことではありません。
本当に考え方次第なのですから。
それを理解し、実践を繰り返すことで、誰でも幸せになれると保証できます。
ですから、さっさと幸せになっちゃってほしいのです。
それよりも、もっと大事なことが人生にはあるのですから。
それは、あなたにしかできないことです。
あなたがこの世に存在する理由でもあります。
あなたは、そのために生まれてきたのです。
それは、・・・
↓
↓
↓
↓
↓
あなたらしく生きて、それを体験することです。
ピンと来ないかもしれませんが、これが重要なのです。
ですからまず幸せになって、自由になってください。
そして、他人のように生きることをやめましょう。
そこがスタートです。
そこからが本当の、あなたの人生なのです。
なお、人生の目的に関しては、ブログの過去記事にも書いていますので、参考までにお読みくださいね。
・「生まれてきた理由」
・「目的地に到達するための考え方」
・「幸せになるくらいでは満足しない」
何度も読み直すと、書き間違いやわかりにくい表現を訂正することもできるし、自分の考え方を点検することもできます。
ですから、けっこう頻繁に過去記事を読んでいます。
今回は、「幸せの公式」というカテゴリの記事を読みました。
これがこのブログのキモというか、もっとも重要な部分です。
もうこれさえ読んで理解していただければ、あとはもう読む必要がないくらい、このブログのエッセンスなのです。
我ながら、実にシンプルにまとめてあるなあなんて、自慢したいくらいですよ。
それを読みながら思いました。
幸せになることは、ぜんぜん難しいことじゃないんだなあって。
本当に、昔の私からすれば考えられないくらいの変化です。
ともかく不安で心配で、100%できると思えないとやらない性格でしたから。
まあでも、そういう性格にも良いところがあるんですよ。
私はIT業界で、プログラマーとかSEという職種でしたが、システム開発では100%完璧が求められますからね。
テストをやるときは、不安になったものです。
「本当にこれで完璧だろうか?」
「どこかに見落としていることがあるのでは?」
そういう不安から、何度も何度も考え直すのですが、それによって穴を見つけ出すこともありましたからね。
ただ私の場合、心配症ではあっても、どこかで「なんとかなるさ」という気質も兼ね備えていました。
思うに、心配症の性格は母譲り、奔放な性格は父譲りですね。
それがあったから、あまり自己嫌悪に陥ることもなかったし、本気で自殺したいと考えるまでには至りませんでした。
そしてそういう性格だったからこそ、繊細で傷つきやすい性格から、大らかで自由な性格へと、容易にシフトできたのかもしれません。
でも、「幸せになること」そのものは、けして難しいことではありません。
本当に考え方次第なのですから。
それを理解し、実践を繰り返すことで、誰でも幸せになれると保証できます。
ですから、さっさと幸せになっちゃってほしいのです。
それよりも、もっと大事なことが人生にはあるのですから。
それは、あなたにしかできないことです。
あなたがこの世に存在する理由でもあります。
あなたは、そのために生まれてきたのです。
それは、・・・
↓
↓
↓
↓
↓
あなたらしく生きて、それを体験することです。
ピンと来ないかもしれませんが、これが重要なのです。
ですからまず幸せになって、自由になってください。
そして、他人のように生きることをやめましょう。
そこがスタートです。
そこからが本当の、あなたの人生なのです。
なお、人生の目的に関しては、ブログの過去記事にも書いていますので、参考までにお読みくださいね。
・「生まれてきた理由」
・「目的地に到達するための考え方」
・「幸せになるくらいでは満足しない」
2013年02月28日
竹島問題を考えてみました
私は島根県出身ですし、竹島問題に対して無関心ではありません。
ただ、その領有をめぐる日韓の主張は、わかりづらいですね。
双方が共に固有の領土だと主張し、相手が奪ったと言い合っています。
昨日、竹島の日の記念式典に政府高官が出席したことに反発し、韓国の自営業者団体が日本製品の不買運動をするというニュースがありました。
そんなことをすれば、双方にダメージがあるだけで、何の意味もないのに...。
そう思いながらも、そうせざるを得ないと感じている人々の心情は理解できます。
尖閣諸島がまさに、まさに立場を逆転させた竹島です。
日本人の中国に対する感情は、そのまま韓国人の日本に対するものに当てはまるでしょう。
「いやいや、それは事情がまったく違うよ。あいつらは反日教育で国民を洗脳し、事実をでっちあげて自分たちのものだと主張しているだけなんだから。」
そういう意見があることも知っていますし、それもまた一理あります。
それで、実際のところ領有を主張する根拠は何なのか、客観的な事実を調べてみようと思ってネットで探しました。
すぐに見つかりましたが、灯台下暗しですね。島根県のHPの中に「web竹島問題研究所」というサイトがありました。
読んでみると、かなり読みづらいですが、客観的な事実を積み重ねながら冷静に判断して記述していることがわかります。
これを読むと、1905年に日本が竹島の領有を宣言する前に、韓国が領有していたという事実が証明されていないことがわかります。
逆に日本は、その前から竹島で漁を行なっていて、実効支配していたことがわかります。
ただ、明治以前の日本は領土というものに対しては漠然とした認識があるだけで、国際法上の厳格なルールにしたがって領有したものではありません。
それで、日露戦争を目前にして、要衝の地・竹島の領有を明確にするために、そこが無主地であることを確認し、領有を宣言したというのです。
本来は、それ以前から日本が実効支配していた土地ですから、わざわざそのようなことをする必要がないくらいなのです。
韓国側の主張は、大昔から竹島は韓国の領土として認識していたというものですが、その根拠が非常にあいまいです。
別名で呼ばれている島が今の竹島(独島)だと主張しますが、地図で示された場所も一致しないし、人が住めない岩礁なのに、人が住んでいたことになっているなど、矛盾がたくさんあります。
わかりにくくしているのは、竹島に限らず多くの島が、年代によって文献によって、様々な名前で呼ばれているためです。
また、計測間違いによって、西洋の地図に鬱陵島が2つ描かれるなどの混乱もありました。
そのほか、様々な根拠を示していますが、どうやら韓国側の主張は証拠が希薄なようです。
ところが、そのサイトには驚くことが書かれた文書が掲載されていました。
日本は国際司法裁判所(ICJ)で決着をつけようと主張していますが、もし本当に提訴した場合、必ずしも日本が勝つとは限らないという意見です。
「そんな馬鹿な!?だって証拠はどう見ても日本の主張を裏付けるものばかりだし、韓国側の主張が通るわけがないでしょう。」
そう思いたいのですが、実はそうでもなさそうです。
それは、国際法上の領有が認められる要件に、「実効支配」というものがあるからです。
韓国は、竹島を実効支配して半世紀以上になります。
それに対して日本が抗議しなければ、時効が成立するというのです。
時効の期間とか、抗議の内容に関して、具体的な条文はありません。ですから、判事がどう判断するかです。
日本では抗議を続けていると思われていますが、実はそうでもなさそうです。
外交的に正式にICJへの合意提訴を持ちかけたのは1962年が最後で、それ以降は1回もありません。
この事実だけ見れば、日本はすでに竹島領有を諦めたと認定されても仕方がないと考えることもできます。
「それは外交的に、韓国をあまり刺激しない方が良いと判断したからで、その他の抗議行動を続けているじゃないか。」
そう思いたいところですが、実際はそうでもありません。
韓国が竹島記念切手を発行した時も、軍事行動をとったときも、日本政府は抗議声明は出すものの、表立った行動をとっていません。
問題は、ICJがこれを抗議行動と判断するかどうかなのです。
昨日も書きましたが、裁判というのは、所詮この程度のものなのですよ。
正義は人の数だけ存在するし、様々な価値観の中で、何かを選択するだけなのです。
日本人は日本の主張が正義で、客観的に(絶対的に)正しいと思うかもしれませんが、そうではないということです。
中国は今、しきりに領海侵犯を繰り返して、尖閣諸島の領有を主張しています。
これはある意味で、外交的に正しい行動だと言えるでしょう。
この事実の積み重ねは、明らかに尖閣諸島が係争地であることを印象づけますから。
一方、国際的に見ると竹島は、とても係争地とは思われない可能性があります。
半世紀もの間、日本は軍事行動はおろか、平和的なICJ提訴も見送ってきたのですから。
日本には、聖徳太子の「和をもって尊しとなす」という教えが根付いています。
そのためか、あえて争うことから逃げることが多いようです。
争わずに諦めるならまだ良いのですが、争わないくせに諦めないために、妬(ねた)みや僻(ひが)みばかり強くなっている気がします。
感情的にならず、冷静に争うことを覚えても良いのではないでしょうか?
本当に竹島を取り戻したいと考えるなら、ICJへの単独提訴を、毎年のようにやったら良いのです。
最初は韓国も猛反発するでしょうけど、そのうちに慣れますよ。
仲が悪くなることを怖れ、相手からの評価を気にして自分を偽っていたら、いつまでたっても自分らしく生きることはできません。
時には、関係が破綻することを覚悟してでも、自分らしく生きることを選択すべきなのです。
真実の自分を表現せずにおいて、どうして真の友好関係が築けるでしょうか?
本当に友好関係を築きたいなら、本当の自分をさらすことです。
相手に気に入られようとして、自分らしくない自分を演出しても、その関係が上手くいくはずがありません。
意見の違いは意見の違いとして受け入れながら、穏やかに自分の真実を表明することによってしか、本当の関係は築けないと思うのです。
ただ、その領有をめぐる日韓の主張は、わかりづらいですね。
双方が共に固有の領土だと主張し、相手が奪ったと言い合っています。
昨日、竹島の日の記念式典に政府高官が出席したことに反発し、韓国の自営業者団体が日本製品の不買運動をするというニュースがありました。
そんなことをすれば、双方にダメージがあるだけで、何の意味もないのに...。
そう思いながらも、そうせざるを得ないと感じている人々の心情は理解できます。
尖閣諸島がまさに、まさに立場を逆転させた竹島です。
日本人の中国に対する感情は、そのまま韓国人の日本に対するものに当てはまるでしょう。
「いやいや、それは事情がまったく違うよ。あいつらは反日教育で国民を洗脳し、事実をでっちあげて自分たちのものだと主張しているだけなんだから。」
そういう意見があることも知っていますし、それもまた一理あります。
それで、実際のところ領有を主張する根拠は何なのか、客観的な事実を調べてみようと思ってネットで探しました。
すぐに見つかりましたが、灯台下暗しですね。島根県のHPの中に「web竹島問題研究所」というサイトがありました。
読んでみると、かなり読みづらいですが、客観的な事実を積み重ねながら冷静に判断して記述していることがわかります。
これを読むと、1905年に日本が竹島の領有を宣言する前に、韓国が領有していたという事実が証明されていないことがわかります。
逆に日本は、その前から竹島で漁を行なっていて、実効支配していたことがわかります。
ただ、明治以前の日本は領土というものに対しては漠然とした認識があるだけで、国際法上の厳格なルールにしたがって領有したものではありません。
それで、日露戦争を目前にして、要衝の地・竹島の領有を明確にするために、そこが無主地であることを確認し、領有を宣言したというのです。
本来は、それ以前から日本が実効支配していた土地ですから、わざわざそのようなことをする必要がないくらいなのです。
韓国側の主張は、大昔から竹島は韓国の領土として認識していたというものですが、その根拠が非常にあいまいです。
別名で呼ばれている島が今の竹島(独島)だと主張しますが、地図で示された場所も一致しないし、人が住めない岩礁なのに、人が住んでいたことになっているなど、矛盾がたくさんあります。
わかりにくくしているのは、竹島に限らず多くの島が、年代によって文献によって、様々な名前で呼ばれているためです。
また、計測間違いによって、西洋の地図に鬱陵島が2つ描かれるなどの混乱もありました。
そのほか、様々な根拠を示していますが、どうやら韓国側の主張は証拠が希薄なようです。
ところが、そのサイトには驚くことが書かれた文書が掲載されていました。
日本は国際司法裁判所(ICJ)で決着をつけようと主張していますが、もし本当に提訴した場合、必ずしも日本が勝つとは限らないという意見です。
「そんな馬鹿な!?だって証拠はどう見ても日本の主張を裏付けるものばかりだし、韓国側の主張が通るわけがないでしょう。」
そう思いたいのですが、実はそうでもなさそうです。
それは、国際法上の領有が認められる要件に、「実効支配」というものがあるからです。
韓国は、竹島を実効支配して半世紀以上になります。
それに対して日本が抗議しなければ、時効が成立するというのです。
時効の期間とか、抗議の内容に関して、具体的な条文はありません。ですから、判事がどう判断するかです。
日本では抗議を続けていると思われていますが、実はそうでもなさそうです。
外交的に正式にICJへの合意提訴を持ちかけたのは1962年が最後で、それ以降は1回もありません。
この事実だけ見れば、日本はすでに竹島領有を諦めたと認定されても仕方がないと考えることもできます。
「それは外交的に、韓国をあまり刺激しない方が良いと判断したからで、その他の抗議行動を続けているじゃないか。」
そう思いたいところですが、実際はそうでもありません。
韓国が竹島記念切手を発行した時も、軍事行動をとったときも、日本政府は抗議声明は出すものの、表立った行動をとっていません。
問題は、ICJがこれを抗議行動と判断するかどうかなのです。
昨日も書きましたが、裁判というのは、所詮この程度のものなのですよ。
正義は人の数だけ存在するし、様々な価値観の中で、何かを選択するだけなのです。
日本人は日本の主張が正義で、客観的に(絶対的に)正しいと思うかもしれませんが、そうではないということです。
中国は今、しきりに領海侵犯を繰り返して、尖閣諸島の領有を主張しています。
これはある意味で、外交的に正しい行動だと言えるでしょう。
この事実の積み重ねは、明らかに尖閣諸島が係争地であることを印象づけますから。
一方、国際的に見ると竹島は、とても係争地とは思われない可能性があります。
半世紀もの間、日本は軍事行動はおろか、平和的なICJ提訴も見送ってきたのですから。
日本には、聖徳太子の「和をもって尊しとなす」という教えが根付いています。
そのためか、あえて争うことから逃げることが多いようです。
争わずに諦めるならまだ良いのですが、争わないくせに諦めないために、妬(ねた)みや僻(ひが)みばかり強くなっている気がします。
感情的にならず、冷静に争うことを覚えても良いのではないでしょうか?
本当に竹島を取り戻したいと考えるなら、ICJへの単独提訴を、毎年のようにやったら良いのです。
最初は韓国も猛反発するでしょうけど、そのうちに慣れますよ。
仲が悪くなることを怖れ、相手からの評価を気にして自分を偽っていたら、いつまでたっても自分らしく生きることはできません。
時には、関係が破綻することを覚悟してでも、自分らしく生きることを選択すべきなのです。
真実の自分を表現せずにおいて、どうして真の友好関係が築けるでしょうか?
本当に友好関係を築きたいなら、本当の自分をさらすことです。
相手に気に入られようとして、自分らしくない自分を演出しても、その関係が上手くいくはずがありません。
意見の違いは意見の違いとして受け入れながら、穏やかに自分の真実を表明することによってしか、本当の関係は築けないと思うのです。
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