2012年11月22日

人生を変えるたった2つの魔法の問いかけ

「神との対話」シリーズを読んでいます。

「神との対話B」を読み終えたと書いたのが、3日前の19日でしたね。

それから「神との友情・上」を読み始めたのですが、今朝、読み終えました。

約270ページもあったのですね。びっくりです。

続けて「神との友情・下」を読むつもりですが、こちらは約230ページなので、合わせると500ページもある大作でした。

神との友情・上


この本の中で、気に入ったところがあったので、今日はそれを紹介したいと思います。

それがこの記事のタイトルなのですが、以前に紹介した吉江勝さんの「人生を好転させるたった2つのこと」という本のタイトルと偶然にも似てますね。

「たった1つ」とか「たった2つ」という言葉が入ると、人が注目しやすいのだそうです。


それはさておき、人生を変えるための「魔法の問いかけ」が2つあると言います。

これを使うことで、人生を劇的に変えることができるのだと。

その部分(p.111-112)を引用しましょう。


じつは、魔法の問いかけは二つある。正しいときにその問いかけをすれば、あなたの進化は想像もできないほど、速まる。その問いかけとは、

−−これがわたしか?
−−愛なら、いまどうするか?

岐路に立ったとき、いつもこの質問をして答えれば、あなたは「新しい福音」の生徒から教師へと成長するだろう。



この世の出来事は、私たちの思考の結果です。

私たちが日ごろ考えていることが現実となり、それを経験するのです。

そしてその経験をもとに、私たちはまた考え、さらに新たな現実を創りだすのです。


ですから、何かを経験したとき、この問いかけをすることで、自分の思考を変えることができます。

ただ出来事に反応するのではなく、意識して選択することができるのです。

 

たとえば、駅のホームで並んでいたら、誰かに割り込みされたとしましょう。

「このやろう!ルールを守れよ!」

頭に来て、後ろから蹴飛ばしてやろうかと考えているとき、この問いかけをしてみてください。

「これがわたしか?」

腹がたって怒っている自分。相手を傷つけてでも、自分の価値観を通したいと考えている自分。

それは、本当の自分なのだろうか?

自分がなりたかった自分とは、そういう存在なのだろうか?

そのことを考えてみるのです。


もしそれで、「これはわたしではない。」という結論が出たなら、考え方を変えましょう。

「でも、どう考えるの?」

そんなときは、この問いかけです。

「愛なら、いまどうするか?」


もし自分が愛だとするなら、完全な愛だとするなら、どうするでしょうか?

それこそが、自分らしい自分なのではありませんか?

それがわかったら、そうしてみることです。

それによって、あなた自身が変わるでしょう。


けれども、つい反応してしまうということはあります。

たしかに愛ならこうすべきだという結論が出ても、どうしてもしたがえないときもあります。

そんな自分を責めないでください。


自分を責めるということは、罪悪感を持つということです。

罪悪感は、百害あって一利なしです。

「いや、そんなことはないでしょう?罪悪感を抱かなかったら、悪いことをしても反省しないじゃないですか。泣いて詫びるくらいの罪悪感を持つことが、二度と間違いを犯さないことにつながるんですよ。」

そういう意見が多いことは知っています。

ですから多くの人が、他人を批判し、非難し、徹底的に詫びるまで許さないという態度をとるのでしょう。


けれども、そうではないと思います。

この本では、「後悔」という言葉を使って、「罪悪感」との違いを説明しています。


後悔とは、真の自分についての最高の考えを示すことができなかった、と言明することだ。罪悪感とは、そんなことをしてしまった自分にはもう価値がないと決めつけることだよ。
(p.261)

殺人者だって気持ちを変えられる。レイプを犯した者だって新たな自分を再創造できる。児童虐待者だって挽回することができる。必要なのは、心と魂と精神の深いところでの決断だけだ。これはわたしではない、と決断することだけだ。
(p.113)


やってしまったことは、もう取り消すことはできません。

それを正当化しようとして自分をごまかすことが、本当の自分から遠ざけてしまいます。


今の司法制度は、犯したことに罰を与えることが重視されています。

罰っせられるという恐怖心で、人の心を強制しようとしています。

けれどもそれでは上手くいきません。

だから裁判では真実が明らかになることはなく、ただ単に罰せられるかどうか、その罰がどの程度かを決めるだけで終わってしまうのです。

これでは人の心が進化するはずがありません。

人の心が進化しない限り、世の中から犯罪はなくならないでしょう。


昨日、漫画家のさかもと未明さんが起こした騒動のことを書きました。

ニュースに取り上げられて注目されたのを受け、さかもとさんが違反行為を謝罪したことが報道されていましたね。

私は彼女の声明を読んで、とても感心しました。「この人は本物だ。」

彼女は自ら警察に出頭し、違反行為をしたことを認め、謝罪したのです。

そして、そういうことをした理由を、次のように述べています。

JALの方には報告していたので、特に処罰はないのかと思っていましたが、広く世に発言する立場の人間として、自分かした過失に対しては、お目こぼしに甘えたり、芸能人だからと特権に浴したりせず、自ら身をただして、進んで相応な処分をうけなくてはいけない、それが発言者の責任だし、さかもと未明の美学だからです


他の誰かがどう考えるかではなく、自分がそう考えるからそうする。それが美学です。

自らの美学にしたがって自分を律することができる彼女は、本物だと思いました。

たしかに機中では出来事に反応してしまったのでしょう。

けれども後で、「これはわたしではない」と考えたのだと思います。だから、そう言明したのです。


自分に対して、たった2つの質問をするだけです。

それだけで自分を変えることができます。

「これがわたしか?」「愛なら、いまどうするか?」

この2つの魔法の問いかけを、使ってみてください。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:44 | Comment(0) | 実践内容 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月23日

大学を辞めてしまったようです

私には、甥っ子が2人います。

そのうちの1人が、大学を辞めてしまったようです。


実は昨年、その甥っ子が悩んでいるから相談に乗ってやってくれと、家族から言われました。

彼の名を、仮に「Kくん」としましょう。

私はKくんに、タイに来るのなら時間をとって話をすると伝えました。

それから紆余曲折があったものの、今年の3月くらいにKくんは1人でタイまで来ました。

初めての海外旅行です。


具体的な悩みはよくわかりませんが、要はどう生きたら良いか迷っていたようです。

そして、周りの期待に応えなければならないというプレッシャーに、押し潰されそうになったのでしょう。



私は、私の生き方を話しました。

広島大学を中退し、新聞奨学生をしながら国士舘大学で学んだことも話しました。

人は、どんな生き方でもできる。

もし今、自分がどう生きれば良いのかわからないなら、今いる場所で一所懸命にやってみることも良いし、今の環境とはまったく異なるところへ行ってみるのも良いと。


甥っ子は、考えてみると言いました。

それから何の連絡もなかったので、元気にやっているのだろうと思っていました。

 

そこへ先日、母親から手紙が届いたのです。

Kくんに何か言ってやりたいのだけど、私の意見を聞きたいと。

何があったのかわからず、私は「お母さんの好きなようにしたらいいよ」と伝えました。

私が話したいことは、すでに話をしてあるし、私はKくんのことを信頼しているからと。


その後、母が心配したのは、Kくんが大学を辞めたと聞かされたからだとわかりました。

でも、甥っ子はさばさばとしているようです。

 

私は、中学3年の時、母に対して「高校へ行かない!」と言ったことがあります。

同級生の友人が中卒で大工になるという話をしたとき、その生き方を母が否定したからです。

友だちを否定されたことへの反発から、そう言ったのです。もちろん、本気じゃありません。

けれども、そんな生き方があっても良いじゃないかと思いました。


私自身は、臆病で、他人の期待に応えようとするタイプでした。

ですから、普通の生き方から外れることは考えられませんでした。

しかしその一方で、自由に自分らしく生きたいという気持ちもあったのです。


おそらくその考えは、父親譲りなのでしょうね。

先月、帰省した時に、父から結婚のエピソードを聞かされました。

結婚披露宴で、親戚の人たちに付き合って延々と酒を飲むのが嫌だった父は、わざとその日のうちにハネムーンへ出発する予定を立てたのです。

あとから恨みごとを言われたようですが、父はそんなことを気にしなかったようです。

保守的な田舎にあって、満州帰りの貧乏人のくせにとバカにされることがあっても、それでも自分の生き方を貫いた父。

そんな話を聞かされて、その血が私の中にも流れているのだと思いました。


もちろんKくんにも、その血は流れています。

彼はやっと、周りの人に敷かれたレールから外れる決断をしたのです。

本当は、周りの人が敷いたわけではありません。

敷かれていると自分が思い込んでいただけです。

いずれにせよ、そこから外れて、自分で道を探そうとしています。


私は、大学を辞める決断をした甥っ子を、誇りに思います。

 

Kくんがまだ小学生になる前のこと、私の両親と一緒に広島にある彼の家へ行きました。

その後、島根の実家へ一緒に行く予定でした。

甥っ子には2歳下の弟がいるのですが、そのとき弟がまだ2歳くらいだったでしょうか。

おもちゃの滑り台を何度も滑っては、「どうだ!」というポーズをします。

それを見て両親などは大喜びで、「すごいねー!」とか言って、拍手しました。

そうやってみんなが弟にばかり注目するので、Kくんはだんだんと機嫌が悪くなりました。

そしてついに、「ぼくは島根に行かないからね!」と怒ったのです。


そのとき私は、見捨てられたような気がして腹を立てたKくんに、自分の過去を重ねました。

私もまた、そういう思いを経験してきたからです。

私はKくんと2人きりになって、一緒に畳の上で寝っ転がりながら言いました。

「おじさんは、Kくんと一緒に行きたいなあ。だって、その方が楽しいもの。Kくんは、おじさんと一緒だと、楽しくない?」

気にかけてもらえることがわかって、Kくんもだんだんと機嫌が良くなってきました。

「ほら、一緒に行かないと、くすぐっちゃうぞー。」

甥っ子は、けたけた笑いながら逃げ回ります。そしてついに折れました。

「わかった。もうやめて。行くから。一緒に行くから。」

Kくんは嬉しそうでした。


もし今、私がKくんに語るとしたら、こんなふうに言うでしょう。

「おじさんはね、Kくんのことが大好きだから。だから、いつも応援しているんだよ。」

「困ったことがあったら、頼りたくなったら、いつでもやってくればいいよ。絶対に拒否したりしないからね。」

「大胆に、思いっきり、好きな生き方をしたらいい。誰かが敷いたレールの上を進むのではなく、自分で切り開いた道を、堂々と歩きなさい。」

「そうすれば、幸せでいられる。幸せでいれば、本当の自分を表現することができる。」

「おめでとう!やっと自分の足で歩くことを始めたKくんを、おじさんは誇りに思うよ。」
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:52 | Comment(0) | └ 家族のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月24日

運勢を好転させる秘訣がわかりました

「神との対話」シリーズを読んでいます。

「神との友情・上」を読み終えたのが2日前ですが、今は「神との友情・下」の114ページまで読みました。

神との友情・下


ここまで読んできて、再発見したことがあったのでお知らせしましょう。

これまで、創造のツールは「思考」「言葉」「行動」だと書かれていました。

私たちはまず何かを考え、それを言葉にし、行動で表すことで現実を想像しているのだと。

だから自分が現実の原因になりたければ、無意識に考えていることを変えることが重要だ、というわけです。


また、思考、言葉、行動は関連し合っているので、コントロールしづらい思考を変えようとするよりも、行動を変えるほうが容易だとも書かれていました。

たとえば、金持ちになりたければ金持ちのように行動すれば良い、というわけです。


しかし、創造のツールはそれだけではないと、この本に書かれていました。

思考よりももっと速い創造のツールがあると言うのです。

あなたが感謝しようとしまいと、人生は良いものを送り届けてくれる。だが、感謝すればもっと速く届く。感謝というのが存在のひとつの在り方だからだ。
(p.21)


つまり、思考よりも存在の方が、より速く創造するということです。

その理由が、そのあと説明されています。

要約すると、こういうことになります。


私たちが思考で創造すると言っても、それは本当の意味で創造するわけではありません。

なぜなら、神はすべてなのですから、そこに新しいものが生まれるとすれば、矛盾してしまうでしょう。

すべては、いま、ここにある。

それを時間と空間(本当は時空という1つの軸)を使って分割したのがこの世です。

つまり、過去や現在だけでなく、未来の出来事もすでに創造されています。

では私たちが思考によって創造するとはどういうことかというと、たくさんある選択肢の中から、どれか1つを選ぶということになります。

つまり、思考は選択であり、それによって出来事(現実、状態)を取り出しているのです。


それよりも速いのは、その結果である状態を知って、自分とはそういうものだと宣言する方法だと言います。

それを知っていると宣言すれば、そうなる。

最も強力な宣言のかたちは「わたしは・・・・である」という言葉だ。

(中略)

これは、ある状態の宣言だよ。無意識にではなく意図的にこの宣言をすれば、意志をもって、意図的に生きることになる。

(中略)

宣言は真のあなたを呼び出す。もっと正確に言えば、真のあなたのなかの、あなたがいま経験したいと思う部分を呼び出す。

これが、思考より存在のほうがさらに創造的だということだ。存在は最も迅速な創造方法だ。なぜなら、こうであるということは、たったいまそうだ、ということだから。

(p.30-31)

感謝も同じだ。感謝を感じるとき、誰も「いまが感謝を感じるときですよ」とは言わない。ただ、ふいに感謝がこみあげるのを感じる。考えるより先に、自分が感謝しているのに気づく。感謝とは状態だ。

(p.34)


感謝するというのは、人生の良いものがすでに与えられると気づいている状態です。

だから、感謝する人の人生には、良い出来事が起こるのです。


この前の「人生を変えるたった2つの魔法の問いかけ」でも、この自分の状態に対する問いかけが示されていました。

「これがわたしか?」「愛なら、いまどうするか?」

つまり、「わたしは・・・・である。」という状態を示す宣言を導き出す問いかけです。

そして、最高の状態とは、「私は愛である。」ということです。

だから、「(わたしが)愛なら」というように、最高の状態であると宣言するなら、どうするかと尋ねるのです。


以前、「ツキを呼ぶ「魔法の言葉」」という本を紹介しました。

この本でも、その状態を示す言葉を使うようにと書かれています。

「ありがとう」「ツイてる」

つまり、感謝ですし、すべては上手く行くと知っているということです。

斎藤一人さんも、「ツイてる」と言うことを勧めておられますね。


私は、この言葉をただ繰り返して使えば良いことが起こる、などとは思いません。

なぜなら、私たちは思考や状態によって創造するのですから、思考に反する言葉をどれだけ使っても、あまり効果はないと思うからです。

ただ先程も言ったように、思考を変えるために言葉や行動を変えるという方法は、有効だと思います。

そういう意味で、つねに感謝する気持ちを育むために、世の中は良いことだらけだという気持ちを持ち続けるために、「ありがとう」「ツイてる」という言葉を口癖にする方法は有効でしょう。


けれども、自分自身をごまかすことはできません。

「これを1万回言えば、良いことが起こるに違いない。」

そう思って言っているなら、良いことは起こりません。

前にも書いたように、「良いことが起こる」という気持ちの中には、「今は良いことがないから」という支える思考があるためです。

この支える思考こそが本当の自分の思いです。

ですから、その思いが現実化されるのです。
 

では、その罠から抜け出すにはどうすれば良いのか?

それについては、そのあとにも書いてありますが、また後日、お話しましょう。

ヒントだけ差し上げると、「この世は幻想だと見抜くこと」です。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 19:20 | Comment(0) | 実践内容 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月25日

口先だけのウソをついても自分は騙せません

昨日の「運勢を好転させる秘訣がわかりました」で、「思考」「言葉」「行動」といった創造のツールを使うより、「存在」を利用した方が速いということを書きました。

そして「存在」を利用するのには、「わたしは・・・・である」という宣言が有効だと。

その前に書いた2つの魔法の問いかけというのも、実はその宣言を使うためのものだったということも言いました。


ただ、その宣言を使う場合でも、感謝もしていないのに「ありがとう」と言うだけでは、効果が少ないという話もしました。

それは、支える思考というのがあるからです。

宣言を利用することで何かが得られると考えれば、「何かがないからそれをやっている」ということを認めることになり、その考えが次の現実を創造してしまうからです。

それで、その解決方法についても、そのあとに書いてあると言いました。

そのヒントとして、「この世は幻想だと見抜くこと」だと。

 

ということで、今日はそのことについて書きます。

たとえばお金持ちになりたいのに、お金がない現実があったとしましょう。

そのとき、「お金がほしい」と言えば、宇宙(潜在意識)は「わかった、あなたはお金がほしい、という存在だ。」と答えます。

つまり、私たちの思考は、常に私たちが何者であるかという宣言になっているのです。


そこで、「私はお金持ちだ」と宣言すれば良いということなのですが、どうしても「そうは言っても現実にはお金がないしなあ。」と考えてしまいます。

言葉でどんなことを言ったとしても、それをウソだとわかっていたら、その言葉で自分を騙すことはできません。

したがって、宇宙を騙すこともできないのです。


どうして、そういうように思ってしまうのでしょうか?

それは不安があるからです。

「自分にはお金持ちになるだけの価値なんてないよ。」

無意識にそう思っています。

それは周りの人たちから、そう教えこまれてきたからです。


そういう心に不安を持ったままの私たちが創造する現実には、好ましくないことがたくさん起こります。

そして、それを見ることで、「やっぱりそうじゃないか。」と自分の考えを追認するのです。

なのでまずは、現実に起こる好ましくないことに対して、どう対処するかということが課題になります。


たとえばお金持ちになりたいと思っているとき、財布を落としてしまうかもしれません。

そんな出来事があったとき、どう考えますか?


「ツイてないなあ。どうしてこんなことになっちゃうんだろう?あのとき、あいつが急に声をかけるから、カバンに入れたつもりで注意しなかったのが悪かったんだ。あいつが悪いんだよ。ちきしょー!」

もう完全に現実に翻弄されていますね。

こういうことを繰り返してきたから、私たちは好ましい現実を創造できなかったのです。


神は、すべてを受け入れ、祝福し、感謝することを勧めます。

では、「神との友情・下」から引用しながら説明しましょう。


すべてを受け入れるとは、いま目の前に現れたものにあらがわないことだ。拒否せず、押し戻さず、逃げ出さず、抱きとり、つかみ、自分自身であるかのように愛することだ。それは自分自身なのだから。あなた自身が創造した楽しいものなのだから。楽しまなければべつだが。

楽しまなければ、自分が創造したものを引き受けまいと抵抗することになる。抵抗すれば相手はかえって強くなる。

だから、楽しみ、喜びなさい。もし、現在の状況や条件が変えたいと思うようなものなら、べつの方法で体験することを選択しなさい。外へ現れた姿、外見はまったく変わらないかもしれないが、内なる体験は変えられるし、変わる。あなたの決心しだいだ。

(p.108)


起こることはすべて、良いことだと決めるのです。

見方(視点)を変えることで、それができます。


そうすればどんなことが起ころうとも、それに振り回されることなく、自分がそうありたいと考える状態に自分を置くことができるのです。


現実に起こっていることは、それがどんなことであっても、私たちが創造したものであり、それは私たちが自分自身を体験するためのものです。

そのために創られた幻想だとわかれば、その幻想に振り回されず、自ら幻想を創る原因となることができます。

だからその前に、起こったすべてを抱きとり、受容するようにと言うのです。


だが愛と受容があれば、ふれあうすべてを祝福できる。

すべてを愛し受け入れれば、すべてを祝福することになる。そうすればあなた自身もふくめて誰もが全面的な喜びにひたれる。

(中略)

すべてを祝福する神は、なにごとも非難しない。神の世界では非難はなく、称賛があるだけだ。あなたがたがする活動や仕事、真の自分を知って経験することが称賛される。

(p.111-112)


私たちの体験がどんなものであれ、それは自分自身の素晴らしさを体験する旅の途中であり、その体験なしには先に進めないものなのです。

だからどんなに避けたい出来事が起ころうとも、それを受け入れ、抱きしめることが大切なのです。


相手を非難したって、変えることはできない。それどころか、非難すれば反復させることになる。

(中略)

非難しないからといって、変えようとしないわけではない。非難しないからといって、肯定していることにはならない。ただ、批判を拒否するというだけだ。

批判しなくても、変えることを選択できる。

変えようという選択は、必ずしも怒りから発するとは限らない。それどころか、怒りが少ないほど、ほんとうの変革の可能性が高まるのだ。

人間はよく変化を正当化するために怒りを利用し、怒りを正当化するために批判する。そうやって多くのドラマを創り出し、批判を正当化するために傷ついたという。

(中略)

すべてのひと、人生のすべての状況が贈り物で、天使であり、奇跡だと思えなければ、それはできない。そう思えれば、すべてに感謝できる。

(p.113-114)


こうして、すべてを受け入れ、祝福し、感謝するようになります。

そうすれば、私たちは本当に望む現実を創造できるようになるのです。

何も必要なものはありません。だって幻想なのですから。だから、不安を持つ必要性もないのです。

大胆に、自分らしさを求めましょう。その勇気が、あなた自身を変えるのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:00 | Comment(0) | 実践内容 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

罪を着せることが目的ですか?

最近のニュースで、またエレベーター故障が原因の死亡事故がありました。

そう言えば同じメーカーのエレベーターで、以前にも同様な事故があり、業務上過失致死罪で起訴されてましたが、あの裁判はどうなったのでしょうか?

そんなことを気にしていたら、それに関するニュースがありました。

なんと驚くことに、あの事故からすでに6年半が経過したというのに、まだ裁判そのものが始まっていないと言うのです。


いったいどうして?

そう思いますよね。


理由は、公判前整理手続きで検察側と弁護側とが、鑑定合戦を繰り広げているからだとか。

裁判の迅速化を目指した制度ですが、そのために裁判を開けない事態になっているようです。


けれども、問題の本質はそうではないと思います。

検察は、ブレーキパッドの摩耗を点検で見逃したことを事故の原因とし、その担当者を起訴しました。

つまり、その担当者に罪を着せようとしているのです。


しかし、その担当者にも言い分があります。

そもそも事故を起こさせようとしていたわけではなく、業務として誠実に作業をしたという自負もあるでしょう。

それなのに「お前が悪い」と言われるのですから、たまったものじゃありません。

そこで、検察の言い分は不当だということを主張し、それを裏付けようとしているのです。


裁判は証拠に基づいて判断するものですが、必ずしもそれだけでは決まりません。

証拠がすべてを明らかにしないケースの方が多いため、争いが起こるのですから。

いかに被告が罪に問われないで済むかを、弁護側は必死になって立証しようとします。


これが裁判の実体です。

何か不毛な感じがしませんか?

問題点は、この裁判という制度が持つ不毛な争いにあると思うのです。


証拠を敢えて鑑定せずに隠匿することで、無実の被告に罪を着せた冤罪事件がいくつかあります。

検察の目的は真実を明らかにすることではなく、被告に罪を着せることだからです。

また、本当は犯人なのに、証拠が不十分なために罪を問われなかったケースもあります。

弁護側の目的は真実を明らかにすることではなく、被告の罪を軽減することだからです。

この不毛な争いのために、検察官、弁護士、裁判官など司法関係者の社会的コストが発生しています。

これが今の私たちの社会にある裁判という制度なのです。


裁判を傍聴した被害者側の関係者が、被疑者が反省していないことに不満を漏らすケースが多くあります。

そんなこと、当たり前ではありませんか?

今の裁判では、真実は明らかにならないのです。

それが目的ではなく、検察側と弁護側の争いの中で、落とし所を探っているだけなのですから。


被疑者の反省さえも、その材料として使われています。

罪を悔い、涙を流して謝罪すれば、罪が軽くなります。

一方、自分の正当性を主張して争えば、罪が重くなります。


「そんなバカな!?」と、私は叫びたくなりますよ。

自分が間違っていなかったと思うからそう主張しただけなのに、それで罪が重くなるなんて。


「オレの言うことに従え!従わないと罪を重くするぞ!」

そう脅しているのと、同じではありませんか?


だから検察側はこれを利用して、やってもいない罪を認めろと迫ります。

自分がやったと早く認めれば、罪が軽くなるのですから。

裁判で争うコストの増大を考えれば、自分の不名誉さえ甘受すれば丸く収まるのだと考えてしまうのも、当然ではありませんか。

 

どうしてそんなに、罪を着せる必要性があるのでしょう?

誰に罪があるかということよりも、何が起こったのかを解明する方が重要ではないのでしょうか?

そして、どうしたら二度とそういうことが起こらないようにできるかを、みんなで協力して考えることが重要ではないのでしょうか?



罪を着せられるという恐怖心によって犯罪を防ごうとするやり方は、上手く行っていません。

上手く行くはずがありません。

脅して不安がらせても、人は必死で防御するだけですから。


その人はなぜ、犯罪を犯さなければならなかったのか?

その本当の理由を明らかにしないでおいて、その原因を知ろうとしないで、結果だけ変えようとするのは無茶な話です。


それを知るために大切なのは、怖れ(不安)ではなく愛を与えることです。

そんなことは、「北風と太陽」というイソップ物語で、みんな知っていることです。



人の本質は愛です。

愛の対極の不安は、本質ではありません。

本質に生きない限り、私たちは幸せではいられないのです。


誰かに罪を着せることが、あなたにとって重要なのでしょうか?

それとも、間違いを正すことが重要なのでしょうか?

間違いを正すことが重要なら、誰かに罪悪感を押しつけるのではなく、許す(愛する)ことが大切なのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:24 | Comment(0) | SJ通信過去ログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月26日

黄金律(ゴールデン・ルール)の見方が変わりました

黄金律(ゴールデン・ルール)というものをご存知でしょうか?

ウィキペディアを見ると、みごとにまとめてありますね。

よく知られているのは、キリスト教の黄金律です。

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」
(マタイによる福音書・第7章12節)

また日本人によく知られているのは、論語の一節です。

「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」

否定形ですけど、要は同じことです。

自分がしてほしいことを他人に対して行い、自分がしてほしくないことは他人に対しても行わない。

それが黄金律です。


これは、ほとんどの宗教で言われていることです。

ヒンズー教でも、イスラム教でも、同じことが言われています。

「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」
(ヒンズー教の聖典・マハーバーラタ)

「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである。」
(イスラム教の経典・ムハンマドの遺言)


もしこの黄金律を忠実に守るなら、世の中に争いごととか、ましてや虐待や戦争などというものは、起こらないでしょうね。

それなのにそういうものが起こるのは、特に宗教を信仰している人たちが起こすのは、自分に都合がよいものだけを見て、都合が悪いことには目を閉じているからでしょう。


それはさておき、まず注目していただきたいのは、古来よりずっと、この黄金律があらゆる場所で言われ続けてきたことです。

多くの人の支持を得てきたからと説明することもできるし、人間の本質に根ざしているからとも言えるでしょう。


けれども、それを守る人は少なかった。

だから現実がこのような世界になっているのでしょうけど、それはどうしてでしょうか?

 

おそらく黄金律が、ルールとして、自分を規制するものとして捉えられてきたからだと思うのです。

前にも言いましたが、人の本質は自由です。

外的に自由を制限するという試みは、ことごとく失敗しています。

それが良いことであれ、悪いことであれ、人の本質は制限を嫌うのです。


人は制限されることにより、「自分のままではいけないのだ」と思います。

制限されたことに従えない自分を恨み、罪悪感を抱きます。

そして次に、制限を与えた相手を恨みます。

どんなことであれ、他者から制限されることは、その人を不幸にするのです。

 

では、黄金律は間違っているのでしょうか?

そうは思いません。古典と同様、長い年月に耐え、多くの人の目にさらされてきて、なおも生き残っているのですから。


おそらく、その解釈が間違っていたのです。

誰かを強制するものととして捉えたために、私たちは間違って利用しようとしているのです。

では、正しい解釈とはどんなものでしょうか?

そのことが、今読んでいる「神との友情・下」に書かれていました。


人類の歴史を永遠に変え、苦しみを終わらせ、人びとを神のもとへ連れ戻すことができるメッセージがたったひとつある。そのメッセージが、新しい福音だ。わたしたちはすべて一体である、というメッセージだ。

この新しい福音から、全面的な責任という新しいメッセージが生まれる。あなたがたは自分が選んだことに全面的な責任があり、選択はすべてみんなでするもので、選択を変える唯一の道はみんなで変えることだというメッセージだ。

他者を苦しめていると考えているかぎり、自分を苦しめつづけることになる。じつは自分自身を苦しめているのだということがわからないかぎり、いつまでも自分を苦しめるだろう。

(中略)

他者にすることは自分自身にしているのだと、他者にしてやらないことは自分自身にしていないのだと、教えてやりなさい。

自分にするようにひとにしてやりなさい。なぜなら、それは自分にすることだから!

(p.168-169)


他人に対して優しくせよという命令ではないのです。優しくしなければならないという制限ではないのです。

ただ単に、他人とは私自身のことであり、私たちの本質は「ひとつのもの」だという認識に過ぎないのです。


もし目の前の他人が、実は自分自身だと知ったら、あなたはひどい仕打ちができるでしょうか?

できるはずがありません。

目の前の他人がお金がなくて困っていたら、あなたは喜んで自分のお金を差し出すでしょう。

なぜなら目の前の他人とは、自分自身のことだから。

あなたは他人を助けたのではなく、自分自身を助けたことになるのです。


だから、もし自分がこうなりたいという希望があれば、それを他人にさせなさいと言うのです。

成功したければ、他人を成功させなさい。他人の成功を助けてあげなさい。

あなたは何も失わない。むしろ多くをあげることによって、さらに多くを得るのです。



黄金律は、守るべきルール(規制)ではないし、自由の制限でもありません。

あなたが本質に目覚めたなら、そうせざるをえないだろうという神の言質です。

あるいは、魂の望み通りに生きるための指針なのです。

黄金の規則ではなく、黄金の知恵、黄金の真実、黄金の福音なのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:58 | Comment(0) | 幸せ実践塾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月27日

善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや

歎異抄(たんにしょう)という書物をご存知ですか?

歎異抄というのは、親鸞上人の言葉を忠実に示そうとした、弟子の唯円が書いたとされる書物です。

私は解説本しか読んだことはありませんが、そこには有名な悪人正機説というものが書かれています。

「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。」

現代語訳は、「善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる。」となります。

歎異抄.comより)


これは他力本願という考え方です。

よく他人の力に頼ることを「他力本願」と言う人がいますが、それは使い方が誤っています。

本来は浄土真宗の仏教用語で、阿弥陀仏が衆生を救済する本願のはたらきのことを指すのだそうです。


細かいことはさておき、歎異抄の上記の一節に対しては、「善人が救われるならわかるが、どうして当然のように悪人が救われるのか?」と、疑問を持つ人が多いでしょう。

私もそうでした。

それについて歎異抄では、以下のように説明しています。

なぜならば自分の力で後生の一大事の解決をしようとしている間は、他力をたのむことができないので、阿弥陀仏のお約束の対象にはならないのです。

つまり、自分で救われようとする気持ちがある間は、仏様がコントロールできないから、仏様にすべて委ねる気持ちにならないとダメだということです。

つまり悪人と言うのは、自分は煩悩にまみれた存在であることを認めている人のこと。

自力ではどうにもならないほどひどい人間だと思っている人のことを指すようです。

そういう人が、「自分ではどうにもならないから、仏様、助けてください!」と他力にすがるなら、仏様が救ってくださるというわけです。


似たようなことが、「神との対話」シリーズにも書かれています。

「神との友情・下」を読み終えたので、今は次の「神とひとつになること」を読んでいます。

これは2001年4月に発行された本ですから、シリーズの中では私がタイに来る前に、最後に読んだ本になりますね。

神とひとつになること


この本の「はじめに」という前書きに、こう書かれています。

あなたも完全無欠だとは思わないが、欠点がある者は神の助けや直接の導きを受けられないとは考えない。それどころか欠点があるからこそ、神の助けを得られるのだと思う。

(p.8)


私も、このブログで白状しているように、様々な愚かなことをしてきた人間です。

叩けばホコリがわんさか出てくるような人間ですから、人様の前で、清廉潔白のようなフリをすることはできません。

けれども、私もこの「神との対話」シリーズと出合うことで、生き方が変わったと思っています。


スタートは、「こんなのは嫌だ!」と思ったときです。

無意識に、「これは私ではない!」と思い、「本当の私はもっと○○な存在のはずだ。」と考えたのでしょう。

それが宇宙に対する「私という存在」の宣言になりました。

だから、「神との対話」シリーズをはじめとして、多くの有益なインスピレーションを与えてれた書籍や映画などと出合えたのです。

もちろんそれ以上に、私が出会った多くの人は、私に様々なことを気づかせてくれました。


つまり、最初は「これは本来の自分じゃない」と気づくことです。

本来の自分が善だとすれば、本来の自分じゃない自分とは悪ですよね。

すなわち自分は悪人だと気づくことが、生き方を変える始まりとなったのです。


おそらくあなたも、そうではありませんか?

そうでなかったら、このブログを読むこともなかったでしょう。

「こんなのは嫌だ。これは私が望む私じゃない!」

そういう思いを持ったから、ここへ来たのではありませんか?


あなたにも、多くの気づきがありますように。

私の書いたブログが、あなたへの贈り物となれば良いと思っています。
 

posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 17:53 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月28日

君子困窮

「君子困窮(くんしこんきゅう)」という四文字熟語があるそうです。

すぐに思いつきましたが、これは論語から来たものですね。

「子曰、君子固窮」(子曰く、君子もとより窮す)

本当は「君子固窮(くんしこきゅう)」が正しいのですが、おそらく固窮(こきゅう)という言葉が日本語にないことと、漢字も困窮に似ていることから、いつしか「君子困窮」として広まったものでしょうね。

全体の口語訳は、以下のようになっています。

陳の国にいる時に糧食が無くなってしまった。孔子の弟子達は病み疲れて立ち上がることもできない。子路が憤激して孔子に拝謁して申し述べた。『君子であっても食に困窮することがあるのでしょうか?』。先生がおっしゃった。『君子でも当然困窮することはある。しかし、小人が困窮すると混乱してしまうものだ。』。

『論語 衛霊公篇』の書き下し文と解説


つまり、どんな立派な人であっても困窮することはあるのです。立派でない人との違いは、困窮した時にどう対応するかという違いです。

立派でない人は、自暴自棄になったりして何をするかわからないけれど、立派な人は困難の中でも自分を見失わず、徳性にしたがって冷静に考えることができるというわけです。


論語では、立派な人は困難の中でも自分を見失わないと表現していますが、逆のことも言えます。

つまり、困難の中でも自分を見失わない人は、立派な人だと。すなわち、君子であると言えるのです。

君子を立派な人と言いましたが、別の言い方をすれば、自分が立派だと思う人、つまり自分が抱く素晴らしい人のイメージです。

それはまさに、自分らしく生きることであり、自分らしさを表現することだと思うのです。

 

孟子の中には、こういうことが書かれています。

天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、其の筋骨を労し、その体膚を餓やし、其の身を空乏し、行ひ其の為すところに払乱せしむ。心を動かし、性を忍び、その能はざる所を曾益せしむる所以なり。

古典と楽しむ名言集

天が大きな使命を与えようとするときは、最初にその人の精神や肉体を苦しめることによって試練を与え、その人の能力をより大きく高めるようにする。だいたい、こんな意味になります。

つまり、困窮するということは、天が大任を与えようとして、その準備をさせるためだと言うわけです。


よく「ピンチはチャンス」とも言いますが、困難なことが起こったときは、飛躍する前触れとも言えるわけです。

ことわざでも「艱難汝を玉にす」と言います。

ちなみに「かんなん、なんじを、たまにす」と読みます。最初に就職した会社の入社式で、新入社員代表として読まされた文の中に書かれていました。

そのときはその漢字を読めず、「ぎんなん、なんじを、たまにす」と読んでしましました。

あとで気がついたのですが、今思い出しても赤面してしまう恥ずかしい思い出です。


松下幸之助氏は、自分が成功できた理由として、学歴・金・健康の3つがなかったことだと言っています。

普通に考えれば逆境ですが、逆境があったから成功できたと言うのです。

逆境を経験することの重要性で言うと、大病、投獄(収監)、貧乏(倒産)の3つが挙げられます。

これらのうちの1つでも経験し、そこから這い上がってくるなら、強い精神力を得ることができるのでしょう。

まさに孟子に言うように、天が大任を与える準備が整うのです。

 

「でも、そんなに強くないから、なるべくトラブルの少ない人生がいいなあ。」

そういう願いを持つ人も多いでしょうね。私もそうです。

でも、人生に起こる問題は、自分が自分のために引き寄せているので、乗り越えられない障害はないと言われます。

遠くから見ていると大変そうに見えても、いざその場に立ち会えば、何とかなるものだと。


では、実際に困難な状況に出合ったとき、どうすれば良いのでしょうか?

その解決方法を、今読んでいる「神との対話」シリーズではこう言っています。

何かあったときは、「人生を変えるたった2つの魔法の問いかけ」をしなさいと。


困窮する事態に遭遇したとき、ついパニックになって慌てふためいたり、自暴自棄になって思慮のないことをしたくなったとき、自分に問いかけるのです。

「これがわたしか?」

そうすれば、本当の自分が他にあることを思い出すでしょう。

そして次に、こう問いかけるのです。

「愛なら、いまどうするか?」

そうして得られた答が、本当の自分であるための方法です。


困窮したとき、小人は乱れるが、君子は冷静でいられる。

それは、その出来事が本当の自分を表現するチャンスだと知っているからです。

そしてただ、自分自身であろうとするのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 15:01 | Comment(0) | 幸せ実践塾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月29日

お金持ちにならない生き方をする

私は、浪費家ではなく、倹約家だと思います。

「石橋を叩いても渡らない」と自称したほど慎重と言うか、臆病な性格ですから。

「宵越しの銭は持たない」という江戸っ子気質とは、程遠いものがあります。


なので、それなりに貯蓄もしてきたし、マンション投資などもしてきました。

そういうふうに蓄財を考えてきたこともあって、それなりに豊かになりました。


ただ、お金というものは、いくらあっても「これで十分」とは思えないのです。

よく、老後に必要な資金が4千万円とか5千万円などと言いますよね。

ちょっと私の感覚からしてもかけ離れた金額だとは思いますが、60歳から85歳までの25年間、無収入でそれなりの生活をしようと思えば、それくらいは必要なのでしょう。

老後の生き方をどうするかによって、必要なお金も違ってくるでしょうから。


私は、今は厚生年金に加入していないので、もらえる年金は65歳からせいぜい10万円程度です。

それでも、タイで暮らして健康でいるなら、それなりに暮らせる金額だと思います。

けれども今のような生活をしようと考えれば、まったく足りません。

日本で購入したマンションはありますが、あれはおそらくダメでしょうね。

たしかに賃貸に出していれば、それなりの収入はあるでしょうけど、老朽化してくると大規模修繕か建替えという問題が発生するため、そこで莫大なお金が必要になります。

それを考えると、月々の収入をそのまま使うこともできません。

それに今は、借金返済で賃貸収入が飛んでいるばかりか、持ち出し状態ですから。

マンション投資は失敗だったと気づきました。どうせやるなら、アパートの1棟買いですね。

今ごろ気がついても、もう日本の銀行は私に融資してくれないので、そんなこともできませんけどね。

もしこれからマンション投資を始めようとされてる方がおられたら、私はマンションよりもアパートをお勧めします。

もちろん自己責任でお願いしますよ。(笑)

 

そういう老後が気になり始めたこのごろですが、最近まで、資産を蓄えることを考えていました。

やはり不安を払拭し、不労所得を得るためには、資産がなくてはなりませんから。

でも、「神との対話」シリーズを読み始めてから、少し考え方が変わりました。


どうせ生きるなら、自分らしい生き方をしよう。

そういう気持ちが強くなったのです。

たしかにお金持ちになれば、自由にお金を使うことができて、それで慈善活動をすることもできるでしょう。

社会投資家という考え方があるようですが、まず自分が資産を蓄えて潤った後に、社会貢献のために投資するという考え方です。


それはそれで素晴らしいと思うのですが、そのためにFXで稼ぐというのが、どうにも馴染めません。

私も株式投資はしているので、投資で儲けることを否定するわけではありませんが。


それで、自分がやりたくないことを無理にやるのはやめようと思いました。

不安からお金を蓄えるという生き方をやめて、まずは幸せになり、安心の状態から何かをしようと思うのです。



タイでは、私は現金や株以外に資産を持っていません。

車は買いましたが、妻の名義にしました。

私はお金を出しただけです。

妻の田舎で暮らす母親が病院ヘ通うのに車がないので、車を買って父親に使わせているのです。


今度、妻の田舎に土地を買おうと思っています。

これももちろん、妻の名義です。

土地があれば、キャッサバやサツマイモくらいなら、あまり労力をかけなくてもお母さんが作れるでしょうから。

場合によっては、小作を頼んで何か作ってもらってもいいし。


そうやって作っても、おそらく私には一銭も入ってこないでしょう。

また、もし離婚するとか、妻の方が先に亡くなるなんてことがあったら、その土地は妻の両親のものになります。

外国人は、土地を所有することができませんからね。


「そんなことして、不安じゃないの?いつ裏切られるかわからないのに。」

そういうことを、まったく考えなかったわけではありません。

ただ、私は一度、完璧に裏切られていますからね。(笑)

そのとき、学んだのです。

不安から疑って生きることの愚かさを。そんな生き方が、まったく心地よいものではないことを。

だから、すべてを手放そうと思ったのです。

相手には相手の自由がある。それを認めることが、相手を本当に愛することなのだとわかったのです。


だから、裏切られた時には、すべてを失っても良いと思っているのです。

別に所有しなくてもいい。

生活できるだけのものがあれば、それで生活すればいいし、それがなくなっても、そのときにある範囲で生きればいい。

そのわずかなものさえなくなったら、...そのときはそのときじゃありませんか。

臆病で慎重な性格からは考えもつかないような生き方を、今はしてみようと思っています。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:58 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月30日

人は見たいものを見るのですから

私たちは常に、様々な情報にさらされています。

それは耳を通じて聞こえてくる聴覚の情報もあるし、目を通じて見えてくる視覚の情報もあります。

それこそ五感を通じて、常に様々な情報が入ってきています。

もしこれをいちいち全部処理していたら、きっと気が狂ってしまうでしょうね。

幸いなことに私たちは、入ってくる情報の一部しか処理しません。


たとえば雑踏の中で友人と会話するとき、会話に注意を向けていると、周りの音が聞こえなくなります。

いえ、本当は聞こえているのでしょうけど、私たちが聞かないようにしているのです。

同じように、見えているのに見ていないことがあります。

私などはしょっちゅうなのですが、目の前で手を振られて、初めてそこに知り合いがいたことに気づくことがあります。

私たちは、そこに注意を向けたとき、初めてその情報を意味あるものとして認識するのです。


そうであるために、私たちは、「こうであるはずだ」と思い込むと、そういう情報しか取り込まなくなります。

検察が犯罪を立証する証拠だけを取り上げ、否定する情報を無視してしまうのは、「こいつが犯人に違いない」と思い込むからです。

そのため、それを否定する証拠を軽視し、忘れてしまうのです。

 

「神との対話」シリーズを読んでいて、今は「神とひとつになること」を130ページまで読んだところです。

約250ページありますから、半分を過ぎました。

この中に、私たちのものの見方について、有益なことが書かれていました。引用しましょう。

この世はすべて幻想で、真実の姿は「ひとつのもの」だということが前提になります。

幻想が現実的なのは、人びとがそれを幻想ではないと信じているからだ。

(中略)

真実とはあなたがたの信念、大多数の主張である。

(中略)

あなたがたは見たいものを見ているのだろうか?見えるはずだと期待するものが見えるのだろうか?そして、見えると期待しないものは見えないのか?

よいかな。答えはイエスだ。

(中略)

科学は、なにごとも観察者の影響を排除して観察することはできないという結論を出した。

(中略)

言い換えれば、あなたがたは幻想のなかから幻想を見ている。

したがって幻想に関するすべての結論は、幻想にもとづいている。だから、すべての結論は幻想である。

(p.120-122)


このように、私たちは幻想の中に生きていて、それを幻想とは思わず、現実だと信じているから、幻想であることがわからないのだと言います。

では、そんな私たちが、どうすれば幻想を見抜くことができるのでしょうか?


あなたがたはいま、幻想が現実的なのは、それが現実だからではなく、現実だという固い信念を自分がいだいているからだと知った。したがって、幻想に対する見方を変えるには、まず信念を変えることだ。

(中略)

幻想にぶつかったとき、それが幻想だと信じれば、どれほど現実的であろうとも幻想に見える。そうなれば、幻想を本来の目的に活用することができる。

(p.123)


「これは自分が創り出した幻想にすぎない」と信じて見るなら、現実が実は幻想だということがわかると言います。

そして幻想だとわかって現実を見れば、現実に翻弄されるのではなく、自ら新たな現実を創り出すことで経験を変えることが可能になると。


そんな魔法のようなことができるのでしょうか?

私もまだ、よくわかりません。けれども、私の心は、これらの言葉に喜び、そうであるはずだと言っています。

だから私も、そういう生き方をしてみようと思うのです。

言葉として語るよりも、自分の生き方で示すこと。

子どもの教育と同じですね。「やれ」と言うのではなく、やってみせること。

それが私らしい生き方だと思うのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 17:13 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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