2013年01月23日

たいくつな映画に教えられました

昨夜はまた、妻と一緒に映画を観に行きました。

タイトルは「Killing Them Softly」で、ブラッド・ピットがクールな殺し屋として主演しています。


その前に、腹ごしらえということで、大好きなビールとつまみのコー・ムー・ヤーン(豚ののど肉焼き)で食事です。

ビールとつまみのコー・ムー・ヤーン

私の晩飯は、これくらいでも十分ですね。

妻はお腹がいっぱいだということで、アイスクリームを2個、たいらげてました。


30分ほどで食事を済ませ、いよいよ映画です。

妻はアクションものとか対戦ものが好きなので、派手にドンパチやるストーリを期待して観たのですが....。

結果は残念なものでしたね。

英語音声のタイ語字幕ですから、こういう会話が主体の映画は、私にはさっぱりわかりません。

ストーリーの展開も、映像からはさっぱり。

登場人物が入れ替わるたびに、「この人たちと前の人たちは、どういう関係があるの?」と妻に尋ねるのですが、妻も「さあ」と言うだけ。

途中から、寒さ対策(※)のストールを頭からかぶって、寝てしまおうとしたくらいです。

※タイの映画館は冷え過ぎで寒いことがあるので、長袖か肌掛けなどが必須です。


今日になって、よくわからなかった映画のあらすじを調べてみたのですが、これがまたよくわからない。

主人公のブラピが、スマートに殺人をすること以外、なにもないのです。

その殺し方だって、とりたててスマートと言うほどのこともありませんでした。

やはり他の人も面白くないと感じるようで、映画では最低のF評価だとありますね。


おそらく、下層の人たちを示そうとしているのでしょう。

登場人物のセリフに、やたらと「ファック」という言葉が入ります。

アメリカ人の下層の人は、本当にこんな話し方をするのでしょうか?ともかく「ファック」を入れないと会話ができないような感じです。

たとえば日本語で「なんてこったい」と言うのを英語にすると、「オー、ジーザス・クラーイスト」なんて言いますよね。

これを、「オー、ジーザス・ファック・クラーイスト」と言うのです。


「どうしてわざわざファックを入れないと気がすまないかなあ?」と、聞いていてだんだんと気分が悪くなってきました。

汚い言葉を使えば、自分の心が荒(すさ)みます。それと同様に、汚い言葉を聞くことも、気分が悪くなるのですね。

本当は英語だから、正確な意味はわからないのですが、雰囲気が伝わってくるのだと思います。

 

映画が終わって帰るとき、妻が「ぜんぜん面白くない。観て損した。お金がもったいない。」と言います。

「いやいや、お金を出したのは私だから、お金を損したのは私だよ。あなたは時間を損しただけでしょう?」

そう言うと、「夫のお金は妻のお金。妻のお金は妻のお金。」と言い返します。

やはり妻の方が一枚上手です。(笑)


まあただ、それでもこの映画を観て良かったと思うこともあります。

それはまず、こういう下品な言い方をする人がいる、ということがわかったことです。

そして、そういう汚い言葉を使ったり聞いたりすると、気分が悪くなって心が荒むということ。

幸せになりたいなら、使う言葉や聞く言葉にも気を使わないといけないなあと思いました。

 

話は変わりますが、昨夜、鳩避け対策を強化しました。

前にお話したように、横に張ったテグス(釣り糸)のわずか10cmほどのすき間でも、鳩は難なく侵入してしまいます。

それでそのすき間を5〜8cmくらいに狭くするとともに、縦にも少しテグスを張って、さらに侵入しづらくしておきました。

ところが昨日の朝、ベランダに置いた洗濯機の上に、鳩が降りる音がしたのです。

慌ててベッドルームのカーテンを開けると、鳩はわずか5cmのすき間をいとも簡単にすり抜けて逃げて行きました。


本当に、がっかりですよ。あれだけ対策を強化したのに。それでもまだ侵入してきます。

他に楽に入れるベランダがあるのですから、そっちへ行ってくれればいいのに...。

そう恨みごとのひとつも言いたくなります。

まあ侵入されても巣は作れないでしょうけど、糞をされるのが困ります。

ということで、ハト対策をさらに強化しました。


強化したベランダのハト対策

横にテグスを張るだけでなく、縦にもおよそ20cm間隔で張りました。もう網と同じような感じですね。

これで少なくとも、羽を広げて滑空しながら通過するという方法は不可能なはず。

必ず翼がテグスにぶつかってしまいますから。

もしそれでも侵入されるなら、この間隔を10cm以内にして、完全に網にしてしまうしかありません。

それにしても、ベランダを覆う網をテグスで作ってしまうなんて、考えてみれば私の執念も大したものだと思います。


強化したベランダのハト対策

エアコンの室外機の方は、写真のように鳩がとまれないようペットボトルに水を入れて並べてあります。

これも1週間くらい前に数を増やしたのですが、それでも不十分だと思い、前面にテグスを張っています。

この室外機の横に巣があったのですが、そこへ侵入させないようにするためです。

仮に侵入されても、巣があったスペースにもペットボトルを置いているので、巣を作ることは不可能なのです。

本当に、いい加減に諦めてほしいなあと思いますよ。フーッ (^_^;)
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:01 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月24日

生き方についてのパラダイム・シフト

「神との対話」シリーズを読み続けていますが、10冊目の「神が望むこと」も、いよいよ終わりが近づいてきました。

これまでの9冊が著者のニールと神とが対話する形式で書かれていたのに対し、「神が望むこと」は、ニールが自分の言葉で語っています。

内容はこれまでの総集編という感じです。

神が望むこと


これまでと雰囲気が違うことから、この本を高く評価しないという人もいて、アマゾンなどのレビューを見ても、そういう意見があります。



まあ、それも1つの意見ですから、そういう見方もあると思います。

けれども私は、別の見方をします。

この本は、これまでの総集編としてよくまとまっており、また核心を突いた表現もあり、私たちが実際に生活する上で役立つと思います。


「神との対話」シリーズでは、要は私たちの信念を変えなければならない、ということが書かれています。

特に神に関する信念が重要だと。

そのために、まずは別の考え方があるかもしれないという可能性を、受け入れてみないかと勧めます。

「絶対にこれしかない」と思い込んでいるうちは、他のものが見えなくなるため、変わりたくても変われないからです。

その信念を変えることによって、他者や環境に翻弄される生き方ではなく、主体的に生きてみないかと語りかけます。

そのためのツール(道具)は、すでに与えてあるからと。

そのツールを使って自分の人生を創造し、より自分らしく生きる生き方をしないかと誘います。


これらのことを理解させるために、これまでの本では様々な話が出てくるのです。

それも何度も何度も、手を変え品を変えながら、同じことを繰り返し繰り返し話しています。

ですから、「要はどういうことなの?」という問いに答えるまとめが必要なわけで、それがこの「神が望むこと」だと思います。


ただ、本の前半は冗長なため、キリスト教の素地がない日本人には、退屈に感じられるかもしれません。

でも、それらはすべて、この世が私たちの願いどおりでないのは、私たちの信念が問題であり、その信念とは「神がそう望んでいる」ということにつながる、ということを説明しているのです。

そして、第13章で真実が明かされます。

本当のところ、神は何を望んでいるのか?その神の望みが書かれているのです。


初めてこれを読んだとき、第13章には驚きました。

そして、すぐに笑いました。「なるほど、そういうことね。」

すでに「神との対話」シリーズを読んでいる私にしてみれば、それは当たり前の内容です。

でも、この本ではどう書かれるのかと、ドキドキしていたのです。

その内容をここに書くとネタバレになるので、興味のある方は本をお読みください。

 

ただ、この本に書かれていることで、私たちの生活に直接役立つ部分がありますので、そこを引用しましょう。

問い三.それなら神の目的は何で、神の働きとは何なのか?

もっと身も蓋もない言い方をするなら、神がいるといいことがあるのか?ということだ。

(中略)

神がいるといいことがある。それは神を役立てることができることだ。

先にわたしは、神を信じる立派な理由があると言った。その理由はこういうことだ、とも言った。

生命そのものである力(フォース)、パワー、エネルギーを使って、一貫性と予測可能性のある結果を出すことができる。おもしろいことに、このことはすべての宗教がくり返して教えてきたことでもある。

(中略)

そこで問題は、どうやって神を役立てるか、である。

簡単だ。思考、言葉、行為。

あなたは考え、語り、行動することで、神を役立てる。

これが創造の三つの道具(ツール)で、この道具は完璧だ。偉大な道具だ。効果的だ。

自分が経験したいことだけを考え、現実にしたいことだけを語り、自分の「いちばん高い現実」として提示したいことだけを行動にすればいい。

(中略)

だか、ここにもうひとつ秘訣がある。

何かが欲しくなったとき、それを手に入れたらどう感じるかを考えよう。なぜか?それは−−これは非常に大事な手がかりなのだが−−あなたの魂が求めているのはつねに外部的な経験ではなく、内部的な経験だからである。ほとんどのひとは、自分が欲しいものは外側にあると思っている。だが、そうではない。内側にあるのだ。それをすべてのひとが求めている。その経験をわたしたちは「感じる」と読んでいる。

個人として成長しようとするとき、そこに気づくととても自由になる。なぜなら、内なる平和と内なる喜びを感じるためには、どんなときでも外部のものは何も必要ではない、ということだから。

(中略)

あなたが自分に求めているもの、これまでずっと求めてきたものは感じることであり、自分が感じたいことはいつでも自分の内側にあると気づけば、何も望む必要がない。

(p.170-173)


これは、壮大な提案であり、福音です。

今までの私たちは、外部的な経験(=出来事)に影響されて内部的な経験(=感じること)をしてきました。

ですから私たちは、外部(=現実)を原因と考え、内部(=心)を結果と考えてきたのです。

しかしこの「神との対話」シリーズでは、一貫してその原因と結果を逆転させることを言っています。

つまり、原因は私たちの思考であり、言葉であり、行動であり、現実の出来事はその結果に過ぎないのだと。

だから私たちは、自分が望んだ現実を創造することができる、と言うのです。


そして、たとえ外部に望んだ通りの結果が表れなくても、私たちは得たい経験を内部に得ることが可能だと言います。

そうやって内部の経験を保ち続けるならば、私たちの思考や言葉や行動は、特に意識しなくても私たちが望むとおりになります。

そしていつか、内部で経験するものによって現実が創造され、今度は外部で経験することが可能になるのです。


「引き寄せの法則」「ザ・シークレット」も、古今東西の成功者が語っていることも、すべてこのことではありませんか?

今、時代は私たちに、生き方のパラダイム・シフトを求めています。

私たちがより成長し、ワンランク上のレベルに上るためです。

そのお膳立ては整っています。

あとは、それぞれの人が決断するかどうかだけ。

さて、あなたは、この誘いにどう答えますか?
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:45 | Comment(0) | 幸せ実践塾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月25日

非難することの目的

大阪市の橋下市長が、今度はツイッターで曽野綾子さんに噛み付いたようですね。

桜宮高の体罰問題で曽野綾子さんが、産経新聞のコラムに「(橋下市長には)人を変えられるという思い込み」があると書いたことが、えらく気に入らなかったようです。

そのコラムで曽野綾子さんは、「私が驚くのは、顧問といい市長といい、自分の影響で人を変えられるという信念に満ちていることだ」と、体罰を行った指導者と橋下市長のことを書いています。


曽野綾子さんの指摘は、私からすると当然のことのように感じます。

以前に「暴力を封じるために暴力を用いること」という記事を書きましたが、両者とも力づくで相手を変えようとしているのです。

同じ出来事に遭遇しても、人それぞれ感じ方は異なります。

ですから私は常々、「他人は変えられない」と言っているのです。

なぜなら、人は自由な存在ですから。それぞれの人が自分で、どうなるかを決めるのです。


そういう曽野綾子さんの指摘に対して、橋下市長が大人気なく噛み付いたのは、おそらく怖かったのでしょうね。

よく怒る人というのは、不安で不安でたまらないのです。

怒りは「助けてくれー!」という悲鳴と同じなのです。

ですから、その不安を刺激されたために動揺し、情動的に反応してしまったのでしょう。


橋下市長のツイートは、論拠を示して冷静に議論をしているのではなく、レッテルを貼って曽野綾子さんを非難しています。

非難することの目的は、相手を全面的に屈服させること。つまり、罪悪感を植え付けることにあります。

ただ、今回の場合は相手が百戦錬磨の曽野綾子さんですから、橋下市長がどれだけ罵(ののし)ろうと、少しもこたえないでしょうけどね。

これが傷つきやすい人だと、「ひょっとしたら自分が悪かったのでは?」と悩み、罪悪感を抱いてしまうかもしれません。

その場合、その罪悪感を受け入れられなくて逆切れする場合と、受け入れて自己卑下する場合に反応が分かれます。

いずれにせよ、不安から仕掛けた攻撃が罪悪感を抱かせようとし、それがまた不安を呼んでいくという悪循環にはまってしまうのです。


不安も罪悪感も、私たちの成長を阻み、幸せから遠ざけるという点で、私たちにとって不要なものです。

その2つの感情について、ちょうど読んでいた「神が望むこと」に簡潔にまとめてありましたので、引用して紹介します。

神は何を望んでいるか」についての「物語」を放棄するとき、わたしたちはやっと二つの感情を手放し、二度と経験したり選択したりしなくてすむようになる。

その二つとは不安と罪悪感だ。不安と罪悪感、それは人類の唯一の敵だとわたしは言った。これはまことに真実である。

罪悪感は無意味だ。反省とは違う。反省とは自分がしたことがまずかったと思い、もう二度としないぞと思う気持ちだ。罪悪感はわたしたちを非難し、何をしようとも決して赦(ゆる)されないぞとおどす。反省は力を与えてくれるが、罪悪感は麻痺させて動きがとれなくしてしまう。

不安は無意味だ。慎重さとは違う。慎重さとは、道を渡るときには左右をきちんと確認したほうがいいよと教えてくれる気持ちだ。不安は、道に踏み出すことを阻(はば)む。慎重さは力を与えてくれるが、不安は麻痺させて動きがとれなくしてしまう。

(p.188)


不安も罪悪感も、百害あって一利なしと言える感情です。

したがってそういう感情を相手に抱かせようとすることも、私たちの成長を阻み、幸せから遠ざけるものだと思います。

 

昨日、その「神が望むこと」を読み終えました。

そして「神との対話」シリーズの次の本、「神より幸せ」を読み始めました。

神より幸せ

これも著者ニールの言葉で書かれていますが、話題になった「ザ・シークレット」「引き寄せの法則」では語られなかった、より深い真実について書いてあるそうです。

2009年3月に発行された本ですから、私も約4年前に読んでいます。

でも、内容のほとんどは忘れています。もう一度読みながら、思い出そうと思っています。

 
昨夜は、妻と映画デートでした。

映画の前の腹ごしらえということで、この日は中華料理屋に入りました。

中華料理屋でビール

どこへ行っても、ビールは欠かせません。これが私の晩飯ですから。(笑)

見たのは「ヘンゼルとグレーテル」という映画で、グリム童話を題材に、その兄妹が成長して魔女退治を行うというもの。

アクションもあり、笑いもあって、それなりに楽しめました。

何も心配することなく笑っていられるということは、何よりの幸せだなあと感じた次第です。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:47 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

聖職者ってどんな人ですか?

さて、教員の駆け込み退職の問題がニュースになっていますね。

事の発端は、地方自治体の人件費削減のために、公務員の退職金を減額する法律が成立したことにあります。

国から速やかな施行を迫られ、地方自治体は3月末よりも早い2月1日などを施行日と決定しました。

そのため、3月末で退職する予定だった教員などが、施行日前の駆け込み退職を願い出たということなのです。

その教員の中には学級担任も多くいたため、マスコミのかっこうの餌食となりました。

いわく、教師としての責任の放棄に等しいと。

世論も当初、マスコミの主張に追随するかのように、聖職者にあるまじき行為だとして、退職を願い出た教師たちを非難しました。

しかし今日ぐらいから、なぜ3月末まで施行を待たないのかと、施行日に対する疑問も増えてきました。

いくら先生と言っても、それぞれに事情があります。

退職金で家のローン返済を考えていた人は、100万円も減るのでは困ってしまいます。

当初は批判的だった世論も、少し同情的になったようです。


私は基本的に、特定の誰かを批判・非難するつもりはありません。

それぞれに、よんどころない事情があるのだろうと思うからです。

国には国の事情があるし、地方には地方の、先生には先生の事情があるのです。

特定の誰かを悪いと決めつけ、生徒が犠牲者だというような固定的な考え方はしたくありません。

 

さて、ここではそういう議論から離れて、別の視点で考えてみたいと思います。

教師や警察官などが不祥事を起こしたとき、必ず「聖職者」という言葉を出してマスコミは非難しますよね。

ところで「聖職者」って、どういう人だと思いますか?

普通の人と何がどう違うのでしょう?


おそらく、普通よりも高い遵法意識や倫理観を持ち、責任感が優っている人が就くべき職業に就いている人、だと思うのです。

いわゆる「りっぱな人」でしょうか。

そういう人は、法を犯すようなことはしないはずだし、してはならない。

倫理に反するようなことはしないはずだし、してはならない。

そのように多くの人が考える職業人を「聖職者」と呼ぶのでしょう。


では、教師というのは、聖職者でしょうか?

「先生」と呼ばれる人たちですから、尊敬の対象であるのはたしかでしょう。

では、その尊敬の対象に見合ったものを、彼らは受け取っているのでしょうか?


私たちは勝手に教師や警察官を聖職者に仕立てていますが、その責任を追求するのに見合っただけの給料を彼らに支払っていません。

その一方で、聖職者ではないプロ野球の選手とか、場合によってはストリッパーの方が高い給料をもらっています。

私たちはそのことに、何の疑問も抱いていません。

むしろ聖職はお金と無縁であるべきだし、金を求めてはならないとさえ考えます。

だから誰からも「教師や警察官の給料は今の10倍でもいいんじゃないか?」というような声が聞かれないのです。


ときにはモンスターピアレントとかクレイマーと呼ばれる親からの、熾烈な抗議に対応しなければならないのが今の教師です。

どこに尊敬される聖職者の姿があるのでしょう?

それなのに何か不祥事があると徹底的に叩かれる。

誰が好き好んで、そんな割の合わない仕事をやるでしょうか?


それでも、理想の炎を燃やして頑張っておられるのが、教師や警察官の方々ではないでしょうか。

実際、社会にとって重要な仕事ですし、いなければ困る職業です。

私は、本当に頭が下がる思いです。

誰からも理解されないけれど、その仕事に対する使命感を抱き続け、批判・非難にも負けずに職務を全うしようとする。


そういう気概のある方が多くおられるのだと、私は思います。

そういう気概でもなければ、とても勤まらないと感じるからです。


聖職者とは呼ばれませんが、自衛隊の方々もそうですね。

誰が好き好んで自分の命を仕事に懸けますか?

安い給料ですよ。


そういう人たちにいつも感謝しているならいざ知らず、不祥事と聞くと責任追及しようとする。

どこか間違っている気がします。


私たちが理想とする社会に近づくために、それは間違っているのです。


本当に価値があると思うなら、価値を認めるのが先でしょう。

価値があるものには、その価値に見合った対価を支払うべきです。


そうしないなら、盗人や詐欺と同じではありませんか?

いくら彼らが「もう十分です」と言おうと、「それでは私の気が済まない」と言って、無理にでも受け取ってもらおうとする。

それくらいの気持ちがないなら、価値を認めているとは言えないのです。


「価値がある=聖職者」と口で言いながら、心ではそうは思っていないのです。

都合の良い奴隷くらいにしか考えていないのですよ。


そして、そういう考え方が、その人の人生を創ります。

多くの人のそういう考え方が、私たちの社会を創っています。


そんな社会でいいのでしょうか?

それで満足ですか?


満足でないなら、変わることです。

そう思った人から変わることです。

価値があると思うなら価値を認め、その対価を支払いましょう。


もちろん私たちが個人的に、教師や警察官の給料を払えるわけではありません。

その気持を何らかの寄付でもいいし、彼らを励ます手紙を書くことで代わりにしても良いでしょう。

あるいはいろいろなところで、彼らの素晴らしさを称えることもできます。

完全に対価は支払えないとしても、何らかの方法はあるのです。


「自分はまだ、これだけしかできない。本当に申し訳なく思う。でもいつか、必ずその恩に報いるから。」

そういう気持ちになったら、あなたの生き方が変わるはずです。

不平不満を抱えて愚痴だらけだった日々が、感謝の言葉が絶えない生活になるでしょう。


批判や非難で埋め尽くされていた心が、謙虚さでいっぱいになるでしょう。

いくら「変わるな!」と命じられても、もうどうにも止まらない。

ありがたくて、ありがたくて、「お願いだから感謝させてください」という気持ちになる。


そういう人たちが大勢いる社会って、素敵だなあと思いませんか?

もしそう思われるのでしたら、他人を責める前に自分が変わることです。


誰かが変わるのを待つのではなく、あなたが率先して変わるのです。

あなたの人生は、あなたが創っているのですから。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:06 | Comment(0) | SJ通信過去ログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月26日

会社の新年会でもいろいろありました

昨夜は、近くのホテルで会社の新年会がありました。

昨年のうちに忘年会をやる予定だったのですが、ちょうどよい会場を押さえられなくて、仕方なく新年会にしたのです。

まあでも、タイの忘年会はファイナル・パーティーと言うよりニューイヤー・パーティーですから、どっちでも同じなのです。

今回で3回目となる司会のオカマちゃん。彼女(彼)は社員をしっかり笑わせてくれるから、私は気に入っています。


ところが今回、さっそく手違いがありました。

当日になって、出演予定だったコヨーティー(コヨーテ)がキャンセルしてきたのです。

コヨーティーというのは、要は女性のダンサーです。モーターショーなどにも派遣されてますが、普通のモデルではなく、踊ってみせるモデルみたいなものでしょうか。

コヨーテパブのように、コヨーティーが踊っている飲み屋もありますし、ディスコでも盛り上げ役として踊ってますね。


そのコヨーティーを5名1万バーツで予約し、手付で3千バーツを払っていたのですが、当日になって、他にもっとお金を出してくれるところがあったからという理由で、ドタキャンされたました。

考えられないでしょう?職の倫理に反するというか...。

でも、まったく悪びれることなくそう言ってくるのですから、もう笑うしかしょうがありません。

これがタイなのですよ。日本じゃ信じられないでしょう?

だから、海外に出てみた方がいいんですって。鍛えられますから。


そんなことで出し物が減ってしまったのですが、たまたまオカマちゃんのショーを予約していたので、それほど大きな穴は開かないようです。

最終的には何とかしてしまうのがタイの良いところ。

オカマちゃんのキャバレーショー

とは言え、オカマちゃんのショーは、社員にもっと楽しんでもらおうと思って、私が6千バーツをポケットマネーから出して呼んだのです。

ですから、もし私がオカマちゃんたちを呼んでなかったら、どうなったのでしょうね?

というような考え方もありますが、これもまた必然と考えると、呼んでなかったらそれなりに、何とかしたかもしれません。


結果的に、オカマちゃんたちのキャバレーショーやドタバタコント、そしてうちの社員を巻き込んでのセクシーショーで会場は大いに盛り上がりました。

オカマちゃんのセクシーショー

社員たちは、ゲームで勝ち取った賞品などを抱えて、満足そうです。

そのあと、気のあった仲間同士でどこかへ行ったのでしょうね。


他にもいろいろあったのですが、今回は割愛します。また機会があったら、そのことも書きたいと思います。

 

1日たって今日、午後から近くのホテルで行われた国境なき楽団のチャリティーコンサートへ行きました。

庄野真代さんが行なっている活動ですが、日本で古くなった楽器を集め、修理、洗浄、消毒して、世界の恵まれない子たちに届けるのだそうです。

それで今回はタイの孤児院(お寺の住職が育てている)へ楽器を持って慰問するので、そのとき渡す寄付金集めの意味もあって、チャリティーコンサートが開かれたのです。

庄野真代さんの「飛んでイスタンブール」もありましたが、他にも平安桜さんのオカリナと三味線の演奏や、ゴスペルのCOCORO*COさんの元気が出る歌もありました。

他にもバンコクで活動するバンドの演奏やベリーダンス、フラダンス、子どもたちのチアリーディングなどがあって、4時間近くがあっという間でした。


このチャリティーコンサートは、1ドリンク込みの600バーツだったのです。

私の友人が主催者に名を連ねていることもあって見に行ったのですが、600バーツでは安すぎると感じるほど感激しました。

見ている途中で、なぜかもう目がうるうる。最近は涙もろい私ですが、こんなときでも泣けてきます。

それは、みなさんの明るさや頑張り、その熱い思いなどを想像したとき、込み上げてくるのです。


帰りがけに売られていた平安桜さんと庄野真代さんのCDを買わせていただきました。

本当は寄付金箱に1000バーツくらい入れて帰ろうと思っていたのですが、コンサートの最後に集まった金額を発表され、明日同行される慈善団体の方に渡されてしまったのです。

それで寄付の代わりに、CDを買わせていただいたのです。

平安桜さんと庄野真代さんのCD


寄付とCDでは違うと思われるでしょうね。

でも、どちらでもかまわないのです。だって、庄野真代さんや平安桜さんたちが、恵まれない子を元気づけてくれるのですから。

彼女たちが豊かになるなら、それでいいではありませんか。

私は、そんなふうに考えるのです。


少なくとも、価値があると思ったものには対価を支払いたい。

そうすることで、その価値を自分が認めたことになると思うのです。


安く買えたから得したと思う人もおられるし、私も以前はそうでした。

でも、安く買うことによって、売る側は損しています。

損という言葉は解釈がいろいろあるでしょうけど、要は売った商品の価値ほども利益を得られないのです。

そんなことを売り手にさせて、あなたは気持ちいいですか?

私は、それを気持ち良くないと感じるようになったのです。

そんな気持ちの良くないことをするのは、私らしくないと思います。

ですから、相応の対価を払いたいのです。


今回は、残念ながらCDしか買えませんでした。

本当のことを言えば、3,000バーツか5,000バーツは寄付してもいいと思ったのです。

今回のコンサートでいただいた感動には、それだけの価値があると思うから。

ということで今回は申し訳なかったけど、この分はまた別の機会に、タイの慈善団体などに寄付したいと思いました。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 23:03 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月28日

体罰必要論について思うこと

桜宮高校の体罰に関して、まだ世間の関心は薄れないようです。

読売新聞には、桑田真澄さんの体罰は不要とする記事が載っていました。

一方で産経新聞には、それでも教育に体罰が必要という論が載っていました。

編集委員・大野敏明さんの署名記事です。


私は、これまでに「体罰は愛情か?」「教育に体罰が必要か?」で書いたように、体罰は不要だという考え方です。

そこにそう考える理由を書いたので、ここでは割愛します。

ただ、産経新聞の主張は、ちょっと考えてみる必要があると思ったので、それについて取り上げてみたいと思いました。


記事では、「こうした事件が起きると、「それでも体罰は必要だ」と言うには勇気がいる。だが、私は、一定の条件下で体罰は必要だと言いたい。」として、体罰が必要と考える一定条件を示しています。

それによると、以下のことがその条件のようです。

1.対象は故意行為(わざと不正や悪事を行うこと)に限る

2.暴力を振るう生徒を対象にする

3.体罰は1発に限る


この条件からすると、桜宮高校の体罰は条件を満たしておらず、体罰ではなく暴力と呼ばれるものだと主張します。

そして、最後にこう締めくくっています。

教師と生徒の間に信頼関係があれば、殴られても生徒は悪感情をもたない。その場合、体罰はむしろ有効である。


私は、こういう主張(考え方)があることを批判はしません。

おそらく、少なからずこう考える方がおられるでしょうし、そういう人の中で、きちんと論理立てた主張をされている点で、この意見を素晴らしいとさえ思います。

ですが、賛同はしません。私は、この論理を採用したくないのです。

 

なぜか?ということを以下に書きます。


まず故意の場合、つまり生徒が悪いこととわかっていてやっているときは、体罰を与えてもかまわないという論理です。

ねじれた心を正すため」だから、ショックを与えて正気を取り戻させることが大切だと言うのでしょう。

だから3.の体罰は一発のみということにつながるのでしょう。

でも、ショックを与えるのに、どうして肉体的な痛みを与えなければならないのでしょうか?


何かの本で読んだ、あるエピソードを紹介しましょう。

その人が子どものころ、何か悪いことをしたのだそうです。

父親は叩かれるとかなり痛いと思われる棒のようなものを持って、その少年に庭に出るように言います。

少年は、叩かれると思い目をつむりました。

ビシーッ!!

強烈な音がしましたが、自分はまったく痛くありません。

恐る恐る目を開けると、そこには自分の手を打ちつける父親の姿があったのです。

「お前が悪いことをするのは、親の私の育て方が悪かったからだ。だから、私は自分を罰さずにはおれない。」

そういう父親の姿を見たとき、思わず少年は叫びました。

「お父さん、ごめんなさい。ぼくが悪かったんです。もう二度としません。ですから、もう叩くのをやめてください。」

その少年は、二度と父親を裏切るようなことはすまいと決意したのだそうです。


弱さにかられて、道を踏み外してしまうことはあるでしょう。

けれども、それを叩いたからといって直るものではありません。

かえってひねくれてしまう可能性もあります。

一発殴って、それでも直らなかったどうするのでしょう?

体罰が一度きりなら、その後はどうするのでしょうか?


私は子どものころ、父親からも先生からも体罰を受けました。

そのたびに「ごめんなさい」と謝らされましたが、心から詫びたことは一度もありません。

その場しのぎです。

心の中では、「たしかに悪かったけど、でも、...」と、自分の言い分を主張していたのです。


信頼関係があれば体罰もOKだと言いますが、本当に信頼関係があるなら、体罰は不要ではないでしょうか?

愛する人が苦しむことを、どうして我慢できるでしょう?

愛する人を喜ばせたい。それが人というのものではないのでしょうか?

野口嘉則さんの「僕を支えた母の言葉」にもあるように、絶対的に信頼するときに見えるのは、その子の本当の姿です。

たとえどんな悪いことをしてもその本当の姿だけを見て、揺るがない愛情を注ぐことでしか、人を変えることはできません。

信頼とは、その人の本質が素晴らしい存在であることを信じ、少しも疑わない気持ちです。

見た目が悪そうに見えても、そんなことには動じない心です。

そういう信頼をした上で、相手がその信頼に応えたとき、初めて信頼関係が結ばれるのです。

相手が良くしてくれたら自分も良くしてあげるというのは、単に取引関係であって、本当の信頼関係ではないと思います。


蛇足ですが、2.の暴力を振るう生徒に対する体罰で正当防衛を根拠にあげていますが、論理的におかしいと思います。

まず、いくら先生が体罰を禁止されているからと言って、正当防衛の権利がないわけではありません。

暴力をふるう生徒からは逃げればよいし、逃げ切れなければ防戦するしかないでしょう。

それと体罰は別問題です。

生徒に売られたケンカに応じることと、正当防衛はまったく違うということに、気づいていないのではないでしょうか。


そして、殴られる痛みを教えるために体罰を与えるということですが、それもおかしいと思います。

では相手はなぜ殴るのでしょう?殴られても痛いと思わないから殴るのでしょうか?

殴られると痛いとわかっているから、それが効果があると思っているから、だから殴るのではありませんか?

殴られたら痛いのはわかっているのです。想像すれば理解できます。

問題は、痛みがわからないことではなく、痛みを感じる相手の立場に立てないことではないでしょうか?

どうして相手の立場に立てないのか?

それは、自分が受け入れられていると感じていないからです。

「自分が受け入れられていないのに、どうして相手を受け入れなければならないのか?」

そう感じているのです。


痛みを与えたら痛さを理解できるということは、たしかにあるでしょう。

けれども、痛さを理解したからこそ、相手に痛みを与えようとしているのです。

それを、知っている痛さの程度が足りないからと考えていたら、どこまでもエスカレートしますよ。

たとえば、相手に骨折させるような暴力を振るう生徒には、同じように骨折の痛みを味わわせるのですか?

腕を切り落とすようなことをする生徒には、同じように腕を切り落とすのですか?

それでは旧約聖書(またはハンムラビ法典)の「目には目を、歯には歯を」の世界ではありませんか。

それが教育なのでしょうか?


私はこのように考えるので、やはり「一定の体罰は必要だ」とする考え方は受け入れられません。

体罰とは、肉体的な痛みを与えることで、ある特定の価値観を強制しようとする行為です。

特定の価値観を強制する必要があるという考え方は愛ではないし、愛のないところに真の教育はないと思うのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 21:03 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月29日

人生を楽しむための道具(ツール)を利用する方法

「神との対話」シリーズを読み続けています。

前にも書きましたが、読むたびに「この本がシリーズ中の最高だ!」と思いますね。

11冊めの「神より幸せ」も、本当に最高の本だと思います。

神より幸せ


10冊目からは、著者のニールと神様との対話形式ではなく、ニール自身の言葉で書かれています。

これを読むと、これまでの神様との対話というのも、神様から直接語りかけられて知ったことよりも、すでにニール自身が何かで知っていたことが多いことがわかります。

それらの断片をつなぎあわせて体系化したものが、「神との対話」になったのでしょう。

そのことから、ニールの創作(作りごと)と言うこともできますし、インスピレーションを受けて体系化されたとも言えます。


おそらくどちらも正しいのでしょう。

なぜなら、私たちは「ひとつのもの」だし、「ひとつのもの」には神も含まれると言うか、それこそが神だからです。

私たちは一度も神から離れたことはないし、神が見放したこともないと、シリーズの中で何度も語られています。

なぜなら、神とは生命であり、生命は偏在し、永続するものだから。


この、「神=生命」という見方は、実にインパクトがあります。

これだと無神論者にも否定できませんからね。

神とは生命というシステムであり、エネルギーだと言うのです。

この見方によって、科学と宗教は同じものを別の側面から見ていたことが理解できます。

 

さて、「神より幸せ」を読んでいるのですが、この中には驚くべきことが書かれています。

いや、書かれている内容はシリーズ中の他の本でも書かれているものなので、すでに知っていることです。

知ってはいても気づかなかったこと。つまり、異なる視点を与えてくれているのです。


この本では、「引き寄せの法則」を効果的に使う方法が書かれています。

そして、「引き寄せの法則」「ザ・シークレット」などで言われているように、私たちが考えたことが現実になるということが、どうして起こるのかということと、それと神様がどう関係しているのかが書かれています。


たとえば、「対極の法則」というのが書かれていますが、これなどは新たな視点ですね。

つまり、私たちが考えたことが現実を引き寄せるのですが、それと同時に、いや、たいていはそれより先に、その対極のものも引き寄せると言うのです。

もしあなたが「金持ち」という状態を上手にイメージしたとすると、まず「貧乏」という状態になってしまうことがあるのです。

それが「対極の法則」と呼ばれるものです。

なぜそうなるのか?

それは、あちらが存在しなければこちらも存在しない、というシリーズの随所に出てくる考え方が根拠です。

わかりますか?

「豊かさ」を経験するためには、まずその反対の「豊かでない」状態を知らなくてはなりません。

もちろんこれは、必ずしも自分の身に起こる必要性はありません。

そういうものがあると経験的に知っていれば良いだけです。

それによって私たちは、「豊かさ」という状態を体験的に知ることが可能なのです。


ですから、「引き寄せの法則」を利用して何かを意図的に引き寄せようとした場合、その対極のものが現れても失望しないことだと言います。

むしろそれは、望みのものが現実になる兆しなのだからと。

「冬来たりなば春遠からじ」

昔の人は、そのことを感覚的に知っていたのでしょうね。


他にも、こういった道具(ツール)を利用して人生を楽しく生きるための方法が、わかりやすく解説してあります。

そういう意味では、9冊目までの神様との対話というのはとっつきにくいという方でも、この本は読みやすいかもしれません。

この本を取っ掛かりにして、それから「神との対話」を読んでみるというのも、悪くはないと思いました。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:46 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月30日

答は自分の内にあることを実感しました

先日の夕方、妻から電話が掛かって来ました。

妻との会話はタイ語ですが、私はそれほどタイ語が使えるわけではありません。

日々話していることならだいたいわかりますが、想定外のことを、しかも電話で話されるとまったくちんぷんかんぷんです。

このときも、ところどころ言っている単語はわかるものの、何を言いたいのかよくわかりません。

私が理解したのは、以下の様な話でした。


「今日、帰ってきてもトイレの水が流れないからね。エレベーターに張り紙がしてあったでしょう?水道管の取り替え工事をしたせいなの。アパートの技術者には言ったけど。水が茶色になってるのよ。洗濯を1回やったけど、2回目ができないの。あなた、帰ってきたら見てね。掃除してほしいの。」


これを聞いた私は、「???」という状態になりました。

「ねえ、聞いてる?帰ったら見てね。」

私が理解してなさそうなので、だんだんと妻もイライラしてきているようです。

でも、そう言われても、いったい何を見るのでしょう?それに、見てどうしろと言うのでしょう?

「見てよ。それから掃除をして。洗濯機よ。」

ますます「???」です。だって、水が流れないんでしょう?おそらく水道管工事が終わらなかったか何かで。

それに、工事の影響で水が濁って、それで洗濯を1回やったのなら、洗濯物が汚れたんでしょうか?

それをきれいにする(=掃除)ってこと?いや、水が出ないなら洗い直すこともできないでしょう。

いったい私にどうしろと...。

私が口ごもっていると、ついに妻が切れました。

「ともかく、帰ったら見なさい!見ればわかるから。」

いやあ、見ればわかるようなことなら、わざわざ電話してこなくても良いと思うのですが...。

 

なかなか大変だと思うでしょう?実際、大変です。(^_^;)

あとでわかったのですが、妻は出かけるから、帰ってきた私が戸惑わないよう電話したようです。

それと、私の理解に大きなミスがありました。

トイレの水が流れない件とは別の話で、洗濯機に汚れた水が溜まったまま動かなくなっていたのでした。

トイレの水の件は、タンクに水が溜まらないということで、その後、アパートの技術者さんを呼んで解決したそうです。

私のタイ語レベルがどれほどのものか、これでよくおわかりでしょう。

台所の水道の蛇口からは、しばらくサビなどで汚れた水が出るものの、そのうちきれいな水が出るようになりました。


そうなると、あとはどうして洗濯機に水が溜まったままになっているかです。

汚れた水で排水管が詰まっているのでしょうか?

もう外は暗くなっているし、洗濯機はベランダにあるのですが、そこにある照明はそんなに明るくありません。

洗濯機の裏を開けたりするのも大変ですし、とりあえず放っておくことにしました。


すぐに解決できそうにないときは放っておく。

まあ、明日になればなんとかなるでしょう。とりあえず水は出るのだし、洗濯も1回分が終わっているなら、着るものに困ることもないし。

そう思って、あまり深刻に考えずにいました。


その夜、ベッドに入って寝ようとしていたとき、ふとある考えが頭に浮かびました。

「あれだけ汚い水だったら、蛇口のフィルターがまた詰まるかなあ。」

以前、洗面所の水道の水が、やたらと散らばるような出方をしていたとき、フィルターを見たら目詰りしていたのです。

そのことを思い出したのでした。

その瞬間、なぜか洗濯機の問題もそれで解決しそうな気がしたのです。


水が溜まって流れないのですから、問題は排水にあるはずです。

それなのに、給水側のフィルターの目詰りが気になり、それを解消すれば何とかなりそうだという気持ちになりました。

今考えても不思議なのですが、そのときは寝る前で意識もはっきりしていなかったのかもしれません。

理性を超えた所で、これでいけるという気になったのです。


翌朝、すぐに洗濯機の給水側のホースを外し、フィルターを点検しました。

やはりかなり詰まっています。それを掃除して、きちんと水が出るかどうかのテストです。

最初は「すすぎ」だけで試そうとしたのですが、上手くいきません。なぜか動かないのです。

それで仕方なく、「洗濯」からしてみることにしました。

すると、回りだしてしばらくすると、水が出るのです。そのとき、ピンと来ました。

この洗濯機は、洗濯の間に給水するようになっているのです。その水が出ないものだから、コンピューターが洗濯を止めてしまったのでしょう。

それで水が溜まったまま、動かなくなっていたのに違いありません。

そう言えば前の晩も、試しに「洗濯」で動かそうとすると、水がチョロチョロと出ていました。

その出方が少なかったから止まったままだったのでしょう。


みごとに問題が解決したわけですが、私は洗濯中に給水されることや、その給水がされないと止まってしまうことは、まったく知りませんでした。

たしかにチョロチョロと給水されてるところは見ていますが、それを必要な給水とは理解していなかったのです。

それなのに潜在意識は、私に的確な解決方法を示してくれました。

ほら、こんなことがあるんですよ。

 

その後、私はすべての蛇口のフィルターを掃除しました。

やはりどのフィルターもかなり詰まっていました。


タイのアパートはタンクや水道管が汚れていることが多く、水道水が汚くなります。

水道の水そのものは飲めるほどきれいだと言われますが、腐食した水道管を通ってくるために汚れるのです。

目詰り防止のためにも、定期的にフィルターを掃除しないといけませんね。

もちろんそれだけでは飲水に適さないと思いますから、水道水を飲むなら浄水器をつけるか、飲水は別途購入する必要がありますよ。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 09:24 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月31日

強制よりも自由を

ニュースによると、今度は女子柔道の代表監督らによる体罰が明らかになりました。

大阪市立桜宮高校での体罰を苦にした自殺が発端となり、他にもあちこちで体罰があった事実が明らかにされ始めたのです。


このことは、私たちにとって本当に良いことだと思います。

自殺したバスケットボール部の主将は苦しんだと思いますが、彼の死は無駄ではありません。

その死によって社会を覚醒させ、今まで隠されていたことを、白日のもとにさらす役割を果たしたのですから。


産経新聞など、まだ体罰と暴力は違うと主張する人が多いので、私も負けずに書くことにしましょう。(笑)

もちろん価値観は人それぞれですから、「体罰と暴力は違う」という考え方をする人を批判するわけではありません。

ただ、「違うと考える根拠がどこにあるのか?」、「その根拠は本当に愛情なのか?」、「体罰で本当に人が良くなるのか?」について、再考してほしいと思うのです。

 

まず、暴力を否定することでは、おそらく99%くらいの人は共感していただけるものと思います。

ところが体罰になると、少しは必要だと考える人が約半数もおられます。

これは、「子どもは言っても聞かない」という考え方が前提にあるからだろうと思うのです。

そしてその前に、「子どもに言うことを聞かせる必要がある」と考えています。


つまり、親や指導者の価値観が絶対的に正しく、それにしたがわない子どもは間違っている、という考えです。

そのため、子どもが間違っているのに放っておくと、その子は幸せなれなかったりして人生の勝者となれないので、強制してでも正しい方向に導いてやる必要がある、と考えます。

子どもを間違った方向から正しい方向へ導くとき、ある程度の強制力が必要だという結論になるのです。


ここには、いくつかの突っ込みどころがあります。

おそらくそれは、今までにあまり誰も言わなかったことです。


まず第1に、「親や指導者の価値観が絶対的に正しく、子どもの価値観が間違っている。」という考えは、本当でしょうか?

そもそも価値観に、絶対的に正しいものがあるのでしょうか?

このことは、このブログでも何度も書いています。

私の考えは、価値観は人それぞれである、というものです。ですから、100人いれば100通りの価値観があり、それはそれぞれの人にとって正しいものなのです。


たとえば、「道草をするのは悪い」という価値観があります。

教師はこれを絶対的に正しいと信じるから、生徒に強制するために校則に盛り込んだりします。

でも、道草によるメリットはないのでしょうか?

そんなことはありません。道草によって、それまで気が付かなかったことに気づくかもしれません。

これは人生においても同じです。ストレートに進学して、希望する良い(?)企業に就職することがベストとは言えません。

道草をして、様々な経験を積むことが、人生を豊かにすることだってあるのです。


次に、「子どもの価値観では幸せになれない」という考えは、本当でしょうか?

たしかに親や教師のほうが経験が豊かかもしれません。

けれども、親や教師は、間違うことはないのでしょうか?

また、子どもにとっての幸せとは何かを、本当に知っているのでしょうか?

試合に勝つことですか?安定した生活ですか?

たしかにそういう要素があるかもしれませんが、それがなければ幸せになれないのでしょうか?


自分の幸せは、自分が決めるのです。

他の人が良かれと思っても、当人がそう思うかどうかはわかりません。

それはさきほどの、価値観は多様だということからも言えることです。

どんなに良いものであっても、押し付けられるから嫌になることだってあります。

人はそもそも自由なのですから、自由が奪われることは何にも増して苦痛なのです。


最後に、「強制してでもしたがわせる必要性がある」というのは、本当でしょうか?

これが犯罪を犯そうとしているとわかっているなら、強制してでもやめさせるという意味も理解できます。

けれどもここで言っているのは、そうした方がより良くなると親や教師が考えていることです。

そんな価値観にしたがわせるため、体罰で肉体に苦痛を与えたり、言葉で脅すことや非難して罪悪感を抱かせるなど精神的な苦痛を与えることが、必要なのでしょうか?

それが愛情によるものだと言えるのでしょうか?


これも何度も書いていますが、愛とは、相手の自由を尊ぶ気持ちです。

なぜなら、自由こそが人の本質であり、重要な価値だからです。

だから愛は要求しません。愛は何も求めないのです。無条件です。「条件付きの愛」という言葉は、そもそも言葉の定義からして間違っています。


強制したくなるのは、愛からではなく、その対極の不安からです。

自分の価値観にしたがわないと、自分自身が否定された気持ちになる。

その不安に耐えられないから、強制してでもしたがわせたくなるのでしょう。

愛と不安は対局です。正反対なものです。愛は何も怖れないし、怖れとは不安の1つの側面ですから。


子どもを教育するのに、特定の価値観にしたがわせる必要性はありません。

そんなことをするより、その価値観について子ども自身に考えさせた方が、子どもにとって役立つでしょう。


親や教師の価値観は、そのまま伝えたら良いでしょう。

でも、それを採用するかどうかは、子ども自身が決めるのです。


あっちかこっちかではなく、あっちでもこっちでもだと思います。

そういう柔軟さがないことが、ギスギスして居心地の悪いストレス社会を作り出しているのではないでしょうか?

回り道に見えたって、いいではありませんか。それはその子どもにとっては、大切な経験かもしれないのですから。

失敗だって大切な経験です。経験しなければわからないことは、たくさんあるのです。そしてそのことは、大人であれば誰でも知っていることでしょう。


このことは、自分自身に対しても言えることです。

どんな経験も、無駄にならないと思えば無駄にはなりません。

ですから、どんな経験も拒否せずに受け止めることです。

そしてその経験が自分にふさわしくないと感じるのであれば、そっと手放せば良いのです。

そうやって様々なことを体験することで、私たちは「自分らしさ」を追求していく存在だと思うのです。

 

体罰は、教育や指導の現場において必要ではありません。

体罰だけでなく、精神的に苦痛を与える言葉による強制も、有効ではありません。

自由にやらせること。本人に決めさせること。それこそが大切なことだと思います。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:50 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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