先日、「神よりしあわせ」を読み終えました。
「引き寄せの法則」を上手に活用するには、他人を優先すること。
これはつまり、黄金律ということですね。
覚えてますか?黄金律。
世界中でこのことが言われていますが、たいていは、ネガティブな言い方をします。
たとえば、日本人がよく知っているのは、論語にある黄金律です。
「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」
自分がしてほしくないことは、他人にもしてはいけない、という意味になります。
おそらく唯一肯定的に表現しているが、聖書にあるイエスの言葉でしょう。
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」
このように、自分が願うことをまず他人に対して行うことを勧めているのが、黄金律なのです。
以前、「黄金律(ゴールデン・ルール)の見方が変わりました」という記事でも詳しく書きましたので、そちらも参考にしてくださいね。
そして、この黄金律を活用すれば、「引き寄せの法則」をさらに上手に使えると言うのです。
これには、とても勇気づけられますね。
それは、私の中で「これが真実だ」と確信できるからです。
さて、読み続けている「神との対話」シリーズも、ついに最後の1冊となりました。
2009年に発行された「変えれば、変わる」を、昨日より読み始めたのです。
この本を読み始めた3年前、とても読みづらいなと感じました。
著者のニールは本の中で、何度も休憩タイムを入れ、「がんばってついてきてほしい」と言います。
書かれていたことに共感はしましたが、難しいという印象が強かったのです。
それを再度読み始めたのですが、今のところスーっと私の頭に言葉が入ってきます。
何が変わったのでしょうか?
おそらくこの3年の間に、私自身が成長したのだと思います。私自身が変わったのです。
それは、自分でもわかります。
いろいろなことを考え、葛藤し、発見し、感動しました。
「神との対話」ふうに言うなら、より多くを思い出したのです。
ですから今回は、ニールが言おうとしていることがスーッと入ってくるのでしょう。
変化が世の常であることは、日本人なら誰でもよく知っています。
「諸行無常」という言葉は、少なくとも一度は聞いたことがあるでしょう。
有名な平家物語の冒頭です。
「祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり。 娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理(ことわり)をあらは(わ)す。 おごれる人も久しからず、 唯(ただ)春の夜の夢のごとし。 たけき者も遂にはほろびぬ、 偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ。」
たしか中学の国語の時間に、暗記させられたように記憶しています。
また、これまた有名な方丈記の一節もご存知でしょう。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」
このように、無常感というものを私たちは持っているのですが、それでも変化よりも安定を希求する人が多いようです。
そしてそれは、私自身にも言えることでした。
何かを得ると、それを手放すまいとして執着する。
これもまた、変化を受け入れようとせず、安定(=不変)を求めているからです。
しかし、どんなに不変を願おうとも、この世は変わっていきます。
それは、生命の本質とはエネルギーであり、エネルギーとは波であり、波とは変化するものだからです。
易経の中でも、この世は陰と陽の2つの要素から成り立っており、常に陰から陽へ、陽から陰へと変化し続けているのだと言っています。
それがこの世を観察し、そこから導き出された法則でもあるのでしょう。
そうだとしたら、不変を願うのは生命に「死ね」と言うのと同じことです。
生命が生命である以上、変化せざるを得ないのです。
問題は、変わるかどうかではなく、自分の思い通りに変わるかどうか、ではないでしょうか?
そういう変化をコントロール術を、「変えれば、変わる」という本は示してくれるのです。
2013年02月01日
2013年02月02日
人の頭脳では解き明かせない複雑なパズル
自然界は、その全体がシステムではないかと思うほど、密接な関係で保たれています。
たとえば、植物と動物の関係もそうです。
動物は生きるために酸素を必要としますが、その供給源は植物です。
つまり、植物の存在がなければ動物は存在できません。
でもこのくらいなら、最初に植物ばかりの世界があり、大量に作られた酸素をエネルギー源とする仕組を持つ動物が、あとから生まれたとも説明できます。
では、植物と昆虫の関係はどうでしょうか?
植物が交配するためには、昆虫の働きが不可欠です。
また昆虫は、植物の花の蜜などを餌としているので、植物が存在しないと生存できません。
いったい、どちらが先なのでしょう?
特に、ある特定の昆虫によってだけ交配が可能な植物がありますよね。
ハンマーオーキッドなんて、そのハチのメスの形になることで、オスバチが間違えて抱きかかえて飛ぼうとする習性を利用し、オスの身体に花粉をつけるのです。
ああいうのって、いったい誰が考えたのか不思議になりませんか?
突然変異と適者生存という仮説の組み合わせで説明できなくもありませんが、猿がワープロを打ったら偶然に源氏物語が作られていたというのに等しい感じがします。
鶏と卵がどっちが先かという話もありますが、私たちには、なぜ自然界が今こうなのかという謎を、まだほとんど解き明かせずにいます。
偶然だと一言で片付けることも可能です。
けれども私は、これらを偶然と呼ぶには、あまりに恐れ多い気がするのです。
「「東の大富豪」の教え」にもありましたが、意味のある偶然の一致によって、その人固有の成功に導かれるという考え方があります。
直感と表現することもできますが、自分の中だけで閉じた問題ではなく、他者との関係で起こることです。
たとえば、たまたま今の問題を解決してくれる本と出合うようなことはありませんか?
私は、そういうことが何度もあります。
今読んでいる「超訳 ニーチェの言葉」にも驚かされました。
ニーチェという哲学者の名前はよく知っているものの、その思想については、あまり詳しくありませんでした。
話題になったので買ったのですが、最近まで「積んどく」状態でした。(笑)
その本の冒頭に、ニーチェという人は、論理的に考えて思想を組み立てていった人ではなく、思いつくがままに言葉を置いていくようなタイプだったと書かれていました。
いわば哲学者と言うより、芸術家に近い存在だと。
「神は死んだ」という有名な言葉もあるように、キリスト教道徳を批判し、真の人間のための価値観を追求したのだと言います。
このときふと、これは「神との対話」シリーズと似たような思想があるのではないかと思いました。
そして最初の文章を読んだとき、とても驚いたのです。
「初めの一歩は自分への尊敬から」と題した文章では、自己卑下をやめ、自己肯定感を高めるようにということが語られています。
まだ何も結果を残していない自分を尊敬することが大切なのだと。
そうすれば、理想に近い自分、他人が見習いたいと思うような自分になれるからと言うのです。
「神との対話」シリーズでも、既存のキリスト教の価値観である原罪について、同様のことを語っています。
もともと人は罪の中に生まれ、その罪は自分でどうすることもできず、ただ神にすがるしかないというのは、おかしいと言うのです。
すべてであり、全知全能で愛の神が、なぜそんなことをしなければならないのか?
その疑問は、私自身も持っていたものでした。
ニーチェの言葉には、なぜ人間が尊敬されるべきなのか、その理由の説明はありません。
けれども、ズバッと核心をついているという点で、何らかのインスピレーションを受けたのだろうなと思うのです。
私たちはつい、自分を過小評価しがちです。
「私なんて、大したことありませんから。」
そう言って謙遜します。
私は子どもの頃から、自慢ばかりされるのも嫌いでしたが、謙遜ばかりしているのも嫌でした。
集会で前の方が空いているとき、主催者が「どうぞ前の方へお座りください」と勧めます。
そんなとき、「いや私みたいな者が前に座るのは恐縮ですから、どうぞそれにふさわしい方に座ってもらってください。」などと言って遠慮するのです。
主催者が「前にどうぞ」と言っているのですから、「ではお言葉に甘えて」と言って前に座れば良いではありませんか?
本当は、「私は前に座ると目立って恥ずかしいから嫌だ」という気持ちなのに、それを隠して、謙遜という形で表現するのを腹立たしく感じたのです。
もし自分に自信があれば、堂々と理由を言えたはずです。
「前に座ると見られているようで恥ずかしいから、後ろに座らせてくださいな。」
まあこのくらいはっきり言える人なら、見られるくらい恥ずかしくもないでしょうけどね。(笑)
何もない自分を素晴らしい存在だと評価すれば、他人もまた同じであるとして、尊重することができます。
謙遜は美徳とされますが、私には他人をごまかす手段のように感じられます。
謙遜するより、他人も自分も尊敬した方が良いと思います。
それだけの価値がある存在だと思うからです。
それにしても、ニーチェがこういう思想家だったとは知りませんでした。
今、このとき読み始めたのも、偶然ではないような気がします。
私の状況からして、このタイミングがベストだというとき、読める環境が整って、読みたいという気になって、本を手にとったのです。
この本を作った人は、私がこのときに本を読むなどということは知らなかったでしょう。
けれども、私はこの本を手にした。
この瞬間、私と本を作った人の人生がつながったのです。
でもそれは表面的なことで、実はもっと深い所でつながっていて、絶妙なタイミングで表に出てきただけという気がします。
この世は複雑に絡み合ったパズルのようになっていて、それぞれのピースには、そのピースにふさわしい時間と場所が提供される。
そんなイメージを持っています。
そう考えられるのは、すべては「ひとつのもの」だと思うからです。
すべてが「ひとつのもの」であるなら、当然そうなるはずですから。
たとえば、植物と動物の関係もそうです。
動物は生きるために酸素を必要としますが、その供給源は植物です。
つまり、植物の存在がなければ動物は存在できません。
でもこのくらいなら、最初に植物ばかりの世界があり、大量に作られた酸素をエネルギー源とする仕組を持つ動物が、あとから生まれたとも説明できます。
では、植物と昆虫の関係はどうでしょうか?
植物が交配するためには、昆虫の働きが不可欠です。
また昆虫は、植物の花の蜜などを餌としているので、植物が存在しないと生存できません。
いったい、どちらが先なのでしょう?
特に、ある特定の昆虫によってだけ交配が可能な植物がありますよね。
ハンマーオーキッドなんて、そのハチのメスの形になることで、オスバチが間違えて抱きかかえて飛ぼうとする習性を利用し、オスの身体に花粉をつけるのです。
ああいうのって、いったい誰が考えたのか不思議になりませんか?
突然変異と適者生存という仮説の組み合わせで説明できなくもありませんが、猿がワープロを打ったら偶然に源氏物語が作られていたというのに等しい感じがします。
鶏と卵がどっちが先かという話もありますが、私たちには、なぜ自然界が今こうなのかという謎を、まだほとんど解き明かせずにいます。
偶然だと一言で片付けることも可能です。
けれども私は、これらを偶然と呼ぶには、あまりに恐れ多い気がするのです。
「「東の大富豪」の教え」にもありましたが、意味のある偶然の一致によって、その人固有の成功に導かれるという考え方があります。
直感と表現することもできますが、自分の中だけで閉じた問題ではなく、他者との関係で起こることです。
たとえば、たまたま今の問題を解決してくれる本と出合うようなことはありませんか?
私は、そういうことが何度もあります。
今読んでいる「超訳 ニーチェの言葉」にも驚かされました。
ニーチェという哲学者の名前はよく知っているものの、その思想については、あまり詳しくありませんでした。
話題になったので買ったのですが、最近まで「積んどく」状態でした。(笑)
その本の冒頭に、ニーチェという人は、論理的に考えて思想を組み立てていった人ではなく、思いつくがままに言葉を置いていくようなタイプだったと書かれていました。
いわば哲学者と言うより、芸術家に近い存在だと。
「神は死んだ」という有名な言葉もあるように、キリスト教道徳を批判し、真の人間のための価値観を追求したのだと言います。
このときふと、これは「神との対話」シリーズと似たような思想があるのではないかと思いました。
そして最初の文章を読んだとき、とても驚いたのです。
「初めの一歩は自分への尊敬から」と題した文章では、自己卑下をやめ、自己肯定感を高めるようにということが語られています。
まだ何も結果を残していない自分を尊敬することが大切なのだと。
そうすれば、理想に近い自分、他人が見習いたいと思うような自分になれるからと言うのです。
「神との対話」シリーズでも、既存のキリスト教の価値観である原罪について、同様のことを語っています。
もともと人は罪の中に生まれ、その罪は自分でどうすることもできず、ただ神にすがるしかないというのは、おかしいと言うのです。
すべてであり、全知全能で愛の神が、なぜそんなことをしなければならないのか?
その疑問は、私自身も持っていたものでした。
ニーチェの言葉には、なぜ人間が尊敬されるべきなのか、その理由の説明はありません。
けれども、ズバッと核心をついているという点で、何らかのインスピレーションを受けたのだろうなと思うのです。
私たちはつい、自分を過小評価しがちです。
「私なんて、大したことありませんから。」
そう言って謙遜します。
私は子どもの頃から、自慢ばかりされるのも嫌いでしたが、謙遜ばかりしているのも嫌でした。
集会で前の方が空いているとき、主催者が「どうぞ前の方へお座りください」と勧めます。
そんなとき、「いや私みたいな者が前に座るのは恐縮ですから、どうぞそれにふさわしい方に座ってもらってください。」などと言って遠慮するのです。
主催者が「前にどうぞ」と言っているのですから、「ではお言葉に甘えて」と言って前に座れば良いではありませんか?
本当は、「私は前に座ると目立って恥ずかしいから嫌だ」という気持ちなのに、それを隠して、謙遜という形で表現するのを腹立たしく感じたのです。
もし自分に自信があれば、堂々と理由を言えたはずです。
「前に座ると見られているようで恥ずかしいから、後ろに座らせてくださいな。」
まあこのくらいはっきり言える人なら、見られるくらい恥ずかしくもないでしょうけどね。(笑)
何もない自分を素晴らしい存在だと評価すれば、他人もまた同じであるとして、尊重することができます。
謙遜は美徳とされますが、私には他人をごまかす手段のように感じられます。
謙遜するより、他人も自分も尊敬した方が良いと思います。
それだけの価値がある存在だと思うからです。
それにしても、ニーチェがこういう思想家だったとは知りませんでした。
今、このとき読み始めたのも、偶然ではないような気がします。
私の状況からして、このタイミングがベストだというとき、読める環境が整って、読みたいという気になって、本を手にとったのです。
この本を作った人は、私がこのときに本を読むなどということは知らなかったでしょう。
けれども、私はこの本を手にした。
この瞬間、私と本を作った人の人生がつながったのです。
でもそれは表面的なことで、実はもっと深い所でつながっていて、絶妙なタイミングで表に出てきただけという気がします。
この世は複雑に絡み合ったパズルのようになっていて、それぞれのピースには、そのピースにふさわしい時間と場所が提供される。
そんなイメージを持っています。
そう考えられるのは、すべては「ひとつのもの」だと思うからです。
すべてが「ひとつのもの」であるなら、当然そうなるはずですから。
2013年02月04日
ハイパワー・マーケティング
マーケティングと言えばジェイ・エイブラハムと言われるほど、誰もがその道の権威と思う人の本です。
「幸せ実践とマーケティングが関係あるの?」
私も、あまり関係がないと思っていたのですが、読んでいるうちにそうではないと思うようになりました。
と言うのは、マーケティングの本質は、客を自分とごく親しい友人のように思うことだと書いてあったからです。
最初に、顧客をカスタマーではなく、クライアントと呼ぶことが書いてあります。
カスタマーは、ただ商品を買ってくれる人。でもクライアントだと、その人の問題を一緒になって解決してあげる関係になるのです。
「卓越の戦略」というものが紹介されています。
これは何もマーケティングだけでなく、あらゆる人間関係で使えると言います。
それは、それまで自分に合わせていた焦点を、相手に合わせることです。
つまり商売では、「売る」という自分の立場で考えるのではなく、客がその商品に何を期待し、それによってどうなるかを考えるということです。
あるいは、その商品を買おうかどうしようか迷っている時の客の気持ちや、その商品にまだ関心を持たないときの客が抱えている問題に意識を向けるということです。
これって、まさに黄金律の実行ではないでしょうか。
ジェイ・エイブラハムは、マーケティングの用語として定着しているUSPやアップセル、クロスセルなどを、最初に考案した人なのだそうです。
監訳者の金森重樹さんは、ここに書かれている方法を使って、成功することができたと言います。
「通販大家さん」というサイトを運営し、数々の本を出版されてる金森さん自身が、その成功のもとがこの本にあると言っているのです。
最後に「監訳者からのメッセージ」と題して、金森さんの言葉も記されてます。
失敗を怖れて一歩を踏み出さない人には成功はないし、たまたま偶然に成功したことは、その人のためにならないというようなことが書かれています。
私も、「そうだなあ」と改めて思いました。
勇気を出して、一歩を踏み出しましょう。
2013年02月05日
「目からウロコの幸福論」とは
ニュースを見ていたら、面白いものを見つけました。
【目からウロコの幸福論】科学的にみた「幸せになるための6つの秘訣」
「科学的にみた」というフレーズに、私は弱いんですよね。
根拠もなく「こうだ」と言われると、どうしても騙されている気がします。
それで自分でその根拠を探ったりするのですが、どうしても論理的に納得できないと、その結論を捨てます。
ですから、私を説得するのは簡単なのです。「AならB、BならC、だからAならCでしょ。」と、論理的に説明するだけですから。
仮に他の結論を持っていたとしても、その結論が論理的に正しくないことを説明されたら、あっさりと信念を変えます。
そういう意味で、単純なのです。
さて、そのニュース記事の中で紹介されていたのは、米メディアのio9に掲載されていた「科学的にみた幸せになるための6つの秘訣」だそうです。
一つひとつ見てみましょう。
1.幸せな人と一緒に過ごすべし
これは、運が良くなりたかったらツイている人と一緒に過ごせと言うのと同じですね。
また、自分の年収は、よく付き合っている友人5人の平均だという説も、同じようなものでしょう。
類は友を呼ぶと言いますが、その逆もまた真なり、と言うことでしょう。
2.特技を身につけるべし
一時的なストレスを乗り越えて何か人より優れたものを身につければ、それが自信となり、その自信から心の余裕が生まれ、幸せでいられるということなのでしょう。
3.自己管理をすべし
日常のストレスを軽減させるには、耐性能力を高めることが重要。そのために、「自己管理」と「仲間」が役に立つということのようです。
4.笑顔を作るべし
感情が笑顔を生むと考えられがちですが、逆に笑顔が感情を生むことを証明したそうです。
幸せだから笑顔になれるなら、逆に笑顔になることで幸せでいられると。
これは、私が言っていることと近いですね。
5.精神療法を受けるべし
お金をもらうことより精神療法を受けることの方が、心理的な苦痛を取り除く上での費用対効果が、はるかに高いという実験結果が出たのだそうです。
これはつまり、幸せでいられるかどうかは、物質的な問題ではなく、純粋に精神的な問題だということでしょうね。
そういう意味では、私はいつも言っている通りです。
6.幸せになろうとすることをあきらめるべし
1.から5.を試しても上手くいかない場合の最終手段だそうです。
逆説的ですが、私は、これが最初でも良いと思います。要は、執着しない(=必要性をなくす)ことですから。
幸せになることにこだわって執着してしまうなら、いっそのこと捨ててしまった方が良いのです。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と言いますからね。
このように見てみると、なるほど的を射ている気がします。
人それぞれタイプが異なるので、自分がやりやすいことからやるのが良いでしょうね。
私などは理屈で納得しないと従えないタイプなので、どうしても「なぜそうなるの?」と考えてしまいます。
ですから、私の方法はタイプが異なる人には役立たないかもしれません。
でも、私の方法のメリットは大きいと思います。
それは、第1に自分で検証できるということです。
わけもわからず他の人の言いなりにならなくて済む。
そしてそれが、依存を離れて自由であるために重要なことだったりします。
第2に、迷った時も自分で軌道修正できることです。
他の人から指示されなくても、自分で検証できるのですから、自分で修正できます。
既存の宗教の危うさは、指導者や教祖、最終的には神の御宣託を仰がなくてはならないことが問題です。
いくら自分が納得できなくても、神がこう言ったと言われたら反論できませんから。
こうして依存する仕組が作られ、依存は執着となり、幸せから遠のいてしまうのです。
いずれにせよ、100人いれば100通りの道があります。
それぞれの道を歩むのが一番ですよ。少なくとも、他人を恨まずに済みますからね。
【目からウロコの幸福論】科学的にみた「幸せになるための6つの秘訣」
「科学的にみた」というフレーズに、私は弱いんですよね。
根拠もなく「こうだ」と言われると、どうしても騙されている気がします。
それで自分でその根拠を探ったりするのですが、どうしても論理的に納得できないと、その結論を捨てます。
ですから、私を説得するのは簡単なのです。「AならB、BならC、だからAならCでしょ。」と、論理的に説明するだけですから。
仮に他の結論を持っていたとしても、その結論が論理的に正しくないことを説明されたら、あっさりと信念を変えます。
そういう意味で、単純なのです。
さて、そのニュース記事の中で紹介されていたのは、米メディアのio9に掲載されていた「科学的にみた幸せになるための6つの秘訣」だそうです。
一つひとつ見てみましょう。
1.幸せな人と一緒に過ごすべし
これは、運が良くなりたかったらツイている人と一緒に過ごせと言うのと同じですね。
また、自分の年収は、よく付き合っている友人5人の平均だという説も、同じようなものでしょう。
類は友を呼ぶと言いますが、その逆もまた真なり、と言うことでしょう。
2.特技を身につけるべし
一時的なストレスを乗り越えて何か人より優れたものを身につければ、それが自信となり、その自信から心の余裕が生まれ、幸せでいられるということなのでしょう。
3.自己管理をすべし
日常のストレスを軽減させるには、耐性能力を高めることが重要。そのために、「自己管理」と「仲間」が役に立つということのようです。
4.笑顔を作るべし
感情が笑顔を生むと考えられがちですが、逆に笑顔が感情を生むことを証明したそうです。
幸せだから笑顔になれるなら、逆に笑顔になることで幸せでいられると。
これは、私が言っていることと近いですね。
5.精神療法を受けるべし
お金をもらうことより精神療法を受けることの方が、心理的な苦痛を取り除く上での費用対効果が、はるかに高いという実験結果が出たのだそうです。
これはつまり、幸せでいられるかどうかは、物質的な問題ではなく、純粋に精神的な問題だということでしょうね。
そういう意味では、私はいつも言っている通りです。
6.幸せになろうとすることをあきらめるべし
1.から5.を試しても上手くいかない場合の最終手段だそうです。
逆説的ですが、私は、これが最初でも良いと思います。要は、執着しない(=必要性をなくす)ことですから。
幸せになることにこだわって執着してしまうなら、いっそのこと捨ててしまった方が良いのです。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と言いますからね。
このように見てみると、なるほど的を射ている気がします。
人それぞれタイプが異なるので、自分がやりやすいことからやるのが良いでしょうね。
私などは理屈で納得しないと従えないタイプなので、どうしても「なぜそうなるの?」と考えてしまいます。
ですから、私の方法はタイプが異なる人には役立たないかもしれません。
でも、私の方法のメリットは大きいと思います。
それは、第1に自分で検証できるということです。
わけもわからず他の人の言いなりにならなくて済む。
そしてそれが、依存を離れて自由であるために重要なことだったりします。
第2に、迷った時も自分で軌道修正できることです。
他の人から指示されなくても、自分で検証できるのですから、自分で修正できます。
既存の宗教の危うさは、指導者や教祖、最終的には神の御宣託を仰がなくてはならないことが問題です。
いくら自分が納得できなくても、神がこう言ったと言われたら反論できませんから。
こうして依存する仕組が作られ、依存は執着となり、幸せから遠のいてしまうのです。
いずれにせよ、100人いれば100通りの道があります。
それぞれの道を歩むのが一番ですよ。少なくとも、他人を恨まずに済みますからね。
2013年02月06日
夢をかなえるゾウ2
前作の「夢をかなえるゾウ」が面白かったので、第2弾のこの本も買ってみました。
あっと言う間に読み終えてしまいましたが、前作以上に物語としての完成度が高く、素晴らしかったです。
今回は、サブタイトルに「ガネーシャと貧乏神」とあります。
この貧乏神の幸子さんが、いい味を出しているのです。
主人公のガネーシャがストーリーを引っ張っていますが、主題的な部分では、脇役の幸子さんが中心のような気がしました。
読みながら、「これはいい!」と思ったところのページを折り曲げていたのですが、全部で5ヶ所もありました。
それがすべて、幸子さん絡みなのです。
もう、惚れちゃいそうなくらい素敵なキャラです。(笑)
今回読んで感じたのは、「これ、「神との対話」シリーズを参考にしているんじゃない?」ということです。
たとえば、p.142にはこう書かれています。
「不安に実態はない。自分の不安に対する姿勢が、そのまま不安の大きさを決める。」
またp.184には、貧乏神から嫌われる(=金持ちになる)方法として、こういうことが書かれています。
「自分が困っているときに、困っている人を助ける」
また、p.185にある幸子さんのセリフには、驚かされます。
「実は「他人に対する言葉や行動は、自分に対する言葉や行動」でもあるんですよ」
まさに「神との対話」シリーズに書かれていることばかりです。
また、p.192の釈迦の言葉も秀逸ですね。
「世界とはつまり、そのような場所なのですよ。感動するために、忘れてくるのです」
これなどは、なぜ私たちがこうなのかということについて、「神との対話」で語られているものではありませんか。
そしてp.240の幸子さんのセリフも素晴らしい。
「でも、どんなつらい状況でも、それを楽しもうとする気持ちさえあれば、人は、自らの手で喜びを作り出すことができます。お金がなくても、人は幸せになることができるんです」
これだけ一致点があるのに、巻末にある参考文献に「神との対話」シリーズは入っていません。
でも、それこそ私が言ったように、「「神との対話」シリーズに書かれていることは目新しいことではない」、ということを証明しているのではないでしょうか。
今ある状況に喜びを見出し、その場で幸せになること。
それが実は、困難な状況を抜け出す最善の方法である。
そのことを、この本では語っているように思います。
第1作も良かったので、まだの方はこちらもどうぞ。(文庫本もありますよ。)
2013年02月07日
厳しい状況の時は前向きになれるものを
昨日、「日本一心を揺るがす新聞の社説2」という本を読み終えました。
200ページ弱の量で、しかも文章が読みやすいので、あっという間に読めてしまいます。
これは、以前に紹介した「日本一心を揺るがす新聞の社説」の続編です。
元は週刊の新聞なのですが、読んでためになること、感動すること、明るい気持ちになれることなどが、数ページに渡って書かれています。
その新聞に、水谷もりひと編集長が書く社説があって、そこから選んでまとめたのがこの本なのです。
自分の状況が厳しい時など、暗い話題のニュースを見ても落ち込むだけです。
そういうときこそ、明るい話題や感動する話を頭にインプットしたいと思いませんか?
今回も、何度か泣きそうになりました。いえ、本当に泣きました。
たとえば、p.154の「奇跡のような出会いに感謝して」という社説です。
助産師の内田美智子さんが語る、子どもが生まれるドラマに立ち会ったときのエピソードを取り上げています。
その中に、すでに体内で死んだ子どもを出産するときの苦悩が書かれていました。
出産の痛みは、新たな生命が生まれる喜びだ。そう言えない出産があるのですね。
言われてみれば当然なのですが、その辛さが伝わってきます。
その母親が、死んで生まれた子どもを一晩だけ抱きたいと言うのだそうです。
そしてその夜、部屋を覗いてみると、母親は母乳を指につけて、赤ちゃんの口に移していたと...。
この場面を想像しただけで、もう泣けて泣けて、涙が止まりません。
赤ちゃんが生まれるというドラマに、実に様々な思いが込められているのです。
私たちは、私は、そうやって生まれてきたのです。
どうして簡単に「死ね!」とか「死にたい」とか言えるでしょうか。
これを読んだら、もう大抵のことはどうでもよくなりました。
大したことじゃないと思えるのです。
私たちは生きている。それ以外に、どんな大事なことがあるのかと。
みやざき中央新聞は、WEB版でも読むことができます。
週に1回くらい、心温まるものを読んで、感動してみませんか?
200ページ弱の量で、しかも文章が読みやすいので、あっという間に読めてしまいます。
これは、以前に紹介した「日本一心を揺るがす新聞の社説」の続編です。
元は週刊の新聞なのですが、読んでためになること、感動すること、明るい気持ちになれることなどが、数ページに渡って書かれています。
その新聞に、水谷もりひと編集長が書く社説があって、そこから選んでまとめたのがこの本なのです。
自分の状況が厳しい時など、暗い話題のニュースを見ても落ち込むだけです。
そういうときこそ、明るい話題や感動する話を頭にインプットしたいと思いませんか?
今回も、何度か泣きそうになりました。いえ、本当に泣きました。
たとえば、p.154の「奇跡のような出会いに感謝して」という社説です。
助産師の内田美智子さんが語る、子どもが生まれるドラマに立ち会ったときのエピソードを取り上げています。
その中に、すでに体内で死んだ子どもを出産するときの苦悩が書かれていました。
出産の痛みは、新たな生命が生まれる喜びだ。そう言えない出産があるのですね。
言われてみれば当然なのですが、その辛さが伝わってきます。
その母親が、死んで生まれた子どもを一晩だけ抱きたいと言うのだそうです。
そしてその夜、部屋を覗いてみると、母親は母乳を指につけて、赤ちゃんの口に移していたと...。
この場面を想像しただけで、もう泣けて泣けて、涙が止まりません。
赤ちゃんが生まれるというドラマに、実に様々な思いが込められているのです。
私たちは、私は、そうやって生まれてきたのです。
どうして簡単に「死ね!」とか「死にたい」とか言えるでしょうか。
これを読んだら、もう大抵のことはどうでもよくなりました。
大したことじゃないと思えるのです。
私たちは生きている。それ以外に、どんな大事なことがあるのかと。
みやざき中央新聞は、WEB版でも読むことができます。
週に1回くらい、心温まるものを読んで、感動してみませんか?
2013年02月08日
神は裁かない
「神が存在するなら、どうして悪人をのさばらせておくのか?」
子どものころから、私も気になっていた質問の1つです。
現実的に、悪人と呼ばれる人はなくならないし、世の中はけして善意だけで動いてはいません。
どうしてこうなのでしょう?
それに対する一般的な回答は、以下のようなものがあります。
「だから神なんて存在しないんだよ。」
「神は愛だから、ぎりぎりまで審判の時を遅らせてくださっているのだ。」
「裁きは死後にやってくる。悪人は地獄へ落とされ、善人は天国へ導かれる。」
どれも、「なるほど」と思わせるものがありますが、私は納得できませんでした。
「神が存在しないとするなら、どうして私たちは存在するのか?偶然?だとしたら、何のために生きるの?」
「神が審判の時を遅くするお陰で、善人が苦しまなければならないなんて、理不尽ではないか?善人を見殺しにすることが、神の望みなのか?」
「死後に最後の審判をくだすとしたら、もう悪人は救われない。それで、愛の神は平気でいられるの?我が子が地獄で苦しんでいるというのに、一部の子が天国へ来れば、それで満足なの?」
このように、それらの答が真実だとするなら、どうにも納得できない疑問が生まれるのです。
そんな中で、「神との対話」に出会いました。
この本を読むと、神について、裁きについて、驚くべきことが書かれていました。
まず、「裁きは存在しない」と言うのです。なぜなら、私たちの意志が神の意志だから、私たちが神の意に反することはあり得ないのだと。
つまり、神が定める絶対的な善悪は存在せず、私たちに従わせなければならない規律もないから、裁く必要性がないと言うのです。
私たちは永遠に存在する神の一部であり、神そのものであるのですから、傷つけられることも、傷つくこともないのだと。
この世で起こっている現象は、単に幻想に過ぎず、私たちが自分自身を経験する場として創られたもので、私たちはそのプロセスの中にあると言います。
したがって、神は生命であり、生命というプロセス、生命というシステム、生命というエネルギーなのだと。
この考え方は、私にとっては斬新でした。
けれども、よくよく考えてみると、他にも同じことを言っている人や本などがたくさんありました。
聖書も読み方を変えれば、まさにそういうことを言っていますし、仏教も、たびたび書いているように、般若心経はこのことを言っています。
ただ、現実からはあまりにかけ離れて見えるために、人々は聞かされても、そのまま信じることをしなかったのでしょう。
自分の頭が納得できるように考え方をねじ曲げて、理解したつもりになったのだと思います。
しかし、そうやってねじ曲げた考えは、必ず破綻します。理屈が通らないからです。
一部の人を一定期間だますことはできても、大勢の人を長期にわたってだまし続けることはできませんから。
人類の進歩は、ここ数世紀で格段にスピードアップしています。
神に対する理解も、あと数十年で大きく変貌するのではないかと思いますね。
「神との対話」で驚いたことの中に、モーセの十戒に対する解釈があります。
旧約聖書の「約」というのは、契約の「約」です。つまり、旧(ふる)い神との契約です。
それがモーセの十戒で、「殺してはいけない。盗んではいけない。・・・」と言うように、人間が果たすべき10個の約束(規律)があるとされました。
「ほら、神は人間に規律を課し、従わなければ裁くと言ったんじゃないの。」
たしかに、そう思われていました。
でも、「神との対話」では、そうではないと言います。
これは契約ではなく、神の言質(げんち)であると。
人間があるレベルまで進化したときには、こういう現象が起こるから、それとわかるだろうと神が言ったと言うのです。
「あなたは殺さなくなるだろう。あなたは他人の物を盗まなくなるだろう。・・・」
規則だから、義務だからではなく、私たちの自由意志において、そうしたいからそうするのです。
私たちは、そういうレベルにまで進化できるでしょうか?
私はできると思います。
なぜなら、私たちの本質は自由であり、愛だからです。
それらは私たちにすでに備わっている性質であるから、ただそれを思い出すだけで、私たちはそういうものとして生きる(表現する)ことが可能だと思うのです。
子どものころから、私も気になっていた質問の1つです。
現実的に、悪人と呼ばれる人はなくならないし、世の中はけして善意だけで動いてはいません。
どうしてこうなのでしょう?
それに対する一般的な回答は、以下のようなものがあります。
「だから神なんて存在しないんだよ。」
「神は愛だから、ぎりぎりまで審判の時を遅らせてくださっているのだ。」
「裁きは死後にやってくる。悪人は地獄へ落とされ、善人は天国へ導かれる。」
どれも、「なるほど」と思わせるものがありますが、私は納得できませんでした。
「神が存在しないとするなら、どうして私たちは存在するのか?偶然?だとしたら、何のために生きるの?」
「神が審判の時を遅くするお陰で、善人が苦しまなければならないなんて、理不尽ではないか?善人を見殺しにすることが、神の望みなのか?」
「死後に最後の審判をくだすとしたら、もう悪人は救われない。それで、愛の神は平気でいられるの?我が子が地獄で苦しんでいるというのに、一部の子が天国へ来れば、それで満足なの?」
このように、それらの答が真実だとするなら、どうにも納得できない疑問が生まれるのです。
そんな中で、「神との対話」に出会いました。
この本を読むと、神について、裁きについて、驚くべきことが書かれていました。
まず、「裁きは存在しない」と言うのです。なぜなら、私たちの意志が神の意志だから、私たちが神の意に反することはあり得ないのだと。
つまり、神が定める絶対的な善悪は存在せず、私たちに従わせなければならない規律もないから、裁く必要性がないと言うのです。
私たちは永遠に存在する神の一部であり、神そのものであるのですから、傷つけられることも、傷つくこともないのだと。
この世で起こっている現象は、単に幻想に過ぎず、私たちが自分自身を経験する場として創られたもので、私たちはそのプロセスの中にあると言います。
したがって、神は生命であり、生命というプロセス、生命というシステム、生命というエネルギーなのだと。
この考え方は、私にとっては斬新でした。
けれども、よくよく考えてみると、他にも同じことを言っている人や本などがたくさんありました。
聖書も読み方を変えれば、まさにそういうことを言っていますし、仏教も、たびたび書いているように、般若心経はこのことを言っています。
ただ、現実からはあまりにかけ離れて見えるために、人々は聞かされても、そのまま信じることをしなかったのでしょう。
自分の頭が納得できるように考え方をねじ曲げて、理解したつもりになったのだと思います。
しかし、そうやってねじ曲げた考えは、必ず破綻します。理屈が通らないからです。
一部の人を一定期間だますことはできても、大勢の人を長期にわたってだまし続けることはできませんから。
人類の進歩は、ここ数世紀で格段にスピードアップしています。
神に対する理解も、あと数十年で大きく変貌するのではないかと思いますね。
「神との対話」で驚いたことの中に、モーセの十戒に対する解釈があります。
旧約聖書の「約」というのは、契約の「約」です。つまり、旧(ふる)い神との契約です。
それがモーセの十戒で、「殺してはいけない。盗んではいけない。・・・」と言うように、人間が果たすべき10個の約束(規律)があるとされました。
「ほら、神は人間に規律を課し、従わなければ裁くと言ったんじゃないの。」
たしかに、そう思われていました。
でも、「神との対話」では、そうではないと言います。
これは契約ではなく、神の言質(げんち)であると。
人間があるレベルまで進化したときには、こういう現象が起こるから、それとわかるだろうと神が言ったと言うのです。
「あなたは殺さなくなるだろう。あなたは他人の物を盗まなくなるだろう。・・・」
規則だから、義務だからではなく、私たちの自由意志において、そうしたいからそうするのです。
私たちは、そういうレベルにまで進化できるでしょうか?
私はできると思います。
なぜなら、私たちの本質は自由であり、愛だからです。
それらは私たちにすでに備わっている性質であるから、ただそれを思い出すだけで、私たちはそういうものとして生きる(表現する)ことが可能だと思うのです。
2013年02月09日
完全にボケてました
今朝、7:30にスマホのアラームが鳴ったので、それで目が覚めました。
私の目覚まし時計は、スマートフォン(GALAXY s2)です。
ただ、表示されている時間を見たとき、「おかしいな」と思ったのです。
「いつも7:50に設定してあるのに、なぜ7:30に鳴ったのだろう?これは、1日前の分の設定だぞ。」
そう思ったので、起きてからスマホをいじくってました。
「ひょっとしたら、アプリが壊れたのかなあ?7:50にもう1回鳴るかもしれないから、様子を見てみよう。」
そう考えて、Facebookのチェックなどをしていました。
8:30に出かける予定なので、8時になってから準備を始めても、十分に間に合います。
ふと気づくと、7:52になったいました。
「あれっ、やっぱり鳴らなかったか。・・・・し、しまったー!」
あわてて服を着替え、準備をしましたよ。
なぜなら、狂っていたのはスマホのアプリではなく、私の頭だったからです。
今日は土曜日なのに、すっかり日曜日だと思い込んでいました。
土曜日は、8:00には出かけなければなりません。
ですから7:30に鳴るよう、アラームをセットしてあったのです。
慌てて着替えて、なんとか約束の時間に間に合いました。
いやー、もう笑うしかありませんね。こんなに完璧に曜日を間違えたのは初めてです。
今日が日曜日だと信じて疑わなかったのですから。
でもそのお陰で、週末を1日得した気分です。(^^ゞ
予定というのは、ゴルフ練習場へ行くことです。
土曜日の午前中はたいてい、近くの練習場へ行くのです。
会社の車を使わせてもらっているので、運転手には8:00にアパートへ迎えに来るよう、指示してあります。
ですから、遅れるわけにはいかないのです。
練習場のボールは、1箱に40球ほど入っていて、それが50バーツ(約150円)します。
これを3箱ほど打つのが、土曜日の私の習慣なのです。
それが終わって帰ると、だいたい9:30くらいになります。
それから妻と一緒に朝食を食べます。あとはスマホのゲームをしたり、テレビを見たり、本を読んだりして、まったりと過ごします。
そして午後、会社に出かけます。基本的に休みの日なのですが、昔からの習慣ですね。
日曜日は、月に2回はソフトボールです。
朝8:30に出発して、9:00から12:00までグランドで汗をかきます。
それからチームメイトと一緒に食事へ行き、ビールを飲んで、15:00くらいまでには部屋に戻ります。
ゴルフがあるときは、もっと早くアパートを出ますが、帰ってくるのは同じくらいです。
タイは、ゴルフ天国ですからね。日本人の多くがゴルフをやってます。安いし、1人に1人のキャディーさんがつくし、もう最高ですよ。
こんな生活を、もう数年やってます。
うらやましいですか?おそらく、そう思われる方が多いかもしれませんね。
私自身も、こんな生活ができるようになるとは思いませんでしたから。
こんな生活ができるようになったのも、まずはあの「タイへ行く」という決断をしたお陰です。
私は行きたくはなかったけれど、誰かが行かなければならないのだと思ったのです。
その瞬間、「私が行きます」と上司に答えたのです。
自分の損得ではなく、やれるかどうかではなく、誰かがやらなければならないことなら私がやるしかない、そう思ったからです。
もう1つは、あの「タイに残る」という決断をしたお陰です。
日本に帰れば、もっと安定した生活と、いつでも田舎に帰れる環境があることはわかっていました。
それでも、お世話になった仕事関係者の期待を裏切りたくなかったし、採用したばかりの社員に迷惑をかけたくなかった。
自分の損得や安定ではなく、他人を喜ばせることが私の使命だと思ったから。
今、振り返ってみると、あの2つの決断が、今の私の生活を創ったように思います。
お陰で、日本ではできないような豊かな生活をすることができています。
本当にありがたいことだと思います。
ただ、豊かさと安定とは、必ずしも一致しません。
会社の状況は、必ずしも順調ではないからです。
でも、悲観はしません。それもまた、私にとって必要な経験だと思うからです。
私の魂は、望む経験をするために最適な状況へと、私を導いてくれるでしょう。
ですから、私の人生に起こることはすべて良いことであり、必然なのです。
たとえそれが一般的に悪い出来事と思われるものであっても、私はそういう見方をしません。
私は、私の魂がどこへ導こうとしているかを知っているから。
魂の導きに身を委(ゆだ)ねていれば、何も問題はない。それがわかるからです。
私はただ、私らしい私であろうとするだけでいい。そう思うのです。
私の目覚まし時計は、スマートフォン(GALAXY s2)です。
ただ、表示されている時間を見たとき、「おかしいな」と思ったのです。
「いつも7:50に設定してあるのに、なぜ7:30に鳴ったのだろう?これは、1日前の分の設定だぞ。」
そう思ったので、起きてからスマホをいじくってました。
「ひょっとしたら、アプリが壊れたのかなあ?7:50にもう1回鳴るかもしれないから、様子を見てみよう。」
そう考えて、Facebookのチェックなどをしていました。
8:30に出かける予定なので、8時になってから準備を始めても、十分に間に合います。
ふと気づくと、7:52になったいました。
「あれっ、やっぱり鳴らなかったか。・・・・し、しまったー!」
あわてて服を着替え、準備をしましたよ。
なぜなら、狂っていたのはスマホのアプリではなく、私の頭だったからです。
今日は土曜日なのに、すっかり日曜日だと思い込んでいました。
土曜日は、8:00には出かけなければなりません。
ですから7:30に鳴るよう、アラームをセットしてあったのです。
慌てて着替えて、なんとか約束の時間に間に合いました。
いやー、もう笑うしかありませんね。こんなに完璧に曜日を間違えたのは初めてです。
今日が日曜日だと信じて疑わなかったのですから。
でもそのお陰で、週末を1日得した気分です。(^^ゞ
予定というのは、ゴルフ練習場へ行くことです。
土曜日の午前中はたいてい、近くの練習場へ行くのです。
会社の車を使わせてもらっているので、運転手には8:00にアパートへ迎えに来るよう、指示してあります。
ですから、遅れるわけにはいかないのです。
練習場のボールは、1箱に40球ほど入っていて、それが50バーツ(約150円)します。
これを3箱ほど打つのが、土曜日の私の習慣なのです。
それが終わって帰ると、だいたい9:30くらいになります。
それから妻と一緒に朝食を食べます。あとはスマホのゲームをしたり、テレビを見たり、本を読んだりして、まったりと過ごします。
そして午後、会社に出かけます。基本的に休みの日なのですが、昔からの習慣ですね。
日曜日は、月に2回はソフトボールです。
朝8:30に出発して、9:00から12:00までグランドで汗をかきます。
それからチームメイトと一緒に食事へ行き、ビールを飲んで、15:00くらいまでには部屋に戻ります。
ゴルフがあるときは、もっと早くアパートを出ますが、帰ってくるのは同じくらいです。
タイは、ゴルフ天国ですからね。日本人の多くがゴルフをやってます。安いし、1人に1人のキャディーさんがつくし、もう最高ですよ。
こんな生活を、もう数年やってます。
うらやましいですか?おそらく、そう思われる方が多いかもしれませんね。
私自身も、こんな生活ができるようになるとは思いませんでしたから。
こんな生活ができるようになったのも、まずはあの「タイへ行く」という決断をしたお陰です。
私は行きたくはなかったけれど、誰かが行かなければならないのだと思ったのです。
その瞬間、「私が行きます」と上司に答えたのです。
自分の損得ではなく、やれるかどうかではなく、誰かがやらなければならないことなら私がやるしかない、そう思ったからです。
もう1つは、あの「タイに残る」という決断をしたお陰です。
日本に帰れば、もっと安定した生活と、いつでも田舎に帰れる環境があることはわかっていました。
それでも、お世話になった仕事関係者の期待を裏切りたくなかったし、採用したばかりの社員に迷惑をかけたくなかった。
自分の損得や安定ではなく、他人を喜ばせることが私の使命だと思ったから。
今、振り返ってみると、あの2つの決断が、今の私の生活を創ったように思います。
お陰で、日本ではできないような豊かな生活をすることができています。
本当にありがたいことだと思います。
ただ、豊かさと安定とは、必ずしも一致しません。
会社の状況は、必ずしも順調ではないからです。
でも、悲観はしません。それもまた、私にとって必要な経験だと思うからです。
私の魂は、望む経験をするために最適な状況へと、私を導いてくれるでしょう。
ですから、私の人生に起こることはすべて良いことであり、必然なのです。
たとえそれが一般的に悪い出来事と思われるものであっても、私はそういう見方をしません。
私は、私の魂がどこへ導こうとしているかを知っているから。
魂の導きに身を委(ゆだ)ねていれば、何も問題はない。それがわかるからです。
私はただ、私らしい私であろうとするだけでいい。そう思うのです。
2013年02月11日
これでいいのだー!
昨日はソフトボールの日でした。
けれども、目が覚めると外はどんよりと曇っています。今にも雨が降りそうです。
そんな中で車に乗ってグランドへ向かう途中、ついに降り出してきました。
雨脚は徐々に強くなり、ついには路肩に水たまりができるほどの土砂降りに。
「さすがに今日は無理かなあ。」
昨年は奇跡的に1回の中止もなかったのですが、一昨年までは、前日に雨が降っただけで中止になるほど、グランドの水はけが悪かったのです。
少しは改善されたようですが、そうは言っても直前のこの雨ですから。
グランドに到着すると、雨はほとんど上がっていました。
そしてグランドに足を踏み入れると、芝生の下は意外としっかりしています。
「これならやれそう!」
ホッとしました。
しばらく降ったりやんだりでしたが、9時半くらいの試合開始時には、完全に雨もあがりました。
予定通りにソフトボールができて、やっぱりツイてますね。
とは言え、良いことばかりでもありません。
前日のゴルフ練習中に、右肘が少し痛くなっていたのですが、それがひどくなってしまいました。
それを実感したのは、ソフトボールが終わった後の昼食会の席。
テーブル中央の皿から料理を取ろうとして箸を伸ばし、つかんだ後、肘に激痛が走りました。
危うく料理を落としそうになりましたよ。
「あれっ、どうしちゃったんだろう?」
そんなにひどいと思っていなかったので、びっくりしたくらいです。
その後、部屋に戻ってまったりしていましたが、右肘から右肩にかけて違和感があり、ときどき激痛が走ります。
「あー、これは完全にやっちゃったなあ。ひょっとしたら、関節が悪くなったのかも。」
2年くらいまえに両膝を痛めたのですが、そのときと似たような感じです。
動かしたときに、肘の関節がポキっと鳴ることがあります。
キャッチボールをしたときに違和感があったので、慎重にウォームアップをしたつもりだったのですが、それでも負担が大きかったのでしょう。
まあでも、なっちゃったものはどうしようもありません。
しばらく養生せよと言うことだと思い、おとなしくすることにします。
部屋ではたっぷり時間があったので、読みかけだった「変えれば、変わる」を最後まで読みました。
これで、「神との対話」シリーズの12冊を読み終えたことになります。
昨年の10月から読み始めた「神との対話」シリーズですが、これまでは青いボールペンで線を引きながら読んできました。
今度は赤いボールペンで線を引きながら、また「神との対話」に戻って読むことにします。
読み終えた「変えれば、変わる」にも、たくさんの興味深いことが書かれています。
その中の一部を、引用しながら紹介しましょう。
「わたしの成人した息子たちは、人生に起こる出来事に対処する方法を知っている。何が起こっても、あっさりとこう言うのだ。「これもいいじゃないか」。」
「ランチ・デートを計画していたのに、だめになった?「これもいいじゃないか」。マイカーがご機嫌斜めで発進しない?「これもいいじゃないか」。わたしはこの方法が好きだ。とても好きだ。なんという見方だろう!なんど見事な出発点だろう!これこそ、すばらしい明日を創造する方法だ!」
(p.258-259)
ここを読んだとき、赤塚不二夫さんの名作、「天才バカボン」に登場するバカボンのパパの決めゼリフを思い出しました。
「これでいいのだー!」
たとえそれが理不尽で理解不能だとしても、出た結果に対してこう言うのです。
「どこがいいの?こんなので良いわけないじゃないの!」
そう突っ込みたくなる点が笑いのツボです。
でも、その考え方が、自分の未来を創造するための最適な方法だと言います。
なぜなら、この世に起こること、つまり変化することは、私たちにとって良いことであり、完璧なのですから。
「どこが良いことなんだよ!?突然にリストラされたり、いわれのない中傷をされていじめられたり、何も悪くないのにレイプされたり、通り魔に殺されたりする。そんな人生を暗転させるような変化が、どうして良いことで完璧なんだなどと言えるんだ!?」
そう怒りたくなるかもしれません。
私も、そういう出来事に遭遇された方々に、「それでも良かったんだよ」とは軽々しく言えません。
けれども、見方はいくつもあるということは確かです。
どういう見方を選択するかによって、その人の考え方が決まり、そこから湧き上がる感情が決まります。
そしてその感情によって何を経験するかが決まり、それによって自分自身が創られるのです。
そこでこの本には、神からのメッセージとして、こんなことが書かれています。
「いままであなたが考えてきたかもしれないことよりもさらに高度でさらに複雑な真実を垣間(かいま)見せてあげようか。あなただって、自分にとってはつらい、あるいは損だと思いつつ、それでも何かをやってのけたことがあるのではないか?それが自分にかかわることでも、他人にかかわることでも、何らかの理想にかかわることでも、結局はより大きな善のためだからと実行したことはないか?」
(p.296)
たしかに、私もあります。
それほど大したことではないかもしれませんが、先日書いたように、自分を犠牲にしてでもより大きな善のために、2つの決断をしました。
そしてそれがきっかけとなって、今のタイでの生活があるのだと書いたとおりです。
「さあ、魂だってそれと同じことをしているかもしれない、とわかってきたかね?魂という存在が自分の旅の一環として−−自らの進化を進めるために・・・・・・あるいは誰かの進化を進めるために−−そうしているのかもしれない、とは思わないか?」
(p.297)
どう考えても理不尽で、ひどいことだと思われる現実の奥底に、自らを犠牲にしてまでより大きな善を行おうとした魂の決意があるのかもしれない。
その可能性があるかもしれないと、考えられないでしょうか?
希望を打ち砕かれて自殺する人の人生に触れることで、貧困という条件の中で盗みを働く少年の目を見ることで、私たちは常に、「わたしとは何なのか?」という問いをつきつけられます。
「知ったことじゃない。わたしには関係ないよ。」
そう考える私が、本当の私なのでしょうか?私らしい私なのでしょうか?
それとも、勇気を奮い立たせて愛に生きる決断をするのでしょうか?
いずれにせよ、そういう人たちがいてくれたからこそ、私はそれについて考え、何らかの態度を表明することができるのです。
つまり、その人たちは、私が私らしさを選択するためのお膳立てとして、あえてそういう人生を生き、私に示してくれているとも考えられます。
自殺した人の魂は、盗みを働く人の魂は、じっと私の決断を見守っているでしょう。
「さあ、チャンスは与えたよ。今度はあなたの番だ。あなたは、どうするの?どういう自分であろうと決めるの?どういう自分を経験するの?」
そう問われているように思うのです。
けれども、目が覚めると外はどんよりと曇っています。今にも雨が降りそうです。
そんな中で車に乗ってグランドへ向かう途中、ついに降り出してきました。
雨脚は徐々に強くなり、ついには路肩に水たまりができるほどの土砂降りに。
「さすがに今日は無理かなあ。」
昨年は奇跡的に1回の中止もなかったのですが、一昨年までは、前日に雨が降っただけで中止になるほど、グランドの水はけが悪かったのです。
少しは改善されたようですが、そうは言っても直前のこの雨ですから。
グランドに到着すると、雨はほとんど上がっていました。
そしてグランドに足を踏み入れると、芝生の下は意外としっかりしています。
「これならやれそう!」
ホッとしました。
しばらく降ったりやんだりでしたが、9時半くらいの試合開始時には、完全に雨もあがりました。
予定通りにソフトボールができて、やっぱりツイてますね。
とは言え、良いことばかりでもありません。
前日のゴルフ練習中に、右肘が少し痛くなっていたのですが、それがひどくなってしまいました。
それを実感したのは、ソフトボールが終わった後の昼食会の席。
テーブル中央の皿から料理を取ろうとして箸を伸ばし、つかんだ後、肘に激痛が走りました。
危うく料理を落としそうになりましたよ。
「あれっ、どうしちゃったんだろう?」
そんなにひどいと思っていなかったので、びっくりしたくらいです。
その後、部屋に戻ってまったりしていましたが、右肘から右肩にかけて違和感があり、ときどき激痛が走ります。
「あー、これは完全にやっちゃったなあ。ひょっとしたら、関節が悪くなったのかも。」
2年くらいまえに両膝を痛めたのですが、そのときと似たような感じです。
動かしたときに、肘の関節がポキっと鳴ることがあります。
キャッチボールをしたときに違和感があったので、慎重にウォームアップをしたつもりだったのですが、それでも負担が大きかったのでしょう。
まあでも、なっちゃったものはどうしようもありません。
しばらく養生せよと言うことだと思い、おとなしくすることにします。
部屋ではたっぷり時間があったので、読みかけだった「変えれば、変わる」を最後まで読みました。
これで、「神との対話」シリーズの12冊を読み終えたことになります。
昨年の10月から読み始めた「神との対話」シリーズですが、これまでは青いボールペンで線を引きながら読んできました。
今度は赤いボールペンで線を引きながら、また「神との対話」に戻って読むことにします。
読み終えた「変えれば、変わる」にも、たくさんの興味深いことが書かれています。
その中の一部を、引用しながら紹介しましょう。
「わたしの成人した息子たちは、人生に起こる出来事に対処する方法を知っている。何が起こっても、あっさりとこう言うのだ。「これもいいじゃないか」。」
「ランチ・デートを計画していたのに、だめになった?「これもいいじゃないか」。マイカーがご機嫌斜めで発進しない?「これもいいじゃないか」。わたしはこの方法が好きだ。とても好きだ。なんという見方だろう!なんど見事な出発点だろう!これこそ、すばらしい明日を創造する方法だ!」
(p.258-259)
ここを読んだとき、赤塚不二夫さんの名作、「天才バカボン」に登場するバカボンのパパの決めゼリフを思い出しました。
「これでいいのだー!」
たとえそれが理不尽で理解不能だとしても、出た結果に対してこう言うのです。
「どこがいいの?こんなので良いわけないじゃないの!」
そう突っ込みたくなる点が笑いのツボです。
でも、その考え方が、自分の未来を創造するための最適な方法だと言います。
なぜなら、この世に起こること、つまり変化することは、私たちにとって良いことであり、完璧なのですから。
「どこが良いことなんだよ!?突然にリストラされたり、いわれのない中傷をされていじめられたり、何も悪くないのにレイプされたり、通り魔に殺されたりする。そんな人生を暗転させるような変化が、どうして良いことで完璧なんだなどと言えるんだ!?」
そう怒りたくなるかもしれません。
私も、そういう出来事に遭遇された方々に、「それでも良かったんだよ」とは軽々しく言えません。
けれども、見方はいくつもあるということは確かです。
どういう見方を選択するかによって、その人の考え方が決まり、そこから湧き上がる感情が決まります。
そしてその感情によって何を経験するかが決まり、それによって自分自身が創られるのです。
そこでこの本には、神からのメッセージとして、こんなことが書かれています。
「いままであなたが考えてきたかもしれないことよりもさらに高度でさらに複雑な真実を垣間(かいま)見せてあげようか。あなただって、自分にとってはつらい、あるいは損だと思いつつ、それでも何かをやってのけたことがあるのではないか?それが自分にかかわることでも、他人にかかわることでも、何らかの理想にかかわることでも、結局はより大きな善のためだからと実行したことはないか?」
(p.296)
たしかに、私もあります。
それほど大したことではないかもしれませんが、先日書いたように、自分を犠牲にしてでもより大きな善のために、2つの決断をしました。
そしてそれがきっかけとなって、今のタイでの生活があるのだと書いたとおりです。
「さあ、魂だってそれと同じことをしているかもしれない、とわかってきたかね?魂という存在が自分の旅の一環として−−自らの進化を進めるために・・・・・・あるいは誰かの進化を進めるために−−そうしているのかもしれない、とは思わないか?」
(p.297)
どう考えても理不尽で、ひどいことだと思われる現実の奥底に、自らを犠牲にしてまでより大きな善を行おうとした魂の決意があるのかもしれない。
その可能性があるかもしれないと、考えられないでしょうか?
希望を打ち砕かれて自殺する人の人生に触れることで、貧困という条件の中で盗みを働く少年の目を見ることで、私たちは常に、「わたしとは何なのか?」という問いをつきつけられます。
「知ったことじゃない。わたしには関係ないよ。」
そう考える私が、本当の私なのでしょうか?私らしい私なのでしょうか?
それとも、勇気を奮い立たせて愛に生きる決断をするのでしょうか?
いずれにせよ、そういう人たちがいてくれたからこそ、私はそれについて考え、何らかの態度を表明することができるのです。
つまり、その人たちは、私が私らしさを選択するためのお膳立てとして、あえてそういう人生を生き、私に示してくれているとも考えられます。
自殺した人の魂は、盗みを働く人の魂は、じっと私の決断を見守っているでしょう。
「さあ、チャンスは与えたよ。今度はあなたの番だ。あなたは、どうするの?どういう自分であろうと決めるの?どういう自分を経験するの?」
そう問われているように思うのです。
2013年02月12日
勝つと思うな 思えば負けよ
もう若い人は知らないのでしょうか。美空ひばりさんの名曲「柔(やわら)」の、出だしの歌詞です。
「勝つと思うな、思えば負けよ。負けてもともと、この胸の・・・」
勝負を争う柔道競技ではあっても、勝つことに執着すると、それは負けにつながると言うのです。
私は実際に、こういう体験を何度もしていますし、おそらくみなさんもそうでしょう。
「これは絶対に勝ちたい」と思えば思うほど、身体は緊張でガチガチになり、普段の実力が出せません。
私の記憶にある最たるものは、東京都府中市の試験場で受けた大型自動二輪の試験です。いわゆる限定解除です。
中型自動二輪は、広島の教習場で練習して、試験場で試験を受けました。
そのころはまだ、教習場でそのまま免許が取れる制度ではなかったのです。
大型も同様でしたから、小金井市の教習所で10時間くらい練習してから、府中の試験上で試験を受けたのです。
因みにその教習所は、鬼の中川と呼ばれる元神奈川県警の白バイ隊に所属していた警官がやっていたところで、竹刀で叩くというスパルタ指導で有名でした。
と言っても、実際は竹刀で生徒をぶっ叩くようなことはせず、ヘルメットの上からコツンとやる程度で、ただ怖がらせるためだけのようでしたけどね。
そこでは最初に基本的なことを教わるものの、あとは自分で決められたコースをひたすら走るという練習でした。
重いホンダCB750Fを使って、大型バイクに慣れる練習です。
もう受けに行って良いと言われて行った最初の試験は、緊張のあまりボロボロでした。
最後のあたりの急制動で後輪をロックさせ、あえなく試験中止。「帰ってこーい」と呼ばれちゃいました。
2回目も、思うような走りができず、自分でも不合格とわかるできでした。
3回目の試験では、私は開き直りました。
「別に落ちたっていい。完走して、普段の練習通りの走りをすることだけを考えよう。」
細かいミスはありましたが、急制動もそれなりに上手く行き、完走することができました。
そして結果発表のときです。合格者の名前が受験者全員の前で呼ばれます。
そして、私の名前が呼ばれました。
私は前に出て合格証をもらい、手を高々と上げました。
周りから、たくさんの祝福の拍手をもらいましたよ。ヒーローになった気分です。
でも実際、50人受けて合格者が5人いないというくらいの難関でしたから、みんながその価値を認めていたのです。
こんな思い出話をしたのは、別に自慢をしたいからではありません。
勝つことに執着すると、負けてしまうという事実をお伝えしたかったのです。
勝って当然と思えないなら、むしろ勝つことを考えない方が良い。
受験だってそうです。執着すると実力を発揮できないし、落ちた時の落胆が大きくなります。
このことは真実だとはっきりと思ったのは、「神との対話」を読んでからでした。
「勝ちたい」と思えば、それは「まだ勝っていない」という事実を認めたことになります。
ですから宇宙は、「わかった、あなたは勝っていない。」と答えるのです。
そして、勝たない(=負ける)という現実が創造されます。
もちろん、柔道のような対戦型の勝負は相手があることですから、「両方が同じように思ったどうなるのか?」という疑問もあるでしょう。
イメージトレーニングしても、100%勝てるわけではないという現実があるのも事実です。
けれども、自分の実力を100%発揮して負けたなら、それはあきらめがつくのではないでしょうか。
執着するのではなく、挑戦と考えるなら、次の目標に向けての意欲が湧いてくるはずです。
100%勝てるわけではないからこそ、挑戦する意味があるのですから。
そしていつか、その負けたことが良かったと思える日が来るでしょう。
もし勝負事をされるのでしたら、そういう考え方を身につけるチャンスだと、私は思うのです。
私もソフトボールをやってますが、ゲームには必ず勝ち負けがあります。
でも、その勝ちにこだわり過ぎると、負けそうになったら意気消沈したり、負けが続くと楽しくなくなったりします。
それでは、ゲームをやる意味がないと思うのです。せっかくのチャンスがもったいないと思うのです。
負けそうになったら、むしろ逆に、「おっ、これこそ逆転するチャンスだ。」と意欲的にならないとおかしいのです。
10点差つけられたら、「ここから逆転したらすごいだろうなあ。これに挑戦できる千載一遇のチャンスだ。」くらいに考えないと損だと思うのです。
人生は、様々な挑戦をさせてくれる舞台です。
勝つことに執着せず、挑戦のチャンスだと考えて、楽しんで生きましょうよ。
「勝つと思うな、思えば負けよ。負けてもともと、この胸の・・・」
勝負を争う柔道競技ではあっても、勝つことに執着すると、それは負けにつながると言うのです。
私は実際に、こういう体験を何度もしていますし、おそらくみなさんもそうでしょう。
「これは絶対に勝ちたい」と思えば思うほど、身体は緊張でガチガチになり、普段の実力が出せません。
私の記憶にある最たるものは、東京都府中市の試験場で受けた大型自動二輪の試験です。いわゆる限定解除です。
中型自動二輪は、広島の教習場で練習して、試験場で試験を受けました。
そのころはまだ、教習場でそのまま免許が取れる制度ではなかったのです。
大型も同様でしたから、小金井市の教習所で10時間くらい練習してから、府中の試験上で試験を受けたのです。
因みにその教習所は、鬼の中川と呼ばれる元神奈川県警の白バイ隊に所属していた警官がやっていたところで、竹刀で叩くというスパルタ指導で有名でした。
と言っても、実際は竹刀で生徒をぶっ叩くようなことはせず、ヘルメットの上からコツンとやる程度で、ただ怖がらせるためだけのようでしたけどね。
そこでは最初に基本的なことを教わるものの、あとは自分で決められたコースをひたすら走るという練習でした。
重いホンダCB750Fを使って、大型バイクに慣れる練習です。
もう受けに行って良いと言われて行った最初の試験は、緊張のあまりボロボロでした。
最後のあたりの急制動で後輪をロックさせ、あえなく試験中止。「帰ってこーい」と呼ばれちゃいました。
2回目も、思うような走りができず、自分でも不合格とわかるできでした。
3回目の試験では、私は開き直りました。
「別に落ちたっていい。完走して、普段の練習通りの走りをすることだけを考えよう。」
細かいミスはありましたが、急制動もそれなりに上手く行き、完走することができました。
そして結果発表のときです。合格者の名前が受験者全員の前で呼ばれます。
そして、私の名前が呼ばれました。
私は前に出て合格証をもらい、手を高々と上げました。
周りから、たくさんの祝福の拍手をもらいましたよ。ヒーローになった気分です。
でも実際、50人受けて合格者が5人いないというくらいの難関でしたから、みんながその価値を認めていたのです。
こんな思い出話をしたのは、別に自慢をしたいからではありません。
勝つことに執着すると、負けてしまうという事実をお伝えしたかったのです。
勝って当然と思えないなら、むしろ勝つことを考えない方が良い。
受験だってそうです。執着すると実力を発揮できないし、落ちた時の落胆が大きくなります。
このことは真実だとはっきりと思ったのは、「神との対話」を読んでからでした。
「勝ちたい」と思えば、それは「まだ勝っていない」という事実を認めたことになります。
ですから宇宙は、「わかった、あなたは勝っていない。」と答えるのです。
そして、勝たない(=負ける)という現実が創造されます。
もちろん、柔道のような対戦型の勝負は相手があることですから、「両方が同じように思ったどうなるのか?」という疑問もあるでしょう。
イメージトレーニングしても、100%勝てるわけではないという現実があるのも事実です。
けれども、自分の実力を100%発揮して負けたなら、それはあきらめがつくのではないでしょうか。
執着するのではなく、挑戦と考えるなら、次の目標に向けての意欲が湧いてくるはずです。
100%勝てるわけではないからこそ、挑戦する意味があるのですから。
そしていつか、その負けたことが良かったと思える日が来るでしょう。
もし勝負事をされるのでしたら、そういう考え方を身につけるチャンスだと、私は思うのです。
私もソフトボールをやってますが、ゲームには必ず勝ち負けがあります。
でも、その勝ちにこだわり過ぎると、負けそうになったら意気消沈したり、負けが続くと楽しくなくなったりします。
それでは、ゲームをやる意味がないと思うのです。せっかくのチャンスがもったいないと思うのです。
負けそうになったら、むしろ逆に、「おっ、これこそ逆転するチャンスだ。」と意欲的にならないとおかしいのです。
10点差つけられたら、「ここから逆転したらすごいだろうなあ。これに挑戦できる千載一遇のチャンスだ。」くらいに考えないと損だと思うのです。
人生は、様々な挑戦をさせてくれる舞台です。
勝つことに執着せず、挑戦のチャンスだと考えて、楽しんで生きましょうよ。
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