「他人に迷惑をかけるな!」とか、「人に迷惑をかけること以外なら何をやっても自由だから。」というように、親や大人たちから言われてきたと思います。
もちろん私もそうです。
そして、それを信じて生きてきました。
けれども、その教えが自分を縛り、他人と上手くコミュニケートできない原因となっていると思うのです。
まず「迷惑」とは何でしょうか?
「そりゃあ、されると面倒なこととか、嫌な気持ちになることだよ。」
そう答える方が多いと思います。
でも、ある事例に対して、それが迷惑な行為かどうか、本当に断定できるでしょうか?
たとえば、自動販売機でジュースを買おうとしたら、10円足りなかった。
「あと10円あれば飲めるのになあ。」
そこに誰かが通りかかった時、「10円もらえますか?」と尋ねるのは、迷惑なことでしょうか?
そんなことで呼び止められることが迷惑だと感じる人もいるでしょう。もしその人が、先を急いでいたら。
あるいは、10円というわずかな金額を言われたことが、迷惑だと感じる人もいるかもしれません。
「なんで10円なんだよ。100円なら堂々と断れるけど、10円ぽっちだと、断ったら自分がケチみたいじゃないか。」
しかし中には、ありがたいと思う奇特な人もいるかもしれません。
「ちょうど10円を持っていた。その10円で誰かが喜んでくれるのだから、こんな有効な使い方はない。そんな経験をさせてくれて、ありがとう。」
いかがでしょうか?その人の行為は迷惑でしょうか?迷惑と断定できるでしょうか?
断定できるはずがありません。迷惑どころか、誰かを喜ばせるかもしれないのですから。
迷惑かどうかは、それを感じる人が決めることです。他人がどう感じるかということまで、責任は負えません。
ハリネズミの夫婦の話は有名ですから、みなさんご存知でしょう。
寒いからお互いに近づいて温まろうとするのですが、近づきすぎると相手の針が刺さって痛い。
かと言って、離れると寒くてたまらない。
寒くないように、痛くないようにと、お互いの間合いを微妙に調整しながら暮らすのです。
人と人との関係も、そういうことではないでしょうか。
同じことをしても、迷惑と感じる人もいれば、喜んでくれる人もいる。やってみないとわからないのです。
やった上で、相手が「迷惑だ!」と言うなら、「ごめんなさいね。」と言ってやめれば良いのです。
KYと言って、「空気を読めよ!」と相手に過剰に要求する風潮がありますが、そんな価値観を持ったら自分が不幸になるだけです。
相手に何かされて「嫌だな」と感じることがあったら、それを自分がやらないようにすれば良いだけ。
相手はそのことを自分に教えてくれたのですから、ありがたい先生でもあるわけです。
すべては考え方次第。
自分が幸せになる考え方をしたいのか、それとも不幸になる考え方をしたいのか。
あなたは自由に決められるし、いつでも変えることもできるのです。
2012年08月01日
2012年08月02日
成功するコツを示す実例を引き寄せてしまいました
世の中には、成功本と呼ばれる成功哲学を紹介した本がたくさんあります。
「引き寄せの法則」もそうですし、「神との対話」もそうだとも言えます。
他にもこのブログで紹介した本の多くが、成功本というジャンルに入ります。
今また別の本を読んでいるのですが、これが素晴らしいです。
読み終わったら、本の紹介のテーマで紹介させていただきますね。
そのエッセンスを、まさに現実に行った実例があったので、今日はそれを紹介しましょう。
そういう出来事があったのも、こうしてブログに書いて紹介しろというお告げというか、運命の流れのような気がします。
その実例とは、私の友だちで数秘セラピーをやっている引き寄せコンサルタントの福本恵美さんのブログにありました。
まずは、そちらをご覧になってください。
かいつまんで説明すると、こういうことになります。
恵美さんが、気になっていたカフェで食事をしようと思って出かけたら、あいにく閉まっていたのだそうです。
そのとき恵美さんは、すぐに気持ちを切り替えて、来る途中で見つけた素敵なワインバーへ行こうと思ったのだとか。
そして行ってみると、値段もお手頃で料理も美味しく、とても気に入ったのだそうです。
最初の目的の店に行く道は2通りあり、なぜかこっちだと思った方へ行ったら、偶然そのワインバーを見つけたのでした。
この事例こそが、まさに成功するヒケツだと、今読んでいる本には書かれていました。
いかがですか?わかりますか?
別に秘密でもなんでもありませんよ。真理は常にオープンにされています。
斎藤一人さんは、成功するかどうかはツイているかどうかだ、と言っています。
そして、ツイている人になるためには、「ツイてる」と言うことだと。
FXミリオネアの竹井佑介さんは、成功している人はどんな状況の中にも良い点を探し出す、と言っています。
つまり、人生において起こる出来事はすべて必然で、無駄がないと信じているのだと。
そういうことを知った上で、先ほどの実例を見てください。
恵美さんは、目的の店が閉まっているのを知った時、「自分はなんてツイていないんだ」などとは思わなかったのです。
思い通りにならなかったとき、それをそのまま受け入れました。
恵美さんがどう思ったかは知りませんが、「これには何か意味がある」と考えても良いでしょう。
ともかく、事実を受け入れるのです。抵抗しないことです。
そうすると、「そう言えば素敵なワインバーがあったから、そこへ行ってみよう。」というように、当初の予定にない行動が生まれます。
不平や文句を言うのではなく、現状を受け入れたから、その状態で自分が楽しむことを選択できたのです。
その結果が、思いもしなかった素晴らしいお店との出合いでした。
さらに考えてみると、その店と出合うための偶然の一致があったことに気づきます。
たまたまその道を選んだから。
もう間違いありません。これこそが運命が、その人に「これでいいのですよ」と教えてくれているサインなのです。
このサインを見つけることによって、運勢がさらに良くなっていきます。
運命に従うなら、それはより良い人生に向かうしかないのですから。
では、そのサインを見つけるために、私たちは何をすべきでしょうか?
それも実例に示されています。
恵美さんは、思い通りに行かない時に、どんな態度をとったでしょうか?
不平を言わず、現状を受け入れました。どうしてそれができたのでしょうか?
ここにヒケツがあります。
それは、幸せな態度です。
幸せというのは、目的ではなく道具だと私は言いました。
つまりこのように、普段から幸せな態度をとることによって、思い通りにならなかった時も、「これは何か意味があるのでは?」と思えるのです。
このことを書こうと思っていた時に、まったく偶然にこの事例を見つけました。
いえ、これは偶然ではありません。必然です。私が引き寄せたと言っても良いでしょう。
だから、幸せになることが重要なのです。
まず、真っ先に幸せになりましょう。今すぐ、その場で、その状態のままで。
そうすれば、運命の扉が開かれるのですから。
「引き寄せの法則」もそうですし、「神との対話」もそうだとも言えます。
他にもこのブログで紹介した本の多くが、成功本というジャンルに入ります。
今また別の本を読んでいるのですが、これが素晴らしいです。
読み終わったら、本の紹介のテーマで紹介させていただきますね。
そのエッセンスを、まさに現実に行った実例があったので、今日はそれを紹介しましょう。
そういう出来事があったのも、こうしてブログに書いて紹介しろというお告げというか、運命の流れのような気がします。
その実例とは、私の友だちで数秘セラピーをやっている引き寄せコンサルタントの福本恵美さんのブログにありました。
まずは、そちらをご覧になってください。
かいつまんで説明すると、こういうことになります。
恵美さんが、気になっていたカフェで食事をしようと思って出かけたら、あいにく閉まっていたのだそうです。
そのとき恵美さんは、すぐに気持ちを切り替えて、来る途中で見つけた素敵なワインバーへ行こうと思ったのだとか。
そして行ってみると、値段もお手頃で料理も美味しく、とても気に入ったのだそうです。
最初の目的の店に行く道は2通りあり、なぜかこっちだと思った方へ行ったら、偶然そのワインバーを見つけたのでした。
この事例こそが、まさに成功するヒケツだと、今読んでいる本には書かれていました。
いかがですか?わかりますか?
別に秘密でもなんでもありませんよ。真理は常にオープンにされています。
斎藤一人さんは、成功するかどうかはツイているかどうかだ、と言っています。
そして、ツイている人になるためには、「ツイてる」と言うことだと。
FXミリオネアの竹井佑介さんは、成功している人はどんな状況の中にも良い点を探し出す、と言っています。
つまり、人生において起こる出来事はすべて必然で、無駄がないと信じているのだと。
そういうことを知った上で、先ほどの実例を見てください。
恵美さんは、目的の店が閉まっているのを知った時、「自分はなんてツイていないんだ」などとは思わなかったのです。
思い通りにならなかったとき、それをそのまま受け入れました。
恵美さんがどう思ったかは知りませんが、「これには何か意味がある」と考えても良いでしょう。
ともかく、事実を受け入れるのです。抵抗しないことです。
そうすると、「そう言えば素敵なワインバーがあったから、そこへ行ってみよう。」というように、当初の予定にない行動が生まれます。
不平や文句を言うのではなく、現状を受け入れたから、その状態で自分が楽しむことを選択できたのです。
その結果が、思いもしなかった素晴らしいお店との出合いでした。
さらに考えてみると、その店と出合うための偶然の一致があったことに気づきます。
たまたまその道を選んだから。
もう間違いありません。これこそが運命が、その人に「これでいいのですよ」と教えてくれているサインなのです。
このサインを見つけることによって、運勢がさらに良くなっていきます。
運命に従うなら、それはより良い人生に向かうしかないのですから。
では、そのサインを見つけるために、私たちは何をすべきでしょうか?
それも実例に示されています。
恵美さんは、思い通りに行かない時に、どんな態度をとったでしょうか?
不平を言わず、現状を受け入れました。どうしてそれができたのでしょうか?
ここにヒケツがあります。
それは、幸せな態度です。
幸せというのは、目的ではなく道具だと私は言いました。
つまりこのように、普段から幸せな態度をとることによって、思い通りにならなかった時も、「これは何か意味があるのでは?」と思えるのです。
このことを書こうと思っていた時に、まったく偶然にこの事例を見つけました。
いえ、これは偶然ではありません。必然です。私が引き寄せたと言っても良いでしょう。
だから、幸せになることが重要なのです。
まず、真っ先に幸せになりましょう。今すぐ、その場で、その状態のままで。
そうすれば、運命の扉が開かれるのですから。
2012年08月03日
ベランダの先住人の様子を覗いてみました
アパートの今の部屋に引っ越したのは、6月半ばのことでした。
そのときすでに、ベランダには先住人たちがいました。
鳩です。
ベランダが汚れていたので、入らないような対策をしようとしたとき、巣があることがわかりました。
巣には、卵もあったのです。
それで、とりあえずはヒナが生まれて育つまで、先住人たちの邪魔をしないことに決めました。
しばらくすると、ヒナが2羽生まれていました。
まだ産毛の小さくてかわいいヒナたちが、親鳥と一緒にいるのを確認したのは、7月14日のこと でした。
それから2週間経った7月28日 になると、ヒナたちはかなり成長していました。
2羽の羽の色が違うことに、このとき初めて気が付きました。
巣に親鳥はおらず、ヒナたちだけでお留守番。
親鳥たちは、餌集めに懸命なのでしょう。
8月1日の夜、ベランダをそっと覗いてみると、親鳥2羽がエアコン室外機の上に止まって見張りをしていました。
親鳥もそれぞれ羽の色が違っていたのですね。
そして今朝(8月3日)、ヒナのピーピー鳴く声が気になって、餌やりの様子をそっと伺いました。
ベランダにヒナが1羽ずつ出てきて、親鳥から口移しで餌をもらっています。
親鳥は、半消化状態の餌を、吐き戻して与えているようです。
でも、ヒナが外に出てくるのは危険だと思っているのでしょうね。
親の警戒感は、いつも以上にものすごいものがありました。
ちょっとでも私の姿が見えようものなら、「グルッ!」と厳しく短い声を発します。
ヒナは慌てて巣に戻り、親鳥はずっと私を睨みつけています。
本当ですって。鳩も睨みつけるんですよ。
顔は横を向いていますが、片目は正面になります。その状態で、まばたきすることなく凝視するのです。
あまり邪魔をしてもいけないので、1枚写真が撮れたところで、それ以上の観察をあきらめました。
鳩は身近な鳥ですが、意外と知らないことも多いです。
どうやって子育てするのかとか、ヒナがどんな風に鳴くのかなど。
この年になって、初めて知りましたよ。
そんなベランダの先住人たちとの出会いがあったのも、妻が引越ししようと言い出して、今の部屋を探してきてくれたから。
ありがたいことですね。
そのときすでに、ベランダには先住人たちがいました。
鳩です。
ベランダが汚れていたので、入らないような対策をしようとしたとき、巣があることがわかりました。
巣には、卵もあったのです。
それで、とりあえずはヒナが生まれて育つまで、先住人たちの邪魔をしないことに決めました。
しばらくすると、ヒナが2羽生まれていました。
まだ産毛の小さくてかわいいヒナたちが、親鳥と一緒にいるのを確認したのは、7月14日のこと でした。
それから2週間経った7月28日 になると、ヒナたちはかなり成長していました。
2羽の羽の色が違うことに、このとき初めて気が付きました。
巣に親鳥はおらず、ヒナたちだけでお留守番。
親鳥たちは、餌集めに懸命なのでしょう。
8月1日の夜、ベランダをそっと覗いてみると、親鳥2羽がエアコン室外機の上に止まって見張りをしていました。
親鳥もそれぞれ羽の色が違っていたのですね。
そして今朝(8月3日)、ヒナのピーピー鳴く声が気になって、餌やりの様子をそっと伺いました。
ベランダにヒナが1羽ずつ出てきて、親鳥から口移しで餌をもらっています。
親鳥は、半消化状態の餌を、吐き戻して与えているようです。
でも、ヒナが外に出てくるのは危険だと思っているのでしょうね。
親の警戒感は、いつも以上にものすごいものがありました。
ちょっとでも私の姿が見えようものなら、「グルッ!」と厳しく短い声を発します。
ヒナは慌てて巣に戻り、親鳥はずっと私を睨みつけています。
本当ですって。鳩も睨みつけるんですよ。
顔は横を向いていますが、片目は正面になります。その状態で、まばたきすることなく凝視するのです。
あまり邪魔をしてもいけないので、1枚写真が撮れたところで、それ以上の観察をあきらめました。
鳩は身近な鳥ですが、意外と知らないことも多いです。
どうやって子育てするのかとか、ヒナがどんな風に鳴くのかなど。
この年になって、初めて知りましたよ。
そんなベランダの先住人たちとの出会いがあったのも、妻が引越ししようと言い出して、今の部屋を探してきてくれたから。
ありがたいことですね。
「東の大富豪」の教え
大富豪という言葉が流行語になりそうなほど、本のタイトルによく使われます。
「また大富豪か。」
そう思われそうですが、まあちょっとお聞きください。
今度は東の大富豪。つまり西のユダヤ人に対する東の華僑というわけです。
著者はナタリー・ユエンさん。どこの人かと思ったら、なんと日本人なのです。
香港人の男性と結婚され、その方のお姉さんから教えてもらった成功法則なのだとか。
本の帯には、「一人に一つの成功パターンがあなたを導く」とあります。
今までの成功法則で上手く行かないのは、「これをやれば成功する」というように、他の誰かが成功したパターンを真似しようとしたからだと言うのです。
本当は、人それぞれに成功パターンがあり、それをつかまなければ成功できない。
それでこの本では、その成功パターンを手にする方法を紹介しているのです。
読んでみて、これは素晴らしいと思いました。
ただ、内容はけして目新しい成功法則ではありません。
いわゆる「引き寄せの法則」 なわけですが、それをどうやったら上手く活用できるようになるかという、やり方について説明しているのです。
他の誰かの真似をするのではなく、要は自分の勘を磨くことです。
そのための勘を良くする方法などが、詳細に書かれています。
具体的に言うと、...。これはちょっと書けません。でも、すでにブログで一部を説明しています ので、そちらも参考にしてみてくださいね。
2012年08月04日
運命の流れに乗る
易というのをご存知だと思います。どんなイメージがありますか?
私は易というと、道端に机を出して座り、道行く人に声を掛けて運勢を見るという、占い師のおじさんをイメージします。
虫眼鏡で手相を見る占い師もいますが、易占いの場合は、何やら竹ひごのようなものをいくつも手に持って占うスタイルです。
テレビなどの影響でしょうけど、そういった運勢を占うというのが、易に対するイメージです。
それが学問だと知ったのは、もう20歳を超えてからのことでした。
中国の古典に易経というのがあります。
そこに説かれているのは、万物が流転する様から読み取った、この世のエネルギーの変化だったのです。
私はこれを、尊敬する安岡正篤氏の解説本 で読みました。
陰陽五行と言われるように、この世は陰と陽、そして5つの要素(木、火、土、金、水)からなるとされています。
そしてこの陰陽とは、この世のあらゆるものの性質のことです。
たとえば、光があれば影があるというのも、これも陽と陰を表しています。
それだけでなく、表と裏、上と下、男と女など、あらゆるものが陽と陰とでできていると言うのです。
またこの陰と陽は、エネルギーの変化を示すものでもあります。
すべては陰から陽へ向けて、また陽から陰へ向けて、エネルギーが変化するのです。
その様子を表したのが、図1です。
このように、陽と陰の間をピストン運動しているのです。
「陽、極まれば陰に転じ、陰、極まれば陽に転ずる。」
易ではそう言うのですが、私はそれが不思議でした。
どうして頂点で留まっていられないのでしょうか?
これに時間軸を合わせてみると、その理由が少しわかります。それが図2です。
時間が経つに連れて、陽に向かって上昇するものの、頂点で反転して陰に向かって下降します。
この動きは、まさに波です。
海の波が引いては返すように、すべては波になっている。だから、陰と陽が繰返すのです。
人には、バイオリズムがあると言います。
このリズムに合わせて行動することで、ものごとがよりスムーズに行くようになるのだと。
この世がこうして陰と陽の変化で成り立っているとすれば、それは当然のことかもしれません。
しかし、どうして波になるのでしょう?
理屈っぽいのが私の性分です。ご容赦ください。(笑)
なぜ、スポーンとどこかへ飛んでいかず、波になって揺れているのでしょうか?
そのことを考えていた時、ふとこの波を3次元で見ることを思いつきました。
図2の波を、右側から見たと仮定した時、この動きを無理なく説明する形がありました。それが図3です。
そう、円になっています。
円運動を真横から見たら、ピストン運動です。
そして、時間軸があるとすれば、波になります。
さらに言えば、これを立体的に見るなら、螺旋運動になっているのです。
直線運動は永続しないということは、数学的に考えるとわかります。
必ずどこかに果てがあるからです。
しかし、それが円運動なら永続します。
円を描きながらどこかへ進むのが螺旋運動ですが、そのどこかへ進む動きも円運動だったら。
円運動に円運動を組み合わせていくことで、何重もの螺旋運動が生み出されます。
この動き、どこかで見たことがありませんか?
そう、星の動きです。
地球は回転しながら太陽の周りを回ります。
その太陽系は銀河の周りを回っています。
宇宙は、果てしなく螺旋運動でできているのです。
だからこの世は永続するのです。だから生命は永続するのです。
逆に、永続するのが生命だから、このような形になったとも言えます。
このことに気づいた時、易を考えた昔の人は、本当に偉い人だったのだなあと思いました。
おそらく、インスピレーションを与えられて書いたのだと思います。
そうでなければ、そう簡単に思いつくものではありませんから。
ここから、十二支が生まれました。
十二支に五行の循環を加えることで、60年周期になります。
だから60歳で還暦になるのです。
易を占いに応用した最たるものが、四柱推命だと言われています。
すべてのものは陰から陽、陽から陰へと絶え間なく動き続けています。
この変化こそが生命であり、この世の本質だと思うのです。
ならば、この運命の流れに乗って生きることが大切だというのも、理屈が通っているのではないでしょうか。
私は易というと、道端に机を出して座り、道行く人に声を掛けて運勢を見るという、占い師のおじさんをイメージします。
虫眼鏡で手相を見る占い師もいますが、易占いの場合は、何やら竹ひごのようなものをいくつも手に持って占うスタイルです。
テレビなどの影響でしょうけど、そういった運勢を占うというのが、易に対するイメージです。
それが学問だと知ったのは、もう20歳を超えてからのことでした。
中国の古典に易経というのがあります。
そこに説かれているのは、万物が流転する様から読み取った、この世のエネルギーの変化だったのです。
私はこれを、尊敬する安岡正篤氏の解説本 で読みました。
陰陽五行と言われるように、この世は陰と陽、そして5つの要素(木、火、土、金、水)からなるとされています。
そしてこの陰陽とは、この世のあらゆるものの性質のことです。
たとえば、光があれば影があるというのも、これも陽と陰を表しています。
それだけでなく、表と裏、上と下、男と女など、あらゆるものが陽と陰とでできていると言うのです。
またこの陰と陽は、エネルギーの変化を示すものでもあります。
すべては陰から陽へ向けて、また陽から陰へ向けて、エネルギーが変化するのです。
その様子を表したのが、図1です。
このように、陽と陰の間をピストン運動しているのです。
「陽、極まれば陰に転じ、陰、極まれば陽に転ずる。」
易ではそう言うのですが、私はそれが不思議でした。
どうして頂点で留まっていられないのでしょうか?
これに時間軸を合わせてみると、その理由が少しわかります。それが図2です。
時間が経つに連れて、陽に向かって上昇するものの、頂点で反転して陰に向かって下降します。
この動きは、まさに波です。
海の波が引いては返すように、すべては波になっている。だから、陰と陽が繰返すのです。
人には、バイオリズムがあると言います。
このリズムに合わせて行動することで、ものごとがよりスムーズに行くようになるのだと。
この世がこうして陰と陽の変化で成り立っているとすれば、それは当然のことかもしれません。
しかし、どうして波になるのでしょう?
理屈っぽいのが私の性分です。ご容赦ください。(笑)
なぜ、スポーンとどこかへ飛んでいかず、波になって揺れているのでしょうか?
そのことを考えていた時、ふとこの波を3次元で見ることを思いつきました。
図2の波を、右側から見たと仮定した時、この動きを無理なく説明する形がありました。それが図3です。
そう、円になっています。
円運動を真横から見たら、ピストン運動です。
そして、時間軸があるとすれば、波になります。
さらに言えば、これを立体的に見るなら、螺旋運動になっているのです。
直線運動は永続しないということは、数学的に考えるとわかります。
必ずどこかに果てがあるからです。
しかし、それが円運動なら永続します。
円を描きながらどこかへ進むのが螺旋運動ですが、そのどこかへ進む動きも円運動だったら。
円運動に円運動を組み合わせていくことで、何重もの螺旋運動が生み出されます。
この動き、どこかで見たことがありませんか?
そう、星の動きです。
地球は回転しながら太陽の周りを回ります。
その太陽系は銀河の周りを回っています。
宇宙は、果てしなく螺旋運動でできているのです。
だからこの世は永続するのです。だから生命は永続するのです。
逆に、永続するのが生命だから、このような形になったとも言えます。
このことに気づいた時、易を考えた昔の人は、本当に偉い人だったのだなあと思いました。
おそらく、インスピレーションを与えられて書いたのだと思います。
そうでなければ、そう簡単に思いつくものではありませんから。
ここから、十二支が生まれました。
十二支に五行の循環を加えることで、60年周期になります。
だから60歳で還暦になるのです。
易を占いに応用した最たるものが、四柱推命だと言われています。
すべてのものは陰から陽、陽から陰へと絶え間なく動き続けています。
この変化こそが生命であり、この世の本質だと思うのです。
ならば、この運命の流れに乗って生きることが大切だというのも、理屈が通っているのではないでしょうか。
2012年08月05日
運命の流れに乗る生き方とは
昨日、「運命の流れに乗る」という記事で、この世は大いなる生命の鼓動のように、螺旋運動でできているという話をしました。
そして、そのリズムに乗って生きることが大切なのではないかと。
このことを思いついたのは、先日紹介した「「東の大富豪」の教え」という本を読んでからです。
この本では、目標を設定して頑張るというスタイルでは、本当の意味での成功ができないと書いてあります。
つまり、現実に対処していくだけでは、想定外のことが起こった時に対応できないのだと。
また、本当に成功する人は、運命が味方をしているようだと言います。
これは、斎藤一人さんもそう言っています。努力では成功しない。ツイていることが重要なのだと。
このツキの重要性は、船井総研の船井幸雄さんも言われてました。
では、そのツキを得るにはどうすれば良いのでしょうか?
それを斎藤一人さんは、「ツイていると言うことだ」と言います。
船井幸雄さんは、「ツイている人と付き合うことだ」と言います。
東の大富豪のナタリー・ユエンさんは、「意味のある偶然の一致を意図的に生み出すことだ」と言います。
世界一の教えの後藤勇人さんは、「目標を立てるな」と言います。
みんなそれぞれ違っているようで、実は同じことを言っています。
それが、「運命の流れに乗る」ということなのです。
わかりやすく説明しましょう。
たとえば目標を立てて頑張るという生き方は、自分の思いで恣意的に生きることになります。
そうではなく、天命に生きることが、運命の流れに乗ることになるのです。
天命に生きるということは、使命に生きるということです。
でも、自分の使命がなんだかわからない、という人が多いでしょう。
それは、天の声を聞こうとしないからわからないのです。
その天の声を聞くのにもっともよい姿勢が、「素直さ」だと思います。
だから松下幸之助さんなど多くの人が、「素直さ」と重要なポイントにするのでしょう。
まだ抽象的なので、具体的に説明しましょう。
「素直さ」というのは、目上の人とかに対して素直かどうかではありません。
起こった出来事に対して素直に受け止めるということです。
ここが重要です。
これを勘違いして、素直でなければいけないからと言って、何でも相手に従うことだと考えると、自分らしく生きられなくなります。
私もここがよくわからなかったのですが、ふとこの答に行き着きました。
自分の人生に起こった出来事を肯定的に受け止めることが、出来事を素直に受け止めることであり、素直な心で生きることになるのです。
実はこれが、東の大富豪の本に書かれていたことでした。
そして、後藤勇人さんが師と仰ぐフジゲンの横内祐一郎会長の生き様も、まさにその通りのものでした。
目標にこだわって、恣意的に生きるのではありません。
生きる道は常に天から与えられるから、それを一所懸命にこなす中に道が開けてくる。
それが、横内祐一郎氏が言われる生き方なのです。
だから使命がわからないときは、目の前のことを一所懸命にやれと言われるのです。
ちょうど今、オリンピックをやっています。
日本も頑張っていますが、本番で力を出し切れなかった選手もいるでしょう。
金メダルを目標に頑張りました。そのことは、けして悪いことではありません。
問題は、金メダルが取れなかった時です。
金メダルを取れなかった、というのが現実です。自分の人生に起こった出来事です。
落胆し、失意のどん底で誰かを恨んだり、自分の不甲斐なさを嘆いたりする。
そういう気持ちになるのはわかりますが、そこに留まっていてはいけません。
なぜならそれは、出来事を受け入れていないからです。
出来事を肯定的に捉えていないからです。
起きた出来事は、天からのメッセージです。
そこを出発点として歩み出さなくてはなりません。
そのとき、天のメッセージをしっかりと聞くための心の状態が、「素直な心」なのです。
そしてその「素直な心」でいるためには、幸せな態度でいることが重要です。
もし金メダルを取れなくても幸せだったら、どうするでしょうか?
恨んだり、愚痴や文句を言ったり、自分の弱さを嘆いたりするでしょうか?
自分なりに精一杯やったことを讃え、関係者の労をねぎらい、応援してくれた人々に感謝のメッセージを送るのではないでしょうか。
いつまでも金メダルにこだわるのは、単に執着心です。依存しているだけです。
だから問題なのは、金メダルという目標ではなく、それにこだわった生き方です。
そういう依存や執着をやめて、幸せな態度で生きるなら、自ずと運命の流れに乗ることになるでしょう。
その行き着く先は、必ずしも大富豪ではありませんよ。(笑)
それだけが成功者だと思うから、そもそもの間違いを犯してしまうのです。
たとえばアウンサンスーチーさんを見てごらんなさい。
彼女は大富豪ではありません。
それどころか家族と引き離され、外出の自由さえない人生を歩んできました。
それでも彼女は、満足して生きていると思います。
なぜなら、「これが私らしい生き方だ」と思っているからです。
およそ2000年前のイエスもそうです。2500年前の仏陀もそうです。
ガンジーもそうだし、マザー・テレサもそうです。
坂本龍馬も西郷隆盛もそうではありませんか。
天命に生きるということは、大富豪になることではなく、自分らしく生きるということなのです。
そして、そのリズムに乗って生きることが大切なのではないかと。
このことを思いついたのは、先日紹介した「「東の大富豪」の教え」という本を読んでからです。
この本では、目標を設定して頑張るというスタイルでは、本当の意味での成功ができないと書いてあります。
つまり、現実に対処していくだけでは、想定外のことが起こった時に対応できないのだと。
また、本当に成功する人は、運命が味方をしているようだと言います。
これは、斎藤一人さんもそう言っています。努力では成功しない。ツイていることが重要なのだと。
このツキの重要性は、船井総研の船井幸雄さんも言われてました。
では、そのツキを得るにはどうすれば良いのでしょうか?
それを斎藤一人さんは、「ツイていると言うことだ」と言います。
船井幸雄さんは、「ツイている人と付き合うことだ」と言います。
東の大富豪のナタリー・ユエンさんは、「意味のある偶然の一致を意図的に生み出すことだ」と言います。
世界一の教えの後藤勇人さんは、「目標を立てるな」と言います。
みんなそれぞれ違っているようで、実は同じことを言っています。
それが、「運命の流れに乗る」ということなのです。
わかりやすく説明しましょう。
たとえば目標を立てて頑張るという生き方は、自分の思いで恣意的に生きることになります。
そうではなく、天命に生きることが、運命の流れに乗ることになるのです。
天命に生きるということは、使命に生きるということです。
でも、自分の使命がなんだかわからない、という人が多いでしょう。
それは、天の声を聞こうとしないからわからないのです。
その天の声を聞くのにもっともよい姿勢が、「素直さ」だと思います。
だから松下幸之助さんなど多くの人が、「素直さ」と重要なポイントにするのでしょう。
まだ抽象的なので、具体的に説明しましょう。
「素直さ」というのは、目上の人とかに対して素直かどうかではありません。
起こった出来事に対して素直に受け止めるということです。
ここが重要です。
これを勘違いして、素直でなければいけないからと言って、何でも相手に従うことだと考えると、自分らしく生きられなくなります。
私もここがよくわからなかったのですが、ふとこの答に行き着きました。
自分の人生に起こった出来事を肯定的に受け止めることが、出来事を素直に受け止めることであり、素直な心で生きることになるのです。
実はこれが、東の大富豪の本に書かれていたことでした。
そして、後藤勇人さんが師と仰ぐフジゲンの横内祐一郎会長の生き様も、まさにその通りのものでした。
目標にこだわって、恣意的に生きるのではありません。
生きる道は常に天から与えられるから、それを一所懸命にこなす中に道が開けてくる。
それが、横内祐一郎氏が言われる生き方なのです。
だから使命がわからないときは、目の前のことを一所懸命にやれと言われるのです。
ちょうど今、オリンピックをやっています。
日本も頑張っていますが、本番で力を出し切れなかった選手もいるでしょう。
金メダルを目標に頑張りました。そのことは、けして悪いことではありません。
問題は、金メダルが取れなかった時です。
金メダルを取れなかった、というのが現実です。自分の人生に起こった出来事です。
落胆し、失意のどん底で誰かを恨んだり、自分の不甲斐なさを嘆いたりする。
そういう気持ちになるのはわかりますが、そこに留まっていてはいけません。
なぜならそれは、出来事を受け入れていないからです。
出来事を肯定的に捉えていないからです。
起きた出来事は、天からのメッセージです。
そこを出発点として歩み出さなくてはなりません。
そのとき、天のメッセージをしっかりと聞くための心の状態が、「素直な心」なのです。
そしてその「素直な心」でいるためには、幸せな態度でいることが重要です。
もし金メダルを取れなくても幸せだったら、どうするでしょうか?
恨んだり、愚痴や文句を言ったり、自分の弱さを嘆いたりするでしょうか?
自分なりに精一杯やったことを讃え、関係者の労をねぎらい、応援してくれた人々に感謝のメッセージを送るのではないでしょうか。
いつまでも金メダルにこだわるのは、単に執着心です。依存しているだけです。
だから問題なのは、金メダルという目標ではなく、それにこだわった生き方です。
そういう依存や執着をやめて、幸せな態度で生きるなら、自ずと運命の流れに乗ることになるでしょう。
その行き着く先は、必ずしも大富豪ではありませんよ。(笑)
それだけが成功者だと思うから、そもそもの間違いを犯してしまうのです。
たとえばアウンサンスーチーさんを見てごらんなさい。
彼女は大富豪ではありません。
それどころか家族と引き離され、外出の自由さえない人生を歩んできました。
それでも彼女は、満足して生きていると思います。
なぜなら、「これが私らしい生き方だ」と思っているからです。
およそ2000年前のイエスもそうです。2500年前の仏陀もそうです。
ガンジーもそうだし、マザー・テレサもそうです。
坂本龍馬も西郷隆盛もそうではありませんか。
天命に生きるということは、大富豪になることではなく、自分らしく生きるということなのです。
2012年08月06日
自己主張できないことが幸いでした
私は子どもの頃から内気で、自分が思ったことを主張することが苦手でした。
たとえば友だち数人で何をして遊ぶか決めるときも、私は決まったことにしたがうだけです。
自分から「○○して遊ぼう」などと言うことはありませんでした。
また、何かにつけて損な役割を押し付けられました。
小学校のころは、毎年、学級委員長に選ばれました。
級長とも呼ばれ、親や親戚からは、名誉なことと喜ばれましたけど。
でも内実は、真面目でおとなしい私に、面倒な役割を押し付けただけです。
ですから学級委員という権限で級友に何かをさせるなんてことは、まったくできなかったのです。
高校のクラブ活動の時も、ハンドボールクラブでキャプテンをやらされました。
課外活動とは違いますが、学年の壁を越えて一緒に授業を受けたのです。
そのとき担当の先生から出席を取るように言われ、私はキャプテンの権限で下級生に、その役割を担わせようとしました。
するとその下級生が言いました。
「てめえがキャプテンだろうが。てめえがやれよ。」
野球部のごんたー(方言で悪ガキのこと)ですから、同じ野球部の先輩には媚びへつらっても、関係がない先輩のことは先輩とも思っていません。
私はしょうがなく、自分でやることにしました。
同じクラブの同級生から言われました。
「もっとビシッと言ってやったらいいのに。」
私は、自己主張できる人をうらやましく思ってました。
本当は私だってわがままを言いたいこともあるし、利己主義的に他の人のことなんか考えずに、自分が得になるような行動を選択したいこともある。
けれども、それができませんでした。
小学校の時も、一度だけ同学年のボスと取っ組み合いのケンカをしました。
どうしても許せないことがあったのです。
私はカレを押し倒し、馬乗りになりました。
普段はおとなしい私が本気になって怒ったから、相手もひるんだのでしょう。
馬乗りになって相手の顔をげんこつで殴って...やろうと思った時、今度は私がひるみました。
優位に立ったことで満足し、それ以上、相手を傷つけることができなかったのです。
その瞬間、体を入れ替えられて、今度は私が下になってしまいました。
なすすべもなく、泣きながら防御するしかなかったのです。
他の人よりも得することとか、自分だけが美味しい思いをするということに対して、どうしても遠慮してしまうのです。
自分でも自分のことが不甲斐なかったです。
もっと強くなりたい。強くなって他の人を踏みつけてでも、のし上がるような生き方をしたい。
そういう思いもありましたが、私にはそれはできないと感じていたのです。
あるときから私は、あきらめました。
「自分はこういう性格なのだから、損をしてもしょうがない。」
そういうことを悩んでいることの方が、心が窮屈な感じがしていたのです。
ですからそうやって、開き直ったのです。
私は損をしてもいい。最初からそう決めていれば、何も悔やむこともない。
今になって思うのですが、それが運命の流れに乗って生きる方法 に近づくことだったのです。
タイへ赴任という話を聞かされた 時、正直に言えば、行きたくありませんでした。
岡山には買って半年しか住んでいないマンションもありました。
岡山で暮らして、毎月1回は田舎に帰って、両親に顔を見せて喜ばせたいとも思っていましたから。
それに私は英語がまったくダメです。ぜんぜん自信がありません。
それでも、誰かが行かなければならない。けれども、他の誰も行きたいとは思っていない。それなら私が行くしかない。
短い時間の中で、私がそう決心できたのも、今までの私の生き方があったからだと思うのです。
ピンチこそチャンスだと言います。
左遷されたり、失恋したり 、経験したくないようなことを無理やり経験させられることがあるでしょう。
でもそのとき、どういった態度でその出来事に臨むかによって、運命の流れに乗れるかどうかが決まります。
私は、これも自分の運命だと受け入れました。
そうして受け入れたからこそ、前向きに臨めたのです。
今になってわかることですが、タイへ来たことは正しい選択でした。
経済的にも、仕事の上でも、遊びにおいても、日本にあのままいたら絶対に無理だったと思えるような、豊かな経験と自由を得られたからです。
だから思うのです。
自己主張できない内気な性格であったことが、私にとって幸いなことだったのだと。
そのことに対して、開き直って受け入れたからこそ、道が開けたのだと。
たとえば友だち数人で何をして遊ぶか決めるときも、私は決まったことにしたがうだけです。
自分から「○○して遊ぼう」などと言うことはありませんでした。
また、何かにつけて損な役割を押し付けられました。
小学校のころは、毎年、学級委員長に選ばれました。
級長とも呼ばれ、親や親戚からは、名誉なことと喜ばれましたけど。
でも内実は、真面目でおとなしい私に、面倒な役割を押し付けただけです。
ですから学級委員という権限で級友に何かをさせるなんてことは、まったくできなかったのです。
高校のクラブ活動の時も、ハンドボールクラブでキャプテンをやらされました。
課外活動とは違いますが、学年の壁を越えて一緒に授業を受けたのです。
そのとき担当の先生から出席を取るように言われ、私はキャプテンの権限で下級生に、その役割を担わせようとしました。
するとその下級生が言いました。
「てめえがキャプテンだろうが。てめえがやれよ。」
野球部のごんたー(方言で悪ガキのこと)ですから、同じ野球部の先輩には媚びへつらっても、関係がない先輩のことは先輩とも思っていません。
私はしょうがなく、自分でやることにしました。
同じクラブの同級生から言われました。
「もっとビシッと言ってやったらいいのに。」
私は、自己主張できる人をうらやましく思ってました。
本当は私だってわがままを言いたいこともあるし、利己主義的に他の人のことなんか考えずに、自分が得になるような行動を選択したいこともある。
けれども、それができませんでした。
小学校の時も、一度だけ同学年のボスと取っ組み合いのケンカをしました。
どうしても許せないことがあったのです。
私はカレを押し倒し、馬乗りになりました。
普段はおとなしい私が本気になって怒ったから、相手もひるんだのでしょう。
馬乗りになって相手の顔をげんこつで殴って...やろうと思った時、今度は私がひるみました。
優位に立ったことで満足し、それ以上、相手を傷つけることができなかったのです。
その瞬間、体を入れ替えられて、今度は私が下になってしまいました。
なすすべもなく、泣きながら防御するしかなかったのです。
他の人よりも得することとか、自分だけが美味しい思いをするということに対して、どうしても遠慮してしまうのです。
自分でも自分のことが不甲斐なかったです。
もっと強くなりたい。強くなって他の人を踏みつけてでも、のし上がるような生き方をしたい。
そういう思いもありましたが、私にはそれはできないと感じていたのです。
あるときから私は、あきらめました。
「自分はこういう性格なのだから、損をしてもしょうがない。」
そういうことを悩んでいることの方が、心が窮屈な感じがしていたのです。
ですからそうやって、開き直ったのです。
私は損をしてもいい。最初からそう決めていれば、何も悔やむこともない。
今になって思うのですが、それが運命の流れに乗って生きる方法 に近づくことだったのです。
タイへ赴任という話を聞かされた 時、正直に言えば、行きたくありませんでした。
岡山には買って半年しか住んでいないマンションもありました。
岡山で暮らして、毎月1回は田舎に帰って、両親に顔を見せて喜ばせたいとも思っていましたから。
それに私は英語がまったくダメです。ぜんぜん自信がありません。
それでも、誰かが行かなければならない。けれども、他の誰も行きたいとは思っていない。それなら私が行くしかない。
短い時間の中で、私がそう決心できたのも、今までの私の生き方があったからだと思うのです。
ピンチこそチャンスだと言います。
左遷されたり、失恋したり 、経験したくないようなことを無理やり経験させられることがあるでしょう。
でもそのとき、どういった態度でその出来事に臨むかによって、運命の流れに乗れるかどうかが決まります。
私は、これも自分の運命だと受け入れました。
そうして受け入れたからこそ、前向きに臨めたのです。
今になってわかることですが、タイへ来たことは正しい選択でした。
経済的にも、仕事の上でも、遊びにおいても、日本にあのままいたら絶対に無理だったと思えるような、豊かな経験と自由を得られたからです。
だから思うのです。
自己主張できない内気な性格であったことが、私にとって幸いなことだったのだと。
そのことに対して、開き直って受け入れたからこそ、道が開けたのだと。
2012年08月07日
自分のことを愛せない理由
よく、「自分を愛せない人は他人も愛せない」ということを言います。
本当は他人を愛することが重要なのですが、その前提として、自己愛がなければならないというわけです。
たしかに、自分すら愛せない人というのは、自分を大切にできないわけですから、他人を大切にできるわけがないと言えるでしょうね。
たとえば、「どうせ自分なんて」と自己卑下する人は、まさに「自分を愛せない人」です。
そういう人は一見、他人の価値は認めているように見えます。自分はNGだけど他人はOKだと考えているように見えます。
しかし実際は、そうではありません。そういう人は、他人をうらやんで嫉妬したり、妬んだりするものです。
なぜなら自己卑下というのは、「私のことを認めてほしい」という気持ちの裏返しだからです。
本当は認めて欲しいけれど、そう言ったときに否定されるとつらい。だから最初に、自分で自分の価値を否定して見せているだけなのです。
そのため、「そうだよ。あなたなんて大したことないよ。」と同調されると、かえって腹が立ちます。
表面上は同意してくれたのだから喜ぶべきですが、自己卑下する人の本心は別なので、同意されると自分が否定された気持ちになるのです。
こういう自己卑下する人が必要としている他人とは、その人の価値観で判断してくれる人ではなく、自分を認め愛してくれる人だとわかります。
つまり、愛してくれる人は自分にとって価値があるけれど、愛してくれない人は価値がないと思っているのです。
したがって、そのままの他人の価値を認めているわけではないのです。
それは、他人を大切にしていないということですよね。だから、自分を愛せない人は、他人を大切にできないのです。
ではそういう人は、どうして自分の価値を認められないのでしょうか?どうして自分を愛せないのでしょうか?
それは、心に不安があるからです。
その不安を抱えるようになった理由は、まだ子どもの頃、しっかりと愛されなかったからです。
愛するということは、そのままでいいんだよと認めることです。ただ存在するだけで素晴らしいのだと評価することです。
しかし考えるまでもなく、ほとんどの人はそういう目で子どもを見ません。
何か間違ったことをするんじゃないか、悪いことをするんじゃないかと心配し、正しく生きられるように導こうとします。
一見、それは正しい行為のように見えますが、愛かどうかという観点で見るなら、それは愛ではないと言わざるを得ません。
「正しく生きられるように」と言う時の「正しく」とは、いったいどういうことでしょう?
これは何らかの価値観ではないでしょうか?
つまり、大人が自分の価値観を子どもに押し付けようとしているだけなのです。
本当は価値観は人それぞれなのに、それを無視して一方的に自分の価値観を押し付けています。
だから子どもは、「自分の価値観で判断してはいけないのだ」と思うようになるのです。
それはつまり、自分は「自分の価値観で判断することもできない価値のない人間である」ということを、受け入れることを意味します。
「そうは言っても、大人の目から見れば間違っているとわかっているのだから、そういうことをさせないようにするのが子ども幸せにつながることじゃないの?」
そう言いたい気持ちはわかりますが、そこが違うのです。
たとえば赤ちゃんが熱くなっているストーブを触ろうとします。赤ちゃんは何でも興味があるから、触りたいのです。
でもお母さんは、火傷をして泣き叫ぶ赤ちゃんの未来がわかるから、あわててやめさせようとします。
時には怒鳴りつけたり、手を叩いたりするかもしれませんね。
すると赤ちゃんは、ストーブを触ることはお母さんを怒らせることだと理解します。
つまり、お母さんがダメということをしようとすると、お母さんは自分を愛してくれなくなると思うのです。
こういうことが繰り返されると、赤ちゃんはお母さんに依存するようになります。
お母さんから愛してもらうためには、お母さんに逆らってはいけないと学習するのです。
自分が触りたくないからストーブを触らないのではなく、お母さんから愛されたいから触らないのです。
「本当は触りたいのに。」その気持ちは心の奥底に抑圧されるのです。
もしお母さんが本当に赤ちゃんを愛するなら、赤ちゃんの価値観を大切にするでしょう。
少なくとも、怒鳴ったり叩いたりして、赤ちゃんを怯えさせるようなことはしないはずです。
ストーブに触ってほしくないのは、赤ちゃんが火傷をしないようにするためです。
それならまず触れるようなところにストーブなんて置かないこと。
あるいは軽く触らせて、熱いということをわからせれば良いのです。
そうすれば赤ちゃんは、熱くて不快だと感じますから、触らなくなるでしょう。
心配する気持ちはわかりますが、もっと失敗するチャンスを与えることです。
大人からすれば失敗するとわかっていても、あえてそれをさせること。
そうすることで赤ちゃんは、体験から学ぶことができます。
そうやって赤ちゃんなりの価値観を育ませることが、本当の意味で愛することなのです。
おそらくほとんどの人が、多かれ少なかれ愛されずに育ったはずです。
それによって心に不安を抱えるようになりました。
その不安が強いと、自分を愛せなくなり、結果として他人を愛せなくなるのです。
しかし、大人になった今、周りの誰かから愛してもらう必要性はありません。
子どもの頃に愛されなかったからと言って、手遅れではないのです。
自分で心にこびりついた不安を取り去り、愛情で満たすことができます。
そうやって自分自身をメンテナンスすることが大切なのです。
しっかりとメンテナンスをして、自分を愛せる人になりましょう。
そうすれば、他人を愛せる人になれますから。
本当は他人を愛することが重要なのですが、その前提として、自己愛がなければならないというわけです。
たしかに、自分すら愛せない人というのは、自分を大切にできないわけですから、他人を大切にできるわけがないと言えるでしょうね。
たとえば、「どうせ自分なんて」と自己卑下する人は、まさに「自分を愛せない人」です。
そういう人は一見、他人の価値は認めているように見えます。自分はNGだけど他人はOKだと考えているように見えます。
しかし実際は、そうではありません。そういう人は、他人をうらやんで嫉妬したり、妬んだりするものです。
なぜなら自己卑下というのは、「私のことを認めてほしい」という気持ちの裏返しだからです。
本当は認めて欲しいけれど、そう言ったときに否定されるとつらい。だから最初に、自分で自分の価値を否定して見せているだけなのです。
そのため、「そうだよ。あなたなんて大したことないよ。」と同調されると、かえって腹が立ちます。
表面上は同意してくれたのだから喜ぶべきですが、自己卑下する人の本心は別なので、同意されると自分が否定された気持ちになるのです。
こういう自己卑下する人が必要としている他人とは、その人の価値観で判断してくれる人ではなく、自分を認め愛してくれる人だとわかります。
つまり、愛してくれる人は自分にとって価値があるけれど、愛してくれない人は価値がないと思っているのです。
したがって、そのままの他人の価値を認めているわけではないのです。
それは、他人を大切にしていないということですよね。だから、自分を愛せない人は、他人を大切にできないのです。
ではそういう人は、どうして自分の価値を認められないのでしょうか?どうして自分を愛せないのでしょうか?
それは、心に不安があるからです。
その不安を抱えるようになった理由は、まだ子どもの頃、しっかりと愛されなかったからです。
愛するということは、そのままでいいんだよと認めることです。ただ存在するだけで素晴らしいのだと評価することです。
しかし考えるまでもなく、ほとんどの人はそういう目で子どもを見ません。
何か間違ったことをするんじゃないか、悪いことをするんじゃないかと心配し、正しく生きられるように導こうとします。
一見、それは正しい行為のように見えますが、愛かどうかという観点で見るなら、それは愛ではないと言わざるを得ません。
「正しく生きられるように」と言う時の「正しく」とは、いったいどういうことでしょう?
これは何らかの価値観ではないでしょうか?
つまり、大人が自分の価値観を子どもに押し付けようとしているだけなのです。
本当は価値観は人それぞれなのに、それを無視して一方的に自分の価値観を押し付けています。
だから子どもは、「自分の価値観で判断してはいけないのだ」と思うようになるのです。
それはつまり、自分は「自分の価値観で判断することもできない価値のない人間である」ということを、受け入れることを意味します。
「そうは言っても、大人の目から見れば間違っているとわかっているのだから、そういうことをさせないようにするのが子ども幸せにつながることじゃないの?」
そう言いたい気持ちはわかりますが、そこが違うのです。
たとえば赤ちゃんが熱くなっているストーブを触ろうとします。赤ちゃんは何でも興味があるから、触りたいのです。
でもお母さんは、火傷をして泣き叫ぶ赤ちゃんの未来がわかるから、あわててやめさせようとします。
時には怒鳴りつけたり、手を叩いたりするかもしれませんね。
すると赤ちゃんは、ストーブを触ることはお母さんを怒らせることだと理解します。
つまり、お母さんがダメということをしようとすると、お母さんは自分を愛してくれなくなると思うのです。
こういうことが繰り返されると、赤ちゃんはお母さんに依存するようになります。
お母さんから愛してもらうためには、お母さんに逆らってはいけないと学習するのです。
自分が触りたくないからストーブを触らないのではなく、お母さんから愛されたいから触らないのです。
「本当は触りたいのに。」その気持ちは心の奥底に抑圧されるのです。
もしお母さんが本当に赤ちゃんを愛するなら、赤ちゃんの価値観を大切にするでしょう。
少なくとも、怒鳴ったり叩いたりして、赤ちゃんを怯えさせるようなことはしないはずです。
ストーブに触ってほしくないのは、赤ちゃんが火傷をしないようにするためです。
それならまず触れるようなところにストーブなんて置かないこと。
あるいは軽く触らせて、熱いということをわからせれば良いのです。
そうすれば赤ちゃんは、熱くて不快だと感じますから、触らなくなるでしょう。
心配する気持ちはわかりますが、もっと失敗するチャンスを与えることです。
大人からすれば失敗するとわかっていても、あえてそれをさせること。
そうすることで赤ちゃんは、体験から学ぶことができます。
そうやって赤ちゃんなりの価値観を育ませることが、本当の意味で愛することなのです。
おそらくほとんどの人が、多かれ少なかれ愛されずに育ったはずです。
それによって心に不安を抱えるようになりました。
その不安が強いと、自分を愛せなくなり、結果として他人を愛せなくなるのです。
しかし、大人になった今、周りの誰かから愛してもらう必要性はありません。
子どもの頃に愛されなかったからと言って、手遅れではないのです。
自分で心にこびりついた不安を取り去り、愛情で満たすことができます。
そうやって自分自身をメンテナンスすることが大切なのです。
しっかりとメンテナンスをして、自分を愛せる人になりましょう。
そうすれば、他人を愛せる人になれますから。
2012年08月08日
この歌を聴いて泣きました
人それぞれ、心に残る歌があるでしょう。
私も歌は大好きですから、いろいろと思い出に残る歌があります。
そんな歌を紹介したいと思いました。
その中で、私が絶対に泣いてしまう歌を紹介します。
渡辺真知子さんの「今は泣かせて」です。
CD化されたアルバム「海につれていって」の中に入っているようです。
歌詞を書くと著作権を侵害する可能性があるので、概要をまとめてみますね。
真知子さんは、状況をたんたんと言葉で描きながら、心情を表現するのが得意です。
なので、その気持ちを表現する情景が広がります。
白いブラウスが透けるほど雨に濡れ、コンクリートの街の片隅にたたずむ私。
傘も差さずに一人で泣き濡れている。
行く宛もなく、戻るところもない。
ただ、あなたを追いかけた。懸命に追いかけた。けれども、もう歩く力がないの。
せめて「さようなら」だけ言わせてほしい。
ふと振り向くと、子猫がついてきていた。
抱き上げると胸に、必死にしがみついてくる。
きっと寂しかったのでしょう。そう自分に重ねて思うのです。
雨よ、どうかこの悲しみも一緒に流してほしい。そして忘れさせてほしいの。
傘を差しかけてくる人もなく、ただ孤独に耐えている私だから。
こんな感じです。少しはイメージが伝わるといいのですけど。
この歌をよく聴いたころは、私も孤独だったのですね。
ちょうどそのころ、私も白い子猫を見つけました。
ミャーミャー泣きながら慕ってくるので、つい抱いてしまったのです。
抱くと、やはり子猫は可愛いものです。飼いたくなりました。
けれどもそこは、猫など飼えない場所だったので、私は隠して飼うことにしたのです。
私が部屋に戻ってくると、すぐに駆け寄ってきて、ズボンをするするっと登り、私の肩まで上がります。
子猫ならではの身軽さでしょうか。
そして、私の耳たぶを吸うのです。お母さんのおっぱいに見えたのかもしれません。
ただ、数日で見つかってしまいました。
残念でしたが、また街中で子猫を放すことになりました。
私も、愛されたくて、愛されたくて、一所懸命にある人を追いかけたのです。
その人から愛されるようになろうと、自分を変えようともがいたのです。
けれども、それはとても苦しいことだった。だから、だんだんと進めなくなってしまったのです。
本当は前に進みたい。その人について行きたい。
もし、その人がもっと愛してくれるなら、力を与えてくれるなら、ついて行けるのに...。
愛されることに飢えて、愛を渇望していたころの私の姿がそこにあります。
だからこの歌を聴くと、その当時が思い出されて泣いてしまうのです。
今はもう、誰かから愛される必要性を感じなくなりました。
愛されなくても、幸せでいられるからです。
そうなって初めて、ものすごく愛されるようになった気がします。
愛を求めるのは、愛がないと思っているから。
もし視点を変えて、愛があると気づくなら、もう愛を求める必要性はありません。
幸せの青い鳥は、探し求めたときは見つかりません。
幸せだと気づいた時、すぐそばにいるのです。
私も歌は大好きですから、いろいろと思い出に残る歌があります。
そんな歌を紹介したいと思いました。
その中で、私が絶対に泣いてしまう歌を紹介します。
渡辺真知子さんの「今は泣かせて」です。
CD化されたアルバム「海につれていって」の中に入っているようです。
歌詞を書くと著作権を侵害する可能性があるので、概要をまとめてみますね。
真知子さんは、状況をたんたんと言葉で描きながら、心情を表現するのが得意です。
なので、その気持ちを表現する情景が広がります。
白いブラウスが透けるほど雨に濡れ、コンクリートの街の片隅にたたずむ私。
傘も差さずに一人で泣き濡れている。
行く宛もなく、戻るところもない。
ただ、あなたを追いかけた。懸命に追いかけた。けれども、もう歩く力がないの。
せめて「さようなら」だけ言わせてほしい。
ふと振り向くと、子猫がついてきていた。
抱き上げると胸に、必死にしがみついてくる。
きっと寂しかったのでしょう。そう自分に重ねて思うのです。
雨よ、どうかこの悲しみも一緒に流してほしい。そして忘れさせてほしいの。
傘を差しかけてくる人もなく、ただ孤独に耐えている私だから。
こんな感じです。少しはイメージが伝わるといいのですけど。
この歌をよく聴いたころは、私も孤独だったのですね。
ちょうどそのころ、私も白い子猫を見つけました。
ミャーミャー泣きながら慕ってくるので、つい抱いてしまったのです。
抱くと、やはり子猫は可愛いものです。飼いたくなりました。
けれどもそこは、猫など飼えない場所だったので、私は隠して飼うことにしたのです。
私が部屋に戻ってくると、すぐに駆け寄ってきて、ズボンをするするっと登り、私の肩まで上がります。
子猫ならではの身軽さでしょうか。
そして、私の耳たぶを吸うのです。お母さんのおっぱいに見えたのかもしれません。
ただ、数日で見つかってしまいました。
残念でしたが、また街中で子猫を放すことになりました。
私も、愛されたくて、愛されたくて、一所懸命にある人を追いかけたのです。
その人から愛されるようになろうと、自分を変えようともがいたのです。
けれども、それはとても苦しいことだった。だから、だんだんと進めなくなってしまったのです。
本当は前に進みたい。その人について行きたい。
もし、その人がもっと愛してくれるなら、力を与えてくれるなら、ついて行けるのに...。
愛されることに飢えて、愛を渇望していたころの私の姿がそこにあります。
だからこの歌を聴くと、その当時が思い出されて泣いてしまうのです。
今はもう、誰かから愛される必要性を感じなくなりました。
愛されなくても、幸せでいられるからです。
そうなって初めて、ものすごく愛されるようになった気がします。
愛を求めるのは、愛がないと思っているから。
もし視点を変えて、愛があると気づくなら、もう愛を求める必要性はありません。
幸せの青い鳥は、探し求めたときは見つかりません。
幸せだと気づいた時、すぐそばにいるのです。
王様マインドと奴隷マインド
「人脈術」の鳥居祐一さんが、メルマガで紹介していた本です。
アマゾンキャンペーンをやっていたので、それに協力して購入してみました。
内容は、人は本来、王様だということです。それが自分を見失って、奴隷になってしまっているのだと。
著者の松島修氏は、聖書に対する造詣が深いようですね。
この王様とか奴隷の話も、聖書からきているようです。
言わんとしているところは、私がこれまで読んできた多くの本に書かれているものと、それほど違いはありません。
ただ、その本質的な部分にみごとに切り込んでいる気がします。
私も実は、聖書をベースに説明するのが楽だなあと思うことがよくありました。
でも、多くの日本人は聖書の知識があまりないということと、キリスト教とか宗教ということに抵抗があると思うのです。
それで、なるべくその話題を減らして説明してきたのですが、この本では、遠慮なく聖書の内容を前提に説明しています。
ただそれだけではなく、現実的な自分の生活や仕事などについても、具体的な説明をしています。
特にすごいと思ったのが、152ページ書かれていた内容です。
奴隷マインドを刺激するようなビジネスは、いずれ廃れるから、王様マインドのビジネスをするようにというアドバイスをしています。
具体的に奴隷マインドのビジネスのセールストークがあげられていました。以下、少し引用します。
・「働かないで大金を手に入れる方法」・・・仕事は使命なのにその使命を否定
・「貧乏から脱出して大富豪になる秘訣」・・・大富豪を目的に設定している
・「愛される方法」・・・すでに(天より)愛されているのに愛されていないように思わせている
お金というのは、使命を遂行するための手段だと言うのです。
したがって、ただお金持ちになるというのは、奴隷マインドの発想だと。
お金持ちになるかどうかというのは、単に結果に過ぎず、目標にすべきものではないと言います。
私は、この考え方にはとても共感できます。
「大富豪アニキの教え」も、大富豪になる方法として書かれているわけではありません。
ただ人としての道を歩むなら、神がいるなら見捨てるはずがないと言っているのです。
つまり、結果として大富豪になるという話です。
それに対して「再現性がない」という批判的なレビューがありましたが、それがそもそも考え違いなのです。
大富豪になるばかりが成功でもないし、天命に生きることでもないのですから。
お金に縛られず、自分らしく生きて、本当に満足する人生を送りたい。
そう考える人は、すでに奴隷マインドから抜けようとしているのだと思います。
●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。