「あなたの夢は何ですか?」
そう問われて、すぐに目を輝かせて答えられる人は、本当に幸せな人だと思います。
何かの映画に、こんなシーンがありました。
片田舎でウエイトレスをして働いていた少女が、客からもらうチップのコインを、大きなガラス瓶に入れて貯めています。
これが一杯になったら取り出して、そのお金で大都会へ行く。
大都会へ行って、都会人として華やかな生活をしたい。
そしてついに少女の夢が叶い、大都会へ旅立つのです。
その夢がどんなバカげたものであっても、嬉々として夢を語ってくれる人は、とても魅力的だと思います。
そういう人と出会うと、応援したいと思いませんか?
私は、応援したくてたまらなくなります。
だから、勉強したいという子どもたちの夢を叶えてあげたくて、支援したりするのでしょうね。
夢は、書くことで叶いやすくなると言います。
実際私も、ブログに書いた夢とも言えないような「アジアに行きたい」という思いが叶って、こうしてタイで暮らしているのです。
青いバイクがほしいなという思いが叶って、わずか1万円で中古でしたがCB350を手に入れたこともありました。
まずは言葉にして語る。次は紙に書き出す。
こうすることで、自分の夢(願望)が何かをはっきりさせることが大切なのだと思います。
もっと実現しやすくするには、イメージにまですることが大事だと言われます。
それが実現した様子をありありと思い浮かべること。
そのために、写真を使うことが有効だとされています。
夢ノートに、ほしいものとか、行きたい場所の写真を貼り付け、その夢が叶った様子を思い浮かべてはワクワクする。
引き寄せの法則からしても、そういう手法は効果的でしょう。
ただ、こういう人もいるでしょう。
「夢?夢なんて何もないよ。別に何かしたいとか、どこかへ行きたいなんてこともないし。」
私も経験がありますが、積極的な気持ちになれないとき、夢なんてものが思いつかないのです。
こういうとき、無理に夢を作り上げる必要はありませんから、焦らないでください。
いつかふと、そういえばこんなことしたいなあと感じることがありますから。
そのための準備として、こういう質問を覚えておいてください。
「もしあなたが、何も制約がないとしたら、何でもできるとしたら、何がしたいですか?」
コーチングで使う質問ですけど、自分の本心を引き出す問いかけです。
人は無意識のうちに、外的な環境などの条件を受け入れ、それに立脚してものごとを考えてしまいます。
ですから、いったんその条件を取っ払ってみるのです。
たとえば、かすかに「外国で暮らしてみたい」なんて願望を持っている人がいるとしましょう。
しかし、次の瞬間には自分をとりまく条件が頭をよぎります。
「無理、無理。第一お金がないもの。給料も安いし、貯金なんてないし。それに、英語はからっきしダメだし。日本語ガイドがついてパッケージツアーで行くのがせいぜいよ。」
こうして自分の可能性を制限してしまうのです。
「だってその通りなんだから、しょうがないじゃないの。その条件の中でできる方法がなかったら、無理なものは無理でしょう。」
そう反論したい気持ちはわかります。
とても論理的だし、論理的な考え方は私の好むところですから。
でもね、世の中には理屈では説明できない不思議なことがたくさんあることも事実です。
もちろんそれは、自分が持っている知識では説明できない、ということですけどね。
たとえば私など、まさにそうでしょう。
外国で暮らすノウハウがあったわけでもないし、英語なんていまだにしゃべれませんから。
特に裕福だったわけでもないし、海外に赴任する可能性がある会社にいたわけでもありません。
しかし、どういう縁だかわかりませんが、青天の霹靂というような出来事が起こって、タイで暮らすことになったのです。
これ、理屈で説明できますか?
まあ、後づけで何とでも言えるでしょうけど、私が計画してこうなったわけではないことを理解してください。
おそらく私は、夢(思い)を書いた後、それを忘れていたから否定しなかったのです。
「できたら楽しいだろうな。」とまでは思いましたが、「どうせ無理だよ。」とは思わなかったのです。
だから時間がかかっても、それが実現したのだと思います。
いいじゃないですか、思うくらい。バカバカしくても書いてみるくらいやってみましょうよ。何も損はしませんから。
書いて、放っておけば良いのです。
私自身は、あまり夢がない人間です。
あれをしたいとか、これがほしいなどという欲求がないのです。
でも最近、ふと思ったことがありました。
1つは、田舎の神楽に「八岐の大蛇」を復活させたいということです。
今年、神楽を見に行ったのですが、「八岐の大蛇」がなかったのです。
理由は、蛇胴が壊れて使えないからというもの。
神楽の最後を飾る大蛇の舞がないなんて、残念だなあと思ったのです。
もう1つは、タイ東北部のイサン地方を、農業でもっと豊かな地域にしたいということです。
イサン地方は赤土で塩分を多く含んでいます。灌漑のインフラが遅れていて、乾季には渇水で水がなくなるのです。
せっかく温かい土地なのに、米も一期作でしか作れません。タイ中部の肥沃な土地なら三期作さえ可能だと言うのに。
もっと高いポテンシャルがあるはずなのに、上手く利用できていないだけではないか?
そんな気がするのです。
もちろん、すでに農業をされてる方からは、「だったら自分でやってみろよ。どれだけ大変かわかるから。」と言われてしまうかもしれません。
それはたしかにそうなのでしょうけど、まあいいじゃないですか。私の単なる夢ですから。
2012年11月01日
2012年11月02日
電車内で子どもが騒ぐのを「うざい」と思ってました
私がまだ東京で暮らしていたころの話です。
年に1回くらいは、新幹線を利用して田舎に帰省していました。
だいたいお盆だとかGWなど、多くの人が移動するときになりますから、指定席を予約して電車に乗ります。
そのとき、たまたま近くに家族連れがいて、小さい子どもが大声をあげたり、ゲームをしてピッピと音を鳴らしていると、「うざいなあ!やめてくれよ。」と怒りを感じていました。
「子供連れ専用車両でも作って、そこに押し込めてくれたらいいのに。」
そんな風に思っていたのです。
ある日、友だちと一緒に飲みに行ったとき、その話をしました。
「こっちは静かに寝て行きたいと思っているのに、子どもがいるとうるさくてしょうがないよ。親が一緒にいるのに、ちっとも静かにさせようとしないんだから、いい迷惑だよ。そう思うでしょう?」
私は友だちの同意を得たくて、そう言ったのです。けれども友だちは、私の意に反することを答えました。
「オレはそこまでは思わないなあ。」
てっきり同意してくれるとばかり思っていた私は、その友だちに対して腹立たしい気持ちになったのです。
しかしその友だちは、続けてこう言いました。
「オレにも小さい子どもがいるから、子ども連れの大変さがわかるんだよ。なかなか言うことを聞いてくれないし。それに、自分の子どもはかわいいから、騒いでいても気にならないんだ。」
私は、それでも抵抗しました。
「自分の子どもはそうかもしれないけど、他人の子どもが騒いでいたら頭に来るでしょう?」
しかし友だちは、私に同意しませんでした。
「うん、たしかに他人の子どもなんだけど、そんなに嫌じゃないんだよなあ。」
そのときの話は、それで終わりました。私は、その友だちの気持ちが理解できなかったのです。
しかし今は、その友だちの考えがわかるような気がします。
なぜなら、考え方は人それぞれだとわかるからです。
私は、「こうあるべきだ」という自分の考え方を、普遍的なものだと信じていたのです。
いえ、その考え方にとらわれ、固執していたのです。執着し、依存していたのです。
ですから、それにしたがわない人を許せなかった。まるで自分が傷つけられたかのように怒り、助けを求めたのです。
でも実際に、私の友だちのように考える人もいます。
そういう人にとって、子どもが騒いでいることは、それほど気になることではないのです。
気にならないから怒りもしないし、それをやめさせる必要性も感じません。
私の友だちは、そういうことに関しては自由でいられたのです。
それに対して私は、自分の考えで自分を縛り付け、不自由な状態を強いていました。
違いは、どういう考え方をしていたか、ということだけです。
そうは言っても、出来事から完全に超越することは、なかなか難しいものがあります。
それについては以前にも書いたように、少しずつ必要性を減らしていく努力が大切です。
考え方を変えることで、必要性を感じなくてすむという事実を知っていれば、その努力を継続することができるでしょう。
そうして得られた自由の素晴らしさを感じたことがあれば、またそこに立ち戻りたいと思うでしょう。
だから、まず最初の一歩を踏み出してみてほしいのです。
人の本質は、完全な自由です。そしてあなたも、その素晴らしさを体験できるのです。
年に1回くらいは、新幹線を利用して田舎に帰省していました。
だいたいお盆だとかGWなど、多くの人が移動するときになりますから、指定席を予約して電車に乗ります。
そのとき、たまたま近くに家族連れがいて、小さい子どもが大声をあげたり、ゲームをしてピッピと音を鳴らしていると、「うざいなあ!やめてくれよ。」と怒りを感じていました。
「子供連れ専用車両でも作って、そこに押し込めてくれたらいいのに。」
そんな風に思っていたのです。
ある日、友だちと一緒に飲みに行ったとき、その話をしました。
「こっちは静かに寝て行きたいと思っているのに、子どもがいるとうるさくてしょうがないよ。親が一緒にいるのに、ちっとも静かにさせようとしないんだから、いい迷惑だよ。そう思うでしょう?」
私は友だちの同意を得たくて、そう言ったのです。けれども友だちは、私の意に反することを答えました。
「オレはそこまでは思わないなあ。」
てっきり同意してくれるとばかり思っていた私は、その友だちに対して腹立たしい気持ちになったのです。
しかしその友だちは、続けてこう言いました。
「オレにも小さい子どもがいるから、子ども連れの大変さがわかるんだよ。なかなか言うことを聞いてくれないし。それに、自分の子どもはかわいいから、騒いでいても気にならないんだ。」
私は、それでも抵抗しました。
「自分の子どもはそうかもしれないけど、他人の子どもが騒いでいたら頭に来るでしょう?」
しかし友だちは、私に同意しませんでした。
「うん、たしかに他人の子どもなんだけど、そんなに嫌じゃないんだよなあ。」
そのときの話は、それで終わりました。私は、その友だちの気持ちが理解できなかったのです。
しかし今は、その友だちの考えがわかるような気がします。
なぜなら、考え方は人それぞれだとわかるからです。
私は、「こうあるべきだ」という自分の考え方を、普遍的なものだと信じていたのです。
いえ、その考え方にとらわれ、固執していたのです。執着し、依存していたのです。
ですから、それにしたがわない人を許せなかった。まるで自分が傷つけられたかのように怒り、助けを求めたのです。
でも実際に、私の友だちのように考える人もいます。
そういう人にとって、子どもが騒いでいることは、それほど気になることではないのです。
気にならないから怒りもしないし、それをやめさせる必要性も感じません。
私の友だちは、そういうことに関しては自由でいられたのです。
それに対して私は、自分の考えで自分を縛り付け、不自由な状態を強いていました。
違いは、どういう考え方をしていたか、ということだけです。
そうは言っても、出来事から完全に超越することは、なかなか難しいものがあります。
それについては以前にも書いたように、少しずつ必要性を減らしていく努力が大切です。
考え方を変えることで、必要性を感じなくてすむという事実を知っていれば、その努力を継続することができるでしょう。
そうして得られた自由の素晴らしさを感じたことがあれば、またそこに立ち戻りたいと思うでしょう。
だから、まず最初の一歩を踏み出してみてほしいのです。
人の本質は、完全な自由です。そしてあなたも、その素晴らしさを体験できるのです。
2012年11月03日
暴力を使うかどうかが問題なのではありません
昨日のニュースで、娘に酸をかけて殺害したというものがありました。
パキスタンでのできごとですが、16歳の少女が自宅の外で少年と話をしているのを見つけた両親が、それを怒って酸をかけたのだとか。
顔や腕など全身に大やけどを負い、頭部は骨が露出していたほど、ひどいものだったそうです。
パキスタンの人権団体によると、昨年だけで1000人もの女性が、こういう殺され方をしたそうです。
「名誉殺人」と呼ばれ、家族の名誉を汚したという理由で主に女性が殺されるのだとか。
なんだかとっても悲しい気分になります。
両親にとって可愛くないはずのない娘を、むごたらしく殺さなければならないほどの思いって、いったいどんなものだったのでしょうか。
そうまでして守らなければならないものなのでしょうか?
これを、遠いパキスタンだけの問題だと考えていてはいけないと思います。
それは私たちも、同じようなことをしているからです。
躾(しつけ)と称して体罰が行われることは、いまだに残る私たちの習慣です。
さすがに教育現場ではなくなってきたようですが、家庭内ではまだ残っています。
強者が弱者を支配する方法として、暴力や暴力をちらつかせた脅しという方法が使われています。
児童虐待とかDV(家庭内暴力)と呼ばれることもありますが、要は誰かを支配しようとしているのです。
そんなことまでして、いったい何を守ろうとしているのでしょう?
その守ろうとしているものに、そこまでの価値があるのでしょうか?
そのことを考えてみる必要があると思うのです。
またこのことは、暴力を使うかどうかの問題ではありません。
暴言とか脅し、非難中傷など、相手を屈服させようとするあらゆる行為は同じ問題をはらんでいます。
さらに言うなら、強制的に相手に何かをさせようとする思いそのものが、この問題の根底にあるのです。
誰かに何かをさせなければならないとか、何かをさせてはならないという必要性が、本当にあるのでしょうか?
もしそれがあると言うなら、それは人の自由を否定する考え方です。
おそらく多くの人は、「自由は尊重するけど、ルールを守った上での自由だ。」というように考えているでしょう。
私も、すぐさまその考え方を否定するものではありません。
ただ、その「ルール」というものを、よくよく考えてみる必要があると思うのです。
多くの人は、そのルールの中に、「常識」だとか「社会の慣習」、さらに「マナー」などというものを含めます。
それに反した人に対して、容赦のない懲罰を与えようとします。
たとえば先日も、学校内でのいじめによって自殺する事件があったとき、加害者とされる少年やその親の写真や名前を公開する人々が現れました。
「あれはイジメじゃない。犯罪だよ。」
そう言って、マスコミがやらないから自分がやるのだと、自己正当化していました。
私はそのことを、良いとも悪いとも言いません。私にとって良いか悪いかということは、他の人たちにとってどうかということと、関係がないからです。
それにおそらく、そういうことをした人にとって、その行為は正しいものだったに違いないのです。
けれども、やったことは娘に酸をかけて殺害したパキスタンの両親と同じことだと思うのです。
「娘は私たち家族の名誉を汚した。だから殺されて当然だし、それをやらなかったら私たちが社会から蔑まれるのよ。」
おそらく両親には、そんな言い分があったのだと思います。
けれども、考えてみてほしいのです。
そうすることは、本当に自分らしいことですか?心から楽しいと感じることですか?
人は誰も、自分の中に答を持っています。
自分の感情にしたがうなら、自分らしくないことはできないようになっているのです。
生きることが楽しめないでいるなら、それは自分が自分の感情に耳を貸さないからです。
逆に言えば、本当に幸せになりたいなら、人生を楽しく生きたいなら、自分の感情に耳を貸すことです。
楽しくない考え方や行動はしない。楽しくなるように考え方を変え、行動を変える。
それが幸せになる唯一の方法だし、自分らしく楽しく生きる方法だと思います。
いくら他人を変えようとしても、それは無理だし、その方法では生きることを楽しめません。
他人を変える必要性はないと気づくことで、初めて本当に自由になれるのですから。
パキスタンでのできごとですが、16歳の少女が自宅の外で少年と話をしているのを見つけた両親が、それを怒って酸をかけたのだとか。
顔や腕など全身に大やけどを負い、頭部は骨が露出していたほど、ひどいものだったそうです。
パキスタンの人権団体によると、昨年だけで1000人もの女性が、こういう殺され方をしたそうです。
「名誉殺人」と呼ばれ、家族の名誉を汚したという理由で主に女性が殺されるのだとか。
なんだかとっても悲しい気分になります。
両親にとって可愛くないはずのない娘を、むごたらしく殺さなければならないほどの思いって、いったいどんなものだったのでしょうか。
そうまでして守らなければならないものなのでしょうか?
これを、遠いパキスタンだけの問題だと考えていてはいけないと思います。
それは私たちも、同じようなことをしているからです。
躾(しつけ)と称して体罰が行われることは、いまだに残る私たちの習慣です。
さすがに教育現場ではなくなってきたようですが、家庭内ではまだ残っています。
強者が弱者を支配する方法として、暴力や暴力をちらつかせた脅しという方法が使われています。
児童虐待とかDV(家庭内暴力)と呼ばれることもありますが、要は誰かを支配しようとしているのです。
そんなことまでして、いったい何を守ろうとしているのでしょう?
その守ろうとしているものに、そこまでの価値があるのでしょうか?
そのことを考えてみる必要があると思うのです。
またこのことは、暴力を使うかどうかの問題ではありません。
暴言とか脅し、非難中傷など、相手を屈服させようとするあらゆる行為は同じ問題をはらんでいます。
さらに言うなら、強制的に相手に何かをさせようとする思いそのものが、この問題の根底にあるのです。
誰かに何かをさせなければならないとか、何かをさせてはならないという必要性が、本当にあるのでしょうか?
もしそれがあると言うなら、それは人の自由を否定する考え方です。
おそらく多くの人は、「自由は尊重するけど、ルールを守った上での自由だ。」というように考えているでしょう。
私も、すぐさまその考え方を否定するものではありません。
ただ、その「ルール」というものを、よくよく考えてみる必要があると思うのです。
多くの人は、そのルールの中に、「常識」だとか「社会の慣習」、さらに「マナー」などというものを含めます。
それに反した人に対して、容赦のない懲罰を与えようとします。
たとえば先日も、学校内でのいじめによって自殺する事件があったとき、加害者とされる少年やその親の写真や名前を公開する人々が現れました。
「あれはイジメじゃない。犯罪だよ。」
そう言って、マスコミがやらないから自分がやるのだと、自己正当化していました。
私はそのことを、良いとも悪いとも言いません。私にとって良いか悪いかということは、他の人たちにとってどうかということと、関係がないからです。
それにおそらく、そういうことをした人にとって、その行為は正しいものだったに違いないのです。
けれども、やったことは娘に酸をかけて殺害したパキスタンの両親と同じことだと思うのです。
「娘は私たち家族の名誉を汚した。だから殺されて当然だし、それをやらなかったら私たちが社会から蔑まれるのよ。」
おそらく両親には、そんな言い分があったのだと思います。
けれども、考えてみてほしいのです。
そうすることは、本当に自分らしいことですか?心から楽しいと感じることですか?
人は誰も、自分の中に答を持っています。
自分の感情にしたがうなら、自分らしくないことはできないようになっているのです。
生きることが楽しめないでいるなら、それは自分が自分の感情に耳を貸さないからです。
逆に言えば、本当に幸せになりたいなら、人生を楽しく生きたいなら、自分の感情に耳を貸すことです。
楽しくない考え方や行動はしない。楽しくなるように考え方を変え、行動を変える。
それが幸せになる唯一の方法だし、自分らしく楽しく生きる方法だと思います。
いくら他人を変えようとしても、それは無理だし、その方法では生きることを楽しめません。
他人を変える必要性はないと気づくことで、初めて本当に自由になれるのですから。
2012年11月05日
今更ながらすごいと思います
「神との対話」シリーズの精読を始めて1ヶ月が過ぎました。
1冊目の「神との対話」を読み終え、「神との対話A」を読んでいました。
すっかり忘れていたのですが、この本には世界平和の実現方法が書かれています。
それは、アメリカ合衆国のように、各州政府が権限を移譲し、連邦政府を作るという方法でした。
この本を最初に手にしたのは、少なくとも社会人になってからのこと。
当然、そこに書かれていることを知っているはずもありませんが、なんと私の大学の卒業論文は、アメリカ合衆国をモデルにした世界政府樹立による世界平和実現についてだったのです。
まあ誰でも思いつくようなことかもしれませんが、現実的にその方法しかないのでしょうね。
現在は、ヨーロッパでその試みが進んでいます。
EUです。共通通貨のユーロが実施されたときは、本当に驚きました。
バラバラでいるよりも統一した方がメリットが大きい。
人々の意識がそう変わってくることによって、夢ではなく現実になるような気がします。
ただ、「神との対話A」には、そのためには意識改革が必要だと書かれていました。
権力や強制力といったもので無理やりに改革しようとしても、民衆の不満や批判によって押し潰されてしまいます。
だから、私たち一人ひとりの意識レベルでの変革が先行しなければならない。
そういうことなのだと思いました。
昨夜、「神との対話A」を読み終えたので、続いて「神との対話B」を読み始めました。
随分と写真が暗いですが、暗い部屋の中で至近距離でフラッシュ撮影したため、上手く撮れなかったようです。
この本、なんと450ページもあるんです。
久しぶりに手にしましたが、その分厚さには驚きます。
でも、読むことがまったく苦痛ではありません。
楽しくて仕方がないという感じです。
ちょっとだけ読み始めるつもりが、結局、1時間くらい読んでしまいました。
でも、それでいいのだと思います。
楽しいことをやる。
それが重要なことですからね。
1冊目の「神との対話」を読み終え、「神との対話A」を読んでいました。
すっかり忘れていたのですが、この本には世界平和の実現方法が書かれています。
それは、アメリカ合衆国のように、各州政府が権限を移譲し、連邦政府を作るという方法でした。
この本を最初に手にしたのは、少なくとも社会人になってからのこと。
当然、そこに書かれていることを知っているはずもありませんが、なんと私の大学の卒業論文は、アメリカ合衆国をモデルにした世界政府樹立による世界平和実現についてだったのです。
まあ誰でも思いつくようなことかもしれませんが、現実的にその方法しかないのでしょうね。
現在は、ヨーロッパでその試みが進んでいます。
EUです。共通通貨のユーロが実施されたときは、本当に驚きました。
バラバラでいるよりも統一した方がメリットが大きい。
人々の意識がそう変わってくることによって、夢ではなく現実になるような気がします。
ただ、「神との対話A」には、そのためには意識改革が必要だと書かれていました。
権力や強制力といったもので無理やりに改革しようとしても、民衆の不満や批判によって押し潰されてしまいます。
だから、私たち一人ひとりの意識レベルでの変革が先行しなければならない。
そういうことなのだと思いました。
昨夜、「神との対話A」を読み終えたので、続いて「神との対話B」を読み始めました。
随分と写真が暗いですが、暗い部屋の中で至近距離でフラッシュ撮影したため、上手く撮れなかったようです。
この本、なんと450ページもあるんです。
久しぶりに手にしましたが、その分厚さには驚きます。
でも、読むことがまったく苦痛ではありません。
楽しくて仕方がないという感じです。
ちょっとだけ読み始めるつもりが、結局、1時間くらい読んでしまいました。
でも、それでいいのだと思います。
楽しいことをやる。
それが重要なことですからね。
2012年11月06日
タイの田舎の結婚式
今日は、私の結婚1周年の記念日です。
どうなるかと思いましたけど、なんとか1年はもちましたね。
本当に、ありがたいことだと思います。
せっかくですから、タイの田舎(イサン地方)で結婚式がどのように行われるのか、思い出しながら書いてみることにします。
まず前日は、前夜祭のようなものがありました。
と言っても、新郎新婦にはまったく関係なく、親戚の人たち(多分)が集まって、カラオケを歌ったりダンスを踊ったりしてましたね。
翌日は、まずお坊さんに来てもらって、新郎新婦がタンブンする(徳を積むこと)儀式があります。
壁のない10畳ほどの板張りの部屋があるのですが、その上座が一段高くなっていて、そこにお坊さんたちに座ってもらいます。
私のときは5人でしたが、おそらく格式だとかお布施によって、お坊さんの人数も違ってくるのだと思います。
お経を唱えてもらい、木の葉っぱに水をつけてかけてもらって、清めてもらいました。
また、お坊さんのそれぞれの鉢に、ご飯などを2人で入れました。
キャンドルサービスみたいに、2人でろうそくに火を灯したのも、このときでした。
あとはお坊さんからありがたいお話を聞かせてもらって、それでタンブンの儀式は終りです。
それから朝食になります。
中庭のような広場には、机と椅子が置かれていて、集まった人たちに食事が振舞われました。
私も食べるようにと言われましたが、これから何があるのかさえ聞かされていないし、緊張でお腹が空きません。
しばらくすると、「行くよ」と言われて、みなでぞろぞろと敷地の裏手へ向かいます。
彼女の家の敷地というのは、彼女の家だけでなく、親戚の家が数軒集まっています。
道路から見ると、広場をぐるっと取り囲むように家が立ち並んでいるのです。
その奥の方の家のさらに裏口の方へ行くと、裏通りに出ました。
そこからいよいよ、パレードの開始です。
そこでやっと理解しましたよ。
みんなで練り歩きながら、表側にある新婦の家に向かうという儀式です。
「踊れ」
いきなりそう言われました。いや、踊れと言われてもねえ。
「歩け」
踊っていて前に進まないものだから、今度は前に進むようにとの指示です。
賑やかに楽器で演奏しながら、新郎を取り囲む集団が新婦の家に向かいます。
入口では、門番の女性がロープを張って待ち構えています。
「そう簡単には通させないわよ。」
というシチュエーションなのでしょう。本来ならここで会話をして、笑わせたりしながら問答をするのでしょう。
けれども私は話せないので、さっさとチップを渡して開けてもらいます。
タンブンの儀式を行った部屋まで、これを計3回繰り返します。
それぞれで張られているロープが違っていて、2番目が銀、3番目が金ではなかったかと。
部屋に上がるときは、バナナの葉で包まれた石の上に立って、そこで足を洗ってもらってから上がります。
指定された場所に座ると、しばらくして新婦が登場します。新婦の側には女性の付き添い、新郎(私)の側には男性の付き添いがいます。
ここからまた、いろいろな儀式があります。
まず、新郎側からの結納である金製品とお金のお披露目です。
金のネックレスとブレスレットを取り上げ、新婦の首と腕につけてあげます。このとき、うまくつけられなくて冷や汗をかきました。
お金は、お披露目が終わると布にくるんで、新婦のお母さんが大事そうに2階へ抱えて上がりました。
それから祝詞のようなものを唱えるのですが、唱えていたのはどうやら新婦のお父さんの友人のようで、この地域で結婚式をやるときは、たいていその方がされるのでしょう。
途中で忘れてしまって、「その本を取ってくれ」と言ってました。長いから、忘れることもあるでしょうねえ。
そして、両手に水を葉っぱでかけてもらいます。これも清めの儀式みたいなものでしょう。
続いて手にご飯とゆで卵を持たされ、その状態で、祝詞を上げてくれた方から腕に白い糸を巻いてもらいます。
そのあとは、来られた方々から順に祝福を受けます。
それぞれ白い糸を腕に巻いてくれ、お金を渡してくれます。20バーツの人もいれば500バーツの人もいます。多いのは100バーツでしたけど。
だんだんと溜まってくると、銀色の鉢が下に置いてあって、その中へ入れていきます。
全員から祝福を受け終わると、重要な方の何人かに、何かを2人で渡しました。たしかろうそくと葉っぱを糸で巻いたようなものです。
それからゆで卵を2つにわって、新郎と新婦が食べさせてもらいます。
水を飲んでから、キスをする儀式もありましたね。照れましたけど。
それで、その場所での式は終りです。
最後は、寝室で新婦と一緒に横になる儀式です。
ピンク色がふんだんに使われた寝室で布団の中に入りましたが、「ポーレーオ(もう充分)」と言って、あっと言う間に彼女が出てしまったので、そこで儀式はおしまいです。
そのあとは、ほとんどの来客は帰ってしまいました。
私はまだほとんど食べていなかったので、そこから食事とビールです。
バンコクからやってきた彼女の友だちたちも一緒に、お酒を飲んでダンスを踊って盛り上がりました。
ともかく、何もわからないままに始まった結婚の儀式が無事に終わり、ホッとした記憶があります。
どうなるかと思いましたけど、なんとか1年はもちましたね。
本当に、ありがたいことだと思います。
せっかくですから、タイの田舎(イサン地方)で結婚式がどのように行われるのか、思い出しながら書いてみることにします。
まず前日は、前夜祭のようなものがありました。
と言っても、新郎新婦にはまったく関係なく、親戚の人たち(多分)が集まって、カラオケを歌ったりダンスを踊ったりしてましたね。
翌日は、まずお坊さんに来てもらって、新郎新婦がタンブンする(徳を積むこと)儀式があります。
壁のない10畳ほどの板張りの部屋があるのですが、その上座が一段高くなっていて、そこにお坊さんたちに座ってもらいます。
私のときは5人でしたが、おそらく格式だとかお布施によって、お坊さんの人数も違ってくるのだと思います。
お経を唱えてもらい、木の葉っぱに水をつけてかけてもらって、清めてもらいました。
また、お坊さんのそれぞれの鉢に、ご飯などを2人で入れました。
キャンドルサービスみたいに、2人でろうそくに火を灯したのも、このときでした。
あとはお坊さんからありがたいお話を聞かせてもらって、それでタンブンの儀式は終りです。
それから朝食になります。
中庭のような広場には、机と椅子が置かれていて、集まった人たちに食事が振舞われました。
私も食べるようにと言われましたが、これから何があるのかさえ聞かされていないし、緊張でお腹が空きません。
しばらくすると、「行くよ」と言われて、みなでぞろぞろと敷地の裏手へ向かいます。
彼女の家の敷地というのは、彼女の家だけでなく、親戚の家が数軒集まっています。
道路から見ると、広場をぐるっと取り囲むように家が立ち並んでいるのです。
その奥の方の家のさらに裏口の方へ行くと、裏通りに出ました。
そこからいよいよ、パレードの開始です。
そこでやっと理解しましたよ。
みんなで練り歩きながら、表側にある新婦の家に向かうという儀式です。
「踊れ」
いきなりそう言われました。いや、踊れと言われてもねえ。
「歩け」
踊っていて前に進まないものだから、今度は前に進むようにとの指示です。
賑やかに楽器で演奏しながら、新郎を取り囲む集団が新婦の家に向かいます。
入口では、門番の女性がロープを張って待ち構えています。
「そう簡単には通させないわよ。」
というシチュエーションなのでしょう。本来ならここで会話をして、笑わせたりしながら問答をするのでしょう。
けれども私は話せないので、さっさとチップを渡して開けてもらいます。
タンブンの儀式を行った部屋まで、これを計3回繰り返します。
それぞれで張られているロープが違っていて、2番目が銀、3番目が金ではなかったかと。
部屋に上がるときは、バナナの葉で包まれた石の上に立って、そこで足を洗ってもらってから上がります。
指定された場所に座ると、しばらくして新婦が登場します。新婦の側には女性の付き添い、新郎(私)の側には男性の付き添いがいます。
ここからまた、いろいろな儀式があります。
まず、新郎側からの結納である金製品とお金のお披露目です。
金のネックレスとブレスレットを取り上げ、新婦の首と腕につけてあげます。このとき、うまくつけられなくて冷や汗をかきました。
お金は、お披露目が終わると布にくるんで、新婦のお母さんが大事そうに2階へ抱えて上がりました。
それから祝詞のようなものを唱えるのですが、唱えていたのはどうやら新婦のお父さんの友人のようで、この地域で結婚式をやるときは、たいていその方がされるのでしょう。
途中で忘れてしまって、「その本を取ってくれ」と言ってました。長いから、忘れることもあるでしょうねえ。
そして、両手に水を葉っぱでかけてもらいます。これも清めの儀式みたいなものでしょう。
続いて手にご飯とゆで卵を持たされ、その状態で、祝詞を上げてくれた方から腕に白い糸を巻いてもらいます。
そのあとは、来られた方々から順に祝福を受けます。
それぞれ白い糸を腕に巻いてくれ、お金を渡してくれます。20バーツの人もいれば500バーツの人もいます。多いのは100バーツでしたけど。
だんだんと溜まってくると、銀色の鉢が下に置いてあって、その中へ入れていきます。
全員から祝福を受け終わると、重要な方の何人かに、何かを2人で渡しました。たしかろうそくと葉っぱを糸で巻いたようなものです。
それからゆで卵を2つにわって、新郎と新婦が食べさせてもらいます。
水を飲んでから、キスをする儀式もありましたね。照れましたけど。
それで、その場所での式は終りです。
最後は、寝室で新婦と一緒に横になる儀式です。
ピンク色がふんだんに使われた寝室で布団の中に入りましたが、「ポーレーオ(もう充分)」と言って、あっと言う間に彼女が出てしまったので、そこで儀式はおしまいです。
そのあとは、ほとんどの来客は帰ってしまいました。
私はまだほとんど食べていなかったので、そこから食事とビールです。
バンコクからやってきた彼女の友だちたちも一緒に、お酒を飲んでダンスを踊って盛り上がりました。
ともかく、何もわからないままに始まった結婚の儀式が無事に終わり、ホッとした記憶があります。
2012年11月07日
おじいちゃん子、おばあちゃん子
私が子どもの頃、我が家は7人家族でした。
父方の祖父母、両親、姉と妹と私の子ども3人という構成です。
両親は共働きでしたから、学校から帰ると祖父母に面倒をみてもらうことになります。
そんな生活の中で、よくこんな会話がありました。
「あんたは、おばあちゃん子だねえ。お姉ちゃんは、おじいちゃん子だけど。」
最近は、あまり使わなくなった言葉ではないでしょうか。
何かあるとすぐに「おじいちゃん」と甘えていくのが「おじいちゃん子」です。
おばあちゃんに甘えるなら「おばあちゃん子」。
「お父ちゃん子」とか「お母ちゃん子」という言葉は聞いたことがありません。
このことを考えたとき、2つのポイントがあるように思いました。
1つは、祖父母の方が子どもに対して寛大に接しやすいということです。
つまり、子どもに対して細かいことを言わず、そのまま受け入れてくれる存在だということ。
そのままの自分を受け入れてもらえるから、子どもにとっても気持ちいい。
だから、おじいちゃんやおばあちゃんが好きになるのです。
これを単純に「甘やかす」と考えるために、多くの人は害があると考えがちです。
しかし、私はそうではないと思います。
「甘やかす」と表現される中にも、2つあるからです。
1つは、何も要求しない愛です。そしてもう1つは、相手に好かれたいがために行う取引です。
愛は相手の力を強くしますが、取引は相手の力を弱めます。相手を依存させようとし、自分も相手に執着します。
したがって、祖父母の接し方が必ずしも「愛」だとは言いませんが、経験を積んできただけに、愛する能力も成長しているのではないかと思うのです。
愛するには、必要性をなくすことが不可欠です。
その点、お年寄りになると「もう何も要らんなあ」と言って、悠々自適に暮らしておられる方が多いように見受けます。
つまりそれだけ、純粋に愛しやすくなっていると言えるのです。
もう1つのポイントは、愛と所有欲の違いです。
「神との対話B」に書かれていましたが、所有欲というのは愛という感情を抑圧することで生じたものだそうです。
その意味がちょっとわからなかったのですが、おじいちゃん子やおばあちゃん子のことを考えていたら、スーッと理解できました。
核家族化が進んだ現在、祖父母に孫の顔を見せに行くのが嫌だという悩みを、人生相談に寄せる方がおられます。
だいたいお嫁さんですが、夫の祖父母に会わせたくないのだと。
理由は様々です。祖父母が甘やかすからとか、子育てに対して口を挟むからなど。
けれども、それは単に子どもを、自分の所有物だと考えているからではないかと思うのです。
そう言われると反論したくなるかもしれませんが、まあお聞きください。
子どもが、祖父母に会いたくないと言っているなら、その気持を尊重してあげれば良いでしょう。
そうではなく、自分の思いで会わせたくないと考えているのだとしたら、それは子どもの気持ちを無視していることですよね。
相手の自由を奪う行為は、愛から生じたと言えるでしょうか?
このことは、離婚した夫婦についても言えます。
親権を持った側(たいていは母親)が、もう一方の親に子どもを会わせないようにするという問題があります。
そのとき、「子どもが会いたくないと言っている」という理由を使うケースが多いそうですが、それが真実かどうかは、自分自身がよくわかっているでしょう。
他人を騙すことはできても、自分をごまかすことはできませんから。
子どもにプレッシャーを与えることで、「母親は父親に会ってほしくないのだ」と子どもが察してそう言うとしたら、それは子どもに対する愛と言えるでしょうか?
自分自身が愛の感情を抑圧してきた(そうさせられてきた)ために、ねじれ曲がった所有欲という形でしか表現できなくなったためではないでしょうか?
無条件に与える愛ではなく、自分が何かを得る必要性があると無意識に思ってしまうために、対象に依存し、執着してしまう所有欲として表現される。
子どもがおじいちゃん子やおばあちゃん子だったとしても、愛だったら嫉妬はしません。
本当は、変えなければならないのは自分自身なのに、相手を変えようとする。
子どもを所有し続けようとして、祖父母に会わせないとか、離婚したもう一方の親に会わせないようにする。
しかし、相手は変わりません。
なぜなら、相手は相手の意志でしか変わらないし、それに相手の存在はあなたへの贈り物だからです。
せっかく気づかせてくれたのです。それは所有欲であって愛ではないということを。
その気づきを得るために、自分が引き寄せた現実なのです。
苦しいのでしょう?つらくてたまらないから、誰かに相談したくなったのでしょう?
苦しさやつらさは、大いなる気づきの前兆です。
「これは本当の自分じゃない」と、あなたの魂が叫んでいるのです。
他の誰かの意見にしたがってはいけません。そうではなく、自分自身の心にしたがうべきです。
自分自身が楽しくなるよう、気持ちよくなるよう、自分で答えを探すのです。
それを見つけたとき、大きな満足感に包まれるでしょう。
「ここに自分がいた。これが本当の自分だ。」
そう魂が感情を通じて伝えてくれるからです。
父方の祖父母、両親、姉と妹と私の子ども3人という構成です。
両親は共働きでしたから、学校から帰ると祖父母に面倒をみてもらうことになります。
そんな生活の中で、よくこんな会話がありました。
「あんたは、おばあちゃん子だねえ。お姉ちゃんは、おじいちゃん子だけど。」
最近は、あまり使わなくなった言葉ではないでしょうか。
何かあるとすぐに「おじいちゃん」と甘えていくのが「おじいちゃん子」です。
おばあちゃんに甘えるなら「おばあちゃん子」。
「お父ちゃん子」とか「お母ちゃん子」という言葉は聞いたことがありません。
このことを考えたとき、2つのポイントがあるように思いました。
1つは、祖父母の方が子どもに対して寛大に接しやすいということです。
つまり、子どもに対して細かいことを言わず、そのまま受け入れてくれる存在だということ。
そのままの自分を受け入れてもらえるから、子どもにとっても気持ちいい。
だから、おじいちゃんやおばあちゃんが好きになるのです。
これを単純に「甘やかす」と考えるために、多くの人は害があると考えがちです。
しかし、私はそうではないと思います。
「甘やかす」と表現される中にも、2つあるからです。
1つは、何も要求しない愛です。そしてもう1つは、相手に好かれたいがために行う取引です。
愛は相手の力を強くしますが、取引は相手の力を弱めます。相手を依存させようとし、自分も相手に執着します。
したがって、祖父母の接し方が必ずしも「愛」だとは言いませんが、経験を積んできただけに、愛する能力も成長しているのではないかと思うのです。
愛するには、必要性をなくすことが不可欠です。
その点、お年寄りになると「もう何も要らんなあ」と言って、悠々自適に暮らしておられる方が多いように見受けます。
つまりそれだけ、純粋に愛しやすくなっていると言えるのです。
もう1つのポイントは、愛と所有欲の違いです。
「神との対話B」に書かれていましたが、所有欲というのは愛という感情を抑圧することで生じたものだそうです。
その意味がちょっとわからなかったのですが、おじいちゃん子やおばあちゃん子のことを考えていたら、スーッと理解できました。
核家族化が進んだ現在、祖父母に孫の顔を見せに行くのが嫌だという悩みを、人生相談に寄せる方がおられます。
だいたいお嫁さんですが、夫の祖父母に会わせたくないのだと。
理由は様々です。祖父母が甘やかすからとか、子育てに対して口を挟むからなど。
けれども、それは単に子どもを、自分の所有物だと考えているからではないかと思うのです。
そう言われると反論したくなるかもしれませんが、まあお聞きください。
子どもが、祖父母に会いたくないと言っているなら、その気持を尊重してあげれば良いでしょう。
そうではなく、自分の思いで会わせたくないと考えているのだとしたら、それは子どもの気持ちを無視していることですよね。
相手の自由を奪う行為は、愛から生じたと言えるでしょうか?
このことは、離婚した夫婦についても言えます。
親権を持った側(たいていは母親)が、もう一方の親に子どもを会わせないようにするという問題があります。
そのとき、「子どもが会いたくないと言っている」という理由を使うケースが多いそうですが、それが真実かどうかは、自分自身がよくわかっているでしょう。
他人を騙すことはできても、自分をごまかすことはできませんから。
子どもにプレッシャーを与えることで、「母親は父親に会ってほしくないのだ」と子どもが察してそう言うとしたら、それは子どもに対する愛と言えるでしょうか?
自分自身が愛の感情を抑圧してきた(そうさせられてきた)ために、ねじれ曲がった所有欲という形でしか表現できなくなったためではないでしょうか?
無条件に与える愛ではなく、自分が何かを得る必要性があると無意識に思ってしまうために、対象に依存し、執着してしまう所有欲として表現される。
子どもがおじいちゃん子やおばあちゃん子だったとしても、愛だったら嫉妬はしません。
本当は、変えなければならないのは自分自身なのに、相手を変えようとする。
子どもを所有し続けようとして、祖父母に会わせないとか、離婚したもう一方の親に会わせないようにする。
しかし、相手は変わりません。
なぜなら、相手は相手の意志でしか変わらないし、それに相手の存在はあなたへの贈り物だからです。
せっかく気づかせてくれたのです。それは所有欲であって愛ではないということを。
その気づきを得るために、自分が引き寄せた現実なのです。
苦しいのでしょう?つらくてたまらないから、誰かに相談したくなったのでしょう?
苦しさやつらさは、大いなる気づきの前兆です。
「これは本当の自分じゃない」と、あなたの魂が叫んでいるのです。
他の誰かの意見にしたがってはいけません。そうではなく、自分自身の心にしたがうべきです。
自分自身が楽しくなるよう、気持ちよくなるよう、自分で答えを探すのです。
それを見つけたとき、大きな満足感に包まれるでしょう。
「ここに自分がいた。これが本当の自分だ。」
そう魂が感情を通じて伝えてくれるからです。
2012年11月08日
大麻を合法化するって本当ですか?
昨日、ちょっとびっくりするようなニュースがあったので、そのことについてお話します。
それは、「全米初、大麻合法化へ=住民投票でコロラド州など」と題したニュースで、アメリカの一部で大麻が合法化されるというニュースでした。
「大麻って、マリファナでしょう?麻薬を合法化するだなんて、アメリカはどうなってるの!?」
そう驚かれた方も多いのではないでしょうか?
以前の私なら、おそらくそう思ったでしょう。
マリファナに対するイメージは、どう考えてもタバコより害があって、アルコールより酩酊させる麻薬というものですから、悪くないはずがありません。
しかし、「神との対話A」を読んでいたので、そういう意味で驚くことはなかったのです。
そこには、大麻はタバコやアルコールほどに習慣性や健康上の害はないと書かれていました。
最初にこれを読んだときは、「本当かなあ?」と疑いましたよ。
今まで大麻に対して抱いていたイメージと180度も違うことですから。
同書によると、大麻は奇跡の植物なのだそうです。
成長が早く、どんな環境でもよく育つ植物で、繊維が丈夫なのだとか。
そのため、ロープを作ればこれに勝るものはなく、木を切らなくても消費する紙のほとんどがまかなえてしまうのだとか。しかも薬品のもとにもなる。
こんな素晴らしいものを利用できないように政府が制限するのは、それによって利益を失う誰か(どこか)を守っているためだろうと言うのです。
今回のニュースで改めて調べてみたのですが、同書に書かれていたことはあながちウソでもなさそうです。
ウィキペディアの「大麻」を見てみると、そのことがわかります。
まず驚くのは、「医学的見地」に書かれていた文です。
「急性中毒による死亡はまずないと言われており、過剰摂取による死亡例の報告は無い。」
このことからして、睡眠薬よりも安全なものだと考えられるでしょう。
また、こうも書かれています。
「煙による害を別にすれば、大麻使用による副作用は他の医薬品で許容されている副作用の範囲内にある」「大麻は精神及び身体を含む健康問題で良くない場合があるが、相対的な害では、それはアルコールかタバコより極めて害が少ない」
それでは、どうして大麻を禁止したのでしょう?
それに対する有力な説として「踏み石論」というものがあるのだそうです。
大麻を使うと、他のドラッグ使用の垣根が低くなり、使用しやすくなるからだと言うのです。
1950年代にアメリカの麻薬取締機関が広めた考えだそうですが、最近は、再考察が進んでいると書かれていました。
たしかに、それなら「どうしてタバコは合法なのか?」という問に、合理的に答えられませんからね。
より害がないマリファナが禁止され、より害のあるタバコが野放しにされる。
それは政府が国民の健康よりも、何か別のものを守ろうとしているからだと指摘されても、反論が難しいでしょう。
因みに日本では、麻(あさ)として栽培されているそうです。
それを読んで、またびっくりしました。
大麻=麻(あさ)だったのです。
大麻は自生する植物で、生命力が強いために伐採してもすぐに生えてくるし、焼却のコストもかさむために、根絶はできていないのだとか。
日本で栽培されている大麻は、ほとんどが栃木県で、薬理作用のあるTHC(カンナビノイド)をほとんど含まないように改良された栃木白(トチギシロ)という品種だそうです。
そして麻糸や麻布として利用されると書かれていることからして、私たちに馴染みの深い麻製品なのでしょう。
たしかに、様々な考え方や意見があるようです。
しかし、世界の中には、大麻を合法化する国もあるということは事実です。
一方的な思い込みや偏見は、自分の首を締めることにもなるなあと思いました。
手をかけなくても簡単に育ち、それでいて人間の役に立つ大麻という植物を、ただ制限するのではなく、利用することを考える必要があるのではないでしょうか?
環境破壊の問題を考えると、大量の木を伐採して森林を減らすより、大麻を育てて利用した方が良いと思うのです。
※注意※
大麻は自生しているものであっても、許可無くその葉を1枚でも取れば違法行為となり、処罰される可能性があります。
有効利用すべきという私の考えは、現在の法律とは整合性が取れていないことをご承知おきください。
それは、「全米初、大麻合法化へ=住民投票でコロラド州など」と題したニュースで、アメリカの一部で大麻が合法化されるというニュースでした。
「大麻って、マリファナでしょう?麻薬を合法化するだなんて、アメリカはどうなってるの!?」
そう驚かれた方も多いのではないでしょうか?
以前の私なら、おそらくそう思ったでしょう。
マリファナに対するイメージは、どう考えてもタバコより害があって、アルコールより酩酊させる麻薬というものですから、悪くないはずがありません。
しかし、「神との対話A」を読んでいたので、そういう意味で驚くことはなかったのです。
そこには、大麻はタバコやアルコールほどに習慣性や健康上の害はないと書かれていました。
最初にこれを読んだときは、「本当かなあ?」と疑いましたよ。
今まで大麻に対して抱いていたイメージと180度も違うことですから。
同書によると、大麻は奇跡の植物なのだそうです。
成長が早く、どんな環境でもよく育つ植物で、繊維が丈夫なのだとか。
そのため、ロープを作ればこれに勝るものはなく、木を切らなくても消費する紙のほとんどがまかなえてしまうのだとか。しかも薬品のもとにもなる。
こんな素晴らしいものを利用できないように政府が制限するのは、それによって利益を失う誰か(どこか)を守っているためだろうと言うのです。
今回のニュースで改めて調べてみたのですが、同書に書かれていたことはあながちウソでもなさそうです。
ウィキペディアの「大麻」を見てみると、そのことがわかります。
まず驚くのは、「医学的見地」に書かれていた文です。
「急性中毒による死亡はまずないと言われており、過剰摂取による死亡例の報告は無い。」
このことからして、睡眠薬よりも安全なものだと考えられるでしょう。
また、こうも書かれています。
「煙による害を別にすれば、大麻使用による副作用は他の医薬品で許容されている副作用の範囲内にある」「大麻は精神及び身体を含む健康問題で良くない場合があるが、相対的な害では、それはアルコールかタバコより極めて害が少ない」
それでは、どうして大麻を禁止したのでしょう?
それに対する有力な説として「踏み石論」というものがあるのだそうです。
大麻を使うと、他のドラッグ使用の垣根が低くなり、使用しやすくなるからだと言うのです。
1950年代にアメリカの麻薬取締機関が広めた考えだそうですが、最近は、再考察が進んでいると書かれていました。
たしかに、それなら「どうしてタバコは合法なのか?」という問に、合理的に答えられませんからね。
より害がないマリファナが禁止され、より害のあるタバコが野放しにされる。
それは政府が国民の健康よりも、何か別のものを守ろうとしているからだと指摘されても、反論が難しいでしょう。
因みに日本では、麻(あさ)として栽培されているそうです。
それを読んで、またびっくりしました。
大麻=麻(あさ)だったのです。
大麻は自生する植物で、生命力が強いために伐採してもすぐに生えてくるし、焼却のコストもかさむために、根絶はできていないのだとか。
日本で栽培されている大麻は、ほとんどが栃木県で、薬理作用のあるTHC(カンナビノイド)をほとんど含まないように改良された栃木白(トチギシロ)という品種だそうです。
そして麻糸や麻布として利用されると書かれていることからして、私たちに馴染みの深い麻製品なのでしょう。
たしかに、様々な考え方や意見があるようです。
しかし、世界の中には、大麻を合法化する国もあるということは事実です。
一方的な思い込みや偏見は、自分の首を締めることにもなるなあと思いました。
手をかけなくても簡単に育ち、それでいて人間の役に立つ大麻という植物を、ただ制限するのではなく、利用することを考える必要があるのではないでしょうか?
環境破壊の問題を考えると、大量の木を伐採して森林を減らすより、大麻を育てて利用した方が良いと思うのです。
※注意※
大麻は自生しているものであっても、許可無くその葉を1枚でも取れば違法行為となり、処罰される可能性があります。
有効利用すべきという私の考えは、現在の法律とは整合性が取れていないことをご承知おきください。
2012年11月09日
すべてを白日のもとにさらす
「神との対話B」を読んでいますが、とても考えさせられることが書かれています。
それは、「見える化」についてです。
すべてを明らかにし、誰もがそれを知ることができるようにすることが、社会を公正なものにするためのもっとも有効な手段だと言うのです。
言われてみると、たしかにそうです。
たとえば、ある商品の原価がいくらで、それにどれだけの利益を乗せているのかが消費者にわかってしまうと、誠実な商売をしていない企業の商品は敬遠されるかもしれません。
給料も、誰にいくら払っているかがわかれば、仕事の対価としてふさわしいかどうか、みんなにバレてしまいます。
これは、現代でもある程度は実行されていることです。
たとえば政治家の資産公開などもそうですよね。何のためにやっているかというと、特権を利用した不正な蓄財をしていないかどうかを監視するためです。
上場企業の役員報酬も、同様に公開されています。
これをさらに進めることが、社会を公正なものにするのに役立つというのです。
行政の情報公開も、このために役立ちます。
ウィキリークスに対して大衆が賛同するのは、特権のある人が不正なことをしていると思っているからです。
そしてウィキリークスを潰すためにあの手この手を使っているところは、公開されてはまずいことがあるからです。
秘密を持たないと、何かを失ってしまうからです。
もちろんこれには、プライバシーを盾にした抵抗があるでしょう。
しかし、本当に明らかにされてはまずいことが、どれほどあるでしょうか?
明らかにされたくない、秘密のままにしておきたいと感じる理由の多くは、漠然とした不安だと思います。
それによって誰かから批判されたり、攻撃されたり、バカにされたりするかもしれない。
そういう不安があるために、明らかにすることができないのです。
私はIT業界で仕事をしているので、「どうして日本は共通番号制度を導入しないのだろう?」と、よく思います。
タイは、国民にIDカードの所持を義務付けており、その番号は一生変わることはありません。
タイでできることが、どうして日本ではできないのでしょうか?
これがないために、日本人のデータ管理は、とても大変なことをやっているのです。
SEの方ならすぐにわかると思いますが、日本人は、個人を特定できないのです。
名前も電話番号も住所も生年月日も、どれ1つ個人を特定できません。
車の免許証だって持ってない人もいるし、取り直せば番号が変わります。
そのため、日本のシステムで個人を特定するためには、名前、生年月日、電話番号、郵便番号、免許証番号などのたくさんのデータを使い、どれだけ同じものがあるかで推定するしかないのです。
年金問題で同一人物に複数の番号がふられていたという問題がありましたが、あれなどもまさに、個人を特定する方法がないから発生した問題なのです。
間違った人に名寄せされたというのも、同じ理由からです。
こういうことに関して驚いたことがあります。
日本のパスポートの番号は、更新すると変わることを知ってましたか?
タイのシステムでは、個人を特定するのに13桁のID番号を使うのですが、外国人はパスポート番号で管理します。
ところがそのパスポート番号が、更新によって変わってしまうのです。
何のために変える必要があるのか、不思議で仕方ありません。
このため、本来は不変のはずのID番号を変更できるようにしなければならないのです。
個人を特定できないということは、なりすましを防げないということです。
それが、あらゆる犯罪の温床になっています。
養子縁組を利用した戸籍ロンダリングによって、捜査の追求を逃れるという犯罪手法がありますが、それが可能なのも、個人を特定できない仕組みになっているためです。
そういった不利益が明確であるにも関わらず、多くの人は共通番号制度の導入に消極的です。
理由は、何かあった時に自分に不利益なことが起こるかもしれないという、あいまいで漠然とした不安です。
「具体的に何がありますか?」
そう質問しても、おそらく答えられないでしょう。
たとえば所得を把握される可能性があるとか、どこのクレジットカードを契約しているかバレる可能性があるとしても、仮にバレたとしたらどういう不利益があるのでしょう?
自分が不正なことをしようとしていなければ、堂々としていられるはずです。
それをさらに一歩進めて、最初から公開してしまったらどうなるでしょうか?
つまり、完全な見える化です。
そうなったら、最初から不正なことをしようという気持ちさえなくなるのではないでしょうか?
バレるかもしれないと、ビクビクする心配がなくなるのです。
ただこれは、急激に行うことは難しいと思います。
人々が、公開することに慣れる必要があるからです。
そういう意味で、ブログとかSNSというのは、有効なものだと思います。
特にFacebookは実名を原則としています。できるだけ顔写真を公開することも求められます。
そうやって自分自身を少しずつ公開することに慣れると、段々と隠していないことが快感になってきます。
素っ裸が恥ずかしいと感じるのも、これは自然なことではありません。
そういうように教育されてきたからです。また、自分に自信がなく、不安を抱えているからです。
人は本来、素っ裸であっても恥ずかしさを感じないものだと思います。
それが証拠に、ごく親しい人の間では、最初のうちは恥ずかしがっていても、慣れてくると恥ずかしくなくなるではありませんか。
それは相手が、自分を攻撃しないとわかっているからです。守る必要性がないため、不安を感じずにいられるからです。
人と人は、本来はそういうように、何の防御も必要がない関係なのだと思うのです。
なぜなら、私たちは本来、「ひとつのもの」だから。
私たちの本質は、愛だからです。
それは、「見える化」についてです。
すべてを明らかにし、誰もがそれを知ることができるようにすることが、社会を公正なものにするためのもっとも有効な手段だと言うのです。
言われてみると、たしかにそうです。
たとえば、ある商品の原価がいくらで、それにどれだけの利益を乗せているのかが消費者にわかってしまうと、誠実な商売をしていない企業の商品は敬遠されるかもしれません。
給料も、誰にいくら払っているかがわかれば、仕事の対価としてふさわしいかどうか、みんなにバレてしまいます。
これは、現代でもある程度は実行されていることです。
たとえば政治家の資産公開などもそうですよね。何のためにやっているかというと、特権を利用した不正な蓄財をしていないかどうかを監視するためです。
上場企業の役員報酬も、同様に公開されています。
これをさらに進めることが、社会を公正なものにするのに役立つというのです。
行政の情報公開も、このために役立ちます。
ウィキリークスに対して大衆が賛同するのは、特権のある人が不正なことをしていると思っているからです。
そしてウィキリークスを潰すためにあの手この手を使っているところは、公開されてはまずいことがあるからです。
秘密を持たないと、何かを失ってしまうからです。
もちろんこれには、プライバシーを盾にした抵抗があるでしょう。
しかし、本当に明らかにされてはまずいことが、どれほどあるでしょうか?
明らかにされたくない、秘密のままにしておきたいと感じる理由の多くは、漠然とした不安だと思います。
それによって誰かから批判されたり、攻撃されたり、バカにされたりするかもしれない。
そういう不安があるために、明らかにすることができないのです。
私はIT業界で仕事をしているので、「どうして日本は共通番号制度を導入しないのだろう?」と、よく思います。
タイは、国民にIDカードの所持を義務付けており、その番号は一生変わることはありません。
タイでできることが、どうして日本ではできないのでしょうか?
これがないために、日本人のデータ管理は、とても大変なことをやっているのです。
SEの方ならすぐにわかると思いますが、日本人は、個人を特定できないのです。
名前も電話番号も住所も生年月日も、どれ1つ個人を特定できません。
車の免許証だって持ってない人もいるし、取り直せば番号が変わります。
そのため、日本のシステムで個人を特定するためには、名前、生年月日、電話番号、郵便番号、免許証番号などのたくさんのデータを使い、どれだけ同じものがあるかで推定するしかないのです。
年金問題で同一人物に複数の番号がふられていたという問題がありましたが、あれなどもまさに、個人を特定する方法がないから発生した問題なのです。
間違った人に名寄せされたというのも、同じ理由からです。
こういうことに関して驚いたことがあります。
日本のパスポートの番号は、更新すると変わることを知ってましたか?
タイのシステムでは、個人を特定するのに13桁のID番号を使うのですが、外国人はパスポート番号で管理します。
ところがそのパスポート番号が、更新によって変わってしまうのです。
何のために変える必要があるのか、不思議で仕方ありません。
このため、本来は不変のはずのID番号を変更できるようにしなければならないのです。
個人を特定できないということは、なりすましを防げないということです。
それが、あらゆる犯罪の温床になっています。
養子縁組を利用した戸籍ロンダリングによって、捜査の追求を逃れるという犯罪手法がありますが、それが可能なのも、個人を特定できない仕組みになっているためです。
そういった不利益が明確であるにも関わらず、多くの人は共通番号制度の導入に消極的です。
理由は、何かあった時に自分に不利益なことが起こるかもしれないという、あいまいで漠然とした不安です。
「具体的に何がありますか?」
そう質問しても、おそらく答えられないでしょう。
たとえば所得を把握される可能性があるとか、どこのクレジットカードを契約しているかバレる可能性があるとしても、仮にバレたとしたらどういう不利益があるのでしょう?
自分が不正なことをしようとしていなければ、堂々としていられるはずです。
それをさらに一歩進めて、最初から公開してしまったらどうなるでしょうか?
つまり、完全な見える化です。
そうなったら、最初から不正なことをしようという気持ちさえなくなるのではないでしょうか?
バレるかもしれないと、ビクビクする心配がなくなるのです。
ただこれは、急激に行うことは難しいと思います。
人々が、公開することに慣れる必要があるからです。
そういう意味で、ブログとかSNSというのは、有効なものだと思います。
特にFacebookは実名を原則としています。できるだけ顔写真を公開することも求められます。
そうやって自分自身を少しずつ公開することに慣れると、段々と隠していないことが快感になってきます。
素っ裸が恥ずかしいと感じるのも、これは自然なことではありません。
そういうように教育されてきたからです。また、自分に自信がなく、不安を抱えているからです。
人は本来、素っ裸であっても恥ずかしさを感じないものだと思います。
それが証拠に、ごく親しい人の間では、最初のうちは恥ずかしがっていても、慣れてくると恥ずかしくなくなるではありませんか。
それは相手が、自分を攻撃しないとわかっているからです。守る必要性がないため、不安を感じずにいられるからです。
人と人は、本来はそういうように、何の防御も必要がない関係なのだと思うのです。
なぜなら、私たちは本来、「ひとつのもの」だから。
私たちの本質は、愛だからです。
2012年11月10日
酒癖が悪いと言われたことがありませんか?
もうすぐ今年も終わりになります。
そろそろ忘年会をどうしようかという話題が、あちこちで聞かれることでしょう。
人数が多い忘年会だと、予約をしなければなりません。幹事さんは大変だと思います。
忘年会につきものなのは、お酒です。
まったく飲めない人もいるでしょうけど、飲んで今年の憂さを晴らしましょうという会です。
タイも、これからお酒のシーズンなんですよ。
と言っても、ビアガーデンです。
これから乾季になりますから、日が落ちた後は外で涼しい風にあたりながら、ビールを飲みましょうという習慣です。
私も以前はよくビアガーデンへ行きました。
ステージで歌やダンスを披露してくれるところがあって、それを見ながらビールを飲みました。
さて、お酒と言えばつきものなのが、酒癖です。
笑い上戸、泣き上戸と言うように、人それぞれ癖が出るようです。
困るのが怒ったり、しつこく絡んだりする人。せっかく一緒に楽しもうとしているのに、こういう人がいると本当に困ってしまいます。
そういう人も、たいていはそれを自覚しています。
「おれ、酒が入るとすぐに絡んじゃうんだよなあ。」
アルコールによって麻痺するのは運動機能だけでなく、思考回路も麻痺するようです。
そのため、いつもなら抑えられる感情が、抑制されずに吹き出してしまうのでしょう。
たしかに一緒に飲んでいる人にとっては迷惑ですが、本人にとっては良い面もあると思います。
それは、本当の自分の姿を知ることができるからです。
いつもは頭に来ることがあっても、無意識にその感情を抑圧してしまうのでしょう。
だから、酒が入ったときは、その感情が噴出してしまう。
そこで問題になるのは、酒が入った時に抑制できないことではありません。
いいですか。重要ですからもう一度言います。
酒が入った時に感情を抑えられないことが問題なのではないのです。
現象的にはそう思えるかもしれませんが、そう思って抑えるように努力すると、それはますます自分自身を偽る生き方を推し進めることになってしまいます。
大事なのは抑えることではなく、普段は無意識に抑えてしまっていることを知ることが重要なのです。
そして普段から、その感情をしっかりと感じて受け止めるようにしましょう。
普段から自分の感情をしっかりと感じるようにして、解放してあげるようしていると、そういう感情の奴隷にならずにすみます。
つまり、酒が入った時でも、抑制が効かずに大暴れするようなことがなくなるのです。
お酒を飲んだとき、特に意識したわけではないのに、今までのように暴れなくなったとしたら、それは普段の感情を受け止めることが上手く行き始めた証拠です。
つまり、そのバロメーターとして利用した方が賢いと思うのです。
しつこく絡む人は、何かに執着しています。
執着しているということは、何かの必要性を強く感じていて、その動機は不安です。
部下に説教する人、同僚に愚痴をこぼす人、ホステスさんにやたらエッチな行為をする人など、みんな同じです。
そういう癖がある人は、酒を飲んでも感情が暴れなくなるかどうかをバロメーターとして、幸せ実践をしていきましょうね。
そろそろ忘年会をどうしようかという話題が、あちこちで聞かれることでしょう。
人数が多い忘年会だと、予約をしなければなりません。幹事さんは大変だと思います。
忘年会につきものなのは、お酒です。
まったく飲めない人もいるでしょうけど、飲んで今年の憂さを晴らしましょうという会です。
タイも、これからお酒のシーズンなんですよ。
と言っても、ビアガーデンです。
これから乾季になりますから、日が落ちた後は外で涼しい風にあたりながら、ビールを飲みましょうという習慣です。
私も以前はよくビアガーデンへ行きました。
ステージで歌やダンスを披露してくれるところがあって、それを見ながらビールを飲みました。
さて、お酒と言えばつきものなのが、酒癖です。
笑い上戸、泣き上戸と言うように、人それぞれ癖が出るようです。
困るのが怒ったり、しつこく絡んだりする人。せっかく一緒に楽しもうとしているのに、こういう人がいると本当に困ってしまいます。
そういう人も、たいていはそれを自覚しています。
「おれ、酒が入るとすぐに絡んじゃうんだよなあ。」
アルコールによって麻痺するのは運動機能だけでなく、思考回路も麻痺するようです。
そのため、いつもなら抑えられる感情が、抑制されずに吹き出してしまうのでしょう。
たしかに一緒に飲んでいる人にとっては迷惑ですが、本人にとっては良い面もあると思います。
それは、本当の自分の姿を知ることができるからです。
いつもは頭に来ることがあっても、無意識にその感情を抑圧してしまうのでしょう。
だから、酒が入ったときは、その感情が噴出してしまう。
そこで問題になるのは、酒が入った時に抑制できないことではありません。
いいですか。重要ですからもう一度言います。
酒が入った時に感情を抑えられないことが問題なのではないのです。
現象的にはそう思えるかもしれませんが、そう思って抑えるように努力すると、それはますます自分自身を偽る生き方を推し進めることになってしまいます。
大事なのは抑えることではなく、普段は無意識に抑えてしまっていることを知ることが重要なのです。
そして普段から、その感情をしっかりと感じて受け止めるようにしましょう。
普段から自分の感情をしっかりと感じるようにして、解放してあげるようしていると、そういう感情の奴隷にならずにすみます。
つまり、酒が入った時でも、抑制が効かずに大暴れするようなことがなくなるのです。
お酒を飲んだとき、特に意識したわけではないのに、今までのように暴れなくなったとしたら、それは普段の感情を受け止めることが上手く行き始めた証拠です。
つまり、そのバロメーターとして利用した方が賢いと思うのです。
しつこく絡む人は、何かに執着しています。
執着しているということは、何かの必要性を強く感じていて、その動機は不安です。
部下に説教する人、同僚に愚痴をこぼす人、ホステスさんにやたらエッチな行為をする人など、みんな同じです。
そういう癖がある人は、酒を飲んでも感情が暴れなくなるかどうかをバロメーターとして、幸せ実践をしていきましょうね。
2012年11月12日
愛と依存の違いがわかりますか?
最近のニュースで、DV(ドメスティック・バイオレンス=家庭内暴力)の認知件数が史上最多の3万4千件になったとありました。
特に多いのは、夫や彼氏からパートナーの女性に対して行われるもの。
殴る蹴るだけでなく、手錠で手の自由を奪い、ベルトで首を絞め、ハサミで腕を傷つけたり、髪を切り落としたり。
愛し合う関係の中で、どうしてこういうむごたらしい暴力が行われるのでしょうか?
ある事件の容疑者は、「妻が浮気をしていると思い、許せなくて傷めつけてやろうと思った。」と言っているようです。
髪を切るというのは、他の男と関係を持たせないためとも考えられます。
こんなひどい仕打ちを受けながら、それでも我慢してしまう女性が多いことも事実です。
「私が我慢すればすべてが丸くおさまる。」「夫が暴力を振るうのは、私のことを愛しているから。」
そんなふうに考えてしまうようです。
しかし、その我慢が自分のためにならないばかりか、相手のためにもなっていないことに、多くの人が気づかないようです。
暴力を振るうから、良い関係が築けないのではありません。
暴力につながる考え方が間違っているから、良い関係が築けないのです。
我慢をするということは、その間違った考え方を肯定することになります。
だから我慢をしても関係は改善しないし、誰も幸せになれないのです。
まず、暴力を振るう人は、相手のことを愛してはいません。
「歪んだ愛」などと、愛の一種であるかのような言い方をするから、多くの人が誤解してしまいます。
重要ですからもう一度言います。
暴力を振るう人は、相手のことを愛していません。
自分が愛していると思い込んでいるだけであって、それは愛ではありません。
本当に愛しているなら、そのままの相手の価値を認めるでしょうし、相手の自由を尊重するはずです。
どうして相手を自分の思い通りにさせる必要性があるのでしょうか?
相手を自分の思い通りにさせようとし、そうならないから脅したり暴力を振るったりするのでしょう。
それは愛ではなく、単に執着です。依存です。所有欲に狂っているだけです。
特に女性の方は、目を見開いてほしいのです。
暴力を振るう男性は、あなたのことを愛していません。
どんなに甘い言葉をささやいたとしても、それは愛からではなく、エビで鯛を釣ろうという魂胆からです。
暴力を振るわなくても、暴言を吐いて脅したり、交換条件を出してくるなら同じことです。
愛は無条件ですから。無条件でなければ、その時点で愛ではないのです。
「本当の愛ではないとわかっている。でも、今の私には、あの人は大切な人なの。私が守ってあげなければ、あの人はもっとダメになってしまうから。」
そう言って、それでも耐える女性が少なからずいます。
自分の存在が、相手の助けになっていると信じているのでしょう。
つまり、相手は自分の助けを欲しているし、嬉しく思っていると考えているのです。
相手から必要とされることは、自分の存在感を高めてくれるので、とても気持ちよく感じます。
けれども、その感情に溺れると、相手に依存することになってしまいます。
暴力を振るわれても許してしまう女性は、たいていそうなっています。
つまり、相互依存の状態になっているのです。
その典型的な例は、小説「思いわずらうことなく愉しく生きよ」の長女でしょう。
相手の暴力を許すことは、愛ではありません。それは依存です。
自己肯定感を高めてくれる存在だから、相手に執着しているだけなのです。
このことから言えるのは、相手から本当に愛されるようになるためには、まず自分が自立する必要があります。
自分が自立するためには、自分の評価を高め、自己肯定感を持つことが大切です。
つまりそれは、自分自身を愛するということです。
自分を愛せなければ、他者を愛することはできません。
他者を愛することができないなら、他者からの愛を受け取ることができません。
そうやって自分で自分を愛のない状態に置いておきながら、無理に愛を求めようとするから執着するのです。
執着すれば、愛は逃げていくだけです。
こうして悪循環の泥沼に入ってしまうのです。
どこかで悪循環を断ち切らなければなりません。
変えられるのは自分だけです。
自分を変えるのは、自分しかありません。
他の誰かに頼っている限り、いつまでたっても変わりませんよ。
自分を変えるには、考え方を変えることです。
考え方を変えるには、見方(視点)を変えることです。
自分が幸せだと感じる見方を選択する。
そうすれば周りが愛で満ちていたことに気づくのです。
特に多いのは、夫や彼氏からパートナーの女性に対して行われるもの。
殴る蹴るだけでなく、手錠で手の自由を奪い、ベルトで首を絞め、ハサミで腕を傷つけたり、髪を切り落としたり。
愛し合う関係の中で、どうしてこういうむごたらしい暴力が行われるのでしょうか?
ある事件の容疑者は、「妻が浮気をしていると思い、許せなくて傷めつけてやろうと思った。」と言っているようです。
髪を切るというのは、他の男と関係を持たせないためとも考えられます。
こんなひどい仕打ちを受けながら、それでも我慢してしまう女性が多いことも事実です。
「私が我慢すればすべてが丸くおさまる。」「夫が暴力を振るうのは、私のことを愛しているから。」
そんなふうに考えてしまうようです。
しかし、その我慢が自分のためにならないばかりか、相手のためにもなっていないことに、多くの人が気づかないようです。
暴力を振るうから、良い関係が築けないのではありません。
暴力につながる考え方が間違っているから、良い関係が築けないのです。
我慢をするということは、その間違った考え方を肯定することになります。
だから我慢をしても関係は改善しないし、誰も幸せになれないのです。
まず、暴力を振るう人は、相手のことを愛してはいません。
「歪んだ愛」などと、愛の一種であるかのような言い方をするから、多くの人が誤解してしまいます。
重要ですからもう一度言います。
暴力を振るう人は、相手のことを愛していません。
自分が愛していると思い込んでいるだけであって、それは愛ではありません。
本当に愛しているなら、そのままの相手の価値を認めるでしょうし、相手の自由を尊重するはずです。
どうして相手を自分の思い通りにさせる必要性があるのでしょうか?
相手を自分の思い通りにさせようとし、そうならないから脅したり暴力を振るったりするのでしょう。
それは愛ではなく、単に執着です。依存です。所有欲に狂っているだけです。
特に女性の方は、目を見開いてほしいのです。
暴力を振るう男性は、あなたのことを愛していません。
どんなに甘い言葉をささやいたとしても、それは愛からではなく、エビで鯛を釣ろうという魂胆からです。
暴力を振るわなくても、暴言を吐いて脅したり、交換条件を出してくるなら同じことです。
愛は無条件ですから。無条件でなければ、その時点で愛ではないのです。
「本当の愛ではないとわかっている。でも、今の私には、あの人は大切な人なの。私が守ってあげなければ、あの人はもっとダメになってしまうから。」
そう言って、それでも耐える女性が少なからずいます。
自分の存在が、相手の助けになっていると信じているのでしょう。
つまり、相手は自分の助けを欲しているし、嬉しく思っていると考えているのです。
相手から必要とされることは、自分の存在感を高めてくれるので、とても気持ちよく感じます。
けれども、その感情に溺れると、相手に依存することになってしまいます。
暴力を振るわれても許してしまう女性は、たいていそうなっています。
つまり、相互依存の状態になっているのです。
その典型的な例は、小説「思いわずらうことなく愉しく生きよ」の長女でしょう。
相手の暴力を許すことは、愛ではありません。それは依存です。
自己肯定感を高めてくれる存在だから、相手に執着しているだけなのです。
このことから言えるのは、相手から本当に愛されるようになるためには、まず自分が自立する必要があります。
自分が自立するためには、自分の評価を高め、自己肯定感を持つことが大切です。
つまりそれは、自分自身を愛するということです。
自分を愛せなければ、他者を愛することはできません。
他者を愛することができないなら、他者からの愛を受け取ることができません。
そうやって自分で自分を愛のない状態に置いておきながら、無理に愛を求めようとするから執着するのです。
執着すれば、愛は逃げていくだけです。
こうして悪循環の泥沼に入ってしまうのです。
どこかで悪循環を断ち切らなければなりません。
変えられるのは自分だけです。
自分を変えるのは、自分しかありません。
他の誰かに頼っている限り、いつまでたっても変わりませんよ。
自分を変えるには、考え方を変えることです。
考え方を変えるには、見方(視点)を変えることです。
自分が幸せだと感じる見方を選択する。
そうすれば周りが愛で満ちていたことに気づくのです。
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