先週のことですが、会社の上司から怒られてしまいました。
私の言い方が癇に障るらしく、切れる寸前でした。
こういうことは、これまでにも何回かありました。
けれども今回は、私の存在そのものを否定されるようなことを言われたため、少し落ち込みました。
こんなことを正直にブログに書くのもどうかと思いましたが、あえて書こうと思います。
なぜなら、それが読まれた方の役に立つ、つまりメッセージになると思うからです。
そして私は、そういうメッセージを伝える者として生きたいと思っています。
それこそが、私らしい生き方なのだと。
私でも、気分が落ち込むことはあります。だってもともと、傷つきやすい人間ですから。
今回もそれで、いろいろなことを考えました。
まず、反論すること。
上司の言い分がいかに間違っているかを、論理的に説明することができます。
また、仕事の話をしているときにキレるなんて、責任者としての資質を疑うと言ってやることもできます。
けれども、そういうことは意味がないだけでなく、それをやっても本質的に私自身が喜べないことがわかっています。
受け入れてもらえなくて傷ついた私の心は、そんなことでは回復しないのです。
そういうことを知識(理論的に)としてわかっているので、私はそう考えることをやめました。
では、このモヤモヤした状況をどうすればよいのでしょうか?
そこで私は、1つの質問を自分に投げかけたのです。
「この出来事によって、私は何を得られるだろうか?」
出来事を幻想として俯瞰し、この出来事が私にもたらすメリットに、意識をフォーカスしようと思ったのです。
週末に、自宅でまた例の本を読み始めました。
もうすでに3回は読んでいます。
「神との対話」 、それをまた読み始めたのです。
すでに知っているはずの内容なのに、まったく色あせていません。
私は、3行読んでは考え、10行読んでは読み返すというように、そこに書かれている言葉の中の真実を読み取ろうとしたのです。
すると不思議なことに、出来事がどうでも良いことのように思えてきました。
私たちが悪と呼ぶものを非難するなと書かれています。
悪もまた、神の一部なのだと。
悪があるから善がある。相対的な世界とは、そういうものなのだと言うのです。
私は、出来事を受け入れようと思いました。
これは、私自身が選択する経験を変えるきっかけになるのだと。
また、相手から否定されたことによって、罪悪感を抱くことも拒否しようと思いました。
それは「悪いこと」ではなく、単に「上手く行かなかった」だけなのですから。
これまで、相手に合わせようとして、つい愚痴に同調してしまい、それがいつしか自分の習い性になっていたと気づきました。
私はこれを反省し、もう二度と愚痴を言わないと決めました。
そういうところで相手に同調することをやめようと思ったのです。
処世術的にはどうかと思われますが、相手からどう思われるかなんて、どうでも良いことです。
それより、自分が自分を見失ったら、より栄光のある体験をする機会をなくしてしまいます。
そんなことを考えていると、怒ってくれた上司への感謝の気持ちが湧いて来ました。
キレかけたということは、心がひどく傷ついたのです。
「苦しい、つらい、なんとかしてくれー!」
そういう叫びだったはずです。
そんな思いをしてまで、私に気づきを与えてくれたことに、感謝したくなったのです。
2012年10月01日
2012年10月02日
ワクワクすることをやる
昨年の6月に出版セミナー箱根合宿に参加 してから、起業というものを真剣に考えるようになりました。
それは、今の会社を辞めた後でも、収入を得られるようにしたかったからです。
今の会社には、特に定年というものはありません。ですが、自分で56歳までには退職しようと決めていました。
56歳なんて中途半端だと思われるでしょうね。これには理由があります。
実はそれを決めたのが2007年で、10年後の2017年には会社を辞めようと思ったのです。
2017年の誕生日には56歳になるので、それで56歳の誕生日で退職しようと思ったのです。
しかし、ただ会社を辞めても収入がなくなるので、生活することができません。
なので辞めた後でも食べていけるよう、いろいろと収入を得る方法を考えていました。
一応、パソコンやネットに関しては得意な方だったので、まずはネットで稼ぐことを考えました。
アフィリエイトを始めたのも、2007年からです。
しかし、収入の柱になるほど稼げるわけでもないし、また、やっていてそんなに情熱がわかないのです。
昨年の箱根合宿セミナーは、特に出版がしたくて参加したわけではありません。
メンターでもある吉江勝さん にお会いしたかったからです。
しかし、そのセミナーに参加することによって、起業というものを現実に意識するようになりました。
そしてその後も、オンラインの起業セミナーなどに参加し、ずっと起業について勉強してきました。
その結果、わかったことがあります。
それは、「自分がワクワクすることをやろう」と言うことです。
流行りだからとか、稼げそうだからという理由で何かをやろうとしても、長続きしなかったり、上手くいかないことが多いからです。
それよりも本当にワクワクすることだったら、たとえ障害があったとしても、それを乗り越えて行けます。
そこで私にとってワクワクすることを探していました。
しかし、「これかな?」と思ってやってみても、やはり「何か違うな」という気持ちになります。
FXとか不動産投資なども考えましたが、どうも情熱がわきません。
そんな状況が続いていたのですが、そんなときに昨日書いた「上司に怒られました」 という出来事がありました。
それもきっかけとなって、もう一度「神との対話」 を読み始めたのです。
すると、すごく楽しいのです。
読んでいると何だかウキウキしてくるし、これがやりたいんだという気持ちになりました。
私のワクワクすることって、ひょっとしたらこういうことだったのではないか。そう感じました。
「それなら、しょうがない。これをやろうか。」
そう思いましたよ。
それは何かというと、メッセンジャーです。
神からのメッセージ、この世の真実、そういったものを人々に伝えること。
それが私が、もっともやりたいことなのだと思いました。
「それで食っていけるの?」
そう、そこなのです。
「霞を食って生きていくわけにはいかないでしょう。」
昔、父親からもそんなことを言われた記憶があります。
生きていけるかどうかわかりませんが、逆に、それを実証するチャンスとも言えるわけです。
「またバカなことを考えて...。」
しょうがありません。そういう人間ですから。
もう50歳も超えたし、どこで野垂れ死んでも悔いはありません。
最後にやりたいことをやって人生を終えるなら、それは本望というヤツではないでしょうか。
もちろん、生活するために何か仕事をするかもしれませんが、ライフワークとして、メッセンジャーになろうと思うのです。
何がどう変わるということもありませんが、ただ純粋に伝えたいことをメッセージとして、発信していこうと思います。
それがどんな突飛で受け入れがたいと思われるようなことであっても、自分に正直に、言葉にしたいと思うのです。
それは、今の会社を辞めた後でも、収入を得られるようにしたかったからです。
今の会社には、特に定年というものはありません。ですが、自分で56歳までには退職しようと決めていました。
56歳なんて中途半端だと思われるでしょうね。これには理由があります。
実はそれを決めたのが2007年で、10年後の2017年には会社を辞めようと思ったのです。
2017年の誕生日には56歳になるので、それで56歳の誕生日で退職しようと思ったのです。
しかし、ただ会社を辞めても収入がなくなるので、生活することができません。
なので辞めた後でも食べていけるよう、いろいろと収入を得る方法を考えていました。
一応、パソコンやネットに関しては得意な方だったので、まずはネットで稼ぐことを考えました。
アフィリエイトを始めたのも、2007年からです。
しかし、収入の柱になるほど稼げるわけでもないし、また、やっていてそんなに情熱がわかないのです。
昨年の箱根合宿セミナーは、特に出版がしたくて参加したわけではありません。
メンターでもある吉江勝さん にお会いしたかったからです。
しかし、そのセミナーに参加することによって、起業というものを現実に意識するようになりました。
そしてその後も、オンラインの起業セミナーなどに参加し、ずっと起業について勉強してきました。
その結果、わかったことがあります。
それは、「自分がワクワクすることをやろう」と言うことです。
流行りだからとか、稼げそうだからという理由で何かをやろうとしても、長続きしなかったり、上手くいかないことが多いからです。
それよりも本当にワクワクすることだったら、たとえ障害があったとしても、それを乗り越えて行けます。
そこで私にとってワクワクすることを探していました。
しかし、「これかな?」と思ってやってみても、やはり「何か違うな」という気持ちになります。
FXとか不動産投資なども考えましたが、どうも情熱がわきません。
そんな状況が続いていたのですが、そんなときに昨日書いた「上司に怒られました」 という出来事がありました。
それもきっかけとなって、もう一度「神との対話」 を読み始めたのです。
すると、すごく楽しいのです。
読んでいると何だかウキウキしてくるし、これがやりたいんだという気持ちになりました。
私のワクワクすることって、ひょっとしたらこういうことだったのではないか。そう感じました。
「それなら、しょうがない。これをやろうか。」
そう思いましたよ。
それは何かというと、メッセンジャーです。
神からのメッセージ、この世の真実、そういったものを人々に伝えること。
それが私が、もっともやりたいことなのだと思いました。
「それで食っていけるの?」
そう、そこなのです。
「霞を食って生きていくわけにはいかないでしょう。」
昔、父親からもそんなことを言われた記憶があります。
生きていけるかどうかわかりませんが、逆に、それを実証するチャンスとも言えるわけです。
「またバカなことを考えて...。」
しょうがありません。そういう人間ですから。
もう50歳も超えたし、どこで野垂れ死んでも悔いはありません。
最後にやりたいことをやって人生を終えるなら、それは本望というヤツではないでしょうか。
もちろん、生活するために何か仕事をするかもしれませんが、ライフワークとして、メッセンジャーになろうと思うのです。
何がどう変わるということもありませんが、ただ純粋に伝えたいことをメッセージとして、発信していこうと思います。
それがどんな突飛で受け入れがたいと思われるようなことであっても、自分に正直に、言葉にしたいと思うのです。
2012年10月03日
人間関係の目的が何か知ってますか?
今朝もいつものように、出勤までの時間に読書をして過ごしました。
ここ数日は、主に「神との対話」 を読んでいます。
その中で、また「これはすごいなあ」と感動したことがありましたので、シェアしたいと思います。
それは人間関係の目的について書かれていた部分です。
線を引きながら読んだところ(p163〜p169)から、少し引用しますね。
(人間関係で幸せな関係を築く方法は、)自分が考え出した目的ではなく、本来の目的のために関係を活用することだ。
人間関係の(本来の)目的は、自分自身のどの部分を「明らかに」したいかを決定することであって、相手のどんな部分を把握し、つかまえておきたいかを決めることではない。
人間関係の目的はひとつしかない。(中略)ほんとうの自分は何者であるかを決め、ほんとうの自分になること、それである。
このように、本来の目的に合うように人間関係を活用することが重要だと言います。
そしてその本来の目的というのは、本当の自分になることだと。
これについて、さらに詳しく説明してあります。
ほかの人間や場所、出来事との関係を通じてのみ、あなたは(個性のある実体として、他と区別しうる何者かとして)宇宙に存在できる。他がなければ、あなたも無だということを覚えておきなさい。
(私たちは)起こった出来事に左右されるだけの人間であることもできるし、出来事に対してどうありたいか、何をするかという決断を通じて、どんな人間になるかを選ぶこともできる。
(だから)すべての関係をうれしいもの、特別なもの、自分を創りあげる経験としてとらえなさい。そして、いま、どうありたいかを選びなさい。
人間関係というとき、特に重要だと感じるのがパートナーとの関係です。
男女の関係を維持することは、離婚率が50%という現代、とても難しいことのように思われています。
これについては、以下のように説明しています。
「人間関係が失敗し、変化してしまうのは、最初にその関係を結んだ理由では関係を続けられなくなったときである」
ほとんどのひとは、相手との関係で何を与えられるだろうかと考えるのではなく、何が得られるだろうかと考えて、関係を結ぶ。
つまり、最初に関係を結んだ理由が間違っているため、関係を維持できなくなるということです。
具体的に説明していますが、引用すると散漫になるので、要点を以下のようにまとめました。
まず多くの人は、相手からの愛情を求めて相手を愛するという間違いを犯している、と言います。
つまり、関係を結ぶ理由は、相手の愛情が欲しいからであって、その取引材料として自分の愛情を提供しようとしている、ということです。
こういう人は、仮に他者から愛されても、それが本当に自分を愛したいからだとは信じません。
あまりに無条件に愛される(本来の愛はそういうものですが)と、「自分をあやつろうとしているのだ」と疑ったりします。
そして相手を信じられないから、「愛情を証明しろ」と迫ることになるのです。
私もそうでしたが、わざと嫌われるようなことをして、「それでも本当に愛してくれるの?」と相手を試すのです。
あるいは、ちょっとしたことで自分の思い通りにならないと、「ほら、やっぱり本当は愛してないからだろう!」と言って怒り、ひねくれるのです。
そのために相手は、自分とは違う(=自分らしくない)ふるまいを強要されることになります。
こうして仮に、やっと相手の愛情を信じることができたとしても、すぐさま今度は、その愛情がいつまで続くかと不安になります。
そこで相手の愛情をつなぎとめるために、本当の自分とは違うふるまいを自分に強いることになります。
相手に依存し、相手に気に入られる自分であろうとするのです。
アッシー君とかメッシー君と呼ばれる人種に私もなっていたことがありましたが、まさにこういう状態ですね。
このように間違った人間関係を結んでしまうことで、2人とも自分を失うことになってしまいます。
そして、より小さなものになってしまうため、魂はその状態に耐えられなくなるのです。
こうして、2人の人間関係は破綻し、失敗に終わるという筋書きです。
だから、正しい人間関係を結ぶことだと説明します。
人間関係の試練は、相手があなたの思いにどこまで応えてくれるか、自分が相手の思いにどこまで応えられるかにある、と思いこむ誤解だ。
しかし、真の試練とは、あなたがあなた自身への思いにどこまで応えられるか、ということなのだ。
人間関係が神聖なのは、最も気高い自分をとらえて実現する経験ができる、つまり自分を創造する最大の機会ーーそれどころか、唯一の機会ーーを与えてくれるからだ。
人間関係では、それぞれが他者について心をわずらわせるのではなく、ただただ自分について心をくだくべきだ。
大事なのは、その(人間)関係の中であなたが何者であるかだけである。
(だから)最も愛情深い人間とは、最も自己中心的な人間だ。
自分を愛していなければ、相手を愛することはできない。
人間関係においては、自己本位で良いと言います。良いどころか、むしろ積極的にそうすべきだと。
つまり、その状況をあるがままに受けとめ、その限定された環境の中で、どういう自分であるか(=どう考えるのか)を決めること。
その判断基準は、どういう自分でありたいと自分が思っているか、ということだけだと言うのです。
そういう自己創造のために人間関係はあるし、そのために活用すべきなのです。
もし人間関係がこういうものだとしたら、どうなるでしょうか?
少なくとも相手がどうあるべきだという気持ちはなくなりますよね。
究極は、相手を選ぶ必要性がなくなります。
このことについては、以下のように書いてあります。
ほんとうの自分を充分に経験するためなら、特別の相手を必要としない。
つまり、相手は誰でも良い、ということです。
もしそう思えたら、相手を嫌うということがあるでしょうか?相手に不満を言ったり、文句を言うことがあるでしょうか?
バリ島の大富豪、兄貴について書かれたクロイワ・ショウさんの本、「出稼げば大富豪」にとても心に残るエピソードがありました。
それは、クロイワ氏と兄貴がレストランで食事をしたとき、クロイワ氏の注文した料理だけがなかなか出て来なかったのです。
それに対して店の人にクレームを言ったところ、兄貴は自ら厨房に入り、その料理を作ってクロイワ氏に出したのです。
「どうや?この方がさわやかやろう?」
これを読んだ時、私は意味が理解できませんでした。
けれども、今ははっきりとその意味がわかります。
斎藤一人さんにも、そういうエピソードがあって、「変な人が書いた驚くほどツイてる話」の中に書かれていました。
お弟子さんの舛岡はなえさんが喫茶店をやってたとき、斉藤さんが来られたそうです。
そのとき舛岡さんは、斉藤さんの高価なカシミアのコートに、お汁粉をこぼしてしまったのだとか。
けれども斉藤さんは、「いいんだよ、そんなこと。それ、自分が頼んだんだから」と言って、クリーニング代も受け取らないばかりか、コーヒー代も支払ったのだそうです。
どうしてそんなことができたのでしょうか?
金持ちだから、「そんなはした金はどうでもよい」と思ったからでしょうか?
私は違うと思います。今なら、そうではないと確信できます。
お二人とも、その出来事の中で最高の自分であろうとしたのです。
最高の自分とは何か?自分らしい自分とは何か?
常にそのことに意識をフォーカスさせていれば、出来事とか相手にとらわれずに済むと思うのです。
ここ数日は、主に「神との対話」 を読んでいます。
その中で、また「これはすごいなあ」と感動したことがありましたので、シェアしたいと思います。
それは人間関係の目的について書かれていた部分です。
線を引きながら読んだところ(p163〜p169)から、少し引用しますね。
(人間関係で幸せな関係を築く方法は、)自分が考え出した目的ではなく、本来の目的のために関係を活用することだ。
人間関係の(本来の)目的は、自分自身のどの部分を「明らかに」したいかを決定することであって、相手のどんな部分を把握し、つかまえておきたいかを決めることではない。
人間関係の目的はひとつしかない。(中略)ほんとうの自分は何者であるかを決め、ほんとうの自分になること、それである。
このように、本来の目的に合うように人間関係を活用することが重要だと言います。
そしてその本来の目的というのは、本当の自分になることだと。
これについて、さらに詳しく説明してあります。
ほかの人間や場所、出来事との関係を通じてのみ、あなたは(個性のある実体として、他と区別しうる何者かとして)宇宙に存在できる。他がなければ、あなたも無だということを覚えておきなさい。
(私たちは)起こった出来事に左右されるだけの人間であることもできるし、出来事に対してどうありたいか、何をするかという決断を通じて、どんな人間になるかを選ぶこともできる。
(だから)すべての関係をうれしいもの、特別なもの、自分を創りあげる経験としてとらえなさい。そして、いま、どうありたいかを選びなさい。
人間関係というとき、特に重要だと感じるのがパートナーとの関係です。
男女の関係を維持することは、離婚率が50%という現代、とても難しいことのように思われています。
これについては、以下のように説明しています。
「人間関係が失敗し、変化してしまうのは、最初にその関係を結んだ理由では関係を続けられなくなったときである」
ほとんどのひとは、相手との関係で何を与えられるだろうかと考えるのではなく、何が得られるだろうかと考えて、関係を結ぶ。
つまり、最初に関係を結んだ理由が間違っているため、関係を維持できなくなるということです。
具体的に説明していますが、引用すると散漫になるので、要点を以下のようにまとめました。
まず多くの人は、相手からの愛情を求めて相手を愛するという間違いを犯している、と言います。
つまり、関係を結ぶ理由は、相手の愛情が欲しいからであって、その取引材料として自分の愛情を提供しようとしている、ということです。
こういう人は、仮に他者から愛されても、それが本当に自分を愛したいからだとは信じません。
あまりに無条件に愛される(本来の愛はそういうものですが)と、「自分をあやつろうとしているのだ」と疑ったりします。
そして相手を信じられないから、「愛情を証明しろ」と迫ることになるのです。
私もそうでしたが、わざと嫌われるようなことをして、「それでも本当に愛してくれるの?」と相手を試すのです。
あるいは、ちょっとしたことで自分の思い通りにならないと、「ほら、やっぱり本当は愛してないからだろう!」と言って怒り、ひねくれるのです。
そのために相手は、自分とは違う(=自分らしくない)ふるまいを強要されることになります。
こうして仮に、やっと相手の愛情を信じることができたとしても、すぐさま今度は、その愛情がいつまで続くかと不安になります。
そこで相手の愛情をつなぎとめるために、本当の自分とは違うふるまいを自分に強いることになります。
相手に依存し、相手に気に入られる自分であろうとするのです。
アッシー君とかメッシー君と呼ばれる人種に私もなっていたことがありましたが、まさにこういう状態ですね。
このように間違った人間関係を結んでしまうことで、2人とも自分を失うことになってしまいます。
そして、より小さなものになってしまうため、魂はその状態に耐えられなくなるのです。
こうして、2人の人間関係は破綻し、失敗に終わるという筋書きです。
だから、正しい人間関係を結ぶことだと説明します。
人間関係の試練は、相手があなたの思いにどこまで応えてくれるか、自分が相手の思いにどこまで応えられるかにある、と思いこむ誤解だ。
しかし、真の試練とは、あなたがあなた自身への思いにどこまで応えられるか、ということなのだ。
人間関係が神聖なのは、最も気高い自分をとらえて実現する経験ができる、つまり自分を創造する最大の機会ーーそれどころか、唯一の機会ーーを与えてくれるからだ。
人間関係では、それぞれが他者について心をわずらわせるのではなく、ただただ自分について心をくだくべきだ。
大事なのは、その(人間)関係の中であなたが何者であるかだけである。
(だから)最も愛情深い人間とは、最も自己中心的な人間だ。
自分を愛していなければ、相手を愛することはできない。
人間関係においては、自己本位で良いと言います。良いどころか、むしろ積極的にそうすべきだと。
つまり、その状況をあるがままに受けとめ、その限定された環境の中で、どういう自分であるか(=どう考えるのか)を決めること。
その判断基準は、どういう自分でありたいと自分が思っているか、ということだけだと言うのです。
そういう自己創造のために人間関係はあるし、そのために活用すべきなのです。
もし人間関係がこういうものだとしたら、どうなるでしょうか?
少なくとも相手がどうあるべきだという気持ちはなくなりますよね。
究極は、相手を選ぶ必要性がなくなります。
このことについては、以下のように書いてあります。
ほんとうの自分を充分に経験するためなら、特別の相手を必要としない。
つまり、相手は誰でも良い、ということです。
もしそう思えたら、相手を嫌うということがあるでしょうか?相手に不満を言ったり、文句を言うことがあるでしょうか?
バリ島の大富豪、兄貴について書かれたクロイワ・ショウさんの本、「出稼げば大富豪」にとても心に残るエピソードがありました。
それは、クロイワ氏と兄貴がレストランで食事をしたとき、クロイワ氏の注文した料理だけがなかなか出て来なかったのです。
それに対して店の人にクレームを言ったところ、兄貴は自ら厨房に入り、その料理を作ってクロイワ氏に出したのです。
「どうや?この方がさわやかやろう?」
これを読んだ時、私は意味が理解できませんでした。
けれども、今ははっきりとその意味がわかります。
斎藤一人さんにも、そういうエピソードがあって、「変な人が書いた驚くほどツイてる話」の中に書かれていました。
お弟子さんの舛岡はなえさんが喫茶店をやってたとき、斉藤さんが来られたそうです。
そのとき舛岡さんは、斉藤さんの高価なカシミアのコートに、お汁粉をこぼしてしまったのだとか。
けれども斉藤さんは、「いいんだよ、そんなこと。それ、自分が頼んだんだから」と言って、クリーニング代も受け取らないばかりか、コーヒー代も支払ったのだそうです。
どうしてそんなことができたのでしょうか?
金持ちだから、「そんなはした金はどうでもよい」と思ったからでしょうか?
私は違うと思います。今なら、そうではないと確信できます。
お二人とも、その出来事の中で最高の自分であろうとしたのです。
最高の自分とは何か?自分らしい自分とは何か?
常にそのことに意識をフォーカスさせていれば、出来事とか相手にとらわれずに済むと思うのです。
2012年10月04日
またしてもスられました
私は、本当に警戒心がないと言うか、ドジと言うか、我ながら呆れてしまいます。
昨夜、またカバンからスられてしまいました。
6月に記事に書いた ように、一度システム手帳をスられています。
これで2回目ですが、携帯電話をスられたこともあるので、タイに来て約11年で3回スられたことになります。
私のカバンは、こんなカバンです。
それが昨夜気がつくと、こんなふうになってました。
ファスナーが完全にオープン状態になってました。
こうなるまで気が付かなかったことが不思議ですが、昨夜、それほど警戒してなかったのには理由があるのです。
それは、雨が降っていたからです。
カバンから折り畳み傘を取り出し、カバーをカバンにしまって、ファスナーを閉じました。
それから、たすき掛けにしたカバンを背中に回し、傘を差して、けっこう速足で歩いたのです。
途中、2〜3組の人を追い越したでしょうか。
約10分ほどでアパートの1Fに到着し、カバンを見たら、写真のように全開になってたのです。
唖然としましたよ。しばらく放心状態です。
そして被害を調べたら...やられました。
入れたはずのアレがなくなってたのです。
そう、確かに入れたはずの傘のカバーがないのです。
おそらくカバンに手を突っ込み、ひかかったから放り出したのでしょう。
財布も入っていたのですが、前回スられたシステム手帳の代わりのノートが目隠しとなって、見えなかったのでしょうね。
助かりました。(やっぱりツイてる?)
それにしても、見事な犯行です。
あれだけ速足で歩いているのに、確実にファスナーを開けながら、私にまったく気づかせないとは。
いえ、実は途中で不審な感じがあったのです。
それは、あれだけ速足だったのに、私を追い越そうとしているような人の気配を感じたのです。
「へぇー、私より速く歩く人がいるんだ。」
前から人が来た時に私の斜め後方に来たので、そのタイミングじゃ追い越せないと思いました。
でも、すれ違った後で追い越されるかと思ったら、まったく追い越さないのです。
「なにやってるんだろう。さっさと追い越せばいいのに。」
100mくらいは、後ろに気配を感じていたでしょうか。
気がついたときは、どこへ消えたのか、姿が見えなくなっていました。
今にして思えば。カップルの後ろを歩いていた若者2人が怪しかったのです。
少し遅かったから、私がその2人を追い越し、カップルの後ろにつけました。
しばらくしてカップルはホテルの方へ入ったのですが、その間、後ろから話し声が聞こえていました。
私を追い越そうとする人の気配を感じたのは、カップルが消えてから50mほどの地点です。
そのときは、私が追い越した若者2人ではなく、後ろから追いついた別の人だと思っていました。
本当はどうなのかわかりませんが、今にして思えば、あの2人は最初からカップルを狙っていたのかもしれません。
以前スられたときは、オフィスビルのエスカレーターで立っているタイミングか、階段を降りるときが怪しいと思ったのです。
けれども、今回のことではっきりしました。
歩いている時でも簡単にスられる。
みなさんも、気をつけましょうね。
私も、カバンを背中に回すのはやめました。(^_^;)
今回の経験は、私にもっと警戒心を持つことを教えてくれました。
そして、他の方々へ注意を喚起する材料にもなりました。
ありがたいことです。
昨夜、またカバンからスられてしまいました。
6月に記事に書いた ように、一度システム手帳をスられています。
これで2回目ですが、携帯電話をスられたこともあるので、タイに来て約11年で3回スられたことになります。
私のカバンは、こんなカバンです。
それが昨夜気がつくと、こんなふうになってました。
ファスナーが完全にオープン状態になってました。
こうなるまで気が付かなかったことが不思議ですが、昨夜、それほど警戒してなかったのには理由があるのです。
それは、雨が降っていたからです。
カバンから折り畳み傘を取り出し、カバーをカバンにしまって、ファスナーを閉じました。
それから、たすき掛けにしたカバンを背中に回し、傘を差して、けっこう速足で歩いたのです。
途中、2〜3組の人を追い越したでしょうか。
約10分ほどでアパートの1Fに到着し、カバンを見たら、写真のように全開になってたのです。
唖然としましたよ。しばらく放心状態です。
そして被害を調べたら...やられました。
入れたはずのアレがなくなってたのです。
そう、確かに入れたはずの傘のカバーがないのです。
おそらくカバンに手を突っ込み、ひかかったから放り出したのでしょう。
財布も入っていたのですが、前回スられたシステム手帳の代わりのノートが目隠しとなって、見えなかったのでしょうね。
助かりました。(やっぱりツイてる?)
それにしても、見事な犯行です。
あれだけ速足で歩いているのに、確実にファスナーを開けながら、私にまったく気づかせないとは。
いえ、実は途中で不審な感じがあったのです。
それは、あれだけ速足だったのに、私を追い越そうとしているような人の気配を感じたのです。
「へぇー、私より速く歩く人がいるんだ。」
前から人が来た時に私の斜め後方に来たので、そのタイミングじゃ追い越せないと思いました。
でも、すれ違った後で追い越されるかと思ったら、まったく追い越さないのです。
「なにやってるんだろう。さっさと追い越せばいいのに。」
100mくらいは、後ろに気配を感じていたでしょうか。
気がついたときは、どこへ消えたのか、姿が見えなくなっていました。
今にして思えば。カップルの後ろを歩いていた若者2人が怪しかったのです。
少し遅かったから、私がその2人を追い越し、カップルの後ろにつけました。
しばらくしてカップルはホテルの方へ入ったのですが、その間、後ろから話し声が聞こえていました。
私を追い越そうとする人の気配を感じたのは、カップルが消えてから50mほどの地点です。
そのときは、私が追い越した若者2人ではなく、後ろから追いついた別の人だと思っていました。
本当はどうなのかわかりませんが、今にして思えば、あの2人は最初からカップルを狙っていたのかもしれません。
以前スられたときは、オフィスビルのエスカレーターで立っているタイミングか、階段を降りるときが怪しいと思ったのです。
けれども、今回のことではっきりしました。
歩いている時でも簡単にスられる。
みなさんも、気をつけましょうね。
私も、カバンを背中に回すのはやめました。(^_^;)
今回の経験は、私にもっと警戒心を持つことを教えてくれました。
そして、他の方々へ注意を喚起する材料にもなりました。
ありがたいことです。
2012年10月05日
ブログを完全に引越ししました
約1ヶ月ほど前から、ブログを引越ししていました。
本日、すべての過去記事を引越しし終えましたので、お知らせします。
今後は、こちらのSeesaaブログにのみ、新しい記事を掲載していきます。
Amebloもしばらくは残しておきますが、新たな記事は載せません。
今後ともどうぞ、よろしくお願いします。
本日、すべての過去記事を引越しし終えましたので、お知らせします。
今後は、こちらのSeesaaブログにのみ、新しい記事を掲載していきます。
Amebloもしばらくは残しておきますが、新たな記事は載せません。
今後ともどうぞ、よろしくお願いします。
2012年10月06日
この1冊だけあればいいと思う本を読む
以前の記事にも書いた通り、数日前から「神との対話」を読んでいます。
これでおそらく4回目、5回目、あるいはもっとかもしれません。
それだけ何度も読んだにも関わらず、読むたびに気づきがあります。
今回は線を引きながらの精読です。
もうこんなにボロボロになっているし、この際、中も汚れてもいいかなって思ったのです。
約290ページの本ですが、今朝、268ページまで読みました。
もうあと少しなので、今日か明日には読み終えそうです。
ここまで読んできて思ったのは、「自己啓発本ならこの1冊だけ読めば充分だ」ということです。
私はこれまで、ノウハウコレクターとも言えるほど、たくさんの知識を本などで得てきました。
たしかにどれもこれも「すごいなー!」と思わせるような内容がありました。
そう思っていたのにも関わらず、やはりこの「神との対話」を読むと、「これだけで充分だ」と思えるのです。
実は以前もそう思い、「神との対話」シリーズ以外の本は、タイに来る前にすべて処分したのです。
繰り返し読むのは、この本だけで充分だと思ったのです。
そして今回も、また同じ結論を得ました。
なぜそう思うかと言うと、他の本に書かれていることが、すべて網羅されているからです。
たとえば「引き寄せの法則」という本がありますが、この本に書かれているのは、要は思ったことが実現するという内容です。
では、どうしてそうなっていると気づかないのか?
そのことに対する解説が、本の主要な部分になります。
こういう内容は、「神との対話」にも書かれています。
そして、それ以上のことが書かれています。
それは、「なぜそうなのか?」ということについてです。
潜在意識の働きについて書かれたジョセフ・マーフィーの本もありますが、「なぜそうなのか?」については書かれていません。
その他の本も、だいたいそうです。
前提として「そうなっている」というところからスタートするのです。
もちろん、この本に書かれていることはすべて真実だから、信じなさいというつもりはありません。
それはこの本の中にも、そう書かれています。
誰かの考えを押し付けられたり、あるいは誰かの考えを鵜呑みにして自分のものだと思いこむことは、私たちが行なってきた間違いなのですから。
自分の魂の声、つまり感情をしっかりと味わうようにと、この本では勧めています。
感情を味わい尽くさないと、次の段階には進めないのだからと。
そして、常に自己中心的であれと言います。
自分の人生において重要なのは、自分がどう感じたかということなのだからと。
他者がどう感じるかは、他者に任せておけば良いのです。
仮に他人がある出来事によって怒った場合でも、そのことに責任を感じる必要はないということです。
そうではなく、他人が怒ったという出来事に対して、自分がどう感じ、どういう自分であることが良いと考えるのか、ということが大切なのだと。
似ているようで、実はまったく違う対応なのです。
何度も何度も読みながら、頭の中になかなか入っていなかった部分です。
いえ、少しは私も変わってきたと思うのですが、改めて読むと、まだまだだなあと思うのです。
でも、悲観はしません。それどころか、楽しんでいます。
より大きな自分を体験すること。それが魂の目的なのですから。
なお、だからと言って他の本を読むのは不要だとか、意味がないということではありません。
たくさんの言葉で語られていることを知ることは、自分の考え方を形成する上で有効だと思いますから。
これでおそらく4回目、5回目、あるいはもっとかもしれません。
それだけ何度も読んだにも関わらず、読むたびに気づきがあります。
今回は線を引きながらの精読です。
もうこんなにボロボロになっているし、この際、中も汚れてもいいかなって思ったのです。
約290ページの本ですが、今朝、268ページまで読みました。
もうあと少しなので、今日か明日には読み終えそうです。
ここまで読んできて思ったのは、「自己啓発本ならこの1冊だけ読めば充分だ」ということです。
私はこれまで、ノウハウコレクターとも言えるほど、たくさんの知識を本などで得てきました。
たしかにどれもこれも「すごいなー!」と思わせるような内容がありました。
そう思っていたのにも関わらず、やはりこの「神との対話」を読むと、「これだけで充分だ」と思えるのです。
実は以前もそう思い、「神との対話」シリーズ以外の本は、タイに来る前にすべて処分したのです。
繰り返し読むのは、この本だけで充分だと思ったのです。
そして今回も、また同じ結論を得ました。
なぜそう思うかと言うと、他の本に書かれていることが、すべて網羅されているからです。
たとえば「引き寄せの法則」という本がありますが、この本に書かれているのは、要は思ったことが実現するという内容です。
では、どうしてそうなっていると気づかないのか?
そのことに対する解説が、本の主要な部分になります。
こういう内容は、「神との対話」にも書かれています。
そして、それ以上のことが書かれています。
それは、「なぜそうなのか?」ということについてです。
潜在意識の働きについて書かれたジョセフ・マーフィーの本もありますが、「なぜそうなのか?」については書かれていません。
その他の本も、だいたいそうです。
前提として「そうなっている」というところからスタートするのです。
もちろん、この本に書かれていることはすべて真実だから、信じなさいというつもりはありません。
それはこの本の中にも、そう書かれています。
誰かの考えを押し付けられたり、あるいは誰かの考えを鵜呑みにして自分のものだと思いこむことは、私たちが行なってきた間違いなのですから。
自分の魂の声、つまり感情をしっかりと味わうようにと、この本では勧めています。
感情を味わい尽くさないと、次の段階には進めないのだからと。
そして、常に自己中心的であれと言います。
自分の人生において重要なのは、自分がどう感じたかということなのだからと。
他者がどう感じるかは、他者に任せておけば良いのです。
仮に他人がある出来事によって怒った場合でも、そのことに責任を感じる必要はないということです。
そうではなく、他人が怒ったという出来事に対して、自分がどう感じ、どういう自分であることが良いと考えるのか、ということが大切なのだと。
似ているようで、実はまったく違う対応なのです。
何度も何度も読みながら、頭の中になかなか入っていなかった部分です。
いえ、少しは私も変わってきたと思うのですが、改めて読むと、まだまだだなあと思うのです。
でも、悲観はしません。それどころか、楽しんでいます。
より大きな自分を体験すること。それが魂の目的なのですから。
なお、だからと言って他の本を読むのは不要だとか、意味がないということではありません。
たくさんの言葉で語られていることを知ることは、自分の考え方を形成する上で有効だと思いますから。
2012年10月08日
ベランダの住人に退去していただきました
昨日の日曜日は特に予定がなかったので、読書と買い物、そしてあるものを作って過ごしました。
そのあるものを作る材料がこれです。
突っ張り棒が4本、釣り糸が数十m、ビニール紐、S字状のプラスチック器具、輪ゴム、クラフトテープ、ペットボトル。
これで、かねてから退去命令を出していたベランダの住人に、強制退去を迫ります。
つまり、「鳩避け」を作ったのです。
準備も入れると約2時間で、こんなものができました。
ベランダの両サイドに突っ張り棒を立てて支柱にし、その間を釣り糸でつないでいます。
こうすることで、ベランダの手すりに鳩がとまるのを防ぐのです。
鳩は警戒心が強く、まずは手すりに止まって様子を確認し、それからベランダの中に降りてきます。
なので、手すりにとまらせないということが、鳩を近寄らせないポイントになるのです。
作り方のポイントを説明しましょう。
手すりの高さが約1mだったので、それより上に20cmくらい高くなるように突っ張り棒の長さを調整しました。
突っ張り棒はベランダの手すりの内側に設置するほうが何かの時に安全なのですが、外から来る鳩をとまらせないという目的のために、手すりの外側に設置しました。
そのため、落下防止を考えて、ビニール紐で3ヶ所を厳重に縛り付けました。
あとは釣り糸を渡すだけなのですが、どうしても緩んでしまいがちです。その対策として、輪ゴムを間にはめることにしました。
S字状の器具は、長さを調整するときや、輪ゴムを交換するときに簡単にできるようにするためのものです。
私は布団を干すことはありませんが、これがあれば渡した糸を外して、布団を干すことも可能です。
釣りをされる方なら、スナップサルカンを使われるとよいと思います。
片側のポールに糸を縛り付け(図1)、適当な長さに伸ばして、先端に輪を作ります。
そのとき、長さを調整できる結び方(図1と同様だが締め付けないで輪を残す)にしておきます。
釣りの時のように強烈なテンションがかかるわけではないので、ぐるっと輪にして糸の途中に結わえ付け、輪の大きさが自由に変えられるような縛り方です。
輪の大きさを変えることで、全体の長さを調整することができます。
その輪と輪ゴムをつなぎ(図2)、輪ゴムとS字状器具をつなぎます。これは、輪と輪を結ぶ方法です。
反対側のポールには、長さが40cm弱くらいの糸で輪を作っておいたものを、同様の結び方(図3)でひっかけます。
釣り糸で輪を作る場合も、結び方は同じ(図1)です。ただ、両端の糸を同様に結ぶ必要があります。そうすれば引っ張った時、双方の結び目がひかかって抜けなくなるのです。
その輪にS字状器具を引っ掛け、糸の長さを調整して適度にゴムが伸びた状態にしておきます。
これを、ベランダの手すりから高さ5cmくらいと15cmくらいのところに2本設置します。
また、ベランダの手すりの下部の隙間を塞ぐように、もう1本設置します。
これを設置したところ、鳩がやってこなくなりました。
少なくとも一時的には効果がありそうです。
今朝、どこかで鳩の鳴き声が聞こえたので、もしやと思ってベランダに出たら、どうやら隣のベランダにとまっているようでした。
なお、ペットボトルは、半分くらい水を入れて、鳩が巣を作りそうな場所を埋めておきました。
また、エアコン室外機の上にも乗せ、ペットボトルの間に釣り糸を張り、落ちないようにクラフトテープでとめておきました。
これで鳩がやって来なくなるといいのですけどね。
そうしないと、妻がヒステリックになってしまうので。
この日もベランダの掃除をやって、たいそうご機嫌ななめでした。
まあ、鳩に苦しめられるのもこの日までになるでしょう。
また妻の明るい笑顔が見られます。ありがたいことです。
そのあるものを作る材料がこれです。
突っ張り棒が4本、釣り糸が数十m、ビニール紐、S字状のプラスチック器具、輪ゴム、クラフトテープ、ペットボトル。
これで、かねてから退去命令を出していたベランダの住人に、強制退去を迫ります。
つまり、「鳩避け」を作ったのです。
準備も入れると約2時間で、こんなものができました。
ベランダの両サイドに突っ張り棒を立てて支柱にし、その間を釣り糸でつないでいます。
こうすることで、ベランダの手すりに鳩がとまるのを防ぐのです。
鳩は警戒心が強く、まずは手すりに止まって様子を確認し、それからベランダの中に降りてきます。
なので、手すりにとまらせないということが、鳩を近寄らせないポイントになるのです。
作り方のポイントを説明しましょう。
手すりの高さが約1mだったので、それより上に20cmくらい高くなるように突っ張り棒の長さを調整しました。
突っ張り棒はベランダの手すりの内側に設置するほうが何かの時に安全なのですが、外から来る鳩をとまらせないという目的のために、手すりの外側に設置しました。
そのため、落下防止を考えて、ビニール紐で3ヶ所を厳重に縛り付けました。
あとは釣り糸を渡すだけなのですが、どうしても緩んでしまいがちです。その対策として、輪ゴムを間にはめることにしました。
S字状の器具は、長さを調整するときや、輪ゴムを交換するときに簡単にできるようにするためのものです。
私は布団を干すことはありませんが、これがあれば渡した糸を外して、布団を干すことも可能です。
釣りをされる方なら、スナップサルカンを使われるとよいと思います。
フジワラ 磯波止&チヌ用品フジワラ ワンダーI 専用スナップサルカン M ブラック |
片側のポールに糸を縛り付け(図1)、適当な長さに伸ばして、先端に輪を作ります。
そのとき、長さを調整できる結び方(図1と同様だが締め付けないで輪を残す)にしておきます。
釣りの時のように強烈なテンションがかかるわけではないので、ぐるっと輪にして糸の途中に結わえ付け、輪の大きさが自由に変えられるような縛り方です。
輪の大きさを変えることで、全体の長さを調整することができます。
その輪と輪ゴムをつなぎ(図2)、輪ゴムとS字状器具をつなぎます。これは、輪と輪を結ぶ方法です。
反対側のポールには、長さが40cm弱くらいの糸で輪を作っておいたものを、同様の結び方(図3)でひっかけます。
釣り糸で輪を作る場合も、結び方は同じ(図1)です。ただ、両端の糸を同様に結ぶ必要があります。そうすれば引っ張った時、双方の結び目がひかかって抜けなくなるのです。
その輪にS字状器具を引っ掛け、糸の長さを調整して適度にゴムが伸びた状態にしておきます。
これを、ベランダの手すりから高さ5cmくらいと15cmくらいのところに2本設置します。
また、ベランダの手すりの下部の隙間を塞ぐように、もう1本設置します。
これを設置したところ、鳩がやってこなくなりました。
少なくとも一時的には効果がありそうです。
今朝、どこかで鳩の鳴き声が聞こえたので、もしやと思ってベランダに出たら、どうやら隣のベランダにとまっているようでした。
なお、ペットボトルは、半分くらい水を入れて、鳩が巣を作りそうな場所を埋めておきました。
また、エアコン室外機の上にも乗せ、ペットボトルの間に釣り糸を張り、落ちないようにクラフトテープでとめておきました。
これで鳩がやって来なくなるといいのですけどね。
そうしないと、妻がヒステリックになってしまうので。
この日もベランダの掃除をやって、たいそうご機嫌ななめでした。
まあ、鳩に苦しめられるのもこの日までになるでしょう。
また妻の明るい笑顔が見られます。ありがたいことです。
2012年10月09日
目覚めて生きる
数日前から読み始めた「神との対話」は、すでに読み終えました。
約300ページもあるというのに、あっと言う間に読めてしまいます。
3行読んでは本を置いてじっくりとその内容を味わい、10行読んでは数行読み返すというような、線を引きながらの精読です。
それなのにこれだけ速く読めたのは、集中していたこともあるでしょうけど、やはり多くの時間をそのために使ったということでしょう。
そしてすでに、「神との対話A」を読み始めています。
こちらも330ページもある分厚い本ですが、すでに3分の1を読み終えたところです。
ここまで読んで私は、やはりこの本に書かれているような、「目覚めて生きる」という生き方をすべきだと思いました。
この本の素晴らしさをお伝えして、読んでもらいたいと思いますが、いくら私がそう言っても、おそらく誰も信じないでしょう。
それよりも、私がそれにしたがって生き、その素晴らしさを実証するなら、その方が伝わりやすいと思うのです。
今までももちろん、そういう生き方を選択してきたつもりですが、これからは今まで以上に、意識して選択したいと思うのです。
たとえば、「すべての出来事はチャンスだ」と言われます。
漠然とそう思っていても、何も変わらないでしょう。
「すべて」ということは、嬉しい出来事だけでなく、嫌な出来事も含まれるということです。
むしろ嫌な出来事の時ほど重要です。
上司から怒られた時、妻から否定された時、大事にしているものを盗まれた時、駅のホームで誰かからこづかれた時、愛しい人からフラれた時など。
そういう出来事はすべて、より大きい自分を経験するために、自分が引き寄せたと考えるのです。
そうすれば、すべての出来事は必然で無駄がないだけでなく、すばらしい贈り物(プレゼント)になります。
その贈り物をどう受け取るかは、自分の精神が決めることです。
それは、出来事にどんな意味を与えるかということ。つまり、どんな見方を選択するかということです。
その選んだ考え方によって、その出来事を共感(愛)として、あるいは分離(不安)として体験します。
もちろん私は、すべての出来事を共感として、他との一体として体験したい。
だから、そういう考え方を選択しようと思います。
そのためには、まずは出来事を良いこと(自分にとって役立つこと)として受け止めることが重要です。
その出来事が起きた状況を是として、その上でどうするのが自分らしいかと考えます。
「こんな出来事が起こらなければ良かったのに」と考えていたら、その出来事を受け止めることができません。
状況(出来事)とか他人を変えようとするのではなく、まずそのまま受け止める。
そしてそれを前提として、自分の在り方を決めるのです。
今までの私は、たいていは反応しているだけの生き方でした。
出来事に翻弄されていただけなのです。
けれどこれからは、目覚めて、意識的に、生き方を選択したいと思います。
約300ページもあるというのに、あっと言う間に読めてしまいます。
3行読んでは本を置いてじっくりとその内容を味わい、10行読んでは数行読み返すというような、線を引きながらの精読です。
それなのにこれだけ速く読めたのは、集中していたこともあるでしょうけど、やはり多くの時間をそのために使ったということでしょう。
そしてすでに、「神との対話A」を読み始めています。
こちらも330ページもある分厚い本ですが、すでに3分の1を読み終えたところです。
ここまで読んで私は、やはりこの本に書かれているような、「目覚めて生きる」という生き方をすべきだと思いました。
この本の素晴らしさをお伝えして、読んでもらいたいと思いますが、いくら私がそう言っても、おそらく誰も信じないでしょう。
それよりも、私がそれにしたがって生き、その素晴らしさを実証するなら、その方が伝わりやすいと思うのです。
今までももちろん、そういう生き方を選択してきたつもりですが、これからは今まで以上に、意識して選択したいと思うのです。
たとえば、「すべての出来事はチャンスだ」と言われます。
漠然とそう思っていても、何も変わらないでしょう。
「すべて」ということは、嬉しい出来事だけでなく、嫌な出来事も含まれるということです。
むしろ嫌な出来事の時ほど重要です。
上司から怒られた時、妻から否定された時、大事にしているものを盗まれた時、駅のホームで誰かからこづかれた時、愛しい人からフラれた時など。
そういう出来事はすべて、より大きい自分を経験するために、自分が引き寄せたと考えるのです。
そうすれば、すべての出来事は必然で無駄がないだけでなく、すばらしい贈り物(プレゼント)になります。
その贈り物をどう受け取るかは、自分の精神が決めることです。
それは、出来事にどんな意味を与えるかということ。つまり、どんな見方を選択するかということです。
その選んだ考え方によって、その出来事を共感(愛)として、あるいは分離(不安)として体験します。
もちろん私は、すべての出来事を共感として、他との一体として体験したい。
だから、そういう考え方を選択しようと思います。
そのためには、まずは出来事を良いこと(自分にとって役立つこと)として受け止めることが重要です。
その出来事が起きた状況を是として、その上でどうするのが自分らしいかと考えます。
「こんな出来事が起こらなければ良かったのに」と考えていたら、その出来事を受け止めることができません。
状況(出来事)とか他人を変えようとするのではなく、まずそのまま受け止める。
そしてそれを前提として、自分の在り方を決めるのです。
今までの私は、たいていは反応しているだけの生き方でした。
出来事に翻弄されていただけなのです。
けれどこれからは、目覚めて、意識的に、生き方を選択したいと思います。
2012年10月10日
1週間ほどお休みします
明日の夜、バンコクを出発して一時帰国します。
約1週間ほど、お休みをいただきました。
その間、ブログの更新をしませんので、ご容赦ください。
今回もまた、妻と一緒に帰省します。
ちょうど田舎で秋祭りがあって、石見神楽が奉納されます。
私は、神楽が大好きなのです。
特にこの写真のように、鬼が出てくるのが好きですね。
弓八幡(ゆみはちまん)、塵輪(じんりん)、天神(てんじん)、鍾馗(しょうき)など。
古事記などに基づいた物語を舞にした演目が多いようです。
たとえば岩戸(いわと)というのは、天照太御神(あまてらすおおみかみ)が天の岩戸にお隠れになったというお話。
このとき神々は、岩戸の外で宴会をやったのです。
女性の神がベリーダンスのような淫猥な踊りをして、それを見ている男の神々が囃し立てるという、実に人間味のあることをします。
その騒がしさに天照太御神も気になって、岩戸を少しだけ開けて、外の様子を伺ったのです。
そのとき、待ってましたとばかりに手力雄命(たじからおのみこと)が岩戸を開けて、天照大御神を引っ張りだすことができた、という結末です。
そういう物語を知って観ると、この神楽がまた一層面白くなりますね。
私も子どもの頃、この神楽を舞ったことがあります。
私の田舎では、「舞(まい)を舞う」と言いますけどね。
左側の美少年(?)が私です。
これは、神武(じんむ)という演目。
刀を持って派手にグルグルと回り、面をかぶっていない2人の鬼を退治します。
この写真のときは、まだ前半のゆっくりとした舞です。
このあと、肩のホックを外して衣装が早変わりし、それから鬼退治です。
長い間ずっと観ていなかったのです。
数年前に観る機会があったのですが、そのときはひどい風邪で熱が出てしまい、お宮まで行ったのですが、ほとんど観ずに帰ってしまいました。
今回は、最後の八岐の大蛇(やまたのおろち)まで観たいと思っています。
そのあとは日光方面へ行き、妻に日本の紅葉を見せてあげたいと思っています。
4月には福島へ行き、念願の雪を見せてあげることができました。
桜はもう3回目でしたが、それでも喜んでいました。
日本の自然が美しくて大好きだという妻を喜ばせてあげられると、なんだか私も嬉しくて、日本人として生まれて良かったなという気持ちになります。
旅の最後はスカイツリーです。
すでに東京タワーには登っているので、今度はできて間もないスカイツリーに登ろうと思います。
また、最終日には吉江勝さんにもお会いできることになりました。
4月にお会いしましたが、そのときはあまり話ができなかったので。
充実した1週間になりそうです。
こんな1週間を過ごせることを、私を支えてくれる多くの人、多くの生命に感謝します。
約1週間ほど、お休みをいただきました。
その間、ブログの更新をしませんので、ご容赦ください。
今回もまた、妻と一緒に帰省します。
ちょうど田舎で秋祭りがあって、石見神楽が奉納されます。
私は、神楽が大好きなのです。
特にこの写真のように、鬼が出てくるのが好きですね。
弓八幡(ゆみはちまん)、塵輪(じんりん)、天神(てんじん)、鍾馗(しょうき)など。
古事記などに基づいた物語を舞にした演目が多いようです。
たとえば岩戸(いわと)というのは、天照太御神(あまてらすおおみかみ)が天の岩戸にお隠れになったというお話。
このとき神々は、岩戸の外で宴会をやったのです。
女性の神がベリーダンスのような淫猥な踊りをして、それを見ている男の神々が囃し立てるという、実に人間味のあることをします。
その騒がしさに天照太御神も気になって、岩戸を少しだけ開けて、外の様子を伺ったのです。
そのとき、待ってましたとばかりに手力雄命(たじからおのみこと)が岩戸を開けて、天照大御神を引っ張りだすことができた、という結末です。
そういう物語を知って観ると、この神楽がまた一層面白くなりますね。
私も子どもの頃、この神楽を舞ったことがあります。
私の田舎では、「舞(まい)を舞う」と言いますけどね。
左側の美少年(?)が私です。
これは、神武(じんむ)という演目。
刀を持って派手にグルグルと回り、面をかぶっていない2人の鬼を退治します。
この写真のときは、まだ前半のゆっくりとした舞です。
このあと、肩のホックを外して衣装が早変わりし、それから鬼退治です。
長い間ずっと観ていなかったのです。
数年前に観る機会があったのですが、そのときはひどい風邪で熱が出てしまい、お宮まで行ったのですが、ほとんど観ずに帰ってしまいました。
今回は、最後の八岐の大蛇(やまたのおろち)まで観たいと思っています。
そのあとは日光方面へ行き、妻に日本の紅葉を見せてあげたいと思っています。
4月には福島へ行き、念願の雪を見せてあげることができました。
桜はもう3回目でしたが、それでも喜んでいました。
日本の自然が美しくて大好きだという妻を喜ばせてあげられると、なんだか私も嬉しくて、日本人として生まれて良かったなという気持ちになります。
旅の最後はスカイツリーです。
すでに東京タワーには登っているので、今度はできて間もないスカイツリーに登ろうと思います。
また、最終日には吉江勝さんにもお会いできることになりました。
4月にお会いしましたが、そのときはあまり話ができなかったので。
充実した1週間になりそうです。
こんな1週間を過ごせることを、私を支えてくれる多くの人、多くの生命に感謝します。
2012年10月19日
帰ってきました
日本から帰ってきました。
1週間という限られた時間の中で、様々な目的を果たそうと、計画を練りに練った帰省旅行でした。
思い通りにならないこともありましたが、まずまず当初の目的は達成できたのではと、満足しているところです。
まずは神楽ですが、予定通りに夜の11時から翌朝5時半まで、しっかりと見てきました。
どうです?この迫力。
鬼が3匹、神(しん)が3人の計6人で舞います。
演目は塵輪(じんりん)で、異国から数万の兵とともにやってきた鬼のことです。
黒雲に乗り、身体には翼があって、自由に飛び回れるという化物。それが塵輪です。
迎え撃つは仲哀天皇。弓をもって鬼たちを退治したという物語です。
私が子どもの頃に舞った神武も見ました。
懐かしい!私が着た衣装を、まだ使っていましたよ。
写真右側の神(しん)が赤い衣装を着ていますが、これは肩のホックを外したところ。
外す前は青色の衣装なのです。
なんと30年以上も、大事に使ってたのですね。
ただ残念だったのは、演目が少なくなったこと。
天神もなかったし、とりわけ最後の八岐の大蛇(やまたのおろち)がないのが残念でした。
父の話では、邪胴(じゃどう)が壊れたためのようです。
和紙と竹で作る蛇胴は、乱暴に扱われるので壊れやすいのでしょうね。
そして作るのも大変ですから、けっこうな値がするのでしょう。(いくらか知りませんけど。)
蛇の舞を見られないのも残念ですが、このままだとこの演目が永久になくなってしまいそうで、そのことが残念に感じられました。
特殊な舞ですから、舞手がいなくなると、誰も舞えなくなるからです。
なんとか復活してほしいものです。
その後、日光へ行って、紅葉を見てきました。
と言っても実際はかなり暖かく、華厳の滝などはまだ紅葉が始まったばかりです。
きれいな虹の美しさと、かなりの水量の迫力には圧倒されましたけどね。
竜頭の滝は紅葉が見頃とのことでしたが、地元の人は、もうあと1週間くらいと言ってましたね。
そのあとは戦場ヶ原を通って奥日光へ。
湯滝を見ようと思ったのですが、道を間違えてそのまま湯ノ湖へ行ってしまい、しょうがないからボートに乗って遊びました。(笑)
こちらも、部分的に紅葉しているものの、全体的にはもうちょっとという感じでした。
それなら仕方がないと、足を伸ばして那須高原へ。
茶臼岳のロープウェイ乗り場まで行きましたよ。
さすがにここは、見事な紅葉でした。
ただ風が強く、軽装だったので山頂までは行きませんでした。
東京に戻る頃は雨模様でしたが、それでも東京スカイツリーに登ってきました。
8時のオープンに合わせて行くと、ほとんど待たずに登れました。
ただ、ソラマチはまだオープンしてなくて、入口を探すのに苦労しました。
もっとデカデカと、「スカイツリーに登る人はここから入ってください」と書いてくれないかなあ。
その後、浅草を観光し、吉江勝さんともお会いして、今回の旅が終わりました。
いつものように、妻とも喧嘩しかけたり、いろいろなことがありました。
でも、振り返ってみると、充実した楽しい1週間だったと思います。
1週間という限られた時間の中で、様々な目的を果たそうと、計画を練りに練った帰省旅行でした。
思い通りにならないこともありましたが、まずまず当初の目的は達成できたのではと、満足しているところです。
まずは神楽ですが、予定通りに夜の11時から翌朝5時半まで、しっかりと見てきました。
どうです?この迫力。
鬼が3匹、神(しん)が3人の計6人で舞います。
演目は塵輪(じんりん)で、異国から数万の兵とともにやってきた鬼のことです。
黒雲に乗り、身体には翼があって、自由に飛び回れるという化物。それが塵輪です。
迎え撃つは仲哀天皇。弓をもって鬼たちを退治したという物語です。
私が子どもの頃に舞った神武も見ました。
懐かしい!私が着た衣装を、まだ使っていましたよ。
写真右側の神(しん)が赤い衣装を着ていますが、これは肩のホックを外したところ。
外す前は青色の衣装なのです。
なんと30年以上も、大事に使ってたのですね。
ただ残念だったのは、演目が少なくなったこと。
天神もなかったし、とりわけ最後の八岐の大蛇(やまたのおろち)がないのが残念でした。
父の話では、邪胴(じゃどう)が壊れたためのようです。
和紙と竹で作る蛇胴は、乱暴に扱われるので壊れやすいのでしょうね。
そして作るのも大変ですから、けっこうな値がするのでしょう。(いくらか知りませんけど。)
蛇の舞を見られないのも残念ですが、このままだとこの演目が永久になくなってしまいそうで、そのことが残念に感じられました。
特殊な舞ですから、舞手がいなくなると、誰も舞えなくなるからです。
なんとか復活してほしいものです。
その後、日光へ行って、紅葉を見てきました。
と言っても実際はかなり暖かく、華厳の滝などはまだ紅葉が始まったばかりです。
きれいな虹の美しさと、かなりの水量の迫力には圧倒されましたけどね。
竜頭の滝は紅葉が見頃とのことでしたが、地元の人は、もうあと1週間くらいと言ってましたね。
そのあとは戦場ヶ原を通って奥日光へ。
湯滝を見ようと思ったのですが、道を間違えてそのまま湯ノ湖へ行ってしまい、しょうがないからボートに乗って遊びました。(笑)
こちらも、部分的に紅葉しているものの、全体的にはもうちょっとという感じでした。
それなら仕方がないと、足を伸ばして那須高原へ。
茶臼岳のロープウェイ乗り場まで行きましたよ。
さすがにここは、見事な紅葉でした。
ただ風が強く、軽装だったので山頂までは行きませんでした。
東京に戻る頃は雨模様でしたが、それでも東京スカイツリーに登ってきました。
8時のオープンに合わせて行くと、ほとんど待たずに登れました。
ただ、ソラマチはまだオープンしてなくて、入口を探すのに苦労しました。
もっとデカデカと、「スカイツリーに登る人はここから入ってください」と書いてくれないかなあ。
その後、浅草を観光し、吉江勝さんともお会いして、今回の旅が終わりました。
いつものように、妻とも喧嘩しかけたり、いろいろなことがありました。
でも、振り返ってみると、充実した楽しい1週間だったと思います。
●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。