前にTVアニメ「ルパン三世」のことを書きましたが、私は美しさを求めて生きることに憧れます。
アニメの歌では「男の美学」と言っていますが、「生き方の美学」とでも言いましょうか。
では「美しく生きる」とは、どういうことでしょうか?
そのことを考える上で思い出すのは、映画「ポセイドン・アドベンチャー」です。
ニューヨークからギリシャに向かう豪華客船が、大地震で発生した津波によって転覆するという物語です。
主人公のスコット牧師は、転覆して上部になった船底へ行って救助を待てば助かる可能性があると主張して、信じる人だけを連れて船底へ向かいます。
途中で何度も困難な状況が訪れ、一人、また一人と死んでいきます。
最後に、出口近くのスチームパイプから高熱の蒸気が噴出し、一行を妨げます。
意を決したスコット牧師はパイプに飛びつき、ハッチを閉めて障害を取り除いたのです。
しかしスコット牧師は、力尽きて水の中に落ちてしまいます。
でも他のみんなは、そのお陰で船底へ到達して救われるのです。
あのときスコット牧師は、死を覚悟したはずです。
スチームパイプに飛びつくことはできても、戻ってくることはできない。
死ぬしかない。そうわかっていて、それでもみんなを助けるためにはそうするしかないと思ったから、パイプに飛びついたのです。
この物語は、実際にあったタイタニック号の沈没事件をモチーフにしたとも言われます。
その後作られた映画「タイタニック」では、恋する男女の物語を重ねながら、最後はジャック(レオナルド・デカプリオ)がローズ(グロリア・スチュアート)を助けるために、力尽きで沈んでいきます。
この映画が感動的なのも、やはり誰かを守るために自分の命を捨てる行為に感銘するからでしょう。
今年はタイタニック号の沈没100周年記念ということで、さまざまなイベントが行われています。
私も先日、セントラル・ワールド(伊勢丹などが入っているバンコクのショッピングモール)で行われていたタイタニック号の資料展示会へ行きました。
そういうイベントに人々が集まるのは、単に大勢の人々が亡くなったというだけでなく、映画の影響が大きかったと思うのです。
美しく生きるということは、自分にとってもっとも大事な命を他の誰かに捧げること。
それも落ち葉が何の未練もなく枝から落ちるように、さも当然であるようにさらりと捨てること。
そういう生き方だと思うのです。
ただ間違ってほしくないのは、だから国のために命を捧げなさいと言いたいのではありません。
強制されるものでもないし、扇動されるものでもないからです。
聖書には、「友のために自分の命を捨てる、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)とあります。
たしかに命を投げ出すことが感動的なのですが、本質はそうではなく、大きな愛に感動しているのです。
感情は魂の声だと言いました。感動は魂が「これが私だ」と言って喜んでいることを示しているのだと。
だとすると、美しく生きるとは、愛に生きる(=愛する)ということではないでしょうか。
愛することしか他に何もない。
私たちは、自分が愛であることを体験しようとして生きていると思うのです。
2012年07月08日
2012年07月09日
賢者の言葉
現在、世界をリードする6人のオピニオンリーダーたちの、含蓄のある言葉が綴られています。
その6人には、ダライ・ラマ法王14世やショーン・スティーブンソンなどが入っています。
ショーンは、身長90cm、車椅子のモチベーターとして有名な人です。
彼の姿を初めて見た人は、その不恰好な姿に驚き、憐れむかもしれません。
しかし、彼の話を聴いているうちに、そのほとばしるような情熱に心を打たれます。
本のカバーをめくると、こう書かれています。
「自分に向かって言う言葉」によって、自分が創られるのです。
「オレなんか、どうせダメなやつだよ。」「あんなバカな奴がいるから、世の中が悪くなるんだ。」
そういう言葉を使っていれば、ダメな自分が、上手く行かない自分が、創られます。
画期的なオンライン靴小売企業を作ったCEOのトニー・シェイは、こう言います。
「札束よりも夢を追え」
自分のビジョンに対して本当に熱意を持つなら、お金はあとから付いてくるのだと。
「ザ・シークレット」に出演した世界的なセラピストでもあるビル・ハリスも、こう言います。
「お金のためでなく、それに情熱を持って実行する」
どんなに素晴らしいセミナーに参加しても、実際に行動を起こすのはその2%だと言います。
何もしなければ何も変わりません。だから98%の人は変わらないのです。
あなたは、2%の行動する人の中に入ることを望むでしょうか?
理論(理屈)がわかったら、実践(実行)することです。
あなたは今から、どんな言葉を使いますか?
決めるのは、あなたです。
生きるとは選択すること
「なかなか決められないのよね。」
悩む人がよく口にするセリフです。
小さいことだと、レストランで何を食べるかがすぐに決められない。
大きいことだと、この人と結婚するかどうかが決められない。
そういうように選択肢がいくつかあるとき、どれを選択するのが良いかがわからず、選べない状態になります。
どうして迷うのでしょうか?
それは、どの選択肢にもメリットとデメリットがあるからです。
また、そのメリットやデメリットが、不確定なことがあるからです。
たとえば、友だちから映画に誘われたとしましょう。
一緒に映画に行くことにした場合、友だちと会えるとか、映画を楽しめるメリットがあります。
その代わり、1人でゆっくりと本を読んで休日を過ごすことは、諦めなければなりません。
そういう楽しみを得られないデメリットがあるわけです。
また、映画が楽しいかどうかは、見てみないとわかりません。メリットが不確定なのです。
まあ普通は、このくらいのことではあまり迷わないでしょうけど、決められずに迷う人の考え方は、要はこういうことなのです。
どうして決められないかと言うと、たいていはデメリットに意識をフォーカスしているからです。
マイナスを避けることを強く念じるために、少しでもマイナス要因があると、選ぶことを躊躇してしまいます。
つまり心にある怖れが、決断を鈍らせているのです。
しかし、よく考えてみてほしいのです。
出来事には必ずメリットとデメリットがあります。
メリットだけ享受して、デメリットを受け取らないということはできません。
だとしたら、デメリットを強く意識することに、どんなメリットがあると言うのでしょう。
どうせデメリットを受け取るのですから、ならばその状況で、どうすれば楽しめるかを考えてみれば、自ずと答は出てきます。
デメリットを意識しないことです。逆に言えば、メリットに意識をフォーカスすることです。
それを、「リスクを背負う覚悟」と言います。
悪いことが起こるかもしれないけれど、それはしょうがないことだと受け入れることです。
決められない人は、デメリットを避けようとして、決断を遅らせます。
場合によっては、自分で決めることをせずに、成り行きに任せたりもします。
決めたことによる責任を負いたくないからです。
でもそれは、「決めない」ことを決めたに過ぎません。
生きるということは、選択の連続なのです。これを避けることはできません。
決めないという選択肢を選ぶことも可能ですが、それもまた自分が決めたことになるのです。
何かを選択することによって人生を創造する。それが生きるということなのですから。
そうだとしたら、あとは自分で積極的に人生に関わるか、それとも消極的に関わるかの違いだけです。
いずれにせよ、あなたの人生はあなたが選択した結果なのです。
悩む人がよく口にするセリフです。
小さいことだと、レストランで何を食べるかがすぐに決められない。
大きいことだと、この人と結婚するかどうかが決められない。
そういうように選択肢がいくつかあるとき、どれを選択するのが良いかがわからず、選べない状態になります。
どうして迷うのでしょうか?
それは、どの選択肢にもメリットとデメリットがあるからです。
また、そのメリットやデメリットが、不確定なことがあるからです。
たとえば、友だちから映画に誘われたとしましょう。
一緒に映画に行くことにした場合、友だちと会えるとか、映画を楽しめるメリットがあります。
その代わり、1人でゆっくりと本を読んで休日を過ごすことは、諦めなければなりません。
そういう楽しみを得られないデメリットがあるわけです。
また、映画が楽しいかどうかは、見てみないとわかりません。メリットが不確定なのです。
まあ普通は、このくらいのことではあまり迷わないでしょうけど、決められずに迷う人の考え方は、要はこういうことなのです。
どうして決められないかと言うと、たいていはデメリットに意識をフォーカスしているからです。
マイナスを避けることを強く念じるために、少しでもマイナス要因があると、選ぶことを躊躇してしまいます。
つまり心にある怖れが、決断を鈍らせているのです。
しかし、よく考えてみてほしいのです。
出来事には必ずメリットとデメリットがあります。
メリットだけ享受して、デメリットを受け取らないということはできません。
だとしたら、デメリットを強く意識することに、どんなメリットがあると言うのでしょう。
どうせデメリットを受け取るのですから、ならばその状況で、どうすれば楽しめるかを考えてみれば、自ずと答は出てきます。
デメリットを意識しないことです。逆に言えば、メリットに意識をフォーカスすることです。
それを、「リスクを背負う覚悟」と言います。
悪いことが起こるかもしれないけれど、それはしょうがないことだと受け入れることです。
決められない人は、デメリットを避けようとして、決断を遅らせます。
場合によっては、自分で決めることをせずに、成り行きに任せたりもします。
決めたことによる責任を負いたくないからです。
でもそれは、「決めない」ことを決めたに過ぎません。
生きるということは、選択の連続なのです。これを避けることはできません。
決めないという選択肢を選ぶことも可能ですが、それもまた自分が決めたことになるのです。
何かを選択することによって人生を創造する。それが生きるということなのですから。
そうだとしたら、あとは自分で積極的に人生に関わるか、それとも消極的に関わるかの違いだけです。
いずれにせよ、あなたの人生はあなたが選択した結果なのです。
人生をリセットする決意が私を変えました
「本気で変わりたいなら引越ししなさい」 という記事で、生活環境を変えることをお勧めしました。
私は今までに6回の大きな引越しを経験しましたが、前回はその1回目について「生きるためにはカラを破るしかなかったのです」 という記事を書きました。
今回は、2回目の引越しについて書きます。
2.2つ目の大学に新聞奨学生として入る ために広島から大都会の東京(住所は川崎市ですが)へ
新興宗教にハマった までは良かったのですが、様々なことを経験する中で生き方に行き詰ってしまいました。
その結果、人生をリセットしようとして、大学に入学し直すことにした のです。
2つ目の大学に通うために、私は神奈川県川崎市へ引越ししました。
まずは新聞奨学生としての生活を始めなくてはなりません。
田園都市線の高津駅の前に読売新聞の販売所があって、そこで働くことになりました。
そこには同じ新聞奨学生の先輩も多数いて、同期生も他に4人いたと思います。
新聞配達に必要な知識を、一から先輩に教えてもらいました。
折込チラシを効率良く入れる方法、順路帳の見方や書き方、自転車に安定的にたくさんの新聞を積む方法、自転車を倒さずに立てる方法などなど。
最初は順路帳を見ながら配達するので、ものすごく時間がかかります。
それを私より年下の先輩が、辛抱強く優しく教えてくれました。
まったく初めての生活環境の中で、優しく受け入れられたということが、どれほどありがたかったかしれません。
同じ大学へ通う先輩(もちろん年下です)もいて、大学のこともあれこれ教えてもらいました。
どの先生の単位が取りやすいとか、通学の仕方なども。
通学するには自転車で溝の口駅へ行き、南武線に乗り換えて登戸駅へ。そこで小田急線に乗り換えてから鶴川駅まで行きます。
小田急線は逆方向になるので空いていますが、ここで座ると大変です。眠ってしまうからです。
乗り過ごして隣の玉川学園駅や、ひどいときは町田駅まで行って折り返したことが何度かあります。
鶴川駅からは歩いても行けますが、たいていはバスに乗って大学まで行きました。
配達後に販売所で朝食を食べますが、それから部屋に戻ってもまだ7時くらいです。
なるべく1限目の授業を取るようにしましたが、それでもまだたっぷり時間があります。
それでも私は、すぐに大学へ行くようにしました。部屋で横になると、寝てしまうからです。
大学に早く着いて、1限目の授業が始まる教室で、机に突っ伏して寝たものです。
それだけ睡眠不足な状態が続きましたが、まだ若かったし、緊張感があったからやれたのでしょう。
そういう緊張感を持ち続けられたのは、1つには人生をリセットしたという思いです。もう後には引けなかったのです。
私には、逃げて帰る場所はない。ここで4年間やりきって、大学を卒業するしかないのだ。そう、思っていました。
そう覚悟を決められたのも、自分で環境を一変させたからでしょうね。
新聞配達そのものもそうでしたが、それと大学の両立は、けして楽なものではありません。
少なくない人が大学や専門学校の方をあきらめてしまい、留年したり、退学することになります。
中には、配達中に自転車を置いたまま、逃げ出す人もいます。集金中に回収した新聞代を持ったまま、姿をくらます人もいたようです。
私にはそれなりの覚悟がありましたから、まずそういうことにはならないと思っていました。
ただ、マンネリになると人の気持ちは変わります。
そう考えて、マンネリにならないように、自分の気持ちを鼓舞することを考えたのです。
その1つの方法が、「心を癒す鏡のワーク」 でした。
鏡に映る自分自身を励まし、元気づけたのです。
「こんなこと大したことじゃない。お前ならやれる。大丈夫。お前は天才なのだから。」
ともかく自分を褒め、認め、激励したのです。
他にも自分に対する応援歌を替え歌で作って、配達中などに歌いました。
気分が高揚する音楽をまとめてカセットテープに入れ、機会があれば聴くようにしました。
こういうことをしてマンネリ化を防ぎ、常に新たな気持ちで日々に臨もうとしたのです。
昔、中国の殷王朝の湯王は、毎朝洗顔するたらいに、次の文字を掘らせたそうです。
「湯(とう)の盤の銘に曰(いわ)く、苟(まこと)に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなりと。」
洗顔するたびにその文字を読み、新たな気持で政治に臨もうとしたのでしょう。
「初心忘れるべからず」と言いますが、それにも努力が必要だと思います。
そしてその努力を支えたのは、「自分が決めたことだ。撤退するという選択肢はない。」と、退路を断つ決意だったと、今になって思うのです。
私は今までに6回の大きな引越しを経験しましたが、前回はその1回目について「生きるためにはカラを破るしかなかったのです」 という記事を書きました。
今回は、2回目の引越しについて書きます。
2.2つ目の大学に新聞奨学生として入る ために広島から大都会の東京(住所は川崎市ですが)へ
新興宗教にハマった までは良かったのですが、様々なことを経験する中で生き方に行き詰ってしまいました。
その結果、人生をリセットしようとして、大学に入学し直すことにした のです。
2つ目の大学に通うために、私は神奈川県川崎市へ引越ししました。
まずは新聞奨学生としての生活を始めなくてはなりません。
田園都市線の高津駅の前に読売新聞の販売所があって、そこで働くことになりました。
そこには同じ新聞奨学生の先輩も多数いて、同期生も他に4人いたと思います。
新聞配達に必要な知識を、一から先輩に教えてもらいました。
折込チラシを効率良く入れる方法、順路帳の見方や書き方、自転車に安定的にたくさんの新聞を積む方法、自転車を倒さずに立てる方法などなど。
最初は順路帳を見ながら配達するので、ものすごく時間がかかります。
それを私より年下の先輩が、辛抱強く優しく教えてくれました。
まったく初めての生活環境の中で、優しく受け入れられたということが、どれほどありがたかったかしれません。
同じ大学へ通う先輩(もちろん年下です)もいて、大学のこともあれこれ教えてもらいました。
どの先生の単位が取りやすいとか、通学の仕方なども。
通学するには自転車で溝の口駅へ行き、南武線に乗り換えて登戸駅へ。そこで小田急線に乗り換えてから鶴川駅まで行きます。
小田急線は逆方向になるので空いていますが、ここで座ると大変です。眠ってしまうからです。
乗り過ごして隣の玉川学園駅や、ひどいときは町田駅まで行って折り返したことが何度かあります。
鶴川駅からは歩いても行けますが、たいていはバスに乗って大学まで行きました。
配達後に販売所で朝食を食べますが、それから部屋に戻ってもまだ7時くらいです。
なるべく1限目の授業を取るようにしましたが、それでもまだたっぷり時間があります。
それでも私は、すぐに大学へ行くようにしました。部屋で横になると、寝てしまうからです。
大学に早く着いて、1限目の授業が始まる教室で、机に突っ伏して寝たものです。
それだけ睡眠不足な状態が続きましたが、まだ若かったし、緊張感があったからやれたのでしょう。
そういう緊張感を持ち続けられたのは、1つには人生をリセットしたという思いです。もう後には引けなかったのです。
私には、逃げて帰る場所はない。ここで4年間やりきって、大学を卒業するしかないのだ。そう、思っていました。
そう覚悟を決められたのも、自分で環境を一変させたからでしょうね。
新聞配達そのものもそうでしたが、それと大学の両立は、けして楽なものではありません。
少なくない人が大学や専門学校の方をあきらめてしまい、留年したり、退学することになります。
中には、配達中に自転車を置いたまま、逃げ出す人もいます。集金中に回収した新聞代を持ったまま、姿をくらます人もいたようです。
私にはそれなりの覚悟がありましたから、まずそういうことにはならないと思っていました。
ただ、マンネリになると人の気持ちは変わります。
そう考えて、マンネリにならないように、自分の気持ちを鼓舞することを考えたのです。
その1つの方法が、「心を癒す鏡のワーク」 でした。
鏡に映る自分自身を励まし、元気づけたのです。
「こんなこと大したことじゃない。お前ならやれる。大丈夫。お前は天才なのだから。」
ともかく自分を褒め、認め、激励したのです。
他にも自分に対する応援歌を替え歌で作って、配達中などに歌いました。
気分が高揚する音楽をまとめてカセットテープに入れ、機会があれば聴くようにしました。
こういうことをしてマンネリ化を防ぎ、常に新たな気持ちで日々に臨もうとしたのです。
昔、中国の殷王朝の湯王は、毎朝洗顔するたらいに、次の文字を掘らせたそうです。
「湯(とう)の盤の銘に曰(いわ)く、苟(まこと)に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなりと。」
洗顔するたびにその文字を読み、新たな気持で政治に臨もうとしたのでしょう。
「初心忘れるべからず」と言いますが、それにも努力が必要だと思います。
そしてその努力を支えたのは、「自分が決めたことだ。撤退するという選択肢はない。」と、退路を断つ決意だったと、今になって思うのです。
2012年07月10日
暗闇が美しく見せてくれました
昨夜(2012年7月9日)、チャオプラヤー川のナイトクルーズへ行きました。
日本からお客さんがあったので、バンコクの夜を楽しんでいただくために計画したものです。
予約したのは、シャングリラ・ホテルから出ているホライゾン号。
高級ホテルそのままに、豪華ブッフェがクルージング中に楽しめます。
桟橋に静かに到着した船を見ていると、それだけで幻想的な気分になりますね。
出稿するとすぐに、用意されたブッフェをいただくことができます。
正規予約だと2,500バーツもするだけあって、さすがに豪華です。(飲み物代は別料金です。)
タイ料理から西洋料理まで、何種類もの料理がずらっと並んでいます。しかも、どれも美味しくてハズレがありません。
デザートにもケーキやフルーツがたくさんあり、またチーズも何種類かあって、ワインのお供に最適だったようです。
食事が終わると、外に出て風に当たることができます。
ワット・ポー、ワット・プラケオ、ワット・アルンなどの名だたるお寺がライトアップされていて、それらを一望することができます。
上流に向かった船は、チャオプラヤー川に掛かる橋でもっとも美しいとされる、ラマ8世橋を超えてUターンします。
左右非対称に張られたワイヤーが、暗闇の中に浮かび上がります。
橋脚の向かって右側が川の部分で、その橋の重さをワイヤーで支えています。
向かって左側は、陸の部分になり、橋脚が倒れないように引っ張っています。
下りは、川面に浮かぶ他の船の明かりや、ライトアップされたいくつかの建物を楽しめます。もちろん、お寺も再び見られます。
昼間に見たら、チャオプラヤー川は土色に濁っているので、これほどきれいには見えないでしょう。
闇が余分な情報をかき消してくれるので、美しい姿だけが目に入ってくるのです。
約2時間のクルージングが終わってシャングリラ・ホテルに戻ると、ムッとした暑さが襲って来ました。
川の上は風があって涼しく感じましたが、間違いなくここは暑いタイの国。
日本から来られた方も、メガネが曇ってしまって驚かれたようです。
人々は昔、暗闇を怖れました。
それで灯りを発明し、夜でも明るくすることで安心を求めたのでしょう。
でもそうすることで、暗闇を楽しんでいたことを忘れてしまったのかもしれません。
暗闇には暗闇の良さもあったのです。
不安(怖れ)の気持ちを抱いて何かを見れば、そこにある良さが見えなくなります。
そこには必ず良いモノがあると信じて(決めて)見るなら、必ず良いモノを見つけられると思うのです。
日本からお客さんがあったので、バンコクの夜を楽しんでいただくために計画したものです。
予約したのは、シャングリラ・ホテルから出ているホライゾン号。
高級ホテルそのままに、豪華ブッフェがクルージング中に楽しめます。
桟橋に静かに到着した船を見ていると、それだけで幻想的な気分になりますね。
出稿するとすぐに、用意されたブッフェをいただくことができます。
正規予約だと2,500バーツもするだけあって、さすがに豪華です。(飲み物代は別料金です。)
タイ料理から西洋料理まで、何種類もの料理がずらっと並んでいます。しかも、どれも美味しくてハズレがありません。
デザートにもケーキやフルーツがたくさんあり、またチーズも何種類かあって、ワインのお供に最適だったようです。
食事が終わると、外に出て風に当たることができます。
ワット・ポー、ワット・プラケオ、ワット・アルンなどの名だたるお寺がライトアップされていて、それらを一望することができます。
上流に向かった船は、チャオプラヤー川に掛かる橋でもっとも美しいとされる、ラマ8世橋を超えてUターンします。
左右非対称に張られたワイヤーが、暗闇の中に浮かび上がります。
橋脚の向かって右側が川の部分で、その橋の重さをワイヤーで支えています。
向かって左側は、陸の部分になり、橋脚が倒れないように引っ張っています。
下りは、川面に浮かぶ他の船の明かりや、ライトアップされたいくつかの建物を楽しめます。もちろん、お寺も再び見られます。
昼間に見たら、チャオプラヤー川は土色に濁っているので、これほどきれいには見えないでしょう。
闇が余分な情報をかき消してくれるので、美しい姿だけが目に入ってくるのです。
約2時間のクルージングが終わってシャングリラ・ホテルに戻ると、ムッとした暑さが襲って来ました。
川の上は風があって涼しく感じましたが、間違いなくここは暑いタイの国。
日本から来られた方も、メガネが曇ってしまって驚かれたようです。
人々は昔、暗闇を怖れました。
それで灯りを発明し、夜でも明るくすることで安心を求めたのでしょう。
でもそうすることで、暗闇を楽しんでいたことを忘れてしまったのかもしれません。
暗闇には暗闇の良さもあったのです。
不安(怖れ)の気持ちを抱いて何かを見れば、そこにある良さが見えなくなります。
そこには必ず良いモノがあると信じて(決めて)見るなら、必ず良いモノを見つけられると思うのです。
心眼力
以前、「僕を支えた母の言葉」で紹介した野口嘉則さんの本です。
「鏡の法則」など、物語で教えを説くような本も書かれていますが、これは野口さんが「柔らかく燃えて生きる30の知恵」として、その考え方を書かれたものです。
それぞれに逸話や物語を取り入れるなどして、わかりやすく説明されています。
あとがきに書かれていますが、この本は野口さんが、自分の子どもや子孫に残すべき「贈り物」として、構成と内容を考えたものだそうです。
そして書き終えて読み直してみると、実は自分自身に言い聞かせたいものになっていたとのこと。
私もブログやメルマガなどを書いていますが、ときどき「これは自分自身の為に書いているのだなあ」と思うことがあります。
ほぼ同じ時期に広島大学に通っていた間柄というわけでもありませんが、なぜか野口さんには共感するところが多いと感じています。
世の中に絶対的な価値観はありません
私が小学生の頃、女の子の間で、パチンと留められる髪留めが流行りました。
その頃はまだ、金属の銀色のものだけでしたが、すぐ後に青やピンクの色をつけたもの、飾りをつけたものなどが出てきました。
しかしその髪留めは、学校で禁止されました。「華美だから」という理由で。
どう思います?「ウソでしょう?」と、信じられない気持ちの方が多いのではないでしょうか?
では、もっと記憶に新しいところで。私が高校のころ、髪を染めるのは不良だと言われました。
茶髪という言葉は、不良を見下す意味も併せ持っていたのです。
同じくピアスの穴を耳に開けることは、親からもらった身体を傷つける行為で、刺青と同じくらいに非人道的なものとして非難されました。
それが今はどうでしょう。髪を染めることは、おしゃれの1つとして市民権を得ています。
刺青はまだですが、ピアスくらいで驚く人はいません。耳どころか鼻、ヘソ、まぶた、舌など、ありとあらゆる所に穴を空けています。
市民権が得られているのは、まだ耳くらいかもしれませんけど。
学校の規則で禁止されるかどうかは別として、以前は非常識と思われていたことが、今はファッションとして常識になっています。
因みにタイなど東南アジアでは、ヤクザでなくても普通に刺青を入れます。刺青をすることは、痛さに耐えた強さの象徴ではないのです。
ファッションだったり、魔除けという意味もあります。
日本では、刺青をした公務員を批判したり、刺青をしていたら公衆浴場やプールに入れさせないなど、同じ人間として扱わないことを是とする風潮がありますが、世界的にはナンセンスと言わざるを得ないでしょう。
このように、常識というものは、ごく限られた社会の、そのときの雰囲気に過ぎません。
日本が悪いとか、遅れているとか、そういう問題ではないのです。
世界のどこにも常識と思い込んでいる考え方はあります。そしてそれらもまた、移ろうものなのです。
ちょうど天気の低気圧のようなものです。
気圧などというものは、仕切られたものではありませんから、周辺との接触によって変化しますし、また移動するものです。
要は人の心が決めることですから、変化することが当たり前なのです。
こういう常識と呼ばれるものは、ひとつの価値観に過ぎません。
価値観は様々なものがありますから、どれが正解でどれが間違いなどとは言えません。
論理的に、どういう条件なら筋が通っているとか、筋が通らないという意味での、正解や間違いという判断はできます。
しかし、ある価値観が絶対的に善いとか悪いなど、永遠の倫理観があるわけではないのです。
そう言うと、「殺人は絶対的に悪いことじゃないか」と反論する人もいるでしょう。
でもこれも、条件があってのことだと思います。
たとえば戦争において相手の兵士をたくさん殺せば、非難されるどころか勲章をもらえます。
「殺人=悪い」なら、罰せられるべきでしょう。
ただ同じ戦争で殺した場合でも、戦勝国では褒賞されますが、敗戦国では犯罪者となって処罰されます。
それは、すでに歴史がそのことを明示しています。
あるいは、死刑を執行する人も、ある意味で人殺しをすることになりますが、その人はそれをすることで給料をもらえます。
そして誰からも非難されません。
最近は死刑を、国家による殺人という言い方をすることもあります。
つまり、その組織にしたがった殺人は非難されないものの、それ以外の殺人や、その組織に反する組織が支配した時は非難されるということです。
「じゃあ、殺人をしても良いと言うの?人を殺してもかまわないとでも?」
そう言いたくなるかもしれません。その気持はわかります。私もそう思っていましたから。
ただ私が言っているのは、永遠不滅の絶対的な価値観とか、全員がしたがうべき価値観などというものはない、ということなのです。
その人が、その時点で考える価値観は、当然あるでしょう。
したがって、自分が自分の価値観にしたがえば良いだけであって、他人を自分の価値観にしたがわせる必要性はない、ということなのです。
「それでは規律が乱れるじゃないか?規律が乱れたら風紀が悪くなる。」
そう考えるかもしれませんが、それはどうでしょうか。
たしかに規律は乱れるでしょう。だって規律などというものがないのですから。
しかし風紀が悪くなるかどうかは疑問です。
なぜなら、風紀が悪いと感じるのも、ひとつの価値観に過ぎないからです。
それを心地良いと感じる人もいるかもしれません。
なお、だからと言ってルールが不要だと言っているわけではありません。
ルールは、お互いが快適に過ごすための取り決めですから。
そのルールを守るかどうかは、その人次第です。
それが自由と言うものです。
ただ、もしルールに罰則があるなら、処罰されることになるでしょう。それもまた取り決めですから、仕方ありません。
私は、ルールはなるべく個人の自由を尊重するものであってほしいと思います。
無用に行動や思想を縛ったりしないこと。それぞれの価値観を尊重し、共存できるものであってほしいと思うのです。
そうすれば、誰かを非難したり、憎むようなことも少なくなるでしょうから。
その頃はまだ、金属の銀色のものだけでしたが、すぐ後に青やピンクの色をつけたもの、飾りをつけたものなどが出てきました。
しかしその髪留めは、学校で禁止されました。「華美だから」という理由で。
どう思います?「ウソでしょう?」と、信じられない気持ちの方が多いのではないでしょうか?
では、もっと記憶に新しいところで。私が高校のころ、髪を染めるのは不良だと言われました。
茶髪という言葉は、不良を見下す意味も併せ持っていたのです。
同じくピアスの穴を耳に開けることは、親からもらった身体を傷つける行為で、刺青と同じくらいに非人道的なものとして非難されました。
それが今はどうでしょう。髪を染めることは、おしゃれの1つとして市民権を得ています。
刺青はまだですが、ピアスくらいで驚く人はいません。耳どころか鼻、ヘソ、まぶた、舌など、ありとあらゆる所に穴を空けています。
市民権が得られているのは、まだ耳くらいかもしれませんけど。
学校の規則で禁止されるかどうかは別として、以前は非常識と思われていたことが、今はファッションとして常識になっています。
因みにタイなど東南アジアでは、ヤクザでなくても普通に刺青を入れます。刺青をすることは、痛さに耐えた強さの象徴ではないのです。
ファッションだったり、魔除けという意味もあります。
日本では、刺青をした公務員を批判したり、刺青をしていたら公衆浴場やプールに入れさせないなど、同じ人間として扱わないことを是とする風潮がありますが、世界的にはナンセンスと言わざるを得ないでしょう。
このように、常識というものは、ごく限られた社会の、そのときの雰囲気に過ぎません。
日本が悪いとか、遅れているとか、そういう問題ではないのです。
世界のどこにも常識と思い込んでいる考え方はあります。そしてそれらもまた、移ろうものなのです。
ちょうど天気の低気圧のようなものです。
気圧などというものは、仕切られたものではありませんから、周辺との接触によって変化しますし、また移動するものです。
要は人の心が決めることですから、変化することが当たり前なのです。
こういう常識と呼ばれるものは、ひとつの価値観に過ぎません。
価値観は様々なものがありますから、どれが正解でどれが間違いなどとは言えません。
論理的に、どういう条件なら筋が通っているとか、筋が通らないという意味での、正解や間違いという判断はできます。
しかし、ある価値観が絶対的に善いとか悪いなど、永遠の倫理観があるわけではないのです。
そう言うと、「殺人は絶対的に悪いことじゃないか」と反論する人もいるでしょう。
でもこれも、条件があってのことだと思います。
たとえば戦争において相手の兵士をたくさん殺せば、非難されるどころか勲章をもらえます。
「殺人=悪い」なら、罰せられるべきでしょう。
ただ同じ戦争で殺した場合でも、戦勝国では褒賞されますが、敗戦国では犯罪者となって処罰されます。
それは、すでに歴史がそのことを明示しています。
あるいは、死刑を執行する人も、ある意味で人殺しをすることになりますが、その人はそれをすることで給料をもらえます。
そして誰からも非難されません。
最近は死刑を、国家による殺人という言い方をすることもあります。
つまり、その組織にしたがった殺人は非難されないものの、それ以外の殺人や、その組織に反する組織が支配した時は非難されるということです。
「じゃあ、殺人をしても良いと言うの?人を殺してもかまわないとでも?」
そう言いたくなるかもしれません。その気持はわかります。私もそう思っていましたから。
ただ私が言っているのは、永遠不滅の絶対的な価値観とか、全員がしたがうべき価値観などというものはない、ということなのです。
その人が、その時点で考える価値観は、当然あるでしょう。
したがって、自分が自分の価値観にしたがえば良いだけであって、他人を自分の価値観にしたがわせる必要性はない、ということなのです。
「それでは規律が乱れるじゃないか?規律が乱れたら風紀が悪くなる。」
そう考えるかもしれませんが、それはどうでしょうか。
たしかに規律は乱れるでしょう。だって規律などというものがないのですから。
しかし風紀が悪くなるかどうかは疑問です。
なぜなら、風紀が悪いと感じるのも、ひとつの価値観に過ぎないからです。
それを心地良いと感じる人もいるかもしれません。
なお、だからと言ってルールが不要だと言っているわけではありません。
ルールは、お互いが快適に過ごすための取り決めですから。
そのルールを守るかどうかは、その人次第です。
それが自由と言うものです。
ただ、もしルールに罰則があるなら、処罰されることになるでしょう。それもまた取り決めですから、仕方ありません。
私は、ルールはなるべく個人の自由を尊重するものであってほしいと思います。
無用に行動や思想を縛ったりしないこと。それぞれの価値観を尊重し、共存できるものであってほしいと思うのです。
そうすれば、誰かを非難したり、憎むようなことも少なくなるでしょうから。
2012年07月11日
中国古典の影響で理想的な人物を目指していました
「本気で変わりたいなら引越ししなさい」 という記事で、生活環境を変えることをお勧めしました。
私は今までに6回の大きな引越しを経験しましたが、1回目については「生きるためにはカラを破るしかなかったのです」 の記事、2回目については「人生をリセットする決意が私を変えました」 の記事を書きました。
3回目については、すでに「新居を東武東上線坂戸駅近くに決めました」 と「関越道を暴走しました」 で、そのときの様子を書いています。
ということで今回は、4回目の引越しについて書きます。
4.転職して横浜市へ
最初に就職した会社は、社長がワンマンで、それに反論できない部下が取り巻くという構図になっていました。
それを不満に思う中堅社員が次々に辞めていきます。しかも、優秀だと思われた人ほど辞めていくのです。
それが残念でたまらなかったのです。
その会社では、「会社に入ったら3年間は務めるというのがマナーのようなものだ」と教えられました。
新入社員は、教育されなければ使い物にならないのだから、会社が先行投資したことになるのだと。
それが回収できてトントンになるまでが3年だから、それまでに辞めるのは恩知らずだと言うのです。
私は、その理屈にはとても納得できました。たしかに、入って教育だけして辞められたのでは、会社は損をしますから。
会社が損をするということは、先輩や同僚たちが、その穴埋めをしなければならないということです。
他人に自分のケツを拭かせる(失礼)ようなことはしたくありません。
ですから私は、3年間は文句を言わずに働こうと決めていました。
3年経ったある日、社長から課題が出されました。ある本を読んで、感想文を提出せよというものです。
ただし本は自腹で買えと。その本の著者を、社長が応援していたからです。
社員の多くが愚痴をこぼしました。
「命令したからには、これは仕事じゃないの?仕事だったら、金は会社が出すべきじゃないか。」
運動会やハイキングなど、会社行事への参加は必須でした。もちろん無給です。
「なんで自分の休みなのに、会社の行事に強制的に出されなければいけないの?」
そういう不満が溜まっていたのです。
私はその感想文に、社長のやり方がおかしいということを書きました。
まだ若かったのですね。直情的に書いてしまったのです。
ただ、1つだけ希望がありました。もし社長が人物なら、逆に褒めてくれるかもしれないと思ったのです。
ワンマン社長というものは、周りがイエスマンばかりだということに、逆に腹を立てることもあるからです。
もしそんな中で入社4年目の若い(?)社員が、面と向かって社長の方針に異を唱えるとしたら...。
これにはショックを受けるでしょうけど、「ほう、こんな骨のあるやつがいたのか。面白い。」と、思ってもらえるかもしれないと考えたのです。
しかし、そうは行きませんでした。
上司から呼び出され、叱られました。「どうして私に相談しないんだ!?」
おそらく社長から怒られたのでしょう。部下の教育がなっていないと。
私は、会社を辞めることを決めました。
この会社は私を必要としていない、と感じたからです。
必要なのは私という個性ではなく、文句を言わずに働く有能な作業員だと感じたのです。
それから人材紹介会社に登録して、新しい会社を探しました。
すぐにある会社を紹介され、面接を受けました。
最後は会長面接というものがあったのですが、担当者から言われました。
「絶対に余計なことは言わないこと。はい、はい、と言ってやり過ごすだけで良いのだから。」
私は少し、嫌な印象を持ちました。「ここもワンマンか。」
最終的な採用通知をいただき、あとは入社日を待つばかりとなったある日、新聞にその親会社の会長が脱税で摘発されたとニュース記事が載っていました。
面接を受けた子会社の会長の父親です。
その親会社は、立派な志を掲げて社会貢献することを理念としていた会社です。だから気に入って入社を決めたのに...。私は幻滅しました。
受かった会社に手紙を書き、一身上の都合で入社できなくなったとお詫びしました。
人材紹介会社からも連絡があり、次のところを紹介すると言ってきました。
しかし、私は行きませんでした。
その会社を紹介された時、紹介会社の担当者とその同僚が私のことを、「もう年もいっているし、給料が少ないのが不満なんだろう。」と、自分たちの勝手な尺度で推し測っていた会話が聞こえたのです。
私は、給料のことは一切言ったことはありません。
多くもらえるなら、それに越したことはありません。でも、私の経験や年齢などから、一般的な金額をもらえれば十分だと思っていたのです。
「まずは使ってみてください。使ってみて気に入ったら、それに見合う対価をください。」
そういう考え方でいたのです。これは、松下幸之助氏が二股ソケットを売るときに使った方法です。
商品に絶対的な自信があるから、まずは使ってみてくれと言ったのです。
そして、それを正しく評価してくれと頼むのです。良い品だけど安く買い叩こうという態度なら、そういう人とは取引しない。
自分が自信を持って勧める商品を、正当に評価してくれる人とだけ取引する。それで十分だという気持ちです。
それからしばらくして、以前の会社のプロジェクトで知り合いになった方が、私に声を掛けてくれました。
その方は若いのに、自分で会社を起こして、10人くらいを使っておられたのです。
「もしまだ就職が決まっていないなら、うちに来てくれないか。うちに来て、会社の経営に関して、どんどん意見を言ってほしい。」
私の見識を評価してくれた上で、そう誘ってくださったのです。
私はすぐに、その会社に入ることを決めました。
「士は己を知る者の為に死す」
司馬遷の「史記」の刺客列伝に登場する豫譲という刺客の言葉です。
信義に生きよう。
そういう思いを強くして、私は東横線白楽駅の近くのアパートに引っ越したのです。
私は今までに6回の大きな引越しを経験しましたが、1回目については「生きるためにはカラを破るしかなかったのです」 の記事、2回目については「人生をリセットする決意が私を変えました」 の記事を書きました。
3回目については、すでに「新居を東武東上線坂戸駅近くに決めました」 と「関越道を暴走しました」 で、そのときの様子を書いています。
ということで今回は、4回目の引越しについて書きます。
4.転職して横浜市へ
最初に就職した会社は、社長がワンマンで、それに反論できない部下が取り巻くという構図になっていました。
それを不満に思う中堅社員が次々に辞めていきます。しかも、優秀だと思われた人ほど辞めていくのです。
それが残念でたまらなかったのです。
その会社では、「会社に入ったら3年間は務めるというのがマナーのようなものだ」と教えられました。
新入社員は、教育されなければ使い物にならないのだから、会社が先行投資したことになるのだと。
それが回収できてトントンになるまでが3年だから、それまでに辞めるのは恩知らずだと言うのです。
私は、その理屈にはとても納得できました。たしかに、入って教育だけして辞められたのでは、会社は損をしますから。
会社が損をするということは、先輩や同僚たちが、その穴埋めをしなければならないということです。
他人に自分のケツを拭かせる(失礼)ようなことはしたくありません。
ですから私は、3年間は文句を言わずに働こうと決めていました。
3年経ったある日、社長から課題が出されました。ある本を読んで、感想文を提出せよというものです。
ただし本は自腹で買えと。その本の著者を、社長が応援していたからです。
社員の多くが愚痴をこぼしました。
「命令したからには、これは仕事じゃないの?仕事だったら、金は会社が出すべきじゃないか。」
運動会やハイキングなど、会社行事への参加は必須でした。もちろん無給です。
「なんで自分の休みなのに、会社の行事に強制的に出されなければいけないの?」
そういう不満が溜まっていたのです。
私はその感想文に、社長のやり方がおかしいということを書きました。
まだ若かったのですね。直情的に書いてしまったのです。
ただ、1つだけ希望がありました。もし社長が人物なら、逆に褒めてくれるかもしれないと思ったのです。
ワンマン社長というものは、周りがイエスマンばかりだということに、逆に腹を立てることもあるからです。
もしそんな中で入社4年目の若い(?)社員が、面と向かって社長の方針に異を唱えるとしたら...。
これにはショックを受けるでしょうけど、「ほう、こんな骨のあるやつがいたのか。面白い。」と、思ってもらえるかもしれないと考えたのです。
しかし、そうは行きませんでした。
上司から呼び出され、叱られました。「どうして私に相談しないんだ!?」
おそらく社長から怒られたのでしょう。部下の教育がなっていないと。
私は、会社を辞めることを決めました。
この会社は私を必要としていない、と感じたからです。
必要なのは私という個性ではなく、文句を言わずに働く有能な作業員だと感じたのです。
それから人材紹介会社に登録して、新しい会社を探しました。
すぐにある会社を紹介され、面接を受けました。
最後は会長面接というものがあったのですが、担当者から言われました。
「絶対に余計なことは言わないこと。はい、はい、と言ってやり過ごすだけで良いのだから。」
私は少し、嫌な印象を持ちました。「ここもワンマンか。」
最終的な採用通知をいただき、あとは入社日を待つばかりとなったある日、新聞にその親会社の会長が脱税で摘発されたとニュース記事が載っていました。
面接を受けた子会社の会長の父親です。
その親会社は、立派な志を掲げて社会貢献することを理念としていた会社です。だから気に入って入社を決めたのに...。私は幻滅しました。
受かった会社に手紙を書き、一身上の都合で入社できなくなったとお詫びしました。
人材紹介会社からも連絡があり、次のところを紹介すると言ってきました。
しかし、私は行きませんでした。
その会社を紹介された時、紹介会社の担当者とその同僚が私のことを、「もう年もいっているし、給料が少ないのが不満なんだろう。」と、自分たちの勝手な尺度で推し測っていた会話が聞こえたのです。
私は、給料のことは一切言ったことはありません。
多くもらえるなら、それに越したことはありません。でも、私の経験や年齢などから、一般的な金額をもらえれば十分だと思っていたのです。
「まずは使ってみてください。使ってみて気に入ったら、それに見合う対価をください。」
そういう考え方でいたのです。これは、松下幸之助氏が二股ソケットを売るときに使った方法です。
商品に絶対的な自信があるから、まずは使ってみてくれと言ったのです。
そして、それを正しく評価してくれと頼むのです。良い品だけど安く買い叩こうという態度なら、そういう人とは取引しない。
自分が自信を持って勧める商品を、正当に評価してくれる人とだけ取引する。それで十分だという気持ちです。
それからしばらくして、以前の会社のプロジェクトで知り合いになった方が、私に声を掛けてくれました。
その方は若いのに、自分で会社を起こして、10人くらいを使っておられたのです。
「もしまだ就職が決まっていないなら、うちに来てくれないか。うちに来て、会社の経営に関して、どんどん意見を言ってほしい。」
私の見識を評価してくれた上で、そう誘ってくださったのです。
私はすぐに、その会社に入ることを決めました。
「士は己を知る者の為に死す」
司馬遷の「史記」の刺客列伝に登場する豫譲という刺客の言葉です。
信義に生きよう。
そういう思いを強くして、私は東横線白楽駅の近くのアパートに引っ越したのです。
白虎隊の生き方に感動しました
2つ目の大学に通っていたある年の年末、たしか日テレ系のドラマで「白虎隊」というのがありました。
ネットで調べると、1986年12月30日と31日に日テレ系で放送されたとありますね。
国広富之さん演じる神保修理が、「誰も恨むなー!」と家族に思いを残して死んでいくシーンが脳裏に蘇ります。
主題歌は堀内孝雄さんが歌う「愛しき日々」で、カラオケで私の十八番となりました。
その年の3月くらいだったと思います。
ゼミ旅行で会津へ行ったのです。
浅草から東武伊勢崎線に乗って会津高原駅へ行き、そこで会津鉄道に乗り換えて会津若松まで行きます。
電車の旅は暇だろうからと、会津に関する本を書店で買い、読みながら行きました。
東京はそれほど寒くなかったのに、会津高原駅では雪がちらついていました。
会津ではいろいろなところを観光して回りましたが、鶴ケ城、白虎隊の墓や資料館へも行きました。
そのとき初めて、白虎隊というものの存在をはっきり知ったのです。
真新しかった会津藩校日新館では、「什の掟(じゅうのおきて)」について教えてもらいました。
儒教的な精神で教育していたのですね。
「ならぬものはならぬのです。」
そう、力強く言い切るところに感銘を受けました。
そんな旅行があってから見たドラマだったのです。
私は、さらに白虎隊の献身的な生き方が好きになりました。
義のためには命を投げ出す。
自分一人の欲得ではなく、世のため人のために命を捧げる。
そういう生き方に憧れたのです。
ドラマがあった翌年、私は愛車CBX750ホライゾンに乗って、再び会津へ1泊ソロツーリングに出かけました。
鶴ケ城では、堀内孝雄さんの「愛しき日々」が大音量でかかっていました。
ドラマの感動を、ひとり噛み締めたのです。
会津若松に到着してから、電話で民宿を探しました。
お爺さんとお婆さんが2人で営んでいる民宿で、客は私1人でした。
魚料理に肉料理と、豪華な料理が並びました。たしか1泊3千円だったと思いますが、安すぎると感動したものです。
私は島根県の出身ですから、戊辰戦争で言えば、どちらかと言うと官軍側に属します。
けれども会津という言葉を聞くと、胸の奥がキュンと締め付けられる気持ちになるのです。
ネットで調べると、1986年12月30日と31日に日テレ系で放送されたとありますね。
国広富之さん演じる神保修理が、「誰も恨むなー!」と家族に思いを残して死んでいくシーンが脳裏に蘇ります。
主題歌は堀内孝雄さんが歌う「愛しき日々」で、カラオケで私の十八番となりました。
その年の3月くらいだったと思います。
ゼミ旅行で会津へ行ったのです。
浅草から東武伊勢崎線に乗って会津高原駅へ行き、そこで会津鉄道に乗り換えて会津若松まで行きます。
電車の旅は暇だろうからと、会津に関する本を書店で買い、読みながら行きました。
東京はそれほど寒くなかったのに、会津高原駅では雪がちらついていました。
会津ではいろいろなところを観光して回りましたが、鶴ケ城、白虎隊の墓や資料館へも行きました。
そのとき初めて、白虎隊というものの存在をはっきり知ったのです。
真新しかった会津藩校日新館では、「什の掟(じゅうのおきて)」について教えてもらいました。
儒教的な精神で教育していたのですね。
「ならぬものはならぬのです。」
そう、力強く言い切るところに感銘を受けました。
そんな旅行があってから見たドラマだったのです。
私は、さらに白虎隊の献身的な生き方が好きになりました。
義のためには命を投げ出す。
自分一人の欲得ではなく、世のため人のために命を捧げる。
そういう生き方に憧れたのです。
ドラマがあった翌年、私は愛車CBX750ホライゾンに乗って、再び会津へ1泊ソロツーリングに出かけました。
鶴ケ城では、堀内孝雄さんの「愛しき日々」が大音量でかかっていました。
ドラマの感動を、ひとり噛み締めたのです。
会津若松に到着してから、電話で民宿を探しました。
お爺さんとお婆さんが2人で営んでいる民宿で、客は私1人でした。
魚料理に肉料理と、豪華な料理が並びました。たしか1泊3千円だったと思いますが、安すぎると感動したものです。
私は島根県の出身ですから、戊辰戦争で言えば、どちらかと言うと官軍側に属します。
けれども会津という言葉を聞くと、胸の奥がキュンと締め付けられる気持ちになるのです。
不安と喜びについて考えるたとえ話
ある大きな古い館には、「開かずの間」と呼ばれる部屋がありました。
その部屋には大きな扉があり、その扉はいつも閉められていました。
今まで、誰も開けたことがないと思われている扉です。
しかし、その扉には鍵がかけられていません。
開けようと思えば誰でも開けられる。それなのに誰も開けようとしない。そういう扉だったのです。
なぜか?
それは、その扉をひとたび開けると、中にいる怖ろしい魑魅魍魎(ちみもうりょう)たちが、一斉に飛び出してくると信じられていたから。
その扉を開ける者は、その化け物たちに食い殺されてしまうという噂がまことしやかに語られ、誰もその扉を開けようとはしなかったのです。
ある日、勇気のある若者が、その扉の前に立ちました。
怖さはありましたが、それよりも真実を知りたかったのです。
パッと扉を開け、飛び出してくる化け物たちを思って身構えました。
しかし、何も飛び出しては来ませんでした。
部屋の中に入ると、そこは穏やかで明るい春のような陽気で、一日中飽きさせないゲームやアトラクションが揃っていました。
若者はそこで数日遊び、後ろ髪を引かれる思いで部屋の外に出たのです。
若者はみんなに言いました。
「あの部屋には妖怪や化け物なんていないよ。ほら、それが証拠にボクは生きているじゃないか。毎日楽しく遊んで過ごせるんだよ。」
しかし、みんなは信じませんでした。
若者は化け物に騙されている。いや、あれはすでに元の若者ではない。化け物が若者のふりをして、自分たちを騙そうとしているのだ。
若者は、誰にも信じてもらえませんでした。
その後、若者は何度も開かずの間に入って遊びました。
しかし他の人たちは、相変わらず開かずの間を怖れて、その中にある喜びを知ることなく過ごしたのです。
いかがでしょうか?おそらくこういうことだと思うのです。
開けてみさえすれば、そこが天国だとわかる。けれど、心に不安があるため、それを開けてみることができないのです。
この世は、あまりに現実的です。誰もが、現実であることを疑いません。
あたりまえです。完璧なシミュレーションゲームを楽しむ場なのですから。
幻想だと見破られるようなヘマを、全知全能の神がするわけがありません。
しかし、無理に見破る必要はありません。
見破らなくても、知るだけで良いのです。
もし、この現実世界を幻想だと知っていれば、もっと穏やかな気持ちになれるでしょう。
ゲームで負けても何も失いはしません。
その逆境から這い上がることを楽しむことさえできます。
私は以前、ベーシック言語で書かれたPC版の「信長の野望」というゲームでよく遊びました。
ベーシック言語を少し知っていたので、各国の初期設定を変えて遊んだのです。
強い甲斐武田の兵糧を最初から多くして、最強国を作って、あっと言う間に全国制覇してみました。
でも、それはすぐに飽きます。
今度は、信長の兵や兵糧を少なくして、どれだけ弱いところから全国制覇できるかというゲームを楽しみました。
あまりに弱いと、最初のターンで何もすることなくやられてしまいます。
ワンチャンスで何をするのが良いのか?あれこれ考えました。
兵を増強する。それが最初のターンでやる最良の手でした。
そうすると、近隣国が数ターンの間、攻めて来ないのです。その間に田を増やし、兵糧や金を蓄えていきます。
困難を克服して全国制覇する楽しさは、最初から好条件が与えられていた時より、はるかに楽しいものでした。
ゲームだと知って生きれば、この世は楽しいことだらけです。
傷つけられることもないし、バカにされても真に受けることがありません。
他人を批判したり非難する苦しさも、味わわずに済みます。
勇気を出して、開かずの間の扉を開けてみませんか。
その部屋には大きな扉があり、その扉はいつも閉められていました。
今まで、誰も開けたことがないと思われている扉です。
しかし、その扉には鍵がかけられていません。
開けようと思えば誰でも開けられる。それなのに誰も開けようとしない。そういう扉だったのです。
なぜか?
それは、その扉をひとたび開けると、中にいる怖ろしい魑魅魍魎(ちみもうりょう)たちが、一斉に飛び出してくると信じられていたから。
その扉を開ける者は、その化け物たちに食い殺されてしまうという噂がまことしやかに語られ、誰もその扉を開けようとはしなかったのです。
ある日、勇気のある若者が、その扉の前に立ちました。
怖さはありましたが、それよりも真実を知りたかったのです。
パッと扉を開け、飛び出してくる化け物たちを思って身構えました。
しかし、何も飛び出しては来ませんでした。
部屋の中に入ると、そこは穏やかで明るい春のような陽気で、一日中飽きさせないゲームやアトラクションが揃っていました。
若者はそこで数日遊び、後ろ髪を引かれる思いで部屋の外に出たのです。
若者はみんなに言いました。
「あの部屋には妖怪や化け物なんていないよ。ほら、それが証拠にボクは生きているじゃないか。毎日楽しく遊んで過ごせるんだよ。」
しかし、みんなは信じませんでした。
若者は化け物に騙されている。いや、あれはすでに元の若者ではない。化け物が若者のふりをして、自分たちを騙そうとしているのだ。
若者は、誰にも信じてもらえませんでした。
その後、若者は何度も開かずの間に入って遊びました。
しかし他の人たちは、相変わらず開かずの間を怖れて、その中にある喜びを知ることなく過ごしたのです。
いかがでしょうか?おそらくこういうことだと思うのです。
開けてみさえすれば、そこが天国だとわかる。けれど、心に不安があるため、それを開けてみることができないのです。
この世は、あまりに現実的です。誰もが、現実であることを疑いません。
あたりまえです。完璧なシミュレーションゲームを楽しむ場なのですから。
幻想だと見破られるようなヘマを、全知全能の神がするわけがありません。
しかし、無理に見破る必要はありません。
見破らなくても、知るだけで良いのです。
もし、この現実世界を幻想だと知っていれば、もっと穏やかな気持ちになれるでしょう。
ゲームで負けても何も失いはしません。
その逆境から這い上がることを楽しむことさえできます。
私は以前、ベーシック言語で書かれたPC版の「信長の野望」というゲームでよく遊びました。
ベーシック言語を少し知っていたので、各国の初期設定を変えて遊んだのです。
強い甲斐武田の兵糧を最初から多くして、最強国を作って、あっと言う間に全国制覇してみました。
でも、それはすぐに飽きます。
今度は、信長の兵や兵糧を少なくして、どれだけ弱いところから全国制覇できるかというゲームを楽しみました。
あまりに弱いと、最初のターンで何もすることなくやられてしまいます。
ワンチャンスで何をするのが良いのか?あれこれ考えました。
兵を増強する。それが最初のターンでやる最良の手でした。
そうすると、近隣国が数ターンの間、攻めて来ないのです。その間に田を増やし、兵糧や金を蓄えていきます。
困難を克服して全国制覇する楽しさは、最初から好条件が与えられていた時より、はるかに楽しいものでした。
ゲームだと知って生きれば、この世は楽しいことだらけです。
傷つけられることもないし、バカにされても真に受けることがありません。
他人を批判したり非難する苦しさも、味わわずに済みます。
勇気を出して、開かずの間の扉を開けてみませんか。
●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。