2012年08月24日

何度も同じ問題にぶつかるものです

人生というのは、何度も同じ問題にぶつかるようにできているようです。

あなたも、そういう体験をしたことはありませんか?



今、私は、タイでソフトボールをやっています。

年に2回、3月と11月に大会を開催し、だいたい8チーム、総勢約100名ほどが集まって、1日ソフトボールを楽しみます。

幸せ実践塾−傷つきやすい、内気、自信がない、を幸せ体質に改善します。-ソフトボール大会

今年の3月に第10回大会を行ったので、ちょうど5年間続けたことになります。

私は今、あるチームの代表を務めると共に、この大会の主催者の一員にもなっています。

ひざの調子が悪いこともあって、選手として参加するのではなく、裏方として大会運営を支えているのです。



元々、タイでソフトボールをやるつもりはありませんでした。

たしかに野球が好きで、東京で働いていたときは、大田区の河川敷で草野球をやっていました。

けれどもタイに来てからは、ゴルフを始めたこともあり、他のことをやろうとは思わなかったのです。


しかし、どうしてもやらざるを得ないように、環境が整ってしまうのです。

これはもはや、運命としか言いようがありません。


また、ソフトボールをやるにしても、監督など代表者的なことはやりたくありませんでした。

適当に参加して、いい汗をかければそれでいい。そんな気持ちだったのです。

けれどもそれも、運命が許してくれませんでした。

気がついてみれば、いつのまにかチームの代表となり、大会の主催者に加わっていたのです。


そうなると、選手との両立が難しくなります。

やはり代表者となると、全体を見て、みんなが楽しめるように心配りをしなければなりません。

そのエネルギーたるや、やった人にしかわからないでしょうけど、相当なものがあるのです。

「少しはこっちの気持ちも考えてくれよ!」

そうブチ切れそうになったことも、何度かありました。



でも考えてみると、これは初めての経験ではなかったのです。

大田区の河川敷で草野球をやってたときも、チームに所属して何年かたったとき、監督に任命されたのです。

しぶしぶ引き受けたものの、どうにも気が進みません。

監督が先発や交代要員を決めるのですが、どうしても他の人を試合に出させてあげたいのです。

いえ、他の人を差し置いて自分が試合に出ることに、後ろめたさを感じるのです。

その結果、自分を犠牲にするようになりました。

けれどもそれが、どうにも割り切れず、だんだんと野球に行くのが億劫になってきました。


ちょうど仕事が忙しくなってきたのを理由に、私はだんだんと試合に参加しなくなりました。

監督なのに試合に行かない。そんな無責任な。そのことがまた、私を苦しめたのです。


それからしばらくして、タイに行く話が決まりました。

私は結局、チームメイトに顔を合わせることができませんでした。

責任を放棄して逃げ出すようにして、チームを去ったのです。



そしてタイに来ても、また同じ状況がやってきました。

選手として気楽にソフトボールに参加したいのに、運命は私にチーム代表になることを求めたのです。


そんなとき、膝がきしみだしました。

激痛が走り、歩くことも大変なほどになったのです。

ひざ痛は、時間とともに収まったものの、違和感が残りました。

私は、選手として活躍することを諦めたのです。



選手として参加することができなくなった代わりに、私には心の余裕が生まれました。

これなら全体を見ながら、他の人たちが楽しめるように裏方に徹することができる。

そう思ったのです。


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大会がないときは、月に2回ほど集まって、練習と練習試合をやっています。

私は最初のキャッチボールとトスバッティングには参加しますが、試合には出ません。

もっぱら審判をやって、みんなが楽しめるように考えています。


でも、これで良かったのだとも思えるのです。

最後はひざ痛という、よんどころない事情が生じたわけですが、きっとそうなってでも裏方に専念することが、私らしい生き方だったと思うのです。

運命はそれがわかっていて、私にそう仕向けたのでしょう。

なので今は、ひざ痛になったことも、ありがたいと思うのです。

なぜならそのお陰で、私は裏方という自分らしい生き方に専念できたのですから。


もうすぐ、11月に行われる第11回の大会の準備が始まります。

主催者による打ち合わせを、来週行うことになりました。

どこまで続けられるかわかりませんが、参加したみんなが楽しめる大会を、これからも続けたいと思うのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:17 | Comment(0) | ├ 私の生い立ち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月25日

性欲を抑える方法を知りたい人が多いようです

※この記事はアメブロで、「Amebaの健全なサイト運営にふさわしくない言葉・表現が含まれている可能性がある」という理由で閲覧禁止にされたものです。
私は、それを言論弾圧に等しいことだと感じたので、ブログを引っ越すことに決めたのです。




性欲を抑える方法の専門家、赤木です。

って、ウソですよ。冗談ですって。


私もアメブロの「アクセス解析」という機能を利用しています。

その中に、どういうキーワードで検索した人が、このブログに辿り着いたかを示すものがあります。

その検索キーワードを見てみると、「性欲を抑える」「性欲を抑える方法」など、性欲に関するものがけっこうあるのです。


私は幸せになる方法を指導する幸せ実践塾というイメージでこのブログを書いていますが、そういう幸せ関連のキーワードで検索されることは、意外と少ないですね。

まあ、それもまた運命でしょう。これもいいかなって思います。

実際、私が性欲に関する悩みを持ったことも事実ですし、幸せということを考える上で、そもそも人は性的な存在だということを否定するわけにもいきませんから。



ということで、今回は性欲に関することを書きます。

なお、もっと踏み込んだ内容を知りたいんだという方は、こちらの記事 をお読みください。重要なことが書いてありますので。



さて、先ほどのようなキーワードで検索する人は、何を悩んでいるのかを調べてみました。

同じキーワードで検索してみると、Yahoo!知恵蔵とか教えてgooなどのサイトが上位にありますね。

性欲が強くて受験勉強に集中できないとか、女性だけれども性欲が強くてどうしたら良いか、などという質問がありました。

こういうのを読むと、少しホッとします。だって、私だけが特別なのじゃないと思えるから。


それで解消方法なのですが、代表的なのは次の3つです。

1.気が済むまで自慰(オナニー)をすること。

2.運動(カラオケ)などでストレスを発散すること。

3.若いときはそれくらい強くて当然だと思うこと。


どれも一理あると思います。

特に3.は重要ですね。病的だと思い込んで、自分を責めてしまうのは、もっとも悪影響がありますから。

それくらいなら1.のように、やりたいだけやるのが一番です。

やり過ぎて病気になったり変形したりしないかですって?そんな人がもしいるなら、教えてほしいくらいです。



ただ、今の私から若いあなたに、ひとこと言いたいことがあります。

それはまず、性欲そのものは悪いことではなく、むしろ好ましいことだと知ってほしいということです。

だから、性欲の程度がどうとか言って、罪悪感を抱かないでほしい。


次に、性欲が悪く働く理由は、性欲そのものではなく、執着心だということに気づいてほしいということです。

考えてみればわかるように、人間の欲望そのものが、その人を害するわけではありません。

食欲だって、名誉欲だって、財産欲でも、持つことは悪ではないのです。

それに執着してしまうために、本当ならそんなことをしないはずの自分が、ついつい魔が差してやってしまうのです。


ですから、その執着心について、もっともっと深く考えてほしいのです。

もちろん仏教では、それを克服することを目指しています。

キリスト教では、それを原罪によるものとして、自分では消せないけれど神によって救われるとしています。

そのどれが正しいかではなく、どれもまた正しいのです。

それがわかるまで、深く深く掘り下げてほしい。

性欲で悩むということを、その動機としてほしいのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 20:01 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月26日

思いわずらうことなく愉しく生きよ



NHKのドラマ10で、「カレ、夫、男友達」というのをやっていました。

それを見て、とても面白いと思いました。


まず、NHKはお固いイメージがあるのに、こんな反道徳的な内容のドラマを堂々と放送したことです。

そして、主人公の3姉妹の中の、特に次女と三女の奔放な生き方が批判されるわけでもなく、むしろ微笑ましく感じられるように設定されていたからです。


そのドラマを見て面白かったので、原作を買って読んでみました。

それがこの本です。タイトルもイケてるでしょう?

私はこのタイトルを見て、これはもう買うしかないと思いましたよ。(笑)



読んでみると、多少ドラマと違いはあるものの、その示そうとした考え方が貫かれているように思いました。

ただ男の体がほしくて寝てしまう次女。

セックスがどんなものなのか知りたくて、浮浪者の男と関係を持つ三女。

三女はその後も、誰とでも寝る女になるのですが、悲壮感がありません。

寝る目的が相手の愛を得るためでなく、ただ求められたから与えるというものだったから。

長女は、DV被害にあっても夫を愛そうとします。

本当はただしがみついているだけのように見えますが、本人はそれが自分らしい生き方だと思おうとするのです。


三者三様と言いますが、この三姉妹もそれぞれ個性的です。

そして家訓である「思いわずらうことなく愉しく生きよ」という教えにしたがって、世間体とか常識にとらわれず、我が道を歩もうとします。

常識でガチガチになっている人は、ぜひこの本を読んで、こんな生き方もあるのだと知ってほしいと思いました。

幸せ実践塾−傷つきやすい、内気、自信がない、を幸せ体質に改善します。-思いわずらうことなく愉しく生きよ
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 21:14 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月29日

必要性をなくせば思い煩わずに済みます

「この世は一寸先は闇」などと申します。

特に今は、大企業のサラリーマンだからと言って、けして安泰ではありません。

いつリストラされるかもわからないし、大企業だって突然、倒産してしまうことだってあるのです。

それに、いつ病気になってしまうかわからないし、交通事故や自然災害に合うかもしれません。


「そんな普通は起こらないよ。」

そう安心していられますか?本当に?

今夜寝たら、明日の朝、目覚めるかどうかも保証されてないのですよ。



そう脅して、不安がらせることが目的ではありません。

でも事実、何の保証もない世界に生きていることを、改めて考えてほしいのです。

保険があれば安心ですか?それですべてが解決しますか?

私は別に保険屋の回し者でもないし、逆に保険を否定する者でもありません。

保険ではどうにもならないことがあることも、また現実なのです。


確率が低ければ安心なのでしょうか?

「滅多に起きないから大丈夫。」

それなら、どの程度の確率なら不安なのでしょう?だって、事故で死ぬときは、確率など関係なく100%なのです。



そういう世の中に生きながらも、先日紹介した本のように「思いわずらうことなく愉しく生きよ」と私は言いたいです。

なぜなら、本当に思いわずらう必要などないからです。


聖書に、こんなことが書かれています。有名な文ですが、マタイによる福音書の第6章25-30節 を引用しましょう。

それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分の体のことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。

空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養って下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。

あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。

また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。

しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花一つほどにも着飾ってはいなかった。

きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。




この部分は、私も大好きなところです。

鳥や花は、何もしないのに食べることができるし、着飾ることができています。

人は、それらよりもはるかに勝ったもの。ならば、どうして食べることや着ることに心を煩わせる必要があるのでしょうか?


「そうは言ってもねえ。世の中、そんなに甘くないよ。」

そう言いたい気持ちはわかります。私もそうでしたし、今でもそうやって不安になることがあります。


けれども、それは幻想を見ているからと考えることも可能です。

人生というものが、実は「ひとつのもの」が自分自身を体験的に知るためのものであるとしたら...。

もしそうなら、聖書に書かれたことは、あながちウソとも言えないのです。



オーストラリアの原住民のアボリジニは、あの広大な砂漠を食料も持たずに横断するのだそうです。

必要な物は神が与えてくださる。

そう信じて、旅にでるのです。

そして不思議なことに、行く先々で食料となる動物が現れ、それを捕獲して命をつなぐことができるのだとか。


思い切って飛び込んでみれば、案外、人生はスムーズに行くものかもしれない。

仮にそうでなかったとして、何か失うものがあるでしょうか?

所詮、裸一貫で生まれてきたのです。

死ぬときは何も持って行けないし、死はいつ訪れるかわからないのです。

生きるためにあれが必要、これが必要という執着する考え方を捨てることが、すべてを得るための近道かもしれないと思うのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 19:02 | Comment(0) | 実践内容 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月30日

お金で幸せは買えません

今日のニュースで、日本IBMの元社長という人が、盗撮容疑で取り調べを受けているとありました。

日本IBMと言えば、国内ではその存在を知らない人がいないと言えるほど、有名な大企業です。

そんな会社の社長にまでなり、最高顧問をしていた人が盗撮だなんて...。

どんな事情があったか知りませんが、おそらくその方の心は満たされていなかったのでしょう。


お金も十分にあり、社会的にも素晴らしい地位を手に入れたというのに。

盗撮という破廉恥な罪で捕まってしまうなんて、実に惜しいことです。



このように、いくら地位を登りつめ、お金を手に入れたとしても、幸せとは限らないと言うことです。

それは昔から言われていることですが、それでも「お金が手に入れば...」と思ってしまうようですね。

中には、「お金で買える幸せもある」と言う人もいます。

私は、そういう考え方をしているから、本当の意味で幸せになれないのだ、と思うのです。


「お金で買える幸せもある」と言う人は、そのお金で買えるモノに依存しています。

それが買えたから幸せで、買えなかったら幸せではないと考えるのです。

こういう考え方をする人は、「どこで幸せかどうかの線を引くのか?」という質問に答えられません。

いや、そのときは何らかの答を出したとしても、また状況が変わると、コロコロと答を変えるのです。


何かモノに依存する人は、必ず、それが手にはいらないことを心配します。

そして不安が心を支配するようになるのです。



幸せになるのに、お金なんて要りません。

今すぐ、その場で、幸せになるのです。

そうして手に入れた幸せは、何があっても失う心配がありません。

だって、根拠のない幸せですから。



実際にそんな幸せを手にした人が、いるはずないと思われてますか?

では、そんな生き方をしている人を紹介しましょう。


私の知り合いで、タイで活躍する女性ボーカリストの方がいます。

ガールズバンド15JAM(いちごじゃむ)のボーカルで、RUllyさんと言います。

その方がブログに「幸せのものさし☆」 という詩を書かれているのですが、これが素晴らしい。

この若さで、これだけ達観しているということに、私は驚きを隠せません。


こういう考え方ができる人だから思い切って海外に出て、失敗するとか成功するとか関係なしに、人生を楽しめるのだと思います。

そして、Rullyさんが輝いて生きているから、その魅力に引き寄せられて、多くの人が応援しています。

彼女のその魅力は、彼女の生き方、つまり人生に対峙する態度から生じているのだと思うのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 21:16 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月31日

幸せだなあと思うとき

今朝、起きてから着替えようとしたら、タンスに下着のシャツがありませんでした。

前日、これが最後の1枚だなと思いながら着たのです。

きっと妻が、その日のうちにたたんで入れておいてくれると思っていました。

けれども、その期待は裏切られました。


妻は、まだベッドで寝ています。

最近は、私が出かけるときも起きてきません。

こんなとき、みなさんだったら、どう思いますか?



「ずっと家にいるんだから、洗濯や掃除くらいきちんとやれよ!」

「朝くらい先に起きて、見送ってくれたっていいじゃないか!その後でまた寝られるんだから。」


以前の私なら、そう思ったかもしれません。

けれど私は、そういうような考え方をするのをやめたのです。

なぜなら、そう考えたところで何のメリットもないからです。



私は、こう思いました。

「ベランダに干してあるシャツを着ていけばいいんだ。ちゃんと間に合うように洗濯しておいてくれたんだから、ありがたいよな。」

「気持ちよさそうに寝ているな。もし朝から不平不満を言われたら、気分が悪くなるから、寝ていてくれるだけでありがたい。」


最後に靴下を履こうとしたら、それもタンスの中にありませんでした。

「あれっ、靴下も昨日が最後だったのか。ベランダに干してあるかなあ?」

ちょっと心配になりながら、ベランダの物干しを探しました。


ありましたよ。ちゃんと1足ずつ揃えて干してありました。

「ありがたいなあ。こうして揃えて干しておいてくれたから、探す手間がかからずに済んだよ。」



物干しから靴下を取り、履こうとして気が付きました。

靴下がちゃんと表になっているのです。

私は脱ぐときに洗濯のことを考えて、裏返しにして洗濯物入れに入れます。

そうした方が、洗濯中に生地の表側が傷みにくいので。

妻はそれを洗濯し、干すときにまた表に返していたのです。

「あー、そこまで気を使って干してくれてたんだね。ありがとう。」

妻への感謝の気持で、心がいっぱいになりました。


お陰で、タンスの中に着て行くシャツや靴下がなくても、出勤時刻に遅れることがありませんでした。

表に出ると、空はどんよりと曇っています。

「あー、今朝は曇っているから、暑くなくていいなあ。ありがたいことだ。」

こうしてまた、私の幸せな一日が始まったのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 19:04 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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