前に紹介しましたが、みやざき中央新聞という週刊の新聞があります。
これはその社説を集めた「日本一心を揺るがす新聞の社説」という本を読んで知ったのですが、そのWeb版を購入することにしました。
1ヶ月わずか1,050円です。しかし、たった数ページの新聞ですから、なんだかもったいない気がするかもしれませんね。
でも私は、これだけ感動させてくれるのだから、少しも惜しくないと思うのです。
2012年12月17日発行の2488号を読みました。
まず最初に社説があるのですが、ただ夢を追いかけ、挫折を乗り越えることで素晴らしい曲を作ったみのや雅彦さんという北海道の歌手の話です。
素晴らしい才能を持ちながら、すでにメジャーデビューしていた松山千春さんと声質が似ているということで、受け入れられなかったのだそうです。
それでも諦めず、どん底の生活の中で生まれた曲が「夢しかなかった」というもの。
この歌には励まされますね。
そして今年、素晴らしい名曲が生まれたと紹介しています。
「百の言葉、千の想い」
震えるような想いで、一途に一人の人を愛すること。
そんな生き方は、素晴らしいことだと思います。
次は作家の柳田邦男さんの講演の抜粋です。
すい臓がんで亡くなった額装職人の方の生き様には、本当に感動させられます。
そして柳田さんの考え方がまた素晴らしい。
9歳でお兄さんを亡くし、10歳でお父さんを亡くされたとか。また柳田さんのご次男は、25歳で自殺されたそうです。
そういった体験をされた直後は、やはり動揺し、運命を呪われたかもしれません。
そんな柳田さんが、こういうように言われるのです。
「そして、負の体験はすべて贈り物だと、今では思うようになっています。」
後半は2012年を振り返って、「取材の現場から 心に残ったいい言葉」がまとめてありました。
スリランカ上座部仏教長老のアルボムッレ・スマナサーラさんは、「五体不満足」の乙武洋匡さんのことを語っています。
アルボムッレさんが注目したのは、彼自身より彼のお母さん。
手や足がないくらい大したことではない、という気持ちで育てられたのだろうと言うのです。
そして、こう言います。
「障がいのある子どもの親御さんは、人類からちょっと手のかかる仕事を与えられただけなのです。」
だから気負わず、自分にできることをすればそれで良いのだと。
NPO法人チームふくしま理事長の半田真仁さんは、震災直後に知覧の特攻平和会館へ行き、実家の広島へ戻ったのだそうです。
そこで「明日、福島へ帰るから。」と言うと、ご両親が猛反対されたのだとか。
福島へ帰らなければならない理由はないけれど、彼にはたくさんの仲間がいた。だから翌朝、まだご両親が寝ているうちにそっと家を出て、新幹線に乗ったのだそうです。
ところが外を見ると、お母さんが立っていた。
連れ戻されるかと思ったら、お母さんはこう言ったそうです。
「行ってらっしゃい」
お母さんは笑顔を見せながらも、目を真っ赤にして涙をボロボロとこぼされていたとか。
それを見たとき、知覧で我が子が特攻で飛び立つを見送った母親の気持ちがわかったそうです。
NPO法人デイサービス「このゆびとーまれ」代表の惣万佳代子さんは、お年寄りだけとか、知的障害者だけを集めて、他との交流を遮断する社会に警鐘を鳴らします。
この考えには、私も共感します。
祖父母と一緒に暮らさない子どもたちは、日常に人の死を見ることがありません。
「同じような人たちだけで一つの集団を作ってはいけない」
そういう思いで活動されているそうです。
神戸女学院大学名誉教授の内田樹さんは、子どもがどんなきっかけで成長に向かって開花するかは、誰にも予想できないと言います。
だから作為的に何かをしても、それが上手く行くことはないし、何がきっかけになったか、教えている方が気が付かないでいることも多いのだとか。
だから学校の教師に必要な資質は、次の2つしかないと言います。
「耐える力」と「信じる力」。
この子は素晴らしいのだと信じ、今、その片鱗が見えないことをじっと耐える。まさに、教育の本質はここにあると感じました。
宮崎県スーパーティーチャーの足立明彦さんは、脳科学的には、食べ物の好き嫌いがない人は味覚が鈍いと言います。
だから有名なパティシエなど、素材の微妙な変化を調整するような味覚の鋭い人は、けっこう好き嫌いが多いのだとか。
Tシャツがちょっと濡れただけで気になるような子を、神経質だと叱らないようにと言います。
なぜならその子は、皮膚感覚が鋭いからで、細かな作業が上手になると言うのです。
このように、何かが欠けているように見えても、実はそれ以外のところが非常に優れていることがあるのだから、欠けたところを見ずに、長所を見つけてあげるようにとした方が良いとのことです。
最後に(有)クロフネブライダル代表取締役の中村典義さんの、心に残るカップルの話は私も泣きました。
高校時代の同級生で、彼は彼女を好きだったけど、告白できずに別れたそうです。それが成人式で再会し、やっと付き合うことができました。
けれども、彼女は交通事故にあい、数ヶ月も寝たきりの状態になったとか。
彼は毎日見舞いに行くけど、彼女は会おうとはしません。傷だらけになった身体に失望し、自殺未遂までしたそうです。
彼女のお母さんは、娘の心を慮って、彼を病室に入れないようにします。しかし彼は、諦めずに通い続けたのです。
ある日、彼女は、もう諦めたと思っていた彼がずっと見舞いに来ていたことを知り、会う決心をします。
自分の身体を見せれば、彼ももう諦めるに違いないと思ったからです。
しかし、彼女と会った彼は言いました。
「そのままでいいんだよ」
「君の手が動かなくても、足が動かなくても、そんなことは僕にとって大きな問題じゃない。君が君でなくなることが問題なんだ。」
彼女は根負けし、彼を受け入れました。そして、結婚式で彼に恥をかかせたくないからと、辛いリハビリに積極的に取り組んだのだそうです。
結婚式の打ち合わせでその話を聞かされた中村さんは、とても驚いたのだそうです。
そこには、そんな大怪我を負った人とは思えない普通の身体に見える彼女がいたからです。
どうです? 少しは感動が伝わりますか?
こんな新聞を毎週読んだら、それだけで心がほっこりと温まると思いませんか?
別にみやざき中央新聞の回し者ではありませんが、良いものは良いと勧めたいのです。
2012年12月23日
2012年12月24日
あたりました!やっぱりツイてますね
昨日、あたりましたよ。
と言っても、宝くじや車ではありません。
食あたりです。
一昨日の夜、飲んで帰る途中の屋台でムー・ピン(豚串)とカオ・ニァオ(おこわ)を買ったのですが、どうやらそれが悪かったようです。
部屋に戻って食べたのが12時くらいで、明け方の4時にはお腹に違和感を感じていました。
重いような、張るような。痛みはありませんが、明らかに普通じゃありません。
朝8時ころには、完全に食あたりだとわかっていました。
お腹がにがる、という表現で伝わるでしょうか。
外出をあきらめ、横になっていることにしました。
お腹は痛くないので、しばらくすれば良くなるかもしれないと、淡い期待を抱いていたのです。
けれども、そんなに甘くはありませんね。
苦しくて唸りました。
苦しい時とそうでない時が、交互にやってきます。熱も出たり引いたり、交互にやってきます。
食事はできないので水を少しだけ飲んだのですが、2時間後くらいには水便として排出されてしまいます。
さすがにこのままだと次の日の仕事に差し支えると思い、妻に頼んで薬を買ってきてもらいました。
タイの薬は安くて強力です。
食あたりなんてしょっちゅうあるでしょうから、たいていは病院ヘ行かずに薬で治してしまいます。
私も、食あたりで病院ヘ行ったのは、1回だけですね。
夕方4時くらいに薬を飲んだところ、夜8時には少し食事ができるくらいまで回復しました。
気分も悪くないので、翌日(今日のこと)は仕事に行けると確信したのです。
タイに来て約10年ですけど、不思議なことに、寝こむような病気になるのは、たいてい週末なのです。
なので、病気で出社できないという経験があまりありません。
病は気からと言いますが、仕事を休まないと決めていると、そういうようになるようですね。
しかも、土日の休みのときでも、ゴルフやソフトボールなど、他の誰かと一緒に何かをする予定があると、迷惑をかけてしまうことになりますが、そういう予定がないときに限って寝込んでしまうのです。
ベッドに横になりながら、我ながら不思議だなあと思いました。
「やっぱり私はツイているんだなあ。」
そう思いました。
誰にも迷惑をかけなかったし、寝込んでいたお陰で不要な出費も抑えられました。
妻は優しく気遣ってくれたし。(あとで寝ている時に、足の裏をくすぐられましたけど。)
そして何より、ビールを飲まずに済んだということですね。
こんなことでもなければ、大好きなビールはやめられませんから。
強制的に禁酒日をあてがわれたようなものです。今日と明日、あわせて3日間の断酒になりそうです。
最後に、私の知り合いのIT大家養成塾・江本圭伸さんから教えてもらったオススメ動画を紹介します。
これは以前に見たことがあったのですが、改めて見ても感動しますね。
笑顔は何よりも素敵です。
そして、誰もが素晴らしいものを本質的に持っています。
今は誰もそう言わないし、自分でさえ気がついていないかもしれないけれど。
「あなたは素晴らしい」
このメーッセージが世界中に広まりますように。
と言っても、宝くじや車ではありません。
食あたりです。
一昨日の夜、飲んで帰る途中の屋台でムー・ピン(豚串)とカオ・ニァオ(おこわ)を買ったのですが、どうやらそれが悪かったようです。
部屋に戻って食べたのが12時くらいで、明け方の4時にはお腹に違和感を感じていました。
重いような、張るような。痛みはありませんが、明らかに普通じゃありません。
朝8時ころには、完全に食あたりだとわかっていました。
お腹がにがる、という表現で伝わるでしょうか。
外出をあきらめ、横になっていることにしました。
お腹は痛くないので、しばらくすれば良くなるかもしれないと、淡い期待を抱いていたのです。
けれども、そんなに甘くはありませんね。
苦しくて唸りました。
苦しい時とそうでない時が、交互にやってきます。熱も出たり引いたり、交互にやってきます。
食事はできないので水を少しだけ飲んだのですが、2時間後くらいには水便として排出されてしまいます。
さすがにこのままだと次の日の仕事に差し支えると思い、妻に頼んで薬を買ってきてもらいました。
タイの薬は安くて強力です。
食あたりなんてしょっちゅうあるでしょうから、たいていは病院ヘ行かずに薬で治してしまいます。
私も、食あたりで病院ヘ行ったのは、1回だけですね。
夕方4時くらいに薬を飲んだところ、夜8時には少し食事ができるくらいまで回復しました。
気分も悪くないので、翌日(今日のこと)は仕事に行けると確信したのです。
タイに来て約10年ですけど、不思議なことに、寝こむような病気になるのは、たいてい週末なのです。
なので、病気で出社できないという経験があまりありません。
病は気からと言いますが、仕事を休まないと決めていると、そういうようになるようですね。
しかも、土日の休みのときでも、ゴルフやソフトボールなど、他の誰かと一緒に何かをする予定があると、迷惑をかけてしまうことになりますが、そういう予定がないときに限って寝込んでしまうのです。
ベッドに横になりながら、我ながら不思議だなあと思いました。
「やっぱり私はツイているんだなあ。」
そう思いました。
誰にも迷惑をかけなかったし、寝込んでいたお陰で不要な出費も抑えられました。
妻は優しく気遣ってくれたし。(あとで寝ている時に、足の裏をくすぐられましたけど。)
そして何より、ビールを飲まずに済んだということですね。
こんなことでもなければ、大好きなビールはやめられませんから。
強制的に禁酒日をあてがわれたようなものです。今日と明日、あわせて3日間の断酒になりそうです。
最後に、私の知り合いのIT大家養成塾・江本圭伸さんから教えてもらったオススメ動画を紹介します。
これは以前に見たことがあったのですが、改めて見ても感動しますね。
笑顔は何よりも素敵です。
そして、誰もが素晴らしいものを本質的に持っています。
今は誰もそう言わないし、自分でさえ気がついていないかもしれないけれど。
「あなたは素晴らしい」
このメーッセージが世界中に広まりますように。
2012年12月25日
絶対成功する大富豪のオキテ
バリ島の兄貴の本は、すでに紹介していますが、また新たな本が出版されました。
これまで紹介したのは、クロイワ・ショウ氏の「出稼げば大富豪」シリーズと、ダイヤモンド出版のエース編集者、飯沼一洋さんが手がけた、兄貴こと丸尾孝俊氏の「大富豪アニキの教え」です。
いずれも素晴らしい内容だったのですが、今度の本は、また視点が変わっていて良かったです。
著者はクロイワ・ショウ氏と丸尾孝俊氏になっています。
クロイワ・ショウ氏が兄貴に質問したこと、またそれ以外の人が質問したことと、それに対する回答をまとめて、メルマガを発行していたそうですが、それをもとに作ったものだそうです。
この本の特徴は、兄貴が不肖の弟子と自虐的に自称しているクロイワ・ショウ氏の、どこがどうダメかということをズケズケと言っている点です。
それが「出稼げば大富豪」シリーズでは影を潜めていました。
でも、他人の失敗経験ほど役に立つものはありません。
クロイワ・ショウ氏があからさまに失敗し、その体験をオープンにしてくれるからこそ、私たちはそれを自分のものとできるのです。
また後半の、他の人との質疑応答も面白いです。
切実だったり、具体的な事例で自分のことについて質問する人の顔が見えるようで、興味深く読めました。
また、それに対して兄貴がどう答えるのか?「ほほう、なるほどねえ。」などと独り言を言いながら読みましたよ。
本の帯に、こういう兄貴の言葉が書かれています。
「失敗や。失敗聞くねや。失敗を聞けば聞くほど失敗から離れていく。」
質問をして、実践して、恥をかいてくださる方の体験談ほど、役に立つものはないと思うのです。
2012年12月26日
人生劇場を楽しむ
まだ食あたりから完全復活できていませんが、やっとコーヒーくらい飲んでみようという気になりました。
ビールは明日くらいからでしょうか。まあ、夕方また考えます。
昨夜は妻と、ジャッキー・チェーンの映画「ライジング・ドラゴン」を見に行きました。
彼の最後の作品になるかもしれないということを、上映中に妻から聞かされました。
お腹がグルグルと鳴るのが気になっていましたが、そのうちに映画に完全にのめり込みましたよ。
やっぱりジャッキーの映画は面白い!最高ですね。
何が面白いって、真剣な動作の中に、ちょくちょく現れるコミカルな動きがあるからです。
思わずクスっと笑えます。
ラストシーンのアクションは圧巻でした。
ネタバレになるので言えませんけど、「なるほど、そうきたか。いや、さすがだなー。」と驚きましたよ。
ぜひ、劇場でご覧ください。観て損のない作品だと思います。
さて、観て楽しいのは、何も映画だけではありません。
人の生きざま、つまり人生劇場も楽しいものです。
十人十色と言いますように、それぞれにそれぞれの人生があります。
その生き様は、どれひとつ同じものはなく、輝かしいものだと思うのです。
そんな自分の人生を、ジャッキーの映画のように「これはすごいや」と思ってもらえたら、どんなにか嬉しいでしょうね。
それで、どんな人生劇場だとそう思われるかを考えたのですが、やはり波瀾万丈の人生というのが一番だと思います。
もちろんラストは、最高点に達するのがいいですね。終わり良ければすべて良しですから。
でも、なかなかそういう人生はないようです。
私が尊敬する勝海舟氏も、江戸城無血開城が華々しい活躍と言えますが、その後はそれほどパッとしたものではありません。
勝の地道な働きかけが実って、徳川家の恩赦が認められたくらいの実績でしょうか。
明治政府に出仕したものの、たいした活躍はしていません。
どうも本人も、希望を失っていたようなフシもあります。
なかなか思い通りに行かないのが人生。それは言えると思います。
そんな何が起こるかわからない人生でも、どう生きるのが素晴らしいのか?
その1つの解として、武士の生き様があります。
たしか葉隠(はがくれ)という書物に書かれている内容だと思いますが、武士の手本としてこういうエピソードがありました。
ある武士が、殿様から呼び出されてこう言われました。
「おぬし、悪いが腹を切ってくれ。」
言われた武士は、眉ひとつ動かさず即答しました。
「しょうちいたしました」
部屋に戻った武士は、すぐに切腹の準備を始めます。
感情的に取り乱すこともなく、淡々と白装束に着替え、あとのことを書き残します。
おだやかな表情で、いざ切腹というときに、殿様がやってきて言いました。
「事情が変わった。切腹はやめよ。」
武士はひれ伏して答えます。
「しょうちいたしました」
武士はすぐに元の装束に着替えると、それまで行なっていた仕事に戻り、また淡々と職務を遂行したのです。
どう思います?
私がこれを初めて読んだとき、2つのことを考えました。
1つは、「ひどいなあ」ということ。
臣下の命を何とも思わず、虫けら同様に扱うことへの憤りです。
それに対して抗議すらできない武士社会に対する反感もありました。
2つ目は、「すごいなあ」ということ。
どうしてこの武士は、切腹の命令にも動揺しなかったのか?また、切腹を許された時も、何ごともなかったかのように平常に戻れたのか?
なぜそんな風にできるのかがわかりませんでした。胆力があるとか、忠誠心がある、というだけでは、説明できなかったのです。
でも今は、1つのこたえがあります。
それは、「必要性を感じない」というキーワードです。
もし必要性を感じていなければ、あるのは単に好みだけです。
いくらサッカーが好きな人だって、24時間サッカーをするわけではありません。
サッカーも好きだけど、今は寝ていようとか、今は食事をしようとか考えます。
サッカーをする必要性からやっているわけではないのです。
上記の武士も、生きる必要性を感じていなかったのだと思います。
自分の生き様とは徹底して忠義を貫くこと。
そう決め、他に何も必要性を感じていなかったのでしょう。
恩賞も身分も、お金も、家族も、何も必要ではなかった。
だから、殿様から切腹を言いつけられれば、その理由を問う必要もなく、ただそれにしたがうことが忠義の道だったのです。
忠義という価値観がそれほど重要かどうかは別として、この必要性をなくすことで驚くような生き様ができるということは、大いに参考になると思いました。
みんなから慕われた良寛禅師は、こんな言葉を手紙に残しています。
「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。」
逃げ回るのは、必要性を感じているからです。
その必要性をなくせば、それを受け入れることができます。
私が尊敬する吉田松陰氏も、こういうことを言っています。
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」
(吉田松陰.comより)
生死に囚われない、すなわち死を怖れない、生を必要としないからこそ、大きなことができるのだと思います。
私のようなものでも、50年も生きていれば様々なことがあります。
波瀾万丈と言えるかどうかは別として、平穏な日々を願っていた私にしては、随分と遠くまで来たものです。
それも、そのときどきで、自分の損得を考えず(=自分の必要性を乗り越え)に、もっと大きなもののために生きようとしたからだと思います。
それはすなわち、自分を拡大させることです。
この挑戦に終りはありません。
人生劇場は幕を閉じるまで、いつでも挑戦の機会を与え続けてくれます。
どこまで必要性を捨てきれるか、どこまで自分を拡大できるか、それに挑戦した生き様こそが、他の人たちへの最大の贈り物になるのだと思います。
内村鑑三氏は「後世への最大遺物」という本の中で、こう言います。
「誰にでもできる最大遺物とは、勇ましい高尚なる生涯である。」
あなたの人生劇場を観て喜ぶ人がいます。
必ずいます。
なぜなら、私たちは「ひとつのもの」であり、つながっており、一体なのですから。
勇気を出して、人生の挑戦を受け入れましょう。
ビールは明日くらいからでしょうか。まあ、夕方また考えます。
昨夜は妻と、ジャッキー・チェーンの映画「ライジング・ドラゴン」を見に行きました。
彼の最後の作品になるかもしれないということを、上映中に妻から聞かされました。
お腹がグルグルと鳴るのが気になっていましたが、そのうちに映画に完全にのめり込みましたよ。
やっぱりジャッキーの映画は面白い!最高ですね。
何が面白いって、真剣な動作の中に、ちょくちょく現れるコミカルな動きがあるからです。
思わずクスっと笑えます。
ラストシーンのアクションは圧巻でした。
ネタバレになるので言えませんけど、「なるほど、そうきたか。いや、さすがだなー。」と驚きましたよ。
ぜひ、劇場でご覧ください。観て損のない作品だと思います。
さて、観て楽しいのは、何も映画だけではありません。
人の生きざま、つまり人生劇場も楽しいものです。
十人十色と言いますように、それぞれにそれぞれの人生があります。
その生き様は、どれひとつ同じものはなく、輝かしいものだと思うのです。
そんな自分の人生を、ジャッキーの映画のように「これはすごいや」と思ってもらえたら、どんなにか嬉しいでしょうね。
それで、どんな人生劇場だとそう思われるかを考えたのですが、やはり波瀾万丈の人生というのが一番だと思います。
もちろんラストは、最高点に達するのがいいですね。終わり良ければすべて良しですから。
でも、なかなかそういう人生はないようです。
私が尊敬する勝海舟氏も、江戸城無血開城が華々しい活躍と言えますが、その後はそれほどパッとしたものではありません。
勝の地道な働きかけが実って、徳川家の恩赦が認められたくらいの実績でしょうか。
明治政府に出仕したものの、たいした活躍はしていません。
どうも本人も、希望を失っていたようなフシもあります。
なかなか思い通りに行かないのが人生。それは言えると思います。
そんな何が起こるかわからない人生でも、どう生きるのが素晴らしいのか?
その1つの解として、武士の生き様があります。
たしか葉隠(はがくれ)という書物に書かれている内容だと思いますが、武士の手本としてこういうエピソードがありました。
ある武士が、殿様から呼び出されてこう言われました。
「おぬし、悪いが腹を切ってくれ。」
言われた武士は、眉ひとつ動かさず即答しました。
「しょうちいたしました」
部屋に戻った武士は、すぐに切腹の準備を始めます。
感情的に取り乱すこともなく、淡々と白装束に着替え、あとのことを書き残します。
おだやかな表情で、いざ切腹というときに、殿様がやってきて言いました。
「事情が変わった。切腹はやめよ。」
武士はひれ伏して答えます。
「しょうちいたしました」
武士はすぐに元の装束に着替えると、それまで行なっていた仕事に戻り、また淡々と職務を遂行したのです。
どう思います?
私がこれを初めて読んだとき、2つのことを考えました。
1つは、「ひどいなあ」ということ。
臣下の命を何とも思わず、虫けら同様に扱うことへの憤りです。
それに対して抗議すらできない武士社会に対する反感もありました。
2つ目は、「すごいなあ」ということ。
どうしてこの武士は、切腹の命令にも動揺しなかったのか?また、切腹を許された時も、何ごともなかったかのように平常に戻れたのか?
なぜそんな風にできるのかがわかりませんでした。胆力があるとか、忠誠心がある、というだけでは、説明できなかったのです。
でも今は、1つのこたえがあります。
それは、「必要性を感じない」というキーワードです。
もし必要性を感じていなければ、あるのは単に好みだけです。
いくらサッカーが好きな人だって、24時間サッカーをするわけではありません。
サッカーも好きだけど、今は寝ていようとか、今は食事をしようとか考えます。
サッカーをする必要性からやっているわけではないのです。
上記の武士も、生きる必要性を感じていなかったのだと思います。
自分の生き様とは徹底して忠義を貫くこと。
そう決め、他に何も必要性を感じていなかったのでしょう。
恩賞も身分も、お金も、家族も、何も必要ではなかった。
だから、殿様から切腹を言いつけられれば、その理由を問う必要もなく、ただそれにしたがうことが忠義の道だったのです。
忠義という価値観がそれほど重要かどうかは別として、この必要性をなくすことで驚くような生き様ができるということは、大いに参考になると思いました。
みんなから慕われた良寛禅師は、こんな言葉を手紙に残しています。
「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。」
逃げ回るのは、必要性を感じているからです。
その必要性をなくせば、それを受け入れることができます。
私が尊敬する吉田松陰氏も、こういうことを言っています。
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」
(吉田松陰.comより)
生死に囚われない、すなわち死を怖れない、生を必要としないからこそ、大きなことができるのだと思います。
私のようなものでも、50年も生きていれば様々なことがあります。
波瀾万丈と言えるかどうかは別として、平穏な日々を願っていた私にしては、随分と遠くまで来たものです。
それも、そのときどきで、自分の損得を考えず(=自分の必要性を乗り越え)に、もっと大きなもののために生きようとしたからだと思います。
それはすなわち、自分を拡大させることです。
この挑戦に終りはありません。
人生劇場は幕を閉じるまで、いつでも挑戦の機会を与え続けてくれます。
どこまで必要性を捨てきれるか、どこまで自分を拡大できるか、それに挑戦した生き様こそが、他の人たちへの最大の贈り物になるのだと思います。
内村鑑三氏は「後世への最大遺物」という本の中で、こう言います。
「誰にでもできる最大遺物とは、勇ましい高尚なる生涯である。」
あなたの人生劇場を観て喜ぶ人がいます。
必ずいます。
なぜなら、私たちは「ひとつのもの」であり、つながっており、一体なのですから。
勇気を出して、人生の挑戦を受け入れましょう。
2012年12月27日
驚くほどの執念です
食あたりから5日目。お腹の具合はまずまずですが、また厄介な状態です。
水便は止まったものの、それから3日、便秘状態です。
ガスは異常に出るので、お腹がぷくんと膨らんでしまいます。
食事は普通にしているので、おそらく腸が弱っているのでしょう。
原因のひとつに、飲んでいた赤い薬が考えられます。
3日以上継続して飲むようにと書かれてあったので、おそらくは抗生物質。
これによって悪玉菌は死んだものの、一緒に善玉菌も死んだ可能性があります。
それで今日から、赤い薬をやめてみることにしました。
まあ、きっと数日で良くなるでしょう。あくまで楽観的です。
さて、話は変わりますが、今朝、とても驚いたことがありました。
それは、また鳩がベランダに侵入していたのです。
リビング側のベランダですが、1週間ほど前に侵入経路をテグス(釣り糸)で塞いだばかりでした。
それなのに、侵入していたのです。
追い払うとき、侵入経路を確認しようと思って、逃げ方を注意して見ました。
すると、新たに張ったテグスをかいくぐっていたです。
わずか5cmほどのすき間をくぐって侵入するとは!?
しかも侵入していたのは2羽。どうやら、ベッドルーム側のベランダに巣を作ったつがいのようです。
このしつこさには、本当に呆れます。
追い払ってからも、何度も侵入されているのです。
そのたびに、侵入を防ぐ手立てをして、ベッドルーム側のベランダにいたっては、上部からの侵入も完全に阻止するようにした、完全要塞状態です。
リビング側は、カーテンを開けていることが多いので、まさか巣は作らないだろうと思い、簡易的な防御システムになっていました。
それにしても、ここを塞げばあそこから、あそこを塞げばそちらからと、根負けしそうなくらいに侵入を試みます。
いったい、うちのベランダのどこがそんなに気に入っているのでしょうか?
本当に、鳩語が話せるなら、尋ねてみたいくらいです。
高層のアパートですから、同じような部屋がたくさんあります。
空いている部屋だってあるでしょうから、そういうところのベランダだっていいはずです。
たしかに、あまりに高いと猛禽類に襲われる危険が増すかもしれませんが、15階までのエリアだって、他にも候補はたくさんあるはず。
それなのに、どうしてうちのベランダに?
また補強しなければいけないなあと考えていたとき、近くで少し大きな羽音が聞こえました。
まさか、ベッドルーム側のベランダじゃないよね?
そちらは完全要塞状態ですから。侵入経路はほぼないし、仮に侵入しても、今度は逃げる経路がありません。
そっとベッドルームのカーテンから覗くと、なんと!エアコン室外機の上のペットボトルの間に、鳩がいました!
なんでえーーーー!!!!
どこから入ったのでしょうか?
窓を開けて追い出しにかかると、鳩はそこから飛び立ち、手すりの上に張られたテグスの間を、羽をぶつけることもなくすり抜けて行きました。
うーん、あまりにみごとな脱出です。
普通に羽ばたけば、15cm間隔に張られたテグスに、思い切り羽をぶつけます。
なので鳩は、その直前で羽ばたくのをやめて、羽を広げて滑空したのです。
これをされたら、10cm間隔でもすり抜けられてしまいます。
進入時には、その方法だと窓にぶつかってしまいますから、少し羽ばたいたために羽がぶつかり、音がしたのでしょう。
がっくりです。
完全要塞だったはずなのに、それをあざ笑うかのようなみごとな侵入と逃亡。
まるでルパン三世にしてやられた銭形警部の心境。
こうなったら、さらなる要塞化に着手しなければなりません。
さすがに今のままでも巣は作れないでしょうけど、ベランダに糞をされます。
私が便秘だというのに、鳩は平気でベランダに糞をする。許せません。(笑)
けれども、鳩にも見習わなければならないことがあります。
その磁石のようなしつこさです。
なぜ、そんなに苦労をしてまで完全要塞のベランダを狙うのか?
たしかに、ここを攻略すれば、他から身を守る絶好の場所になることはたしかです。
けれども、そのたびに追い払われているのですから、いいかげんに諦めたらいいのに。
この諦めの悪さは、見習わなければならないと思いました。
と言うことで、鳩と人間との壮絶なるベランダ争奪戦は、まだまだ続きます。
ぜったいに負けないぞー!!!
水便は止まったものの、それから3日、便秘状態です。
ガスは異常に出るので、お腹がぷくんと膨らんでしまいます。
食事は普通にしているので、おそらく腸が弱っているのでしょう。
原因のひとつに、飲んでいた赤い薬が考えられます。
3日以上継続して飲むようにと書かれてあったので、おそらくは抗生物質。
これによって悪玉菌は死んだものの、一緒に善玉菌も死んだ可能性があります。
それで今日から、赤い薬をやめてみることにしました。
まあ、きっと数日で良くなるでしょう。あくまで楽観的です。
さて、話は変わりますが、今朝、とても驚いたことがありました。
それは、また鳩がベランダに侵入していたのです。
リビング側のベランダですが、1週間ほど前に侵入経路をテグス(釣り糸)で塞いだばかりでした。
それなのに、侵入していたのです。
追い払うとき、侵入経路を確認しようと思って、逃げ方を注意して見ました。
すると、新たに張ったテグスをかいくぐっていたです。
わずか5cmほどのすき間をくぐって侵入するとは!?
しかも侵入していたのは2羽。どうやら、ベッドルーム側のベランダに巣を作ったつがいのようです。
このしつこさには、本当に呆れます。
追い払ってからも、何度も侵入されているのです。
そのたびに、侵入を防ぐ手立てをして、ベッドルーム側のベランダにいたっては、上部からの侵入も完全に阻止するようにした、完全要塞状態です。
リビング側は、カーテンを開けていることが多いので、まさか巣は作らないだろうと思い、簡易的な防御システムになっていました。
それにしても、ここを塞げばあそこから、あそこを塞げばそちらからと、根負けしそうなくらいに侵入を試みます。
いったい、うちのベランダのどこがそんなに気に入っているのでしょうか?
本当に、鳩語が話せるなら、尋ねてみたいくらいです。
高層のアパートですから、同じような部屋がたくさんあります。
空いている部屋だってあるでしょうから、そういうところのベランダだっていいはずです。
たしかに、あまりに高いと猛禽類に襲われる危険が増すかもしれませんが、15階までのエリアだって、他にも候補はたくさんあるはず。
それなのに、どうしてうちのベランダに?
また補強しなければいけないなあと考えていたとき、近くで少し大きな羽音が聞こえました。
まさか、ベッドルーム側のベランダじゃないよね?
そちらは完全要塞状態ですから。侵入経路はほぼないし、仮に侵入しても、今度は逃げる経路がありません。
そっとベッドルームのカーテンから覗くと、なんと!エアコン室外機の上のペットボトルの間に、鳩がいました!
なんでえーーーー!!!!
どこから入ったのでしょうか?
窓を開けて追い出しにかかると、鳩はそこから飛び立ち、手すりの上に張られたテグスの間を、羽をぶつけることもなくすり抜けて行きました。
うーん、あまりにみごとな脱出です。
普通に羽ばたけば、15cm間隔に張られたテグスに、思い切り羽をぶつけます。
なので鳩は、その直前で羽ばたくのをやめて、羽を広げて滑空したのです。
これをされたら、10cm間隔でもすり抜けられてしまいます。
進入時には、その方法だと窓にぶつかってしまいますから、少し羽ばたいたために羽がぶつかり、音がしたのでしょう。
がっくりです。
完全要塞だったはずなのに、それをあざ笑うかのようなみごとな侵入と逃亡。
まるでルパン三世にしてやられた銭形警部の心境。
こうなったら、さらなる要塞化に着手しなければなりません。
さすがに今のままでも巣は作れないでしょうけど、ベランダに糞をされます。
私が便秘だというのに、鳩は平気でベランダに糞をする。許せません。(笑)
けれども、鳩にも見習わなければならないことがあります。
その磁石のようなしつこさです。
なぜ、そんなに苦労をしてまで完全要塞のベランダを狙うのか?
たしかに、ここを攻略すれば、他から身を守る絶好の場所になることはたしかです。
けれども、そのたびに追い払われているのですから、いいかげんに諦めたらいいのに。
この諦めの悪さは、見習わなければならないと思いました。
と言うことで、鳩と人間との壮絶なるベランダ争奪戦は、まだまだ続きます。
ぜったいに負けないぞー!!!
2012年12月28日
やれることからやってみる
超しつこい鳩とのベランダ争奪戦に突入し、2ヶ月が経過していますが、まだ勝敗がつきません。
昨日の記事で紹介したように、鉄壁の要塞と思っていたベッドルーム側のベランダにも侵入を許し、気持ちがくじけそうになりましよ。
けれども私も、しつこさでは誰にも負けない自信があります。
チョー粘着質の性格ですから。(「だから嫌われるんだろう?」ですって?)
昨夜は遅く帰ったので何もしなかったのですが、今朝、さっそく応急処置を施しました。
奴らが侵入するのは、たいていは手すりの下部のすき間。
もともとそこにもテグス(釣り糸)を張っていたのですが、さらに1本追加して3本にしました。
手すりの下部の柱に直接張ったテグスが1本だったため、その下をかいくぐられたのです。
ですから、そのさらに下に1本張って2本にすることで、下をくぐれないようにしたというわけです。
さらに上の写真のように、格子になった手すりのすき間にも止まれないように、手すりの中にもテグスを張りました。
下の写真のように、ベランダの上部のテグスは、リビング側は特に増やしていません。
ベッドルーム側だけ、手すりの上部から50cmくらいの高さまで、これまでのすき間15cmを狭めて7.5cmくらいになるよう、テグスを増やしました。
さすがにこれで、侵入を諦めてくれるでしょうか?
今までならそう思いたいところですが、用心深いのも私の特質。
おそらく奴らは、しばらく様子を見るでしょう。
そしてまた、侵入を試みるはずです。
なぜそう言えるかというと、彼らにはまだ、偵察ポイントが残されているからです。
用心深い鳩は、まずはベランダの手すりなどに止まって、安全かどうかを確認します。
つまり、手すりは彼らの偵察ポイントなのです。
そこにとまらせると、彼らの侵入を容易にしてしまいます。
私の部屋のベランダは、その偵察ポイントは潰しました。
上の写真のように、手すりの上部にテグスを張ることで、手すりにとまれなくしたのです。
けれども、これは盲点でしたが、ベランダの下部の床の、わずか5cmもなかろうという手すりの外側が、偵察ポイントになっていました。
このスペースに、飛んできた鳩がとまるのです。
これは驚きましたね。
だって、壁(この場合は手すり)にぶつかるくらいの勢いで飛んできて、急ブレーキをかけて、わずか奥行き5cmの平面に着地しなければなりません。
人間や猿なら手すりをつかんで、落ちそうになる自分の体重を支えることも可能ですが、鳩には無理な話。
バランスを崩さずにちょうどそこでとまらないといけないのです。
テグスを張る前は、まだ手すりの下部にすき間があったので、そこに倒れこむことも可能で、余裕がありました。
けれどもそこをテグスで塞いだので、テグスにさえぶつからずにとまるというのは、無理なことだと考えていたのです。
しかし実際は、鳩たちは難なくそこへとまり、ベランダの様子を伺い、テグスをかいくぐって侵入していたのです。
今朝は応急的な対応で済ませましたが、最終的にはその偵察ポイント潰す必要があると考えています。
つまり、ベランダの下部にもとまらせないようにすること。
ベランダの両端から10cmくらい突き出すように棒を設置し、その棒の間にテグスを張ることで、鳩が手すりの外側の床にもとまれないようにする。
この対策を、近いうちにやろうと考えています。
しつこくて賢い鳩が勝つか、しつこさでは負けないと自負する、パンラヤー(妻)からはンゴー(ばか)と呼ばれるサーミー(夫)が勝つか、世紀の勝負が続きます。
なんて、困りもののハト対策も、これだけ楽しんでやったら幸せに感じられますよね。
なんでも楽しんでやること。
考え方次第でそれができるのですから、そうしない方が損だと思います。
昨日の記事で紹介したように、鉄壁の要塞と思っていたベッドルーム側のベランダにも侵入を許し、気持ちがくじけそうになりましよ。
けれども私も、しつこさでは誰にも負けない自信があります。
チョー粘着質の性格ですから。(「だから嫌われるんだろう?」ですって?)
昨夜は遅く帰ったので何もしなかったのですが、今朝、さっそく応急処置を施しました。
奴らが侵入するのは、たいていは手すりの下部のすき間。
もともとそこにもテグス(釣り糸)を張っていたのですが、さらに1本追加して3本にしました。
手すりの下部の柱に直接張ったテグスが1本だったため、その下をかいくぐられたのです。
ですから、そのさらに下に1本張って2本にすることで、下をくぐれないようにしたというわけです。
さらに上の写真のように、格子になった手すりのすき間にも止まれないように、手すりの中にもテグスを張りました。
下の写真のように、ベランダの上部のテグスは、リビング側は特に増やしていません。
ベッドルーム側だけ、手すりの上部から50cmくらいの高さまで、これまでのすき間15cmを狭めて7.5cmくらいになるよう、テグスを増やしました。
さすがにこれで、侵入を諦めてくれるでしょうか?
今までならそう思いたいところですが、用心深いのも私の特質。
おそらく奴らは、しばらく様子を見るでしょう。
そしてまた、侵入を試みるはずです。
なぜそう言えるかというと、彼らにはまだ、偵察ポイントが残されているからです。
用心深い鳩は、まずはベランダの手すりなどに止まって、安全かどうかを確認します。
つまり、手すりは彼らの偵察ポイントなのです。
そこにとまらせると、彼らの侵入を容易にしてしまいます。
私の部屋のベランダは、その偵察ポイントは潰しました。
上の写真のように、手すりの上部にテグスを張ることで、手すりにとまれなくしたのです。
けれども、これは盲点でしたが、ベランダの下部の床の、わずか5cmもなかろうという手すりの外側が、偵察ポイントになっていました。
このスペースに、飛んできた鳩がとまるのです。
これは驚きましたね。
だって、壁(この場合は手すり)にぶつかるくらいの勢いで飛んできて、急ブレーキをかけて、わずか奥行き5cmの平面に着地しなければなりません。
人間や猿なら手すりをつかんで、落ちそうになる自分の体重を支えることも可能ですが、鳩には無理な話。
バランスを崩さずにちょうどそこでとまらないといけないのです。
テグスを張る前は、まだ手すりの下部にすき間があったので、そこに倒れこむことも可能で、余裕がありました。
けれどもそこをテグスで塞いだので、テグスにさえぶつからずにとまるというのは、無理なことだと考えていたのです。
しかし実際は、鳩たちは難なくそこへとまり、ベランダの様子を伺い、テグスをかいくぐって侵入していたのです。
今朝は応急的な対応で済ませましたが、最終的にはその偵察ポイント潰す必要があると考えています。
つまり、ベランダの下部にもとまらせないようにすること。
ベランダの両端から10cmくらい突き出すように棒を設置し、その棒の間にテグスを張ることで、鳩が手すりの外側の床にもとまれないようにする。
この対策を、近いうちにやろうと考えています。
しつこくて賢い鳩が勝つか、しつこさでは負けないと自負する、パンラヤー(妻)からはンゴー(ばか)と呼ばれるサーミー(夫)が勝つか、世紀の勝負が続きます。
なんて、困りもののハト対策も、これだけ楽しんでやったら幸せに感じられますよね。
なんでも楽しんでやること。
考え方次第でそれができるのですから、そうしない方が損だと思います。
2012年12月29日
幸せを感じないのは承認しないからです
2012年も、残りわずかとなりました。
昨日が仕事納めでしたが、このブログは今日が今年の最後となります。
来年は、1月3日から再開する予定でいます。
ブログを始めてから今日まで、私のつたない文章をお読みくださって、どうもありがとうございました。
今年、幸せになれなかったと思われる方も、来年にはぜひ、幸せになっていただきたいと思います。
今後ともどうぞ、よろしくお願いします。
さて、世の中には「なんとなく幸せじゃない」という人がいます。
両親も健在だし、会社で特にいじめられてるわけでもない。
それなりに会話する友だちはいるけど、休日になるとなぜか独りで過ごすことが多い。
「たまには電話でもかけてくれたらいいのに。」
便りがないのは元気な証拠とばかりに、放っておかれるのもつらい。
「なんだかなあ。」
特に何かやりたいものもないし、将来に希望があるわけでもない。
漠然とした不安のようなものはあるけど、それほど差し迫った不安はない。
こんな生活を悪いと言ったら罰が当たると思うけど、かと言ってこれを幸せと呼ぶには物足りない。
そんな「なんとなく幸せじゃない」って人、多くありませんか?
そういう人は、自分に対する承認が足りないと感じているのです。
先日の記事で、「承認」というスタンプを押す駐車場管理人の動画を紹介しました。
人は、今の自分を認めてもらえると、それだけで嬉しくなるのです。
自分自身を見失っていたから、それを再発見した気持ちになるので喜ぶのです。
ですから誰かが、「あなたは本当に素晴らしい」と真顔で真剣に言ってくれたら、幸せな気分になれるのです。
自分の何かが変わったわけではありません。今のそのままで、幸せになるのです。
ならばその承認を、自分でやったらどうでしょうか?
それが私の提案です。
私が提唱する「鏡のワーク」とは、まさに自分で自分を承認する方法です。
もう1つ、別の方法があります。
それは、他の誰かを承認することです。
他の誰かを承認すると、どうして自分が幸せになるのでしょうか?
それは、世の中に「他の誰か」というものは存在せず、実在するのは「ひとつのもの」だからです。
つまり「他の誰か」に対して行ったことは、すなわち自分に対して行ったことになるのです。
黄金律に、自分がしてほしいことを他人に対してしなさいとありますが、それはまさにこのことです。
自分に対する承認が足りなくて、承認して欲しいと願うのだったら、自分が他の誰かを承認してあげれば良いのです。
この説明を読んで、「なるほど」と思いながらも行動できない人がいます。
「それはわかっているんだけど、ヤル気が起きないんだよね。」
こういう人は、本当はまだわかっていないのです。
本当の意味で知るということは、必ず行動に結びつくはずだと、陽明学では知行合一(ちこうごういつ)と言いました。
ですから、本当の意味でわかっていないのですから、本当の意味でわかるようにすれば良いのです。
その方法としては、読書というものをお勧めします。
「同じ本を7回読む」というワークは、ぜひ試してみてほしいものです。
リビングで、トイレで、ベッドルームで、くつろいでいる1日わずか数分を、約1〜3ページを読むのに費やすくらい、たいした努力はいらないでしょう。
どうしても読めないなら、読まなくてもかまいません。
本を手にとって開いてみる。それしかできない日があってもかまわないので、毎日続けることが大切です。
あなたが幸せになるためのハードルは、けして高いものではありません。
それは、多くの人びとが道を作ってくれているからです。
イエス、ブッダ、ムハンマド、孔子、ガンジー、マザーテレサ、中村天風...
その後をついていくだけで幸せになれるようになっています。
あなたがそのことを否定しない限り、あなたはそうなるでしょう。
どうぞ、良いお年をお迎えください。
昨日が仕事納めでしたが、このブログは今日が今年の最後となります。
来年は、1月3日から再開する予定でいます。
ブログを始めてから今日まで、私のつたない文章をお読みくださって、どうもありがとうございました。
今年、幸せになれなかったと思われる方も、来年にはぜひ、幸せになっていただきたいと思います。
今後ともどうぞ、よろしくお願いします。
さて、世の中には「なんとなく幸せじゃない」という人がいます。
両親も健在だし、会社で特にいじめられてるわけでもない。
それなりに会話する友だちはいるけど、休日になるとなぜか独りで過ごすことが多い。
「たまには電話でもかけてくれたらいいのに。」
便りがないのは元気な証拠とばかりに、放っておかれるのもつらい。
「なんだかなあ。」
特に何かやりたいものもないし、将来に希望があるわけでもない。
漠然とした不安のようなものはあるけど、それほど差し迫った不安はない。
こんな生活を悪いと言ったら罰が当たると思うけど、かと言ってこれを幸せと呼ぶには物足りない。
そんな「なんとなく幸せじゃない」って人、多くありませんか?
そういう人は、自分に対する承認が足りないと感じているのです。
先日の記事で、「承認」というスタンプを押す駐車場管理人の動画を紹介しました。
人は、今の自分を認めてもらえると、それだけで嬉しくなるのです。
自分自身を見失っていたから、それを再発見した気持ちになるので喜ぶのです。
ですから誰かが、「あなたは本当に素晴らしい」と真顔で真剣に言ってくれたら、幸せな気分になれるのです。
自分の何かが変わったわけではありません。今のそのままで、幸せになるのです。
ならばその承認を、自分でやったらどうでしょうか?
それが私の提案です。
私が提唱する「鏡のワーク」とは、まさに自分で自分を承認する方法です。
もう1つ、別の方法があります。
それは、他の誰かを承認することです。
他の誰かを承認すると、どうして自分が幸せになるのでしょうか?
それは、世の中に「他の誰か」というものは存在せず、実在するのは「ひとつのもの」だからです。
つまり「他の誰か」に対して行ったことは、すなわち自分に対して行ったことになるのです。
黄金律に、自分がしてほしいことを他人に対してしなさいとありますが、それはまさにこのことです。
自分に対する承認が足りなくて、承認して欲しいと願うのだったら、自分が他の誰かを承認してあげれば良いのです。
この説明を読んで、「なるほど」と思いながらも行動できない人がいます。
「それはわかっているんだけど、ヤル気が起きないんだよね。」
こういう人は、本当はまだわかっていないのです。
本当の意味で知るということは、必ず行動に結びつくはずだと、陽明学では知行合一(ちこうごういつ)と言いました。
ですから、本当の意味でわかっていないのですから、本当の意味でわかるようにすれば良いのです。
その方法としては、読書というものをお勧めします。
「同じ本を7回読む」というワークは、ぜひ試してみてほしいものです。
リビングで、トイレで、ベッドルームで、くつろいでいる1日わずか数分を、約1〜3ページを読むのに費やすくらい、たいした努力はいらないでしょう。
どうしても読めないなら、読まなくてもかまいません。
本を手にとって開いてみる。それしかできない日があってもかまわないので、毎日続けることが大切です。
あなたが幸せになるためのハードルは、けして高いものではありません。
それは、多くの人びとが道を作ってくれているからです。
イエス、ブッダ、ムハンマド、孔子、ガンジー、マザーテレサ、中村天風...
その後をついていくだけで幸せになれるようになっています。
あなたがそのことを否定しない限り、あなたはそうなるでしょう。
どうぞ、良いお年をお迎えください。
●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。