年が明け、2013年になりました。
みなさん、明けましておめでとうございます。
今年は、どんな年にしていきますか?
ぜひ、自分で自分の人生を意識的に創造する年にしてほしいと思います。
今年の最初は、「直感で行動する」ことの勧めです。
直感(第六感)というのは、使えば使うほど鍛えられるものだそうです。
「そんな自分は普通の人間だし、超能力なんて持ってないよ。」
そう自己卑下したい気持ちはわかります。私もそうでしたから。
でも時には、直感というものがあるんだと、思わざるを得ないことを経験しました。
たとえば、どうしても解けない問題にぶち当たった時も、なんとなく「解けるはず」と思っていると、ふと考えることを放棄した瞬間に答が浮かぶということがありました。
IT関係の仕事でプログラマーをしていたのですが、どうすればそのやりたいことをプログラムにできるかがわからなかったのです。
1日うんうんと頭を捻ってもわかりませんでした。
それが帰宅時の電車の中で、座席に座ってボーっとしていたとき、突然答が浮かんだのです。
「あれっ、こうすれば上手く行くんじゃないの?」
家に帰って、順を追って可能かどうか精査すると、まさにそれで解決できたのです。
また、以前にも書きましたが、漢文の試験で白居易(=白楽天)に関する文章だとわかった途端、すらすらと問題が解けた経験がありました。
これなども、最初にその問題を読んでちんぷんかんぷんだったのに、私の中では解けるはずだと感じていたのです。
数学の問題では、そういうことはしょっちゅうでした。
一度目では半分も解けない試験問題ですが、パニックになったことはありません。
しっかり取り組めば解けるはずだと、なぜかそう思っていたのです。
もちろんそれですべてが解けたわけではありませんが、解けることが多かったため、そのことがさらに自信へとつながりました。
このように、なぜかわからないけど「こうだ」と感じることがあったとき、理性でそれを否定しないことが重要です。
特に習慣的に「自分はダメだから」と自己卑下する癖は、自分の能力をわざわざ発揮させないようにしているのと同じです。
そんなもったいないことは、ぜひやめてほしいものです。
そういう人は、実は失敗したいのです。
その理由はよくわかります。私もそうでしたから。それは、最初から失敗すると言っておけば、失敗した時のショックを緩和できるからです。
「ほら、やっぱり無理でしょう。」
そう言いたいのです。できるとか、できるかもしれないと思って取り組んだとき、もしできなかったら、自分が潰れそうなくらい苦しいのです。
そう思っただけで、不安で不安でたまらないのです。
だから最初から自分の能力を低く示し、失敗することを予想するのです。
でも、それでは本来の自分を見失ってしまいます。
なぜなら、あなたは本当は素晴らしい存在だからです。
未知の能力にあふれているからです。
「いやいや、そんなにすごい能力はないよ。学校の成績も悪いし、運動神経もないし、格好だって良くない。」
そう思うとしたら、完全に他人の考えに洗脳されています。
能力というのは、学校の試験で測れるものではありませんし、運動神経だけでもないし、見た目の格好だけでもありません。
花を見て美しいと思う心が、素晴らしい音楽や詩を生み出すかもしれません。
あるいは、あなたが語った何気ない一言が、誰かの命を救うかもしれません。
仮に99年生きて何も残さなかったとしても、残りの1年の人生で、歴史に残る名画を描き上げる可能性もあるのです。
可能性はいつでも開かれています。
仮に目が見えなくても、手足が不自由でも、そういったハンディーがあっても、いえハンディーがあるが故に、あなたにはあなたにしかできない能力を秘めていると言えるのです。
ですから、自分の可能性を信じてください。
今は誰からも認められないとしても、あなただけは、あなた自身の可能性を認めてください。
そうすると、直感力が働くようになります。
直感力と言うと、読む本を選ぶときなどにも発揮されます。
書店や図書館で、特に何かを探しているわけではないときなど、ふとある本に目が止まることがあります。
そしてその本を手に取り、パラパラとめくってみる。
なぜかわからないけど、この本を読むべきだと感じる。そこまで行かなくても、なぜか気になる。
そんなとき、思い切ってその本を買ってみましょう。図書館なら借りてみましょう。
そういうことをしていると、だんだんと直感が冴えてきます。
何か気になる気がしたときの本は、読んでみると「まさに自分が必要としていた本だ」と感じることが多くなってきます。
書籍代など安いものです。
月に1冊か2冊の単行本を買うくらいの自己投資は、大切な自分のためにもやってほしいと思います。
私も年末年始の休暇中に、3冊の本を読みました。
12月半ばに取り寄せた6冊の本を、これですべて読んだことになります。
どれもこれも、私にとって大切なことを教えてくれるものでした。
またおいおい、このブログでも紹介していくことになると思います。
私が紹介する本に限らず、自分が「これはいいな」と感じた本は、ぜひ買って読んでみましょう。
本ほど安い自己投資はないのですから。
2013年01月03日
2013年01月04日
稼ぎたければ、働くな。
こういう逆説、大好きですね。
タイトルを見ただけで、「えぇっ!?」て思いますから。
でも、この著者の山田昭男氏が作った未来工業という会社では、休暇もたっぷりあるし、残業も禁止しているのだとか。
「それでどうやって儲かるの?」
その秘密を知りたくて、この本を読んでみました。
その秘密は、どうやら社員のポテンシャルをあげることにあるようです。
一般の会社で必須と言われる報連相(ホウ・レン・ソウ)も、この会社ではご法度だとか。
その真意は、自分の頭で考えろと言うこと。
報告や連絡、相談というのは、責任逃れになるため、自分の頭で考えなくなると言うのです。
たしかに、そういう面はあるかもしれませんね。
また、アイデアを出させて、それに500円の賞金を出すというのもありました。
日本の会社の97%は儲かっていないのだから、他の会社と同じことはするなというのが、著者のモットーのようです。
常識は疑ってかかれ。そう公言して、実際にお歳暮やお中元を廃止するとか、営業マンにノルマを課さないなど、常識外れの経営方法がたくさん出てきます。
でも、それも一つひとつ理にかなっています。著者のポリシーからすれば、その方が当然というわけです。
目からうろこが何枚も落ちた気がします。
私も経営者の端くれですから、大いに参考にさせていただこうと思います。
2013年01月05日
減速して生きる ダウンシフターズ
この著者のことは、宮崎中央新聞の紙面で知りました。
親子3人が年収300万円くらいで豊かな生活ができ、なおかつ貯金もできるというのです。
私も、経済は拡大するのが良いという考えに、少し疑問を持っていました。
拡大し続けなければ幸せでいられないという価値観が、今の日本の閉塞感を生み出していると思うからです。
実際、タイの経済規模は、日本と比べるとはるかに低いです。
それにも関わらず、タイの経済は好調で、人々は元気です。活き活きとしています。
もしそれが、経済が拡大することが条件だとすると、永遠に拡大し続けなければならないことになります。
100を10%拡大するには10増やすだけで良いのですが、10000を10%拡大するには、1000増やさないといけません。
つまり、拡大すればするほど、拡大する量が増えるため、それは困難になるのです。
それが本当に、私たちが目指すべき未来なのか?
その疑問に対する答を得たくて、この本を読んでみました。
著者の高坂勝氏は、池袋で「たまにはTSUKIでも眺めましょ」という居酒屋を営んでいます。
1日に5人の客がくれば良いからと、週休2日で営業していましたが、儲けすぎているために休みをさらに増やして、週休3日にするのだとか。
米と大豆を自給し、半農半Xを実現しています。
このXには、「居酒屋のおやじ」でもいいし、「書道家」でも「陶芸家」でも何でも良いのだそうです。
つまり、半農で自給の基盤を築くことで、残りの半Xでは好きなことをやることができ、そこでは人間性を失うほどの所得を求める必要性がなくなるというわけです。
「足るを知る」という言葉がありますが、これだけあれば十分という出口を決めることで、入り口の所得をいくらにするかを考えるという発想は、「お金持ちの「投資家脳」、貧乏人の「労働脳」」にあった世野(せや)いっせい氏の考え方と似ています。
スモール化することで環境にやさしい生活が可能になる。
お金をかけずに時間をかけることで生活が豊かになる。
もっともっとという考えを捨て、ダウンシフトする生き方を選択する人をダウンシフターズと呼ぶのだとか。
生き方の新たなモデルとして、とても参考になりました。
チャンスはピンチの顔をしてやってくる
「ピンチはチャンスだ」とよく言います。
たしかに何か悪いことが起こっても、それをバネにして大きく成長するということはよくあります。
何度も書いていますが、松下幸之助氏は、自分が成功できた要因は、「学歴、金、健康の3つがなかったからだ」と言っています。
また帝王学では、大人物になるには大病、貧乏(倒産)、収監の3つの経験が必要だと言います。
このように、人生における大ピンチという経験が、実は大チャンスになるのだと、多くの人が言っているのです。
私が読んでいる「神との対話」シリーズの8冊目、「明日の神」にも、次のように書かれています。
ちょっと長いですが、引用しましょう。
「生命/人生が「どっちを選んでもひどい選択肢」を突きつけるのは、あなたが真の自分を経験するうえで大きな突破口に差しかかっているときだ。そのことを、いつも忘れないように。」
「厳しい選択肢が生まれ、それに直面しなければならないというのは、つねにあなたの魂が身体を通じてあなたの精神に、さあ、真の自分という全体性に向かって「飛躍」するときだよ、と告げているのだよ。」
「じつは、そういうときの選択は「ひどい」ものではなくて、ただ危機的だというだけなのだ。あなたがたはたぶん、生涯で六回から七回くらい、そのような危機的な選択ポイントに立つだろう。両手で数えられるくらいだろうな。」
「危機的選択ポイントに、ようこそ。しりごみをしてはいけない。これは飛躍的に進歩できる、めったにないすばらしいチャンスなのだ。こういうチャンスはいつだって、人生で最高の祝福だよ。」
(p.390-391)
どうにもならないひどい状況が人生で起こったとき、それは魂が、飛躍のチャンスを与えてくれているのだと言うのです。
考えてみれば、そのことの正しさがわかります。
どうにもならない状況というのは、何を選択しても上手くいかないように見えるわけですから、簡単に諦めることができます。
だって、何を選択してもひどいのでしょう?
だから開き直れるのです。
たとえば日本が戦後に奇跡的な復興ができたのも、ある意味で、戦争によって何もかも失ったからだと思うのです。
戦争で負けたのですから、しょうがないじゃありませんか。
そこで私たちのご先祖様たちは、意気消沈して何もしなかったのではありません。
そういう心を癒す時間が過ぎたあとは、開き直って力強く生きたのです。
だから、今の日本の繁栄があるのだと思います。
会社が倒産したとき、どうしようもありませんよね。
交通事故などで大怪我したとき、今さら元に戻せないでしょう。
仮に冤罪であっても、有罪とされて収監されたら、その時間は取り戻せません。
そういうひどい状況であっても、いや、ひどい状況だからこそ、すべてを捨てて開き直れるのです。
すべてを捨てるとは、どういうことかわかりますよね?
そう、私がいつも言っている「必要性をなくす」ということです。
だって捨てるしかないのですから、必要とかどうとか言うのもバカバカしい話です。
つまり、苦労しなくても必要性を捨てられる状況というのが、ピンチの時なのです。
そして必要性を捨てたとき、生き方の選択条件は何でしょうか?
そこがポイントです。
チャンスをつかめるかどうかの、重大なポイントなのです。
そのとき、もう得られないとわかっている何かを、捨てきれずに執着してしまうのが小人です。
そのことを孔子はこう言っています。
「子曰、君子固窮」(子曰く、君子もとより窮す)
君子(大人物)でも困窮することはあるさ、と言うわけです。
ただし、君子は困窮しても混乱しないが、小人は狼狽して自分を見失ってしまうのだと続けて言います。
これもブログに「君子困窮」として書いたので、そちらをご覧ください。
もうわかりましたね?
その選択の条件とは、「自分らしさ」なのです。
「自分とは何ものか?」という問の答えです。
五稜郭に立てこもって最後の抵抗をした榎本武揚は、これが最後の決戦と腹を決めたとき、自分が持っている国際法の書物「海律全書」を官軍側に渡しました。
その書物が、今後の日本にとって重要なものだと考えたからです。
「もう明日は死ぬしかない。自分の夢は敗れた。」
その絶体絶命のピンチにあっても、榎本は自分を見失わなかったのです。
だから明治維新後、周囲の助けもあって、新政府に出仕することになりました。
自分の力では果たせなかった新しい日本を創るという夢が、思わぬ計らいでできるようになったのです。
一方、織田信長に攻められた松永弾正は、名器と言われた茶壷の土蜘蛛を渡すのを拒み、そこに火薬を詰めて爆死しました。
「信長なんぞに渡してなるものか!」
名器を人類の宝と考えず、単に自分の私物としか思わなかった。
榎本と松永のどっちの人物が大きいか、言わずもがなのことだと思います。
過去の歴史を見ても、昔から多くの人が言ってきたことを見ても、結論は同じです。
「冬来たりなば春遠からじ」
「陰極まれば陽に転ず」
「夜明け前が一番暗い」
「人間万事塞翁が馬」
すべて同じことを言っています。
「人生におけるチャンスは、ピンチの顔をしてやってくる。」
だから、ピンチの時は慌てふためかず、ほくそ笑みながら迎えてほしい。
就活で何十社から断られたとき、何年も引きこもっていて抜け出せないとき、婚活で100人から拒否されたとき、最愛の伴侶が浮気をしていると知ったとき、妻から一方的に離婚を迫られたとき、突然リストラされたとき、莫大な借金を背負って会社が倒産したとき、交通事故で寝たきり状態になったとき、不治の病と診断されたとき、愛する人の命が理不尽に奪われたとき、生きる希望を見失いそうなとき...
その暗闇が果てしない底なし沼に思えるときに、この質問を思い出してほしい。
「それで、どうするのが自分らしいのか?」
あなたは、どのくらい大きくて素晴らしい自分を表現できるでしょうか?
榎本武揚のように生きられるでしょうか?
それとも、松永弾正のように小さな自分をさらすのでしょうか?
それを、無数の生命が見守っています。
あなたが、かつてないほど大きな自分を選択したとき、見守っていた生命たちは歓喜の声を上げることでしょう。
あなたの選択が、生命に偉大な経験を与えてくれたからです。
そして、それこそが生命の目的だからです。
私たちは、ともに、あまりに現実的な空想の冒険劇を楽しんでいるのです。
※以前に書いた記事「ピンチはチャンスとよく言いますが」も参考にどうぞ。
たしかに何か悪いことが起こっても、それをバネにして大きく成長するということはよくあります。
何度も書いていますが、松下幸之助氏は、自分が成功できた要因は、「学歴、金、健康の3つがなかったからだ」と言っています。
また帝王学では、大人物になるには大病、貧乏(倒産)、収監の3つの経験が必要だと言います。
このように、人生における大ピンチという経験が、実は大チャンスになるのだと、多くの人が言っているのです。
私が読んでいる「神との対話」シリーズの8冊目、「明日の神」にも、次のように書かれています。
ちょっと長いですが、引用しましょう。
「生命/人生が「どっちを選んでもひどい選択肢」を突きつけるのは、あなたが真の自分を経験するうえで大きな突破口に差しかかっているときだ。そのことを、いつも忘れないように。」
「厳しい選択肢が生まれ、それに直面しなければならないというのは、つねにあなたの魂が身体を通じてあなたの精神に、さあ、真の自分という全体性に向かって「飛躍」するときだよ、と告げているのだよ。」
「じつは、そういうときの選択は「ひどい」ものではなくて、ただ危機的だというだけなのだ。あなたがたはたぶん、生涯で六回から七回くらい、そのような危機的な選択ポイントに立つだろう。両手で数えられるくらいだろうな。」
「危機的選択ポイントに、ようこそ。しりごみをしてはいけない。これは飛躍的に進歩できる、めったにないすばらしいチャンスなのだ。こういうチャンスはいつだって、人生で最高の祝福だよ。」
(p.390-391)
どうにもならないひどい状況が人生で起こったとき、それは魂が、飛躍のチャンスを与えてくれているのだと言うのです。
考えてみれば、そのことの正しさがわかります。
どうにもならない状況というのは、何を選択しても上手くいかないように見えるわけですから、簡単に諦めることができます。
だって、何を選択してもひどいのでしょう?
だから開き直れるのです。
たとえば日本が戦後に奇跡的な復興ができたのも、ある意味で、戦争によって何もかも失ったからだと思うのです。
戦争で負けたのですから、しょうがないじゃありませんか。
そこで私たちのご先祖様たちは、意気消沈して何もしなかったのではありません。
そういう心を癒す時間が過ぎたあとは、開き直って力強く生きたのです。
だから、今の日本の繁栄があるのだと思います。
会社が倒産したとき、どうしようもありませんよね。
交通事故などで大怪我したとき、今さら元に戻せないでしょう。
仮に冤罪であっても、有罪とされて収監されたら、その時間は取り戻せません。
そういうひどい状況であっても、いや、ひどい状況だからこそ、すべてを捨てて開き直れるのです。
すべてを捨てるとは、どういうことかわかりますよね?
そう、私がいつも言っている「必要性をなくす」ということです。
だって捨てるしかないのですから、必要とかどうとか言うのもバカバカしい話です。
つまり、苦労しなくても必要性を捨てられる状況というのが、ピンチの時なのです。
そして必要性を捨てたとき、生き方の選択条件は何でしょうか?
そこがポイントです。
チャンスをつかめるかどうかの、重大なポイントなのです。
そのとき、もう得られないとわかっている何かを、捨てきれずに執着してしまうのが小人です。
そのことを孔子はこう言っています。
「子曰、君子固窮」(子曰く、君子もとより窮す)
君子(大人物)でも困窮することはあるさ、と言うわけです。
ただし、君子は困窮しても混乱しないが、小人は狼狽して自分を見失ってしまうのだと続けて言います。
これもブログに「君子困窮」として書いたので、そちらをご覧ください。
もうわかりましたね?
その選択の条件とは、「自分らしさ」なのです。
「自分とは何ものか?」という問の答えです。
五稜郭に立てこもって最後の抵抗をした榎本武揚は、これが最後の決戦と腹を決めたとき、自分が持っている国際法の書物「海律全書」を官軍側に渡しました。
その書物が、今後の日本にとって重要なものだと考えたからです。
「もう明日は死ぬしかない。自分の夢は敗れた。」
その絶体絶命のピンチにあっても、榎本は自分を見失わなかったのです。
だから明治維新後、周囲の助けもあって、新政府に出仕することになりました。
自分の力では果たせなかった新しい日本を創るという夢が、思わぬ計らいでできるようになったのです。
一方、織田信長に攻められた松永弾正は、名器と言われた茶壷の土蜘蛛を渡すのを拒み、そこに火薬を詰めて爆死しました。
「信長なんぞに渡してなるものか!」
名器を人類の宝と考えず、単に自分の私物としか思わなかった。
榎本と松永のどっちの人物が大きいか、言わずもがなのことだと思います。
過去の歴史を見ても、昔から多くの人が言ってきたことを見ても、結論は同じです。
「冬来たりなば春遠からじ」
「陰極まれば陽に転ず」
「夜明け前が一番暗い」
「人間万事塞翁が馬」
すべて同じことを言っています。
「人生におけるチャンスは、ピンチの顔をしてやってくる。」
だから、ピンチの時は慌てふためかず、ほくそ笑みながら迎えてほしい。
就活で何十社から断られたとき、何年も引きこもっていて抜け出せないとき、婚活で100人から拒否されたとき、最愛の伴侶が浮気をしていると知ったとき、妻から一方的に離婚を迫られたとき、突然リストラされたとき、莫大な借金を背負って会社が倒産したとき、交通事故で寝たきり状態になったとき、不治の病と診断されたとき、愛する人の命が理不尽に奪われたとき、生きる希望を見失いそうなとき...
その暗闇が果てしない底なし沼に思えるときに、この質問を思い出してほしい。
「それで、どうするのが自分らしいのか?」
あなたは、どのくらい大きくて素晴らしい自分を表現できるでしょうか?
榎本武揚のように生きられるでしょうか?
それとも、松永弾正のように小さな自分をさらすのでしょうか?
それを、無数の生命が見守っています。
あなたが、かつてないほど大きな自分を選択したとき、見守っていた生命たちは歓喜の声を上げることでしょう。
あなたの選択が、生命に偉大な経験を与えてくれたからです。
そして、それこそが生命の目的だからです。
私たちは、ともに、あまりに現実的な空想の冒険劇を楽しんでいるのです。
※以前に書いた記事「ピンチはチャンスとよく言いますが」も参考にどうぞ。
2013年01月06日
ニンジンの奇跡
この著者、赤峰勝人氏のことも、宮崎中央新聞の記事で知りました。
「なずなの会」というのを作っておられて、完全無農薬・無化学肥料の自然栽培で野菜や米を作り、それによってアトピーも治してしまうのだとか。
最近は、自然農法を探求する人も増え、そういう人の1人なのだろうと軽く考えていました。
しかし、読み進むにつれ、この人は本物だと思うようになりました。
それは、循環農法という考え方を持っておられるからです。
人間の体は食べ物から作られている。
ここまでは、誰でも思いつくことです。
しかし、その食べ物は何から作られているかと言うと、大地、日光、水、空気からです。
つまりは自然ということです。
自然は、完璧な循環の中で生きており、人間もその中の一部だというわけです。
この考え方は、私が推奨している「神との対話」シリーズにも出てくるものです。
生命は循環(変化)する。
また生命は適応して持続するとも言います。
このことがこの本では、雑草や虫やアトピーなどの話として出てきます。
雑草が生えるのは、大地の生命力を取り戻すために、足りない養分を補おうとする自然の働きだと言います。
虫が野菜を食べてしまうのは、その野菜が人間にとって不都合なものだから、その生命体系を維持するために、食べて無害な糞にしているのだと言います。
またアトピーも、人間の身体に害があることを知らしめるために生まれた病気で、アトピーの病気で苦しんでいる人は、実は私たちに警鐘を鳴らしてくれる天使なのだと言うのです。
生命は、それ自体が適応し、持続しようとしている。
だから私たちは、小賢しい知恵で生命システムをいじくるのではなく、生命の循環にしたがって農を営み、その恩恵に預かるように生きれば、すべてが上手く行く。
それが循環農法の考え方のようです。
これを読んで、私も農業をやってみたくなりました。
2013年01月07日
死ぬことが怖くなくなれば何でもできます
新刊の読書とともに、「神との対話」シリーズも読み進めています。
シリーズ8冊目の「明日の神」を読み終え、9冊目の「神へ帰る」を読み始めました。
これは2007年発売の本で、410ページ、2千円+消費税でした。
私が、絶対的な安心という温かいものに包まれた感じがして、涙が止まらなかったという体験も、この本を読む前後だったように思います。
「そうかー。なーんにも心配することはないんだなー。」
素直にそう思えたのです。
この本は、人間の死をテーマにした内容になっています。
驚くべきこと、常識では受け入れがたいことが、ここには書いてあります。
そして、ここに書かれている言葉を信じるなと書いてあります。
私たちの真実は、私たちの心の中にあるのだからと。
とっかかりのショッキングな言葉を引用しましょう。
「誰でもすべてを自分自身のためにしている。そこに気づけば、突破口が開ける。そして、死についてもこの真実があてはまることが理解できれば、二度と死を恐ろしいとは思わないだろう。」
「死を恐れなくなれば、生も怖くはない。最後の瞬間まで、自分の人生/生命を充分に生きることができる。」
(p.21)
私は子どもの頃、死というものを考えると悲しくなって、布団にもぐって泣いた体験があります。
どうなるのかわからなくて、自分のすべてが消えてしまうようで、怖くて不安だったのです。
そこから脱却するために、「死なないと信じれば死なないのだ」と、思いが現実化するという思想を信じようとしました。
けれども、この世に生まれて死ななかった人はいません。
「どうせ死ななければならないとしたら、人はどうして生きなければならないのだろう?」
そういう疑問を持っていました。
また一方で、どうぜ生きないといけないなら、せめて輝かしい生き方をしたいとも思っていました。
特攻隊員のように、お国のために、愛する誰かの為に、あるいは見ず知らずの誰かのために、自分の命を捧げるような死に方をしたいと。
それこそが、私にとって価値のある生き方、私の人生に価値を与える生き方だと思っていました。
「神との対話」シリーズを読むようになって、「生命は永遠だ」という考え方を受け入れるようになってきました。
もともと仏教では、輪廻転生と言って、何度でも生まれ変わることを言っています。
キリスト教などでも、死んだ後は天国とか地獄へ行き、永遠に生きるのだと言っています。
すでに散々聞かされていた考え方だったのに、ずっと受け入れずにきていたのですね。
永遠の生命を受け入れるようになると、また別の疑問が出てきます。
「なぜ人は死ぬのか?」
死が単に姿を変えることであったとしても、なぜそんなことをしなければならないのでしょうか?
今までの生活をずっと永遠に続けていくことでは、何か問題なのでしょうか?
そういった疑問に対して、「神へ帰る」という本は、明確な指針を与えてくれたように思います。
考えてみれば、「死を自分で選んでいる」という考え方は、自明のことだったのです。
なぜなら、生まれる時でさえ自分であらゆることを選んできているのですから。
印鑰理生(いんやくりお)くんの「自分をえらんで生まれてきたよ」という本にもあるように、自分の健康状態はもちろん、親や環境も選んで生まれてくると言います。
このことは、最近はよく知られていることです。
また「引き寄せの法則」によって、生きている間は、自分の思考が現実を引き寄せていると言います。
それならば、死ぬことも、自分が決めていると考えても不思議ではないではありませんか?
私はすでに、死ぬことそのものへの怖さはありません。
死は喜ぶべきことなのかもしれないとさえ、思うようになっています。
けれども、その言葉から「生命を軽んじている」と思われるとしたら、それは私の考えを理解していません。
「ふんだんにあるものは無駄にして、無価値なものとして扱うのが良いと思うのでしょうか?」
私は、そう問いたいと思います。
そう考えてきたから、自然を壊しても平気で、逆に自分の首を絞めるようなことになっているのではないでしょうか?
永遠の生命があるなら、怖れや不安を抱く必要性はないし、維持するために何かをしなければならないということもありません。
しかし、いえ、そういう自由があるからこそ、自分らしく生きることが可能なのです。
何の制限もないから、どんな生き方でも選べるから、自分らしさを選べるのです。
「豊富に十分にあるなら、あなたはそれを粗末に扱うのですか?」
「そういう生き方が、自分らしい生き方なのでしょうか?」
自由に責任が伴うというのは、本来はこういうことです。
自由であるから、自分が決めているのだから、自分で結果を受け入れるしかない。
人は、種を蒔いたものを刈り取るのです。
粗末にしてよいと考えるなら、それが自分だと表現したことになるのです。
自分がそういう人間(=ふんだんにあるものは価値のないものだと考える人間)だと宣言するから、宇宙はそういう経験を与えてくれます。
「自分なんかどうせ、誰からも期待されてないんだよ。」
自分が生命を粗末にしたから、自分(=生命)が粗末に扱われるのです。
そんなちっぽけな自分で満足するなら、飽きるまでそれを続ければいいのです。
いずれにせよ人は、自分が変わろうと思うまでは変わらないのですから。
シリーズ8冊目の「明日の神」を読み終え、9冊目の「神へ帰る」を読み始めました。
これは2007年発売の本で、410ページ、2千円+消費税でした。
私が、絶対的な安心という温かいものに包まれた感じがして、涙が止まらなかったという体験も、この本を読む前後だったように思います。
「そうかー。なーんにも心配することはないんだなー。」
素直にそう思えたのです。
この本は、人間の死をテーマにした内容になっています。
驚くべきこと、常識では受け入れがたいことが、ここには書いてあります。
そして、ここに書かれている言葉を信じるなと書いてあります。
私たちの真実は、私たちの心の中にあるのだからと。
とっかかりのショッキングな言葉を引用しましょう。
「誰でもすべてを自分自身のためにしている。そこに気づけば、突破口が開ける。そして、死についてもこの真実があてはまることが理解できれば、二度と死を恐ろしいとは思わないだろう。」
「死を恐れなくなれば、生も怖くはない。最後の瞬間まで、自分の人生/生命を充分に生きることができる。」
(p.21)
私は子どもの頃、死というものを考えると悲しくなって、布団にもぐって泣いた体験があります。
どうなるのかわからなくて、自分のすべてが消えてしまうようで、怖くて不安だったのです。
そこから脱却するために、「死なないと信じれば死なないのだ」と、思いが現実化するという思想を信じようとしました。
けれども、この世に生まれて死ななかった人はいません。
「どうせ死ななければならないとしたら、人はどうして生きなければならないのだろう?」
そういう疑問を持っていました。
また一方で、どうぜ生きないといけないなら、せめて輝かしい生き方をしたいとも思っていました。
特攻隊員のように、お国のために、愛する誰かの為に、あるいは見ず知らずの誰かのために、自分の命を捧げるような死に方をしたいと。
それこそが、私にとって価値のある生き方、私の人生に価値を与える生き方だと思っていました。
「神との対話」シリーズを読むようになって、「生命は永遠だ」という考え方を受け入れるようになってきました。
もともと仏教では、輪廻転生と言って、何度でも生まれ変わることを言っています。
キリスト教などでも、死んだ後は天国とか地獄へ行き、永遠に生きるのだと言っています。
すでに散々聞かされていた考え方だったのに、ずっと受け入れずにきていたのですね。
永遠の生命を受け入れるようになると、また別の疑問が出てきます。
「なぜ人は死ぬのか?」
死が単に姿を変えることであったとしても、なぜそんなことをしなければならないのでしょうか?
今までの生活をずっと永遠に続けていくことでは、何か問題なのでしょうか?
そういった疑問に対して、「神へ帰る」という本は、明確な指針を与えてくれたように思います。
考えてみれば、「死を自分で選んでいる」という考え方は、自明のことだったのです。
なぜなら、生まれる時でさえ自分であらゆることを選んできているのですから。
印鑰理生(いんやくりお)くんの「自分をえらんで生まれてきたよ」という本にもあるように、自分の健康状態はもちろん、親や環境も選んで生まれてくると言います。
このことは、最近はよく知られていることです。
また「引き寄せの法則」によって、生きている間は、自分の思考が現実を引き寄せていると言います。
それならば、死ぬことも、自分が決めていると考えても不思議ではないではありませんか?
私はすでに、死ぬことそのものへの怖さはありません。
死は喜ぶべきことなのかもしれないとさえ、思うようになっています。
けれども、その言葉から「生命を軽んじている」と思われるとしたら、それは私の考えを理解していません。
「ふんだんにあるものは無駄にして、無価値なものとして扱うのが良いと思うのでしょうか?」
私は、そう問いたいと思います。
そう考えてきたから、自然を壊しても平気で、逆に自分の首を絞めるようなことになっているのではないでしょうか?
永遠の生命があるなら、怖れや不安を抱く必要性はないし、維持するために何かをしなければならないということもありません。
しかし、いえ、そういう自由があるからこそ、自分らしく生きることが可能なのです。
何の制限もないから、どんな生き方でも選べるから、自分らしさを選べるのです。
「豊富に十分にあるなら、あなたはそれを粗末に扱うのですか?」
「そういう生き方が、自分らしい生き方なのでしょうか?」
自由に責任が伴うというのは、本来はこういうことです。
自由であるから、自分が決めているのだから、自分で結果を受け入れるしかない。
人は、種を蒔いたものを刈り取るのです。
粗末にしてよいと考えるなら、それが自分だと表現したことになるのです。
自分がそういう人間(=ふんだんにあるものは価値のないものだと考える人間)だと宣言するから、宇宙はそういう経験を与えてくれます。
「自分なんかどうせ、誰からも期待されてないんだよ。」
自分が生命を粗末にしたから、自分(=生命)が粗末に扱われるのです。
そんなちっぽけな自分で満足するなら、飽きるまでそれを続ければいいのです。
いずれにせよ人は、自分が変わろうと思うまでは変わらないのですから。
2013年01月08日
人生に起こることはすべて必然
人が不安になるのは、「今」を生きようとせず、「未来」に生きようとするからです。
「今」はすでにあり、存在しているのですから、不安を感じるはずがありませんよね。
不安というのは、必ず「未来」のことなのです。
しかし、人が生きるのはいつも「今」しかありません。
禅問答のようで申し訳ありませんが、言葉をそのままとらえて考えてみてください。
私たちは常に、「今」を生きているだけなのです。
「でも、未来がいつか今になるのだから、未来を不安に思うのは当然じゃないの?」
たしかに、その通りです。
でもそれは、「未来」が自分でコントロールできないと信じているからではありませんか?
私もそうでした。
将来、どんな不都合なことが身に起こるかわからない。そう考えると不安だし、怖かったのです。
でも、それが幻想だとしたらどうでしょう。
たしかに、私たちには未来を正確に予想できないかもしれない。
でも、どんな出来事が起ころうと、それは事前に自分が創ったことだとわかれば、不安はなくなるのではないでしょうか?
ここで2つ疑問があるかもしれません。
1つは、「自分が未来(これから訪れる今)を創るということが本当か?」というものです。
もう1つは、「そうだとしても、どうしてそれが不都合でないと言えるのか?」ということです。
最初の疑問ですが、これは昨日の記事にも書いたとおりです。
昔から多くの人が語ってきたように、私たちは、自分で人生の環境を決め、出来事を引き寄せ、死ぬタイミングさえも決めています。
「神との対話」シリーズによれば、人は3つのものからなっているそうです。
それは、魂、精神、身体です。
この3つは本来はひとつのもの(三位一体)ですが、この世に生まれるときに分裂します。
身体は潜在意識によって創造します。精神は意識(思考)によって創造します。そして魂は超意識によって創造します。
たとえば、心臓が動き続けるとか髪や爪が伸びるのは、私たちが意識せずに潜在意識で創造している部分だと言います。
つまり、3者は互いに関連し、影響を与えつつも、精神には魂や身体がどう考えているか、はっきりわからないことがある、ということなのです。
ただいずれにせよ、私たちはその3つの部分のどこかで考えることによって、自分の人生を創造していると言います。
次に2つ目の疑問ですが、上記のように精神には、魂の考えや身体の考えがわからないことがあります。
また、自分(精神)の考えでさえ、いつそう考えたかを忘れてしまっていることがあります。
他人を恨んだり、ひどく不安を感じながら、「どうして自分は病気になるのか?」といぶかしがるようなものです。
いずれにせよ、自分の思考が人生を創造していると言えるのです。
たとえば死は、自殺でもなければ、それがいつなのか精神にはわからないこともあるでしょう。いえ、たいていはそうでしょう。
けれども、魂ははっきりとそれを知っていて、そのように計画しているのです。
その証拠は、昨日も書いたように、私たちが自分の環境を自分で決めて生まれてくるという数々の証言です。
生まれることさえ自分で決めているなら、どうして死ぬことも自分で決めないことがあるでしょうか。
また、人生における重要な出来事も、魂の計画に入っていないことがあるはずがありません。
なぜなら、人生が魂の計画通りにならないとするなら、魂はこの世で目的を達成できないことになってしまうからです。
魂を神と呼び変えてもかまいませんが、魂(=私たち)の本質が「ひとつのもの」であり、永遠に存在する「ひとつのもの」がすべてなら、何のために目的を達成できないようなことをする必要性があるのでしょうか?
それは論理的に考えておかしなことです。
こう考えてみると、自分の人生に起こることは、すべて自分が目的を達成するために考えた通りだとわかります。
ですから、考えたことが完璧に創造されたのが、自分の人生の現実なのです。
「こんな人生を望んだことなどない!」
そう怒りたいかもしれません。誰しも、もっと良い人生を生きたいと思っているでしょうから。
けれども、自分の人生に対して、自分が責任を持つまでは、それを変えることはできません。
これもまた、論理的に考えればそうなるでしょう。
他の誰か(神)や環境によって左右されると考えているなら、そうなるでしょう。
そしてそう考えている限り、自分でコントロールすることができません。
まずは、今の現実を受け入れることです。
精神には、それがいつどの部分で考えた結果なのかわからないかもしれない。
けれども、必ず自分のどこかの部分が考えた結果で、それが完璧に現れたものだ。
そう思うことが重要なのです。
そして次に重要なのが、その起きた現実には何の意味もない、つまりニュートラルだということです。
出来事には何の意味もありません。そこに自分で意味を与えることによって、私たちはそれを経験します。
そしてその経験が感情を産み、その感情に刺激されて次の思考が生まれます。
その思考がまた、次の出来事を創造するのです。
私たちの精神がコントロールできるのは、出来事に意味を与えることです。
好きなように、自由に与えられるのだということを知って、自分がこうありたいと思うことに役立つように、その意味をでっちあげるのです。
魂には、この世に肉体を持って生まれるための計画があります。
その目的を達成するために、環境や出来事を整えています。
そして、その目的が達成されないことはありません。
なぜなら、魂はしつこいからです。(笑)
何度でも同じような出来事が起こるのは、そのためです。
いくら精神が、「もう魂の好き勝手にはさせない。自殺してやる。」と考えて身体を従わせても、魂は負けません。
なぜなら死ぬことによって3者はまた「ひとつのもの」となり、自分の目的を思い出すからです。
現世で達成できないとしても、魂はまた来世で同じような体験を繰り返すことでしょう。
そういう意味では、自殺は無意味な抵抗ということも言えるでしょうね。
そういうことがわかってくると、魂に逆らおうとするような無意味なことはやめ、魂の目的にしたがう生き方をしたいと思うでしょう。
魂の目的は1つです。
それは、もっと偉大な自分を体験すること。もっと自分らしく生きること。
だから、私たちが生きる目的は、「自分らしく生きること」なのです。
これって、素晴らしいことだと思いませんか?
自分の自由に、自分らしく生きなさいと言われているのです。それが目的ですから。
何かを経験し、その中に自分らしくないものがあったら、次は別の生き方をしようと決めるだけで良いのです。
罪悪感を抱いたり、自己卑下する必要はまったくありません。
思い切って挑戦し、何度も何度も挑戦し、自分らしさを表現するだけで良いのです。
今が自分らしくないと思うなら、まずは現実を受け入れ、そこに自分らしくなるような意味を与えましょう。
他者や環境に力を与えることはやめ、すべての責任を自分で負うことに決めるのです。
そうすれば、自分らしく生きられるようになります。
この世に犠牲者はいません。犠牲者だと考える人がいるだけです。
犠牲者に甘んじている限り、自分の人生を自分で切り開くという体験ができません。
いつまでも、小さな自分を経験し続けることになります。
でも、それもいつかは終ります。
魂はしつこいですから。(笑)
いつかは、精神の方がギブアップします。
「もういい。こんな体験は十分だ。飽き飽きした。」
そのとき初めて、人は変わることができるのです。
「今」はすでにあり、存在しているのですから、不安を感じるはずがありませんよね。
不安というのは、必ず「未来」のことなのです。
しかし、人が生きるのはいつも「今」しかありません。
禅問答のようで申し訳ありませんが、言葉をそのままとらえて考えてみてください。
私たちは常に、「今」を生きているだけなのです。
「でも、未来がいつか今になるのだから、未来を不安に思うのは当然じゃないの?」
たしかに、その通りです。
でもそれは、「未来」が自分でコントロールできないと信じているからではありませんか?
私もそうでした。
将来、どんな不都合なことが身に起こるかわからない。そう考えると不安だし、怖かったのです。
でも、それが幻想だとしたらどうでしょう。
たしかに、私たちには未来を正確に予想できないかもしれない。
でも、どんな出来事が起ころうと、それは事前に自分が創ったことだとわかれば、不安はなくなるのではないでしょうか?
ここで2つ疑問があるかもしれません。
1つは、「自分が未来(これから訪れる今)を創るということが本当か?」というものです。
もう1つは、「そうだとしても、どうしてそれが不都合でないと言えるのか?」ということです。
最初の疑問ですが、これは昨日の記事にも書いたとおりです。
昔から多くの人が語ってきたように、私たちは、自分で人生の環境を決め、出来事を引き寄せ、死ぬタイミングさえも決めています。
「神との対話」シリーズによれば、人は3つのものからなっているそうです。
それは、魂、精神、身体です。
この3つは本来はひとつのもの(三位一体)ですが、この世に生まれるときに分裂します。
身体は潜在意識によって創造します。精神は意識(思考)によって創造します。そして魂は超意識によって創造します。
たとえば、心臓が動き続けるとか髪や爪が伸びるのは、私たちが意識せずに潜在意識で創造している部分だと言います。
つまり、3者は互いに関連し、影響を与えつつも、精神には魂や身体がどう考えているか、はっきりわからないことがある、ということなのです。
ただいずれにせよ、私たちはその3つの部分のどこかで考えることによって、自分の人生を創造していると言います。
次に2つ目の疑問ですが、上記のように精神には、魂の考えや身体の考えがわからないことがあります。
また、自分(精神)の考えでさえ、いつそう考えたかを忘れてしまっていることがあります。
他人を恨んだり、ひどく不安を感じながら、「どうして自分は病気になるのか?」といぶかしがるようなものです。
いずれにせよ、自分の思考が人生を創造していると言えるのです。
たとえば死は、自殺でもなければ、それがいつなのか精神にはわからないこともあるでしょう。いえ、たいていはそうでしょう。
けれども、魂ははっきりとそれを知っていて、そのように計画しているのです。
その証拠は、昨日も書いたように、私たちが自分の環境を自分で決めて生まれてくるという数々の証言です。
生まれることさえ自分で決めているなら、どうして死ぬことも自分で決めないことがあるでしょうか。
また、人生における重要な出来事も、魂の計画に入っていないことがあるはずがありません。
なぜなら、人生が魂の計画通りにならないとするなら、魂はこの世で目的を達成できないことになってしまうからです。
魂を神と呼び変えてもかまいませんが、魂(=私たち)の本質が「ひとつのもの」であり、永遠に存在する「ひとつのもの」がすべてなら、何のために目的を達成できないようなことをする必要性があるのでしょうか?
それは論理的に考えておかしなことです。
こう考えてみると、自分の人生に起こることは、すべて自分が目的を達成するために考えた通りだとわかります。
ですから、考えたことが完璧に創造されたのが、自分の人生の現実なのです。
「こんな人生を望んだことなどない!」
そう怒りたいかもしれません。誰しも、もっと良い人生を生きたいと思っているでしょうから。
けれども、自分の人生に対して、自分が責任を持つまでは、それを変えることはできません。
これもまた、論理的に考えればそうなるでしょう。
他の誰か(神)や環境によって左右されると考えているなら、そうなるでしょう。
そしてそう考えている限り、自分でコントロールすることができません。
まずは、今の現実を受け入れることです。
精神には、それがいつどの部分で考えた結果なのかわからないかもしれない。
けれども、必ず自分のどこかの部分が考えた結果で、それが完璧に現れたものだ。
そう思うことが重要なのです。
そして次に重要なのが、その起きた現実には何の意味もない、つまりニュートラルだということです。
出来事には何の意味もありません。そこに自分で意味を与えることによって、私たちはそれを経験します。
そしてその経験が感情を産み、その感情に刺激されて次の思考が生まれます。
その思考がまた、次の出来事を創造するのです。
私たちの精神がコントロールできるのは、出来事に意味を与えることです。
好きなように、自由に与えられるのだということを知って、自分がこうありたいと思うことに役立つように、その意味をでっちあげるのです。
魂には、この世に肉体を持って生まれるための計画があります。
その目的を達成するために、環境や出来事を整えています。
そして、その目的が達成されないことはありません。
なぜなら、魂はしつこいからです。(笑)
何度でも同じような出来事が起こるのは、そのためです。
いくら精神が、「もう魂の好き勝手にはさせない。自殺してやる。」と考えて身体を従わせても、魂は負けません。
なぜなら死ぬことによって3者はまた「ひとつのもの」となり、自分の目的を思い出すからです。
現世で達成できないとしても、魂はまた来世で同じような体験を繰り返すことでしょう。
そういう意味では、自殺は無意味な抵抗ということも言えるでしょうね。
そういうことがわかってくると、魂に逆らおうとするような無意味なことはやめ、魂の目的にしたがう生き方をしたいと思うでしょう。
魂の目的は1つです。
それは、もっと偉大な自分を体験すること。もっと自分らしく生きること。
だから、私たちが生きる目的は、「自分らしく生きること」なのです。
これって、素晴らしいことだと思いませんか?
自分の自由に、自分らしく生きなさいと言われているのです。それが目的ですから。
何かを経験し、その中に自分らしくないものがあったら、次は別の生き方をしようと決めるだけで良いのです。
罪悪感を抱いたり、自己卑下する必要はまったくありません。
思い切って挑戦し、何度も何度も挑戦し、自分らしさを表現するだけで良いのです。
今が自分らしくないと思うなら、まずは現実を受け入れ、そこに自分らしくなるような意味を与えましょう。
他者や環境に力を与えることはやめ、すべての責任を自分で負うことに決めるのです。
そうすれば、自分らしく生きられるようになります。
この世に犠牲者はいません。犠牲者だと考える人がいるだけです。
犠牲者に甘んじている限り、自分の人生を自分で切り開くという体験ができません。
いつまでも、小さな自分を経験し続けることになります。
でも、それもいつかは終ります。
魂はしつこいですから。(笑)
いつかは、精神の方がギブアップします。
「もういい。こんな体験は十分だ。飽き飽きした。」
そのとき初めて、人は変わることができるのです。
2013年01月09日
少しずつ腑に落ちていく
斎藤一人さんの「変な人が書いた驚くほどツイてる話」 を7回読むということをやって、昨年の9月28日に達成しました。
今から思うと、あれが1つのきっかけになった気がします。
「同じ本を何度も読む」ということで考えたとき、私の頭に浮かんだのは「神との対話」シリーズでした。
前にも書きましたが、2001年にタイに来るにあたって、私は蔵書のほとんどを処分しました。
島根の実家に一部残っていますが、気持ちの上ではすべて手放したのです。
「もし、また読みたくなったら買い直せば良い。だって、それだけ価値があるということなのだから。」
そんな気持ちだったのです。
ただ、「神との対話」シリーズだけは手放せなかった。
「これは何度も読み返してみないといけない。」
そう感じていたからです。
実際、タイに来てからも2回くらいは読んだと思います。
そして昨年、斎藤一人さんの本がきっかけとなって、またシリーズの最初から読み直してみることにしました。
おそらく9月29日以降だったと思います。
そんなとき、上司から人格を否定されるような叱責を受けました。
私にとって、しばらく悶々とするような、心に残る出来事だったのです。
けれども、私はすぐに視点を変えて考えてみることを選択しました。
見方を変えたのです。
「すべての出来事が必然で無駄がないのなら、この出来事にも何か私のためになる意味が与えられるに違いない。」
そして、そういう出来事があったにも関わらず、いえ、そういう出来事があったからこそ、自分らしく生きるという選択をしたのです。
「神との対話」シリーズは、宗教の本ではありません。
既存の宗教とはまったく異なるものです。
霊的なことを扱っているという点で、宗教と勘違いされるかもしれませんが、そうではありません。
科学や哲学とも言えますし、生き方の指針とも言えます。
実際、現実の生き方において役立つ内容です。それを私が自分で証明しました。
あれから今まで、ほぼ途切れることなく少しずつ読み進めてきました。
どれもこれも分厚い本ですが、読みだすと引き込まれてしまいます。
同じようなことが書かれているのに、どれもが新鮮です。
「この本がシリーズで一番だな。」
その本を読んでいるとき、私は毎回そう思うのです。そしてそのたびに、不思議な本だなあと思います。
そして何度も同じような内容を読むことによって、徐々にその考え方が私の中に浸透してきたように感じます。
もちろんそれは、ただ読むだけではなく、こうしてブログなどを書くことによっても、私の中で明確なものになってきています。
こんな素晴らしい本なのに、まだあまり知られていないのでしょうか。
ベストセラーにもなっているのですけどね。
もし可能なら、読書会でも開いて、一緒に知恵を分かち合う仲間づくりができたらいいなあと思うくらいです。
今から思うと、あれが1つのきっかけになった気がします。
「同じ本を何度も読む」ということで考えたとき、私の頭に浮かんだのは「神との対話」シリーズでした。
前にも書きましたが、2001年にタイに来るにあたって、私は蔵書のほとんどを処分しました。
島根の実家に一部残っていますが、気持ちの上ではすべて手放したのです。
「もし、また読みたくなったら買い直せば良い。だって、それだけ価値があるということなのだから。」
そんな気持ちだったのです。
ただ、「神との対話」シリーズだけは手放せなかった。
「これは何度も読み返してみないといけない。」
そう感じていたからです。
実際、タイに来てからも2回くらいは読んだと思います。
そして昨年、斎藤一人さんの本がきっかけとなって、またシリーズの最初から読み直してみることにしました。
おそらく9月29日以降だったと思います。
そんなとき、上司から人格を否定されるような叱責を受けました。
私にとって、しばらく悶々とするような、心に残る出来事だったのです。
けれども、私はすぐに視点を変えて考えてみることを選択しました。
見方を変えたのです。
「すべての出来事が必然で無駄がないのなら、この出来事にも何か私のためになる意味が与えられるに違いない。」
そして、そういう出来事があったにも関わらず、いえ、そういう出来事があったからこそ、自分らしく生きるという選択をしたのです。
「神との対話」シリーズは、宗教の本ではありません。
既存の宗教とはまったく異なるものです。
霊的なことを扱っているという点で、宗教と勘違いされるかもしれませんが、そうではありません。
科学や哲学とも言えますし、生き方の指針とも言えます。
実際、現実の生き方において役立つ内容です。それを私が自分で証明しました。
あれから今まで、ほぼ途切れることなく少しずつ読み進めてきました。
どれもこれも分厚い本ですが、読みだすと引き込まれてしまいます。
同じようなことが書かれているのに、どれもが新鮮です。
「この本がシリーズで一番だな。」
その本を読んでいるとき、私は毎回そう思うのです。そしてそのたびに、不思議な本だなあと思います。
そして何度も同じような内容を読むことによって、徐々にその考え方が私の中に浸透してきたように感じます。
もちろんそれは、ただ読むだけではなく、こうしてブログなどを書くことによっても、私の中で明確なものになってきています。
こんな素晴らしい本なのに、まだあまり知られていないのでしょうか。
ベストセラーにもなっているのですけどね。
もし可能なら、読書会でも開いて、一緒に知恵を分かち合う仲間づくりができたらいいなあと思うくらいです。
2013年01月10日
体罰は愛情か?
また残念な事件が起こりましたね。
桜宮高校のバスケット部の主将が、顧問の体罰に耐えかねて自殺したそうです。
強いチームに育てるために、あえて叱られ役をつくり、平手打ちなどの体罰を加えることで、指導力を発揮しようとしていたようです。
その方法によって常勝チームが作られたという実績があるために、「先生がやってきたことは間違っていない」と擁護する声も聞かれるとか。
古いタイプの熱血指導で、「愛情があれば体罰も許される」と考える人もまだ多いようです。
私が中学生の頃、指導教員による体罰は、日常茶飯事でした。
部活の練習をサボっていたのがバレたとき、全員が横一列に並ばされて、端から順に平手打ちをもらいました。
軟弱な野球部でしたから、そのくらいの体罰はまだマシな方です。
県大会での優勝、つまり全国大会出場を目指すバレー部は、もっとひどいものでした。
その平手打ちのあと野球部員は、体育館で練習していた女子バレー部の練習を見学させられたのです。
レシーブに失敗するごとに指導教員は、暴言を吐き、ボールを投げつけ、ときには蹴飛ばしたり。それはまさにシゴキでした。
「さすがに上を目指すところは違うなあ。」
そう感心して、私も自宅で素振りをするなど、真剣に練習に取り組むようになりました。
体罰を悪いこととは、まったく考えていなかったのです。
カミナリ親父の鉄拳制裁が、まだ残っていた時代ですから。
でも、では体罰を喜べるかと言うと、そうではありません。
体罰を受けたくないから、何かを自分に強いるようになるだけです。
そしてその気持が折れたとき、不幸なことが起こるのでしょう。
その強かった女子バレー部も、のちに部員が集団で練習をボイコットする事件が起こりました。
体罰に耐えかね、連帯して指導教員に抗議したのです。
はっきりと言いましょう。
体罰は愛情ではありません。
単に自分の思い通りにさせたいだけです。
もし全員が強くなりたいと思っているなら、どうして体罰が必要でしょうか?
強くならなければならないという必要性を感じて、相手の自由を尊重せず、自分の考えを押し付けているだけではありませんか?
愛情とは自由です。また自由でなければ愛せません。
必要性を感じるというのは、不自由な状態に自分を置くこと。それで愛せるはずがありません。
相手には相手の価値観があり、相手なりの幸せがある。
それを認めることが愛情です。
「これが幸せなんだ」と自分が思ったことを相手に押しつけ、「お前を幸せにしてやりたいだけなんだ」というのは、愛情ではないのです。
人それぞれに価値観が異なることに気が付かないことが、まず最初の過ちです。
相手が望むことと、自分が望むことは異なります。
自分が期待することと、相手が願うことは違います。
ですから、相手に何かをしてほしいと思うなら、お願いする他に方法はないのです。
それが相手の自由を尊重しつつ、自分の考えるとおりに相手に動いてもらう唯一の方法です。
そうでないとしたら、相手が自分の考えを受け入れ、それを相手自身の考えとしてもらうことです。
それなら相手は、自分の自由意志で動くことになりますから。
最近では、体罰も暴力だという認識が広がってきました。
けれども、まだ不十分だと思います。
暴力だけでなく、暴言も、命令さえも、相手の自由を奪おうとする行為だということで、その本質は同じものです。
程度の違いがあるだけで、愛情でないことには違いがないのです。
桜宮高校のバスケット部の主将が、顧問の体罰に耐えかねて自殺したそうです。
強いチームに育てるために、あえて叱られ役をつくり、平手打ちなどの体罰を加えることで、指導力を発揮しようとしていたようです。
その方法によって常勝チームが作られたという実績があるために、「先生がやってきたことは間違っていない」と擁護する声も聞かれるとか。
古いタイプの熱血指導で、「愛情があれば体罰も許される」と考える人もまだ多いようです。
私が中学生の頃、指導教員による体罰は、日常茶飯事でした。
部活の練習をサボっていたのがバレたとき、全員が横一列に並ばされて、端から順に平手打ちをもらいました。
軟弱な野球部でしたから、そのくらいの体罰はまだマシな方です。
県大会での優勝、つまり全国大会出場を目指すバレー部は、もっとひどいものでした。
その平手打ちのあと野球部員は、体育館で練習していた女子バレー部の練習を見学させられたのです。
レシーブに失敗するごとに指導教員は、暴言を吐き、ボールを投げつけ、ときには蹴飛ばしたり。それはまさにシゴキでした。
「さすがに上を目指すところは違うなあ。」
そう感心して、私も自宅で素振りをするなど、真剣に練習に取り組むようになりました。
体罰を悪いこととは、まったく考えていなかったのです。
カミナリ親父の鉄拳制裁が、まだ残っていた時代ですから。
でも、では体罰を喜べるかと言うと、そうではありません。
体罰を受けたくないから、何かを自分に強いるようになるだけです。
そしてその気持が折れたとき、不幸なことが起こるのでしょう。
その強かった女子バレー部も、のちに部員が集団で練習をボイコットする事件が起こりました。
体罰に耐えかね、連帯して指導教員に抗議したのです。
はっきりと言いましょう。
体罰は愛情ではありません。
単に自分の思い通りにさせたいだけです。
もし全員が強くなりたいと思っているなら、どうして体罰が必要でしょうか?
強くならなければならないという必要性を感じて、相手の自由を尊重せず、自分の考えを押し付けているだけではありませんか?
愛情とは自由です。また自由でなければ愛せません。
必要性を感じるというのは、不自由な状態に自分を置くこと。それで愛せるはずがありません。
相手には相手の価値観があり、相手なりの幸せがある。
それを認めることが愛情です。
「これが幸せなんだ」と自分が思ったことを相手に押しつけ、「お前を幸せにしてやりたいだけなんだ」というのは、愛情ではないのです。
人それぞれに価値観が異なることに気が付かないことが、まず最初の過ちです。
相手が望むことと、自分が望むことは異なります。
自分が期待することと、相手が願うことは違います。
ですから、相手に何かをしてほしいと思うなら、お願いする他に方法はないのです。
それが相手の自由を尊重しつつ、自分の考えるとおりに相手に動いてもらう唯一の方法です。
そうでないとしたら、相手が自分の考えを受け入れ、それを相手自身の考えとしてもらうことです。
それなら相手は、自分の自由意志で動くことになりますから。
最近では、体罰も暴力だという認識が広がってきました。
けれども、まだ不十分だと思います。
暴力だけでなく、暴言も、命令さえも、相手の自由を奪おうとする行為だということで、その本質は同じものです。
程度の違いがあるだけで、愛情でないことには違いがないのです。
2013年01月11日
必要性があるから不正をしてしまう
福島県の原発事故による除染作業で、手抜きをしていたというニュースがありました。
まったくひどい話です。
これでは除染ではなく、たんなる掃除と同じ。
環境省も監督する立場にありながら、手抜きを指摘する声に真剣に対応しようとしなかったようですね。
忙しくて個別に対応できなかったとか。
大手ゼネコンも、仕事を受注して下請けに流すだけですから、おいしい金儲けだったのでしょう。
その下請けも、さらに孫請けへと仕事を流すだけ。
こうして国民の税金が浪費され、被災地には何の恩恵ももたらさない構図ができあがっていました。
これに関わっていた一人ひとりを見れば、けして悪人とは思えないでしょう。
知ってはいても、自分1人の力ではどうにもならないと、諦めていたかもしれません。
特に、その不正がもっともよくわかる現場の作業員は、現場監督に従わなければ仕事をもらえなくなるという不安があったでしょうから、告発するのも難しかったのでしょうね。
不正を指示した現場監督も、予定通りに仕事を終えなければ会社での自分の立場がなくなるという不安もあります。
環境省の役人だって、公にすれば環境省が叩かれるだけだし、それは自分の上司を不利な状況に追い込むことにもなり、当然、自分の出世にも影響するでしょう。
だからせいぜい、元請けのゼネコンに注意したくらいで済ませようとしたのでしょう。
こういう問題では、悪者探しをしても解決しません。
悪者は1人ではないし、悪者だと言われれば、誰もが抵抗するでしょうから。
それよりも実態を明らかにし、透明化することが重要です。
取り調べの可視化と同じですね。
誰が何を指示し、誰が何を行ったのか。悪いと責めるのではなく、どこか無理なところがないのか探すことが重要です。
今回の手抜き除染も、集めた落ち葉などを仮置きする場所がなかったという問題点がありました。
そういう問題点があったにも関わらず、それを明らかにせずに無理に予定通りの作業をしようとしたため、手抜きと指摘されるようなことをせざるを得ない状況に追い込まれていた、という一面があります。
ですから、すべてを白日のもとにさらすようにしておくことが、何より重要だと思うのです。
そのためには、悪者探しをしない、誰かの罪を問わないことを、あらかじめ決めておくことも大切かもしれませんね。
不正と言えば、タイは日本の比ではないと思います。それだけ日常茶飯です。
警察官が袖の下を要求することが問題になっていましたが、袖の下など、すべての公務員がやっていることでしょう。
意識しているかどうかは別として。
今回も税務署から、とんでもない要求をつきつけられました。
タイではWHT(With Holding Tax)という源泉税のシステムがあるのですが、それが払い過ぎになっているので還付申請をしようとしていました。
ところが税務署が難色を示したのです。
要は、税収が減ることが自分たちの成績に影響するから、ということなのです。
そして、平均的な利益があったように見せかけるため、経費の一部を税務上の損金として申告しないことに同意してくれと言います。
その提案(不正な申告)を受け入れてくれたら、すぐにでも還付するけど、提案を断るなら...。ある意味、そう脅されているのです。
以前、還付まで5〜6年を要したことがありました。
タイは、還付をいくら遅らせても問題がなく、その期間中の利息さえ払うことになっていません。
なので、税金を還付してもらいたかったら、税務署の言うなりにするしかないのです。
法も正義も関係のない、強権と脅しの現実がはびこっています。
これも、税務署の職員にしてみれば、自分たちの成績を上げる(=生活を守る)ための自衛の行為なのです。
自分の必要性を満たすためであれば、時には法を犯すことも辞さないし、倫理的な不正も平気になる。
それが人間というものなのでしょう。
だから仏教では、煩悩が人を狂わし、それによって苦しむことになると言うのです。
必要性をなくすことができれば、必要性を減らすことができれば、それでも人は不正を働くでしょうか?
私は、そうは思いません。
必要性を感じていなければ、何かに執着していないならば、人は自由に自分らしく、より大きな自分を表現したいと願うと思うからです。
幸せは、必要性を感じるものを得ることによって得られるものではありません。
そうではなく、必要性を手放すことによって、そもそもそういう状態だったと気づくものなのです。
だから今すぐ、その場で幸せになることが可能です。
そして幸せになることで、より大きな自分、自分らしい自分を表現することが可能になり、そのことがさらに大きな幸せをもたらしてくれるのです。
話はかわりますが、昨日、会社の車に乗って渋滞に並んでいたら、後ろから追突されました。
ずっと渋滞していて、ちょっと進んでは止まるを繰り返していたのです。
そのとき軽い衝撃を覚え、「あちゃー、追突されたー!」と思いました。
事故が起こると、保険会社に連絡し、来てもらうまで車を動かすことができません。
客先へ行った帰りだったのですが、幸いなことに、会社のすぐ近くまで戻っていました。
それで対応を運転手さんに任せ、私は車を降りて、歩いて会社まで帰りました。
不幸中の幸いと言うか、私には何の損害もありませんでした。
ただでさえ渋滞しているのに、その中の1車線を塞いでしまうのですから、他の車にとってはいい迷惑でしょうけどね。
ぶつけてきた方の車の運転手も、すぐに降りてきてニコニコしながら、「コトー・ナ・ピー(ごめんなさいね)」とうちの運転手さんに謝ってました。
渋滞で集中力が散漫になっていたのでしょうね。タイではよくあることで、私はこれで2回目の経験です。
でも、私はツイてます。
大した事故じゃなくて怪我もしなかったし、会社のすぐ近くだったから時間のロスもなく帰れました。
本当に、ありがたいことです。
まったくひどい話です。
これでは除染ではなく、たんなる掃除と同じ。
環境省も監督する立場にありながら、手抜きを指摘する声に真剣に対応しようとしなかったようですね。
忙しくて個別に対応できなかったとか。
大手ゼネコンも、仕事を受注して下請けに流すだけですから、おいしい金儲けだったのでしょう。
その下請けも、さらに孫請けへと仕事を流すだけ。
こうして国民の税金が浪費され、被災地には何の恩恵ももたらさない構図ができあがっていました。
これに関わっていた一人ひとりを見れば、けして悪人とは思えないでしょう。
知ってはいても、自分1人の力ではどうにもならないと、諦めていたかもしれません。
特に、その不正がもっともよくわかる現場の作業員は、現場監督に従わなければ仕事をもらえなくなるという不安があったでしょうから、告発するのも難しかったのでしょうね。
不正を指示した現場監督も、予定通りに仕事を終えなければ会社での自分の立場がなくなるという不安もあります。
環境省の役人だって、公にすれば環境省が叩かれるだけだし、それは自分の上司を不利な状況に追い込むことにもなり、当然、自分の出世にも影響するでしょう。
だからせいぜい、元請けのゼネコンに注意したくらいで済ませようとしたのでしょう。
こういう問題では、悪者探しをしても解決しません。
悪者は1人ではないし、悪者だと言われれば、誰もが抵抗するでしょうから。
それよりも実態を明らかにし、透明化することが重要です。
取り調べの可視化と同じですね。
誰が何を指示し、誰が何を行ったのか。悪いと責めるのではなく、どこか無理なところがないのか探すことが重要です。
今回の手抜き除染も、集めた落ち葉などを仮置きする場所がなかったという問題点がありました。
そういう問題点があったにも関わらず、それを明らかにせずに無理に予定通りの作業をしようとしたため、手抜きと指摘されるようなことをせざるを得ない状況に追い込まれていた、という一面があります。
ですから、すべてを白日のもとにさらすようにしておくことが、何より重要だと思うのです。
そのためには、悪者探しをしない、誰かの罪を問わないことを、あらかじめ決めておくことも大切かもしれませんね。
不正と言えば、タイは日本の比ではないと思います。それだけ日常茶飯です。
警察官が袖の下を要求することが問題になっていましたが、袖の下など、すべての公務員がやっていることでしょう。
意識しているかどうかは別として。
今回も税務署から、とんでもない要求をつきつけられました。
タイではWHT(With Holding Tax)という源泉税のシステムがあるのですが、それが払い過ぎになっているので還付申請をしようとしていました。
ところが税務署が難色を示したのです。
要は、税収が減ることが自分たちの成績に影響するから、ということなのです。
そして、平均的な利益があったように見せかけるため、経費の一部を税務上の損金として申告しないことに同意してくれと言います。
その提案(不正な申告)を受け入れてくれたら、すぐにでも還付するけど、提案を断るなら...。ある意味、そう脅されているのです。
以前、還付まで5〜6年を要したことがありました。
タイは、還付をいくら遅らせても問題がなく、その期間中の利息さえ払うことになっていません。
なので、税金を還付してもらいたかったら、税務署の言うなりにするしかないのです。
法も正義も関係のない、強権と脅しの現実がはびこっています。
これも、税務署の職員にしてみれば、自分たちの成績を上げる(=生活を守る)ための自衛の行為なのです。
自分の必要性を満たすためであれば、時には法を犯すことも辞さないし、倫理的な不正も平気になる。
それが人間というものなのでしょう。
だから仏教では、煩悩が人を狂わし、それによって苦しむことになると言うのです。
必要性をなくすことができれば、必要性を減らすことができれば、それでも人は不正を働くでしょうか?
私は、そうは思いません。
必要性を感じていなければ、何かに執着していないならば、人は自由に自分らしく、より大きな自分を表現したいと願うと思うからです。
幸せは、必要性を感じるものを得ることによって得られるものではありません。
そうではなく、必要性を手放すことによって、そもそもそういう状態だったと気づくものなのです。
だから今すぐ、その場で幸せになることが可能です。
そして幸せになることで、より大きな自分、自分らしい自分を表現することが可能になり、そのことがさらに大きな幸せをもたらしてくれるのです。
話はかわりますが、昨日、会社の車に乗って渋滞に並んでいたら、後ろから追突されました。
ずっと渋滞していて、ちょっと進んでは止まるを繰り返していたのです。
そのとき軽い衝撃を覚え、「あちゃー、追突されたー!」と思いました。
事故が起こると、保険会社に連絡し、来てもらうまで車を動かすことができません。
客先へ行った帰りだったのですが、幸いなことに、会社のすぐ近くまで戻っていました。
それで対応を運転手さんに任せ、私は車を降りて、歩いて会社まで帰りました。
不幸中の幸いと言うか、私には何の損害もありませんでした。
ただでさえ渋滞しているのに、その中の1車線を塞いでしまうのですから、他の車にとってはいい迷惑でしょうけどね。
ぶつけてきた方の車の運転手も、すぐに降りてきてニコニコしながら、「コトー・ナ・ピー(ごめんなさいね)」とうちの運転手さんに謝ってました。
渋滞で集中力が散漫になっていたのでしょうね。タイではよくあることで、私はこれで2回目の経験です。
でも、私はツイてます。
大した事故じゃなくて怪我もしなかったし、会社のすぐ近くだったから時間のロスもなく帰れました。
本当に、ありがたいことです。
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