今日は、とても重要なことをお話します。
私は、私の考え方をブログやメルマガで発信していますが、その根本にある考え方についてです。
それは、私たちは「ひとつのもの」だ、という考え方です。
このことは、ブログの記事「般若心経の意味がわかった」でも書きました。
この考え方も、私のバイブルだと思っている「神との対話」にあったものです。
その本を読む中で、「本当にこの意味がわかった」と感じたことがありました。
それは、「神との対話B」のp.171以降を読んでいたときです。
そのことについて、本から引用しながらお話しましょう。
第7章(p.160から)では、輪廻転生があるかどうかについて、著者・ニールと神との会話が続いています。
動物にも魂が宿るかという質問に、神は動物の目を見ればわかると、間接的に答えます。
ただし、誰かの生まれ変わりが自分の飼っているペットということはない、とも言います。
なぜなら魂の望みは、自分自身のさらに高い側面を経験することで、そのためには低位の存在(動物など)に戻ることは意味がないからと。
また魂は、さらに進化するために自ら人間に戻り、何度も何百回も人生をやり直すと言います。
そこで著者のニールがこういう質問をします。
「それじゃ、毎日、システムに「新しい魂」が参加して、低位の生命のかたちをとるんですね。」
これに対して神はこう答えます。
「いや。すべての魂は、いっぺんに創られている。すべてがいま、ここにある。」
時空にとらわれて生活している私たちは、どうしてもその制限の中で考えてしまいます。
ですから、生まれたばかりの魂が動物に宿り、次の生では人間にと、時系列で考えてしまうのです。
でもそれでは、本質的な世界では時空は存在せず、「いま」「ここ」しかないことと矛盾します。
それでニールは混乱し、こう言います。
「すると、わからなくなるんですよ。宇宙の時空のつながりのなかで、「わたし」のひとつが「死に」、そしてべつの人間として戻ったとしたら・・・すると・・・どれがわたしなんですか?いっぺんに二人の人間として存在することになりますよね。それを永遠にくり返したとすれば(だって、そうおっしゃるんでしょう)、わたしはいっぺんに何百人もの人間になってしまう!」
それに対して神は、「そうだね。」とあっさり答えます。
そのあとしばらく会話が続きますが、ニールはどうしても自分の立場でしか考えることができません。
そこで神はこう言います。
「混乱するのは、まだ、わたしたちがひとりではなく複数だと思っているからだよ。」
さらにこう続けます。
「ここには、わたしたちはひとりしかいない。これまでも、ひとりしかいたことがない。そこに、気づいたんじゃなかったのかな?」
ここまで読んだとき、私は背筋がゾクっとしました。
たしかに、私たちは「ひとつのもの」だと、これまでにも書かれていました。
それを分割することで、この世にたくさんの魂が生まれたのだと。
それは理解していましたが、本質的に理解していなかったのです。
私の理解は、せいぜい「私たちは兄弟姉妹」ではなく、「私たちはひとつのものの一部だ」ということだったのです。
私が右手なら、他の人は左手。そういう認識だったのです。
けれどもここで、神は驚くことを言っています。
それは、「存在するのはひとりだ」ということです。
つまり、あなたは私であり、私はあなただということです。
私は、「分割した」という言葉から、物理的に2つに分けたというイメージを持っていました。
つまり「ひとつのもの」だった神を2つに分割して、「ふたつのもの」にしたイメージです。
だから、私たちは「ひとつのもの」の一部だという考えになったのです。
でもそれでは、他の人は「ひとつのもの」の別の一部だということになり、私とは別のものになってしまいます。
時空が存在する中での分割では、どうしても別の部分が存在していて、それを単に切り離したイメージになります。
「神との対話B」のこの部分を読んだとき、私の中にスーッと「ひとつのもの」のイメージが入ってきました。
時空のない世界での分割というのは、まさに文字通りに時空を使った分割だったのです。
時空を創ることによって、私たちは他人を、自分とは別のもの(=他人)として見ることができたのです。
したがって本質の世界で時空が存在しない状態になれば、それは「ひとつのもの(=ひとり)」になるしかないではありませんか。
それまでにも、「他人を自分のことのように考えよう」という考え方は知っていました。
しかし、どんなに頑張っても、他人は他人にしか見えなかったのです。
絶対に自分と同じには思えなかったのです。
けれども、私たちが「ひとつのもの」だとすれば、それが可能になります。
他人とは、別の人生での経験を選んだ私自身だから。
この世には、たったひとりしか存在していない。
それは、あなたであり、私であり、私たちなのです。
そのことがわかったとき、私は初めて、他人を本当に愛せると思いました。
だって、その人は「他人」ではなく、「私」自身だからです。
それがどんな人であったとしても、それは「私」であることを忘れた「私」自身です。
どうして愛せないことがあるでしょうか?
愛さないなんて不可能です。
だって、私なのですから。
これで、すべてのことが説明できます。
どうして他人のためにすることが、自分のためになるのか?
どうして自分を愛さないと、他人を愛せないのか?
簡単でしょう。
「他人」などという存在は存在しないからです。
存在しているのは、すべて「私」という存在だからです。
私は、私のことを愛しています。
だから、あなたのことも愛するのです。
たったそれだけのことなのです。
2012年11月12日
2012年11月13日
仕事では何度も悔しい思いをしました
私は今、51歳になりました。
社会人になったのが26歳と遅かったので、社会人経験は25年ほどです。
あっと言う間だったような気もしますが、その間にも数々の悔しい思いを経験してきました。
今回は、その経験の主だったものについて書きます。
ただしこれは愚痴ではなく、私もそういうつらい経験をしたということを知ってもらいたいからです。
私の場合、社会人になることが遅かったため、年下の先輩という存在が大きな壁だったのです。
●1回目に転職した会社で、ある会社へアウトソースとして派遣されました。
最初の会社では、オフコンのプログラミングと、顧客研修用テキストの作成が主な経験で、大型汎用機の開発経験はほとんどありません。
しかし派遣先は、大型汎用機のシステム開発を主な業務としていました。
したがって私は、そこで新たな知識を学ばなければなりませんでした。
自習用テキストなどはありましたが、個々の不明点は、先輩に教えてもらうしかありません。
そこの会社のプロパーで、専門学校卒で入社していた方がおられました。
入社して3年くらいですから、私より年齢では5歳くらい年下になります。
その人に質問して教えてもらったのですが、どうにも納得ができません。理屈が通らないのです。
それで私は、丁寧に再度、教えを請いました。
それでも、その人の説明には辻褄が合わない部分がありました。
しつこいとは思いながらも、私は頭を下げて質問したのです。
「あのー、すみませんが、それだとこの部分がおかしくなると思うんですけど...。」
すると、その人はキレて怒鳴りました。
「そんなに言うんだったら、自分で調べたらいいじゃないか!」
私は何も言い返せませんでした。
相手は派遣先のプロパー社員です。しかも、これからもいろいろ教えを請わなければならない先輩です。
ものを知らないということは、こんな悔しい思いをしなければならないのかと思いました。
●次は、2回目の転職で岡山の会社に入った時のことです。
すでに大型汎用機のシステム開発には慣れていましたが、今度は今までとは異なるメーカーの大型汎用機でシステム開発をする会社です。
またその会社では、オフコンのシステム開発と、親会社などのシステム運用も請け負っていました。
ここでも、知らないことを年下の先輩から教わることになりました。
今度は、早朝に出勤してコンピューターを立ち上げ、バッチ処理(コンピューターの計算処理の一種)を流して伝票を出力するという、オペレーターの仕事をやることになりました。
そのとき私は35歳くらいでしたが、25歳くらいの女性社員に教わりながら、そのオペレーター業務を覚えたのです。
私が1人でその業務をするようになって2回目くらいのとき、プリンターに設置されていた伝票の用紙がなくなりました。
プリンターを3台くらい使っていて、他の2台は取替え方法など教わっていたのですが、その1台は教わってなかったのです。
「わからないんだからしょうがない。」
私はそう腹をくくって、誰か社員が出社してくるのを待ちました。
そこへ女性社員がやってきたので、事情を説明して伝票用紙をプリンターに設置してもらいました。
ただ、なぜかとても不機嫌そうなのです。
「しょうがないさ、どう思われても。私は知らないんだから。」
そう思っていましたが、少し先輩格の女性社員がやってきた後、私は呼び出されて怒られました。
「赤木さん、ちゃんと仕事をしてくれないと困るじゃないの。この伝票は9時までに届けなければいけないのよ。どうしてボサーっとして待ってるのよ!」
言い訳をしたかった。私にだって言い分はあると、怒鳴り返したかった。
けれども、相手はこれからも教えを請わなければならない先輩です。私は黙っているしかなかったのです。
●最後は、その会社からまた他のところに、アウトソースとして派遣されたときのことです。
そこでは、大型汎用機のメーカー関係のソフトウェア開発会社の人たちや、その関連会社の人たちが集まって、大掛かりなプロジェクトが進行していました。
そこに後から加わる形で入ったのです。
ともかく周りは、知らない人ばかりです。
私はそこにたった1人で送り込まれ、ある人の下で働くように指示されました。
その人は、私よりも10歳くらい年上の温厚そうな人でした。
「赤木さん、この部分を調査して、どうなってるか調べてくれる?わからないことがあったら、○○さんに聞いたらいいから。」
そう言われて調べ、○○さんへ質問しに行きました。すると、不機嫌そうにこう言われたのです。
「その質問に答えるのに、こっちだって時間を取られるんだよ。その分、どうしてくれるの?そんなこともわからないの?」
親切に答えてくれるのかと思ったら、まったく違いました。
でも、考えてみたら当然かもしれません。同じプロジェクトに携わっているとは言え、それぞれ利害関係も異なる別の会社の人間です。
私は、どうしたら良いのかわからなくなってしまいました。
ただでさえ、内気で人見知りする性格です。相手に気遣ってばかりで、自分の言いたいことも言えないような臆病者です。
ゴリ押ししてでも聞かないと自分の仕事が進まないように思えても、なかなかそうはできなかったのです。
そんなとき、私の上の立場の人から言われました。
「赤木さん、SEの仕事がまったくできてないよ!何やってんの?」
私は言い返せませんでした。
「私は、どこまでやっていいんですか?どこからはダメなんですか?それもはっきりわからないから、何をどうやっていいのか、わからないんじゃないですか!」
本当は、そう怒鳴りたかったのです。
自分でも自分が上手く機能していないことがわかっていただけに、その原因を私だけに押し付けられたことが悔しかったのです。
けれども、相手はこれからも教えを請わなければならない上の立場の人。
私は黙っているしかなかったのです。
このような経験って、少なくとも内向的な人なら、何度かあるのではないでしょうか?
悔しくて、つらくて、そのまま何もかも放り捨てて逃げ出してしまいたくなるような経験。
自分としては、理不尽な理由で怒られ、罪悪感を押し付けられた体験。
今思えば、そういった経験が私を強くしてくれたように思います。
また、そういった辛さがわかるから、他の人には優しくしようと思えるのだと思います。
もし今、私が他の人に優しいのだとしたら、それは、過去につらく当たってくれた人たちのお陰です。
彼らがいたから、私は震えるような悔しさや、つらさを体験できたのです。
そしてその経験があるから、そんな思いを他の人にさせてはならないと思えるのです。
社会人になったのが26歳と遅かったので、社会人経験は25年ほどです。
あっと言う間だったような気もしますが、その間にも数々の悔しい思いを経験してきました。
今回は、その経験の主だったものについて書きます。
ただしこれは愚痴ではなく、私もそういうつらい経験をしたということを知ってもらいたいからです。
私の場合、社会人になることが遅かったため、年下の先輩という存在が大きな壁だったのです。
●1回目に転職した会社で、ある会社へアウトソースとして派遣されました。
最初の会社では、オフコンのプログラミングと、顧客研修用テキストの作成が主な経験で、大型汎用機の開発経験はほとんどありません。
しかし派遣先は、大型汎用機のシステム開発を主な業務としていました。
したがって私は、そこで新たな知識を学ばなければなりませんでした。
自習用テキストなどはありましたが、個々の不明点は、先輩に教えてもらうしかありません。
そこの会社のプロパーで、専門学校卒で入社していた方がおられました。
入社して3年くらいですから、私より年齢では5歳くらい年下になります。
その人に質問して教えてもらったのですが、どうにも納得ができません。理屈が通らないのです。
それで私は、丁寧に再度、教えを請いました。
それでも、その人の説明には辻褄が合わない部分がありました。
しつこいとは思いながらも、私は頭を下げて質問したのです。
「あのー、すみませんが、それだとこの部分がおかしくなると思うんですけど...。」
すると、その人はキレて怒鳴りました。
「そんなに言うんだったら、自分で調べたらいいじゃないか!」
私は何も言い返せませんでした。
相手は派遣先のプロパー社員です。しかも、これからもいろいろ教えを請わなければならない先輩です。
ものを知らないということは、こんな悔しい思いをしなければならないのかと思いました。
●次は、2回目の転職で岡山の会社に入った時のことです。
すでに大型汎用機のシステム開発には慣れていましたが、今度は今までとは異なるメーカーの大型汎用機でシステム開発をする会社です。
またその会社では、オフコンのシステム開発と、親会社などのシステム運用も請け負っていました。
ここでも、知らないことを年下の先輩から教わることになりました。
今度は、早朝に出勤してコンピューターを立ち上げ、バッチ処理(コンピューターの計算処理の一種)を流して伝票を出力するという、オペレーターの仕事をやることになりました。
そのとき私は35歳くらいでしたが、25歳くらいの女性社員に教わりながら、そのオペレーター業務を覚えたのです。
私が1人でその業務をするようになって2回目くらいのとき、プリンターに設置されていた伝票の用紙がなくなりました。
プリンターを3台くらい使っていて、他の2台は取替え方法など教わっていたのですが、その1台は教わってなかったのです。
「わからないんだからしょうがない。」
私はそう腹をくくって、誰か社員が出社してくるのを待ちました。
そこへ女性社員がやってきたので、事情を説明して伝票用紙をプリンターに設置してもらいました。
ただ、なぜかとても不機嫌そうなのです。
「しょうがないさ、どう思われても。私は知らないんだから。」
そう思っていましたが、少し先輩格の女性社員がやってきた後、私は呼び出されて怒られました。
「赤木さん、ちゃんと仕事をしてくれないと困るじゃないの。この伝票は9時までに届けなければいけないのよ。どうしてボサーっとして待ってるのよ!」
言い訳をしたかった。私にだって言い分はあると、怒鳴り返したかった。
けれども、相手はこれからも教えを請わなければならない先輩です。私は黙っているしかなかったのです。
●最後は、その会社からまた他のところに、アウトソースとして派遣されたときのことです。
そこでは、大型汎用機のメーカー関係のソフトウェア開発会社の人たちや、その関連会社の人たちが集まって、大掛かりなプロジェクトが進行していました。
そこに後から加わる形で入ったのです。
ともかく周りは、知らない人ばかりです。
私はそこにたった1人で送り込まれ、ある人の下で働くように指示されました。
その人は、私よりも10歳くらい年上の温厚そうな人でした。
「赤木さん、この部分を調査して、どうなってるか調べてくれる?わからないことがあったら、○○さんに聞いたらいいから。」
そう言われて調べ、○○さんへ質問しに行きました。すると、不機嫌そうにこう言われたのです。
「その質問に答えるのに、こっちだって時間を取られるんだよ。その分、どうしてくれるの?そんなこともわからないの?」
親切に答えてくれるのかと思ったら、まったく違いました。
でも、考えてみたら当然かもしれません。同じプロジェクトに携わっているとは言え、それぞれ利害関係も異なる別の会社の人間です。
私は、どうしたら良いのかわからなくなってしまいました。
ただでさえ、内気で人見知りする性格です。相手に気遣ってばかりで、自分の言いたいことも言えないような臆病者です。
ゴリ押ししてでも聞かないと自分の仕事が進まないように思えても、なかなかそうはできなかったのです。
そんなとき、私の上の立場の人から言われました。
「赤木さん、SEの仕事がまったくできてないよ!何やってんの?」
私は言い返せませんでした。
「私は、どこまでやっていいんですか?どこからはダメなんですか?それもはっきりわからないから、何をどうやっていいのか、わからないんじゃないですか!」
本当は、そう怒鳴りたかったのです。
自分でも自分が上手く機能していないことがわかっていただけに、その原因を私だけに押し付けられたことが悔しかったのです。
けれども、相手はこれからも教えを請わなければならない上の立場の人。
私は黙っているしかなかったのです。
このような経験って、少なくとも内向的な人なら、何度かあるのではないでしょうか?
悔しくて、つらくて、そのまま何もかも放り捨てて逃げ出してしまいたくなるような経験。
自分としては、理不尽な理由で怒られ、罪悪感を押し付けられた体験。
今思えば、そういった経験が私を強くしてくれたように思います。
また、そういった辛さがわかるから、他の人には優しくしようと思えるのだと思います。
もし今、私が他の人に優しいのだとしたら、それは、過去につらく当たってくれた人たちのお陰です。
彼らがいたから、私は震えるような悔しさや、つらさを体験できたのです。
そしてその経験があるから、そんな思いを他の人にさせてはならないと思えるのです。
2012年11月14日
貧困のない世界を創る
これは社会投資家の竹井佑介さんが勧めていた本で、2006年にノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス氏が書いたものです。
すでにご存知と思いますが、ユヌス氏はバングラディッシュの貧困撲滅運動に取り組み、グラミン銀行というマイクロクレジットを扱う銀行を創設し、その総裁として活動されています。
マイクロクレジットと言うのは、少額融資のことですが、担保を持たない貧困層に対する信用貸付のことを指します。
「貧困層にお金を貸しても、浪費するだけで返ってこないよ。」
そう思いますか?
ユヌス氏も最初、そういう銀行の壁にぶち当たったそうです。
それで自らグラミン銀行を創り、マイクロクレジットに本格的に取り組むことにしたのだそうです。
貧困層の救済と言えば、寄付による物資の援助と考えがちですよね。
それも悪いことではないのですが、それでは貧困はなくならないとユヌス氏は言います。与えられることに依存してしまうからだと。
私も、その考えには共感します。与える支援は、基本的に緊急時に最低限であるべきです。
ユヌス氏のマイクロクレジットが本物だと感じたのは、貧困層の人々を価値ある人たちとして扱っている点です。
その人たちの中には、貧困から脱出する能力があるし、その意志もあると認めているのです。
与えてもらえなければ生きていけないかわいそうな人ではなく、社会の歪の中で、貧困に甘んじている人々だということです。
だから無担保で融資し、ビジネスをさせて、しっかりと返済してもらう。
その中で、わずかでも資産を蓄え、貧困から脱出することができるという道筋を作ったのです。
現在、世界中にマイクロクレジットが広まっています。
日本でも、東南アジア向けにマイクロファイナンスを行う団体があります。
たとえばLIVING IN PEACEは、ミュージックセキュリティー社と提携することで、カンボジアやベトナムでのマイクロファイナンス事業を行なっています。
地球には溢れんばかりに物資があるのに、明日の生活にも事欠くたくさんの貧困層が存在するということは、恥ずかしいことだ。
私は、そういう価値観が広がればいいなと思います。
2012年11月15日
自己卑下するのをやめる
「いやあ、私なんてたいしたことありませんよ。」
そう言って謙遜することが美徳とされています。
自分の価値を低く示すことで、相対的に相手の価値を高く表現する方法。
それ自体を悪いこととは思いませんが、過度の謙遜はあなたの価値を損ね、幸せになれない原因となります。
過度の謙遜は、自己卑下です。
その動機は、不安にあります。
自分を高く評価されると、かえって不安になるのです。だから自分で自分を低めることで、安心しようとするのです。
何がそんなに不安だか、わかりますか?
相手の反応が一変することが不安なのです。
さっきまで「いやあ、素晴らしいですねえ。」なんて持ち上げてくれた人が、手のひらを返したように「なんだ、大したことないじゃないですか。」と言ってくる。
すると自分という存在が否定されたような気になるので、心が傷ついてつらく感じます。
そのつらさを怖れているのです。傷つくことが不安だから、最初から自分の価値を下げてみせることで、傷つくのを防いでいるのです。
そういうように自己卑下したい気持ち、よーくわかります。
私もそうでしたから。
本当はもっとほめられたい。「すごいねえ」と言ってもらいたい。役に立つ人間だと思ってほしい。私の存在を肯定してほしい。
けれども、私にそんな価値があるとは思えません。自信がないのです。
他人は、適当に言葉だけで褒めたりするけど、いつ手のひらを返すかわからない。
だから、少々褒められたぐらいで有頂天になってちゃいけない。手痛いしっぺ返しを食らうだけ。あとで傷つくのは自分なのだから。
そう思って、反射的に自分を低めていたのです。
それともう1つ理由があります。
自分の価値を低めて示すことで、「それでも私を受け入れてくれますか?」という、相手に対する踏み絵にしていたのです。
これは、奥さんや恋人、あるいは母親の愛情に素直になれず、なぜか意地悪をしてしまう心理と同じです。
「これだけひどいことをしても、それでも愛してくれるの?」
そうやって、相手の愛情が本物かどうかを確かめるのです。
「自分はこんなに価値がない人間だけど、それでも素晴らしいと思ってくれるの?本当なの?」
こういう自己卑下は、他者に依存している状態です。
他者が自分をどう評価するかによって、自分の存在感の高低が決まると思っています。
もちろん高く評価してもらいたい。でも自信がないから、あの手この手を使うのです。
しかし、こういうことをやっている限り、他者に依存する体質から抜け出せません。
他者に依存している限り、他者に翻弄されることになりますから、いつまでたっても幸せにはなれないのです。
一瞬くらいなら、幸せを感じるようなことはあるでしょう。
けれども、その幸せを与えてくれた他者の気持ちが変わったように感じたとき、その幸せは消えてなくなるのです。
ストーカー殺人などは、まさに他者依存の結末です。
「あの人が愛してくれなくなったから、私の人生が狂ったのだ。」
その考え方を変えない限り、幸せにはなれないのです。
自分を他者依存の状態におくことで、本当の幸せから遠ざかったのは、自分自身です。
そういう自分を選んだのは、他のだれでもない自分です。
そのことに気づくまで、自分を変えることができません。
自分が変わらない限り、本当の幸せは手に入らないのです。
まずは自己卑下することをやめてみる。
そこから始めてみましょう。
そう言って謙遜することが美徳とされています。
自分の価値を低く示すことで、相対的に相手の価値を高く表現する方法。
それ自体を悪いこととは思いませんが、過度の謙遜はあなたの価値を損ね、幸せになれない原因となります。
過度の謙遜は、自己卑下です。
その動機は、不安にあります。
自分を高く評価されると、かえって不安になるのです。だから自分で自分を低めることで、安心しようとするのです。
何がそんなに不安だか、わかりますか?
相手の反応が一変することが不安なのです。
さっきまで「いやあ、素晴らしいですねえ。」なんて持ち上げてくれた人が、手のひらを返したように「なんだ、大したことないじゃないですか。」と言ってくる。
すると自分という存在が否定されたような気になるので、心が傷ついてつらく感じます。
そのつらさを怖れているのです。傷つくことが不安だから、最初から自分の価値を下げてみせることで、傷つくのを防いでいるのです。
そういうように自己卑下したい気持ち、よーくわかります。
私もそうでしたから。
本当はもっとほめられたい。「すごいねえ」と言ってもらいたい。役に立つ人間だと思ってほしい。私の存在を肯定してほしい。
けれども、私にそんな価値があるとは思えません。自信がないのです。
他人は、適当に言葉だけで褒めたりするけど、いつ手のひらを返すかわからない。
だから、少々褒められたぐらいで有頂天になってちゃいけない。手痛いしっぺ返しを食らうだけ。あとで傷つくのは自分なのだから。
そう思って、反射的に自分を低めていたのです。
それともう1つ理由があります。
自分の価値を低めて示すことで、「それでも私を受け入れてくれますか?」という、相手に対する踏み絵にしていたのです。
これは、奥さんや恋人、あるいは母親の愛情に素直になれず、なぜか意地悪をしてしまう心理と同じです。
「これだけひどいことをしても、それでも愛してくれるの?」
そうやって、相手の愛情が本物かどうかを確かめるのです。
「自分はこんなに価値がない人間だけど、それでも素晴らしいと思ってくれるの?本当なの?」
こういう自己卑下は、他者に依存している状態です。
他者が自分をどう評価するかによって、自分の存在感の高低が決まると思っています。
もちろん高く評価してもらいたい。でも自信がないから、あの手この手を使うのです。
しかし、こういうことをやっている限り、他者に依存する体質から抜け出せません。
他者に依存している限り、他者に翻弄されることになりますから、いつまでたっても幸せにはなれないのです。
一瞬くらいなら、幸せを感じるようなことはあるでしょう。
けれども、その幸せを与えてくれた他者の気持ちが変わったように感じたとき、その幸せは消えてなくなるのです。
ストーカー殺人などは、まさに他者依存の結末です。
「あの人が愛してくれなくなったから、私の人生が狂ったのだ。」
その考え方を変えない限り、幸せにはなれないのです。
自分を他者依存の状態におくことで、本当の幸せから遠ざかったのは、自分自身です。
そういう自分を選んだのは、他のだれでもない自分です。
そのことに気づくまで、自分を変えることができません。
自分が変わらない限り、本当の幸せは手に入らないのです。
まずは自己卑下することをやめてみる。
そこから始めてみましょう。
2012年11月16日
結婚制度が私たちを不幸にした
あなたにとって、「結婚」とは何ですか?
みなさんはその言葉に、どんなことをイメージされるでしょうか?
「永遠の愛」「幸せ」「家族」「絆(きずな)」など、ワクワクするような、ほれぼれするような、そんな感じではないでしょうか?
しかし、そういうイメージとは裏腹に、現実は不幸の巣窟となっています。
「それはいくら何でも言いすぎでしょう!?たしかに少しは失敗する例もあるけど、たいていは幸せになるものでしょう。」
そう反論したい気持ちは理解しますが、それでも前言は撤回しません。
事実、結婚したカップルの半数以上が離婚するという現実が、それを物語っています。
半数以上のカップルは、「永遠の愛」に失敗しています。
さらに言えば、離婚という選択をせずに、結婚という状態のままで愛情を失い、惰性で継続してるカップルがどれほどあることか。
「チャーミーグリーンのCMのように、年をとっても手をつないでラブラブでいられるようなパートナーと一緒になりたい。」
これが私が若かった頃、多くの人がイメージした理想の結婚でした。
しかし、現実はそう夢想した多くの人が、その夢を達成できずにいるのです。
どうしてでしょうか?
その理由を考えたことがありますか?
「私は一所懸命に尽くしたんだけど、相手が浮気をしたから。」
「子どもが生まれたりして生活が大変になると、慣れてもくるし、愛とかなんとか言ってられないのよね。」
「多分、お互いの目指すところが違ったんだと思う。だんだんと意見の違いに耐えられなくなったんだよ。」
それぞれ理由がありますが、共通していることがあります。
それは、「変化」です。
結婚した当初とは変わってしまった。相手が、あるいは自分が、そしてお互いに。
ここに、結婚制度が私たちを不幸にする原因があります。
私たちの本質は自由です。
そして、生命の本質は変化です。
今さら「祗園精舎の鐘の声」という平家物語を持ち出すまでもなく、この世は諸行無常であり、変化し続けるものです。
片時もとどまっているものはなく、それはこの世に生を受けた私たち人間も同じことです。
その生命の本質を知っていながら、変化させないように硬直化させる制度を作った。それが結婚という制度ではありませんか。
私たちは生命であり、変化するものです。そして、自由に生きるものです。
それに抵抗する試みが、結婚という制度なのです。
どうしてこのような制度で、人が幸せになれるでしょうか?
本質に反するのですから、幸せになれなくて当然ではないでしょうか?
こんな当たり前のことなのに、まだ多くの人が目をつぶって見ないようにしています。
「それじゃあ、永遠の愛を否定するのか!?相手に対する責任を放棄することが、人間らしいとでも言うのか!?」
そう反論されるかもしれませんが、私はそのことを否定しているわけではありません。
結婚制度のような、法によって、倫理観によって、人を縛り付ける方法では上手くいかない、と言っているのです。
このことは、今読んでいる「神との対話B」に書かれています。
p.274-276から、少し引用しましょう。
「大半の結婚は、とくに美しくもないね。それは、人間の自然な真実の三つの側面に反するよ。」
「あなたがたは愛である。愛は無制限で永遠で自由である。(中略)あなたがたはもともと、無制限で永遠で自由なのだ。」
「結婚という制度は、安全を保証しようとする試みだ。(中略)お互いの行動を律しようとする人工的な社会制度だ。」
「結婚が無制限で永遠で自由な愛につながるなら、それは究極的な愛の宣言だ。だが、いまのあなたがたは、自分の愛を約束か保証のレベルにまで引き下げようとして結婚する。」
「結婚は「いまの状態」が永遠であることを保証しようとする努力だ。保証がいらなければ、結婚も必要ない。その保証をあなたがたは何に使うか?第一に、安全を保証する手段として使う(自分自身のなかに安全を求めるかわりに)。第二に、その保証が永遠に続きそうもないと、相手を罰する手段として使う。」
つまり結婚という制度は、私たちの本質である愛とはほど遠い「現状を永続化させる試み」として、私たちに本質以下の表現を強いているのです。
だから不幸になって当然だし、結婚から本当の愛が生まれにくいのです。
どうして相手の愛の保証が必要なのでしょうか?
それは不安だからです。
不安は、愛の対極にあるもの。その不安に根ざした制度が結婚なのですから、そこから愛が表現されなくても当たり前なのです。
ではどうすれば良いのでしょうか?
本当の愛に生きることです。
愛とは、何の保証も必要としません。相手の自由を喜びます。相手の変化を受け入れます。同様に、自分の自由を喜び、変化を受け入れるのです。
もし自分の自由意志で、1人の人を愛し続けたらどうなるでしょうか?
義務だからではなく、要求されるからでもなく、ただ自分がそうしたいと思い、そうすることが自分らしいことだと思うからという理由で。
相手がどう考え、どう行動するかは相手に任せます。相手が自由に考え、行動することを喜ぶのが愛ですから。
決められるのは自分の考えだけです。相手がどうするかに関係なく、自分がどうするかを愛を動機として決めるとしたら、いったいどうなるでしょうか?
そのことを考えてみて欲しいのです。
私たちは、保証を求めているのでしょうか?
それとも、愛に生きることを求めているのでしょうか?
保証を求めるなら、愛に生きることは不可能です。
結婚制度にしがみついている限り、いつまでたっても本当の愛に生きることができないのです。
なお、結婚の問題に関しては、別のブログ「マリッジブルー解消講座」にもいろいろと書いています。
そちらも併せてお読みいただけると幸いです。
みなさんはその言葉に、どんなことをイメージされるでしょうか?
「永遠の愛」「幸せ」「家族」「絆(きずな)」など、ワクワクするような、ほれぼれするような、そんな感じではないでしょうか?
しかし、そういうイメージとは裏腹に、現実は不幸の巣窟となっています。
「それはいくら何でも言いすぎでしょう!?たしかに少しは失敗する例もあるけど、たいていは幸せになるものでしょう。」
そう反論したい気持ちは理解しますが、それでも前言は撤回しません。
事実、結婚したカップルの半数以上が離婚するという現実が、それを物語っています。
半数以上のカップルは、「永遠の愛」に失敗しています。
さらに言えば、離婚という選択をせずに、結婚という状態のままで愛情を失い、惰性で継続してるカップルがどれほどあることか。
「チャーミーグリーンのCMのように、年をとっても手をつないでラブラブでいられるようなパートナーと一緒になりたい。」
これが私が若かった頃、多くの人がイメージした理想の結婚でした。
しかし、現実はそう夢想した多くの人が、その夢を達成できずにいるのです。
どうしてでしょうか?
その理由を考えたことがありますか?
「私は一所懸命に尽くしたんだけど、相手が浮気をしたから。」
「子どもが生まれたりして生活が大変になると、慣れてもくるし、愛とかなんとか言ってられないのよね。」
「多分、お互いの目指すところが違ったんだと思う。だんだんと意見の違いに耐えられなくなったんだよ。」
それぞれ理由がありますが、共通していることがあります。
それは、「変化」です。
結婚した当初とは変わってしまった。相手が、あるいは自分が、そしてお互いに。
ここに、結婚制度が私たちを不幸にする原因があります。
私たちの本質は自由です。
そして、生命の本質は変化です。
今さら「祗園精舎の鐘の声」という平家物語を持ち出すまでもなく、この世は諸行無常であり、変化し続けるものです。
片時もとどまっているものはなく、それはこの世に生を受けた私たち人間も同じことです。
その生命の本質を知っていながら、変化させないように硬直化させる制度を作った。それが結婚という制度ではありませんか。
私たちは生命であり、変化するものです。そして、自由に生きるものです。
それに抵抗する試みが、結婚という制度なのです。
どうしてこのような制度で、人が幸せになれるでしょうか?
本質に反するのですから、幸せになれなくて当然ではないでしょうか?
こんな当たり前のことなのに、まだ多くの人が目をつぶって見ないようにしています。
「それじゃあ、永遠の愛を否定するのか!?相手に対する責任を放棄することが、人間らしいとでも言うのか!?」
そう反論されるかもしれませんが、私はそのことを否定しているわけではありません。
結婚制度のような、法によって、倫理観によって、人を縛り付ける方法では上手くいかない、と言っているのです。
このことは、今読んでいる「神との対話B」に書かれています。
p.274-276から、少し引用しましょう。
「大半の結婚は、とくに美しくもないね。それは、人間の自然な真実の三つの側面に反するよ。」
「あなたがたは愛である。愛は無制限で永遠で自由である。(中略)あなたがたはもともと、無制限で永遠で自由なのだ。」
「結婚という制度は、安全を保証しようとする試みだ。(中略)お互いの行動を律しようとする人工的な社会制度だ。」
「結婚が無制限で永遠で自由な愛につながるなら、それは究極的な愛の宣言だ。だが、いまのあなたがたは、自分の愛を約束か保証のレベルにまで引き下げようとして結婚する。」
「結婚は「いまの状態」が永遠であることを保証しようとする努力だ。保証がいらなければ、結婚も必要ない。その保証をあなたがたは何に使うか?第一に、安全を保証する手段として使う(自分自身のなかに安全を求めるかわりに)。第二に、その保証が永遠に続きそうもないと、相手を罰する手段として使う。」
つまり結婚という制度は、私たちの本質である愛とはほど遠い「現状を永続化させる試み」として、私たちに本質以下の表現を強いているのです。
だから不幸になって当然だし、結婚から本当の愛が生まれにくいのです。
どうして相手の愛の保証が必要なのでしょうか?
それは不安だからです。
不安は、愛の対極にあるもの。その不安に根ざした制度が結婚なのですから、そこから愛が表現されなくても当たり前なのです。
ではどうすれば良いのでしょうか?
本当の愛に生きることです。
愛とは、何の保証も必要としません。相手の自由を喜びます。相手の変化を受け入れます。同様に、自分の自由を喜び、変化を受け入れるのです。
もし自分の自由意志で、1人の人を愛し続けたらどうなるでしょうか?
義務だからではなく、要求されるからでもなく、ただ自分がそうしたいと思い、そうすることが自分らしいことだと思うからという理由で。
相手がどう考え、どう行動するかは相手に任せます。相手が自由に考え、行動することを喜ぶのが愛ですから。
決められるのは自分の考えだけです。相手がどうするかに関係なく、自分がどうするかを愛を動機として決めるとしたら、いったいどうなるでしょうか?
そのことを考えてみて欲しいのです。
私たちは、保証を求めているのでしょうか?
それとも、愛に生きることを求めているのでしょうか?
保証を求めるなら、愛に生きることは不可能です。
結婚制度にしがみついている限り、いつまでたっても本当の愛に生きることができないのです。
なお、結婚の問題に関しては、別のブログ「マリッジブルー解消講座」にもいろいろと書いています。
そちらも併せてお読みいただけると幸いです。
2012年11月17日
定められた善悪というものはありません
「神との対話B」を読んでいます。今、やっと337ページまできました。
この本、シリーズの中でも1、2を争うほどの大作なのです。
約460ページもありますから。
どうです、この厚さ?隣の本と比べると、その厚さの違いがよくわかると思います。
因みに隣の本は、昨日読み終えたばかりで、松橋良紀さんの「目標設定の鉄則」というもの。
約190ページで1,300円します。
もちろん「神との対話B」とは発売時期が異なるので、単純に比較はできませんけど、460ページで2,000円というのは、かなりお得だと思いませんか?
なお、松橋さんの本も、目標設定の方法について、わかりやすく書かれた良い本です。
さて、今日のテーマに入りましょう。
「神との対話」シリーズでは、一貫して神は「裁かない」と言います。
それは我慢しているからとかではなく、神には善悪の基準がないからだと言うのです。
これが、既存の宗教と大きく異なるところ。
死後に閻魔様に裁かれて、嘘をついたら舌を引き抜かれるなんてこともないのだと。
なぜ神は裁かないのか?
その理由が驚きです。
すべてであって、全知全能である神なら、どうして自分が創った人間に規則を守らせる必要があるのか?と言うのです。
もしどうしても守らせたいなら、守るように創れば良いだけではないかと。
また、この世のあるものを善と言い、またあるものを悪と呼んで忌み嫌うとしたら、神の一部が忌み嫌うものになってしまうと言います。
神はすべてだから、私たちが善とか悪と呼ぶものの全てであると。
この考え方は、とても理屈にかなっています。
私も、このことで苦しんできたのです。
神が愛だというなら、どうして我が子を迷わせておいて平気なのかと。
どうして堕落して悪事をはたらくようにさせて、それで苦しませておいて、何もしないのかと。
その疑問に、この「神との対話」シリーズは答を与えてくれました。
神は、人間に何をせよとは命令しないし、何が善で何が悪かも判断しない。
人間が勝手に善悪を決めることを認めており、自由にさせている。人間に自由を与えたのは神ですから。
そうやって、すべてである神の無限の要素の中から、私たちが何を選択するかを観察しているのだと。
善も悪もないのですから、悪いことをしたから罰を与えるなんてこともありません。
神罰も仏罰もあり得ないのです。
しかし人間は、あるものを善と呼び、あるものを悪と呼びます。
そうやって自分とそうでないものを区別するのです。
それは、相対的なこの世において、自分というものを体験的に知る方法なのだと言います。
つまり、「これが私だ」と思う考えを善、「これは私ではない」と思う考えを悪と呼ぶのです。
したがって善悪という価値観は、人それぞれですし、時間によっても変化するものだと言えるでしょう。
問題はここからです。
私たちが、善悪という価値観を自分を表現する手段として利用するなら、問題はありません。
そうではなく、他人を律する手段として用いるなら、問題が発生するのです。
世界中で戦争が行われてきたし、今もなお内戦や戦争があちこちで発生しています。
戦っているそれぞれが、「自分こそが正義(=善)である」と主張し、返す刀で「相手が悪い」と切り捨てます。
そして、悪いと断定した相手を変えることによって、全体の善が守られるのだと考えるのです。
この考え方を、何世紀も続けてきました。
その結果、人間の歴史は紛争と戦いの歴史となったのです。
国と国との戦争だけでなく、人が関係する争いは、すべてこのことが原因となっています。
時には、正義であることの裏付けとして、神が自分たちに味方すると言いました。
つまり、神は自分たちを善と呼び、相手を悪と呼ぶと言って、自分たちの戦いを正当化したのです。
しかし相手も、同じ理屈によって自分たちこそ善だと主張しました。
おかしいでしょう?
どう考えても矛盾だらけなのに、ずっとそういう主張を繰り返してきたのです。
そして戦いに勝った側が自分勝手な神話を作り上げ、自分たちの正当性を示す根拠としてきたのです。
しかし、理屈にしたがって考えるなら、すべてである神の一部が悪(=神ではないもの)などということはあり得ません。
神がどちらか一方に味方し、もう一方に敵対するなんてこともあり得ません。
そんなわかりきったことを認めることさえできていないのが、今の私たちなのです。
神は、常に私たちと共にあって私たちを観察し、問いかけます。
「それで、あなたは何を選ぶの?どう考えるの?」
その考えによって私たちは、自分の人生を創造するのです。
そして創造した人生を体験し、その体験によって自分自身を知るのです。
誰もが、そういう生き方をしています。生きるとは、そういうことだからです。
ただ、そういうことが行われていることを意識して生きているのか、それとも無意識に反応するだけで生きているのか、その違いがあるだけです。
いわゆる「引き寄せの法則」とは、私たちが自分の人生を創造する方法です。
考えたことが現実になる。
それは意識しようとしまいと関係なく、常に働き続けるこの世の法則です。
あなたはこの世で、人生において、自分は何だと考えますか?何を善と呼び、何を悪と呼びますか?
その考えにしたがって、あなたの人生が創られます。
他人を批判する必要性はありません。
他人は他人の人生を生きているのですから。他人との関わりの中で、自分がどうかを考えれば良いのです。
あなたは、素晴らしい人間になりたいですか?
だとしたら、そういう人間であることを選びましょう。そういう人間だと考えるのです。
自信を持って。あなたは本当に、素晴らしい存在なのですから。
この本、シリーズの中でも1、2を争うほどの大作なのです。
約460ページもありますから。
どうです、この厚さ?隣の本と比べると、その厚さの違いがよくわかると思います。
因みに隣の本は、昨日読み終えたばかりで、松橋良紀さんの「目標設定の鉄則」というもの。
約190ページで1,300円します。
もちろん「神との対話B」とは発売時期が異なるので、単純に比較はできませんけど、460ページで2,000円というのは、かなりお得だと思いませんか?
なお、松橋さんの本も、目標設定の方法について、わかりやすく書かれた良い本です。
さて、今日のテーマに入りましょう。
「神との対話」シリーズでは、一貫して神は「裁かない」と言います。
それは我慢しているからとかではなく、神には善悪の基準がないからだと言うのです。
これが、既存の宗教と大きく異なるところ。
死後に閻魔様に裁かれて、嘘をついたら舌を引き抜かれるなんてこともないのだと。
なぜ神は裁かないのか?
その理由が驚きです。
すべてであって、全知全能である神なら、どうして自分が創った人間に規則を守らせる必要があるのか?と言うのです。
もしどうしても守らせたいなら、守るように創れば良いだけではないかと。
また、この世のあるものを善と言い、またあるものを悪と呼んで忌み嫌うとしたら、神の一部が忌み嫌うものになってしまうと言います。
神はすべてだから、私たちが善とか悪と呼ぶものの全てであると。
この考え方は、とても理屈にかなっています。
私も、このことで苦しんできたのです。
神が愛だというなら、どうして我が子を迷わせておいて平気なのかと。
どうして堕落して悪事をはたらくようにさせて、それで苦しませておいて、何もしないのかと。
その疑問に、この「神との対話」シリーズは答を与えてくれました。
神は、人間に何をせよとは命令しないし、何が善で何が悪かも判断しない。
人間が勝手に善悪を決めることを認めており、自由にさせている。人間に自由を与えたのは神ですから。
そうやって、すべてである神の無限の要素の中から、私たちが何を選択するかを観察しているのだと。
善も悪もないのですから、悪いことをしたから罰を与えるなんてこともありません。
神罰も仏罰もあり得ないのです。
しかし人間は、あるものを善と呼び、あるものを悪と呼びます。
そうやって自分とそうでないものを区別するのです。
それは、相対的なこの世において、自分というものを体験的に知る方法なのだと言います。
つまり、「これが私だ」と思う考えを善、「これは私ではない」と思う考えを悪と呼ぶのです。
したがって善悪という価値観は、人それぞれですし、時間によっても変化するものだと言えるでしょう。
問題はここからです。
私たちが、善悪という価値観を自分を表現する手段として利用するなら、問題はありません。
そうではなく、他人を律する手段として用いるなら、問題が発生するのです。
世界中で戦争が行われてきたし、今もなお内戦や戦争があちこちで発生しています。
戦っているそれぞれが、「自分こそが正義(=善)である」と主張し、返す刀で「相手が悪い」と切り捨てます。
そして、悪いと断定した相手を変えることによって、全体の善が守られるのだと考えるのです。
この考え方を、何世紀も続けてきました。
その結果、人間の歴史は紛争と戦いの歴史となったのです。
国と国との戦争だけでなく、人が関係する争いは、すべてこのことが原因となっています。
時には、正義であることの裏付けとして、神が自分たちに味方すると言いました。
つまり、神は自分たちを善と呼び、相手を悪と呼ぶと言って、自分たちの戦いを正当化したのです。
しかし相手も、同じ理屈によって自分たちこそ善だと主張しました。
おかしいでしょう?
どう考えても矛盾だらけなのに、ずっとそういう主張を繰り返してきたのです。
そして戦いに勝った側が自分勝手な神話を作り上げ、自分たちの正当性を示す根拠としてきたのです。
しかし、理屈にしたがって考えるなら、すべてである神の一部が悪(=神ではないもの)などということはあり得ません。
神がどちらか一方に味方し、もう一方に敵対するなんてこともあり得ません。
そんなわかりきったことを認めることさえできていないのが、今の私たちなのです。
神は、常に私たちと共にあって私たちを観察し、問いかけます。
「それで、あなたは何を選ぶの?どう考えるの?」
その考えによって私たちは、自分の人生を創造するのです。
そして創造した人生を体験し、その体験によって自分自身を知るのです。
誰もが、そういう生き方をしています。生きるとは、そういうことだからです。
ただ、そういうことが行われていることを意識して生きているのか、それとも無意識に反応するだけで生きているのか、その違いがあるだけです。
いわゆる「引き寄せの法則」とは、私たちが自分の人生を創造する方法です。
考えたことが現実になる。
それは意識しようとしまいと関係なく、常に働き続けるこの世の法則です。
あなたはこの世で、人生において、自分は何だと考えますか?何を善と呼び、何を悪と呼びますか?
その考えにしたがって、あなたの人生が創られます。
他人を批判する必要性はありません。
他人は他人の人生を生きているのですから。他人との関わりの中で、自分がどうかを考えれば良いのです。
あなたは、素晴らしい人間になりたいですか?
だとしたら、そういう人間であることを選びましょう。そういう人間だと考えるのです。
自信を持って。あなたは本当に、素晴らしい存在なのですから。
2012年11月19日
複数の人を同時に愛することは悪いことでしょうか?
昨夜、やっと「神との対話B」を読み終えました。
さすがに460ページもあったので、少し時間がかかりました。
けれども、読み始めると集中して、気がつくと1時間過ぎていたなんてことも。
読み終えたらもう一度「神との対話」に戻ろうかと思っていたのですが、神との友情について書かれていた部分が気になって、次は「神との友情・上」を読むことにしました。
「神との友情・下」も同時に発売されており、2冊で1冊のようなものですね。
そう考えると、合わせて400ページくらいになるでしょうから、これもまた大作と言えます。
さて、読み終えた「神との対話B」の中で、気になっている部分があるのでお話します。
この世では、男女の関係は1対1であるべきだという価値観が大勢を占めています。
キリスト教の結婚式では、互いに生涯変わらず愛し合うことを誓い、裏切らないことを約束するのです。
イスラム教では4人まで妻をめとることができるようですが、生活力に乏しい女性を救済するのが目的で、妻を平等に扱わなければならないとされているそうです。
しかし、一夫一婦制というのは、近代以降の価値観であって、過去においては一夫多妻制が主流であったように思います。
明治時代にも、お金持ちや名士と呼ばれる人は、お妾さんを囲うのが当たり前でした。
それ以前なら、お殿様は側室を持つのが当然だったし、タイのラマ5世も160人以上の妾を抱えたと言われているそうです。
その主な目的は、男系の子孫を残すこと。
家制度と男系の系統が重視される価値観が、妾を持つことを推奨する価値観になったのだと思います。
現在でも、タイ人男性の理想は、家と車と妾を持つことだと言われます。
公然と妾を持てない日本では、愛人とか援助交際とか不倫などと呼ばれ、特定のパートナー以外との性的な交流を持つという文化が続いています。
では、こういった男女の愛に関して、「神との対話」シリーズではどういう回答を与えてくれるのでしょうか?
一夫一婦制が正しく、それ以外の価値観は間違っているのでしょうか?
結論から言うと、答はありません。少なくとも私は、そう感じました。
「神との対話B」のp.246からp.260にかけて、それについて書かれていますので、少し長いですが引用しながら紹介しましょう。
まず最初、神はこう言います。
「どんな意味にせよ、あるひとを他にくらべてとくべつだと感じたとき、あなたがたは、他のひとたちを裏切ったように感じる。(中略)それは真の愛を表現しているのではない。それとは逆のものだよ。」
たとえば自分のことを好きだという女性が2人いたとき、そのうちの一方を選んで結婚し、もう一方を選ばないと決めたとき、私たちは選ばなかった人を裏切ったように感じます。
それは愛ではなく、真逆のことだと神は言うのです。
そこで著者のニールは、どこまで愛の表現が許されるのか?と尋ねます。誰とでもセックスして良いのかどうか、何らかの制約があるのかと問うたのです。
それに対して神は、「愛の自然な表現を妨げようとするのは、自由の否定だよ。」と答えます。
もし自由を否定するなら、それは生命を否定することになります。
ニールが質問する視点と、神が答える視点が、どうも食い違っているようです。
ニールは私と同様、卑俗な人間の欲望として、特定のパートナーがいても他の異性に目を奪われ、時に関係を持ってしまうことが、許されることなのかどうかを問うています。
しかし神の答は、魂の本来の姿は自由であり、その制約(つまり、許されるべきかどうかという考え。)を問題視しているのです。
ニールは、次のように言って明確な回答を求めます。
「たとえば、男が若い女性と出会い、恋に落ちる(あるいは「肉欲」を感じる)。そして妻を捨てる。三十九歳の妻は子供をかかえ、身につけた技術もないから就職もできない。あるいは、もっとひどいことに、年老いた六十四歳の妻が、自分の娘よりも若い女性に血道をあげた六十八歳の男に捨てられる。」
これに対して神は、その男は妻を愛していないからそうしたのではない、と言うのです。
「彼は妻を愛していないから、逃げ出したくなったのじゃない。自分に押しつけられたと感じる制約から逃げようとしているんだよ。(中略)妻が彼に押しつける制約、あるいは妻と別れないのならつきあわないという若い女性が課す制約、それが男の反抗を生むのだ。わたしが言おうとしているのは、魂はつねに制約に反抗するということだ。」
ニールは、これでは道徳的無政府状態になると批判します。そして、いわゆる「開かれた結婚」に賛同するのかと問います。それに対して、神はこう言います。
「わたしは弁護もしないし、非難もしない。何についても、「賛成」したり「反対」したりはしない。わたしはただ、事実を観察している。あなたかたが善悪のシステムをつくり出し、賛成したり反対したりするのを眺めているだけだ。人類として、個人として、自分はこれこれのことを選び、望むというなら、いまの考え方がその目的に役立つかどうかを見ているだけだ。」
「たとえば、「開かれた結婚」についての疑問は、「配偶者双方にべつの人間との性的接触を認める開かれた結婚をするか」ということではない。そうではなくて、「結婚という経験にてらして、わたしとは何者か、わたしたちとは何者か」ということだ。」
どうもかみ合わない会話に、ニールはイライラします。けれども神は譲りません。
すべての経験が「私とは何か?」を決めるためにあるとし、それでもし「私とは愛だ」と決めたなら、自分が愛ならどうするかを考えれば、答が出るということなのでしょうか。
続けて神は、愛について語ります。
「愛とは、無制限なものだ。はじまりもなければ終わりもない。以前も以後もない。だから、愛はつねにある。つねに現実だ。(中略)愛が無制限で、そしてつねにあるなら、愛は・・・・・・自由だ。愛は完璧な自由なのだよ。」
「ひとはつねに愛し、愛されたいと願っている。そうだろう。つねに、愛が無制限であってほしいと願っている。そして、それを自由に表現したいと願っている。あなたがたは愛の経験のすべてで、自由と無制限と永遠を求める。(中略)愛とはそういうもので、ひとは心の奥底ではそれを知っているから求める。なぜ知っているか。あなたがたは愛であり、愛の表現を通して、ほんとうの自分を知り、経験するからだよ。」
制限を求めるのは、不安があるからです。不安とは、愛の対極。つまりもっとも愛らしくないもの。だから神は、愛として存在するときに、制限することは間違いだと言うのでしょう。
したがって結婚という制度は、相手や自分を制限する(規制する)という点で、もっとも愛らしくない制度だと言えるのです。
神は、制限とか義務とかではなく、自由な選択としてそれを選ぶようにと言うのです。
そしてこう言います。
「自分にとって誰かがとくべつというのではなく、すべてのひとへの(それに生命そのものへの)愛の深さを示す方法は相手によってちがう、それぞれ独特なものだということだ。(中略)思考でも言葉でも行為でも、同じ物はない。ひとも同じにはなれない。独特な存在でしかありえない。」
「すべての人間はひとつだが、二人として同じ人間はいない。したがって、どんなに努力してみても、二人の人間の愛が同じであるはずがない。それに、そんなことを望むはずもないのだ。なぜなら、愛とは独特なものへの独特な対応なのだから。」
つまり、誰かと誰かを同じように愛するということは不可能だと言うのです。それぞれ特別であり、独特なものであると。
そして、核心に迫ります。
「このとくべつな愛をひとりだけに示したいと思う日が来たら、そのときは、さっき言ったようにそれを選びなさい。それを表明し、宣言しなさい。だが、その宣言を義務ではなく、その瞬間の自由の表明にすること。なぜなら、真の愛はつねに自由で、愛の場に義務は存在しえないからだ。」
「ひとりだけを独特なかたちで愛するという決断を、決して破ってはならない神聖な約束と考えるなら、その約束が義務になる日が必ずやってくるし、あなたはそれを恨むだろう。だが、その決断をたった一度の約束ではなく、何度でもやり直す自由な選択だと考えれば、それを恨む日は来ないだろう。」
「このことを覚えておきなさい。神聖な約束はただひとつしかない。それは、ほんとうの自分を語り、生きることだ。他の約束は自由の喪失で、決して神聖なものではない。ほんとうのあなたは自由だから。自由を失えば、自分自身を失う。それは神聖どころか、冒涜(ぼうとく)だ。」
つまり、こういうことではないかと思うのです。
私たちにとって重要なのは、義務とか制限ではなく、自由であること。自由こそがもっとも重要なものであって、倫理的な規範が自由を妨げるようなことがあってはならないということです。
その自由の中で、私たちは何を選択するかが問われます。
もちろん、何を選択しようとも、罰せられることはありません。選んだものを経験し、それによって「私とは何者か?」ということを表現するだけです。
だから神は、本当の自分を語るようにと言います。
誰かの価値観にしたがった考えではなく、今の自分の正直な考えを語るのです。制限された考えではなく、自由に選んだ考えを表現するのです。
重要なのはそれだから、「どうすることがより素晴らしい自分の表現なのか」ということを、あえて言わずに曖昧(あいまい)にしたのだと思います。
さすがに460ページもあったので、少し時間がかかりました。
けれども、読み始めると集中して、気がつくと1時間過ぎていたなんてことも。
読み終えたらもう一度「神との対話」に戻ろうかと思っていたのですが、神との友情について書かれていた部分が気になって、次は「神との友情・上」を読むことにしました。
「神との友情・下」も同時に発売されており、2冊で1冊のようなものですね。
そう考えると、合わせて400ページくらいになるでしょうから、これもまた大作と言えます。
さて、読み終えた「神との対話B」の中で、気になっている部分があるのでお話します。
この世では、男女の関係は1対1であるべきだという価値観が大勢を占めています。
キリスト教の結婚式では、互いに生涯変わらず愛し合うことを誓い、裏切らないことを約束するのです。
イスラム教では4人まで妻をめとることができるようですが、生活力に乏しい女性を救済するのが目的で、妻を平等に扱わなければならないとされているそうです。
しかし、一夫一婦制というのは、近代以降の価値観であって、過去においては一夫多妻制が主流であったように思います。
明治時代にも、お金持ちや名士と呼ばれる人は、お妾さんを囲うのが当たり前でした。
それ以前なら、お殿様は側室を持つのが当然だったし、タイのラマ5世も160人以上の妾を抱えたと言われているそうです。
その主な目的は、男系の子孫を残すこと。
家制度と男系の系統が重視される価値観が、妾を持つことを推奨する価値観になったのだと思います。
現在でも、タイ人男性の理想は、家と車と妾を持つことだと言われます。
公然と妾を持てない日本では、愛人とか援助交際とか不倫などと呼ばれ、特定のパートナー以外との性的な交流を持つという文化が続いています。
では、こういった男女の愛に関して、「神との対話」シリーズではどういう回答を与えてくれるのでしょうか?
一夫一婦制が正しく、それ以外の価値観は間違っているのでしょうか?
結論から言うと、答はありません。少なくとも私は、そう感じました。
「神との対話B」のp.246からp.260にかけて、それについて書かれていますので、少し長いですが引用しながら紹介しましょう。
まず最初、神はこう言います。
「どんな意味にせよ、あるひとを他にくらべてとくべつだと感じたとき、あなたがたは、他のひとたちを裏切ったように感じる。(中略)それは真の愛を表現しているのではない。それとは逆のものだよ。」
たとえば自分のことを好きだという女性が2人いたとき、そのうちの一方を選んで結婚し、もう一方を選ばないと決めたとき、私たちは選ばなかった人を裏切ったように感じます。
それは愛ではなく、真逆のことだと神は言うのです。
そこで著者のニールは、どこまで愛の表現が許されるのか?と尋ねます。誰とでもセックスして良いのかどうか、何らかの制約があるのかと問うたのです。
それに対して神は、「愛の自然な表現を妨げようとするのは、自由の否定だよ。」と答えます。
もし自由を否定するなら、それは生命を否定することになります。
ニールが質問する視点と、神が答える視点が、どうも食い違っているようです。
ニールは私と同様、卑俗な人間の欲望として、特定のパートナーがいても他の異性に目を奪われ、時に関係を持ってしまうことが、許されることなのかどうかを問うています。
しかし神の答は、魂の本来の姿は自由であり、その制約(つまり、許されるべきかどうかという考え。)を問題視しているのです。
ニールは、次のように言って明確な回答を求めます。
「たとえば、男が若い女性と出会い、恋に落ちる(あるいは「肉欲」を感じる)。そして妻を捨てる。三十九歳の妻は子供をかかえ、身につけた技術もないから就職もできない。あるいは、もっとひどいことに、年老いた六十四歳の妻が、自分の娘よりも若い女性に血道をあげた六十八歳の男に捨てられる。」
これに対して神は、その男は妻を愛していないからそうしたのではない、と言うのです。
「彼は妻を愛していないから、逃げ出したくなったのじゃない。自分に押しつけられたと感じる制約から逃げようとしているんだよ。(中略)妻が彼に押しつける制約、あるいは妻と別れないのならつきあわないという若い女性が課す制約、それが男の反抗を生むのだ。わたしが言おうとしているのは、魂はつねに制約に反抗するということだ。」
ニールは、これでは道徳的無政府状態になると批判します。そして、いわゆる「開かれた結婚」に賛同するのかと問います。それに対して、神はこう言います。
「わたしは弁護もしないし、非難もしない。何についても、「賛成」したり「反対」したりはしない。わたしはただ、事実を観察している。あなたかたが善悪のシステムをつくり出し、賛成したり反対したりするのを眺めているだけだ。人類として、個人として、自分はこれこれのことを選び、望むというなら、いまの考え方がその目的に役立つかどうかを見ているだけだ。」
「たとえば、「開かれた結婚」についての疑問は、「配偶者双方にべつの人間との性的接触を認める開かれた結婚をするか」ということではない。そうではなくて、「結婚という経験にてらして、わたしとは何者か、わたしたちとは何者か」ということだ。」
どうもかみ合わない会話に、ニールはイライラします。けれども神は譲りません。
すべての経験が「私とは何か?」を決めるためにあるとし、それでもし「私とは愛だ」と決めたなら、自分が愛ならどうするかを考えれば、答が出るということなのでしょうか。
続けて神は、愛について語ります。
「愛とは、無制限なものだ。はじまりもなければ終わりもない。以前も以後もない。だから、愛はつねにある。つねに現実だ。(中略)愛が無制限で、そしてつねにあるなら、愛は・・・・・・自由だ。愛は完璧な自由なのだよ。」
「ひとはつねに愛し、愛されたいと願っている。そうだろう。つねに、愛が無制限であってほしいと願っている。そして、それを自由に表現したいと願っている。あなたがたは愛の経験のすべてで、自由と無制限と永遠を求める。(中略)愛とはそういうもので、ひとは心の奥底ではそれを知っているから求める。なぜ知っているか。あなたがたは愛であり、愛の表現を通して、ほんとうの自分を知り、経験するからだよ。」
制限を求めるのは、不安があるからです。不安とは、愛の対極。つまりもっとも愛らしくないもの。だから神は、愛として存在するときに、制限することは間違いだと言うのでしょう。
したがって結婚という制度は、相手や自分を制限する(規制する)という点で、もっとも愛らしくない制度だと言えるのです。
神は、制限とか義務とかではなく、自由な選択としてそれを選ぶようにと言うのです。
そしてこう言います。
「自分にとって誰かがとくべつというのではなく、すべてのひとへの(それに生命そのものへの)愛の深さを示す方法は相手によってちがう、それぞれ独特なものだということだ。(中略)思考でも言葉でも行為でも、同じ物はない。ひとも同じにはなれない。独特な存在でしかありえない。」
「すべての人間はひとつだが、二人として同じ人間はいない。したがって、どんなに努力してみても、二人の人間の愛が同じであるはずがない。それに、そんなことを望むはずもないのだ。なぜなら、愛とは独特なものへの独特な対応なのだから。」
つまり、誰かと誰かを同じように愛するということは不可能だと言うのです。それぞれ特別であり、独特なものであると。
そして、核心に迫ります。
「このとくべつな愛をひとりだけに示したいと思う日が来たら、そのときは、さっき言ったようにそれを選びなさい。それを表明し、宣言しなさい。だが、その宣言を義務ではなく、その瞬間の自由の表明にすること。なぜなら、真の愛はつねに自由で、愛の場に義務は存在しえないからだ。」
「ひとりだけを独特なかたちで愛するという決断を、決して破ってはならない神聖な約束と考えるなら、その約束が義務になる日が必ずやってくるし、あなたはそれを恨むだろう。だが、その決断をたった一度の約束ではなく、何度でもやり直す自由な選択だと考えれば、それを恨む日は来ないだろう。」
「このことを覚えておきなさい。神聖な約束はただひとつしかない。それは、ほんとうの自分を語り、生きることだ。他の約束は自由の喪失で、決して神聖なものではない。ほんとうのあなたは自由だから。自由を失えば、自分自身を失う。それは神聖どころか、冒涜(ぼうとく)だ。」
つまり、こういうことではないかと思うのです。
私たちにとって重要なのは、義務とか制限ではなく、自由であること。自由こそがもっとも重要なものであって、倫理的な規範が自由を妨げるようなことがあってはならないということです。
その自由の中で、私たちは何を選択するかが問われます。
もちろん、何を選択しようとも、罰せられることはありません。選んだものを経験し、それによって「私とは何者か?」ということを表現するだけです。
だから神は、本当の自分を語るようにと言います。
誰かの価値観にしたがった考えではなく、今の自分の正直な考えを語るのです。制限された考えではなく、自由に選んだ考えを表現するのです。
重要なのはそれだから、「どうすることがより素晴らしい自分の表現なのか」ということを、あえて言わずに曖昧(あいまい)にしたのだと思います。
2012年11月20日
日本一心を揺るがす新聞の社説
毎日のように新聞を読んでいます。
社説も、その新聞の顔でもあるので、よく読みます。
読売、朝日、毎日、日経、産経などの全国紙は、それぞれ日本のオピニオンリーダーとしての役割を果たそうと、「かくあるべし」的な主張をしています。
それはそれで面白いのですが、読んで感動することは少ないです。ましてや、読んで涙を流すなどということは皆無です。
しかし、読んだ多くの人が感動し、時に涙を流すという社説が載る新聞があると言います。
それが、みやざき中央新聞です。
日刊ではなく、週刊です。
事件や事故などのニュースを伝えるのではなく、講演会などを取材して、面白かった、感動した、心温まった、ためになったというような話題を伝える新聞です。
普通の新聞ではありませんが、読むと心が豊かになります。
そんな新聞の社説を集めたのが、この本なのです。
私も読んで、感動しました。
すでに2冊目も出版されているようです。
今回、改めて紹介しようと思ったのは、みやざき中央新聞のサイトで最近の社説を読んだからです。
それは「大好きだよって言ってますか」というタイトルで、11月5日に発行されたものでした。
作家の落合恵子さんに届いた手紙の内容についてです。
いじめを受けた孫に、祖母がどのように接したかというもの。
これを読んで、不覚にもまた泣いてしまいました。
その内容を以下に書きます。
顔にアザがある孫(仮に大輔)は、幼い頃に友だちからいじめられました。
そんなとき祖母は、泣いて帰ってきた孫を膝の上に乗せ、こう言うのです。
「ばあちゃんはな、大輔が大、大、大、だーい好きだよ。大輔の鼻も耳も目も頭も赤いアザもみんな大、大、大、だーい好きだよ」
中学2年になった年の正月、祖母のところへ来た大輔は、冬休みが終わっても帰ろうとしません。
母親は心配して、「何やっているんだ?」と電話をしてきますが、祖母は「長い人生、少しぐらい回り道したっていいのよ」と軽くかわします。
いじめられているのでは?祖母の予感が当たっていました。
大輔は最初、笑いながらいじめのことを話します。しかし、それを聞いていた祖母が泣いているのがわかると、大輔も声を上げて泣きました。
祖母は、どう声をかけてやっていいかわからなかったのですが、昔のことを思い出し、そのときの言葉を口にしたのです。
「ばあちゃんはな、大輔が大、大、大、だーい好きだよ。大輔の鼻も耳も目も頭も赤いアザもみんな大、大、大、だーい好きだ。ばあちゃんはいつだってここにいる。つらかったらいつでもここに逃げといで。ここはお前の心の居場所だ。だからたった一つしかないものを無駄にするなよ」
大輔は大人になって、小学校の先生になったそうです。
「僕のように心に傷を負った人間が学校に必要だと思う」と言って。
最後に、社説はこう結びます。
「いじめを苦にして自殺するんじゃないんだ。分かってくれる人が誰もいないことが苦しくて自殺するんじゃないか。」
「子どもの心に寄り添える大人にならなくては・・・。できることは、ある。」
野口嘉則さんの「僕を支えた母の言葉」にもありましたが、愛するというのは、こういうことなのだと思いました。
だから感動して、泣けてきたのです。
2012年11月21日
赤ちゃんが教えてくれたこと
昨日、面白いニュースがありました。もう、読まれましたか?
漫画家のさかもと未明さんが引き起こした大論争です。
雑誌Voiceに寄せた「再生JALの心意気」と題した記事を報じたものだったのですが、その内容があまりにすごかった。
簡単にその経緯を書きましょう。
さかもとさんがJAL国内線に乗ったとき、1歳くらいの赤ちゃんがずっと泣きっぱなしだったのだそうです。
その泣き声を聞かされることに彼女は耐えられず、着陸準備中だったにも関わらず立ち上がって出口に向かったのだとか。
さらには、その赤ちゃんの母親に文句を言い、着陸後もJALにクレームし、広報部に取材を申し入れました。
そのときの取材内容から、JALの対応の良さを紹介するとともに、搭乗マナーや法整備など、まだ改良の余地があるという問題提起をしたのです。
この記事が紹介された後、さかもとさんが論点にしたかった問題提起の部分ではなく、彼女のふるまいについて大論争が起こっているようです。
まあ大論争と言うより、さかもとさんの態度に対する批判や非難がほとんどです。
それに対して、さかもとさんを擁護する意見もあるようです。
何人かの著名人が、このことについて意見を述べているようです。
脳科学者の茂木健一郎氏:
「1歳の赤ちゃんのふるまいを、コントロールできると思っている大人がいることが信じられない」
弁護士の落合洋司氏:
「気持ちはわかるが赤ちゃんが泣くのは仕方ないのでは。昔から、泣く子と地頭には勝てぬ、いうくらいで」
音楽プロデューサーのつんく氏:
「15年前飛行機で離陸から着陸まで泣いてた赤ちゃんのママと目が合った。『すいません。疲れてはるのに居眠り出来なかったでしょ』って。『いえいえ、2時間泣いてたこの子が一番がんばった。エライエライ』って言ったらママさんが涙しはった。今ならこのママさんの涙の意味がわかる。子供は泣くさ」
スポーツライターの乙武洋匡氏:
「うーん、僕とは相容れないなあ」
※RBB TODAY 11月20日(火)17時18分配信記事より
たしかに、さかもとさんの行動は、かえって他の乗客に迷惑をかけていると言えるでしょう。
しかし、そうでもしなければ誰も改善しようとは思わないからと、その行動を正当化することもできます。
私も、「電車内で子どもが騒ぐのを「うざい」と思ってました」という記事に書いたように、公共の乗物の中で子どもが騒いだりすることを良からぬことと思ってました。
子どもにマナーがないのはしょうがないとしても、それが身につくまで他の乗客と一緒にすることを禁止するとか、保護者が責任をもってマナーを守らせるべきだと考えていました。
ですから私は、さかもとさんを批判しません。
だってそれは、かつての私そのものなのですから。
では彼女の考えに賛同するかと言えば、それもしません。
今の私は、かつての私ではありません。
赤ちゃんが喚くことにイライラしたり、いきり立つような人間でありたくないし、それは私らしいと思わないからです。
ですから私は、私の考え方を変えます。見方を変えます。そうすることで、私らしさを表現しようと思うのです。
今回の出来事は、見方によって様々な考え方が可能です。
赤ちゃんは、おそらくつらかったからだと思いますが、一所懸命に泣いてくれました。そのお陰でさかもとさんは、記事を書くことができました。
また、さかもとさんがそういう行動をとってくれたお陰で、私たちはそういう問題に対して「どうありたいのか」を、考える機会を提供してもらえました。
彼女のことを批判することも可能ですが、それは単に、「自分の考え方と違う人を批判するのが自分だ」と表現しているだけです。
彼女は自分とは違うけれど、それを批判せずに、むしろ感謝することだってできます。
すべての出来事は、私たちに「自分とはなにか?」という問いかけをしています。
そのチャンス(機会)を与えてくれているのです。
さかもとさんを批判する人は、泣き続ける赤ちゃんの母親を批判したさかもとさんと同じことをしたのです。
自分と異なる価値観を持つ人間を批判し、罪悪感を持たせようとして攻撃するのが、自分らしいことなのでしょうか?
それを決めるのは、自分自身です。
漫画家のさかもと未明さんが引き起こした大論争です。
雑誌Voiceに寄せた「再生JALの心意気」と題した記事を報じたものだったのですが、その内容があまりにすごかった。
簡単にその経緯を書きましょう。
さかもとさんがJAL国内線に乗ったとき、1歳くらいの赤ちゃんがずっと泣きっぱなしだったのだそうです。
その泣き声を聞かされることに彼女は耐えられず、着陸準備中だったにも関わらず立ち上がって出口に向かったのだとか。
さらには、その赤ちゃんの母親に文句を言い、着陸後もJALにクレームし、広報部に取材を申し入れました。
そのときの取材内容から、JALの対応の良さを紹介するとともに、搭乗マナーや法整備など、まだ改良の余地があるという問題提起をしたのです。
この記事が紹介された後、さかもとさんが論点にしたかった問題提起の部分ではなく、彼女のふるまいについて大論争が起こっているようです。
まあ大論争と言うより、さかもとさんの態度に対する批判や非難がほとんどです。
それに対して、さかもとさんを擁護する意見もあるようです。
何人かの著名人が、このことについて意見を述べているようです。
脳科学者の茂木健一郎氏:
「1歳の赤ちゃんのふるまいを、コントロールできると思っている大人がいることが信じられない」
弁護士の落合洋司氏:
「気持ちはわかるが赤ちゃんが泣くのは仕方ないのでは。昔から、泣く子と地頭には勝てぬ、いうくらいで」
音楽プロデューサーのつんく氏:
「15年前飛行機で離陸から着陸まで泣いてた赤ちゃんのママと目が合った。『すいません。疲れてはるのに居眠り出来なかったでしょ』って。『いえいえ、2時間泣いてたこの子が一番がんばった。エライエライ』って言ったらママさんが涙しはった。今ならこのママさんの涙の意味がわかる。子供は泣くさ」
スポーツライターの乙武洋匡氏:
「うーん、僕とは相容れないなあ」
※RBB TODAY 11月20日(火)17時18分配信記事より
たしかに、さかもとさんの行動は、かえって他の乗客に迷惑をかけていると言えるでしょう。
しかし、そうでもしなければ誰も改善しようとは思わないからと、その行動を正当化することもできます。
私も、「電車内で子どもが騒ぐのを「うざい」と思ってました」という記事に書いたように、公共の乗物の中で子どもが騒いだりすることを良からぬことと思ってました。
子どもにマナーがないのはしょうがないとしても、それが身につくまで他の乗客と一緒にすることを禁止するとか、保護者が責任をもってマナーを守らせるべきだと考えていました。
ですから私は、さかもとさんを批判しません。
だってそれは、かつての私そのものなのですから。
では彼女の考えに賛同するかと言えば、それもしません。
今の私は、かつての私ではありません。
赤ちゃんが喚くことにイライラしたり、いきり立つような人間でありたくないし、それは私らしいと思わないからです。
ですから私は、私の考え方を変えます。見方を変えます。そうすることで、私らしさを表現しようと思うのです。
今回の出来事は、見方によって様々な考え方が可能です。
赤ちゃんは、おそらくつらかったからだと思いますが、一所懸命に泣いてくれました。そのお陰でさかもとさんは、記事を書くことができました。
また、さかもとさんがそういう行動をとってくれたお陰で、私たちはそういう問題に対して「どうありたいのか」を、考える機会を提供してもらえました。
彼女のことを批判することも可能ですが、それは単に、「自分の考え方と違う人を批判するのが自分だ」と表現しているだけです。
彼女は自分とは違うけれど、それを批判せずに、むしろ感謝することだってできます。
すべての出来事は、私たちに「自分とはなにか?」という問いかけをしています。
そのチャンス(機会)を与えてくれているのです。
さかもとさんを批判する人は、泣き続ける赤ちゃんの母親を批判したさかもとさんと同じことをしたのです。
自分と異なる価値観を持つ人間を批判し、罪悪感を持たせようとして攻撃するのが、自分らしいことなのでしょうか?
それを決めるのは、自分自身です。
愛の誓いが2人を引き裂くことに
西洋文化が入り込んだ日本では、キリスト教式の結婚式が多いですね。
その式の中で、「愛の誓い」という儀式があります。
「汝○○は、△△を妻(夫)とし、良き時も悪き時も、・・・死が2人を分かつまで、愛を誓い、妻(夫)のみに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに誓いますか?」
「誓います。」
こうして、互いに相手だけを特別に、永遠に愛することを神に誓うのです。
2人は愛を誓いながら、互いに「この人と一生添い遂げよう。」と決意します。
美しい...ですか?
現実の世界に引き戻して申し訳ありませんけれど、そうやって誓い合ったカップルの大半が破局します。
ウソじゃありませんよ。
実際に離婚率は50%を超えています。
また離婚するに至らなくても、家庭内別居など、愛のない夫婦関係を続けるカップルが多数います。
このことから考えれば、愛を誓い合ったカップルの大半が破局という結果に至ると言っても過言ではないでしょう。
あんなに真剣に誓い合ったのに、どうしてでしょう?
実は、「愛の誓い」を行ったことが、そもそも破局の原因なのです。
「そんな馬鹿な!?」
そう思われるのも仕方ありませんが、これは事実です。
イエス・キリストでさえも、そう言っています。
「しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。」
(マタイによる福音書第5章34節)
「あれれれれー?イエスが誓うなと言っているのに、教会は誓わせているの?」
そうなのです。面白いですね。
「でも、どうして愛を誓い合うと破局につながるの?」
そこですよ。その理屈を理解することが、何よりも重要です。
それを知るにはまず、「なぜ愛を誓う必要があるのか?」ということを考えてみることです。
あなたが相手を愛しているなら、どうして愛を誓うのでしょう?
誓わなくても愛しているのですから、それで良いではありませんか?
誓うのは、まず、「自分が変わるかもしれない」と怖れているからではありませんか?
いつか自分は、相手を愛さなくなるかもしれない。
もし神に誓い、神と約束したならば、万が一その約束を反故にした場合は、神の罰を受けることになるだろう。
その神の罰を怖れる気持ちが、愛さなくなるという事態を防いでくれる。
つまり神罰の恐怖を利用して、自分を強制するために愛を誓うのだ。
もしそう考えているとしたら、それがまさに破局の原因となっています。
将来どうなるかわからない自分を、今の自分が制限しようとしています。
つまり、自分で自分の自由を束縛しようとしているのです。
でも自由がなくなれば、愛は死にます。
愛は自由であって、何の制限もないものだからです。
義務になった瞬間、それは愛ではなくなるのです。
また、こんな理由も考えられます。
もし相手が将来、自分のことを愛さなくなったなら、愛を誓って契約したことを根拠に、相手の契約違反を追求できる。
そうすれば相手に、契約を誠実に履行させることができる。
あるいは、追求されることの怖れによって、相手が愛さなくなることを未然に防ぐことができる。
でもこれも同じように、愛を破局させる原因となっています。
契約を誠実に履行させるとは、やりたくないことを相手に強いることではありませんか?
相手が契約を履行したくないのに、その意志に反したことをさせる。
それはつまり相手の自由を奪い、相手に相手らしからぬことを強制すること。
それは愛でしょうか?
愛は制限とは対極のものです。
愛は強制しないし、愛は奪いません。
このように、「愛の誓い」をする必要があるのは、将来も今の愛を保証するためです。
けれども、保証を求めることは、愛から遠ざかることを意味します。
だからいずれ愛は破綻し、2人の関係は破局を迎えるのです。
理屈を考えてみれば、当然の帰結だとわかりますよね?
愛を誓う必要はありません。
いえ、愛を誓ってはなりません。
誓った瞬間に、それは愛ではなくなるからです。
私たちの本質は生命であり、自由であり、愛なのです。
その私たちが本質に反することをするなら、上手く行かなくても当然でしょう。
だからイエスは言ったのです。「誓ってはならない」と。
愛はただ、表明すれば良いだけです。
あなたの自由意志で選択し、愛するのが自分らしいと思うなら、相手がどうかに関係なく、穏やかに宣言するのです。
私は、あなたを愛しています。
その式の中で、「愛の誓い」という儀式があります。
「汝○○は、△△を妻(夫)とし、良き時も悪き時も、・・・死が2人を分かつまで、愛を誓い、妻(夫)のみに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに誓いますか?」
「誓います。」
こうして、互いに相手だけを特別に、永遠に愛することを神に誓うのです。
2人は愛を誓いながら、互いに「この人と一生添い遂げよう。」と決意します。
美しい...ですか?
現実の世界に引き戻して申し訳ありませんけれど、そうやって誓い合ったカップルの大半が破局します。
ウソじゃありませんよ。
実際に離婚率は50%を超えています。
また離婚するに至らなくても、家庭内別居など、愛のない夫婦関係を続けるカップルが多数います。
このことから考えれば、愛を誓い合ったカップルの大半が破局という結果に至ると言っても過言ではないでしょう。
あんなに真剣に誓い合ったのに、どうしてでしょう?
実は、「愛の誓い」を行ったことが、そもそも破局の原因なのです。
「そんな馬鹿な!?」
そう思われるのも仕方ありませんが、これは事実です。
イエス・キリストでさえも、そう言っています。
「しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。」
(マタイによる福音書第5章34節)
「あれれれれー?イエスが誓うなと言っているのに、教会は誓わせているの?」
そうなのです。面白いですね。
「でも、どうして愛を誓い合うと破局につながるの?」
そこですよ。その理屈を理解することが、何よりも重要です。
それを知るにはまず、「なぜ愛を誓う必要があるのか?」ということを考えてみることです。
あなたが相手を愛しているなら、どうして愛を誓うのでしょう?
誓わなくても愛しているのですから、それで良いではありませんか?
誓うのは、まず、「自分が変わるかもしれない」と怖れているからではありませんか?
いつか自分は、相手を愛さなくなるかもしれない。
もし神に誓い、神と約束したならば、万が一その約束を反故にした場合は、神の罰を受けることになるだろう。
その神の罰を怖れる気持ちが、愛さなくなるという事態を防いでくれる。
つまり神罰の恐怖を利用して、自分を強制するために愛を誓うのだ。
もしそう考えているとしたら、それがまさに破局の原因となっています。
将来どうなるかわからない自分を、今の自分が制限しようとしています。
つまり、自分で自分の自由を束縛しようとしているのです。
でも自由がなくなれば、愛は死にます。
愛は自由であって、何の制限もないものだからです。
義務になった瞬間、それは愛ではなくなるのです。
また、こんな理由も考えられます。
もし相手が将来、自分のことを愛さなくなったなら、愛を誓って契約したことを根拠に、相手の契約違反を追求できる。
そうすれば相手に、契約を誠実に履行させることができる。
あるいは、追求されることの怖れによって、相手が愛さなくなることを未然に防ぐことができる。
でもこれも同じように、愛を破局させる原因となっています。
契約を誠実に履行させるとは、やりたくないことを相手に強いることではありませんか?
相手が契約を履行したくないのに、その意志に反したことをさせる。
それはつまり相手の自由を奪い、相手に相手らしからぬことを強制すること。
それは愛でしょうか?
愛は制限とは対極のものです。
愛は強制しないし、愛は奪いません。
このように、「愛の誓い」をする必要があるのは、将来も今の愛を保証するためです。
けれども、保証を求めることは、愛から遠ざかることを意味します。
だからいずれ愛は破綻し、2人の関係は破局を迎えるのです。
理屈を考えてみれば、当然の帰結だとわかりますよね?
愛を誓う必要はありません。
いえ、愛を誓ってはなりません。
誓った瞬間に、それは愛ではなくなるからです。
私たちの本質は生命であり、自由であり、愛なのです。
その私たちが本質に反することをするなら、上手く行かなくても当然でしょう。
だからイエスは言ったのです。「誓ってはならない」と。
愛はただ、表明すれば良いだけです。
あなたの自由意志で選択し、愛するのが自分らしいと思うなら、相手がどうかに関係なく、穏やかに宣言するのです。
私は、あなたを愛しています。
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