久しぶりに軽い話題を。
今朝目が覚めたら、やけに外が明るいのです。
おかしいなあと思いつつ時計を見ると、いつもの出勤時間の3分前。
びっくりしましたよ。
1時間前に鳴るはずの目覚まし時計が鳴っていないのですから。
妻に聞いても鳴っていないと言います。
ともかく急いで出社しなければ。
以前ならパニックになりかけるところですが、今の私は違います。
それは、「この世は幻想だ」と見抜いて生きようと思っているからです。
「よし、この状況を楽しもう。さーて、何分で出られるかな?」
そう考えて、シャワーや着替えにかかる時間を想定します。
10分もあれば準備できそう。それに少し速歩で歩けば、いつもより5分くらいの遅れですみそうだ。
そう算段して、鼻歌交じりに着替えをしました。
少し速歩で歩くと、なんだか元気になったような気がします。
急いでいると他人が邪魔に感じられたりしますが、それもすでに想定しています。
急ぎながらも心に余裕を持とう。
それが可能なのも、「この世は幻想だ」と見抜いているからです。
結局、いつもより5分くらい遅く会社に到着し、始業時間までまだ8分余裕がありました。
ぎりぎり間に合う時間に目覚めたというのも、なんだか奇跡的に思えます。
こういう寝坊があったからこそ、こういう体験ができたんだなぁって思いますよ。
昨夜は、妻と一緒に近くの居酒屋へ行って、いつもより多めに飲んでしまいました。
1リットルの、その名も「男前ビール」を飲み、そのあと中ジョッキで2杯。
美味しい刺身を肴に、妻との食事を楽しみました。
実はその前の日も、妻と一緒に食事へ行きました。
そのときは映画を観に、近くのターミナル21というショッピングモールへ行ったので、その中にあるお店です。
このジンギスカン鍋みたいな鉄板で肉を焼くのですが、周りが溝のようになっていて、そこに水を張って野菜などを茹でるのです。
いわば、焼肉としゃぶしゃぶを同時に楽しめるような感じ。
面白いでしょう?
毎日のように、こうやって食事やビールを楽しめるのも、私の関係者のお陰だと思います。
タイという社会で暮らさせていただけるから、安くて快適な生活ができています。
社員が一所懸命に働いてくれるから、私は経営者として給料をいただけます。
妻が機嫌よく付き合ってくれるから、楽しい時間を過ごすことができます。
本当にありがたいことですね。
感謝しろなどと言われなくても、感謝せざるを得ないのです。
2012年12月11日
2012年12月12日
子どもを上手に躾ける方法
私には子どもはいません。
なので、子どもの躾け方を語る資格がないと、考える人もいるでしょう。
けれども、広島大学学校教育学部に進学したくらいですから、それなりに関心を持っています。
関心があれば、そういう情報が集まってくるものです。
まあその程度のものですが、私の考えを書きたいと思います。
子どもの教育と言えば、森信三氏を知らない人はいないでしょう。
「修身教授録」という著作があり、「全一学」を提唱された国民教育者の友という生き方をされた方です。
広島高等師範学校(広島大学教育学部の前身)を出られているので、そういう意味では広島大学の先輩にもなります。
その森信三氏が、「しつけの三原則」というものを提唱されています。
(一) 朝のあいさつをする子に。
それには先ず親の方からさそい水を出す。
(二) 「ハイ」とはっきり返事のできる子に。
それには母親が、主人に呼ばれたら必ず「ハイ」と返事をすること。
(三) 席を立ったら必ずイスを入れ、
ハキモノを脱いだら必ずそろえる子に。
躾けはこの3つで良いと言います。これさえできるようになれば、立派な大人になれると。
では、これを子どもに躾けるには、どうすれば良いのでしょうか?
上記にもありますが、大人が手本になることが重要ですよね。
山本五十六氏が作ったとされる人を動かす方法を示す歌がありますが、子どもの躾けにおいても有効でしょう。
「やって みせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、 人は動かじ。」
これは、マクドナルドがアルバイトのスタッフを教育するのにも使われた方法で、短期間で即戦力に仕立てるための効果的な教育法と言われています。
まず自分がやって見せ、どうやれば良いかを言葉で説明し、それを実際にさせてみて、どこが良いと評価してやること。
そうすることで、人はできるようになるのだと。
だから子どもの躾けでも、まず親が手本を示すことですね。
その上で、どうやるのかを教え、やらせてみて、上手くできたところを褒めてやる。
「そうは言われても、やらなかったりすると腹が立つんだよね。」
そういう気持ちは、よーくわかります。
私も会社員として、部下の教育に携わってきましたから。
何度注意しても遅刻が改まらない部下には、本当にうんざりしましたよ。
そこで出てくるのが、「叱る」という方法です。
よく「叱るのは良いけど、怒るのは悪い。」と言う人がいます。
つまり「叱る」のは愛情があるからで、「怒る」のは不満をぶつけているだけだから、と言うのです。
私も、その通りだと思っていました。
「思っていました」と書いたのは、今はそう思っていないからです。
なぜか?
それは、相手に何かをさせなければならない、という必要性を捨てれば良いと気づいたからです。
相手は、それが子どもであっても自由な存在です。
それをどんな方法であれ、自分の意のままに動かす必要があるのでしょうか?
また意のままに動かそうという気持ちは、愛だと言えるでしょうか?
私は、それを愛だとは思わないのです。
必要性というのは、「そうでなければならない」という気持ちです。
一方で好みというのは、「そうだったらいいな」という気持ちです。
必要性は執着であり、依存です。不安を動機とした考えですから、愛とはかけ離れています。
好みは、単に自分らしさの表明です。「私は赤が好き」というのは、単に赤い色が自分にふさわしいと思っていることを表明しただけです。
相手が子どもであっても、自分がどう生きたいかは、子ども自身に選ばせれば良いと思うのです。
たとえば上記の「イスを入れる」とか「ハキモノをそろえる」というのも、親がそうするのが気持ちが良い(=好み)と思うなら、自分がやれば良いだけだと思うのです。
どうして子どもに無理やりさせなければならないのでしょうか?
親が楽しそうにやっていれば、子どもは言われなくてもやりたいと思うでしょう。だって、そうするのが楽しいのですから。
だから履物を揃える子どもに、「偉いねえ」という褒め言葉をかけるより、「気持ちがいいねえ」と自分の気持ちを言ってあげれば良いと思うのです。
もし子どもが親のことが大好きなら、親を喜ばせたいと思うでしょう。
時には親の意に従わないことがあっても、親をないがしろにはしないはずです。
だって親のことが大好きだし、大切にしたいし、愛しているのですから。
親もまた、子どもを所有物のように考えることをやめることです。
子どもは自由な1人の人間であって、親の所有物ではありません。
ですから、そもそも親の意のままにさせる必要性もないし、言うことを聞かなくても、叱る必要性もないと思うのです。
よく、子どもに勉強させようとして、こんなことを言う親がいます。
「私は子どもの頃に勉強しなかったから、大人になって、こんな仕事しかできずに苦労している。だから、今はすごく後悔しているんだ。お前には、こういう後悔をしてほしくない。だから勉強しろと口酸っぱく言うんだよ。」
これを、親の愛情だと錯覚している人がいますが、とんでもない誤りです。
後悔しているのは、親自身でしょう。だったら、その後悔(=反省)によって、自分の人生をより良いものに変えていけば良いだけです。
それをしないのは、単に責任を他に押し付けて、自分が変われないことの言い訳にしているだけでしょう。
勉強が足りないと思うなら、親が一所懸命に勉強したら良いのです。
そういう姿を見れば、子どもだって必死に勉強するかもしれません。
子どもを躾ける必要性はありません。
「ありがとう」や「こんにちは」が言えなくても、何も親が困ることはありません。
子どもが困ったら、そのときは子ども自身が言うようになるでしょう。
親が世間体を気にして恥ずかしいと思い、自分の所有物(=子ども)を立派に見せたいから、躾けようとしているだけではありませんか?
自分の動機をよくよく見つめてみること。それが大切だと思うのです。
なので、子どもの躾け方を語る資格がないと、考える人もいるでしょう。
けれども、広島大学学校教育学部に進学したくらいですから、それなりに関心を持っています。
関心があれば、そういう情報が集まってくるものです。
まあその程度のものですが、私の考えを書きたいと思います。
子どもの教育と言えば、森信三氏を知らない人はいないでしょう。
「修身教授録」という著作があり、「全一学」を提唱された国民教育者の友という生き方をされた方です。
広島高等師範学校(広島大学教育学部の前身)を出られているので、そういう意味では広島大学の先輩にもなります。
その森信三氏が、「しつけの三原則」というものを提唱されています。
(一) 朝のあいさつをする子に。
それには先ず親の方からさそい水を出す。
(二) 「ハイ」とはっきり返事のできる子に。
それには母親が、主人に呼ばれたら必ず「ハイ」と返事をすること。
(三) 席を立ったら必ずイスを入れ、
ハキモノを脱いだら必ずそろえる子に。
躾けはこの3つで良いと言います。これさえできるようになれば、立派な大人になれると。
では、これを子どもに躾けるには、どうすれば良いのでしょうか?
上記にもありますが、大人が手本になることが重要ですよね。
山本五十六氏が作ったとされる人を動かす方法を示す歌がありますが、子どもの躾けにおいても有効でしょう。
「やって みせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、 人は動かじ。」
これは、マクドナルドがアルバイトのスタッフを教育するのにも使われた方法で、短期間で即戦力に仕立てるための効果的な教育法と言われています。
まず自分がやって見せ、どうやれば良いかを言葉で説明し、それを実際にさせてみて、どこが良いと評価してやること。
そうすることで、人はできるようになるのだと。
だから子どもの躾けでも、まず親が手本を示すことですね。
その上で、どうやるのかを教え、やらせてみて、上手くできたところを褒めてやる。
「そうは言われても、やらなかったりすると腹が立つんだよね。」
そういう気持ちは、よーくわかります。
私も会社員として、部下の教育に携わってきましたから。
何度注意しても遅刻が改まらない部下には、本当にうんざりしましたよ。
そこで出てくるのが、「叱る」という方法です。
よく「叱るのは良いけど、怒るのは悪い。」と言う人がいます。
つまり「叱る」のは愛情があるからで、「怒る」のは不満をぶつけているだけだから、と言うのです。
私も、その通りだと思っていました。
「思っていました」と書いたのは、今はそう思っていないからです。
なぜか?
それは、相手に何かをさせなければならない、という必要性を捨てれば良いと気づいたからです。
相手は、それが子どもであっても自由な存在です。
それをどんな方法であれ、自分の意のままに動かす必要があるのでしょうか?
また意のままに動かそうという気持ちは、愛だと言えるでしょうか?
私は、それを愛だとは思わないのです。
必要性というのは、「そうでなければならない」という気持ちです。
一方で好みというのは、「そうだったらいいな」という気持ちです。
必要性は執着であり、依存です。不安を動機とした考えですから、愛とはかけ離れています。
好みは、単に自分らしさの表明です。「私は赤が好き」というのは、単に赤い色が自分にふさわしいと思っていることを表明しただけです。
相手が子どもであっても、自分がどう生きたいかは、子ども自身に選ばせれば良いと思うのです。
たとえば上記の「イスを入れる」とか「ハキモノをそろえる」というのも、親がそうするのが気持ちが良い(=好み)と思うなら、自分がやれば良いだけだと思うのです。
どうして子どもに無理やりさせなければならないのでしょうか?
親が楽しそうにやっていれば、子どもは言われなくてもやりたいと思うでしょう。だって、そうするのが楽しいのですから。
だから履物を揃える子どもに、「偉いねえ」という褒め言葉をかけるより、「気持ちがいいねえ」と自分の気持ちを言ってあげれば良いと思うのです。
もし子どもが親のことが大好きなら、親を喜ばせたいと思うでしょう。
時には親の意に従わないことがあっても、親をないがしろにはしないはずです。
だって親のことが大好きだし、大切にしたいし、愛しているのですから。
親もまた、子どもを所有物のように考えることをやめることです。
子どもは自由な1人の人間であって、親の所有物ではありません。
ですから、そもそも親の意のままにさせる必要性もないし、言うことを聞かなくても、叱る必要性もないと思うのです。
よく、子どもに勉強させようとして、こんなことを言う親がいます。
「私は子どもの頃に勉強しなかったから、大人になって、こんな仕事しかできずに苦労している。だから、今はすごく後悔しているんだ。お前には、こういう後悔をしてほしくない。だから勉強しろと口酸っぱく言うんだよ。」
これを、親の愛情だと錯覚している人がいますが、とんでもない誤りです。
後悔しているのは、親自身でしょう。だったら、その後悔(=反省)によって、自分の人生をより良いものに変えていけば良いだけです。
それをしないのは、単に責任を他に押し付けて、自分が変われないことの言い訳にしているだけでしょう。
勉強が足りないと思うなら、親が一所懸命に勉強したら良いのです。
そういう姿を見れば、子どもだって必死に勉強するかもしれません。
子どもを躾ける必要性はありません。
「ありがとう」や「こんにちは」が言えなくても、何も親が困ることはありません。
子どもが困ったら、そのときは子ども自身が言うようになるでしょう。
親が世間体を気にして恥ずかしいと思い、自分の所有物(=子ども)を立派に見せたいから、躾けようとしているだけではありませんか?
自分の動機をよくよく見つめてみること。それが大切だと思うのです。
2012年12月13日
これで待機児童問題も完全に解決できます
待機児童が2万5千人もいるという問題が、ニュースで取り上げられていました。
これは、認可保育園に入れたいと親が希望している児童の数です。
「保育園が足りないのが原因なのだから、子ども手当などでバラマキするより、認可保育園を作ったらいいんだ!」
衆議院選挙も近いので、そういう声が聞かれます。
けれども、そういう単純な問題ではなさそうです。
まず全国で見ると、入園を希望する児童の数は、認可保育所の定員以下なのだそうです。
つまり、待機児童問題は大都市の問題であり、地方にはないのです。
そうなると、税収などで潤っているはずの大都市が、認可保育園を作らないからとも言えるし、一極集中の弊害だとも言えるわけです。
後者の意見に従うなら、一極集中を是正することが、そのまま待機児童の低減につながるというわけです。
また別の観点で言うと、保育料が高いという問題があります。
認可保育園だと各自治体によって異なりますが、だいたい3歳未満は3歳以上の2〜3倍の料金で、前年度の親の所得(所得税額)によって保育料が変わるようです。
0歳児だと、最高で7〜10万円もしてしまうようですね。
これは、年齢が低いほど児童に手がかかるからで、対応する保育士がかかえられる児童数が少なくなるからです。
私設(無認可)の保育園だと、もう少し高くなるようです。
保育料の高さが問題になるのは、親の所得が低いという問題があるからです。いわゆる貧困化、格差の拡大という問題です。
所得が低いから、なるべく保育料を抑えたい。それには認可保育園に入れないといけない。となって、待機児童が増えるのです。
私設の保育園は、親の所得に関係なく保育料を設定しているところが多いでしょう。
そのため認可保育園に入れられずに私設の保育園に入れると、さらに貧困化が進むというわけです。
このように大都会では母親が働くために保育園に子どもを預けたくても、簡単に預けられないという問題があります。
そのために子どもを産むのを躊躇する、つまり少子化という問題にもつながってきます。
待機児童の増大、一極集中、貧困化(格差拡大)、少子化。これらの問題は、密接に関係しあっています。
この問題を私たちは、どう解決することが可能なのでしょうか?
私には、1つの方法が見えています。
けれどもそれは、おそらく受け入れがたいでしょう。
なぜなら、みなさんの価値観が変わらないと実現しないからです。
でも、もし価値観を変えることができたら、子育てに必要な費用は圧倒的に少なくなり、母親は安心して働くことができ、少子化や一極集中、貧困化の問題さえも解消してしまいます。
それは、リスクを共有することです。
なぜ保育の費用が高いかというと、あらゆる点で安全でなければならない、と考えているからです。
また、全員が平等に安全性を享受しなければならない、と考えているからです。
そのため、コストが高くなっています。
具体的に言えば、保育園の施設には何がなければならないとか、保育士は何人いなければならないなど、規則が多すぎるのです。
いえ、規則があっても良いのですが、すべてそれを満たさなければならないという平等主義が問題なのです。
たとえば、規則の一部を満たさないことによってコストが下げられるなら、その分の保育料を下げることができるはずです。
安全や快適を追求したいなら、それなりの費用を負担する。その代わり、それらを追求しないことで安く保育してもらうこともできる。
そういうように、選択肢を広げることが大切だと思うのです。
お金をかけようと思えばかけられるし、かけたくないと思えばかけずにすむ。そういう自由に生き方を選択できる社会は、素晴らしいと思いませんか?
私は、老人ホームで子どもを預かったら良いと思います。
老人ホームのお年寄りは、何も介護される人ばかりではありません。
3歳以上の子どもであれば、遊び相手として調度良いでしょう。
お年寄りは、生きがいを見つけるかもしれません。子どもは、お年寄りの愛情を受け、知恵を学ぶかもしれません。
双方にメリットがあるのでしたら、子どもを預かる老人ホーム側も、それほど高い費用を設定する必要性がないでしょう。
子育ては親がすべきという価値観を捨てることです。
子どもは社会の宝、国の宝と言うなら、それこそ社会で育てたら良いと思うのです。
たとえば、子どもが生まれたら、その子育ては現役を引退したお年寄りが育てるという仕組を作ったらどうでしょうか?
老人ホームに預けるというのも、それを実現する方法の1つです。
あるいは、田舎に両親が住んでいるなら、両親に預けて子育てをしてもらう。
田舎に両親がいないなら、子育て経験のある老夫婦に里親になってもらい、育ててもらう。
そういう仕組を作ったら良いのです。
親は、週末に子どもに会いに行くこともできます。
長期休暇をとって、田舎で子どもと一緒に過ごしても良いでしょう。
地方の人口は増加し、地方と交流する若い世代が増え、将来は田舎で暮らそうと考える人が増えるかもしれません。
自分が育てないと不安だ。子育ては親の義務だ。
そういう考え方を捨てさえすれば、社会的にこれほどメリットがある方法はありません。
親だけで子どもを育てようとするのではなく、もっと多くの人が愛情を持って子育てに関わるのです。
子どもに悪影響を及ぼすですって?
そんな証拠がありますか?むしろ逆に、そうでない証拠なら多数ありますよ。
日本はかつて、そういうことをしていました。そしてタイなどの国でも、そういう子育てをしています。
できないことではありません。ただ、できないと考えているだけなのです。
これは、認可保育園に入れたいと親が希望している児童の数です。
「保育園が足りないのが原因なのだから、子ども手当などでバラマキするより、認可保育園を作ったらいいんだ!」
衆議院選挙も近いので、そういう声が聞かれます。
けれども、そういう単純な問題ではなさそうです。
まず全国で見ると、入園を希望する児童の数は、認可保育所の定員以下なのだそうです。
つまり、待機児童問題は大都市の問題であり、地方にはないのです。
そうなると、税収などで潤っているはずの大都市が、認可保育園を作らないからとも言えるし、一極集中の弊害だとも言えるわけです。
後者の意見に従うなら、一極集中を是正することが、そのまま待機児童の低減につながるというわけです。
また別の観点で言うと、保育料が高いという問題があります。
認可保育園だと各自治体によって異なりますが、だいたい3歳未満は3歳以上の2〜3倍の料金で、前年度の親の所得(所得税額)によって保育料が変わるようです。
0歳児だと、最高で7〜10万円もしてしまうようですね。
これは、年齢が低いほど児童に手がかかるからで、対応する保育士がかかえられる児童数が少なくなるからです。
私設(無認可)の保育園だと、もう少し高くなるようです。
保育料の高さが問題になるのは、親の所得が低いという問題があるからです。いわゆる貧困化、格差の拡大という問題です。
所得が低いから、なるべく保育料を抑えたい。それには認可保育園に入れないといけない。となって、待機児童が増えるのです。
私設の保育園は、親の所得に関係なく保育料を設定しているところが多いでしょう。
そのため認可保育園に入れられずに私設の保育園に入れると、さらに貧困化が進むというわけです。
このように大都会では母親が働くために保育園に子どもを預けたくても、簡単に預けられないという問題があります。
そのために子どもを産むのを躊躇する、つまり少子化という問題にもつながってきます。
待機児童の増大、一極集中、貧困化(格差拡大)、少子化。これらの問題は、密接に関係しあっています。
この問題を私たちは、どう解決することが可能なのでしょうか?
私には、1つの方法が見えています。
けれどもそれは、おそらく受け入れがたいでしょう。
なぜなら、みなさんの価値観が変わらないと実現しないからです。
でも、もし価値観を変えることができたら、子育てに必要な費用は圧倒的に少なくなり、母親は安心して働くことができ、少子化や一極集中、貧困化の問題さえも解消してしまいます。
それは、リスクを共有することです。
なぜ保育の費用が高いかというと、あらゆる点で安全でなければならない、と考えているからです。
また、全員が平等に安全性を享受しなければならない、と考えているからです。
そのため、コストが高くなっています。
具体的に言えば、保育園の施設には何がなければならないとか、保育士は何人いなければならないなど、規則が多すぎるのです。
いえ、規則があっても良いのですが、すべてそれを満たさなければならないという平等主義が問題なのです。
たとえば、規則の一部を満たさないことによってコストが下げられるなら、その分の保育料を下げることができるはずです。
安全や快適を追求したいなら、それなりの費用を負担する。その代わり、それらを追求しないことで安く保育してもらうこともできる。
そういうように、選択肢を広げることが大切だと思うのです。
お金をかけようと思えばかけられるし、かけたくないと思えばかけずにすむ。そういう自由に生き方を選択できる社会は、素晴らしいと思いませんか?
私は、老人ホームで子どもを預かったら良いと思います。
老人ホームのお年寄りは、何も介護される人ばかりではありません。
3歳以上の子どもであれば、遊び相手として調度良いでしょう。
お年寄りは、生きがいを見つけるかもしれません。子どもは、お年寄りの愛情を受け、知恵を学ぶかもしれません。
双方にメリットがあるのでしたら、子どもを預かる老人ホーム側も、それほど高い費用を設定する必要性がないでしょう。
子育ては親がすべきという価値観を捨てることです。
子どもは社会の宝、国の宝と言うなら、それこそ社会で育てたら良いと思うのです。
たとえば、子どもが生まれたら、その子育ては現役を引退したお年寄りが育てるという仕組を作ったらどうでしょうか?
老人ホームに預けるというのも、それを実現する方法の1つです。
あるいは、田舎に両親が住んでいるなら、両親に預けて子育てをしてもらう。
田舎に両親がいないなら、子育て経験のある老夫婦に里親になってもらい、育ててもらう。
そういう仕組を作ったら良いのです。
親は、週末に子どもに会いに行くこともできます。
長期休暇をとって、田舎で子どもと一緒に過ごしても良いでしょう。
地方の人口は増加し、地方と交流する若い世代が増え、将来は田舎で暮らそうと考える人が増えるかもしれません。
自分が育てないと不安だ。子育ては親の義務だ。
そういう考え方を捨てさえすれば、社会的にこれほどメリットがある方法はありません。
親だけで子どもを育てようとするのではなく、もっと多くの人が愛情を持って子育てに関わるのです。
子どもに悪影響を及ぼすですって?
そんな証拠がありますか?むしろ逆に、そうでない証拠なら多数ありますよ。
日本はかつて、そういうことをしていました。そしてタイなどの国でも、そういう子育てをしています。
できないことではありません。ただ、できないと考えているだけなのです。
2012年12月14日
これは神様が私に言わせているのだと思いました
私の家族は、特に信心深いということはありません。
家には神棚と仏壇があって、お仏飯と水は、割とよく取り替えていたでしょうか。
私自身は頼まれればやりますが、自ら進んでやったことはありません。
強いて言えば、祖父のために般若心経を唱えたくらいです。
神棚はありましたが、柏手を打った記憶もないほどです。
正月に餅を供えたときくらいは、やったかもしれませんけど。
そんな家庭でしたが、自然と、天には神様がおられて私たちを見守っているのだ、という考えを持っていました。
それはやはり、両親や祖父母から、そういう話を聞かされて育ったからでしょう。
「1粒の米粒には、7人の神様が宿っておられる。だからご飯粒1つも残さないように食べなさい。」
そう言われたものです。みなさんも、そんな風に言われたのではありませんか?
あれは、小学校の3〜4年くらいだったと思います。
一人遊びが好きだった私は、田んぼの畦道で四つ葉のクローバーを探していました。
1つ見つかると、その近くには四つ葉がある確率が高いことを、私は体験的に知っていました。
宝探しでもするかのように、四つ葉探しに熱中したのです。
四つ葉と三つ葉がくっついたような、七つ葉というのも見つけましたね。
五つ葉もけっこう見つかりますが、四つ葉の方が縁起が良いと考えて、葉を1つもぎ取ったりもしました。人工の四つ葉ですね。
そんなことをしながら、ふとこんなことを考えたのです。
「ぼくがこうしていることも、天の神様は見ているのかなあ?」
「ただ見ているだけじゃなくて、きっとぼくが何を考えているかもわかるんだろうなあ。」
「だとすると、ぼくが今、神様のことを考えていることも、わかっているんだろうなあ。」
「ひょっとしたら神様は、わかっているだけじゃなくて、ぼくがどう考えるかとか、何を言うかを決めているのかもしれない。」
「だとすると、ぼくが考えたり言ったりしていることも、実は神様が考えさせたり言わせたりしているのかも。」
「でもそうすると、今そう考えたことも、神様が言わせているの?」
「その言葉も、神様が言わせているの?」
だんだんとわけがわからなくなりました。 (^_^;)
この話の記憶はそこまでなのですが、神様が私を通じて考えを示し、言葉を発しているなんて突飛な考えは、誰から教わったものでもありません。
偶然に、ふと、そんなことを考えただけです。
でもなぜか、ずっと記憶に残っていました。
今になって考えると、案外突飛なことでもないかもしれない、と思います。
なぜなら、私たちは「ひとつのもの」だということは、私と神様とは一体だということですから。
そういう意味では、神様が言うのと私が言うのは、同じことだとも言えるのです。
こんなことを言うと、「神に対する冒涜(ぼうとく)だ!」とか「頭がおかしいんじゃないの?」と言われるかもしれません。
けれども、「ひとつのもの」という考えを受け入れるなら、論理的な帰結としてそうなるのです。
そして、「ひとつのもの」であるなら冒涜ということもないし、私だけが特別ということもないし、神様ではないものは何もないということになります。
これは本当に世界を変える福音だなあと、しみじみ思うのです。
家には神棚と仏壇があって、お仏飯と水は、割とよく取り替えていたでしょうか。
私自身は頼まれればやりますが、自ら進んでやったことはありません。
強いて言えば、祖父のために般若心経を唱えたくらいです。
神棚はありましたが、柏手を打った記憶もないほどです。
正月に餅を供えたときくらいは、やったかもしれませんけど。
そんな家庭でしたが、自然と、天には神様がおられて私たちを見守っているのだ、という考えを持っていました。
それはやはり、両親や祖父母から、そういう話を聞かされて育ったからでしょう。
「1粒の米粒には、7人の神様が宿っておられる。だからご飯粒1つも残さないように食べなさい。」
そう言われたものです。みなさんも、そんな風に言われたのではありませんか?
あれは、小学校の3〜4年くらいだったと思います。
一人遊びが好きだった私は、田んぼの畦道で四つ葉のクローバーを探していました。
1つ見つかると、その近くには四つ葉がある確率が高いことを、私は体験的に知っていました。
宝探しでもするかのように、四つ葉探しに熱中したのです。
四つ葉と三つ葉がくっついたような、七つ葉というのも見つけましたね。
五つ葉もけっこう見つかりますが、四つ葉の方が縁起が良いと考えて、葉を1つもぎ取ったりもしました。人工の四つ葉ですね。
そんなことをしながら、ふとこんなことを考えたのです。
「ぼくがこうしていることも、天の神様は見ているのかなあ?」
「ただ見ているだけじゃなくて、きっとぼくが何を考えているかもわかるんだろうなあ。」
「だとすると、ぼくが今、神様のことを考えていることも、わかっているんだろうなあ。」
「ひょっとしたら神様は、わかっているだけじゃなくて、ぼくがどう考えるかとか、何を言うかを決めているのかもしれない。」
「だとすると、ぼくが考えたり言ったりしていることも、実は神様が考えさせたり言わせたりしているのかも。」
「でもそうすると、今そう考えたことも、神様が言わせているの?」
「その言葉も、神様が言わせているの?」
だんだんとわけがわからなくなりました。 (^_^;)
この話の記憶はそこまでなのですが、神様が私を通じて考えを示し、言葉を発しているなんて突飛な考えは、誰から教わったものでもありません。
偶然に、ふと、そんなことを考えただけです。
でもなぜか、ずっと記憶に残っていました。
今になって考えると、案外突飛なことでもないかもしれない、と思います。
なぜなら、私たちは「ひとつのもの」だということは、私と神様とは一体だということですから。
そういう意味では、神様が言うのと私が言うのは、同じことだとも言えるのです。
こんなことを言うと、「神に対する冒涜(ぼうとく)だ!」とか「頭がおかしいんじゃないの?」と言われるかもしれません。
けれども、「ひとつのもの」という考えを受け入れるなら、論理的な帰結としてそうなるのです。
そして、「ひとつのもの」であるなら冒涜ということもないし、私だけが特別ということもないし、神様ではないものは何もないということになります。
これは本当に世界を変える福音だなあと、しみじみ思うのです。
2012年12月15日
出来事の奴隷とならない生き方をする
今日は、久しぶりにゴルフをしました。
昨年までは、年に20〜30ラウンドはしていたのですが、昨年の11月に発生した大洪水以来、行く機会が少なくなっていました。
今年はこれで6回目。おそらく今年の最後のラウンドです。
朝7時過ぎのスタートで、芝生には足跡や車の跡が残っています。
人工的に作った自然とは言え、草木の香り、鳥のさえずりの中でプレーするのは気持ちがいいですね。
少し陽が登ってくると、ハエが顔の周りを飛び回ったりして鬱陶しいのですが、まあその鬱陶しさもゴルフのうちです。
スコアは106で、それほど良くもありませんが、気持よく楽しいゴルフができて、とてもありがたいと思いました。
ラウンド中に、同伴者の1人が不機嫌になりました。
若いキャディーさんが、ボールの飛び先を見ていないのです。
それでボールをロストしたりして、不機嫌になったのです。
「ヤル気がないなら帰ったらいいのに。ほんと、替わってくれないかなあ。」
相手にわからないと思って、日本語で愚痴をこぼします。
そういう気持ち、私もよくわかります。
タイは、1人のプレーヤーにキャディーさんが1人つくスタイルのゴルフです。
これで総額1万円もしないのですから、いかにゴルフ天国かがわかるでしょう?
でも、約5時間のプレー中、ずっとキャディーさんと行動を共にするわけですから、相性が合うかどうかは大問題です。
私もゴルフを始めてしばらくは、合わないキャディーさんの時にイライラしたものでした。
特に、ボールを探してくれないとか、探すのが遅いとか、てれてれ歩いてくるキャディーさんが嫌いでした。
私は目があまり良くないこともあって、自分が打ったボールがどこに飛んだのか、特に落ち際が見えないのです。
それでもゆっくり相手に合わせてやることも可能かもしれませんが、ゴルフには遅延プレーの禁止というルールがあります。
なので、自分が打つ番が来たらさっさと打ちたい。そのためには、早め早めに準備をしたい。
そういう焦りから、思い通りに動かないキャディーさんにイライラを募らせたのでした。
ある日、あまりひどいキャディーさんだったので、頭にきてチップを減らしました。
普通なら200バーツのチップをあげるところを、100バーツしかあげなかったのです。
すると、猛然と抗議をしてきました。
「1日回ってたったの100バーツ!?どういうことよ?普通は200バーツ払うでしょう!?」
私は、「あなたの働きは100バーツでも多いくらいだよ。」と日本語で言い返し、あとは無視してロッカールームへ向かったのでした。
せっかくの休日のゴルフが、まったく楽しくありません。
「あのキャディー、ひどくてさあ。100バーツしかやらなかったら、文句を言うんだよ。」
そんな愚痴を、プレー後の食事の時に同伴者にもらし、同情を買おうとしました。
けれども、それでも気持ちが収まらないのです。
面白くないし、楽しめません。
そして冷静になってから思いました。
「あのキャディーさんだって、生活がかかっているんだよなあ。」
1日、必ず客につけるとも限りません。平日だとゴルファーも少ないでしょうから。
やっと順番が回ってきて、5〜6時間の仕事をして、もらえるキャディーフィーは150〜200バーツくらい。(当時の金額)
プレーヤーからチップを貰えるますが、それでも1日に400バーツほど。月収ではせいぜい8,000バーツくらいでしょうか。約22,000円くらいです。
バンコクの最低賃金が6,000バーツですから、もうほぼそれに近いくらいの稼ぎです。
そのチップの200バーツを半分に減らされたのですから、たまったものではないでしょう。
たしかに、むかつくような対応があったし、「チップがほしかったら客が喜ぶような仕事をしろ!」と言うのも正論だと思います。
けれども、私が楽しめなかったという気持ちは、いくらチップを減額しても変わらなかったのです。
「こんな嫌な気持ちになるなら、チップを減額するのはやめよう。」
私はそう決めました。
それからは、少々気に入らないキャディーさんでも、怒らないようにしました。
だって、私が楽しめなかったら、私が損するだけじゃありませんか。
悪いところは見ない。良い所だけを見て、楽しむように考える。
キャディーさんが遅いなら、私がクラブを持って先に行けば良いだけです。
そうしていると、不思議なことですが、私につくキャディーさんに、悪いキャディーさんがいなくなったのです。
他の同伴者はときどき悪いキャディーさんにあたるのに、なぜか私だけは良いキャディーさんなのです。
けして美人のキャディーさんじゃありませんが、ちゃんと仕事をしてくれるのです。
この日も、機嫌が悪くなった同伴者が言いました。
「オレは今日、200バーツしかやらないよ。赤木さんは300バーツあげるんでしょう?あのキャディーさんはいいもんね。」
最近はキャディーフィーが値上げされていて、250バーツ前後くらいになっています。
チップはキャディーフィーと同額くらいを払うというのが相場なため、良いキャディーさんなら300バーツ、悪ければ200バーツとする人が多いです。
私は、普通であれば300バーツに決めています。良ければ、そのときの気分次第で500バーツということも。滅多なことでは200バーツにはしません。
どんなキャディーさんでも、暑い中を一緒に約5時間、重いバッグを引っ張って歩いてくれたのです。
その感謝の意味を込めて、300バーツをあげるようにしたのです。
今日も、楽しくゴルフができました。
キャディーさん次第で自分の機嫌が左右されることを拒否し、自分が主体的に自分の機嫌を決めるなら、いつでも楽しく過ごすことができると思うのです。
昨年までは、年に20〜30ラウンドはしていたのですが、昨年の11月に発生した大洪水以来、行く機会が少なくなっていました。
今年はこれで6回目。おそらく今年の最後のラウンドです。
朝7時過ぎのスタートで、芝生には足跡や車の跡が残っています。
人工的に作った自然とは言え、草木の香り、鳥のさえずりの中でプレーするのは気持ちがいいですね。
少し陽が登ってくると、ハエが顔の周りを飛び回ったりして鬱陶しいのですが、まあその鬱陶しさもゴルフのうちです。
スコアは106で、それほど良くもありませんが、気持よく楽しいゴルフができて、とてもありがたいと思いました。
ラウンド中に、同伴者の1人が不機嫌になりました。
若いキャディーさんが、ボールの飛び先を見ていないのです。
それでボールをロストしたりして、不機嫌になったのです。
「ヤル気がないなら帰ったらいいのに。ほんと、替わってくれないかなあ。」
相手にわからないと思って、日本語で愚痴をこぼします。
そういう気持ち、私もよくわかります。
タイは、1人のプレーヤーにキャディーさんが1人つくスタイルのゴルフです。
これで総額1万円もしないのですから、いかにゴルフ天国かがわかるでしょう?
でも、約5時間のプレー中、ずっとキャディーさんと行動を共にするわけですから、相性が合うかどうかは大問題です。
私もゴルフを始めてしばらくは、合わないキャディーさんの時にイライラしたものでした。
特に、ボールを探してくれないとか、探すのが遅いとか、てれてれ歩いてくるキャディーさんが嫌いでした。
私は目があまり良くないこともあって、自分が打ったボールがどこに飛んだのか、特に落ち際が見えないのです。
それでもゆっくり相手に合わせてやることも可能かもしれませんが、ゴルフには遅延プレーの禁止というルールがあります。
なので、自分が打つ番が来たらさっさと打ちたい。そのためには、早め早めに準備をしたい。
そういう焦りから、思い通りに動かないキャディーさんにイライラを募らせたのでした。
ある日、あまりひどいキャディーさんだったので、頭にきてチップを減らしました。
普通なら200バーツのチップをあげるところを、100バーツしかあげなかったのです。
すると、猛然と抗議をしてきました。
「1日回ってたったの100バーツ!?どういうことよ?普通は200バーツ払うでしょう!?」
私は、「あなたの働きは100バーツでも多いくらいだよ。」と日本語で言い返し、あとは無視してロッカールームへ向かったのでした。
せっかくの休日のゴルフが、まったく楽しくありません。
「あのキャディー、ひどくてさあ。100バーツしかやらなかったら、文句を言うんだよ。」
そんな愚痴を、プレー後の食事の時に同伴者にもらし、同情を買おうとしました。
けれども、それでも気持ちが収まらないのです。
面白くないし、楽しめません。
そして冷静になってから思いました。
「あのキャディーさんだって、生活がかかっているんだよなあ。」
1日、必ず客につけるとも限りません。平日だとゴルファーも少ないでしょうから。
やっと順番が回ってきて、5〜6時間の仕事をして、もらえるキャディーフィーは150〜200バーツくらい。(当時の金額)
プレーヤーからチップを貰えるますが、それでも1日に400バーツほど。月収ではせいぜい8,000バーツくらいでしょうか。約22,000円くらいです。
バンコクの最低賃金が6,000バーツですから、もうほぼそれに近いくらいの稼ぎです。
そのチップの200バーツを半分に減らされたのですから、たまったものではないでしょう。
たしかに、むかつくような対応があったし、「チップがほしかったら客が喜ぶような仕事をしろ!」と言うのも正論だと思います。
けれども、私が楽しめなかったという気持ちは、いくらチップを減額しても変わらなかったのです。
「こんな嫌な気持ちになるなら、チップを減額するのはやめよう。」
私はそう決めました。
それからは、少々気に入らないキャディーさんでも、怒らないようにしました。
だって、私が楽しめなかったら、私が損するだけじゃありませんか。
悪いところは見ない。良い所だけを見て、楽しむように考える。
キャディーさんが遅いなら、私がクラブを持って先に行けば良いだけです。
そうしていると、不思議なことですが、私につくキャディーさんに、悪いキャディーさんがいなくなったのです。
他の同伴者はときどき悪いキャディーさんにあたるのに、なぜか私だけは良いキャディーさんなのです。
けして美人のキャディーさんじゃありませんが、ちゃんと仕事をしてくれるのです。
この日も、機嫌が悪くなった同伴者が言いました。
「オレは今日、200バーツしかやらないよ。赤木さんは300バーツあげるんでしょう?あのキャディーさんはいいもんね。」
最近はキャディーフィーが値上げされていて、250バーツ前後くらいになっています。
チップはキャディーフィーと同額くらいを払うというのが相場なため、良いキャディーさんなら300バーツ、悪ければ200バーツとする人が多いです。
私は、普通であれば300バーツに決めています。良ければ、そのときの気分次第で500バーツということも。滅多なことでは200バーツにはしません。
どんなキャディーさんでも、暑い中を一緒に約5時間、重いバッグを引っ張って歩いてくれたのです。
その感謝の意味を込めて、300バーツをあげるようにしたのです。
今日も、楽しくゴルフができました。
キャディーさん次第で自分の機嫌が左右されることを拒否し、自分が主体的に自分の機嫌を決めるなら、いつでも楽しく過ごすことができると思うのです。
2012年12月17日
どんな人にも1つや2つ儲けのネタはある!
吉江勝さんの新刊、「どんな人にも1つや2つ儲けのネタはある!」を読みました。
以前に紹介した「人生を好転させるたった2つのこと」は、吉江さんらしく「生き方」のテーマに正面からぶつかるような内容でした。
つまり、「ワクワクするような好きなことをやる」ということと、「やることに使命を見出して全力をつくす」ということです。
今回は、タイトルだけ見ると、安直な金儲けの話のようにも思えます。
けれども、吉江さんのテーマはそのままに、それを具体化する方法について深く掘り下げています。
しかも、単に今の会社が面白くないからとか、良い所に就職できないからというような、個人の事情だけを理由にしているのではありません。
時代がすでに変わろうとしており、これからは会社ではなく、個人の生き方が問われる時代になると言うのです。
このことは、神田昌典さんもその著書「2022−これから10年、活躍できる人の条件」の中で言っています。
因みに神田さんの本で、「小予算で優良顧客をつかむ方法」がリメークされて出版されていますが、これもマーケティングを勉強するには最高の本だと思います。
それと「全能思考」という本も、物語が解決策を創り出すという考え方が、とても面白いと思いましたので、合わせて紹介しておきます。
話を戻すと、吉江さんの本は、誰もが起業して食べていけると断言し、その具体的な方法を示しています。
しかし本書は、単に金儲けの勧めではありません。
そうではなく、生き方の提言です。
自分らしく生きることを追求することが、幸せで豊かな人生につながるのだということを言わんとしているのです。
特にp.207からの「おわりに」に書かれていることが、この本のテーマなのだろうなと感じました。
そこには、こう書かれています。
> もし、目の前に神様が現れて
> 「あなたの好きなことを一つだけ与えよう」と言われたら
> あなたは何と答えますか?
さあ、あなたは何と答えますか?そして、吉江さんは何と答えたのでしょう?
ここを読みながら私は、論語にある孔子の話を思い出しました。
4人の弟子に対して、「自分のことを評価されないと嘆いているが、もし評価されたらどんなことをしたいか?」と尋ねたという「先進篇第十一26」の話です。
弟子の3人は、それぞれ国の宰相になって立派な政をしたいというような抱負を語ります。
しかし最後の弟子、曾皙(そうせき)は、他の3人とは違うことを答えます。
「春の終わり頃に、友人や子どもたちと一緒に川へ水浴へ行って涼み、歌を歌いながら帰ってきたい。」
そんなどこにでもあるような、穏やかな1日が望みだと言ったのです。
それに対して孔子は、「私もそうだよ」と答えたのでした。
2012年12月18日
陽極まれば陰に転ず
難しそうなタイトルでごめんなさい。易経(えききょう)の話です。
中国の古典で、筮竹(ぜいちく)を使って森羅万象の変化を予想する占いでもあります。
「易」とか「易占い」と書いて、椅子に座っている人を見たことがありませんか?
あれも易経をもとにした占いをしています。四柱推命とか、それをもとにした六星占術なども、元をたどれば易経に行き着くわけです。
ただ、これを「当たるも八卦」の単なる占いと考えてはいけません。
なぜなら、易経は儒教の基本書籍である五経の1つとされているからです。立派な学問の書籍なのです。
そんな難しい易経ですが、エッセンスはそれほど難しいものではありません。
世の中はすべて、陰と陽の2つから成り立っており、陰の中にも陽があり、陽の中にも陰があると説いています。
陰とか陽という呼び方がしっくり来なければ、マイナスとプラスでも、女と男でも、闇と光でも、何でもかまいませんよ。
ともかくそういった相対的な、対照的な2つの要素の組合せが、この世の森羅万象だと言うのです。
しかもそれらは、常に動き続けます。
陰から陽へ、陽から陰へと、絶え間なく変化すると言うのです。
その変化を見極め、予想することで、将来起こることに対処するというのが、易経の目指すところでもあるのでしょう。
易経に、こんな言葉があります。
「陰、極まれば陽に転ず。」「陽、極まれば陰に転ず。」
つまり、マイナスも行き着くとプラスに変化するし、その逆もあると言うことです。
これはなんとなく理解できると思います。
「冬来たりなば春遠からじ」「夜明け前が最も暗い」「禍福はあざなえる縄の如し」
そういうように、私たちの先輩たちも言っています。
つまり、この世はすべて陰と陽の変化のリズムでできているのですから、落ちるところまで落ちれば、あとは自動的に上昇するのです。
このことを言葉では知っていても、腹まで落とし込んでいない人が多いようです。
ですから落ちることが怖くて、もがいてしまうのでしょう。
落ちるなら、落ちるところまで落ちたらよろしい。そうすれば、あとは登るだけなのですから。
昇り龍と降り龍の絵をご存知ですか?
下まで落ち切って、頭を上に向けた瞬間の龍が昇り龍です。その逆に、上まで登り切って、頭を下に向けた瞬間の龍が降り龍です。
あの絵も、実は陰陽を表しているのです。
もう1つ重要なことがあります。
陽が良くて、陰が悪い、ということではない、と言うことです。
陰も陽も、単にエネルギーの度合いを示しているだけであって、陰と陽の間の変化とは、単にエネルギーの増減のリズムに過ぎないのです。
呼吸も、吸うのが良くて、吐くのが悪いわけではありません。単にリズムに過ぎないのです。
男が良くて、女が悪いのでもなく、夏が良くて、冬が悪いわけでもありません。
ですから、下り坂の時に「悪い」と決めつけて意気消沈するとしたら、それは事実を見ない滑稽なことと言わざるを得ないでしょう。
仮に万人が「悪い」と言おうとどうしようと、あなたがそれを認めなければ良いのです。
景気が下降気味だと、景気が悪いと表現します。
それは単にその人の価値観であって、事実を表したものではありません。
会社に就職できないことが悪いのではなく、会社に就職できないからこそ、他の生き方が選択しやすくなるというメリットさえあるのです。
昨日紹介した吉江勝さんの新刊、「どんな人にも1つや2つ儲けのネタはある!」を読むと、そのことが書かれています。
今は就職難だからこそ無理に会社に就職しようとせず、やりたい仕事が自分のペースでできる起業という選択肢を選びやすくなっている。
そう考えたら、今の時代を「悪い」と決めつける方がおかしいしでしょう。
また、そう決めつけるのは、自分で自分を不幸にしようとするのと同じことだと思うのです。
中国の古典で、筮竹(ぜいちく)を使って森羅万象の変化を予想する占いでもあります。
「易」とか「易占い」と書いて、椅子に座っている人を見たことがありませんか?
あれも易経をもとにした占いをしています。四柱推命とか、それをもとにした六星占術なども、元をたどれば易経に行き着くわけです。
ただ、これを「当たるも八卦」の単なる占いと考えてはいけません。
なぜなら、易経は儒教の基本書籍である五経の1つとされているからです。立派な学問の書籍なのです。
そんな難しい易経ですが、エッセンスはそれほど難しいものではありません。
世の中はすべて、陰と陽の2つから成り立っており、陰の中にも陽があり、陽の中にも陰があると説いています。
陰とか陽という呼び方がしっくり来なければ、マイナスとプラスでも、女と男でも、闇と光でも、何でもかまいませんよ。
ともかくそういった相対的な、対照的な2つの要素の組合せが、この世の森羅万象だと言うのです。
しかもそれらは、常に動き続けます。
陰から陽へ、陽から陰へと、絶え間なく変化すると言うのです。
その変化を見極め、予想することで、将来起こることに対処するというのが、易経の目指すところでもあるのでしょう。
易経に、こんな言葉があります。
「陰、極まれば陽に転ず。」「陽、極まれば陰に転ず。」
つまり、マイナスも行き着くとプラスに変化するし、その逆もあると言うことです。
これはなんとなく理解できると思います。
「冬来たりなば春遠からじ」「夜明け前が最も暗い」「禍福はあざなえる縄の如し」
そういうように、私たちの先輩たちも言っています。
つまり、この世はすべて陰と陽の変化のリズムでできているのですから、落ちるところまで落ちれば、あとは自動的に上昇するのです。
このことを言葉では知っていても、腹まで落とし込んでいない人が多いようです。
ですから落ちることが怖くて、もがいてしまうのでしょう。
落ちるなら、落ちるところまで落ちたらよろしい。そうすれば、あとは登るだけなのですから。
昇り龍と降り龍の絵をご存知ですか?
下まで落ち切って、頭を上に向けた瞬間の龍が昇り龍です。その逆に、上まで登り切って、頭を下に向けた瞬間の龍が降り龍です。
あの絵も、実は陰陽を表しているのです。
もう1つ重要なことがあります。
陽が良くて、陰が悪い、ということではない、と言うことです。
陰も陽も、単にエネルギーの度合いを示しているだけであって、陰と陽の間の変化とは、単にエネルギーの増減のリズムに過ぎないのです。
呼吸も、吸うのが良くて、吐くのが悪いわけではありません。単にリズムに過ぎないのです。
男が良くて、女が悪いのでもなく、夏が良くて、冬が悪いわけでもありません。
ですから、下り坂の時に「悪い」と決めつけて意気消沈するとしたら、それは事実を見ない滑稽なことと言わざるを得ないでしょう。
仮に万人が「悪い」と言おうとどうしようと、あなたがそれを認めなければ良いのです。
景気が下降気味だと、景気が悪いと表現します。
それは単にその人の価値観であって、事実を表したものではありません。
会社に就職できないことが悪いのではなく、会社に就職できないからこそ、他の生き方が選択しやすくなるというメリットさえあるのです。
昨日紹介した吉江勝さんの新刊、「どんな人にも1つや2つ儲けのネタはある!」を読むと、そのことが書かれています。
今は就職難だからこそ無理に会社に就職しようとせず、やりたい仕事が自分のペースでできる起業という選択肢を選びやすくなっている。
そう考えたら、今の時代を「悪い」と決めつける方がおかしいしでしょう。
また、そう決めつけるのは、自分で自分を不幸にしようとするのと同じことだと思うのです。
2012年12月20日
仏教を見直してみましょう
「仏教」と言うと、みなさんはどんなイメージでしょうか?
「葬式」「法事」「修行」「説教」「禁欲」...
あまり明るいイメージがないかもしれませんね。
けれども、私は仏教にはとても素晴らしいものがあると思っています。
それは、この世の本質の探求において、これほど真理を明らかにした宗教はないと思うからです。
しかも、2500年前の1人の人物によって始まったものであり、その人物、シッダールタ太子の修行と思索の中で生まれたものです。
私は僧侶でもないし、本格的に仏教を学んだわけでもありません。
ですから、そういう人たちからすれば、私の理解は中途半端なものに見えるかもしれません。
けれども、他の宗教教義との比較や、私自身の内的探求の中で感じたことがあります。
それを私は、私の真実として受け入れ、表明しています。
したがって、他の人にとっての真実ではない可能性は十分にありますし、それで良いと思っています。
それぞれが自分の心に問うて、自分の真実を見つけることが重要だと思うからです。
仏教で特筆すべき考え方は、輪廻転生です。
この考え方は、キリスト教やイスラム教などにはありません。
人は何度も生まれ変わる。つまり、生命は永遠であることを意味します。
キリスト教などでも永遠の命という言い方をしますが、この世の生は1回限りのものと考えられがちです。
何度でも生まれ変わるということは、何度も違う生き方を試せるということであり、これは私たちにとって福音です。
なぜなら、この世の生を失うことへの恐怖が軽減されるからです。
しかし、それだと何をやっても同じだから、清く正しく生きる必要性がないという考え方になりかねません。
そこで考えられたのが、地獄という考え方です。あるいは、生まれ変わっても人間になれず、畜生に成り下がるという考え方です。
そうやって脅さなければいけないと、誰かが考えたのでしょうね。
しかしそれは、大変な矛盾です。
それによって「何のために生きるのか?」という答えに、たどり着けなくなってしまったからです。
清く正しく生きなければ苦しみを与えられるのだとしたら、誰か(=神)がそう仕向けていることになります。
けれども仏教は、この世の創造主(=神)については語りません。
なぜ、清く正しく生きなければならないのか?苦しみを与えるぞと脅されるからでしょうか?
また、清く正しくとは、いったいどういうことでしょうか?誰がその答を知っているのでしょうか?
それに対して仏教は、明確な答えを持ちません。
実は仏教では、本当はそういう地獄などというものはないことを語っていたのでした。
それが、「般若心経の意味がわかった」で書いたことです。
ここには、実にシンプルにこの世の真実が語られています。
あまりにシンプル過ぎて、人びとが信じなかったくらいです。(笑)
般若心経で言っているのは、「この世のすべては空(くう)である」という一言に尽きます。
男も女も、高いも低いも、清いも汚れも、そういう陰陽で示されるような相対的なものは真実の姿ではない、と言っています。
この世にあるのは、ただ空(くう)のみ。それが真実の姿であると言うのです。
だから、貴いも下賎もないし、良いも悪いもありません。
清く正しくなどというものは100%ないことを、般若心経は示しています。
ただ、それでは何が喜びなのか、何が我々にとって良いことなのかが、多くの人は理解できなかった。
だから、そんなことがあるはずがないと、その教えを信じなかったのです。
大乗仏教の中心的な経典であるにも関わらず、あまりにシンプル過ぎて、誰もが知っているのに信じられない経典となっています。
しかし、般若心経の最後は、喜びのマントラで結ばれています。
すべてが空(くう)であることが私たちの救いであり、喜びであることを明確に表しているのです。
私が初めて仏教の教えに目覚めたのは、小学生の時に読書感想文を書くために選んだ「ゴータマ・シッダールタ太子」という本を読んだときでした。
そこには、この世には生老病死という4つの苦しみ、いわゆる四苦があると書かれていました。
老病死の苦しみは、すぐに理解できましたが、生きることも苦だという考えは、まだ子どもで苦労知らずの私には理解できなかったのです。
その四苦や八苦が理解できるようになったとき、すべての苦しみは執着から生まれることが理解できました。
だから仏教では、執着しないことを何よりも大事にしたのです。
しかし、どんなに意識しても、執着を手放すことは容易ではありません。
究極のことを考えてみれば、それがよくわかるでしょう。
たとえば水に溺れたときは、必死になって空気を求めて暴れ、のたうち回るでしょう。
それは、生への執着であり、空気への執着なのです。
もし仮に、それに執着しなければどうなるでしょうか?
たしかに死ぬかもしれません。
けれども、執着によって生まれる苦しみはなく、暴れまわることはないでしょう。
思い出してください。仏教は輪廻転生を語っています。
すなわち死とは姿を変えることであって、命が尽きることではないと言っています。
つまり生に執着する必要性はないのだということを、仏教は語っているのです。
すべてが空(くう)であるということは、空は何にも因らずに存在しているのであって、そこには始まりもなければ終りもないことを意味します。
それはつまり、「永遠」ということではないでしょうか?
またそれは、「すべて」ということではないでしょうか?
それが「すべて」であるなら、どうして他に何かを必要とするでしょうか?だって「すべて」なのですから。
そして他に何も必要としないのであれば、どうして何かに執着する必要があるのでしょうか?
こうしてすべての謎が解決します。
この世のすべての真実の姿が空(くう)ならば、本質が空(くう)ならば、それは永遠であり、すべてなのです。
姿形は変わるでしょうけど、生命は永遠であり、他に何も必要とはしません。
だから執着する必要はまったくなく、執着がないのであれば苦しみは存在し得ないのです。
それは私たちにとって、喜びではないのでしょうか?救いではないのでしょうか?
仏教による救いは、何も阿弥陀仏の再臨を待つ必要性はありません。
私たちは本質的に救われており、改めて救われなければならない存在ではないからです。
ただ、この世の表面的に見える仮の姿を幻想と見抜き、本質は空(くう)であることに気づけば良いだけ。
だから釈迦は、厳しい修行をしたから悟りが開けるのではないと言ったのでしょう。
ただ座って、自分の内部に入って行くことで、私たちの本質に気づく。
それだけで悟りに至ると言ったのだと思うのです。
これが、私が仏教に対して抱いている考え方です。
それぞれの宗派の正当な考え方とは違うと思いますが、私はこれがもっとも筋が通っていると思うし、私の心もこれが良いと感じています。
ですから私の真実として、この考え方を採用しているのです。
そのためのたくさんの示唆を与えてくれた仏教には、心からありがたいと思っています。
「葬式」「法事」「修行」「説教」「禁欲」...
あまり明るいイメージがないかもしれませんね。
けれども、私は仏教にはとても素晴らしいものがあると思っています。
それは、この世の本質の探求において、これほど真理を明らかにした宗教はないと思うからです。
しかも、2500年前の1人の人物によって始まったものであり、その人物、シッダールタ太子の修行と思索の中で生まれたものです。
私は僧侶でもないし、本格的に仏教を学んだわけでもありません。
ですから、そういう人たちからすれば、私の理解は中途半端なものに見えるかもしれません。
けれども、他の宗教教義との比較や、私自身の内的探求の中で感じたことがあります。
それを私は、私の真実として受け入れ、表明しています。
したがって、他の人にとっての真実ではない可能性は十分にありますし、それで良いと思っています。
それぞれが自分の心に問うて、自分の真実を見つけることが重要だと思うからです。
仏教で特筆すべき考え方は、輪廻転生です。
この考え方は、キリスト教やイスラム教などにはありません。
人は何度も生まれ変わる。つまり、生命は永遠であることを意味します。
キリスト教などでも永遠の命という言い方をしますが、この世の生は1回限りのものと考えられがちです。
何度でも生まれ変わるということは、何度も違う生き方を試せるということであり、これは私たちにとって福音です。
なぜなら、この世の生を失うことへの恐怖が軽減されるからです。
しかし、それだと何をやっても同じだから、清く正しく生きる必要性がないという考え方になりかねません。
そこで考えられたのが、地獄という考え方です。あるいは、生まれ変わっても人間になれず、畜生に成り下がるという考え方です。
そうやって脅さなければいけないと、誰かが考えたのでしょうね。
しかしそれは、大変な矛盾です。
それによって「何のために生きるのか?」という答えに、たどり着けなくなってしまったからです。
清く正しく生きなければ苦しみを与えられるのだとしたら、誰か(=神)がそう仕向けていることになります。
けれども仏教は、この世の創造主(=神)については語りません。
なぜ、清く正しく生きなければならないのか?苦しみを与えるぞと脅されるからでしょうか?
また、清く正しくとは、いったいどういうことでしょうか?誰がその答を知っているのでしょうか?
それに対して仏教は、明確な答えを持ちません。
実は仏教では、本当はそういう地獄などというものはないことを語っていたのでした。
それが、「般若心経の意味がわかった」で書いたことです。
ここには、実にシンプルにこの世の真実が語られています。
あまりにシンプル過ぎて、人びとが信じなかったくらいです。(笑)
般若心経で言っているのは、「この世のすべては空(くう)である」という一言に尽きます。
男も女も、高いも低いも、清いも汚れも、そういう陰陽で示されるような相対的なものは真実の姿ではない、と言っています。
この世にあるのは、ただ空(くう)のみ。それが真実の姿であると言うのです。
だから、貴いも下賎もないし、良いも悪いもありません。
清く正しくなどというものは100%ないことを、般若心経は示しています。
ただ、それでは何が喜びなのか、何が我々にとって良いことなのかが、多くの人は理解できなかった。
だから、そんなことがあるはずがないと、その教えを信じなかったのです。
大乗仏教の中心的な経典であるにも関わらず、あまりにシンプル過ぎて、誰もが知っているのに信じられない経典となっています。
しかし、般若心経の最後は、喜びのマントラで結ばれています。
すべてが空(くう)であることが私たちの救いであり、喜びであることを明確に表しているのです。
私が初めて仏教の教えに目覚めたのは、小学生の時に読書感想文を書くために選んだ「ゴータマ・シッダールタ太子」という本を読んだときでした。
そこには、この世には生老病死という4つの苦しみ、いわゆる四苦があると書かれていました。
老病死の苦しみは、すぐに理解できましたが、生きることも苦だという考えは、まだ子どもで苦労知らずの私には理解できなかったのです。
その四苦や八苦が理解できるようになったとき、すべての苦しみは執着から生まれることが理解できました。
だから仏教では、執着しないことを何よりも大事にしたのです。
しかし、どんなに意識しても、執着を手放すことは容易ではありません。
究極のことを考えてみれば、それがよくわかるでしょう。
たとえば水に溺れたときは、必死になって空気を求めて暴れ、のたうち回るでしょう。
それは、生への執着であり、空気への執着なのです。
もし仮に、それに執着しなければどうなるでしょうか?
たしかに死ぬかもしれません。
けれども、執着によって生まれる苦しみはなく、暴れまわることはないでしょう。
思い出してください。仏教は輪廻転生を語っています。
すなわち死とは姿を変えることであって、命が尽きることではないと言っています。
つまり生に執着する必要性はないのだということを、仏教は語っているのです。
すべてが空(くう)であるということは、空は何にも因らずに存在しているのであって、そこには始まりもなければ終りもないことを意味します。
それはつまり、「永遠」ということではないでしょうか?
またそれは、「すべて」ということではないでしょうか?
それが「すべて」であるなら、どうして他に何かを必要とするでしょうか?だって「すべて」なのですから。
そして他に何も必要としないのであれば、どうして何かに執着する必要があるのでしょうか?
こうしてすべての謎が解決します。
この世のすべての真実の姿が空(くう)ならば、本質が空(くう)ならば、それは永遠であり、すべてなのです。
姿形は変わるでしょうけど、生命は永遠であり、他に何も必要とはしません。
だから執着する必要はまったくなく、執着がないのであれば苦しみは存在し得ないのです。
それは私たちにとって、喜びではないのでしょうか?救いではないのでしょうか?
仏教による救いは、何も阿弥陀仏の再臨を待つ必要性はありません。
私たちは本質的に救われており、改めて救われなければならない存在ではないからです。
ただ、この世の表面的に見える仮の姿を幻想と見抜き、本質は空(くう)であることに気づけば良いだけ。
だから釈迦は、厳しい修行をしたから悟りが開けるのではないと言ったのでしょう。
ただ座って、自分の内部に入って行くことで、私たちの本質に気づく。
それだけで悟りに至ると言ったのだと思うのです。
これが、私が仏教に対して抱いている考え方です。
それぞれの宗派の正当な考え方とは違うと思いますが、私はこれがもっとも筋が通っていると思うし、私の心もこれが良いと感じています。
ですから私の真実として、この考え方を採用しているのです。
そのためのたくさんの示唆を与えてくれた仏教には、心からありがたいと思っています。
2012年12月21日
今日は人類最後の日だそうです
今日、2012年12月21日は、人類最後の日だそうですね。
タイ語でローク・テーク(世界破滅,地球破壊)と言うようです。
今朝のテレビの番組でも、そのことが取り上げられていました。
マヤ暦がこの日で終わっているからだとか。
どこかの国のパワースポットにあるホテルは、満室状態の上、1泊5万円もするくらいに高くなっているとか。
そうまでして、人類滅亡から逃れたい人が多いようです。
今朝、妻と話をしました。
妻「もし、世界滅亡が起こったら、アパートに戻ってきてね。部屋で会いましょう。」
私「大丈夫だよ。もし死んでもピー(タイ語でお化けのこと)になるから。そうなったら、行きたいところへ行けるでしょ。あなたに会いに、どこでもすぐに行くよ。」
妻「No!ピーは要らない。日本に帰って。」
私「帰らないよ。愛してるもの。ずっとそばに居てあげる。」
妻「愛さなくていいから、日本に帰って!」
妻は、お化けが何よりも怖いので、いつもこんな会話をしています。
そのくせピー(お化け)の映画を観るのですから、よくわかりません。
先日、妻と一緒に近くの居酒屋へ行きました。
「しゃかりき432”(しみず)」という店ですが、大阪からやってきた店のようです。
とても流行っています。妻も気に入っていて、しょっちゅう行っています。
名物はカス(牛ホルモンを揚げたもの?)を使ったうどんや鍋料理など。
それとこれ、1リットルのジョッキのビール。その名も「男前ビール」です。
私はたいてい、この男前ビールを1杯と、中ナマを1杯くらい飲みます。
つまみは定番の枝豆と、妻が好きな刺身。最近はハマチがお気に入り。他にマグロの赤身、スズキ、たまに中トロくらいです。
以前はどこへ行ってもサーモン刺身(トロ)を注文していたのですが、最近は飽きてきたようです。
タイにいても、日本と同じように美味しい刺身など日本料理が食べられるのですから、本当にありがたいことです。
アパートに近いことと、料理が美味しいこと、そして店の雰囲気が肌に合っているようで、妻がこの店をとても気に入っています。
それで、店のTシャツまでお揃いで買ってしまいました。
まったく、50歳も過ぎたおっさんに、何をさせるんでしょうね。
言っておきますが、これは妻の希望を叶えてあげただけですから。
よく妻がこんなことを言います。
「パンラヤー・チャラート・テー・サーミー・ンゴー」
妻は頭がいいけど、でも夫はバカだ。そんな意味です。
好きなように言わせてますけど、バカだと言われると、なんだか心地よいですね。
バカなんだからと思えば、いい格好をしなくても済むし。
「わかった、わかった。じゃあ奥さんは頭がいいんだから、何でも任せるよ。」
そう言って、たいていのことは妻にやってもらっています。
私は、楽しく仕事をして、終わったら美味しいビールを飲んで、好き勝手にやらせてもらえる。
こんな、ありがたいことはありませんね。
タイ語でローク・テーク(世界破滅,地球破壊)と言うようです。
今朝のテレビの番組でも、そのことが取り上げられていました。
マヤ暦がこの日で終わっているからだとか。
どこかの国のパワースポットにあるホテルは、満室状態の上、1泊5万円もするくらいに高くなっているとか。
そうまでして、人類滅亡から逃れたい人が多いようです。
今朝、妻と話をしました。
妻「もし、世界滅亡が起こったら、アパートに戻ってきてね。部屋で会いましょう。」
私「大丈夫だよ。もし死んでもピー(タイ語でお化けのこと)になるから。そうなったら、行きたいところへ行けるでしょ。あなたに会いに、どこでもすぐに行くよ。」
妻「No!ピーは要らない。日本に帰って。」
私「帰らないよ。愛してるもの。ずっとそばに居てあげる。」
妻「愛さなくていいから、日本に帰って!」
妻は、お化けが何よりも怖いので、いつもこんな会話をしています。
そのくせピー(お化け)の映画を観るのですから、よくわかりません。
先日、妻と一緒に近くの居酒屋へ行きました。
「しゃかりき432”(しみず)」という店ですが、大阪からやってきた店のようです。
とても流行っています。妻も気に入っていて、しょっちゅう行っています。
名物はカス(牛ホルモンを揚げたもの?)を使ったうどんや鍋料理など。
それとこれ、1リットルのジョッキのビール。その名も「男前ビール」です。
私はたいてい、この男前ビールを1杯と、中ナマを1杯くらい飲みます。
つまみは定番の枝豆と、妻が好きな刺身。最近はハマチがお気に入り。他にマグロの赤身、スズキ、たまに中トロくらいです。
以前はどこへ行ってもサーモン刺身(トロ)を注文していたのですが、最近は飽きてきたようです。
タイにいても、日本と同じように美味しい刺身など日本料理が食べられるのですから、本当にありがたいことです。
アパートに近いことと、料理が美味しいこと、そして店の雰囲気が肌に合っているようで、妻がこの店をとても気に入っています。
それで、店のTシャツまでお揃いで買ってしまいました。
まったく、50歳も過ぎたおっさんに、何をさせるんでしょうね。
言っておきますが、これは妻の希望を叶えてあげただけですから。
よく妻がこんなことを言います。
「パンラヤー・チャラート・テー・サーミー・ンゴー」
妻は頭がいいけど、でも夫はバカだ。そんな意味です。
好きなように言わせてますけど、バカだと言われると、なんだか心地よいですね。
バカなんだからと思えば、いい格好をしなくても済むし。
「わかった、わかった。じゃあ奥さんは頭がいいんだから、何でも任せるよ。」
そう言って、たいていのことは妻にやってもらっています。
私は、楽しく仕事をして、終わったら美味しいビールを飲んで、好き勝手にやらせてもらえる。
こんな、ありがたいことはありませんね。
2012年12月22日
本は新品を即買いするのがオススメ
私は、本を買うときはなるべく新品を買うようにしています。
それには2つの理由があります。
1つは、貴重な情報を安価に提供してくださる著者や、出版関係者への敬意です。
わずか千円かそこらで、どれほどの知識が得られるかと思うと、本当に申し訳ないくらいにありがたく思います。
だから、新品が売られているのに中古で買うとか、図書館で借りるなどという方法はとらないのです。
もちろん、中古で買うことや借りることを否定しているわけではありませんよ。
今の私には、それくらいの余裕はあるので、新品を買うようにしています。
単行本と文庫本が売られていたら、文庫本を買うことは多いですけどね。見てくれより実質重視なので。
この習慣は、私が新聞奨学生として働くようになってからですから、それほど豊かではなかったころから、そういう気持ちでいました。
自分の贅沢のためにはなるべくお金を使わずに倹約するけど、友だちや後輩のにご馳走するときは思い切って贅沢に使う。
そして、書籍の購入など自己投資にはお金を惜しまない。これが私の信条でした。
もう1つの理由は、そこに価値を与えるためです。
あるものを購入して、そこで千円を払ったなら千円の、1万円を払ったなら1万円の、価値を自分が与えたことになるのです。
この理屈、わかりますか?
千円で売られているから千円を払うのではないのですよ。
それが千円の価値だと思うから、千円を払うのです。
もし、それを値切って5百円しか払わなかったら、そこには5百円しか価値がないと自分が認めたことになります。
つまり、そのものに価値があるのではなく、自分が価値を与える(認める)ことによって、価値が生まれるのです。
このことは、タイに来てチップを払うようになってから感じるようになりました。
日本の相場と比べると、とても安く買えるものが多いのがタイです。
その中には、とても感動させてくれるものがあります。
そんなとき私は、定価以上のお金を支払います。つまり、チップを上乗せするのです。
だって、それだけ私が喜んだのですから。
お金を払わずに済ませることもできますが、それは私らしくないと思うのです。そんな自分は嫌だと感じるのです。
「これは本当に素晴らしい!ありがとう、とても良いものを売ってくれて。」
そういう気持ちを表すために、自分の中の価値に見合った金額を払いたいと思うのです。
けれども、いつもいつもそれが払えるわけではありません。
他にも払うべきものはたくさんあるし、私の給料も限られていますから。
それで、ある程度までしか払えないことが多いのですが、そのときは心の中でこう思うのです。
「ごめんね、こんだけしか払えなくて。今度はもっとたくさん払うから。ありがとう、感動させてくれて。」
本を買う時も、同じなのです。
まだ読んでいないからと言われるかもしれませんが、たいていは素晴らしい本です。
これは多読されてる方ならわかってもらえると思いますが、読む前からピンとくるのです。
「これは良さそうな本だな。」とわかるのです。
滅多なことで、これが外れることはありません。
それもそのはず。価値を与えたものに価値が生じるからです。
ただ、それでもたまに外れることはあります。
私などはもったいないからと、最後まで読もうとします。
最後の最後に、その価値を感じるかもしれないと思うからです。
けれども、全部読む必要はないと言う人もいます。時間がもったいないからと。
私は、どちらでも良いと思います。その人が思うようにすれば良いと。
ただ1つ言えるのは、途中でやめることを勧める人でも、直感で即買いするのが良いと言っている点です。
私もそうですが、本はお金を惜しまずにピンときたら買うことです。
まあそれで、なかなか読めなくて「積んどく」になってしまうこともありますけどね。
今、購入したものの読めずにいる本が、またやっと10冊を切ったところです。 (^_^;)
それには2つの理由があります。
1つは、貴重な情報を安価に提供してくださる著者や、出版関係者への敬意です。
わずか千円かそこらで、どれほどの知識が得られるかと思うと、本当に申し訳ないくらいにありがたく思います。
だから、新品が売られているのに中古で買うとか、図書館で借りるなどという方法はとらないのです。
もちろん、中古で買うことや借りることを否定しているわけではありませんよ。
今の私には、それくらいの余裕はあるので、新品を買うようにしています。
単行本と文庫本が売られていたら、文庫本を買うことは多いですけどね。見てくれより実質重視なので。
この習慣は、私が新聞奨学生として働くようになってからですから、それほど豊かではなかったころから、そういう気持ちでいました。
自分の贅沢のためにはなるべくお金を使わずに倹約するけど、友だちや後輩のにご馳走するときは思い切って贅沢に使う。
そして、書籍の購入など自己投資にはお金を惜しまない。これが私の信条でした。
もう1つの理由は、そこに価値を与えるためです。
あるものを購入して、そこで千円を払ったなら千円の、1万円を払ったなら1万円の、価値を自分が与えたことになるのです。
この理屈、わかりますか?
千円で売られているから千円を払うのではないのですよ。
それが千円の価値だと思うから、千円を払うのです。
もし、それを値切って5百円しか払わなかったら、そこには5百円しか価値がないと自分が認めたことになります。
つまり、そのものに価値があるのではなく、自分が価値を与える(認める)ことによって、価値が生まれるのです。
このことは、タイに来てチップを払うようになってから感じるようになりました。
日本の相場と比べると、とても安く買えるものが多いのがタイです。
その中には、とても感動させてくれるものがあります。
そんなとき私は、定価以上のお金を支払います。つまり、チップを上乗せするのです。
だって、それだけ私が喜んだのですから。
お金を払わずに済ませることもできますが、それは私らしくないと思うのです。そんな自分は嫌だと感じるのです。
「これは本当に素晴らしい!ありがとう、とても良いものを売ってくれて。」
そういう気持ちを表すために、自分の中の価値に見合った金額を払いたいと思うのです。
けれども、いつもいつもそれが払えるわけではありません。
他にも払うべきものはたくさんあるし、私の給料も限られていますから。
それで、ある程度までしか払えないことが多いのですが、そのときは心の中でこう思うのです。
「ごめんね、こんだけしか払えなくて。今度はもっとたくさん払うから。ありがとう、感動させてくれて。」
本を買う時も、同じなのです。
まだ読んでいないからと言われるかもしれませんが、たいていは素晴らしい本です。
これは多読されてる方ならわかってもらえると思いますが、読む前からピンとくるのです。
「これは良さそうな本だな。」とわかるのです。
滅多なことで、これが外れることはありません。
それもそのはず。価値を与えたものに価値が生じるからです。
ただ、それでもたまに外れることはあります。
私などはもったいないからと、最後まで読もうとします。
最後の最後に、その価値を感じるかもしれないと思うからです。
けれども、全部読む必要はないと言う人もいます。時間がもったいないからと。
私は、どちらでも良いと思います。その人が思うようにすれば良いと。
ただ1つ言えるのは、途中でやめることを勧める人でも、直感で即買いするのが良いと言っている点です。
私もそうですが、本はお金を惜しまずにピンときたら買うことです。
まあそれで、なかなか読めなくて「積んどく」になってしまうこともありますけどね。
今、購入したものの読めずにいる本が、またやっと10冊を切ったところです。 (^_^;)
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