妻が田舎から戻って来ました。
農地を購入するために、帰省していたのです。
妻の田舎はタイ東北部(イサン地方)です。
最近は農地の値段も高くなり、1ライ(タイの農地の単位で1600平米)が7万バーツ(約19万円)もします。
そんな話を知人にしたら、同じイサン地方でもバンコクに近いほうだと、1ライが10万バーツもするのだとか。
イサン地方は基本的に、乾季は農業ができません。灌漑(かんがい)が整っておらず、水がないからです。
同じタイでも、中央部や南部なら、米の2期作や3期作も可能なのですけどね。
そういう条件の悪い土地ですが、それでもそのくらいします。
その農地で、たとえば米を作ったとしても、1ライ程度だとせいぜい2千バーツくらいの所得(年収)にしかならないそうです。
タイの農家の平均的な所有農地は約20ライ。3.2ヘクタールということになります。このくらいあって、農業収入が年に2〜3万バーツほどなのだとか。
つまり、土地を持って農業やっているより、高く売ったほうが手っ取り早くお金になるということ。
そういう事情もあって、農地を手放す人も多いようです。
中には、近代的な農業をさせられて、農薬や化学肥料、農機具などの購入で借金し、それが返済できなくて銀行に没収されるケースもあるとか。
銀行が農地を売り出すとき、外国人がスポンサーだとわかると高くふっかけてくることが多く、農地の価格が高止まりしているという話も聞きます。
まあ何が本当かわかりませんが、農地の価格が上がっていることだけは確かなようです。
今回、私が購入した土地は6ライ強だそうで、約43万バーツかかりました。115万円ちょっとくらいでしょうか。
妻の話では、役人が袖の下を求めてきたので、直接妻が購入せず、いったん父親に購入してもらい、それを妻の名義に変更したそうです。
外国人と結婚したタイ人が土地を買う場合、そのお金が外国人から出ている場合は、いろいろと制限があるのです。
それで、いろいろ難癖をつけて、賄賂を要求したのでしょう。売主と共謀していたのかもしれません。
私もよくわからないので、ふんふんと言いながら聞いていました。とりあえず買えたのだから、それでいいじゃん、くらいなものです。
どっちにしろ、名義は妻ですし、その土地で何をするかは母親が考えるでしょうし、そこで何を作ろうとも、私には一銭も入って来ないのですから。
ある意味で、妻の両親の生活を安定させる(豊かにさせる)ためにお金を出したようなもの。
まあそれで良いと思っています。
ただ、タイの農業には興味を持っています。特に赤土で水が少ないイサン地方の農業に。
なぜって、暖かさという植物のために最も大切な要素が豊富にあるのに、痩せた土地と水が少ないという逆境のために、イマイチ伸び悩んでいるという感じがしているからです。
誰かが逆境にあって、どう進めば良いかわからずに困っていたら、助けたくなりませんか?
私は、助けたくなるのです。何とかしてあげたくなるのです。
何ができるのかわからないけれど、何かできそうだし、何かをしたい。そう思います。
来年4月のソンクラーン(タイ正月)には、妻の実家へ行って、その土地を見てこようと思っています。
あとできれば10ライくらいの土地を、追加購入したいところですけどね。
妻の両親がすでに10ライ強の土地を持っているとのことなので、合わせれば約30ライ(5ヘクタール)になりますから、農業をやるには十分な広さですから。
将来は、ひょっとしたら妻の田舎で農業をしながら暮らしているかも。
力仕事をしていたら、妻もきっと私を養ってくれるでしょう。
そんな淡い期待もなきにしもあらずです。(笑)
2012年12月01日
2012年12月03日
自由とは、やるべきことは何もないということ
人の本質は自由だと言います。
自由は、基本的人権として保証されているのだと。
しかし、それでは困ることが起こる。
そう感じた人によって、自由を制限することが正当化される理屈が作られました。
つまり、「公共の福祉に反しない限り」という制限です。
あるいは、「自由にも責任がある」という言葉です。
しかし、これはある意味で矛盾しています。
自由とは何の制限もないことですから、そこに少しでも制限をつけた瞬間に、自由ではなくなってしまいます。
「じゃあ、無政府状態が良いと言うの?弱肉強食の世界が良いとでも言うの?」
そう言いたくなりますよね。
私も、そう思っていました。
だから私も、人は自由だけれども、そのためには果たさなければならない責任があると考えていたのです。
しかし、その考え方によって私は、非常に大きなストレスを抱えたのです。
「こうあるべきだ」という考えで自分を縛り、他人を強制しようとして苦しみました。
何かおかしい。何か間違っている。
そう思いながらも、なかなか自分の考え方を捨てられずにいたのです。
「神との対話」シリーズを読んでいますが、そこには驚くべきことが書かれていました。
人の本質は完全な自由だと言うのです。
そして、それによって起こると思われる悪い事態に対しても、「神とひとつになること」の中で明確に書かれていました。
「人生の終わりにあなたは、魂にとって大切なのは何をしたかではなく、どんな人間だったかだとわかるだろう。そして、真の自分とは結局、魂であることを知るだろう。」
(中略)
「したいことだけをすればいいと言われたら、ほんとうに必要なことが何も実行されないのではないか、と不安になるからだ。」
「誰がゴミを運んでくれるんだろう?」
「まじめな話だよ。」
「誰もやりたがらないことを、誰がやるのか?」
「これが疑問であり、不安だ。ひとは放っておかれれば、人生を続けていくために必要なことをしないものだ、と人間は信じている。」
(p.162-163)
このように、具体的に書かれています。
これに対して、「この不安には根拠がない。」と言います。
実際、規則も規制もないコミュニティーで、必要なことをする人はたくさんいるからです。
たとえば家庭でもそうです。
食事を作るのが母親の勤めとされていたとしても、母親がしんどそうにしていたら、誰かが代わってやってあげるでしょう。
それは、そうすることが規則だからではなく、そうしてあげたいからです。
やらなければならないからではなく、やってあげたいからするのです。
「変わるのは何が行われるかではなくて、なぜ行われるかという理由だ。」
「何かをする「理由」が変わる。」
「しなければならないと言われたから「する」のではなくて、自分が選んだから、それが真の自分の表現だから「する」。」
「じつは、何かをする真の理由はこれしかない。だが、これによって「行為と存在」のパラダイムが逆転する。」
「人間がつくったパラダイムでは、ひとは何かをすることで、何者かになれる。」
「だが、新しいパラダイムでは、ひとは何者かであり、だから何かをする。」
「幸せだから、幸せな人間がすることをする。責任感があるから、責任感がある人間がすることをする。親切だから、親切な人間がすることをする。」
「そう、責任感のある人間になるために、責任を果たすのではない。親切になるために、親切なことをするのではない。そんなことをしたら、恨みが生じるだけだ(「あれだけのことをしてやったのに!」)。人間のパラダイムが逆転したのは、すべての行為には見返りが与えられると思っているためだ。」
(p.163-164)
法律で規制されていて、犯したら罰を与えられるから人を殺さないのでしょうか?
そういうやり方では殺人がなくならないことは、何千年もの人類の歴史が教えてくれています。
問われているのは常に、「私とは何者なのか?」ということだけです。
人生とは、それを選択するお膳立てなのです。
電車にのるとき、やたらと後ろから押してくる人がいる。
「うっとうしいなあ。押すなよ!」
そのとき、考えてみて欲しいのです。
こういうシチュエーション(状況)の中で、自分はどんな自分を選択するのだろう?
もしそれが「幸せな自分」を選択するのであれば、「幸せな自分」としての行為(言動)が生まれるはずです。
人はいつか、この世で生きることを終わらせます。
そのとき、何も所有するものはないし、何もすることはないことがわかります。
残るのは、ただ「どんな自分なのか」ということだけ。
誰から規制されるのでもなく、自由に、自分らしく、自分を選びたい。それが自己の創造なのですから。
自由は、基本的人権として保証されているのだと。
しかし、それでは困ることが起こる。
そう感じた人によって、自由を制限することが正当化される理屈が作られました。
つまり、「公共の福祉に反しない限り」という制限です。
あるいは、「自由にも責任がある」という言葉です。
しかし、これはある意味で矛盾しています。
自由とは何の制限もないことですから、そこに少しでも制限をつけた瞬間に、自由ではなくなってしまいます。
「じゃあ、無政府状態が良いと言うの?弱肉強食の世界が良いとでも言うの?」
そう言いたくなりますよね。
私も、そう思っていました。
だから私も、人は自由だけれども、そのためには果たさなければならない責任があると考えていたのです。
しかし、その考え方によって私は、非常に大きなストレスを抱えたのです。
「こうあるべきだ」という考えで自分を縛り、他人を強制しようとして苦しみました。
何かおかしい。何か間違っている。
そう思いながらも、なかなか自分の考え方を捨てられずにいたのです。
「神との対話」シリーズを読んでいますが、そこには驚くべきことが書かれていました。
人の本質は完全な自由だと言うのです。
そして、それによって起こると思われる悪い事態に対しても、「神とひとつになること」の中で明確に書かれていました。
「人生の終わりにあなたは、魂にとって大切なのは何をしたかではなく、どんな人間だったかだとわかるだろう。そして、真の自分とは結局、魂であることを知るだろう。」
(中略)
「したいことだけをすればいいと言われたら、ほんとうに必要なことが何も実行されないのではないか、と不安になるからだ。」
「誰がゴミを運んでくれるんだろう?」
「まじめな話だよ。」
「誰もやりたがらないことを、誰がやるのか?」
「これが疑問であり、不安だ。ひとは放っておかれれば、人生を続けていくために必要なことをしないものだ、と人間は信じている。」
(p.162-163)
このように、具体的に書かれています。
これに対して、「この不安には根拠がない。」と言います。
実際、規則も規制もないコミュニティーで、必要なことをする人はたくさんいるからです。
たとえば家庭でもそうです。
食事を作るのが母親の勤めとされていたとしても、母親がしんどそうにしていたら、誰かが代わってやってあげるでしょう。
それは、そうすることが規則だからではなく、そうしてあげたいからです。
やらなければならないからではなく、やってあげたいからするのです。
「変わるのは何が行われるかではなくて、なぜ行われるかという理由だ。」
「何かをする「理由」が変わる。」
「しなければならないと言われたから「する」のではなくて、自分が選んだから、それが真の自分の表現だから「する」。」
「じつは、何かをする真の理由はこれしかない。だが、これによって「行為と存在」のパラダイムが逆転する。」
「人間がつくったパラダイムでは、ひとは何かをすることで、何者かになれる。」
「だが、新しいパラダイムでは、ひとは何者かであり、だから何かをする。」
「幸せだから、幸せな人間がすることをする。責任感があるから、責任感がある人間がすることをする。親切だから、親切な人間がすることをする。」
「そう、責任感のある人間になるために、責任を果たすのではない。親切になるために、親切なことをするのではない。そんなことをしたら、恨みが生じるだけだ(「あれだけのことをしてやったのに!」)。人間のパラダイムが逆転したのは、すべての行為には見返りが与えられると思っているためだ。」
(p.163-164)
法律で規制されていて、犯したら罰を与えられるから人を殺さないのでしょうか?
そういうやり方では殺人がなくならないことは、何千年もの人類の歴史が教えてくれています。
問われているのは常に、「私とは何者なのか?」ということだけです。
人生とは、それを選択するお膳立てなのです。
電車にのるとき、やたらと後ろから押してくる人がいる。
「うっとうしいなあ。押すなよ!」
そのとき、考えてみて欲しいのです。
こういうシチュエーション(状況)の中で、自分はどんな自分を選択するのだろう?
もしそれが「幸せな自分」を選択するのであれば、「幸せな自分」としての行為(言動)が生まれるはずです。
人はいつか、この世で生きることを終わらせます。
そのとき、何も所有するものはないし、何もすることはないことがわかります。
残るのは、ただ「どんな自分なのか」ということだけ。
誰から規制されるのでもなく、自由に、自分らしく、自分を選びたい。それが自己の創造なのですから。
2012年12月04日
タイの葬式に参列しました
タイに10年も暮らしていると、知人やその家族の死に遭遇することもあります。
そのときは、日本と同様に葬式が行われます。
昨日、会社のスタッフのお父さんが亡くなられたため、葬式に参列してきました。
58歳という若さで、ガンで亡くなられたのだそうです。
タイと日本では葬式の風習に違いがあるので、今日はそのことを書いてみます。
まず、タイの葬式は1日ではありません。長ければ1週間にわたって行われます。
だいたい夕方6時か7時など暗くなってから行われます。
数日間ある場合、日ごとに主催者が違います。
だいたいは故人が所属するグループが主催するようで、会社、趣味の会、家族などのグループで主催します。
参列する場合、まず服装ですが、基本的には黒っぽい服装になります。
シャツは華美でなければ白でもかまいませんし、完全な黒ではない服で来る人もいます。まあ、この辺の感覚は、日本と同じでしょうか。
タイの仏教では数珠(じゅず)は使いません。なので、数珠を持っていく必要はありません。
香典は、白い封筒に入れて封をし、表に自分の名前を書きます。
入れる金額は、立場などによって変わりますが、日本人のマネージャークラス以上なら1000バーツくらい入れるものだそうです。
タイ人のマネージャークラスだと500バーツくらい。
式場に到着してまず、故人の家族に挨拶をしますが、そのときに香典を手渡しします。
その後、お棺に入った故人に挨拶をするのですが、線香をいただいてお棺の前で手を合わせ、床に3回頭をつけるようにしてお参りします。
それから案内される椅子に座って、お坊さんの読経を聞きます。
読経は4回行われますが、途中に食事休憩があり、簡単な食事が振舞われます。
また、香典返しのようなお菓子なども配られます。
4回目の読経が終わったら、あとは三々五々退出して帰ることになります。
昨日は、葬式の最後の日で、火葬の儀が行われました。
火葬の場合は、始まりは4時くらいと早くなります。明るいうちに火葬するためのようです。
到着してからすることは、だいたい同じです。
ただ、4回の読経ではなく、物語のようなものをお坊さんが読み上げます。
それが終わると、みんなで棺桶を担いで、火葬場の周りを3回周り、火葬場の台の上にお棺を置きます。
それから火葬が始まる時間が来るまで、しばらく待ちます。
火葬の儀が始まると、お坊さんが故人についての話をします。
生前どんな人だったとか、家族にはどんな人がいるとか、どうして亡くなったなど。
その後、呼ばれた代表者が、黄色い布を束ねたものを、火葬場の上でお坊さんに渡す儀式が行われます。
私もこれをやりましたが、正面から火葬場の上に登り、黄色い布をそこで受け取ってお棺の前の台に乗せ、少し下がって合掌します。
その間にお坊さんが読経し、置かれた布を持って行きますので、そうしたら横の階段から降ります。
その後、参列者全員が順に火葬場に登って、故人と最後の別れをします。
そのときは、さきほど降りた方の階段から登り、正面の階段から降ります。
登る前に造花を受け取り、お棺の前にある入れ物に造花を入れ、手を合わせたり、お棺に触ったりしてお別れします。
階段を降りたところで、香典返しのような物(お守り、薬、お菓子など)を受け取り、そのまま帰ります。
おそらく親族は、その後も残って火葬を見守るのでしょうね。
私は一応会社の役員なので、黒っぽい上着も着てネクタイも締めましたが、タイ人の多くは、黒っぽいシャツという軽装でした。
多くのお寺はオープンエアですから、扇風機はあっても、エアコンがあるところはあまりありません。
そのため、上着を着ての参列は、けっこう辛いものがあります。
それでも、参列された親族の方々から、うちの会社に子どもが入ったからお父さんの葬式が立派になったと思ってもらえたら、これくらいのことはどうってことないと思うのです。
因みに、火葬にした後ですが、お骨を骨壷に入れて、お寺の保管場所に納骨することができます。
コインロッカーのような納骨場所があって、そこに収めます。
またタイでは、散骨することも認められています。
散骨できる場所は決まっていると思いますが、海か山でしょうね。
日本のようなお墓というのは見たことがありませんが、華僑の人たちは、どこか墓地があると聞いたことがあります。
こうやって誰かの死に遭遇すると、自分の死についても考えます。
私は、「後は野となれ山となれ」という考えです。
どう弔ってくれてもいいし、あるいは弔ってくれなくてもいい。
ただ希望を言うなら、後腐れのないよう、散骨してくれるのが良いと思っています。
今さら、日本にある赤木家の墓に入れてもらおうとは思いません。
私の身体は私ではないので、それにとらわれてほしくないのです。
※参考「イサン地方の葬式に参列しました」
そのときは、日本と同様に葬式が行われます。
昨日、会社のスタッフのお父さんが亡くなられたため、葬式に参列してきました。
58歳という若さで、ガンで亡くなられたのだそうです。
タイと日本では葬式の風習に違いがあるので、今日はそのことを書いてみます。
まず、タイの葬式は1日ではありません。長ければ1週間にわたって行われます。
だいたい夕方6時か7時など暗くなってから行われます。
数日間ある場合、日ごとに主催者が違います。
だいたいは故人が所属するグループが主催するようで、会社、趣味の会、家族などのグループで主催します。
参列する場合、まず服装ですが、基本的には黒っぽい服装になります。
シャツは華美でなければ白でもかまいませんし、完全な黒ではない服で来る人もいます。まあ、この辺の感覚は、日本と同じでしょうか。
タイの仏教では数珠(じゅず)は使いません。なので、数珠を持っていく必要はありません。
香典は、白い封筒に入れて封をし、表に自分の名前を書きます。
入れる金額は、立場などによって変わりますが、日本人のマネージャークラス以上なら1000バーツくらい入れるものだそうです。
タイ人のマネージャークラスだと500バーツくらい。
式場に到着してまず、故人の家族に挨拶をしますが、そのときに香典を手渡しします。
その後、お棺に入った故人に挨拶をするのですが、線香をいただいてお棺の前で手を合わせ、床に3回頭をつけるようにしてお参りします。
それから案内される椅子に座って、お坊さんの読経を聞きます。
読経は4回行われますが、途中に食事休憩があり、簡単な食事が振舞われます。
また、香典返しのようなお菓子なども配られます。
4回目の読経が終わったら、あとは三々五々退出して帰ることになります。
昨日は、葬式の最後の日で、火葬の儀が行われました。
火葬の場合は、始まりは4時くらいと早くなります。明るいうちに火葬するためのようです。
到着してからすることは、だいたい同じです。
ただ、4回の読経ではなく、物語のようなものをお坊さんが読み上げます。
それが終わると、みんなで棺桶を担いで、火葬場の周りを3回周り、火葬場の台の上にお棺を置きます。
それから火葬が始まる時間が来るまで、しばらく待ちます。
火葬の儀が始まると、お坊さんが故人についての話をします。
生前どんな人だったとか、家族にはどんな人がいるとか、どうして亡くなったなど。
その後、呼ばれた代表者が、黄色い布を束ねたものを、火葬場の上でお坊さんに渡す儀式が行われます。
私もこれをやりましたが、正面から火葬場の上に登り、黄色い布をそこで受け取ってお棺の前の台に乗せ、少し下がって合掌します。
その間にお坊さんが読経し、置かれた布を持って行きますので、そうしたら横の階段から降ります。
その後、参列者全員が順に火葬場に登って、故人と最後の別れをします。
そのときは、さきほど降りた方の階段から登り、正面の階段から降ります。
登る前に造花を受け取り、お棺の前にある入れ物に造花を入れ、手を合わせたり、お棺に触ったりしてお別れします。
階段を降りたところで、香典返しのような物(お守り、薬、お菓子など)を受け取り、そのまま帰ります。
おそらく親族は、その後も残って火葬を見守るのでしょうね。
私は一応会社の役員なので、黒っぽい上着も着てネクタイも締めましたが、タイ人の多くは、黒っぽいシャツという軽装でした。
多くのお寺はオープンエアですから、扇風機はあっても、エアコンがあるところはあまりありません。
そのため、上着を着ての参列は、けっこう辛いものがあります。
それでも、参列された親族の方々から、うちの会社に子どもが入ったからお父さんの葬式が立派になったと思ってもらえたら、これくらいのことはどうってことないと思うのです。
因みに、火葬にした後ですが、お骨を骨壷に入れて、お寺の保管場所に納骨することができます。
コインロッカーのような納骨場所があって、そこに収めます。
またタイでは、散骨することも認められています。
散骨できる場所は決まっていると思いますが、海か山でしょうね。
日本のようなお墓というのは見たことがありませんが、華僑の人たちは、どこか墓地があると聞いたことがあります。
こうやって誰かの死に遭遇すると、自分の死についても考えます。
私は、「後は野となれ山となれ」という考えです。
どう弔ってくれてもいいし、あるいは弔ってくれなくてもいい。
ただ希望を言うなら、後腐れのないよう、散骨してくれるのが良いと思っています。
今さら、日本にある赤木家の墓に入れてもらおうとは思いません。
私の身体は私ではないので、それにとらわれてほしくないのです。
※参考「イサン地方の葬式に参列しました」
2012年12月05日
起こる出来事の意味を探るのをやめてみる
「黒猫が目の前をよぎると、不吉なことが起こる。」
「出掛けに下駄の鼻緒が切れるのは不吉だ。」
こんな話を耳にしたことはありませんか?
そしてあなたは、そういう話を信じますか?
多くの人が、完全ではないにしても、そんなことがあるかもしれないと信じています。
つまり、「出来事には何か意味がある」という考え方です。
このことについて、「神とひとつになること」の中で明確に語られていました。
「いずれにしても、ひとは人生で起こる出来事や経験の意味を知ろうとする。だが、じつはどんなものにもまったく意味はない。人生の出会いや経験に隠された本質的な真実などない。」
「誰が事実を隠すというのか?なぜ隠すのか?」
「もし、あなたがたに真実を見つけさせたいのなら、隠すより明らかにしておいたほうが効果的ではないか?もし、神に言いたいことがあるなら、あなたがたに謎解きをさせるより、はっきり言うほうがずっと簡単ではないか?(それに、ずっと親切ではないか?)」
「じつは、どんなものにも意味はない。あなたが与える意味以外には。」
(p.193)
このように明確に、出来事に隠された真実などないと言い切っています。
もし神という存在があって、私たちをはるかに超える強大な力を持っていて、私たちの人生に関わろうとしているとするなら、隠す必要がないと言うのです。
これは確かに合理的な考え方だと思います。
人は、怖れ(不安)から、強大な力を持つ横暴な神が無慈悲に暴れるので、それをなだめるためには、神が要求する通りのことをしなければならないと考えてきました。
生贄(いけにえ)という考えは、その最たるものです。
しかし、神は言葉ではっきりと「こうしてくれ」とは言わないから、人間が察する必要があるのだと考えました。
まるで昔気質の横暴な父親とそっくりな神様ですね。
そんなところから、人生に起こる出来事から未来を読み解き、起こってほしくない出来事を防ぐための方法が考えられてきたのでしょう。
しかし、「神との対話」シリーズでは、それを明確に否定します。
もし神が愛であるなら、全知全能であるなら、そんなことをする必要性がないと言うのです。
それに、それは愛とは真逆のことですから、愛の神ということと矛盾するとも。
人間が持つ怖れ(不安)が、勝手にそういう物語を作り上げただけなのです。
その不安こそが問題で、それが原因となって現実が創られている(引き寄せられている)のです。
本当は、起こる出来事に意味があるのではありません。
自分が意味を与えることによって、何かが起こるのです。
私たちは創造者(現実を引き寄せる者)なのですから。
そのことを、以下のように説明しています。
「人生(life:生命)が無意味だから、あなたがどんな意味でも決定することができる。その決定によって、あなたがたは人生のさまざまなもの、あらゆるものとの関係で自分を定義する。」
「じつはこれが、どんな存在であるかを自分で選ぶという経験の意味(means:手段)だ。」
(中略)
「だから、何かが起こったとき、どうしてかと問うのはやめなさい。どうして起こったかを、自分で選びなさい。どうして起こったかを自分で決めなさい。選んだり決定することができなければ、でっちあげなさい。どうせ、そうするのだから。」
「あなたがたは、ものごとをする理由や起こった原因を自分ででっちあげている。だが、ほとんどの場合は無意識にしている。」
「今度は、意識的に気持ちを(そして人生を)つくりあげなさい!」
(p.194)
たとえば、こんなことを言います。
「せっかくのデートなのに土砂降りの雨。ツイてないなあ。オレはいつもツイてない。何かに祟られているんだろうか?」
ほら、勝手にでっちあげてますよね、起こる出来事の理由を。
「あいつが悪いんだよ。あいつが飛び出して来なければ、ぶつかることはなかったんだからさ。どうして飛び出してくるようなやつを放っておくんだよ。」
本当にそうでしょうか?他の可能性はまったくないでしょうか?相手に原因の100%を押しつけることで、自分には何もする力がないと、責任を逃れようとしているだけではありませんか?
ほら、ここでも起こる出来事の理由をでっちあげています。
そういうでっちあげを、無意識にすることをやめませんか?
そもそも出来事に意味がないのだとしたら、意識的になりたい自分でいられるように、その意味をでっちあげたら良いのです。
思い出しましたか?そう、「少女パレアナ」に書かれていた「なんでも喜ぶゲーム」です。
もしあなたが「幸せな自分であること」が自分らしいと思うなら、そうであるための意味を出来事に与えれば良いのです。
クリスマスのプレゼントに松葉杖をもらったとき、普通ならこう考えるでしょう。
「なによ、これ!?私は足が悪くないんだから、こんなものもらったってしょうがないじゃない。まったくツイてないわ。本当は人形がほしかったのに。」
そう言って、ふてくされてしまうかもしれません。
でもパレアナは、この出来事に違う意味を与えます。
「私って、どうしてこんなにツイているんでしょう。だって、松葉杖を使わなくてもいい丈夫な足があるんですもの。この杖を使わなければならない人はかわいそうだわ。それに比べたら、私はとってもラッキー。そのことを気づかせてくれた素敵なプレゼントだったのね。」
どうです?これくらいでっちあげたら、たいしたものでしょう。
でもパレアナは、こうして自分がそうありたいと願う自分であることを選択したのです。そして、それを経験したのです。
人生は、すべて私たちが何ものであるかを経験する場です。
ものや人との関係性は、それを効果的に経験するために存在します。
ものすごく悪いやつがいなければ、そんな悪いやつでも許して愛するという至高の愛を経験することはできません。
不健康という出来事がなければ、健康がどれだけ素晴らしくて讃えるべきものかという経験ができません。
出来事そのものに意味があるのではなく、あなたが何を経験しようとするかによって、意味を与えるものなのです。
だから、もう出来事の意味を探るのはやめましょう。
不吉なことを経験したくないなら、不吉な出来事があるという考えを捨てることです。
読んでいた「神とひとつになること」は、昨日で読み終えました。
今日からは、次の「新しき啓示」を読んでいます。
これは2003年に出版された本で、私がタイに来てから買ったものです。
2001年9月11日の同時多発テロに象徴されるように、世界では宗教や民族の対立が激化しています。
どうすれば、人類の危機を救うことができるのか?
そういうテーマで書かれているようで、ワクワクしながら読んでいます。
「出掛けに下駄の鼻緒が切れるのは不吉だ。」
こんな話を耳にしたことはありませんか?
そしてあなたは、そういう話を信じますか?
多くの人が、完全ではないにしても、そんなことがあるかもしれないと信じています。
つまり、「出来事には何か意味がある」という考え方です。
このことについて、「神とひとつになること」の中で明確に語られていました。
「いずれにしても、ひとは人生で起こる出来事や経験の意味を知ろうとする。だが、じつはどんなものにもまったく意味はない。人生の出会いや経験に隠された本質的な真実などない。」
「誰が事実を隠すというのか?なぜ隠すのか?」
「もし、あなたがたに真実を見つけさせたいのなら、隠すより明らかにしておいたほうが効果的ではないか?もし、神に言いたいことがあるなら、あなたがたに謎解きをさせるより、はっきり言うほうがずっと簡単ではないか?(それに、ずっと親切ではないか?)」
「じつは、どんなものにも意味はない。あなたが与える意味以外には。」
(p.193)
このように明確に、出来事に隠された真実などないと言い切っています。
もし神という存在があって、私たちをはるかに超える強大な力を持っていて、私たちの人生に関わろうとしているとするなら、隠す必要がないと言うのです。
これは確かに合理的な考え方だと思います。
人は、怖れ(不安)から、強大な力を持つ横暴な神が無慈悲に暴れるので、それをなだめるためには、神が要求する通りのことをしなければならないと考えてきました。
生贄(いけにえ)という考えは、その最たるものです。
しかし、神は言葉ではっきりと「こうしてくれ」とは言わないから、人間が察する必要があるのだと考えました。
まるで昔気質の横暴な父親とそっくりな神様ですね。
そんなところから、人生に起こる出来事から未来を読み解き、起こってほしくない出来事を防ぐための方法が考えられてきたのでしょう。
しかし、「神との対話」シリーズでは、それを明確に否定します。
もし神が愛であるなら、全知全能であるなら、そんなことをする必要性がないと言うのです。
それに、それは愛とは真逆のことですから、愛の神ということと矛盾するとも。
人間が持つ怖れ(不安)が、勝手にそういう物語を作り上げただけなのです。
その不安こそが問題で、それが原因となって現実が創られている(引き寄せられている)のです。
本当は、起こる出来事に意味があるのではありません。
自分が意味を与えることによって、何かが起こるのです。
私たちは創造者(現実を引き寄せる者)なのですから。
そのことを、以下のように説明しています。
「人生(life:生命)が無意味だから、あなたがどんな意味でも決定することができる。その決定によって、あなたがたは人生のさまざまなもの、あらゆるものとの関係で自分を定義する。」
「じつはこれが、どんな存在であるかを自分で選ぶという経験の意味(means:手段)だ。」
(中略)
「だから、何かが起こったとき、どうしてかと問うのはやめなさい。どうして起こったかを、自分で選びなさい。どうして起こったかを自分で決めなさい。選んだり決定することができなければ、でっちあげなさい。どうせ、そうするのだから。」
「あなたがたは、ものごとをする理由や起こった原因を自分ででっちあげている。だが、ほとんどの場合は無意識にしている。」
「今度は、意識的に気持ちを(そして人生を)つくりあげなさい!」
(p.194)
たとえば、こんなことを言います。
「せっかくのデートなのに土砂降りの雨。ツイてないなあ。オレはいつもツイてない。何かに祟られているんだろうか?」
ほら、勝手にでっちあげてますよね、起こる出来事の理由を。
「あいつが悪いんだよ。あいつが飛び出して来なければ、ぶつかることはなかったんだからさ。どうして飛び出してくるようなやつを放っておくんだよ。」
本当にそうでしょうか?他の可能性はまったくないでしょうか?相手に原因の100%を押しつけることで、自分には何もする力がないと、責任を逃れようとしているだけではありませんか?
ほら、ここでも起こる出来事の理由をでっちあげています。
そういうでっちあげを、無意識にすることをやめませんか?
そもそも出来事に意味がないのだとしたら、意識的になりたい自分でいられるように、その意味をでっちあげたら良いのです。
思い出しましたか?そう、「少女パレアナ」に書かれていた「なんでも喜ぶゲーム」です。
もしあなたが「幸せな自分であること」が自分らしいと思うなら、そうであるための意味を出来事に与えれば良いのです。
クリスマスのプレゼントに松葉杖をもらったとき、普通ならこう考えるでしょう。
「なによ、これ!?私は足が悪くないんだから、こんなものもらったってしょうがないじゃない。まったくツイてないわ。本当は人形がほしかったのに。」
そう言って、ふてくされてしまうかもしれません。
でもパレアナは、この出来事に違う意味を与えます。
「私って、どうしてこんなにツイているんでしょう。だって、松葉杖を使わなくてもいい丈夫な足があるんですもの。この杖を使わなければならない人はかわいそうだわ。それに比べたら、私はとってもラッキー。そのことを気づかせてくれた素敵なプレゼントだったのね。」
どうです?これくらいでっちあげたら、たいしたものでしょう。
でもパレアナは、こうして自分がそうありたいと願う自分であることを選択したのです。そして、それを経験したのです。
人生は、すべて私たちが何ものであるかを経験する場です。
ものや人との関係性は、それを効果的に経験するために存在します。
ものすごく悪いやつがいなければ、そんな悪いやつでも許して愛するという至高の愛を経験することはできません。
不健康という出来事がなければ、健康がどれだけ素晴らしくて讃えるべきものかという経験ができません。
出来事そのものに意味があるのではなく、あなたが何を経験しようとするかによって、意味を与えるものなのです。
だから、もう出来事の意味を探るのはやめましょう。
不吉なことを経験したくないなら、不吉な出来事があるという考えを捨てることです。
読んでいた「神とひとつになること」は、昨日で読み終えました。
今日からは、次の「新しき啓示」を読んでいます。
これは2003年に出版された本で、私がタイに来てから買ったものです。
2001年9月11日の同時多発テロに象徴されるように、世界では宗教や民族の対立が激化しています。
どうすれば、人類の危機を救うことができるのか?
そういうテーマで書かれているようで、ワクワクしながら読んでいます。
2012年12月06日
メンタル・ブロックを解除すること
最近、「メンタル・ブロック」という言葉をよく聞きます。
あるいは、「マインド・セット」などという言葉も。
カタカナにすると何でもかっこよく感じますが、要はより高い自分の価値を認められない心がメンタル・ブロックで、高い価値を認めるような心の持ちようを実現する方法がマインド・セットです。
自己肯定感とも言いますが、自分はこれでいいのだと、自分で自分を承認することです。根拠のない自信も、同じことを指しています。
これが足りないと昔の私のように、おどおどビクビクと他人の顔色を伺うようになります。
そして、そんな自分に腹を立てます。本当の自分はそんな価値の低い存在じゃないと、どこかで気づいているからです。
本当はもっと価値が高いのに、他人が認めてくれない。これは認めない他人が悪いのだ。そう思って、他人を恨み、復讐しようとします。
本当は、完全な一人相撲なのです。自分が自分の価値を認めさえすれば、自分も他人も恨まなくて済むのに。
それを、自分にはそんな力がないと思いこむことによって責任を放棄し、その責任を他人に押し付けているだけなのです。
自分を助けないのは自分なのに、他人が助けてくれないと怒っているようなものです。
さて、そのメンタル・ブロックを解除して、より高い自分の価値を認めることですが、主に「お金」と「恋愛」の問題に関して利用されているようです。
もっとお金がほしい。お金が得られないのは、お金に対するメンタル・ブロックがあるからで、これを解除すればお金が儲かるようになる。
もっと異性からもてたい。異性からモテないのは、恋愛に対するメンタル・ブロックがあるからで、これを解除すれば異性からモテるようになる。
そういう自分の欲求を満たすために、自己暗示(アファメーション)によってメンタル・ブロックを解除するという方法が示されています。
このことは間違ってもいないし、悪いこととも思いません。
いやむしろ、それで幸せになれるなら、喜ばしいことだと思います。
けれども、おそらくこの方法では、多くの方は目的を達成できないだろうなと思います。
なぜなら、その目的が「お金」や「恋愛」であり、それに執着しているからです。
理屈から考えると、そうなるのです。
潜在意識は、そこにあると思うものを実現します。あると信じるから引き寄せるのです。
しかし執着心は、不安から生じます。そこにない、あるいは、なくなってしまうかもしれない、という不安です。
この不安がある限り、メンタル・ブロックは完全に解除されないし、その不安が現実になるのです。
では、どうすれば良いのか?
不安というものは存在しない、ということを知れば良いのです。
不安は幻想です。不安を生み出しているものは幻想です。お金がない、お金が足りないというのは幻想です。モテないというのは幻想です。
そういうことを理屈で理解すれば、その幻想が現実のように見えたとしても、幻想にしがみつかなくて済みます。
つまり執着心を克服して自由になること。解脱。悟りを開く。どう表現してもかまいませんが、人間本来の自由を取り戻すことです。
人は本来、みな等しく、そしてそれぞれが特別に、尊いものなのです。
何をするか、何をもっているかに関係なく、人であること、生命であることだけで、素晴らしい価値があるのです。
それ以外のことには、大した価値がありません。お金も恋愛も、そのことそのものには価値がないのです。
それを忘れていただけ。本来あるものを見失っていただけ。青い鳥が自分の中にあることを忘れてしまっただけなのです。
それを思い出しましょうと、私は言っています。
けれど、私が尊いのではありません。誰かが特別なのではありません。誰もがみんな、特別で尊いのです。
だから、誰かの言葉にしたがう必要はありません。それどころか、したがってはいけません。
自分の心の中にこそ、その答があるからです。
自分の心が、「これが私らしいことだ」と思ったとき、それを自分の選択として、自分の心にしたがうのです。
あるいは、「マインド・セット」などという言葉も。
カタカナにすると何でもかっこよく感じますが、要はより高い自分の価値を認められない心がメンタル・ブロックで、高い価値を認めるような心の持ちようを実現する方法がマインド・セットです。
自己肯定感とも言いますが、自分はこれでいいのだと、自分で自分を承認することです。根拠のない自信も、同じことを指しています。
これが足りないと昔の私のように、おどおどビクビクと他人の顔色を伺うようになります。
そして、そんな自分に腹を立てます。本当の自分はそんな価値の低い存在じゃないと、どこかで気づいているからです。
本当はもっと価値が高いのに、他人が認めてくれない。これは認めない他人が悪いのだ。そう思って、他人を恨み、復讐しようとします。
本当は、完全な一人相撲なのです。自分が自分の価値を認めさえすれば、自分も他人も恨まなくて済むのに。
それを、自分にはそんな力がないと思いこむことによって責任を放棄し、その責任を他人に押し付けているだけなのです。
自分を助けないのは自分なのに、他人が助けてくれないと怒っているようなものです。
さて、そのメンタル・ブロックを解除して、より高い自分の価値を認めることですが、主に「お金」と「恋愛」の問題に関して利用されているようです。
もっとお金がほしい。お金が得られないのは、お金に対するメンタル・ブロックがあるからで、これを解除すればお金が儲かるようになる。
もっと異性からもてたい。異性からモテないのは、恋愛に対するメンタル・ブロックがあるからで、これを解除すれば異性からモテるようになる。
そういう自分の欲求を満たすために、自己暗示(アファメーション)によってメンタル・ブロックを解除するという方法が示されています。
このことは間違ってもいないし、悪いこととも思いません。
いやむしろ、それで幸せになれるなら、喜ばしいことだと思います。
けれども、おそらくこの方法では、多くの方は目的を達成できないだろうなと思います。
なぜなら、その目的が「お金」や「恋愛」であり、それに執着しているからです。
理屈から考えると、そうなるのです。
潜在意識は、そこにあると思うものを実現します。あると信じるから引き寄せるのです。
しかし執着心は、不安から生じます。そこにない、あるいは、なくなってしまうかもしれない、という不安です。
この不安がある限り、メンタル・ブロックは完全に解除されないし、その不安が現実になるのです。
では、どうすれば良いのか?
不安というものは存在しない、ということを知れば良いのです。
不安は幻想です。不安を生み出しているものは幻想です。お金がない、お金が足りないというのは幻想です。モテないというのは幻想です。
そういうことを理屈で理解すれば、その幻想が現実のように見えたとしても、幻想にしがみつかなくて済みます。
つまり執着心を克服して自由になること。解脱。悟りを開く。どう表現してもかまいませんが、人間本来の自由を取り戻すことです。
人は本来、みな等しく、そしてそれぞれが特別に、尊いものなのです。
何をするか、何をもっているかに関係なく、人であること、生命であることだけで、素晴らしい価値があるのです。
それ以外のことには、大した価値がありません。お金も恋愛も、そのことそのものには価値がないのです。
それを忘れていただけ。本来あるものを見失っていただけ。青い鳥が自分の中にあることを忘れてしまっただけなのです。
それを思い出しましょうと、私は言っています。
けれど、私が尊いのではありません。誰かが特別なのではありません。誰もがみんな、特別で尊いのです。
だから、誰かの言葉にしたがう必要はありません。それどころか、したがってはいけません。
自分の心の中にこそ、その答があるからです。
自分の心が、「これが私らしいことだ」と思ったとき、それを自分の選択として、自分の心にしたがうのです。
2012年12月07日
子は親の背中を見て育つ
「子は親の背中を見て育つ」と言われます。
子どもは親の言うことを聞くのではなく、親のすることを真似るのです。
ですから、どんなに親が子のためを思って躾けようとしても、親が実践していなければ上手く行きません。
虐待された子どもが大人になると、自分の子どもを虐待してしまうという現象があります。
これなども、まさに親の真似をしているのです。
誰かに何かをさせるためには暴力を振るってもかまわない。
親がそういう信念を持っているなら、子どもはそれを習うのです。
だから、子どもをりっぱな人に育てたかったら、まず自分がりっぱな人間になろうとすることです。
自分がやってもできないこと、ましてややろうとさえしないことを子どもに押しつけるのは、おかしなことではありませんか。
そんなにそれが重要だと思うなら、自らやることです。
そうすれば、黙っていても子どもはしたがいます。
「自分は勉強しなくて苦労した。だからその苦労をさせないために、子どもには勉強しろと口やかましく言うんだ。」
そういう親は、考え方が間違っています。
そんなことを言われて、子どもがヤル気を起こすでしょうか?自分が子どもの立場だったらどう感じるかを、考えてみれば答は明らかです。
子どもに勉強させたかったら、親が勉強すれば良いのです。
親はTVを見て楽をしているのに、子どもには宿題をやれと言う。それでは言うことを聞くはずがありません。
同様に、子どもを幸せにしたいのなら、親の価値観を押しつけるのではなく、親が自ら幸せになることです。
幸せそうな親を見て育った子は、どうすれば幸せになれるかを知るでしょう。
そして、自分が幸せになりたいと思うのなら、親の真似をするでしょう。
だから私も、まずは私自身が実践することだと思っているのです。
どんなに言葉を尽くしたとしても、それは他の人の心には響きません。
それよりも、私が自分の人生で実践して示すことが重要なのだと思っています。
私は、「すべてはひとつ」というものの見方を知ることで、人生が大きく変わりました。
それまでどうしてもできなかったことが、できるような気がしてきました。
だからそれを実践して、以前よりもはるかに上手く、自分の人生を創造できるようになりたいと思うのです。
日常には、相変わらずやっかいな問題は起こります。
タンスに小指をぶつけて骨にひびが入ったのではと思うほど、痛みを感じました。
免疫力が低下してヘルペスが生じたり、口内炎ができたりしています。
視力が悪くなり、小さい文字が読みづらくなったりもしています。
でも、そういうことにとらわれて自分の感情を乱し、被害者となる生き方を選択することをやめようと決めました。
私の人生は、私自身が創っている。生じた現実や出来事は、すべて私が原因になっている。
そう受け入れることにしました。
だから誰も、何も恨まないし、自分自身をも恨みません。
それより、そこにどんな意味を与えようかと考えます。
自分が自分らしくあるために、それはどういう意味であることがふさわしいのか?それを考えようと思うのです。
変わり者かもしれません。愚か者かもしれません。そう思う人はいるでしょう。
けれども、それはその人の見方であって、私の見方ではありません。
そう思う人は、そう思うことによって、その人の人生を創っています。
私は私の見方によって、私の人生を創ろうと思うのです。
子どもは親の言うことを聞くのではなく、親のすることを真似るのです。
ですから、どんなに親が子のためを思って躾けようとしても、親が実践していなければ上手く行きません。
虐待された子どもが大人になると、自分の子どもを虐待してしまうという現象があります。
これなども、まさに親の真似をしているのです。
誰かに何かをさせるためには暴力を振るってもかまわない。
親がそういう信念を持っているなら、子どもはそれを習うのです。
だから、子どもをりっぱな人に育てたかったら、まず自分がりっぱな人間になろうとすることです。
自分がやってもできないこと、ましてややろうとさえしないことを子どもに押しつけるのは、おかしなことではありませんか。
そんなにそれが重要だと思うなら、自らやることです。
そうすれば、黙っていても子どもはしたがいます。
「自分は勉強しなくて苦労した。だからその苦労をさせないために、子どもには勉強しろと口やかましく言うんだ。」
そういう親は、考え方が間違っています。
そんなことを言われて、子どもがヤル気を起こすでしょうか?自分が子どもの立場だったらどう感じるかを、考えてみれば答は明らかです。
子どもに勉強させたかったら、親が勉強すれば良いのです。
親はTVを見て楽をしているのに、子どもには宿題をやれと言う。それでは言うことを聞くはずがありません。
同様に、子どもを幸せにしたいのなら、親の価値観を押しつけるのではなく、親が自ら幸せになることです。
幸せそうな親を見て育った子は、どうすれば幸せになれるかを知るでしょう。
そして、自分が幸せになりたいと思うのなら、親の真似をするでしょう。
だから私も、まずは私自身が実践することだと思っているのです。
どんなに言葉を尽くしたとしても、それは他の人の心には響きません。
それよりも、私が自分の人生で実践して示すことが重要なのだと思っています。
私は、「すべてはひとつ」というものの見方を知ることで、人生が大きく変わりました。
それまでどうしてもできなかったことが、できるような気がしてきました。
だからそれを実践して、以前よりもはるかに上手く、自分の人生を創造できるようになりたいと思うのです。
日常には、相変わらずやっかいな問題は起こります。
タンスに小指をぶつけて骨にひびが入ったのではと思うほど、痛みを感じました。
免疫力が低下してヘルペスが生じたり、口内炎ができたりしています。
視力が悪くなり、小さい文字が読みづらくなったりもしています。
でも、そういうことにとらわれて自分の感情を乱し、被害者となる生き方を選択することをやめようと決めました。
私の人生は、私自身が創っている。生じた現実や出来事は、すべて私が原因になっている。
そう受け入れることにしました。
だから誰も、何も恨まないし、自分自身をも恨みません。
それより、そこにどんな意味を与えようかと考えます。
自分が自分らしくあるために、それはどういう意味であることがふさわしいのか?それを考えようと思うのです。
変わり者かもしれません。愚か者かもしれません。そう思う人はいるでしょう。
けれども、それはその人の見方であって、私の見方ではありません。
そう思う人は、そう思うことによって、その人の人生を創っています。
私は私の見方によって、私の人生を創ろうと思うのです。
すべては自分を表現することなのです
前回の問題発言メール(※)は、予想通りの反響でしたね。
※このメルマガの前の号のことで、ブログには掲載していません。
SJ会員の特典には、メルマガの全過去ログがあります。
つまり、何人かの方がメルマガを解除されました。 (^_^;)
でも私は、それはそれで良いと思っています。
自分が嫌だなと思い、購読をやめるのは、その人の自由だからです。
なぜ自由が重要かと言うと、私たちが考え、話し、行動することは、すべて自分自身の表現だからです。
つまり、「自分とは何ものなのか?」という問への答です。
こうして私たちは、常に自分自身を宇宙に対して発信し、宇宙はそれに応えて環境を提供し、その中で自分を体験する、ということを繰り返しているのです。
私たちは、意識的か無意識かに関係なく、それを繰り返しています。
「引き寄せの法則」と呼ばれるものは、宇宙の法則であって、例外はありません。
私たちが都合の良い時だけ利用するものではなく、常に利用しているものなのです。
ですから、私たちが自分の意志で考え、行動できる、自由が最も重要なのです。
その考えや言動が、あなたの人生を創っているからです。
ただ、本質的に言うと、私たちが自由でないことは不可能です。
なぜなら、私たちの本質は自由だから。
私たちは、自分の自由な選択によって、不自由を選ぶことがあります。
たとえば、上司に飲みに誘われて断れないとき、自由を束縛されたと感じるでしょう。
けれども実際は、自分で上司の言いなりになることを選んだのです。
無意識だったかもしれませんが、間違いなく自分が選択したのです。
では、誰かに監禁された場合はどうでしょうか?
それも、自分が引き寄せた現実です。
その時点で選択したのではないにしても、いつかの時点で、その人が選択したのです。
だから、そういう出来事が現実に起こったのです。
ですから、あなたがこのメルマガと出会ったのも、自分の自由意志で選択したこと。
自分の考えが引き寄せたのです。
そして、その内容に憤慨するとしても、自分で引き寄せた現実に対して、自分がどう反応するかを選択し、それを表現しただけなのです。
同じものを読んでも、憤慨する人もいれば、何とも思わない人もいます。
自分の反応を自分が選択している証拠です。
そういうように考えてみると、世の中の見方が変わるのではないでしょうか?
本当は、犠牲者など誰もいません。
犠牲者であることを選んだ人がいるだけです。
もしそうなら、出来事に対して無意識に反応するのではなく、意識的に自分らしい自分を表現したいと思いませんか?
私はメルマガで、常にそのことを問いかけています。
ショッキングな話題で注意を引くのも、すべてそのためです。
自分の人生は自分が創っている。
そう気づく人が、ひとりでも増えることを願って。
※このメルマガの前の号のことで、ブログには掲載していません。
SJ会員の特典には、メルマガの全過去ログがあります。
つまり、何人かの方がメルマガを解除されました。 (^_^;)
でも私は、それはそれで良いと思っています。
自分が嫌だなと思い、購読をやめるのは、その人の自由だからです。
なぜ自由が重要かと言うと、私たちが考え、話し、行動することは、すべて自分自身の表現だからです。
つまり、「自分とは何ものなのか?」という問への答です。
こうして私たちは、常に自分自身を宇宙に対して発信し、宇宙はそれに応えて環境を提供し、その中で自分を体験する、ということを繰り返しているのです。
私たちは、意識的か無意識かに関係なく、それを繰り返しています。
「引き寄せの法則」と呼ばれるものは、宇宙の法則であって、例外はありません。
私たちが都合の良い時だけ利用するものではなく、常に利用しているものなのです。
ですから、私たちが自分の意志で考え、行動できる、自由が最も重要なのです。
その考えや言動が、あなたの人生を創っているからです。
ただ、本質的に言うと、私たちが自由でないことは不可能です。
なぜなら、私たちの本質は自由だから。
私たちは、自分の自由な選択によって、不自由を選ぶことがあります。
たとえば、上司に飲みに誘われて断れないとき、自由を束縛されたと感じるでしょう。
けれども実際は、自分で上司の言いなりになることを選んだのです。
無意識だったかもしれませんが、間違いなく自分が選択したのです。
では、誰かに監禁された場合はどうでしょうか?
それも、自分が引き寄せた現実です。
その時点で選択したのではないにしても、いつかの時点で、その人が選択したのです。
だから、そういう出来事が現実に起こったのです。
ですから、あなたがこのメルマガと出会ったのも、自分の自由意志で選択したこと。
自分の考えが引き寄せたのです。
そして、その内容に憤慨するとしても、自分で引き寄せた現実に対して、自分がどう反応するかを選択し、それを表現しただけなのです。
同じものを読んでも、憤慨する人もいれば、何とも思わない人もいます。
自分の反応を自分が選択している証拠です。
そういうように考えてみると、世の中の見方が変わるのではないでしょうか?
本当は、犠牲者など誰もいません。
犠牲者であることを選んだ人がいるだけです。
もしそうなら、出来事に対して無意識に反応するのではなく、意識的に自分らしい自分を表現したいと思いませんか?
私はメルマガで、常にそのことを問いかけています。
ショッキングな話題で注意を引くのも、すべてそのためです。
自分の人生は自分が創っている。
そう気づく人が、ひとりでも増えることを願って。
2012年12月08日
驚いたことに振り向いたその人の顔は..
さすがにもう12月ですから、日本ではお化けのシーズンが終わっています。
でも、タイは年中、ピー(お化け)の映画やドラマがありますね。
タイ人はみんな、ピーが大好き。(?)ではないかと思うくらい、手で隠して見えないようにしながらも、ピーの映画やドラマを楽しんでいます。
「振り向いた人の顔が..」とくれば、のっぺらぼうとか口裂け女が思い浮かぶでしょうか。
意外な顔が突然に現れるために、その驚きと怖さが相まって、パニック状態になります。
さて、それはお化けの話ですが、振り向いた人の顔を見て、「あっ、この人の顔は○○さんに似ている!」と感じたとこはありませんか?
おそらく、ほとんどの方がそういう経験があるでしょう。
そして、その○○さんが親しい人だったり、愛しい人だったりすると、関係のないその人に対しても、急に親近感を覚えたりするものです。
本当はまったくの別人なのに、自分の中では、特別な人のように感じる。
そう、人は自分がどう考えるかによって、他の人との間に特別な感情を持ち出すことが可能なのです。
だとしたら、そういう生き方を意識的にしてみませんか?
私は以前、祖母を叱りつけたことがありました。
それが心にひかかっていたのですが、花見に来た家族の中に足腰の弱ったお祖母さんがいて、その人を見た瞬間に祖母のことを思い出したのです。
その赤の他人のお祖母さんが、私の祖母のように思えて、思わず手を差し伸べたのです。
何の見返りも欲してはいませんでした。自分がよく思われたいなどという気持ちもありませんでした。
ただ、そのお祖母さんが亡くなった私の祖母のように思えて、助けたくてたまらなかったのです。
これは自然な感情です。
孟子では惻隠の情と言いますけれど、要は愛だと思うのです。
そのときの私の心には、祖母と私の温かい関係、「わたしたち」という思いしかなかったのです。
他の誰かと一体になった気持ち。それが「わたしたち」という思いです。
それはまた、自己の拡大とも言えます。
私は、「わたしたち」という関係を、自分と同様に感じていたのです。
ではもし、誰かが振り向いたとき、その顔が自分自身に見えたら、どうなるでしょうか?
おそらく世の中は一変するでしょう。
どうして他人から盗んだり、他人を傷つけたりできるのでしょうか?
それは、他人を他人だと考えているからです。
自分とは関係がないと考えているから、そういうことができるのです。
でも、その考え方は間違っています。私たちの本質は「ひとつのもの」なのですから。
そう見えないから、そう考えない。そして、そう考えないから、そう見えなくなるだけなのです。
でも、このことは多くの人が言ってきたし、聖書の中でイエスも言っています。
「すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく、わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。」
「そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。」
(マタイによる福音書・第25章40節,45節)
もしあなたが、本気で幸せになりたいなら、本気で愛になりたいのなら、自己を拡大させることです。
今自分が考えている小さな小さな自分ではなく、自分の親しい人、愛しい人も含めた自己に拡大させましょう。
その人たちを、自分ごとのように考えるのです。
それができたら、さらに拡大させましょう。
出会う人のすべてを、迫害する敵を、自分ごとのように考えるのです。
そうすれば、他人を非難したり、罰したりすることが、いかにバカな話かということがわかります。
自分に対してもしないことを、他人にしようとするのですから。
この世に他人という存在は実在しません。
他人のように見える自分という存在があるだけです。
なぜなら私たちは「ひとつのもの」だから。
だから愛することは難しいことではなく、自然なことなのです。
自分が自分を大切にするだけのこと。
ほんのちょっと見方を変えるだけで、あなたも本来の自分に帰ることができるのです。
でも、タイは年中、ピー(お化け)の映画やドラマがありますね。
タイ人はみんな、ピーが大好き。(?)ではないかと思うくらい、手で隠して見えないようにしながらも、ピーの映画やドラマを楽しんでいます。
「振り向いた人の顔が..」とくれば、のっぺらぼうとか口裂け女が思い浮かぶでしょうか。
意外な顔が突然に現れるために、その驚きと怖さが相まって、パニック状態になります。
さて、それはお化けの話ですが、振り向いた人の顔を見て、「あっ、この人の顔は○○さんに似ている!」と感じたとこはありませんか?
おそらく、ほとんどの方がそういう経験があるでしょう。
そして、その○○さんが親しい人だったり、愛しい人だったりすると、関係のないその人に対しても、急に親近感を覚えたりするものです。
本当はまったくの別人なのに、自分の中では、特別な人のように感じる。
そう、人は自分がどう考えるかによって、他の人との間に特別な感情を持ち出すことが可能なのです。
だとしたら、そういう生き方を意識的にしてみませんか?
私は以前、祖母を叱りつけたことがありました。
それが心にひかかっていたのですが、花見に来た家族の中に足腰の弱ったお祖母さんがいて、その人を見た瞬間に祖母のことを思い出したのです。
その赤の他人のお祖母さんが、私の祖母のように思えて、思わず手を差し伸べたのです。
何の見返りも欲してはいませんでした。自分がよく思われたいなどという気持ちもありませんでした。
ただ、そのお祖母さんが亡くなった私の祖母のように思えて、助けたくてたまらなかったのです。
これは自然な感情です。
孟子では惻隠の情と言いますけれど、要は愛だと思うのです。
そのときの私の心には、祖母と私の温かい関係、「わたしたち」という思いしかなかったのです。
他の誰かと一体になった気持ち。それが「わたしたち」という思いです。
それはまた、自己の拡大とも言えます。
私は、「わたしたち」という関係を、自分と同様に感じていたのです。
ではもし、誰かが振り向いたとき、その顔が自分自身に見えたら、どうなるでしょうか?
おそらく世の中は一変するでしょう。
どうして他人から盗んだり、他人を傷つけたりできるのでしょうか?
それは、他人を他人だと考えているからです。
自分とは関係がないと考えているから、そういうことができるのです。
でも、その考え方は間違っています。私たちの本質は「ひとつのもの」なのですから。
そう見えないから、そう考えない。そして、そう考えないから、そう見えなくなるだけなのです。
でも、このことは多くの人が言ってきたし、聖書の中でイエスも言っています。
「すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく、わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。」
「そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。」
(マタイによる福音書・第25章40節,45節)
もしあなたが、本気で幸せになりたいなら、本気で愛になりたいのなら、自己を拡大させることです。
今自分が考えている小さな小さな自分ではなく、自分の親しい人、愛しい人も含めた自己に拡大させましょう。
その人たちを、自分ごとのように考えるのです。
それができたら、さらに拡大させましょう。
出会う人のすべてを、迫害する敵を、自分ごとのように考えるのです。
そうすれば、他人を非難したり、罰したりすることが、いかにバカな話かということがわかります。
自分に対してもしないことを、他人にしようとするのですから。
この世に他人という存在は実在しません。
他人のように見える自分という存在があるだけです。
なぜなら私たちは「ひとつのもの」だから。
だから愛することは難しいことではなく、自然なことなのです。
自分が自分を大切にするだけのこと。
ほんのちょっと見方を変えるだけで、あなたも本来の自分に帰ることができるのです。
2012年12月10日
それが正しいと誰が言ったのか?
会津には、什の掟(じゅうのおきて)と呼ばれるものがあります。
私はこのことを、大学のゼミ旅行で会津地方へ行き、藩校日新館を尋ねた時に教わりました。
内容は、以下のようなものです。
一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
(会津藩校日新館より)
什(じゅう)というのは、同じ町に住む子どもを十人ぐらいのグループにしたもので、その集まりのことを什と呼ぶのだそうです。
その集まりの掟(おきて)、つまりルールなのです。
内容は、儒教が色濃く反映されていることがわかります。
特徴的なのは、最後の言葉です。
「ならぬことはならぬものです」
つまり、疑ったり否定したりすることは許されない、と言っています。
私も子どもの頃は、「へりくつを言うな!」とか、「口ごたえするな!」と怒られたものです。
大人が決めたこと、社会が決めたことに対して、不平や不満はもちろん、疑問を呈することすら悪いこととされたのでした。
日本の教育の荒廃を主張する人が多くいますが、その中には、昔のように有無を言わさず子どもに価値観を植え付けるべきだと言う人が少なからずいます。
子どもに自由に考えさせるのは、危険だという考えです。
私は、それこそ危険だと思います。
特定の価値観を植え付けるべきだと考える人は、この世には絶対的な善悪というものがあり、それは神聖で犯すべきものではないと考えているようです。
だから批判することは許されないし、疑問を呈することさえ許さないのでしょう。
けれども、この信念は間違っています。世の中に絶対的な善悪というものはありません。
この世にあるのは、自分の希望に照らして、有効かそうでないか、があるだけなのです。
今読んでいる「神との対話」シリーズの「新しき啓示」にも、そのことが書かれています。
「「正しい」とか「間違っている」ということはない。自分たちがどうありたいか、何をしたいか、何を所有したいかに照らして、有効なことと、有効でないこととがあるだけだ。」
(中略)
「「正しい」とか「間違っている」というのは、あなたがたの想像が生み出したものだ。あなたがたの判断であり、判断するなかで創り出したレッテルだ。判断のもとになる価値観で、個人としてまた社会として、何を望むかによって左右される。望むものが変われば、あなたがたの言う「正しい」こと、「間違っている」ことも変わる。」
(p.208-209)
このあと、変わらない価値観があると主張する著者のニールに対し、神は、それなら例をあげてみなさいと言います。
そしてニールが、殺人が悪いことだというのは、変わらない価値観だと主張します。
そこで神が言います。「ただし、戦争に勝とうと思うときは、べつだね。」
ニールは、少なくとも自分の国(アメリカ)は、他国に攻め込んだことはないし、自衛のための戦争しかしたことがないと言います。
だから、殺したくて殺したのではなく、守るために仕方なくやったのだと主張するのです。
そこで神はこう言います。
「あなたはたったいま、わたしの言葉を証明したということだよ。」
「自分から攻撃した(する)と考えている国も集団も地球上にはない、ということだ。戦争に突入する者はすべて、何かを守るためだと言う。」
(中略)
「ほかに方法がない、しかたがない、と言えば、欲しいものを手に入れるためにひとを殺してもだいじょうぶ。なにしろ、自分を守らなければならないのだから。」
(p.210-211)
たしかに、日本の大東亜戦争も太平洋戦争も、日本が世界の中で生き残るために始めた戦争でした。
しかしそう主張するのは日本だけであって、侵略された国々は、そうは考えません。
すべてが同じ理屈だということが、少し考えればわかるはずです。
中世の十字軍しかり、魔女狩りしかり、911テロしかり、死刑執行しかり。
もっとも重要だと思われる「汝殺すなかれ」という十戒の戒律でさえ、自分たちがどうありたいか、何をしたいか、何を所有したいかに照らして、有効かどうかで、守るべきか守らざるべきかを決めています。
これが私たちが言うところの倫理であり、善悪の価値観なのです。
つまり、決めているのは神ではなく、私たち自身。
ただそう言ってしまうと権威がなくなるから、神が与えたと言ってみたり、昔からの伝統だとか常識だとか言って、反論を防いでいるだけなのです。
もうそろそろ、善悪は自分が決めていることなのだと、認めてはどうでしょうか?
そうしないと、先に進めないからです。
不可侵のものだと考えている限り、見直すことができません。
そうして自分が決めた価値観を他人に適用しようとして、他人との間に摩擦を起こし続けることになるのです。
攻撃すれば、攻撃されるだけです。防御と主張しながら。
攻撃の手段は、昔はこん棒とかヤリくらいでしたが、それが弓矢になり、鉄砲になり、爆弾になり、原子爆弾にまで強力になりました。
そして今では、「ならず者国家」と呼ばれる国々だけでなく、犯罪組織でさえ簡単にそれを入手できる時代です。
こん棒なら1人を殺すだけで済みますが、原子爆弾になると何百万人を殺すことも可能です。
さらに細菌兵器などになったら...。
自分の価値観を他人に押しつけるという原始的な方法は、もう私たちにはふさわしくない。
なぜなら、そのやり方では世界が平和にならないこと、心に平安をもたらさないことを、私たちは感じてきているからです。
愛は、自由です。
相手の自由を喜ぶものです。
どうして自分の価値観を押しつける必要性があるのでしょうか?
今、大切なのは、今までのやり方では上手くいかないということを、認める勇気だと思うのです。
昨日、「新しき啓示」を読み終えました。
2003年に発売されたものですが、約410ページもあるんですね。
これで2,000円というのは、やはり安いなあと思ってしまいます。
続いて、「明日の神」を読み始めました。
これは2006年に発売され本です。
私が、この「神との対話」シリーズにある「すべてはひとつのもの」という考えを心から受け入れることができて、安心に包まれる体験をしたのは、たしかこの本を読んだあとの2007年だったと記憶しています。
私はこのことを、大学のゼミ旅行で会津地方へ行き、藩校日新館を尋ねた時に教わりました。
内容は、以下のようなものです。
一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
(会津藩校日新館より)
什(じゅう)というのは、同じ町に住む子どもを十人ぐらいのグループにしたもので、その集まりのことを什と呼ぶのだそうです。
その集まりの掟(おきて)、つまりルールなのです。
内容は、儒教が色濃く反映されていることがわかります。
特徴的なのは、最後の言葉です。
「ならぬことはならぬものです」
つまり、疑ったり否定したりすることは許されない、と言っています。
私も子どもの頃は、「へりくつを言うな!」とか、「口ごたえするな!」と怒られたものです。
大人が決めたこと、社会が決めたことに対して、不平や不満はもちろん、疑問を呈することすら悪いこととされたのでした。
日本の教育の荒廃を主張する人が多くいますが、その中には、昔のように有無を言わさず子どもに価値観を植え付けるべきだと言う人が少なからずいます。
子どもに自由に考えさせるのは、危険だという考えです。
私は、それこそ危険だと思います。
特定の価値観を植え付けるべきだと考える人は、この世には絶対的な善悪というものがあり、それは神聖で犯すべきものではないと考えているようです。
だから批判することは許されないし、疑問を呈することさえ許さないのでしょう。
けれども、この信念は間違っています。世の中に絶対的な善悪というものはありません。
この世にあるのは、自分の希望に照らして、有効かそうでないか、があるだけなのです。
今読んでいる「神との対話」シリーズの「新しき啓示」にも、そのことが書かれています。
「「正しい」とか「間違っている」ということはない。自分たちがどうありたいか、何をしたいか、何を所有したいかに照らして、有効なことと、有効でないこととがあるだけだ。」
(中略)
「「正しい」とか「間違っている」というのは、あなたがたの想像が生み出したものだ。あなたがたの判断であり、判断するなかで創り出したレッテルだ。判断のもとになる価値観で、個人としてまた社会として、何を望むかによって左右される。望むものが変われば、あなたがたの言う「正しい」こと、「間違っている」ことも変わる。」
(p.208-209)
このあと、変わらない価値観があると主張する著者のニールに対し、神は、それなら例をあげてみなさいと言います。
そしてニールが、殺人が悪いことだというのは、変わらない価値観だと主張します。
そこで神が言います。「ただし、戦争に勝とうと思うときは、べつだね。」
ニールは、少なくとも自分の国(アメリカ)は、他国に攻め込んだことはないし、自衛のための戦争しかしたことがないと言います。
だから、殺したくて殺したのではなく、守るために仕方なくやったのだと主張するのです。
そこで神はこう言います。
「あなたはたったいま、わたしの言葉を証明したということだよ。」
「自分から攻撃した(する)と考えている国も集団も地球上にはない、ということだ。戦争に突入する者はすべて、何かを守るためだと言う。」
(中略)
「ほかに方法がない、しかたがない、と言えば、欲しいものを手に入れるためにひとを殺してもだいじょうぶ。なにしろ、自分を守らなければならないのだから。」
(p.210-211)
たしかに、日本の大東亜戦争も太平洋戦争も、日本が世界の中で生き残るために始めた戦争でした。
しかしそう主張するのは日本だけであって、侵略された国々は、そうは考えません。
すべてが同じ理屈だということが、少し考えればわかるはずです。
中世の十字軍しかり、魔女狩りしかり、911テロしかり、死刑執行しかり。
もっとも重要だと思われる「汝殺すなかれ」という十戒の戒律でさえ、自分たちがどうありたいか、何をしたいか、何を所有したいかに照らして、有効かどうかで、守るべきか守らざるべきかを決めています。
これが私たちが言うところの倫理であり、善悪の価値観なのです。
つまり、決めているのは神ではなく、私たち自身。
ただそう言ってしまうと権威がなくなるから、神が与えたと言ってみたり、昔からの伝統だとか常識だとか言って、反論を防いでいるだけなのです。
もうそろそろ、善悪は自分が決めていることなのだと、認めてはどうでしょうか?
そうしないと、先に進めないからです。
不可侵のものだと考えている限り、見直すことができません。
そうして自分が決めた価値観を他人に適用しようとして、他人との間に摩擦を起こし続けることになるのです。
攻撃すれば、攻撃されるだけです。防御と主張しながら。
攻撃の手段は、昔はこん棒とかヤリくらいでしたが、それが弓矢になり、鉄砲になり、爆弾になり、原子爆弾にまで強力になりました。
そして今では、「ならず者国家」と呼ばれる国々だけでなく、犯罪組織でさえ簡単にそれを入手できる時代です。
こん棒なら1人を殺すだけで済みますが、原子爆弾になると何百万人を殺すことも可能です。
さらに細菌兵器などになったら...。
自分の価値観を他人に押しつけるという原始的な方法は、もう私たちにはふさわしくない。
なぜなら、そのやり方では世界が平和にならないこと、心に平安をもたらさないことを、私たちは感じてきているからです。
愛は、自由です。
相手の自由を喜ぶものです。
どうして自分の価値観を押しつける必要性があるのでしょうか?
今、大切なのは、今までのやり方では上手くいかないということを、認める勇気だと思うのです。
昨日、「新しき啓示」を読み終えました。
2003年に発売されたものですが、約410ページもあるんですね。
これで2,000円というのは、やはり安いなあと思ってしまいます。
続いて、「明日の神」を読み始めました。
これは2006年に発売され本です。
私が、この「神との対話」シリーズにある「すべてはひとつのもの」という考えを心から受け入れることができて、安心に包まれる体験をしたのは、たしかこの本を読んだあとの2007年だったと記憶しています。
自殺することは悪いことですか?
またまた既存の価値観への挑戦です。
自殺は悪いことだと思いますか?
私は、ずっと自殺は悪いことだと考えてきました。
どうして?
そう、その「どうして」が問題です。
キリスト教などでは、「自殺をすると地獄へ行く」というようなことが言われます。
つまり、神の掟に反する行為だという考えです。
そういう教義がない日本では、「親を悲しませる」、などと言われます。
つまり、親の意に反することだから悪いことだと。
ただこの論だと、「オレが死んでも悲しむ者はいない」という人を説得できませんけどね。
でも最近、「自殺」=「悪」とは思えなくなったのです。
たとえば、病気で苦しんでいる人がいます。
死ねば楽になると考えているとき、家族から「死なないで」と言われる。
これは嬉しい半面、苦しいことです。
自分はまだ苦しまなくてはいけないのか?
そう思うかもしれません。
「安楽死」という言葉があります。
苦しみから解放させてあげて、安らかに死なせること。
今の日本では、これは容易なことではありません。
どうして将来のない人に、必要以上に苦しませなくてはならないのでしょう?
その根拠は、どこにあるのでしょうか?
安楽死よりも容易なのは平穏死です。
死期が来て、食べ物が口に入らなくなったら、不要な延命措置を拒絶するというもの。
人工呼吸や透析、胃ろうなどによる栄養補給を拒否し、身体が死を準備するのを穏やかに見守ることです。
これとて消極的な自殺だし、消極的な自殺のほう助だと思いますが、積極的に関与しないということで目をつぶっているような感じです。
だからこういう人が病院に運び込まれると、医者は何としてでも生かそうとして、患者の苦痛を無視して治療をします。
「死」は医療にとって敗北だし、「悪い」ことだと考えるからでしょう。
でも、安楽死と平穏死で、どれほどの違いがあるのでしょうか?
また、こういうこともあります。
死は本来、短ければ短いほど、苦痛を感じずに済むものです。
つまり、即死というのが、どれだけ楽かということです。
そこで楽に死なせてあげようとして筋弛緩剤を注射して安楽死させると、医者は殺人罪に問われます。
その一方で、長年にわたって肉体に苦痛を与えるようなタバコを販売する人は、報酬を得られる仕組になっています。
真綿で首を絞めるような緩慢な自殺のほう助は報奨され、短期的に助けると殺人罪とか自殺ほう助罪に問われる。
どこかおかしいのではないでしょうか?
そもそもの根底に、「死」=「悪」という価値観があるため、「死」が速いほど悪いことになる。
それによってその人が喜ぶかどうかに関係なく、その人の自由を無視して、この価値観に従わせようとする。
そのことに、違和感を感じます。
何かおかしいのです。何かが機能していないのです。
私は、自殺することで苦を取り除きたいという気持ちには、深く同情します。
死ぬことで楽になれるなら、いっそのこと死んでしまいたいという気持ちには、共感できるのです。
問題は、そこで死を選ぶのが自分の目的に対して適切なのか、そうでないのか、ということだと思います。
多くの場合、苦しまなくてもよい理由で苦しんでいるからです。
本当は、その苦しみがなければ死ななくても良かったはず。
死なずにやりたいことをやりたかったはず。
そう考えるから、自殺より別の方法を選んで欲しいと思うのです。
自殺そのものは、悪いことではありません。
それが私の結論です。
自分で自分の死を選ぶことそのものは、悪いことではなく、自然なことだからです。
だから、死ぬなと命令することもできないし、ましてや自殺した者やその家族に罪悪感を抱かせるようなことも、間違っていると思います。
それよりも、本当は他の選択ができたはずなのに、気づかずに自殺を選んでしまうことを、とても残念に思うのです。
自殺は悪いことだと思いますか?
私は、ずっと自殺は悪いことだと考えてきました。
どうして?
そう、その「どうして」が問題です。
キリスト教などでは、「自殺をすると地獄へ行く」というようなことが言われます。
つまり、神の掟に反する行為だという考えです。
そういう教義がない日本では、「親を悲しませる」、などと言われます。
つまり、親の意に反することだから悪いことだと。
ただこの論だと、「オレが死んでも悲しむ者はいない」という人を説得できませんけどね。
でも最近、「自殺」=「悪」とは思えなくなったのです。
たとえば、病気で苦しんでいる人がいます。
死ねば楽になると考えているとき、家族から「死なないで」と言われる。
これは嬉しい半面、苦しいことです。
自分はまだ苦しまなくてはいけないのか?
そう思うかもしれません。
「安楽死」という言葉があります。
苦しみから解放させてあげて、安らかに死なせること。
今の日本では、これは容易なことではありません。
どうして将来のない人に、必要以上に苦しませなくてはならないのでしょう?
その根拠は、どこにあるのでしょうか?
安楽死よりも容易なのは平穏死です。
死期が来て、食べ物が口に入らなくなったら、不要な延命措置を拒絶するというもの。
人工呼吸や透析、胃ろうなどによる栄養補給を拒否し、身体が死を準備するのを穏やかに見守ることです。
これとて消極的な自殺だし、消極的な自殺のほう助だと思いますが、積極的に関与しないということで目をつぶっているような感じです。
だからこういう人が病院に運び込まれると、医者は何としてでも生かそうとして、患者の苦痛を無視して治療をします。
「死」は医療にとって敗北だし、「悪い」ことだと考えるからでしょう。
でも、安楽死と平穏死で、どれほどの違いがあるのでしょうか?
また、こういうこともあります。
死は本来、短ければ短いほど、苦痛を感じずに済むものです。
つまり、即死というのが、どれだけ楽かということです。
そこで楽に死なせてあげようとして筋弛緩剤を注射して安楽死させると、医者は殺人罪に問われます。
その一方で、長年にわたって肉体に苦痛を与えるようなタバコを販売する人は、報酬を得られる仕組になっています。
真綿で首を絞めるような緩慢な自殺のほう助は報奨され、短期的に助けると殺人罪とか自殺ほう助罪に問われる。
どこかおかしいのではないでしょうか?
そもそもの根底に、「死」=「悪」という価値観があるため、「死」が速いほど悪いことになる。
それによってその人が喜ぶかどうかに関係なく、その人の自由を無視して、この価値観に従わせようとする。
そのことに、違和感を感じます。
何かおかしいのです。何かが機能していないのです。
私は、自殺することで苦を取り除きたいという気持ちには、深く同情します。
死ぬことで楽になれるなら、いっそのこと死んでしまいたいという気持ちには、共感できるのです。
問題は、そこで死を選ぶのが自分の目的に対して適切なのか、そうでないのか、ということだと思います。
多くの場合、苦しまなくてもよい理由で苦しんでいるからです。
本当は、その苦しみがなければ死ななくても良かったはず。
死なずにやりたいことをやりたかったはず。
そう考えるから、自殺より別の方法を選んで欲しいと思うのです。
自殺そのものは、悪いことではありません。
それが私の結論です。
自分で自分の死を選ぶことそのものは、悪いことではなく、自然なことだからです。
だから、死ぬなと命令することもできないし、ましてや自殺した者やその家族に罪悪感を抱かせるようなことも、間違っていると思います。
それよりも、本当は他の選択ができたはずなのに、気づかずに自殺を選んでしまうことを、とても残念に思うのです。
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