2012年08月15日

自由とは何ものにも束縛されないこと

私は、「自由」という価値観こそが、もっとも重要な価値観だと思っています。

おそらくそのことは、多くの人が認識しているのでしょう。

ですから、自由は基本的人権とされるのです。


しかし、「自由には責任が伴う」という人がいます。以前の私も、そう思っていました。

あるいは、「自由と自分勝手とは違う」という言い方もします。

いずれにせよ、ある一定の価値観に従うことが前提で、その上で自由が与えられるという考え方です。


でも今の私は、そうではないと思っています。

自由とは、文字通りに自由です。何ものにも束縛されないという意味です。自分の思い通りで良いということです。



そうすると、社会的には様々な問題が出てきます。そのことは私も、よくわかっています。

たとえば、「自由なら人を殺すのも自由なのか?」と極論をぶつけたくなる人もいるでしょう。

いいですねえ。極論は私の好むところです。なぜなら、問題の本質が浮かび上がるからです。


たしかに、この究極の問に答えることができなければ、本当に文字通りの自由で良いのだとは言えないでしょうね。

では、私の考えを言いましょう。

殺すのも自由です。


ただし、これはだからと言って、すぐに刑法を廃止して良いというような意味ではありません。

現実の社会として具体的にどうするかは、また別の問題です。

ここでは心の問題として話しているのだとご理解ください。



話を戻しましょう。

ではなぜ、殺すことが問題になるのでしょうか?

それは、殺す側の問題ではなく、殺される側を問題にしているからではないでしょうか?

すなわち、理不尽に命を奪われるのは、許されないことだと。


では、こういうことを想像してみてください。

もし、人は何をされても死なない存在だとしたら、それでも殺すことは問題でしょうか?

「何言ってるの?意味がわからないよ。」

そんな声が聞こえてきそうです。わかります。けれど、そんなこともあるかなあと想像してみてください。

もし、殺されることによって変化することはあっても、人の本質としての生命は死なないとしたら?

もし、人の本質としての生命(=魂)が同意しない限り、殺されることがないとしたら?


もちろん、そんなことがあると証明はできません。

でも逆に、そんなことがないという証明もできません。

ただ、もしすべてが「ひとつのもの」であるとしたら、それは十分にあり得るし、いえ、むしろそうでなければおかしいのです。

すべてが「ひとつのもの」なのに、互いが何の関連もなしにバラバラに動くはずがありませんから。


規則(価値観)に他人をしたがわせなければならないという考えは、怖れから生じています。

怖れとは不安のこと。つまり、愛の対極になります。

もし私たちの本質が愛であるなら、その対極(不安)に留まるということは、どう考えてもおかしなことです。



「そんなことを言っても、聖書にもちゃんと十戒と言って、モーセが神から受けた規則があるじゃないか!?」

そういうように聖書を持ち出されると、私としても反論が難しい。

けれどもあれは、後世の人が勝手に戒律と考えただけで、実はそうではないのかもしれませんよ。

そのことを示唆する内容が、「神との対話」 に書かれていました。


この考え方には、私は衝撃を受けました。一部を引用します。

「まず、あなたがきっと驚くこと、そして、多くのひとの感性を逆なでするような宣言から始めよう。十戒などというものはない。」(p.129)


全知全能ですべてである神が、どうして戒律を守れと命じる必要があるでしょうか?

何のために?それにもし、戒律が必要だと神が考えるなら、守られないようにするはずがありません。

守れと命じておいて、守られているかどうかを見守るなんて、そんな悪趣味なことを神がやらなければならない必要性が、どこにも存在しないのです。


では、あのモーセの十戒とはいったい何なのか?また一部を引用しましょう。

「わたしは自分の姿をかたどり、自分に似せてあなたがたを創造し−−祝福した。そして、あることを約束し、言質を与えた。前にも話したように、あなたがたがわたしとひとつになる時がきたときはどうなるか、という約束だ。」(p.130)


つまり、時が来た時、人は神とひとつであることを、自らを通じて知ることができるようになっている、と言うのです。

その印とは、それが十戒と呼ばれるものだと言います。

「神を愛せ」ではなく、そのときが来たら人は、「神を愛する」ようになる。

「殺すな」ではなく、そのときが来たら人は、「殺さない」ようになる。

「盗むな」ではなく、そのときが来たら人は、「盗まない」ようになる。

このように、そのときが来たなら人は、誰に命じられなくても神を愛し、他人の命や所有物や配偶者を盗もうとはしなくなるのだと。

その言質を神は、人に示したと言うのです。



殺してはいけないと言われるから、あるいは殺したら刑罰が与えられるから、あなたは殺さないのですか?

もしその規則がなくなったら、あなたは殺すのですか?盗むのですか?それがあなたらしいあなたなのですか?


問われているのは、そのことです。

自分という存在は、いったいどういう存在なのか?

その答を、宇宙は毎秒毎秒、注目し続けているのです。


極論を言うなら、選択肢は2つしかありません。

「愛」か、「愛でない(=不安,怖れ)」か?

私たちはそれを、自由に選択することができます。

自由に選択できるからこそ、私たちは愛を体験し、その素晴らしさを味わうことができるのです。

だから、完全な自由が重要だと思うのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:36 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

セックス・ヘルパーの尋常ならざる情熱



これはタイトルもちょっと衝撃的ですが、内容も実に衝撃的です。

東大出身の著者、坂爪慎吾さんが、性の問題に真正面から取り組んだ記録のような本です。


最初は、東大のゼミの研究テーマとして、インパクトのある性風俗に関するものをあげたところから始まります。

そして研究してみると、性に関して、社会的に実に貧弱であることがわかり、それを自分で変えようと奮闘することになるのです。


最初はもっとも受け入れられやすい、障害者の射精介助というところから入ります。

しかし、性の問題は障害者だけの問題ではなく、一般の人も同じだということで、性の公共を求めてホワイトハンズの活動を広めているのだそうです。


私は、必ずしも著者の考えに全面賛成するわけではありません。

しかし、性がタブーとされているがための弊害に関しては、同じように考えています。


障害者の性の問題に関しては、脳性麻痺を患いながらも障害者の自立支援活動をされている小山内美智子さんの著書を読んだことがあるので、そのときに考えさせられました。

考えてみれば、障害者だって性の欲求があってもおかしくはありません。

それをタブー視するために、障害者や老人介護の施設では、性の問題に耳をふさぎ、ないことにしてしまっているのです。

自分で性欲の処理され許されない社会が、本当に健常な社会といえるのか?

そのことを、よくよく考えてみる必要があると思うのです。


また、健常者にしても、何の予備知識もなしに大人にされてしまっています。

どうやってセックスするの?

そんなこと、親はもちろん、学校も教えてはくれません。

その空白地帯を埋めるように、興味本位のAV(アダルトビデオ)やエロ雑誌などがはびこっています。

そんな社会が、本当に健常な社会と言えるのでしょうか?

この問に、私たち大人が答えなければならないのです。


 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 23:07 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月16日

二度と戦争を起こさない覚悟とは

昨日は、終戦記念日でした。

第二次世界大戦で、日本が敗戦を認めた日です。

戦後生まれの私たちは、この日に、「二度と戦争をしません」という不戦の誓いをして、平和な世界を築く決意をしてきました。


幸いなことに日本は、それから戦禍に巻き込まれることがありませんでした。

しかし世界的に見ると、平和な期間などまったくありません。

規模の大小はあったとしても、世界のどこかで戦争や紛争が起きていたのです。


それを考えると、これまで日本が平和だったことが奇跡であり、それが継続する保証など、どこにもないことがわかります。

なぜなら日本においても、諸外国との紛争がなくならないからです。

紛争がある限り、必ず戦争の火種が残るのです。



日本の平和主義は、諸外国との間の紛争解決手段として、軍隊による戦闘を行わないということです。

けれども、自衛のための戦闘は放棄していないことになっています。

つまり、こちらから先制攻撃はしないけれど、他から攻撃されたなら、防御を目的として攻撃することはあるとしているのです。

その防衛を目的として、というところが曖昧です。

たとえば、日本に打ち込もうとミサイルの発射準備をしていたら、発射される前のミサイルを叩くのが簡単で効果が大きいです。

これも防衛と言えば防衛ですが、先制攻撃と言われれば先制攻撃にもなります。

みなさんは、これが平和主義と呼べるものだとお考えでしょうか?



ご存知のように第二次世界大戦終結までは、列強諸国によるぶん取り合戦が盛んに行われてきました。

日本も植民地化の脅威にさらされ、明治政府は富国強兵を推し進めました。

日本の国民や国土を守るため、強大な清国と戦い、強敵のロシアと戦い、列強の仲間入りを目指しました。

しかし、それまで弱小だった日本が台頭することは、他国にとっては脅威が増すことになります。

日本が強くなることを恐れた他国は、日本を締め付けようと不当な介入をしてきます。

もし日本がそれに甘んじれば、弱小国のまま、常に他国の脅威にさらされることになります。

日本は大陸に防衛ラインを築き、東南アジアにエネルギー資源を求めることで、その窮地から脱することを選択したのです。

それが大東亜戦争の目的です。

つまり日本にとっては自衛のための戦争。

列強諸国がぶん取り合戦などしていなければ、やらなくても済んだ戦争です。

それが第二次世界大戦へと発展し、最終的に日本は負けました。

負けた結果、一方的に悪者にされました。つまり、勝者側の価値観を押し付けられたのです。


もちろん上記は、日本の言い分です。

他国には他国の言い分があります。

だからこのように、互いに自衛を名目として、戦争を行なってきたのでしょう。



このことから言えるのは、紛争というものがある限り、必ず自衛の必要性が生じ、自衛の必要性がある限り、軍事力による戦闘の必要性が消えないということです。

だから日本は、いざという必要性のために、今でも軍事力を保持しています。

それを良いと考えるか悪いと考えるかは、人それぞれだと思います。それぞれの価値観があるでしょうから。

ただ言えることは、紛争がある限り戦争はなくならないということです。



そもそも、紛争とは何でしょうか?

それは価値観が違う者同士が、互いに自分の価値観が正しいとして譲らないことです。

自分の価値観を、どうしても相手に押し付けなければ気が済まない状態です。

これって、私たちが日常的にしていることだと思いませんか?


電車が遅れたと言って文句を言うサラリーマン、子どもが言うことを聞かないと言ってヒスを起こすお母さん、嫁が自分をないがしろにすると腹を立てるお姑さん、政府が無策だから就職ができないと叫ぶ若者。

みんな自分の価値観が正しく、相手が悪いと主張しています。

それはまさに、個人的なレベルでの紛争と言えるでしょう。

そういう考え方が、世の中に紛争を生み出し、最終的には国同士の戦争につながっていると思うのです。


もし、「引き寄せの法則」が正しいとするなら、まさにその通りになっていると言えなくもありません。

私たちの心に平安がないから、この世に平和が訪れないのです。


誰もがいきなり総理大臣になって、軍隊を操れるわけではありません。

けれども私たちは、自分の心を操ることはできます。

まず、自分自身の心を平和にしましょう。自分の心を天国にしましょう。

そうすれば、私たちの周りに平和がやってきます。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:29 | Comment(2) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月17日

経済は政治を超える

私は、国士舘大学で政経学部政治学科に所属し、国際政治学を中心に学びました。

国と国との平和な関係とか、共産主義や資本主義(自由主義)と言ったイデオロギーに興味があったからです。


3年と4年のときは国際政治のゼミを履修し、卒業論文は世界国家樹立の可能性について書きました。

内容はお粗末なものでしたが、アメリカ合衆国の成立を手本にしたものです。

国家であった各州が共通の理念のもとに結集し、国を超える全体像(連邦国家)に一部の権限を移譲しました。

そうすることで最高の主権を持つ国家が、それ以上の存在を作って従う関係になったことを、世界国家のモデルにしたものです。


そのころから、どうすれば世界は平和になるのかを考えてきました。

その結論が、経済の交流を進めることだったのです。



経済交流を進めると、当然、人の交流も進みます。

日常的に外国の人と交流するようになれば、それまでの価値観がガラリと変わります。


たとえば今、竹島の問題などで、韓国が嫌いになったと言う日本人が増えていると報道されました。

その個々の人たちは、どれだけ韓国と、あるいは韓国の人と、交流があるでしょうか?

おそらく、ほとんどないと思われます。

だから、他人ごとになれるのです。だから簡単に嫌いだと言えるのです。


たとえば、あなたに大好きなお兄さんがいたとしましょう。

そのお兄さんは韓国人の女性と結婚して、今は韓国で暮らしています。

それでも簡単に、「韓国が嫌いです」と言えるでしょうか?

おそらく言えないでしょう。


交流することによって、相手の事情を慮ることもできるようになります。

どれだけ親交があるかによって、される行為に対しても、起こる感情が違ってきます。

ですから、交流を深めることが、国家の垣根を超えることになるのです。



その点で、経済交流というのは非常に有効です。


そもそも第二次世界大戦が始まったのも、経済的なものが主な理由でした。

ABCD包囲網でエネルギー(石油や石炭)の輸入が難しくなったため、日本は独自の道を作ろうとしたのです。

それが戦争につながって行きました。

その反省があるために日本は、一部の国や地域、一部の資源に頼らないエネルギー政策を進めてきたのです。

戦争を回避して、健全に日本が発展するための方策を考えたのです。


国にとって、経済的な発展というのは、国民の生命とか最低限度の文化的生活を保証するためにも、最重要なことなのです。

もしその経済が、諸外国と深く結びついていたら、どうでしょうか?

その国を相手に戦争をすることは、自分で自分の首を絞めることになります。

ですから、滅多なことで戦争ができなくなります。


しかし、どちらかがどちらかに頼る関係ではダメです。

相互に補完し合う関係である必要があります。

それは、互いに互いを裏切れない関係にするためです。

両国は、運命共同体になるのです。



こういう関係ができると、両国の発展のためには、さらに経済交流を推し進めることが有効になります。

つまり、人、物、金という資源が、自由に行き来できる度合いを増やそうとする力が働きます。

ビザなしで入国できるとか、関税を撤廃するなど、どんどん垣根が低くなるのです。

そしてついには、国境がなくなる日が来るかもしれません。


島根県の住民が鳥取県の住民と領土を争わないのは、それがどちらに所属していても、個人にとってはどうでも良いからです。

個人にとって、どちらの県で手続きしようとも、大差がないからです。

このくらいに国と国との間の垣根が低くなれば、領土問題もどうでも良い問題になるはずです。



もちろん、これがすぐにできるなどとは言いません。

けれど、私たちがそれを進めなければ、子孫はその恩恵を受けません。

「一身の得喪(とくそう)は慮(おもんばか)るに足らず。子孫の得喪は慮る可し。」

言志録にある、私が好きな言葉 です。

たとえわずか一歩であっても、半歩であっても、私たちが推し進めなければならないのではないでしょうか。


恨みや憎しみは、とりあえず横に置きましょう。

「もし愛ならどうする?」

その問に答えることで、自分の生き方が見えてくるでしょう。

なぜなら私たちの本質は、間違いなく愛なのですから。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:14 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月18日

政治も経済も心の問題です

昨日は政治・経済がらみのお話、一昨日は戦争に関するお話と、心の問題とはかけ離れたように感じられる話をしてきました。

もちろん「幸せ」をテーマにしているので、その前提として経済的な安定だとか、政治的な自由の保障などが必要、という考え方もあるでしょう。

しかし私は、そういう意味で政治や経済のことを記事のテーマに取り上げたわけではありません。


私がそれらを取り上げた理由は、それが私たちの日常に関係していることだからです。

日常とは、常日ごろ、私たちが考えること。

その人が普段、何を考えるかによって、その人の人生が決まります。

ですから、普通の生活を送る私たちにとって重要な関心事は、このブログのテーマになるのです。



修行僧など、宗教者の多くは出家するなどして、世間一般から隔離された生活を送ります。

日常の雑事などに煩わされることなく、修行に専念するためです。

言い方を変えれば、日常の雑事を避けることによって、日頃考えることを理想的なことだけにしやすい環境を提供しているとも言えます。

つまり、出家者は「すごい」という言い方も可能だし、出家者は「ずるい」という言い方も可能なのだと思うのです。


どちらが正しいとか間違っているということではなく、理想的な考え方を日常的に行うためには、煩わされるような現実から離れるのが一番だと言えます。

それをするための理想は、宗教に敬意を払う社会、たとえばタイにおける仏教のような環境で出家することです。

衣食住に関して何の心配もせずに、修行三昧できるのですから、こんな素晴らしい環境はないでしょう。



けれども、そういう出家者たちも、在家の一般庶民がいてくれるお陰で、そういうことができます。

在家の私たちは、日常の雑事に心を砕きながら、出家者の生活を支えています。

ですから私は、むしろ在家の信者の方が、厳しい修行環境に置かれていると思うのです。


「私は別に仏教などの信者じゃないし、信仰も持ってないよ。」

おそらく日本人のほとんどは、そう思われるでしょうね。

でも、これは法則の話であって、どの宗教を信じるかという話ではありません。

人は考えることによって、その人自身の人生を創造している。

その法則を前にして、主体的に生きるか翻弄されて生きるかという選択肢はありますが、法則の外で生きるという選択肢はないのです。



私たちが日常的に生活する中では、経済の問題も政治の問題もあります。

そして多くの人は、その個々の出来事に翻弄されているように見えます。

出来事は、単に私たちが考え方を選択するためのきっかけに過ぎないのに、出来事にいちいち反応し、右往左往しています。

まるで波に揉まれて振り回されるように、考え方が一定しません。だから、人生をコントロールできないのです。


私が経済や政治に関して語る理由は1つです。

出来事や現象に翻弄されずに、その本質を見極められるようになってほしいから。

現象にとらわれると、自分が何を考えているかがわからなくなります。

そして知らず知らずに他を批判したりして、それらの犠牲者になってしまうのです。


この世に犠牲者は存在しません。

ただ、犠牲者になることを自分で決めた人がいるだけ。

でもそういう人は、自分が決めたことに気づいていません。

だからなかなかそこから脱却できずに、いつまでも苦しまなくてはならないのです。

こんなこっけいで、また切ないことがあるでしょうか?



自縄自縛の罠に陥らないためにも、しっかりと目を見開いておくことが重要です。

道を誤らないために役立つレーダーが、私たちには備わっているのですから、それを利用することです。

それが感情です。

良い感情は青信号。その考え方で良いと、魂が言っています。

悪い感情は赤信号。その考え方は自分らしくないよと、魂が警告を発しているのです。

自分の感情をごまかさずにしっかりと感じ、受け止める習慣を身につけることです。

そうすれば、いとも簡単に考え方をコントロールできるようになるでしょう。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:14 | Comment(0) | 幸せ実践塾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月19日

良い本を何度も読む習慣を身につける

斎藤一人さんの「変な人が書いた驚くほどツイてる話」を7回読むことに決め、それを継続しています。

昨日、5回目を読み終えました。


幸せ実践塾−傷つきやすい、内気、自信がない、を幸せ体質に改善します。-斎藤一人

4回目を読み終えたのが7月15日でしたから、1ヶ月ちょっとかかったことになります。

特に決めたわけではありませんが、一気に読まないようにしていたら、だいたい1ヶ月で読むような感じになっています。

このペースだと、10月には7回目を読み終えそうですね。


同じ本を7回読むことを意識して読むのは、私の人生でこれが初めてのことです。

これまでも、2回くらい読んだ本はけっこうあります。けれども、3回以上となると、数えるほどしかないでしょう。

その中に、「神との対話」のシリーズがあります。

それぞれがけっこう分厚い本で、全部で10冊くらいあると思いますが、少なくとも3回は読みました。

1冊目の「神との対話」は、5回くらい読んだでしょうか。


これ以外となると、吉川英治氏の小説「宮本武蔵」でしょうか。



これは最初の大学で引きこもり生活をしていたとき、先輩から勧められ、「そんなに気に入ったならあげる」と言われて、もらった文庫本です。

引きこもり中に3回は読みました。

武蔵は強くストイックに生きるのに、幼馴染の本位田又八は流されてしまう。

「私はまるで又八だなあ。本当は武蔵のように強く生きたいのに。」

そう思いながら、何度も読んだ本です。


そのときは、特に「○回読もう」などといった目標を立てたわけではありません。

他にすることもなかったし、その小説に惹き込まれてしまうので、8巻目を読み終えてしばらくすると、また1巻目を読み始めていたのです。


「神との対話」シリーズは、シリーズの最後(と言われていますが)の本を読み終えてから、ふとまた最初の本を読みたくなったのです。

それを読み終えると、その次の本をというようにして、2回目を読み終えました。

その途中で、これは継続して読み続けたいと思うようになり、家にいて時間があれば、少しずつ読むようにしました。

そうやって、3回目を読み終えたのです。


その習慣があったので、斎藤一人さんの本を7回読むと決めた時に、実にスムーズに実行できたのだと思います。

人生に無駄なことはありませんね。


あと2ヶ月ですが、10月には一時帰国を考えています。

なので、少しペースを上げて、その前に7回目を読み終えようと計画しています。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 21:16 | Comment(0) | 実践内容 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月20日

海外の人との交流を深めるということ

先日、経済交流を深めることが平和な世界を築くために重要だ、ということを書きました。

その真意は、経済による絆が、人の心と心をつなぎやすいからです。

誰だって、損すると思えば、そう簡単には喧嘩できないでしょう?

そうやって付き合っていれば、相手のことを本当に受け入れられる日が来ると思うのです。


文化的な交流も重要ですが、こういうものは、すぐに断絶してしまいます。

文化交流を途絶えさせることは簡単なのです。

けれども、それが効果がないと言っているわけではありません。

要は、人と人とが直接出会って、話をすることが大切だからです。


そしてこういう交流は、必ずしも団体がやることでもありません。

この映像をご覧ください。



ただでさえ、反日感情が強いと言われているのに、そんな韓国に単独で出向いたことがすごいと思いました。

特に言葉は交わさず、ただ抱き合うだけ(フリー・ハグ)です。

でも、抱き合うというのは、相手を受け入れたいという気持ちがあるからできること。


第二次世界大戦中は、日本では「鬼畜米英」という言葉が使われました。

一般の人は、西洋人を鬼のように思っていたのです。

しかし、実際に目の当たりにした西洋人は、身体はいかついものの、笑顔が愛らしい人たちでした。(もちろん、そうでない人もいましたが。)

「なんだ、鬼かと思っていたけど、普通の人間じゃないか。」

その結果が、現在の西洋人に対する私たちの思いではありませんか?


人は、愛しあうことができるし、憎しみを、恨みを、超えることができるのです。

その遥か遠い道のりも、最初の一歩を踏み出さなければ始まりません。

「相手が悪いんだから、相手から歩み寄るべきだ。」

そういうように考えていたら、まったく距離は近づきません。



昨日、妻とバンコク・ユース・センター(タイ−ジャパン)へ行きました。

ここは、陸上競技場「バンコク・スタジアム」やオリンピック級のスイミング・プールも備える総合運動場で、1982年に日本の援助で作られたそうです。

年間40バーツ(約100円)の会費を払って入館証(キーカード)をもらえば、誰でも無料か無料に近い値段で利用できるそうです。


ここへ行ったのは、妻が合気道を習いたいと言うので、見学したかったからです。

ある建物に入ると、中にはムエタイ用のリングとトレーニングジム、そして武道用の畳が敷かれた道場がありました。

そこでは、50人くらいの老若男女が集まって、日本人の指導者から合気道を習っていました。

こういうレッスンの映像は見つからなかったのですが、その場所で指導している映像があったので、載せておきます。



実は私も、国士舘大学では合気道を習いました。

と言っても、体育の授業で半年だけですけど。

関節が動きやすい方向に動かしてやりながら、自分の勢いで勝手に行き詰まり、倒れるように仕向ける。

私が理解した合気道は、そういう感じでした。


週に3回、約2時間の指導を、無料で受けられるのだそうです。

年に4回の期間に分かれていて、その開始に合わせて入会できるのだとか。

次回は9月末に開始されるので、そこから習い始めると妻は言っていました。(本当かなあ?)


日本人の指導者は、流暢なタイ語で指導していました。

「みなさんは、ディスコは好きでしょう?そのとき、肩肘張って、身体を固くして踊ったりしないでしょう?合気道も同じです。柔らかく、柔らかく、自然と動くようにするから、力は必要ないのです。」

おそらく、長く指導しておられるのでしょうね。

道場の上り口に整然と揃えて置かれた練習生たちの履物を見て、その指導者の方の思いを感じたのです。


このような日本人が、世界各地にどれだけおられることでしょう。

最初は言葉もわからなくて、苦労されたと思います。

それでも続けてこられたのは、日本の文化を広めたい、世界の人と交流を深めたいという一心だったと思うのです。


全体から見れば、その試みは微々たるものでしょう。

けれども、その一歩がなければ、少しも前には進みません。

いつか世界の人々の心がひとつになるときが来たら、それを成し遂げた人とは、その一歩を踏み出した人なのです。


私が尊敬する安岡正篤氏は、こう言っておられます。

「一燈照隅 万燈照国」

自ら一燈を掲げ、その周りを照らす。

その明かりがどれほど小さいものであったとしても、たとえ他の誰かが協力しないとしても、己を信じて一歩を踏み出す。

そうすれば、それに呼応する人が集まり、増え、いつしかそれが全国に広がる。

一燈が照らす範囲は狭くても、万におよぶ人々が掲げる一燈はそれぞれの足下を照らし、ひいてはその明かりが全国を照らすことになるのです。

あなたも、自らの一燈を掲げませんか?自分のために、自分の周りの人のために。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:09 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月21日

タイの運転免許証を更新しました

私はタイに住んで10年になりますが、7年くらい前に免許証を取得しました。

と言っても、日本の免許を書き換えるだけで、当時は適性検査だけで良かったのです。


タイの免許制度は日本と違っていて、取得してから1年間は、暫定免許というものになります。

とりあえず与えて様子を見るけど、その間に悪いことしたら正式な免許をあげないからね。

まるで、そう言いたげな感じですね。ノンイミグラントビザの1年更新の時、暫定で1ヶ月くらいビザ期間を延長するのと、同じような感覚でしょうか。

暫定免許を取得して1年後に、正式な免許に更新します。このときも、適性検査だけでした。


それから5年間ごとに、免許証を更新することになります。今回は、その最初の更新だったのです。

日本との違いを知るのも、自分の小さな常識を壊すのに役立つでしょうから、免許更新の詳細をお知らせしましょう。



正式な運転免許は、更新期限の日(誕生日)より90日前から更新することができます。

日本はたしか、1ヶ月前からでしたよね。

更新期限を過ぎた場合も、1年間はペナルティーなしで更新することができます。

日本は1ヶ月間だったと記憶しています。海外に行っていて更新できないときは、半年か1年の猶予があったかと。

タイの場合は、何がなくても1年の猶予があります。おおらかでしょう?

更新の場所は、バンコク在住者なら5つの陸運局事務所のどこでも更新できるそうです。



私が行ったのは、スクンビットのソイ(小路)99と101の間にある第3陸運局事務所と呼ばれるところ。

BTS(高架鉄道)のバーンジャーク駅で降りて、50mほど郊外方面に行くと、その入口があります。

けれどもそこから建物までは300mほどあるので、歩くのが面倒な人は、ソイの入り口にいるバイタク(バイクタクシー)に乗って行きます。片道10バーツ(約30円)でした。


日本ではタクシーが初乗りだけの近距離を嫌うそうですが、もしこんなバイタクがあればどうでしょうね。

100円で駅から500mくらいまでのところへ、さっと送ってくれたら便利でしょう。

一応ヘルメットもありますが、基本的にはノーヘルですし、スカートの女性は横座りをします。

危険なのはわかっていますが、危険だからすべてを禁止するという発想が、コストを上げていることも事実です。



今回は、更新と同時に住所変更も行いました。

住所は、会社の住所でも居住地でもよく、会社ならワークパーミット(労働許可証)、居住地なら英文の在留証明書が必要です。

私は会社の住所なので、ワークパーミットとその写真や住所記載部分と、最終の許可印部分をコピーしておきます。

あとはパスポートで、これも写真部分とビザの部分をコピーしておきます。

申請書を入り口でもらい、そこには名前を書くだけで、先ほどの書類と免許証を持って、受付カウンター(9番)に提出します。


書類から情報を記録した後、番号札をつけて返してくれます。

それを持って、番号札に書かれた部屋(15番,16番)の入口で、番号が呼ばれるまで待ちます。

申請内容によって6つの色に分かれているようで、「オレンジ色の1〜20番」のように呼ばれ、部屋の中に入って適性検査を受けます。



私は行くのが遅くて10時過ぎだったので、もうすでにたくさん人が待っていました。

結局、午前中に回ってこないので、先にビデオ講習(14番)を受けることになりました。


ビデオはタイ語のドラマ仕立てで、道路交通法と安全運転の教習を行うという優れもの(?)でした。

英語字幕もありますが、小さいので読めません。でも、タイ語がわかりやすかったので、だいたい意味はわかりましたよ。

そのドラマは、小学校低学年くらいの子どもがいる隣同士の2家族を取り上げ、片方が安全運転で幸せな家族、もう一方が法規無視の父親がいる不幸な家族という設定です。

交通違反をすると画面に吹き出しのようなものが現れ、そこにどんな規則違反で罰金がいくらかが表示されます。

最終的に法規無視の父親が事故を起こし、自分の子供に大怪我をさせてしまい、心を入れ替えるというストーリー。

泣いて子供にわびる姿も真に迫っており、思わずもらい泣きしそうになりました。(笑)


事故を起こす前に自転車に乗った男性にぶつかりそうになるのですが、その男性がなぜか吃音(きつおん:どもること)なのです。

わざわざこんなところで吃音の登場人物を出す必要性もないのにと、日本なら言われるでしょうね。

どんな意図があったかは知りませんが、吃音の人や聾唖(ろうあ:耳が聞こえないとか言葉が出ないこと)の人を、普通に見かけるのがタイの社会です。

その代わり知的障害者は、日本のように公共のバスで通学するなんてことはありません。

良いか悪いかではなく、違いがあるということです。



1時間のビデオ講習が終わると、もう12時を回っていました。

1時までは休憩なので、近くの食堂へ昼飯を食べに行きました。

戻るとちょうど1時で、しばらく待って、やっと適性検査が始まりました。


ランプが緑から赤に変わったらブレーキを踏む反応検査とか、何種類かの検査があるのですが、今回はその中の2つだけ。

1つは、離れたところから棒を操作して、2本の棒の距離が同じになるように揃えるというもの。

これで視力と遠近感を検査するようです。


しかし操作ボタンが赤と緑なので、説明を聞き取れなかった私は、どうして良いのかわかりません。

私の記憶では、担当官が1本の棒を奥に移動させるので、それを動かして同じ距離に揃え、揃ったら挙手をするはずでした。

ところが、前の人が揃えた後、担当官が棒を動かさないのです。「えっ、それならこのまま動かさずに手を挙げちゃうよ?」

そんなことを考えていたら、「わからないならこの人のを見ていなさい。」と言われ、後の人を先にされちゃいました。

それでもよくわからないので、赤ボタンで一番奥まで移動し、その後、緑ボタンで手前に動かして、揃ったところで止めて手を上げました。

担当官は私の操作を見ていなかったようですが、手を挙げたのを見て、「OK」と言って合格にしてくれました。

「本当に、こんなのでいいの?」と思われるでしょうけど、「これでいいのだ!」と答えましょう。だってここはタイですから。



次は頭を固定して前方を見た状態で、顔のほぼ真横に点灯する明かりの色を答えるもの。

これで視野と色盲の検査を行うようです。


最初は赤と緑だけだと思い込んでいたので、「デーン(赤)、キァオ(緑)」と調子よく答えていたら、「黄色が見えないのか?」と指摘されました。

よく見ると、たしかに黄色です。それが緑に見えてしまっていました。

それから気をつけるようにすると、今度は視線がライトの方へ動いてしまって、また怒られます。何度か繰り返して、やっと合格させてもらいました。ふーぅ。


でも、日本のように、視力に厳しくないからいいです。

昨年は日本で更新し、なんとか裸眼でOKでした。でも今はもう、難しいだろうなと思っています。

運転には支障がないのですが、道路標識の小さい文字が、遠くからでは読めないのです。

本当に近づかないと読めないため、ある程度のスピードが出ていると、ほとんど読めません。



適性検査に合格すると、書類を持ってカウンター(18番)に提出し、また番号札を渡されるので、今度はその番号が呼ばれるのを待ちます。

呼ばれたら、そのとき指示されたそれぞれのデスクへ行き、書類内容に間違いないかと確認されます。

それがOKだとデジカメで写真を撮ってもらって、すぐにその場で新しい免許証を発行してもらいます。


幸せ実践塾−傷つきやすい、内気、自信がない、を幸せ体質に改善します。-タイの免許証

料金もそこで支払います。

更新料が500バーツ、住所変更が50バーツ、写真代が100バーツ(持参も可)、申込書代が5バーツで、計655バーツ(約1,700円)になりました。

申込書の料金が別立てになっているのが、日本と違って面白いところです。


今回はちょっと時間がかかりましたが、1時半まで受付しているとのことなので、早朝でないなら、1時に来て申込みをするのが、効率的で良いかもしれませんね。

免許証の取得と暫定免許の更新のときは、業者に手伝ってもらったので、朝8時くらいに来ました。

そのときは1,000バーツくらいの手数料を払ったでしょうか。

今回は、妻についてきてもらったので、少し遅かったのです。


妻に助けを求めたのは、やはり何かあったときに不安だったからです。

でも実際は、妻はほとんど手伝ってくれず、自分一人でこなすことになりました。

「それじゃあ意味がないじゃん!?」とも思いましたが、ものは考えようです。

お陰で、一人でも何とかなりそうだと思えましたから。

それに、妻と一緒に昼ごはんも食べられたので、ちょっとしたデートになりました。(笑)
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:04 | Comment(0) | └ タイのお役立ち情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月22日

批判することは自分のためになりません

「他人を批判してはいけない」と、よく言われます。

どうしていけないのでしょうか?


批判した相手から恨まれるから?

もちろん、それもあるでしょう。

でも、それだけではないと思います。



アメリカ・インディアンの教えに、こういうものがあるそうです。

「その人のモカシンを履いて1マイル歩くまでは、その人のことを批判してはならない。」

モカシンというのは、一枚皮で作った靴のことです。

つまり、その人と同じ立場に立ってみるまでは、その人の事情がわからないのだから、安易に批判するなということです。


このようなことは日本でも言われています。

「盗人にも三分の理」(「五歩の理」とも言う)というような諺をご存知でしょう。

どんな人にもそうするだけの事情があるのだ、ということを表しています。


すなわち批判するというのは、自分の立場で考えているからできることなのです。

どれだけ「客観的に考えて」とか「常識的に」などと修飾しようとも、それは主観でしかありません。

たとえて言うなら、茶筒のような円筒を片側から見て、「これは長方形だ」と言う人を、「バカか!円に決っているじゃないか。」と批判するようなものなのです。

幸せ実践塾−傷つきやすい、内気、自信がない、を幸せ体質に改善します。-円筒形−長方形−円

この批判の愚かさがわかるのは、私たちが本当は円筒形という立体であることを知っているからです。

それを、二次元的に見て長方形だ円だと言うのは、間違いではないけれども部分的な見方だとわかるからです。

でも、もし私たちが二次元的な存在だったら、それがわかるでしょうか?

もし、三次元的な存在である私たちよりも上の次元の真実があったら...。


このように、長方形と円という、まったく違う意見がそれぞれ正しいということが、あり得ると思います。

だから、批判するということは愚かであり、滑稽なことだとも言えるのです。



また、別の説明もあります。

それは、批判すると、批判した対象が力を得て存在し続ける、ということがあるからです。

このことは「神との対話」 の中に書かれていたことですが、その後、「引き寄せの法則」 など多くの本でも語られていることを知りました。


現実というのは、私たちの思考によって創られています。

つまり、私たちが意識したこと、考えたことの結果として、形となって表れるのです。

そうだとしたら、結果である現実を批判するという行為は、どういう意味を持つでしょうか?


批判するというのは、強力な意識の集中です。強い念波を発することになります。

その思いは、当然、次の現実を創る原因となります。

つまり、批判すればするほど、その対象を存在させ続けることになるのです。


それは、本当にその人の望みでしょうか?

批判するのは、その存在を自分の視界から消したいからではありませんか?

だとしたら、批判することは無意味どころか、逆のことをしていることになります。

もし本当にそういう現実は嫌だと思うなら、むしろ批判などせずに無視するに限ります。



マザー・テレサは、あらゆる反対運動に参加しなかったと聞いています。

それはおそらく、マザーが上記のことをよく知っていたからでしょう。

批判すれば、恨まれるかもしれません。

批判するのは、相手のことをよく知らないからです。

批判することによって、あってほしくない現実を引き寄せます。


そして何より、批判することは「私はそれだけ小さな人間です」ということを、宇宙に対して宣言していることになります。

言葉というのは、「私は○○である。」という宣言であり、私たちは、そうやって宣言した通りの存在なのです。

神が創った自分という尊い存在を、そういうちっぽけなものにしてしまうことは自分らしくない。

そう、マザーは考えたのだと思うのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:48 | Comment(0) | 実践内容 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月23日

血を分けた兄弟同士の争い

最近は、竹島や尖閣諸島など、韓国や中国との領土問題がニュースになることが多いですね。

特に、竹島に関しては、韓国の大統領が上陸したり、天皇陛下に対して謝罪要求するなどの出来事があって、日本政府もかなり厳しく対応しようとしています。

国会では、韓国大統領の発言に対して、謝罪と撤回を要求すべきだという意見が出され、野田首相もそれに応じたようです。


そのニュース記事のコメントに、興味深いものがありました。

そのコメントを要約すると、以下のようになります。


学生時代に英語圏の大学に留学していて、そこで韓国人留学生たちと交流を深めました。

韓国人たちは日本に対する対抗意識がとても強く、何かにつけ韓国の方が上だと主張するのです。

知り合った30〜40人が、みんなそんな感じなので、本当に辟易してしまいました。

高いレベルの教育を受けているのに、また、根はいいやつだと思える人も多かったけど、反日教育の結果なのでしょう。

だから、韓国人と言うよりも、韓国そのものが嫌いなのです。



たしかに、そういう一面はあるかもしれませんね。

韓国人の日本に対する敵対心は、並外れたものがあります。

それは反日教育の影響もあるでしょうし、もともと耐え忍ぶ性向が強い民族的な気質も関係しているかもしれません。



人と人とは、呼応し合うものです。

誰かを嫌いだとこちらが思えば、相手もこちらを嫌います。

逆に誰かを好ましいとこちらが思えば、相手もこちらを好ましいと思うのです。


そういう意味で、韓国人が日本人を嫌うのだから、日本人が韓国人を嫌っても当然だ、と考えることもできます。

でも、それが本当に、あなたが望んでいることなのでしょうか?



相手が自分を愛さないからと言って、自分も相手を愛さないというのが、自分らしいことなのかどうかを考えてみてほしいのです。

相手が自分を好きにならないのは、相手なりに何か事情があるからでしょう。

それは相手が決めることですから、こちらが関与できることではありません。

自分にできることは、自分がどう考え、どう行動するかということだけです。


上記のコメントを書いた人は、おそらく韓国人を嫌いになりたくなかったのでしょう。

だから、彼らをそんな風に教育した韓国(の制度)を嫌うことで、彼らに対する好意を持つ可能性を残したかったのだと思います。



私は旅行で、1度だけ韓国へ行ったことがあります。

ソウルへ2泊3日くらいだったと思います。

街なかへ出ると、顔を見ただけでは日本人だか韓国人だかわかりません。

英語で道を尋ねたら、「えっ!?」という顔でびっくりされたこともありました。

居酒屋みたいなお店では、いろいろと親切にしてもらいました。

その一方で、ありありと「日本人は嫌いなんだよね」という態度をとられたことも。


同じような顔をして、違う言葉を話す人たち。

近くて遠い国と言われますが、本当に兄弟同士のような民族です。

互いに近いがために、争うのかもしれませんね。


聖書では、兄カインが弟アベルを殺したという、人類史上最初と言われる殺人事件 が書かれています。

その一方で、仲違いした兄エソウと弟ヤコブが仲直りしたという話 もあります。

どんなに仲違いしても、血を分けた兄弟同士です。

いつか和解の日が来ると、私は思いたいのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 20:34 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。

ランキングに登録しています。面白かったらボタンをポチッと押してね。
↓↓↓↓
にほんブログ村 ライフスタイルブログ 自分らしさへ