2013年02月12日

幸せの習慣を身につける

ブログにも書きましたが、私は本当に恵まれていると思います。

そんな私でも、時には落ち込むこともあるし、不安にもなります。

けれども、そういう感情を引きずらないようにしています。


それは、幸せの実践を通じて、日々刻々、自分の思考を問い直すことによってです。

瞬間的に湧き上がるマイナスの感情はあっても、それを持続させません。

それができるのも、理屈で本来の姿(私の真実)を理解しているからです。

また、つい忘れてしまっていても、すぐに思い出せるような習慣を持っているからです。

だから理論と実践が重要だと、私は思うのです。

 

その私の実践についてお話しましょう。

「神との対話」シリーズを毎日少しずつ精読するという習慣は、本当に役に立ちますね。

10月から始めて先日まで約4ヶ月半でシリーズ12冊を読み終えました

1冊が約300ページあるとすると、1日約30ページ弱です。

忙しい日は、本当に朝の10分くらいしか読めませんが、帰ってからじっくり読めると、寝る前に30分は読みます。

週末には、1日に100ページ読むこともあります。


私自身はそれほど読書家とも思っていません。

ですが、こうしてみると、1ヶ月に約3冊のペースです。

これ以外にも1〜3冊くらいは毎月読みますから、月に5冊は読んでいるでしょうか。


他でも書いていますが、読書というのは本当に安くて有効な投資だと思います。

月に5冊だとすると、全部を新品で買っても1万円以下です。

しかも、同じ本を何度も読み直せますからね。

 

最近ちょっと落ち込んでいたのも、「変えれば、変わる」を読んで、完全に復活しました。

その中の究極の言葉は、これでした。

「変化はすべて良いものだ」


生命は、それ自体が持続するために変化します。

それは生命の目的に適っています。

そして生命の目的とは、進化することです。

したがって変化とは、すべて生命が進化するためのものなのです。


私たちの目には、一見、悪いことのように見える変化があります。

けれども、それが本当に悪いことかどうかは、後にならないとわかりません。

そのことを、「人間万事塞翁が馬」という故事が示しています。

それなら、どうして目の前の変化を「悪いこと」と決め付けなければならないのでしょうか?

「これが幸いの兆しにならないとも限らないさ。」

そう考えることだってできるはずです。


「そんなの気休めだよ。」

そう思われますか?

たしかに、そうかもしれません。

そうかもしれませんが、そうだとしたら、どうだと言うのでしょう?

逆に心配したら、何か得なことがありますか?

得なことがないなら、やめた方が良いと思いませんか?


それだけのことですよ。

 

多くの人は、感情は自然に発生するもので、自分で制御できないと考えています。

あるいは、たとえコントロールできても、それはよほど修行を積んだ人だけで、凡人には無理だと思っています。

そういう信念を持っているから、本当の姿が見えないのです。


本当は簡単にコントロールできるかもしれない。

そういう可能性を、少しは受け入れてみませんか?

その可能性を受け入れることが第一歩になります。


可能性を受け入れれば、その仕組を調べたいと思うでしょう。

そしてそれが理屈に合うなら、そのとおりにできるようになりたいと思うでしょう。

そして練習を繰り返すことで、最初は難しかったことも、徐々に簡単にできるようになるのです。


「千里の道も一歩から」と言います。

成功するコツは、第1に「始めること」です。

第一歩を踏み出すことです。

そして第2に、「続けること」です。

成功するまで続けることで、必ず成功するのです。

 

私たちは、ただ偶然にこの世に生じた無価値なものではありません。

多くの人々が証言しているように、自分で生きる環境を選んで生まれてくるのです。

つまり、必然的なのです。

必然的ということは、そうするだけの価値があるということです。

そんな価値のあるものが、どうして意味のない人生を送る必要性があるでしょうか?

ですから、どんな人生にも素晴らしい価値があります。

それがたとえ不遇の死を遂げるものであっても、寝たきりになって身動きできないものであっても、人生には価値があるのです。


そんな人生における変化が、悪いことであろうはずがありません。

生きる環境さえ自分で選ぶ魂が、どうして悪い変化を自分に引き起こすでしょうか?


 

魂への絶対的な信頼を取り戻しましょう。

私たちの本質は身体ではありません。

身体は、魂がこの世での仕事を効果的に行うための道具です。

良い仕事人は道具を大切に扱い、大事にしますが、その道具が壊れても、良い仕事人でい続けます。


だから、どんな変化が起ころうともいいじゃありませんか。

現れた出来事に対して、こう言いましょう。

「これでいいのだー!」
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 17:54 | Comment(0) | SJ通信過去ログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月13日

罪を憎んで人を憎まず

桜宮高校の体罰を苦にした生徒が自殺した事件では、加害者とされたバスケットボール部の顧問に、懲戒免職という処分がくだりました。

体罰に対する処分としては、全国的にも異例な重いものだそうです。


たしかに、1人の少年の未来を奪うきっかけになった体罰です。

また、入試中止を強行した橋下市長を支持する声が、大きいことも知っています。

そのくらい大胆なことをやらなければ、変わらないという気持ちからでしょう。

そう考えれば、そのくらい重い処分で当然だという考えもあるでしょう。


でも私は、やはりそういう考えには同意できないのです。こういう処分を疑問に感じます。

「そこまでする必要があるだろうか?そういう見せしめ的な、報復的な処罰が役に立つのだろうか?」

自殺した少年の無念は理解するものの、加害者とされる顧問も哀れに感じるからです。

 

日本の法律では、報復的な処罰を禁止しています。

罰を与えるのは仕返しではなく、あくまでも矯正なのです。それが法の趣旨です。

会社や公務員の罰則も、それに準じたものと考えられます。

「罪を憎んで人を憎まず」

その精神から、罪を犯した人に苦痛を与えることを目的としてはいないはずなのです。


しかし、実際の運用はそうではない気がします。

世間をどれだけ騒がせたとか、被害者の数や程度がどうかで、罰が変わるのですから。


処罰された顧問にも、家族がいたでしょう。

明るい未来があったはずです。

自殺した少年の未来が絶たれたからと言って、もう1人の未来も絶たなければならないのでしょうか?


もし、その双方が兄弟だったら、親はどう感じるでしょう?一度に2人の子どもの未来を絶たれることになります。

人類はみな兄弟姉妹という掛け声はありますが、いったいどれだけの人がそれを実感しているのでしょう?

もしそれを実感し、その兄弟姉妹の親の立場を想像するなら、そんな残酷なことはできないと思うからです。


今回の問題は、明らかに故意ではありません。

つまり、少年を自殺に追い込もうとして体罰を加えたわけではないのです。

おそらく自分では、体罰が少年のためになると思い込んでいたと思うし、それがチームのため、学校のため、地域のためになると信じていたと思うのです。

けれども、そうならない結果が出てしまい、本人も、「なぜ、こんなことになったのだろう?」と、頭を抱え込んでいると思うのです。


教育に体罰は必要ないと多くの人が意見を述べていますが、それなら教育指導者への体罰は必要なのでしょうか?

懲戒免職という体罰を加えて、苦痛を味わわせる必要があったのでしょうか?

ただでさえ、マスコミからの取材で身辺は穏やかでなくなり、近所の人達からは後ろ指を指され、指導することに対して自信も失いかけているのに。

さらに追い打ちをかける必要性があるのでしょうか?

これは単に世論の批判に耐えかねて、批判者の溜飲を下げるために、顧問をスケープゴートにしただけではないでしょうか?

これが「人を憎まず」という精神に基づいた行為と言えるのでしょうか?


私は、これが愛情に基づいた処置とは思えません。

この事件を生かし、これから良くしていこうという精神に基づいた、建設的な対応とは思えません。

暴力を奮って甚大な被害を与えたのだから、お前も同じように苦痛を味わえという、報復的な処置としか思えないのです。

「体罰が常習的だった点を重視したとみられる」という考えもありますが、それならまず最初に指導があるべきでしょう。

指導を繰り返しても従わない。そのとき初めて、懲戒という処罰に至るのではありませんか?

 

いじめの加害者を、今度は逆にいじめ返す。

それが抑止力になるからと言って、同じことをやっているのです。

仇討ちされた人の子どもが、大きくなってその仇を討つ。

暴力の連鎖は、このような考え方から続いているように思います。


加害者とされた顧問も、また同じ人なのです。

善意から、暴力をふるってしまったかわいそうな人なのです。

辞任させるだけでも十分なのに、あえて懲戒免職だなんて。


その顧問のバスケットボールにかける情熱を、体罰を用いない健全な方法で発揮してもらう道さえ閉ざしてしまう処分。

それが社会にとって有益とは思えないのです。


これをやっている限り、社会から暴力やいじめはなくならないと思います。

なぜなら、暴力やいじめが人を強制するのに効果的だと多くの人が信じているから、同じ方法で報復するのですから。

もし本当になくしたいなら、それらは効果がないと認めなければなりません。

そうではない方法で、効果をあげなければなりません。

そのための勇気ある一歩を踏み出さないと、いつまでも同じ所にとどまっていることになるのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:38 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月14日

バレンタインデーの贈り物

今日は2月14日、バレンタインデーですね。

日本では、女性が好きな男性にチョコレートを贈って告白する日とされています。

もちろん職場などでは、義理チョコが盛んに贈られるのでしょう。

チョコレート業界の戦略にまんまとはまったという意見もありますが、ある意味でお祭りのようなものですから、私はこれもまた良いことだと思います。


すでに知られているとは思いますが、日本での習慣は、けして世界の常識ではありません。

同じバレンタインデーと言っても、その意味も違えば贈る物も異なります。

愛を象徴する日だということでは同じようですが、対象も形態もバラバラのようです。

因みにタイでは、男性が女性にバラの花を贈るのだそうです。

と言うことで今朝は、路上の花屋さんがいくつも店開きしていました。

 

日本にいるときはチョコレートをもらえるだろうかと心配し、もらえないと恥ずかしいからと、あえて無視しようとしたこともありました。

後輩から義理チョコをもらって、なんとか最低限のメンツは保てたとホッとしたり...。

本当に小心者だったのです。(今もその傾向はありますが)


タイでは、あまりバラの花を贈ったことはありませんが、プレゼント交換のような形になることは多いです。

妻とは、付き合い始めてからもう5年以上ですから、その間に何回かはプレゼント交換しました。

私が一方的に贈っただけで終りなんてこともありましたけどね。


今年は、妻から先にプレゼントをくれました。

「はい、これ。ハッピー・バレンタイン!」

そう言って渡してくれたのは、薄手のセーターのような服でした。


「この暑いバンコクで、どうしてそんなものを?」

そう思われたかもしれませんが、実は今夜から札幌へ行くのです。

妻が降る雪を見たいとずっと言っていたので、その夢を叶えてあげたいと思って。

 

昨年から、バンコクと札幌の間に、タイ国際航空(TG)の飛行機が飛ぶようになりました。

それがすごい人気で、タイ人が大勢、北海道へ行っているそうです。

タイの人にとって、降る雪を見るなんてことは、本当に夢の夢なのです。

日本人からすれば、「そんなの普通じゃん」と思うことが、普通じゃない人たちが世界には大勢いるのですよ。


さっぽろ雪まつりは終わってしまいましたが、目的はそれではないので、むしろ外した方が安く済みます。

今回も、人気のチケットが安く手に入ったので、それほどお金をかけずに旅行できそうです。


札幌では、スキーのレッスンを受けようと思っています。

恥ずかしながら、私は一度もスキーをしたことがないのです。

祖父が竹で作ってくれたスキーを履いて、近所を歩き回ったことはあります。雪で作った滑り台を、ソリで滑ったこともあります。

けれども、スキー場で坂を降るスキーをしたことがないのです。

昨年、福島県へ行ったときはスキー場へ行きましたが、妻だけがミニスキーみたいなものを履いて遊んだだけです。

ですから、妻も私もスキー初体験。と言うことで、しっかりとレッスンを受けたいと思います。


他には、雪中の乗馬体験というのも予定しています。

わざわざ雪の中で馬に乗らなくても...という思いもありますが、自然の中で動物と触れ合うというのも、また癒されて良いかと思います。

時間は40分と短いのですが、まあそのくらいで十分でしょう。ちょっと体験してみるだけですから。ただし、ホテルからの往復の方が、もっと時間がかかりますけどね。

これも、妻が動画を見て、「これがいい!」と言ったものですから。


夜は、北海道の美味しいものを食べることにします。

幸いなことに妻は刺身が大好きです。

焼肉も好きですが、牛肉や羊肉はダメなので、ジンギスカンは食べません。豚肉のジンギスカンじゃあねえ、ちょっとさえませんから。

カニも食べられるので、私の目的はまずはカニですね。

タイでは、タラバガニとかズワイガニはほとんどありませんから。タイのカニ料理に使うカニは、ワタリガニになります。

 

旅行が楽しいものになるよう願っていますが、この旅行が私から妻へのバレンタインデーの贈り物です。

今、そんな贅沢なことをしていて良いのかという不安もありましたが、不安を脇に置くことにしました。

「今ならそれができるのだから、今やったらいいじゃないか。」

そう考えることにしたのです。

残るのはお金じゃなく、思い出です。思い出は、心の中から消えることがありません。

ですからその思い出のために、妻と愛し合う喜びを創るために、お金を使おうと思うのです。


と言うことで、戻ってくるまでブログの更新が途絶えますので、ご了承ください。

戻ってきたらまた再開しますので、それまでごきげんよう〜! (*^_^*)
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 11:52 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月19日

寒くて暖かかった札幌旅行

昨日、北海道旅行から戻って来ました。

3泊4日の札幌市内だけの旅行でしたが、十分に楽しむことができました。

その旅行のことと、そこでの気付きを少しお話したいと思います。


15日の朝に新千歳空港に到着しました。

天候不順のために待機したのと、荷物を受け取るのに時間がかかり、予定より1時間遅れで札幌到着です。

地下通路を通って、13番出口を出ると、大きなカニが目の前に。

目的のホテルは、かに本家のすぐ隣りのパールシティ札幌です。

2人で3泊して17,400円と安いのは、雪まつりを外したおかげでしょうか。


天気が良く、あまり寒い思いもせずにホテルに到着しました。

途中、歩道に雪がたまっていて、滑りそうになりました。

駐車場の敷地の前で、誰も雪かきをしなかったのでしょうね。


その日は、長靴とか毛編みの帽子などを買いに、JR札幌駅近くのステラプレイスへ行きました。

ABCマートで安い長靴を買い、ユニクロで帽子などをと思ったら、こちらは売り切れとのこと。近くの他の店を探して買いました。

あまりに天気が良かったので、妻は「雪が降るのかなあ?」と心配顔です。

午後にはジャパンレンタルさんに予約したスキー用品一式をホテルで受取ります。

北海道体験.comで探して予約したのですが、体一つでスキーを楽しめるからいいですね。

私も妻もスキーは初めてなので、レッスン付きのコースを予約しました。


その日の夜は、かに本家でカニ料理を食べました。

ズワイガニのカニすき

ゆでタラバガニ

土間にいけすがあって、大きなカニがたくさんいました。

食事は個室でゆったりと。もちろん、サッポロクラシックビールをいただきました。北海道限定のビールです。


部屋に戻った後で外を見ると、雪が舞っていました。

初めて雪が降る様子を見た妻は、大感激していました。

 

次の日は、タクシーでテイネハイランドスキー場へ。

バスで安くとも思いましたが、滅多にない旅行ですから、奮発してタクシーにしたのです。

でも、これが正解でしたね。前日の夜からの大雪です。バス乗り場を探して歩かなくて済んだので、本当に助かりました。

帰りもタクシーにしたのですが、地元の運転手さんも、観光客に少しでも利用してもらえると嬉しいと言っていました。

長い冬を、「早く春が来ないかなあ」と思いながら過ごしているという運転手さんに、私も共感するものがありました。


スキー場に到着する頃には雪もやみ、絶好のスキー日和です。

三浦雄一郎&スノードルフィンスキースクールのインストラクターは女性で、何かと褒めてくれながら、優しく指導してくれました。

お陰様で私は、ボーゲンターンが少しできるくらいにまでなりました。

でも妻は、ちょっとの傾斜でも怖がるので、完璧にできたのはカニの横歩きで斜面を上ることだけ。

初めてのスキー

まあでも、食事を挟んで午後3時くらいまで、一所懸命に滑って(歩いて?)いました。

 

次の日は、タクシーに乗ってワイルドムスタングへ。雪中の乗馬体験です。

待っていたのはテリーとハルの2頭の馬。妻がハルに乗り、私はテリーへ。

アブミへの足のかけ方や手綱の握り方の指導を受け、すぐに周回コースへ向かいます。

歩く、止まる、曲がるの、基本的な3つの操作を実践しながら覚えます。

途中で馬たちが糞尿のためにストップすることもあり、生きている馬なのだなあと実感します。

インストラクターの方は妻から、大便はキー、小便はシーなど、タイ語を教わったりしながら、妻の気持ちを和ませてくれます。

雪中の乗馬体験

周回コースに慣れた後は、降って農園の中を歩きます。

前日にかなり雪が積もったようで、新雪を踏みながら行くのですが、妻の馬のくつわを取って歩くインストラクターさんがかわいそうでしたね。

あの深い雪の中を歩くのですから、相当に体力を消耗したことでしょう。

途中で何度も休憩を入れながら、ぐるっと一周してきました。

あっという間の40分が過ぎ、テリーとハルの頭を撫でてあげて、労をねぎらいました。

「私たちのために、一所懸命に歩いてくれて、本当にありがとうね。」

 

午後は、スキーに行く予定でしたが、疲れたので中止しました。

ホテルに戻ってから爆睡し、目が覚めてから近場を散策することにしました。

その中で偶然に、時計台を見つけましたよ。

たしかに、ビルの中にひっそりと建っている感じですね。


最後の夜は、居酒屋です。刺身、焼き鳥、ゆでガニ。そして、サッポロクラシックビールです。

サッポロクラシックビール

初めてのスキー、雪中の乗馬体験、そして妻にとっては初めての降る雪。いずれも貴重な体験でした。

カニも美味しかったし、ビールも美味しかったー!

 

翌朝、空港に向かうために準備をしていました。

そのときふと、部屋の掃除をしてくださった方へのお礼をしようと思い立ったのです。

海外では、枕銭(チップ)として小銭などを置くのが常識ですが、日本ではあまりそういうことはしません。

ただそのホテルで掃除をされているのが、どう見ても60歳は越えていると思われるおばあさんだったのです。

チェックインの時も、本来は2時からなのに、1時過ぎに急かしてやってもらったし、翌々日も乗馬から帰ってきて掃除が終わってなかったら、「まだ終わってなかったのよ。ごめんなさいね。」とニコやかにおっしゃってくださいました。

楽しい旅行をさせてくださった方々は何人もおられますが、その代表として、このおばあさんにお礼というか、少し喜んでもらいたかったのです。


そこで1000円札を1枚置こうと思ったのですが、ちょっとだけ考えました。

枕銭で1000円は多過ぎる?

タイなら1泊20〜50バーツくらいですから、せいぜい150円くらい。でも、ここは日本だし。

逆に少ないかも。「たったこれだけ?」って思われるかもしれない。


いろいろ考えたのですが、最終的に1000円を置くことにしました。

それとともに、感謝の言葉をメモにして残したのです。

私の気持ちは、ただあのおばあさんにちょっとだけ喜んでもらえたらいいな、というものです。

相手が喜ぶかどうかはコントロールできないし、そんなことにこだわる必要性もありません。

相手が喜んでくれたら嬉しいけど、そうでなくてもかまわない。そんな気持ちです。


そんなことを考えたとき、余分な支出なのに喜んで払いたいと思っている自分に気づきました。

お金への執着がなくなり、それよりも誰かを喜ばせたいと思っている自分がいる。

あー、自分らしく生きることが、以前よりはるかに簡単になっている。


そう感じられて嬉しかったです。

そんなことが簡単にできるようになったのも、「神との対話」シリーズなどを読んで、必要性を減らすことをしてきたからでしょうね。

たったこれだけのことですけど、ありがたいなあって思いました。

札幌は氷点下で寒かったけど、温かい人々の情に触れることができて、とても楽しい旅行になりました。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 14:02 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月20日

暖かいだけで儲けもの

「神との対話」シリーズ12冊を読み終え、再び1冊目の「神との対話」に戻って精読しています。

すべてのことを知った上でもう一度読むと、以前は気づかずにただ読んでいた部分に、実は深遠なことが書かれていることがわかったりしますね。

本当に、何度読んでも飽きないというのは、このことかと思います。


今朝読んだところには、「すべては神であり、神でないものは何もない」ということが書かれています。

つまり、高いも低いも、白いも黒いも、良いも悪いも、すべて神の一部なのだと。

だから何かを否定するということは、神を否定することになると言います。


しかし、私たちが持つ善悪の価値観などを捨てる必要もないと言うので、「ではどうすればいいの?」と思いますよね?

まず、すべてであるもの(=神)の中から、私たちは何かを選択するのだと説明します。

つまり、「これが私だ」と、何かを選んで宣言するということです。

すると私たちは、そういう経験をします。

その経験をした結果、幸せを感じないなら、その価値観を変えなさいと言うのです。


つまり、私たちが何かを良い、何かを悪いと言うのは、単にすべてのものの中から「これが自分だ」と思うものを選択しているだけで、自分が選択しなかったもの(=悪い)を否定する必要性はありません。

そして、その選択によって何かを経験したとき、幸せを感じないとするなら、それは本当に自分らしいことではないのだから、その選択を捨て、他のものを選択しなさいと言っているのです。

さらりと書かれてあった部分なのですが、考えてみればここにすべてのことが凝縮されていると言っても過言ではありませんね。

そう思いました。

 

話は変わりますが、札幌旅行のとき、スキー場から戻るタクシーの中で、1時間近く地元の運転手さんと話をしました。

その中で、2つ面白いと感じたことがあったのでシェアします。


まずは外国人客の話です。

やはり中国人の旅行客が減っていると言われたので、まあそうだろうなと思いました。

ところがその運転手さん、続けてこう言いました。

「香港や台湾の方は来られるようで、今年も何回か乗っていただきましたけどね。」

私が「中国人」と言ってイメージしたものの中には、香港の人が含まれるのは当然でしたし、尖閣諸島の問題で対立していることが原因という背景からすると、台湾人も含まれても良さそうな気持ちでいたのです。

もっと広く、尖閣諸島は中国(台湾も含む)のものだと考えているであろう華僑の人も含めて、中国語を話す人はすべて「中国人」と考えて間違いないと無意識に考えていました。

だって、見た目ではわからないし、話す言葉も、広東語でも北京語でも、私からすればみんな中国語ですから。

それなのに、その運転手さんはまったく異なる見方をしていたのです。

「へぇー、そういう見方もあるんだ。」

私はなぜか、無性に感心してしまいました。


もう1つは、雪の話題です。

雪中乗馬体験

今年は近年にない大雪だそうで、テイネハイランドスキー場ならGWまで間違いなく滑れるだろうと、運転手さんが言っていました。

そんな雪の話題をしばらくした後、ぼそっとこう言いました。

「私たちはもう、早く春が来てくれないかなあと、そればかりずっと思っているんですよ。」

旅行者である私は、雪を目当てに札幌に行ったのです。

積もった雪を見て、降る雪を見て、「すごーい!」と歓声を上げて喜んだのです。

それなのに、同じ雪を見ていても、地元の人の感じ方はまったく違います。

「早く溶けてなくなってくれないかなあ。」

もう雪を見るのが嫌になるという気持ちが、ひしひしと伝わってきます。

テレビでも、雪かきをしていた老婆が、本当に嫌そうに言っていました。

「もう2日連続でやっているんですから、身体がクタクタですよ。もういい加減にしてほしいです。」


私も、山陰の出身ですから、冬のどんよりした空とか、雪に閉ざされた世界を経験しています。

子どものころ、「早く春にならないかなあ」と思ったこともたびたびありました。

そんな昔を懐かしく思い出しましたよ。


そんな真冬の札幌から、飛行機に7時間ほど乗っていたら、真夏の陽気のバンコクに到着します。

「うっ、暑い!」

そう思いましたが、その一方で、暖かいということは、それだけでありがたいことなのだなあと思いました。

そんな暖かさに包まれて1年中暮らせるのですから、それだけでも贅沢と言うものですね。

暑さを嫌なものと考えれば、気分が悪くなります。

でも逆に、暑さをありがたいことだと考えれば、幸せな気分でいられます。

「よし、私はこっちを選択しよう!」


そう思いました。

 

最後に、面白い写真をお見せします。

新千歳空港の出発ゲートにあるレストランでは、伝票をこんな機械に貼り付けて渡してくれます。

注文品ができあがったらこれで呼び出してくれる

できあがったら、これが鳴って、自分の番だと教えてくれる仕組みです。

それほど広いとも思えないレストランでしたが、こんな方法もあるのだなあと感心しました。

ただ、様々な表記が漢字とハングルしかないのですね。

最近はタイからの旅行客も多いのですから、すみやかにタイ語表記も追加してほしいものです。


もう1枚は、スワンナプーム空港からタクシーで帰る途中の空の写真です。

バンコクの夕焼け空

まあ普通に夕焼けが見えているだけなのですが、まるで幾何学的にビシっと線が引かれているのが面白いです。

別に意味はありませんが、何か良いことがありそうだと思いました。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:15 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月21日

人の頭には素晴らしいアイデアがある

私は毎月1回、会社の幹部社員に対してスピーチをしています。

そこでは、仕事のやり方と言うよりも、このブログで書いているようなことを話すことが多いです。

それは、仕事というのも人生の一部に過ぎないという思いがあるからで、社員にはみんな、幸せになって自分らしく生きてほしいと願っているからです。

 

先月のスピーチでは、2人の社員を表彰しました。

1人は、仕事で大きな失敗をした社員です。


私はスピーチで、「失敗というものは存在しない」ということを話しています。

それを失敗だと考える人はいても、失敗という事実は存在しないからです。

考えようによっては、それは成功への一里塚でもあります。

逆に失敗することを恐れて一歩を踏み出さなかったとすれば、成功することもできないのです。


そういう思いが本気であることを示すために、仕事で大きな失敗をした社員を、あえてみんなの前で褒めて、表彰しました。

報奨金として、1,000バーツをポケットマネーで出しましたよ。

会社の経費としても良かったのですが、事前に上司に話すと、反対されるおそれがあったものですから。


実際、あとでそのことを報告したとき、上司からは怒られました。

「そんなことをしたら、恥をかかされたと感じて、逆にやる気がなくなってしまうかもしれないじゃないか。」

みんなが私が思うように思ってくれるとは限らないのだから、余計なことをするなというわけです。

もちろん、それも1つの考え方だと思います。

どっちが正しくて、どっちが間違いというわけではありません。私はそう考えます。

ですから、あえて上司に相談せずに、ポケットマネーを使うことで独断的に実施したのです。


私にも、一抹の不安はありました。

みんなの前で失敗したことを晒(さら)さなくてはなりません。

他の社員がすでに知っていることとは言え、傷口をほじくり返される気がするかもしれません。

それでも、失敗することはむしろ良いことなのだという雰囲気を社内に作るためには、これをやらなければならないと私は思ったのです。

 

もう1人、表彰した社員がいます。

実はこの社員は、まだ何もやっていません。

ただ、やると言ってくれたので、先行して表彰したのです。


それは、会社の中を快適にしたり、仕事を効率よくできるようにするためのアイデアを出して、実施してほしいという依頼に応えてくれたからです。

「稼ぎたければ、働くな。」という本を読んで感じたのですが、やはり伸びる会社は社員が生き生きとしています。

生き生きとするということは、自由で、自分らしく働いているということです。

管理者は、そういう環境を作ってあげることが大切です。

その第一歩として、何か良くなるアイデアを出して実施してくれたら、私がポケットマネーで表彰するよ、と伝えたのです。


そうは言っても、いきなりでは何をどうやったら良いかわからないもの。

そこでまずは私がラフなアイデアを提供し、それを使えるものとしてブラッシュアップして、実施するよう求めたのです。


私が出したラフなアイデアとは、部屋の入口にある照明のスイッチに、目印を付けることでした。

社員が次々と帰って行くとき、部屋の中に1人しか残っていないのに、部屋全体に照明がついているのが通常でした。

私が最後まで残ったときは、私のところの照明を残して、他を消すようにしていました。

どうして、人がいない部分の照明を消さないかというと、スイッチの位置と照明との関係がわかっていないからです。

どこをOFFにすれば、どの照明が消えるのか、わからなかったのです。

もし間違って人がいる場所の照明を消してしまうと、嫌な気持ちにさせるかもしれない。

タイ人は、そういう行為を嫌いますから、無難に消さないでおくことを選択したのです。


だったら解決方法は簡単です。

スイッチと照明の場所を関連付けてやれば良いだけ。

でも、文字でどの部分の照明とか書いても、わかりにくくなるのは必定です。

そこを工夫して、わかりやすくなるように考えて、実施することを依頼したのです。

そして、それをやると手を上げてくれた社員に、100バーツをあげて事前に表彰したというわけです。


ところが、それから1ヶ月が過ぎても、まったく何も実施されませんでした。

今月のスピーチのとき、私はそのことを指摘しようかと思いました。

「先に表彰してあげたのに、私との約束を守らないの?」

でも、それを言ったら、萎縮させてしまうかもしれません。

私はその社員を信じて、仮に何もやってくれないとしても、指摘するのはやめようと思いました。


それから数日して、私宛にメールが届きました。

その社員が考えたアイデアが書かれていて、これで良いかと問うてきたのです。

私は言いました。

「良いか悪いかを決めるのは、私じゃないんだよ。あなた方がそれを考えるんだよ。」

ともかく自分のアイデアで実施してみて、不都合があればやり直せば良いだけなのです。

失敗を恐れて逡巡していては、いつまでたっても前進できません。

それに、その評価を私に求めていたら、評価の基準はいつも「私がどう思うか」ということになってしまいます。

そうなれば、自分自身で考えなくなるでしょう。「どうすればいいですか?」と、常にお伺いを立てるようになるでしょう。

それでは意味がないのです。


それから1週間ほどして、出社したとき、私は驚きました。

オフィスの中が、お祭り状態になっていたからです。

お祭り状態のオフィス

最初は、中国正月の飾り付けかと思いましたよ。だって、色とりどりの短冊が天井からぶら下がっているのですから。


でも、しばらくして気が付きました。そして、嬉しさが込み上げてきました。

「やるじゃないか!素晴らしいよ、このアイデアは。」

そう、これは照明の場所の目印なのです。

どのスイッチでどの照明がON/OFFされるか、ひと目で分かるように色付けしたのです。

入り口にあるスイッチには、それぞれの色に塗られたラベルが貼ってありました。

これなら、消したい照明のところにある短冊と同じ色のラベルが貼られたスイッチを、OFFにすれば良いとすぐにわかります。


それに、照明のところに色のついたラベルを貼るのではなく、短冊にしたところが素晴らしいと思いました。

味気なかったオフィスが、一気に華やいだ雰囲気になったからです。

「これならウキウキした気分で仕事ができそう。」


待って良かったと思いました。

そして、どんな人でもこんな素晴らしいアイデアを出せる可能性を、秘めているのだなあと思いました。

「100バーツしかあげなかったけど、このアイデアなら500バーツにしてもいいかも。」

そう思うくらい、嬉しかったのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 20:03 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月22日

価値観は自分が選んでいる

札幌旅行では、雪中乗馬体験というのを行いました。

タクシーで1時間弱走ったところにある牧場で、約40分間の乗馬体験をさせてもらったのです。


到着したとき、私たちが乗る予定の2頭の馬、ハルとテリーは、並んで飼葉を食べていました。

飼葉を食べるテリー

あまりにムシャムシャと食べているので、引き離して歩かせるのが大変なほどでしたよ。


相当にお腹が空いているのか、それとも、餌を見たら食えるだけ食わないと気が済まない性分なのか。

それはわかりませんが、ともかく食べたくて仕方がない感じでした。

周回コースの中にも、ところどころに干し草が落ちていたりするのですが、そうなるともう、立ち止まって食べ始めるのです。

いくらお腹をかかとで蹴っても、歩こうとはしません。


当たり前のように思いますが、考えてみると不思議ですよね。

だって、私たち人間にとって、干し草なんかちっとも食べたくはないからです。

馬にとっては大好物でも、人間にとっては何の価値もないもの。

一方、晩飯で食べた刺身がとっても美味しかったのですが、馬にとっては何の価値もないものなのでしょうね。

ハマチの刺身


乗馬の途中で、馬は立ち止まって糞をします。

馬が糞をした周回コース

せっかくの純白の世界が、1点の黒で台無しですよね。

「きったないなあ。」

そう思うこともできますが、馬にとってはどうでもよいことなのでしょう。

周回コースですから、糞をした場所にまた戻ってきます。

すると馬は、そこに糞があるとかどうとか関係なく、平気で歩いていきます。

馬にとっては、雪も糞も同じようなもので、美しいも汚いもないのです。


「それは馬だからだよ。馬と人間は違う。」

そう思われるかもしれませんが、本当にそうでしょうか?

では、どの段階からそういう決定的な違いが生まれたのでしょう?その理由はなぜですか?


たしかに、馬と人間とでは、感じ方が大きく異なっているでしょう。

けれども、問題の本質はそういうことではなく、「そもそもこの世に存在するものに、美しいとか汚いとか、そういう差異は存在しない。」ということだと思うのです。

ただ雪があるだけだし、ただ糞があるだけなのです。

それを見たとき、「美しい」と思うのか、それとも「汚い」と思うのかの違いがあるだけで、そのものに「美しい」とか「汚い」という属性が備わっているわけではないのです。

 

ちょっと汚い話で申し訳ありませんが、たとえば鼻水をすすったりしますよね?

つまり、自分の鼻水を飲んでいます。時には口の中で味わったりもするでしょう?

どうしてそんなことができるのでしょうか?

だって、他人の鼻水だったら、「汚いよ」と言って、飲むどころか触れることさえ嫌がるはずです。

鼻水の成分に、そんなに違いがあるでしょうか?あるはずありませんよね。

違うとすれば、それは「私の」鼻水なのか、それとも「他の誰かの」鼻水なのか、という違いだけです。


では、自分以外の人の鼻水ならぜったいに口に入れたくないと思うかと言うと、必ずしもそうではありません。

子どもがまだ小さくて鼻をかめない頃、自分の子だからという理由で、口で鼻を吸ってあげるという親は少なからずいます。

つまり、鼻水そのものが「汚い」のではなく、鼻水を「汚い」と思うかどうかの違いなのです。

 

ホテルの周りを散歩していたとき、偶然に時計台を見つけました。

札幌の時計台

名所だからということで、一応、記念写真を撮りました。

ビルの間に、ポツッと建っている時計台。見た目も豪華ではなく、どうということのない建物です。

それなのに、どうして名所になるほどの価値があるのでしょうか?


建物そのものに価値があるのではなく、人々がそれを価値あるものと考えるから、価値が付与されているのです。

つまり、価値というのは、その対象にあるのではなく、それを見る人の頭の中にあるのです。

 

そういうように考えてみると、世の中がまた違うように感じられませんか?

私たちは、この相対的な世界で、あれは「高い」とか「低い」などと評価します。

「美しい」「汚い」「かっこいい」「ぶさいく」「善い」「悪い」・・・

そういった評価が、実はその対象に付随しているのではなく、私たちの頭の中にあるということになるからです。


このことが理解できると、他人の価値観を無意識に受け入れて従わされていたことに気づくでしょう。

そして、本当は自分で選ぶことができるし、自分が好きなように決められるのだとわかるでしょう。

それは、どんな状態ですか?

自由です。

私たちは本来、自由なのです。他の誰かの価値観に縛られるものではありません。

自分で、「それをどう考えるか?」ということを選べるのです。自由に選べるのです。

そんなことを、今回の札幌旅行でも感じました。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:40 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月23日

最近ハマっていること

コンピューターゲームは大人気ですが、私はあまりやりません。

目が痛くなるし、時間がもったいないからです。

せいぜい、暇つぶしと言うか頭休めのために、PCで将棋ゲームとかフリーセルをやるくらい。


ところが妻は、ゲームが大好きです。

まあ20歳以上も年が違うので、今はゲームが楽しいのでしょう。

かく言う私も、20代のころはゲームに熱中していて、ドラクエFF(ファイナルファンタジー)を1日じゅうやってたこともありました。

冬休みには、24時間ぶっ通しでやったことも。


ところが最近、妻にのせられてスマホのゲームをやるようになりました。

LINE POPというもので、同じマークのキャラを縦か横に3つ以上並べて消していくゲームです。

1分間にどれだけ消せたかで得点が表示され、それをLINEでつながった仲間同士で競えるというものなのです。


最初は、どうやったら高得点が出せるのかわからず、せいぜい2〜3満点でした。

少し練習して10満点くらい出せるようになりましたが、そのころ妻や友達は、すでに40〜60満点を出していました。

こうなると、私の心の闘争心がメラメラと燃えてきます。

「どうやったら高得点が出せるのか?」

さっそくネットで調べると、動画で高得点シーンなどがアップされてます。

「なるほど、ともかく指を早く動かすんだな。その間に3連になるパターンを探し、素早く3連を作って消していけばいいんだ。」

やり方がわかれば、あとは練習あるのみです。


そしてついに、80満点を突破しました。

100満点オーバーを競っているというようなコメントもあったので、私も100満点を目指しました。

ゲームを始めてから2週間ほどたったある日の朝、出勤までの時間を使ってやっていたら、面白いように3連が揃って消えていきます。

終わってみると・・・125満点になっていました。

「やったー!ついに100満点オーバーしたぞー!」


単純なことですが、何かやり遂げた後というのは、爽快なものですね。

妻も続いて100満点をオーバーしましたが、117万点台。私の方がランキングの掲示板で上に表示されてます。

このランキングの掲示板は1周間でクリアされるのですが、その週は鼻高々でした。

だてに24時間耐久ゲームで鍛えてきたわけではありませんよ。しばらくゲームから遠ざかっていたとは言え、本気を出せばこんなものです。


そして今週、また出勤前にやっていたら、つ、ついに160満点台が出ました。

LINE POP 160万点台

写真は今日撮ったものですが、下段の「BEST SCORE」のところに、私の最高得点が表示されています。

これで妻はもう追随できないでしょう。

闘争心が萎えた妻は、他のゲームをやるようになり、60万点台しか出していません。

「そろそろ、このゲームも終りかな。」


そんなことを思っていた木曜日の午前中、妻からLINEでメッセージが届きました。

「私が1番ですね」

「ウッソー!?」まさか160満点が破られるはずがありませんよ。きっと何かの間違い...。

そう思ってランキングの掲示板を見ると、なんと妻は180万点台を出していました。

LINE POP ランキングの掲示板

やられました。まさか、あの160万点台がそう簡単に破られるなんて...。

妻は、私以上に負けず嫌いなのです。

諦めたふりをしながら、実は諦めていなかったようです。

これで、来週もまた夫婦の激しいバトルが繰り返されることになりました。


妻に追い抜かれた後、私は100万点台は何度も出すのですが、最高が160万点そこそこ。どうしても最高点を越えません。

200万点台を目指してやろうというほどの気持ちはありませんが、ランキングで妻に負けたくはないので、来週はまたトップの座を狙っていきますよ。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 17:55 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

魂は愛を体験したがっている

今日も、「神との対話」を少し読んできました。

その中に、「魂は愛を体験したがっている」という表現がありました。


私たちは神に創造されたわけですが、その目的は、知っていることを体験することだと言います。

「素晴らしい」ということを知っていても、他に「素晴らしくない」ものがなければ、それがどれだけ「素晴らしい」のかを感じることができません。

ですから私たちの目的は、知っている神性を体験し、感じることなのだと言うのです。


そして、その神性の究極的なものとは「愛」なのだと。


でも、私たちはこの世で、愛とはかけ離れた体験もします。

いやむしろ、その方が多いくらいかもしれませんね。

少なくとも私はそうでした。

けれども、そのことを批判したり、否定してはならないと言います。

なぜなら、「愛でないもの」が存在しなければ、「愛」もまた存在しないからです。



この世は相対的にできています。

ですから、「愛」を体験してその素晴らしさを感じるためには、「愛でない」体験が必要なのです。

なので、「愛でない」体験をしたことを否定してはならないと言うのです。

つまり、「愛」を体験するための下地づくりみたいなもの、と考えるということなのでしょうね。

 

そんなことを読んだ後で、WEB版のみやざき中央新聞を読みました。

「人生に悩んだら日本史に聞こう」というタイトルで書かれた、(株)ことほぎ代表取締役の白駒妃登美さんの記事に心を奪われました。

あの日本地図を作った伊能忠敬の人生についての講演録です。


伊能忠敬が苦労して日本地図を作ったことは授業などで習いましたが、私は彼のことを詳しくは知りませんでした。

でも、この記事を読んで、彼の愛に泣きましたよ。

 

白駒さんは彼の人生を、「いつも与えられた環境やご縁を受け入れ、感謝し、そこで出来る精一杯のことを行って、
大好きな人たちのために頑張る人生でした。」
と言います。

そしてそのエピソードとして、「天明の大飢饉」のとき、彼の地元・千葉の佐原の町は餓死者が出なかったというのです。

それは、実家が造り酒屋をしていたので、大量にあった米を無償で提供したからだと。


伊能忠敬は、ほとんど自費で日本地図を作ります。

それは彼が、後世に生きる日本人のためにという思いを込めて作ったものでした。

彼の死後35年してから、ペリーが黒船を率いてやってきました。

アメリカからすれば、日本なんて野蛮な未開の国。

最新の科学技術で作った日本の海図も、ペリーは持っていました。

そこに、伊能忠敬が歩測で作った日本地図が幕府から提示されます。

それを見たペリーは、自分が持っている地図とほぼ同じものを日本人が作っていることに驚きます。

そして以後、日本を蔑む態度を改めたのだそうです。



ご存知のようにアジア諸国は、欧米の植民地にされて蹂躙された時代です。

その中で日本は、植民地化されなかった数少ない国の1つ。

伊能忠敬が作ってくれた日本地図が、私たちの国を救ってくれたのです。

少なくとも、日本を守る1つの要因になりました。

そしてそこには、彼が後の日本人のために役立つと思って、心を込めた愛があったのです。

 

素敵な話だと思いませんか?

私は感動して、泣けてきましたよ。

そして思いました。

私も、彼のように生きたい。

ただただ、愛するために生きたいと思ったのです。

 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 19:18 | Comment(0) | SJ通信過去ログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月25日

何もこんな暑いところでソフトボールなんか

前にもお話しましたが、私は休日にソフトボールをやっています。

私たちがやっているのは「へたくそソフトボール」という理念に基づいたソフトボールで、単に勝敗を競うものではありません。

参加した人がみんな楽しめることを第1の目的にし、その手段としてソフトボールがあるという位置づけなのです。


たとえば、上手い人でも下手な人でも、平等に参加できるようにしています。

せっかく参加したのに、下手だからという理由でベンチウォーマー(補欠)にしておくようなことはしません。

打順は、全員に回るようにしています。参加者が15人でも20人でも、全員が順番に打席に立つのです。

守備は9人で行いますが、それもなるべく交代するようにしています。


また、女性や子どもに対しては温情ある投球や守備が求められます。

打ちやすいボールを投げ、せっぱつまった場面でない限りアウトにはしません。

2ストライク後に空振りしても、審判権限で「ファール!」と判定することもあります。

「上達しよう」とか「勝とう」という気持ちは尊重しますが、そういう気持ちに執着しません。


3月10日には、第12回となるHST(へたくそソフトボール大会)が開かれます。

年に2回(3月と11月)あるので、もう6年やっていることになります。


その大会に向けて、昨日は自主練習を行いました。

有志の約10名が郊外のナショナルスタジアムに集まりました。

ナショナルスタジアムでソフトボール

ここは、両翼が90mはある本格的な野球場です。

硬式野球のナショナルチームが本拠地として使っていた場所で、得点ボードやベンチ、それに観客用のスタンドもあります。

こんなところでソフトボールの自主練だなんて、なんとも贅沢でしょう?


タイは、サッカーは盛んですが、野球の人気はありません。

そもそも野球を見たことがないという人も多いし、ルールを知っている人はわずかです。

それでも硬式野球のナショナルチームが存在したというのは、逆に驚くべきことですね。

日本人なら一般的にソフトボールくらいは遊びででもやりますが、タイ人はソフトボールなんて滅多にやりません。

学校の授業でやることはほとんどないし、ソフトボール部が存在する学校もわずかなようです。

野球部なんて、もっと少ない(まったくない)かもしれませんね。


自主練は、9時から12時までの3時間ほど。

暑い日差しの下で、健康的な汗をかきました。と言うより、フラフラになりましたよ。

写真は、練習が終わってグランド整備をしているときのグランドの様子です。

ナショナルスタジアムでソフトボール

ナショナルスタジアムでソフトボール


今回の自主練で、私の札幌土産をみなさんに披露しました。

それは、私が買ったバットです。ネットで買って、ホテルに送ってもらいました。

ソフトボール用のバット

他のチームでは、ビヨンドAX4といったよく飛ぶカーボン製のバットが使われています。

安い金属バットしかない我がチームは、ちょっと不利なのです。

そこで、私が自分でバットを買い、チームに提供したというわけです。

カタリストではなく、同じメーカーのルイスビルが作った性能の高いカーボンバットのトリトン3Xと、カーボンと金属を合わせたH2ハイブリッドです。

わかりやすいように、正面、裏面、側面の写真を撮りました。


トリトン3Xはミドルバランス、H2ハイブリッドはトップバランスですが、ともに700g前後の軽目のバットです。

初めて使いましたが、私はトリトンの方が相性が良いようですね。

軽目のバットですが、まだ少し重く感じてしまうのは、それだけ非力になったのでしょうね。


チームのメンバーを喜んでくれたようです。

2本で約3万円と格安だった(カタリストなどは1本3万円以上)のですが、値段以上の効果がありました。

やっぱり新品のバットがあると、意欲もわきますから。

練習して、上手くなって、大会では優勝を目指します!

執着しない程度にね。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 15:47 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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