2013年01月11日

教育に体罰が必要か?

昨日のブログに「体罰は愛情か?」という記事を書きました。

結論から言うと、体罰は愛情ではありません。

なぜなら、体罰を与えるのは、自分の価値観の押しつけだからです。

愛情は、相手の自由を尊重します。

ですから、相手を自由にさせないことを望む体罰は、愛情とは言えないのです。

 

では、教育に体罰は必要でしょうか?


「体罰は必要だ」という意見が、まだけっこうあるようです。

モンスターピアレントと呼ばれるような、学校に怒鳴りこんでくる親が増えたことや、教師をバカにする生徒が増えたことなども影響していそうです。

先生が生徒に指導するのが教育だから、それには強制力を伴わないといけない、と考えるようです。

どうしても言うことを聞かない子どもを黙らせ、従わせるために、必要最低限の暴力は認められるべきだと言うのです。

また、本気で子どもを良くしてやろうと思えば、従わない子どもに手を上げるのも当然だという意見もありましたね。


私は、それは教育に対する誤解だと思うのです。

教育とは何かを与えることではなく、子どもの中から引き出すこと。

それがEducation(=教育)の意味だと習いました。

一応、広島大学学校教育学部に入学したもので。

ラテン語で「外へ導く」という意味。

つまり教育とは、金太郎飴のような規格品の人間を作るのが目的ではなく、それぞれの個性を引き出し、その人の良さを最大限にする手助けをするものなのです。

その意見からすると、教師が良いと思った価値観を生徒に押しつけるのは、教育とは呼べないでしょう。

 

ここでも、前提が間違っているのです。

それはつまり、教師が良いと思う価値観が、この世の普遍的な価値観だと錯覚することです。

人それぞれ価値観が異なっているのが当然なのです。

それなのに、自分の価値観が最高だと勘違いしているのです。

そして、その自分の価値観に従わせることが、もっとも相手のためになることだと信じています。


それが、体罰を与えてでも従わせなければならない理由と考えられているのです。


価値観が人それぞれでなければ、どうして個性などが生まれるでしょうか?

音楽好きもいれば、スポーツ好きもいて、それが個性でしょう。

音楽とスポーツと、どっちが有意義かという価値観が、それぞれ異なっているのです。


「そういう価値観と倫理観は違うでしょう?」

それも間違っています。

倫理と呼ばれるものも、人が勝手に作り上げた価値なのです。

その証拠に、中世のヨーロッパでは、魔女狩りをすることが正義でした。

今、魔女狩りは正義でしょうか?

時代が変われば、倫理は変わるのです。


たとえば、オランダなど売春を認めている社会があります。

一方で日本のように、表向きは売春を禁止してる国もあります。

売春は、倫理的に良くないと考える人も、日本人には多いです。

でも、それが絶対的な価値観でしょうか?

そうは言えません。人それぞれなのです。

 

まずは、他人と自分は違うのだということを、私たちは受け入れるべきです。

そうしなければ、ずっとその違いを埋めようとして苦しむことになるでしょう。

違って良いのだと受け入れて初めて、相手の自由を認められるようになります。

相手には相手の良さがある。

そう認めることで、相手の中に良いものが見えてくるのです。

それを見つけ出し、伸ばしてやることが教育です。

ですから教育に体罰は、100%必要ないと言えるのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:06 | Comment(0) | SJ通信過去ログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月12日

人はみな自分が正しいと信じている

最近は、誰もがネットで情報発信できるようになりました。

それによって、身近ではない人の考えも、簡単に知ることができます。

特に匿名性の高いものだと、言葉遣いもひどいし、読むに耐えない表現が多々見られます。


でもそれは、ネットが悪いとか、匿名というシステムが悪いというような問題ではないと思うのです。

それらの根底には、「自分が正しい」という信念があり、それが元となっている気がします。


たとえば、昨日のニュースで、医薬品のネット販売を規制する省令を無効とする判決がでました。

そのニュース記事へのコメントにも、賛成派と反対派がそれぞれの意見を書いています。

その中に、「薬害が起きても国のせいだとか言うなよ」みたいな、捨て台詞的なものがあります。

自分の意見が結果的に否定されたことに対する腹立たしさが、その言葉に現れています。

あるいは、「副作用とか心配だな」というコメントに対して、「心配なヤツは買わなきゃいいだろう」みたいな相手を非難するようなコメントも。


こういうのを読むと、本当に心がげんなりします。

どうしてもっと穏やかに議論ができないのでしょうか?別に激高するような問題でもないのに。


その答が先ほど言った、「人はみな自分が正しいと信じている」という信念です。

どんな人も多かれ少なかれ、そういう信念を持っています。

そして悪いことに、「何かを正しいとすれば他は間違っている」という信念も持っています。

つまり、ここで言うところの正しさとは、絶対的なものだということです。


ですから、自分が正しいとしたら他の意見を言う人は間違っていることになり、それで他人を否定するのです。

ただ、他人の意見を否定するだけなら、それほど大きな問題にはなりません。

穏やかに議論を重ねることは可能だからです。

それができずに感情的になり、辛辣な皮肉を浴びせたり、暴言を吐いて黙らせようとしたり、ときには暴力を振るうことになってしまうのは、どうしてでしょうか?

それは、自分の意見を自分そのものと感じているからです。


つまり自分の意見が批判され、否定されるということは、自分自身が批判され、否定されたのと同じなのです。

少なくともそう感じるために、自分を守らなければならない衝動にかられるのでしょう。

だから、何が何でも自分の正当性を主張しようとして必死になるから、感情的になってしまうのです。

 

そうなると、周りの人も不愉快になるでしょうけど、感情的になった人も気分が良いはずがありません。

そしてその気分が悪い原因を、自分ではなく他者に求めます。

なぜなら、自分のせいだと思うと苦しくてたまらないからです。さらに否定された気分になるからです。

他者が原因で自分が傷ついた。そういう被害者になることを選択するのです。


これを解決するには、実はその苦しくてたまらないだろうと予測した、「自分が原因」ということを受け入れるしかありません。

上記に書いたように、自分が被害者だという認識を選択したのは、自分自身です。

逆に言うなら、被害者だという認識を持たなければ、誰も被害者にはならないのです。



また、その前の段階で、自分の意見が否定されたとき、それを自分が否定されたと考えたのも自分です。

意見が否定されただけで、自分は何も否定されていないと考えることもできます。

また仮に、相手が悪意を持ってあなたの人格を傷つけるような暴言を吐いた場合でも、その暴言を引き受ける必要性はありません。

あなたは、あなた自身が認めた存在であって、他の誰もあなたの存在を規定できないからです。

ですから、相手の暴言を信じなくて良いのです。あなたは、あなたが傷つこうと決めたとき以外、傷つくことはないのですから。


最後に、最初の信念が問題になります。正しさは絶対的かどうかという信念です。

結論から言えば、正しさは1つではありません。100人いれば、100通りの正しさがあります。

本当は微妙に違っているのに、集約して同じだと考えているだけです。

なぜそう言えるかというと、価値観は人それぞれだから。そしてその価値観は、それぞれの人の個性から生まれているからです。

つまり、人に個性があるのが当然なら、それぞれの人の考え方は違うのが当然であり、考え方の習慣が価値観ですから、自ずと価値観も異なってくるのです。


最初のニュースの問題でも、どっちが正しいかを議論することは不毛です。

その人の価値観にしたがえば、その人の意見は常に正しいからです。

ただ社会として、何らかの方針を出さなければならないのでしょうから、それを1つに決めるだけの話です。

裁判とは、それを決めるだけのことをしただけで、絶対的な正しさを示したわけではないのです。
 

posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 17:54 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月14日

すべての出来事は贈り物です

この週末だけでも、実に様々な出来事がありました。


金曜日には、会社の仕事上のトラブルが発生しました。

まだ詳細には言えませんが、屋台骨を揺るがしかねないような大きな出来事。

「なんでこんなときに起こるかなあ。」

そう嘆きたくなりますよ。


休みの間も、ことあるごとに思い出し、いろいろなことを想像しました。

悪くなる結果も予想しましたよ。

でもね、どう考えてみても、これですっきり解決なんて方法はないのです。

こういうときこそ、「チャンスはピンチの顔をしてやってくる」を思い出すことが重要ですね。


そういう考え方を知らない人から見れば、私は実に脳天気な人間に見えるでしょう。

あるいは、無責任と思われるかもしれません。

けれども、いくら深刻ぶってみても、対処する方法が見つからないなら、同じことだと思うのです。

「なるようになるさ。」

そう開き直って、明るい未来に希望を抱き、これが自分のために起こった出来事なのだと信じ、その中に自分のためになることを探し、その意見を出来事に与えようと思います。


それから、土曜日くらいから鼻風邪を引きました。

最初は鼻がムズムズしてたまにくしゃみが出る程度でしたが、昨日はのどもいがらっぽくなり、多少熱もあったようです。

それで、午後からはおとなしく部屋で横になっていました。

大好きな晩酌のビールもやめ、静養することに努めました。

まだ少し風邪っぽいですけど、まあそのうち良くなるでしょう。


と言っても、完全に休んでいたわけではありません。

午前中は、ソフトボールをやりましたから。

ソフトボールの大会(HSL)

私がやっているのは、へたくそソフトボールという趣旨で集まった人たちによるソフトボール。

昨日は、そのリーグ戦(HSL)の第3節でした。

わがチームのKBは、残念ながら2戦2敗で最下位に後退。

まあでも、ここから追い上げる楽しみができたとも言えますからね。


それと、私も久しぶりにソフトボールの試合に出場しました。

昨年は、両膝を痛めて、ソフトボールには参加しても、キャッチボールとトスバッティング程度だったのです。

久しぶりに打席に立ち、やや高めの球を打ったら、会心の当たりで柵越え。

この日は3打数2安打と絶好調でした。

私の顔を知っている他チームの人も、私が試合に出る姿を初めて見る方もおられて、「ナイスバッティング!やっとベールを脱ぎましたね。」と声をかけていただきました。

運動ができるというのは、嬉しいことですね。

まだ膝に不安があるため、抑えながらのプレーですが、大好きなソフトボールができる喜びをかみしめました。


その後はチームメイトと昼食で、中華料理を食べながらビール。

やっぱりビールは欠かせませんね。

そのときは風邪のこともすっかり忘れていたので、けっこう飲んでしまいましたよ。


その後、部屋に戻ってから、恒例のベランダチェック。

まだ鳩とのベランダ争奪戦を繰り返していますから。

すると、エアコン室外機の上のペットボトルが2本、ひっくり返っているではありませんか。

どうやらまた鳩が侵入し、エアコン室外機の上にとまる場所を確保しようとしたようです。


こうなったら徹底的に侵入経路を塞がなくてはなりません。

釣り糸をさらに網目のように張り、エアコン室外機の上のペットボトルの前にもテグス(釣り糸)を張って、鳩が侵入できないようにしました。

リビング側は、カーテンを開けていることが多いので、仮に鳩が来ても巣を作られる心配はありません。

けれども寝室側は、ベランダに出るのは週に1回の洗濯のときだけ。

なので、どうしても鳩が好んで来るようです。


今回、かなり徹底的にテグスを張り巡らせましたから、これで当分はやって来ないでしょう。

これで来なくなってくれるといいのですが...。

本当にしつこい鳩です。見習わないといけませんね。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:52 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月15日

おかしな名前ですか?

また面白い(興味深い)記事を見つけました。

「安倍総裁「キラキラネーム、いじめられる」 北海道新聞「いじめ、いさめるのが教育」」と題したもので、J-CASTニュースです。


この記事によると、安倍首相が「キラキラネームをつけられた子の多くはいじめられている」と、名前をつける親に対して苦言を呈したのだそうです。

それに対して北海道新聞が、「『異質』を理由にいじめるような者をいさめるのが教育」だとかみついた、ということのようです。

さて、あなたはどう思いますか?


ベネッセが毎年発表している、赤ちゃんの名前ランキングによると、2011年の1位の名前は、男の子が「大翔(ひろと)」、女の子が「結衣(ゆい)」だったそうです。

結衣はまだしも、大翔は読めませんねえ。

他にも、こんな名前が上位にあります。

「蒼空(そら)」「陽向(ひなた)」「颯(はやて)」「和奏(わかな)」「花音(かのん)」

学校の先生などは苦労しそうです。(笑)

さらには、こんな名前も。

「希空(のあ)」「永久恋愛(えくれあ)」「宝冠(てぃあら)」「一二三(どれみ)」「苺(べりぃ)」

こうなると、1回聞いたくらいでは、とても覚えられそうにありません。

「お願いだから、ふりがなをつけてー!」と言いたくなりますね。

「それなら最初から漢字でなく、ひらがなかカタカナで名前を書いてよ。」とも思います。


でも、中にはこういう人もいるそうです。

将来、外国(英語圏)で暮らすことになっても困らないようにと、英語風の名前をつけるというもの。

あるいは国際結婚で、姓が外国の姓になっているため、それに合わせた名前にしたとか。

「華蓮(かれん)」「絵美衣(えみー)」などでしょうか。


「どっちにしても、読みにくいしやめて欲しいよなあ。」

そう思われるでしょうか?

実は私も、そう思ってました。


でも、よくよく考えてみると、他の人の名前って、どれだけしっかり覚えてますか?

意外と覚えておらず、年賀状を書くときでも住所録とか名刺を、引っ張りだしてくるのではないでしょうか?

だとすると、読みにくいということが不利益になったり、迷惑をかけるケースはあまりないのかもしれませんね。

病院でも最近は、プライバシー保護のために名前を呼ばれないこともあるでしょうし、必要ならふりがなを書けば良いだけです。


それに、そういう読みにくい名前は、昔からあったのです。

約40年前のテレビ番組ですが、その中におかしな名前の人が登場し、出演者がそれを当てるというゲームがありました。

今でも記憶に残っているのですが、その人は「陸軍将」という名前でした。

何と読むかわかります?

おそらくわからないでしょう。正解は「あつし」です。

私と同じ読み方だから覚えていたのですが、こんなもの絶対に読めませんよねえ。


それに、外国語に漢字を当てるという手法は、以前からあったものです。

「亜米利加(あめりか)」「英吉利(いぎりす)」「仏蘭西(ふらんす)」「西班牙(すぺいん)」

当時だって、ひらがなやカタカナはありました。

でも、あえて漢字を当てたのです。

それがいまだに続いていて、「米ドル」とか「仏領」のように書きますよね。


要は、慣れだと思うのです。

なので、よくよく考えてみると、どっちでも良いというか、奇抜な名前でも良いのかなあと思います。


さらに一歩進めると、もっと自由に改名ができるようになれば良いと思いますね。

どうせ姓の方は、結婚や離婚、養子縁組などで変わるものです。

名前の方だけ、裁判所の許可がないと変えられないなんて、おかしくありませんか?


「そんなことをしたら、誰が誰だか特定できなくなるだろう?」

そう思われるとしたら、事実の認識が足りませんね。

日本人はそもそも、個人を特定できませんから。

このことを理解していない人が多いのですが、日本人の個人を証明する公的なものは、何一つないのです。

なぜだかわかりますか?

それは、同姓同名の問題を解決できないからです。


住所も電話番号も、免許証番号も保険証番号もパスポート番号も、すべて登録した時点のその人の情報であって、未来および過去のその人の存在を証明するものではありませんから。

これは、コンピュータシステムの開発をしたことがある人なら、誰もが知っていることです。

日本のシステムで顧客データベースを作るとき、二重登録を防げないのです。

昨年申し込んできた「佐藤貴志さん」が、今年申し込んできた「鈴木貴志さん」と同一人物だとは、何をもっても証明できないのです。

そればかりか、同じ「佐藤貴志さん」であっても、同一人物と特定するのが難しいのです。

逆に言えば、別人の「佐藤貴志さん」を同一人物と誤認することもあるということです。


せいぜいその程度のものなのですから、名前くらい自由に変えさせてあげれば良いのです。

そうすれば、どんな名前を付けられても、その子が変えたいと思った時に変えられますから。


「それじゃあ郵便配達が困るでしょう?」

大丈夫。郵便配達は、基本的には住所です。あとは表札を出すことです。

表札を出していなければ、宛先不明で返されるだけ。


「免許証とかクレジットカードなども、不正が起こるのでは?」

それも杞憂です。名前を変えたら、再発行を受けるように取り決め、再発行してもらわない限り、無効にすれば良いのです。


「でも、再発行してもらうとき、以前の名前と同一人物だと、どうやって証明するの?」

そこです。

だから私は、国民総背番号制を導入すべきだと思うのです。

そうすれば、一発で個人が特定できますから、不正な養子縁組による名前ロンダリングなども防げるのです。

プライバシーの心配をする人もいるでしょうけど、そんなに漏れて困るような情報があるでしょうか?

少なくとも家に表札を掲げているなら、それほど困らないと思うのです。


実際タイでは、すべての国民がIDカードの携帯を義務付けられています。

そのID番号は、一生変わることはありません。

ですからタイのシステムでは、二重登録とか同姓同名による誤認などということがありません。

その前にタイでは、姓が非常に多いため、親族以外で同姓という可能性がかなり低いですけどね。


まあ、これも1つの考え方です。

いずれ日本でも国民皆番号制が導入される見通しですが、ネガティブな側面より、ポジティブな面が大きいと感じています。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:00 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月16日

焼肉デートの後は映画です

一昨日、昨日と、続けて妻と映画を観に行きました。

職場にほど近いショッピングモールの上の階に映画館があるため、映画好きの妻と一緒によく行きます。


たいてい、映画が始まるまでに時間があるので、そのショッピングモールのレストランで食事をします。

昨夜は焼肉屋でした。

焼肉とビール

私はあまり好き嫌いはないので、妻が食べたいもので店を選び、妻がオーダーします。

私はせいぜい、ビールとそのつまみ程度があれば良いのです。


この日は、豚タンを4皿と豚トロを2皿も注文し、予想通り食べきれませんでした。

タイ人は、最初に全部注文してしまうのですよ。それも食べきれないくらい。

中国の風習を引き継いでいるのでしょうかね。

日本人のように、途中で様子を見ながら注文するという習慣があまりないので、食べきれないことがままあります。

ただ、食べきれなくても持ち帰ることができるため、その点は便利ですね。

最近は日本でも少し変わってきたようですが、以前は食中毒を心配して、持ち帰りさせない店がほとんどでしたから。


温かいタイの方が食中毒を過剰に心配しないなんて、なんだか不思議だと思いませんか?

それはやはり、食べ物には火を通して食べるという習慣があるからです。

持ち帰ったものも時間が経てば、妻は必ず電子レンジで温めて食べます。

日本に妻を連れて行ったとき、コンビニで買ったハムなどでさえ、電子レンジでチンしてもらえと言うくらいです。

「これは電子レンジで温められません。」という店員に、「少し温まるだけでいいですから。」と無理を言ってチンしてもらいましたよ。

店員さんからは、おかしなことを言う人だと思われたでしょうね。そのくらい習慣が違うのです。


そして、仮に食べ物にあたっても、飲食店が食中毒で営業停止になることはありません。

ですから店の方も、何の心配もせずに持ち帰り用の袋や入れ物に詰めて渡してくれます。

 

さて、映画の話をしましょう。

一昨日は、「Gangster Squad(L.A.ギャングストーリー)」で、1949年のLAを舞台にした、実在のギャングと警察との抗争物語でした。

アウトロー的な警察官が仲間を集め、ギャングをLAから一掃しようと立ち上がります。

逆襲を受け、仲間を失いながらも、最後にはギャングのボスをやっつけるという、単純明快な勧善懲悪もの

見終わった後、これは「七人の侍」「荒野の七人」と同じだと思いました。


ただ違うのは、殺し方が残虐だと言う点でしょうか。

思わず目を背けたくなるような殺害シーンが多々ありましたね。私は、そういうシーンはあまり好きじゃありません。


昨日は、「The Man with the Iron Fists」というアメリカと香港の合作映画でした。

中国のある村を乗っ取ろうとする一味に対して、そこで鍛冶職人をしていた男や、その一味に父親を殺された青年などが力を合わせて立ち向かうという物語。

そこになぜか色街の女主人と、そこで働くいわゆる売春婦たちが協力します。

その売春婦たちも、なぜか実は忍者のような使い手ばかりで、最後は壮大なバトルになります。

最終的には村を守ろうとした側が勝つという、これも単純明快な勧善懲悪ものでした。


こういった単純なストーリーだと、言葉がわからなくても理解できる点がいいですね。

どちらも音声が英語のタイ語字幕ですから、どちらも私の役には立ちません。

私にわかるのは、映像と声の調子くらいなものですから。(笑)


わかりやすくアクションを楽しめるという意味では、まずまず満足できました。

それに、2人で450バーツ(約1,200円)という安さで、しかもソファーシート(VIP席)でゆったりと観られます。

タイならではのメリットでしょうか。


ただ、最近はこういう勧善懲悪もののストーリーを観ても、あまり感動はしませんね。

あり得ないと感じるからか、面白くないのです。

だって、完全な悪人なんているわけないじゃありませんか。

ギャングにだって愛する人がいたでしょうし、守りたいものがあったはずです。

それをまるで悪魔の化身かのように見せられても、一方的なレッテル貼りのようにしか思えませんよ。

なので、悪役がやられるシーンを観ても、「あの人にも親や妻子がいるかもしれないのになあ。」と想像してしまうのです。


こういう感覚は、思い出してみると、子どもの頃からあったように思います。

それは、月曜8時からの定番ドラマ、「水戸黄門」などを観たときです。

決まって助さんや角さんが悪人たちを懲らしめたあとで、ご隠居がこう言います。

「もういいでしょう。」

それを聞いた助さんか角さんは、懐から印籠を出して高らかにこう言い放ちます。

「ひかえおろー!ここにおわすお方をどなたと存じ上げる?先の中納言、水戸光圀公にあらせられるぞ。ええーい、ひかえい!ひかえおろー!」

そうすると悪人たちは、「へへーっ」と恐れおののいて平伏するのです。


「だったら最初から印籠を出したらいいのに。」

そう思いませんでしたか?私はよくそう思いました。

だって、悪人のボスから命令されて戦い、助さんや角さんに散々痛めつけられる部下たちが、かわいそうじゃありませんか。

あの人たちにだって、奥さんや子どもがいるだろうに。本当は嫌だけど、ボスに逆らえなくて仕方なく戦ったかもしれないのに。

それに、傷めつけられたら反省するというわけでもないし。ただ自分たちが溜飲を下げたいだけでしょう?

それならいっそのこと、「必殺!仕事人」のように悪人を殺してしまった方が、後腐れがなくていい。

そんなふうにも考えたことがありました。


まあでも、殺してしまっても今度は、その子どもなどの身内が仇討ちするという物語もあります。

「あー、こうして殺し合いの連鎖が続くんだなあ。」

子どもながらに考えたこともありました。

豊臣秀吉が、自分に逆らった武将だけでなく、その身内の女子どもまで処刑した気持ちはわかります。

それだけ、復讐されるのが怖かったのです。不安で不安で、仕方なかったのでしょう。


子どもの頃は、それでもまだ勧善懲悪ものを楽しめました。スカッとする気持ちもあったからです。

でも今は、次のことがはっきりわかっているため、それを心から楽しむ気持ちにはなれません。

暴力で自分の価値観を押しつけることは、まったく不毛なこと。

相手は恨むだけだし、その恨みは自分に返ってくるのです。


相手が仮に悪人と呼ばれる人であっても、同じ人間なのです。

そして相手には相手の価値観(正義)があり、それにしたがえば間違ったことはしていないのですから。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:56 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月17日

弱く傷つきやすい男性に捧げるレクイエム

ニュースによると、15年ぶりに自殺者が3万人を下回ったそうです。

それはそれで喜ばしいことなのですが、それでもまだ昨年1年間で約2万8千人もの自殺者がいます。


統計を見ると、それまで2万から2万5千人くらいだった自殺者が、金融不安や景気の悪化によると思われる1998年から急増して3万人を超えたことがわかります。

それからずっと3万人を超えていたのですね。

たしかに3万人というのはすごい数字ですが、私には2万人でもものすごい数字のように思えます。

人口が約半分のタイでは、たしか6千人くらいでしたから。


それに、日本ではかつて交通事故の死者が1万人を超えていた時代があって、そのときマスコミは「交通戦争」だと表現したのです。

年間に1万人以上も人が亡くなるのは、戦争くらいしか考えられなかったからでしょうね。

そういう意味からすれば、いまだに自殺戦争が続いていると言えるのです。

 

統計の数字を見ると、面白いことがわかりますね。

男性の自殺者は、なんと女性の倍以上なのです。

この傾向は、ずっと続いています。

それだけ、男性の方がナイーブで傷つきやすく、もろくて弱いということでしょうか。

一般的には強いというのが男性のイメージですが、私は男性の方が精神的に弱いという意見に同意します。

それは、自分自身のことを考えても、そう思いますから。


そこには、男性に求められるイメージとのギャップが、さらに男性を追い詰めているということがあるかもしれませんね。

男性は強いがために、責任を持たなくてはならない。

一家の大黒柱という言葉は、まさにそういうことでしょう。

そのプレッシャーに耐え切れず、死を選ぶ男性が多いのではないかと思うのです。


そうだとすると、男性は本当にかわいそうだと思います。

太古の時代に女性から権力を奪い取った男性が、その力を誇示するがゆえに、自らを追い詰めてしまった。

皮肉としか言いようがありません。


現代では、弱くて守ってあげなければいけないと思われている女性の方が、実はしたたかに生き延びています。

弱いと思われているのですから、虚勢を張る必要性がないのです。

素直に自分の弱さをさらけだすことができます。


「女はすぐ泣く。泣けば済むと思っているのか!?」

そう言って、責任を逃れようとする女性を非難したことがありました。

私も世間並みに、横暴な男の1人だったのです。


虚勢を張って、思い切り背伸びして生きなければならない自分のことを思うと、すぐに逃げてしまう女性をずるいと感じたのでしょう。

でも本当はただ、うらやましかったのかもしれません。

自分も泣きたい時に泣いて、弱さをさらして生きたかった。

弱い本当の姿を見せることができたら、無理をしなくてもよく、もっと自由になれたのですから。


そう、自由に自分らしい生き方をしたかったのです。

弱くてもいいと言ってほしかった。弱い自分を認めて、受け入れてほしかった。

周りの人が、社会が、そういう自分を受け入れてくれないから、仕方なく強い男を演じざるを得ないのだと感じていました。

でも本当は、私自身が自分を受け入れていなかったのです。


男性のみなさん、もっと素直に自分をさらけ出しませんか?

もう女性から奪い取った権力を守るために、自分の命を削るようなことはやめましょう。

弱くていい。ダメでいい。役立たずでも、グズでも、つまらないヤツでもいい。

私が私であるのが一番なのですから。


他の誰かが賞賛してくれなくても、女性が1人も「すてき」と言ってくれないとしても、そんなこと大したことじゃありません。

自分を失ってしまったら、世界中を手に入れても虚しいものです。


焦って成長する(進歩する)必要などないのです。

背伸びして、虚勢を張って、ハリボテの大きな自分を見せる必要性などないのです。

ありのままの自分を楽しみながら、今できることをやりながら、人生を楽しみましょう。

人生は楽しいものです。そう信じれば、そうなるのですよ。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 19:01 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月18日

暴力を封じるために暴力を用いること

先日の桜宮高校の体罰問題は、さらに大きな問題になっています。

ニュースによると、大阪市の橋下市長が、今春行われる予定の体育科の入試を中止するよう要請したからです。

また、全教員を異動させるべきなど、かなり強硬な対応を市教委に迫っているそうです。

そして、もし入試を中止しないなら予算の執行を停止すると、兵糧攻めの脅しまでかけてきたとか。


ここまで来ると、橋下市長のやっていることも暴力(強制力)と同じではないか、という意見もあるようです。

一方で、このくらいやらないとなかなか変わらないという意見も。

でも、桜宮高校体育科に入りたくて準備してきた受験生はどうなるのでしょうね?

彼らにまで責任を負わせる理屈は、どこかにあるのでしょうか?


どちらが正しいなどと、簡単に言えることでもないし、言うべきことでもありません。

ただ私は、こういう橋下市長のような対応は、これまでの社会が繰り返してきたことだ、と思っています。

その最たるものが、犯罪者に死刑などの処罰を与えることでしょう。

死刑は「国家による殺人」とも言われますが、別に死刑に限らないと思います。

何らかの処罰を与えるということは、強制力を発揮して、他の誰かの考えを否定し、特定の価値観を押し付けようとする行為だと思うのです。

いわば、暴力を封じるために暴力を用いることです。


しかし、もしその暴力が、単に特定の価値観を押しつけるためだけで終わってしまったら、その目論見は成功しないと思います。

なぜなら、人は自由だし、その人の価値観において間違ったことはしないからです。

戦いに敗れたからといって、相手に完全に屈服するわけではありません。

屈服したふりをするかもしれませんが、心の中では、いつか仕返しをしてやろうと考えます。

もし相手にそういう思いを抱かせるとしたら、その仕返しに対しても備えなければならず、社会は永遠に平和にはならないでしょう。


おそらく、体罰を与えることが本当に良いことだとは、誰も考えていなかったと思います。

「他に方法がないし、仕方がなかったんだ。」というように、与えられた状況の中でベストを尽くしたと考えていたのだと思うのです。

それを頭ごなしに否定されても、その人たちは納得しないでしょうね。


私自身は、体罰が必要だなどとはまったく思いません。

それは先日の記事「体罰は愛情か?」でも書きましたし、メルマガ「SJ通信」でも「教育に体罰が必要か?」と題して書いたとおりです。

しかし、体罰をやってきた人や容認してきた人たちを処罰すれば、すべてが解決するとも思いません。

いくら罰を与え、罪悪感を抱かせたとしても、その価値観が本来の目的に合わないのだと理解しない限り、この問題は解決しないと思うからです。


今はまだ、体罰は「暴力だからダメ」で終わっています。

だから、「暴力が必要なこともあるのではないか?」という疑問に答えられずにいます。

その疑問に答えないから、「最善でないとしても、暴力を使った方が効果的かもしれない。」という考えを変えられないのです。

そして、橋下市長がやろうとしているように強権を発動することは、「何かを絶対にやろうとすれば、暴力を振るうことも必要だ。」というメッセージを送ることになるでしょう。

それが肉体的に苦痛を与える暴力でないとしても、精神的に追い詰める暴力は問題ないのだと。


私は、無理して強権的に何かをさせる必要性はないと思うのです。

それぞれの人にそれぞれの価値観があり、そしてそれは、その人にとっては正しいのです。

ですから、その人自身が価値観を変えようとしない限り、どんな強制的な試みも失敗に終わるでしょう。

ならば、強制しても意味がないのですから、やらない方が良いと思います。


それよりも、もっとオープンにして、それぞれの価値観を検証し合える場を作ったらどうでしょうか?

閉じた世界にいるから、自分が持つ価値観を検証することもできないのです。

批判や非難をするのではなく、ただオープンにそれぞれの価値観を披露する。隠されることがなく、いつでも周りから見えるように透明化するのです。

それだけでも、随分と違ってくると思いますよ。


あの事件の後、元巨人軍の桑田真澄さんが、自らの体験から、体罰を受けた小中学校の頃より、受けなかった高校の頃の方が成長したと語っていました。

また多くのスポーツの指導者が、選手を強制するよりも、共感することの方が選手が伸びると言っています。

そういう考え方や価値観は、これまであまりオープンにされず、注目されて来なかったのではないでしょうか。


強制より共感を。

それは選手を伸ばすための指導方法としてだけでなく、社会を発展させるためにも有効だと、私は思います。

もちろんそれがベストではないかもしれないし、他の考え方もあるでしょう。

それも含めて、批判することも批判されることもなく、ただ自分の価値観を検証できる仕組があればと思うのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:58 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月19日

心配してくれる母への手紙

今日、田舎の母から手紙が届きました。

と言っても、母が手書きで書いた手紙を父がスキャンして、その画像をメールで送ってくれたのですけどね。

私からは、メールで返事を出しました。

これを父が印刷して、また母に見せてくれるのでしょう。


私は、自分のことをあまり隠さずに知らせるので、会社のことで困っていることなども正直に伝えています。

するとそれを知った母が、心配してくれたのです。

私は常々、「心配は要らない」ということを話しています。

なんとかなるし、なんともならないとしても、それは私にとって良いことだと思うからです。


田舎には、ネット通販で買ったものを、ときどき送っています。

今回も、父が好きなウニと、母が好きなイクラを買って送りました。

日本で行うべき様々なことを、父が代行してやってくれるので、そのお礼の意味もあります。

そういうことに対しても、母は「気を使わなくていいから」と、あまり送らないようにと言います。

それは子どもに対する優しさであると同時に、心配症の母の性格の表れでもあると思うのです。

だから私はいつも、「心配しないでいいから」と母に言うのです。


今日、私が母に送った返事を、以下に載せます。

 

お母さん、こんにちは。

手紙を読みました。


もうおわかりでしょうけど、心配は要りませんよ。
今の私にできることをするだけです。
できなくなったらやめるだけ。

それをいつまでも「やらなければならない」というように、必要性にかられるから心配が出てくるのです。

北海道旅行も、行けるのだから、行っておこうと思うだけです。
先のことが不安だったら行けないでしょうね。

でもそういう不安を抱く人は、明日にも死ぬかもしれないことは、すっかり忘れているのでしょうね。

できるときにできることをやっておく。
それだけのことです。


お金がなくなれば、ないなりに生活すれば良いのだし、もしそれでどうしても食べることさえできなくなるなら、そのときは飢えて死ぬだけのことではありませんか。

死ぬことは、まったく怖くありません。
死は終わりではないし、辛いことでも悲しむべきことでもないと思いますから。

誰かがインスピレーションを感じて書いた「1000の風になって」という詩は、まさにそのことを語っているではありませんか。


それに、生まれる時でさえ、親はもちろん、環境や肉体的な条件なども、自分で選んで生まれてきます。

いんやく・りおくんの、「自分をえらんで生まれてきたよ」という本にも、そのことが書かれています。


もしそうなら、どうして自分の死を、自分で選ばないことがあるでしょうか。


もちろんそれは精神で選ぶ(=自殺)という意味ではなく、魂が選ぶという意味です。

この世でやるべきことがすべて完了した時、魂は自分で去ることを決めるのです。
それが餓死であっても、それは魂のお膳立て。


この世で起こることはすべて必然で、無駄なことは1つもありません。

ですから、餓死するような環境であっても、それは魂が自分のために用意したありがたい環境だと思うのです。

だから、別の何かを望む必要性もないのです。
ただありがたく受取り、その中で自分がどうするかを考えるだけ。


孔子も言ってますよね。
君子だって困窮することはあると。

ただ小人は、困窮した時にあわてふためいて自分を見失ってしまうが、君子は、そういうときでもしっかりと自分らしく生きることができる。


そのためには、必要性を減らす(なくす)ことだし、すなわち執着しないということなのです。

執着しなければ、どんな状況でも自分らしくいられるし、自分らしいということが愛ならば、完全な愛を表現できるということです。

世界中の宗教が言ってきたことは、ここですべて一致します。


どんな環境でも、どんな条件でも、それは自分のためのお膳立て。
自分が自分らしさを表現して生きるための舞台です。

それがわかれば、感謝するなと言われても、感謝せざるを得ないでしょう。
敵を愛するなと言われても、愛さざるを得ないでしょう。

そもそも敵などというものはいないからです。
自分のために最適な条件を作り出してくれる協力者であり、そのために使わされた天使がいるだけなのです。


視点を変えれば見方が変わり、見方が変われば考えが変わり、考えが変われば、出来事に対する感情が変わります。

ただ視点を変えるだけで、それが可能になります。

ブッダが悟りに至る八正道を示し、その第一に正見というのがあるのも、まさにそのことだと思っています。

 

また長くなりました。

だから私は、自分のことはもちろん、他の人のことも、究極の意味では何も心配していません。

すべては完璧に存在しているし、完璧に行われているのですから。


このことを、お母さんにわかってもらいたくて、いつも長々とメールを書いてしまいます。

そうすれば、お母さんの重荷を降ろしてあげられるから。
不安から解き放ち、絶対安心の中で幸せでいられるから。

幸せになるには、何の条件も要りません。
そのこと、つまり必要性がないことに気づけば、今すぐその場で幸せになれるのです。

晴れれば晴れを喜び、雨なら雨を喜ぶ。
貧乏なら貧乏を喜び、病気なら病気を喜ぶ。
すべては自分のためにあり、自分らしく生きるための舞台だから。

相田みつをさんが、「しあわせは いつも自分の こころがきめる」と言っていますが、それもこのことです。

でも、それを受け入れるかどうかを決めるのは、お母さん自身です。

人は自由ですから。

誰かや環境のせいにするのも、その人の自由です。
すべては、その人がどういう視点を選ぶかで決まるのです。


 篤より


 

最近ずっと、「神との対話」シリーズを読んでいます。これはもう日課ですね。

今日、これまで読んでいた「神へ帰る」を読み終えました。

人の死について、死後の世界について書かれています。

この「神へ帰る」までの9冊が、著者のニールが神と対話する形で書かれる最後の本になるのだそうです。

そういう意味では、「神との対話」シリーズは、ここまでの9冊ということになるかもしれません。


今日から、その次に発行された「神が望むこと」を読み始めました。

神が望むこと

これは著者のニールが、自分の言葉で語っているものですが、これまでのシリーズの総集編のような感じになっています。

これまでの神に対する信念を総点検し、他の可能性があることを受け入れられないかと問うものになっています。

これまでの本とは、明らかに違う感じがします。

でも、頭の整理をする上では、こういうのも良いかと思って読んでいるところです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 17:00 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月21日

バンコク周辺の観光オススメ

バンコクの中心部から1時間ほどで、隣のチャチューンサオ県に到着します。

日本からお客様が来られたので、一緒に観光旅行をしました。

どこか面白いところをお探しの方、タイにはどんなところがあるのか興味がある方、参考までにご覧ください。


大きな地図で見る


最初に行ったのは、100年市場とも呼ばれる古い市場です。

100年市場

タイには昔から市場があり、それは近代化された現代でも数多く残っています。

ここの建物はかなり古く、風情が感じられますね。

チャチューンサオには、このような古い市場が他に2つあるそうです。


続いて、一時期、タイ最大(現在は2位)と言われたガネーシャ像を観に行きました。

しかし、入場しようと並ぶ車が長蛇の列で、これでは入場するまでに30分以上はかかりそうだと判断してあきらめました。

ピンク色をして、横になったガネーシャです。

ガネーシャというのは、「夢をかなえるゾウ」という本で、すでによく知られていると思いますが、象の顔をしたヒンズー教の神様です。

「タイってヒンズー教も盛んなの?」

そう思われるかもしれませんが、そんなことはありません。タイ人の90%は仏教徒で、5%がイスラム教徒、残りの5%がキリスト教徒などになってますから。

「では、なぜ?」

おそらく、タイ人は象が好きで、ご利益(りやく)のあるものが好きだからでしょう。いわばご利益ビジネスですね。


ガネーシャ像を観られなくて残念と思ったら、近くに建設中のガネーシャ立像があるとのことで、そちらへ行ってみました。

ガネーシャ立像

ガネーシャ立像としては世界最大だそうです。ただ、観られなかったガネーシャ像の方が大きいとか。

こちらはまだコンクリートも打ちっぱなしで、まさに建設中でした。それでも入場できてしまうのが、いかにもタイらしいです。

ガネーシャ立像

近くには、ガネーシャ立像のミニチュア版がありました。

大勢の人がお参りしたようで、黒っぽかったはずの身体が、貼られた金箔で金色になっていました。

お参りのための線香や花、金箔などは、この近くで売られています。

これが完成したら、また大勢の人が集まるのでしょうね。


続いて行ったのは、水上マーケットです。

水上マーケット

割りと近代的な感じで風情はありませんが、かなり大きなものです。

水の上で食事をしたり買い物をするというスタイルは、タイ人に好まれるのでしょうね。

ここでは、大きなイカダのようなスペースにテーブルが置かれていて、客はそこで食事をしたりします。

そのイカダの周りに、写真のように食べ物を販売する船がつけられていて、そこで買うというシステムです。

イカダの中にも販売店があり、お土産やら果物やら売っています。

このイカダが丸太とかなら風情があるのでしょうけど、フロートの上に鉄板を敷いたような近代的なもの。

こうなると、別に水の上でなくてもいいじゃないかと言いたくなりますが、やはり涼しげなのが良いのでしょう。


最後は、コウモリ寺です。

街なかにあるお寺なのですが、なぜかこのお寺の木にだけ、大きなコウモリがたくさん集まってくるのです。

大きなコウモリ

わかりますか?

樹の枝からたくさんぶら下がっているようなもの、一つひとつがコウモリです。

けっこう大きなコウモリで、ギャーギャーとうるさいくらいに鳴いていました。

わかりやすく1匹を大きくした写真を載せておきましょう。

大きなコウモリ

寺の敷地内には鶏が放し飼いにされていて、りっぱな雄鶏がたくさんいました。

もちろん、どこの寺にでもいる犬も、何匹もいましたね。

それと、大きな亀がたくさんいる池もあります。

裏手はバンパコン川になっていて、餌をやるとナマズの仲間の魚がたくさんやってきます。

動物を見て楽しめるお寺ですが、コウモリの糞にはお気をつけください。

 

この日は、朝9時にバンコク中心部を出発し、往復4時間くらいの半日ツアーとなりました。

チャチューンサオはバンコクから東へ進むのですが、逆に西の方に向かっても面白いところがあります。

ついでですから、こちらの旅行についてもお話しましょう。

 

昨年の1月に旅行したのですが、そのときはまずホイ・ロートという潮干狩りで有名なところへ行き、海辺のレストランで食事をしました。

そこから北上して、電車の線路内にある市場へ行きました。これも有名ですよね。

電車の線路内にある市場 電車の線路内にある市場

折りたたみ式の日除けが線路の上を覆っています。

その下に市場があるのです。お店は線路脇になりますが、客が通るところは線路の上ですし、商品の一部も軌道敷内に置かれています。

そこに電車がやってくると、飛び出している商品を片づけ、日除けをたたみ、客はお店の空きスペースに避難します。

相当な勢いで駅に入ってくるのですが、この日は線路内で寝ているおじさんがいたため、電車が直前で停止してしまいました。

電車が入ってくる時間に合わせていくと、スリルを味わえると思いますよ。


その後、これまたコウモリ寺へ行きました。

こちらのコウモリは小さいのですが、数が半端じゃありません。

コウモリ寺

夕方6時くらいになると、洞窟の中からコウモリが飛び出してきます。

その無数のコウモリが、まるで空をうねって飛ぶ龍のように見えるのです。

コウモリ寺

いったいどれだけのコウモリが洞窟の中に入っていたのかと思います。

中には、「いったん飛び出したコウモリが、山の裏手からまた戻ってきているのではないか?」と疑う人もいるくらいです。

それくらい、ひっきりなしにコウモリが飛び出してきて、龍のように空をうねり、最後はバラバラになっていくのです。

こんな光景が、暗くなるまで1時間は続いているでしょうか。

この日も1時間近く眺めていましたが、まだぜんぜん終わりそうもありません。

さすがに暗くなり始めたので、帰ることにしました。


近くには他に、無数のホタルが飛び交う場所もありますし、山上にある中国風(道教風)のお寺もあります。

距離があるのとコウモリは夕方なので、1日がかりになってしまいますが、こちらも楽しめますよ。

ツアーもあるようですが、レンタカーをチャーターして、プライベートで回ることもできます。

バンコクに来られたときは、どうぞこういった周辺の名所もご覧になってくださいね。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 14:40 | Comment(0) | └ タイのお役立ち情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月22日

アルジェリアの人質事件に思う

また、悲しい事件が起こりました。

アルジェリアの人質事件で、日本人が何人も亡くなられたというニュースです。

亡くなられた日本人は7人とも10人とも報道されていますが、ご冥福をお祈りしたいと思います。


犯人グループは、イスラム過激派と言われています。

隣国マリのイスラム反政府勢力に対し、フランス軍が攻撃を加えたことで、それをやめさせる目的だとの報道もありました。

ただ、周到な準備をしていたことがわかってきたため、今回のフランス軍の行動に対する抗議が直接の動機ではなく、以前からある、イスラム教勢力対キリスト教勢力(西洋先進諸国)の対立によるものと思われます。


私は以前、「宗教はアヘンですか?」と題して、既存の宗教の問題点を指摘しました。

つまり、オウム真理教やイスラム教だけが危険な思想というわけではなく、キリスト教も仏教も同じだという指摘です。

なぜなら、永遠の生命というものを肯定した時点で、この世の命よりも重要なものがあるという価値観を肯定することにつながるからです。

そして、宗教指導者が意思決定し、それに従わなければその宗教の最高権威である神(仏)に反するとされるなら、他者の命を奪うことなど平気でできるからです。



実際、キリスト教は200年に渡る十字軍遠征でイスラム教徒を虐殺し、諸々のものを奪い取り、女性を犯してきた歴史があります。

「神がそう命じた」と、宗教指導者が言ったからです。

それと同じことを、今はイスラム教徒が行なっているだけです。

ユダヤ教徒も同じです。

何千年か前に自分たちの祖先が住んでいたという記録だけを根拠に、すでにその地に千年に渡って住んでいた民族を辺境に押しやり、二流国民として扱い、虐げています。

これも「神がそう命じた」と、宗教指導者が言ったからです。


仏教とて例外ではありません。

日本国内においても仏教勢力が力を持ち、政治に口出しするようになり、力づくで自分たちの意を通そうとした歴史があります。

神道だって同じことです。

利用されただけと言うかもしれませんが、天皇陛下は現人神(あらひとがみ)でした。

神の命令で戦争に行って、神国日本を守るために戦い、敵兵や市民を殺したのでしょう。


もちろん、どの戦いにおいても、「自分たちは守ろうとしただけだ」という理屈はあります。

それも1つの見方です。

でもそれと同時に、絶対なる神(仏)という権力の命ずるがままに、暴力や殺害を繰り返してきている、と見ることもできるのです。

 

「もう、こんなのはいやだ。うんざりだ。何とかしたい。」

多くの人が、そう考え始めています。

何のために、こんな愚かなことを繰り返さなければならないのでしょうか?


でも、この不毛な争いをやめるためには、私たちの信念を変える必要があります。

新たな信念は、こういうものです。

「神は、何も望まない。」


この一言で世界中が変わると言ったら、あなたは驚くかもしれません。

そんな簡単なわけがないと、不審に思うかもしれません。

けれども、理屈で考えると、これで世界が変わるのです。


なぜなら、「神が何も望まない」としたら、「神が何かを命じた」という言い訳ができなくなるからです。

神が人間にある特定の考え方を持つことを要求したり、特定の行動をとることを要求しないとするなら、何も命令することがないはずだからです。

神は「戦え」とは言わないし、「殺せ」とも言わない。

もちろん「望まない」のですから、命令だけではありません。

人間が神の意を汲んだ特定の考え方や行動を選択したからという理由で、神が喜ぶということもないのです。

したがって、神の意に添うことをすれば天国へ行き、神の倫理にしたがわないなら地獄へ行くということもありません。

神は人に、完全なる自由を与えた。自分で自由に考えられるようにした。何を良いと言うのか、何を悪いとするのか、それぞれの人が自由に決められるようにした。

何かを考えたからと言って、何かをしたからと言って、罰を与えられることがない。

そういう完全な自由こそが、人の本質なのです。


もしこの信念を人々が受け入れるなら、宗教指導者は力を失うでしょう。

人々はもう、宗教指導者にお伺いを立てる必要性がないからです。

「女性は高等教育を受けても良いのでしょうか?」「金曜日に肉を食べても良いのでしょうか?」「日曜日の礼拝に参加しないと、何か悪いことが起こりますか?」「改宗すると地獄に落ちるのでしょうか?」

天国というアメと、地獄というムチによって、人々を従順にしてきたのが宗教であり、宗教指導者たちでした。

その権威が崩壊し、宗教は新しいものとして生まれ変わらざるを得ないでしょう。


これは何も、宗教だけの問題ではありません。

私たちの信念の問題だからです。

私たちが無意識に何かが必要だと考えていること。それが私たちの信念です。

その信念のために、宗教教義は相互補完的に使われてきたとも言えるのです。

無宗教に近くなった日本人は、最近は「仏罰(バチ)が当たる」とか「神罰が降る」と言う代わりに、「非常識だ」とか「空気を読め」と言って、暗に大多数という神格化された存在に帰依することを求めているようです。

自分以外の何かに権威を与え、それに従わなければ罰せられ、従えば恩恵が受けられるとする考えが、私たちの信念になっているのです。


今、私たちは、この信念を変えられるかどうか、という課題に直面しています。

アルジェリアのテロの問題に限らず、重要な多くの問題が、この課題によるものだと思うのです。


もちろん、だから今すぐ武器を放棄して丸裸になりなさいと、要求しているわけではありません。

そんなことをしても、おそらくは変わらないと思うからです。

そうではなく、私たちの信念を変えるようにしませんか。

具体的には、必要性を少しずつ減らしていくことです。

どうでもよいと思えることから順に、必要性を好みに変えるのです。


そんな個人の変化が、どうして世界の変化につながるのかと、いぶかられるかもしれません。

けれども、どんな小さな変化であっても、世界に伝わらないものはないはずです。

なぜなら、私たちは「ひとつのもの」なのですから。

時空によって隔たれているというのは幻想で、本質的にはひとつのもの。

それは潜在意識がつながっているのと、同じことを言っています。

私たちの本質が「ひとつのもの」でつながっているなら、どうして個人の変化が全体に影響しないなどと言えるでしょうか。

「何もできないちっぽけな人間だ」などと自己卑下する暇があったら、もっと自分を愛して大切に扱いませんか?

本質的にはつまらない人間や無価値な人間など、たった1人もいないのですから。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 11:55 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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