先週のことですが、会社の上司から怒られてしまいました。
私の言い方が癇に障るらしく、切れる寸前でした。
こういうことは、これまでにも何回かありました。
けれども今回は、私の存在そのものを否定されるようなことを言われたため、少し落ち込みました。
こんなことを正直にブログに書くのもどうかと思いましたが、あえて書こうと思います。
なぜなら、それが読まれた方の役に立つ、つまりメッセージになると思うからです。
そして私は、そういうメッセージを伝える者として生きたいと思っています。
それこそが、私らしい生き方なのだと。
私でも、気分が落ち込むことはあります。だってもともと、傷つきやすい人間ですから。
今回もそれで、いろいろなことを考えました。
まず、反論すること。
上司の言い分がいかに間違っているかを、論理的に説明することができます。
また、仕事の話をしているときにキレるなんて、責任者としての資質を疑うと言ってやることもできます。
けれども、そういうことは意味がないだけでなく、それをやっても本質的に私自身が喜べないことがわかっています。
受け入れてもらえなくて傷ついた私の心は、そんなことでは回復しないのです。
そういうことを知識(理論的に)としてわかっているので、私はそう考えることをやめました。
では、このモヤモヤした状況をどうすればよいのでしょうか?
そこで私は、1つの質問を自分に投げかけたのです。
「この出来事によって、私は何を得られるだろうか?」
出来事を幻想として俯瞰し、この出来事が私にもたらすメリットに、意識をフォーカスしようと思ったのです。
週末に、自宅でまた例の本を読み始めました。
もうすでに3回は読んでいます。
「神との対話」 、それをまた読み始めたのです。
すでに知っているはずの内容なのに、まったく色あせていません。
私は、3行読んでは考え、10行読んでは読み返すというように、そこに書かれている言葉の中の真実を読み取ろうとしたのです。
すると不思議なことに、出来事がどうでも良いことのように思えてきました。
私たちが悪と呼ぶものを非難するなと書かれています。
悪もまた、神の一部なのだと。
悪があるから善がある。相対的な世界とは、そういうものなのだと言うのです。
私は、出来事を受け入れようと思いました。
これは、私自身が選択する経験を変えるきっかけになるのだと。
また、相手から否定されたことによって、罪悪感を抱くことも拒否しようと思いました。
それは「悪いこと」ではなく、単に「上手く行かなかった」だけなのですから。
これまで、相手に合わせようとして、つい愚痴に同調してしまい、それがいつしか自分の習い性になっていたと気づきました。
私はこれを反省し、もう二度と愚痴を言わないと決めました。
そういうところで相手に同調することをやめようと思ったのです。
処世術的にはどうかと思われますが、相手からどう思われるかなんて、どうでも良いことです。
それより、自分が自分を見失ったら、より栄光のある体験をする機会をなくしてしまいます。
そんなことを考えていると、怒ってくれた上司への感謝の気持ちが湧いて来ました。
キレかけたということは、心がひどく傷ついたのです。
「苦しい、つらい、なんとかしてくれー!」
そういう叫びだったはずです。
そんな思いをしてまで、私に気づきを与えてくれたことに、感謝したくなったのです。
2012年10月01日
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