いかに生くべきか
私が尊敬する安岡正篤(やすおか・まさひろ)氏 の本です。
実にたくさんの本を書かれているので、どれがお勧めと言うことができません。
生き方に迷っていた23〜35歳くらいの頃に、何冊も読ませていただきました。
「経世瑣言(けいせいさげん)」「陰隲録(いんしつろく)」などの中国古典は、すべて安岡氏の解説本で読んだものです。
論語や孟子などは、解説本がたくさんありますが、上記のような本が一般人でも読めるのは、安岡氏の解説本くらいではないかと思います。
中国の古典に通じておられた安岡氏は、そこから人はどのように生きるべきかということを導き出し、私たちにわかりやすく教えてくれます。
歴代首相のご意見番と言われ、また経済界にも師事する人が多かった安岡正篤氏。
易を元にした四柱推命から、その年の運勢を占うということもされてました。
因みに、六星占術の細木数子さんは、安岡正篤氏のお弟子さんだと言われています。
愛人だったという噂もありますが、親族の方は否定されています。
高齢になられ、認知症気味の安岡氏に付け入ったという噂もあります。
どれが真実かわかりませんが、あの六星占術もまた、四柱推命をベースにしたものと言われていますね。
そういう意味では数秘というのも、四柱推命の簡易版のように思いました。
陰と陽がからみ合って変化する様を分析した易が、こうして現代社会に浸透しているのですね。
2012年07月05日
運気を劇的に良くする○○力とは?
開運について書いてみます。
世間には、開運グッズや開運方法が溢れています。
パワースポット巡りも流行なようで、いかに運を良くするかが最大の関心事ではないかと思うほどです。
運というのは目に見えないものですから、どうとでも言えるし、証明もできません。
たとえばお祓いをしても交通事故に合うことがあります。
そのとき、「お祓いをしたから軽傷で済んだ」とも言えるわけです。
まあそう言ってしまうと身も蓋もない気もしますが、それは真実です。
斎藤一人さんなどは、はっきりと努力よりもツキが重要だと言われますね。
そのツキを良くするには、たった1つのことをすれば良いと。
それは、「ツイている」と言うことだそうです。
何があっても「ツイている」と言う。
だから交通事故に合っても、「あれで軽傷で済んだのはツイている」と言わなくてはいけません。
たしかにこれは、強力な開運方法だと思います。
しかし、自分のことになると、どうしても否定的になってしまう人もいますよね。
私もそうでした。
自分に自信がないからです。自己評価が低いからです。
そういう人は、自己評価を高くすることが最優先です。
絶対的な自信、つまり根拠のない自信を持つように、自己変革する必要がありますね。
まあそれが最優先なのですが、そんな人でもできる開運方法があります。
それが「応援力を高める」ことです。
「応援力」って、最近良く聞くと思いませんか?
この言葉が広まっているのも、意味があることだと思います。
時代は、開運を求めているのです。
それで「応援力」とは何?ということですが、要は他人をもっと応援するということです。
他人の応援に熱中することです。
他の人を良くしてあげるために精魂を込め、その人以上に考えてあげることです。
ただし、注意することがあります。
応援を押し付けないこと。
「応援してあげるのだから」という気持ちを持たないことです。
先日発売された「大富豪アニキの教え」 ですが、さすがに兄貴は、考え方が違いますね。
その本の内容を、私の友だちでiPad時間創出コンサルタントの坂倉昭人さん が、たった一言でまとめていましたね。
「相手を自分ごとのように大切にする心」
他人ごとを自分ごとのように考えることです。
でも最初は、妬みの気持ちとか出てくると思います。
そのときは自分ホメの谷口祥子さん が言うように、「つい妬んじゃうんだよね。わかるよ。よしよし。」と、まず湧き上がった感情を受け入れましょう。
そして、自分の感情が落ち着いたら、相手のことを自分の化身だと考えてみるのです。
「そこに今、○○さんとして生きている自分がいるんだなあ。」
自分だと思ったら、本心から応援したくなりませんか?
それでも時には相手から、「応援してほしくない」と拒否されることもあるでしょう。
そのときは、相手の意志を尊重しましょう。
相手には相手の自由があります。
その自由意志を尊重することが、その人に対する最大の応援なのですから。
予めそういうことを想定しておくと、いざというとき焦らずに済みますよね。
いきなり周りのすべての人を応援するのも難しいでしょう。
まずは1人から始めてみることです。
あなたの周りにも、必ず応援を求めている人がいます。
なぜなら、あなたが「応援したい」と思っているから。
世の中は、そんなふうにできているのです。
世間には、開運グッズや開運方法が溢れています。
パワースポット巡りも流行なようで、いかに運を良くするかが最大の関心事ではないかと思うほどです。
運というのは目に見えないものですから、どうとでも言えるし、証明もできません。
たとえばお祓いをしても交通事故に合うことがあります。
そのとき、「お祓いをしたから軽傷で済んだ」とも言えるわけです。
まあそう言ってしまうと身も蓋もない気もしますが、それは真実です。
斎藤一人さんなどは、はっきりと努力よりもツキが重要だと言われますね。
そのツキを良くするには、たった1つのことをすれば良いと。
それは、「ツイている」と言うことだそうです。
何があっても「ツイている」と言う。
だから交通事故に合っても、「あれで軽傷で済んだのはツイている」と言わなくてはいけません。
たしかにこれは、強力な開運方法だと思います。
しかし、自分のことになると、どうしても否定的になってしまう人もいますよね。
私もそうでした。
自分に自信がないからです。自己評価が低いからです。
そういう人は、自己評価を高くすることが最優先です。
絶対的な自信、つまり根拠のない自信を持つように、自己変革する必要がありますね。
まあそれが最優先なのですが、そんな人でもできる開運方法があります。
それが「応援力を高める」ことです。
「応援力」って、最近良く聞くと思いませんか?
この言葉が広まっているのも、意味があることだと思います。
時代は、開運を求めているのです。
それで「応援力」とは何?ということですが、要は他人をもっと応援するということです。
他人の応援に熱中することです。
他の人を良くしてあげるために精魂を込め、その人以上に考えてあげることです。
ただし、注意することがあります。
応援を押し付けないこと。
「応援してあげるのだから」という気持ちを持たないことです。
先日発売された「大富豪アニキの教え」 ですが、さすがに兄貴は、考え方が違いますね。
その本の内容を、私の友だちでiPad時間創出コンサルタントの坂倉昭人さん が、たった一言でまとめていましたね。
「相手を自分ごとのように大切にする心」
他人ごとを自分ごとのように考えることです。
でも最初は、妬みの気持ちとか出てくると思います。
そのときは自分ホメの谷口祥子さん が言うように、「つい妬んじゃうんだよね。わかるよ。よしよし。」と、まず湧き上がった感情を受け入れましょう。
そして、自分の感情が落ち着いたら、相手のことを自分の化身だと考えてみるのです。
「そこに今、○○さんとして生きている自分がいるんだなあ。」
自分だと思ったら、本心から応援したくなりませんか?
それでも時には相手から、「応援してほしくない」と拒否されることもあるでしょう。
そのときは、相手の意志を尊重しましょう。
相手には相手の自由があります。
その自由意志を尊重することが、その人に対する最大の応援なのですから。
予めそういうことを想定しておくと、いざというとき焦らずに済みますよね。
いきなり周りのすべての人を応援するのも難しいでしょう。
まずは1人から始めてみることです。
あなたの周りにも、必ず応援を求めている人がいます。
なぜなら、あなたが「応援したい」と思っているから。
世の中は、そんなふうにできているのです。
笠地蔵が教えてくれる豊かになる生き方
「笠地蔵」という物語を知っていますか?
おそらく多くの方が、昔話として一度は耳にしたことがあると思います。
念の為に、簡単(?)に物語を書きましょう。
昔々、お爺さんとお婆さんがおったそうじゃ。
暮らしはは豊かではなかったが、仲良く2人で暮らしておったと。
年の瀬が近づき、正月を迎えるための餅などを買おうとして、お爺さんは自分たちでこさえた蓑と笠を町まで売りに行ったそうじゃ。
しかしそれらはほとんど売れず、お爺さんは雪が降る中をトボトボと帰っておった。
「あー、お婆さんになんて言おう?正月に要る物が何も買えんじゃった。きっと楽しみに待っておるじゃろうにのお。」
お爺さんは、お婆さんを落胆させてしまうことを、心から申し訳なく思っておったのじゃ。
すると雪の中に、7体のお地蔵様が立っておるのが見えたんじゃ。
お爺さんはお地蔵様の前で手を合わせ、今年も無事に過ごすことができたと感謝したそうじゃ。
ふと見ると、お地蔵様の頭や肩には雪が積もっておった。
「お地蔵様も、この雪の中じゃ寒かろう。そうじゃ、売れ残った蓑と笠があったわい。」
お爺さんはお地蔵様の雪を払い、1体1体に蓑を掛け、傘をかぶせてあげたのじゃ。
しかし、6体まで掛け終わったところで、持っていた蓑と笠がなくなってしもうた。
それでお爺さんは、自分の蓑と笠を脱ぐと、最後のお地蔵様につけてあげたんじゃ。
「これでお地蔵様も、温かくして正月を迎えられるじゃろう。良かった、良かった。」
家に帰ったお爺さんは、出迎えてくれたお婆さんに詫びたそうじゃ。
「今年はのう婆さんや、蓑や傘が売れんじゃった。すまんのう。でも帰りにお地蔵様がおってな、寒そうにしておられたから、全部差し上げてきたんじゃ。足りんじゃったから、わしのも一緒にな。」
その話を聞いたお婆さんは、「お爺さんは、ほんにいいことをしなさった。」と言って、お爺さんと一緒に喜んだそうじゃ。
その晩、外で何やら物音がするので、お爺さんとお婆さんは起きて表の戸をそーっと開け、外を覗いてみたんじゃ。
すると、家の前に米俵や金や銀など、たくさんの物が積まれておった。
遠くには7体の傘をかぶったお地蔵様が、歩いて行かれるのが見えたんじゃ。
「あー、これは、お地蔵様がくださった物に違いない。ありがたいことじゃのう。」
そう言って、お爺さんとお婆さんは、手を取り合って喜んだということじゃ。 めでたし、めでたし。
どうでしょう。思い出されましたか?
この物語は、「善行善果(善い行いをすれば良い結果が得られる)」とか、「他の人に情けをかければ、自分にも返ってくる。」などの教訓として話されることが多いと思います。
しかし私は、別の見方ができると思うのです。
それは、この物語は「引き寄せの法則」 そのものだ、ということです。
お爺さんは、自分が損するとか正月を迎えられないことを気にすることなく(=忘れて)、お地蔵様が温かく豊かに正月を迎えられるようにと思って、蓑や傘をあげたのです。
つまりお爺さんが考えたのは、「温かく豊かに正月を迎えられる」ということで、それが得られると確信して、安心したのです。
もちろん対象は自分自身ではなく、お地蔵様です。
しかし、「潜在意識には主語がない」と言われるように、誰のことを考えたとしても、その考えた人にその考えたものが引き寄せられる。それが「引き寄せの法則」です。
お爺さんは(お地蔵様が)豊かさを得られると確信した。だから得られたのです。
「神との対話」 にも、同じようなことが書かれています。
街で乞食と出会った。ポケットには1ドル札が入っている。
これをあげたら、昼飯に買おうと思っていたサンドイッチが買えない。
そういう状況で、考える前にさっさとあげてしまうことだと言うのです。
乞食にお金をあげたいと思ったのは、乞食に豊かさを味わってほしいと願ったから。
それを自分が損するという考えで否定してしまうと、結局、「損する(=豊かではない)」と考えただけで終わることになる。
なあに、ポケットの1ドル札をあげたくらいで、あなたは破産したりなどしない。
家に帰ればお金はあるし、銀行の口座には、まだ十分なお金がある。
否定する気持ちが起こる前に、さっさとあげてしまうことだと。
「引き寄せの法則」は、昔から身近なところで語られてきたのです。
この世の真理で、隠されているものなど何もないのですよ。
おそらく多くの方が、昔話として一度は耳にしたことがあると思います。
念の為に、簡単(?)に物語を書きましょう。
昔々、お爺さんとお婆さんがおったそうじゃ。
暮らしはは豊かではなかったが、仲良く2人で暮らしておったと。
年の瀬が近づき、正月を迎えるための餅などを買おうとして、お爺さんは自分たちでこさえた蓑と笠を町まで売りに行ったそうじゃ。
しかしそれらはほとんど売れず、お爺さんは雪が降る中をトボトボと帰っておった。
「あー、お婆さんになんて言おう?正月に要る物が何も買えんじゃった。きっと楽しみに待っておるじゃろうにのお。」
お爺さんは、お婆さんを落胆させてしまうことを、心から申し訳なく思っておったのじゃ。
すると雪の中に、7体のお地蔵様が立っておるのが見えたんじゃ。
お爺さんはお地蔵様の前で手を合わせ、今年も無事に過ごすことができたと感謝したそうじゃ。
ふと見ると、お地蔵様の頭や肩には雪が積もっておった。
「お地蔵様も、この雪の中じゃ寒かろう。そうじゃ、売れ残った蓑と笠があったわい。」
お爺さんはお地蔵様の雪を払い、1体1体に蓑を掛け、傘をかぶせてあげたのじゃ。
しかし、6体まで掛け終わったところで、持っていた蓑と笠がなくなってしもうた。
それでお爺さんは、自分の蓑と笠を脱ぐと、最後のお地蔵様につけてあげたんじゃ。
「これでお地蔵様も、温かくして正月を迎えられるじゃろう。良かった、良かった。」
家に帰ったお爺さんは、出迎えてくれたお婆さんに詫びたそうじゃ。
「今年はのう婆さんや、蓑や傘が売れんじゃった。すまんのう。でも帰りにお地蔵様がおってな、寒そうにしておられたから、全部差し上げてきたんじゃ。足りんじゃったから、わしのも一緒にな。」
その話を聞いたお婆さんは、「お爺さんは、ほんにいいことをしなさった。」と言って、お爺さんと一緒に喜んだそうじゃ。
その晩、外で何やら物音がするので、お爺さんとお婆さんは起きて表の戸をそーっと開け、外を覗いてみたんじゃ。
すると、家の前に米俵や金や銀など、たくさんの物が積まれておった。
遠くには7体の傘をかぶったお地蔵様が、歩いて行かれるのが見えたんじゃ。
「あー、これは、お地蔵様がくださった物に違いない。ありがたいことじゃのう。」
そう言って、お爺さんとお婆さんは、手を取り合って喜んだということじゃ。 めでたし、めでたし。
どうでしょう。思い出されましたか?
この物語は、「善行善果(善い行いをすれば良い結果が得られる)」とか、「他の人に情けをかければ、自分にも返ってくる。」などの教訓として話されることが多いと思います。
しかし私は、別の見方ができると思うのです。
それは、この物語は「引き寄せの法則」 そのものだ、ということです。
お爺さんは、自分が損するとか正月を迎えられないことを気にすることなく(=忘れて)、お地蔵様が温かく豊かに正月を迎えられるようにと思って、蓑や傘をあげたのです。
つまりお爺さんが考えたのは、「温かく豊かに正月を迎えられる」ということで、それが得られると確信して、安心したのです。
もちろん対象は自分自身ではなく、お地蔵様です。
しかし、「潜在意識には主語がない」と言われるように、誰のことを考えたとしても、その考えた人にその考えたものが引き寄せられる。それが「引き寄せの法則」です。
お爺さんは(お地蔵様が)豊かさを得られると確信した。だから得られたのです。
「神との対話」 にも、同じようなことが書かれています。
街で乞食と出会った。ポケットには1ドル札が入っている。
これをあげたら、昼飯に買おうと思っていたサンドイッチが買えない。
そういう状況で、考える前にさっさとあげてしまうことだと言うのです。
乞食にお金をあげたいと思ったのは、乞食に豊かさを味わってほしいと願ったから。
それを自分が損するという考えで否定してしまうと、結局、「損する(=豊かではない)」と考えただけで終わることになる。
なあに、ポケットの1ドル札をあげたくらいで、あなたは破産したりなどしない。
家に帰ればお金はあるし、銀行の口座には、まだ十分なお金がある。
否定する気持ちが起こる前に、さっさとあげてしまうことだと。
「引き寄せの法則」は、昔から身近なところで語られてきたのです。
この世の真理で、隠されているものなど何もないのですよ。
本気で変わりたいなら引越ししなさい
高校を卒業してからというもの、私は何度引越ししたかわかりません。
おそらく、10回よりもはるかに多く、ひょっとしたら20回以上は引越ししたかもしれません。引越しが趣味じゃないかと思えるほどです。
最初のうちは荷物も少なく、自分で車を借りたりしてやっていました。
しかし埼玉県坂戸市に引越して からは、2tロング以上のトラックが必要になり、横浜から岡山へ引越しした時に引越し業者を使ってからは、業者に任せるようになりました。
タイに来てからは、また自前で引越し しています。
荷物が少なくなったことと、最低限必要な家具などが、部屋についている(=レンタルする)ところを選んで引っ越しているからです。
その私が思うに、この引越しというのは、もっとも簡単に自分を変える方法だと思います。
なぜなら、生活環境が一変するからです。そのため、考え方を変えざるを得なくなるのです。
もちろん、隣のアパートに引っ越すくらいでは、あまり効果はないでしょう。
引越しに合わせて、会社、学校、職場などの1日の大半を過ごす場所も変わった方が、効果があります。
その引っ越した先の環境も、今までとはまったく違うところへ行った方が効果は高まりますね。
都会から田舎へ、逆に田舎から都会へ、そして海外へ。海外でも先進国と発展途上国の違いや、宗教の違いもありますね。
ともかくできるだけ大きな変化を、無理やり自分に与えることが重要なのです。
私の場合、今まで以下の大きな引越しがありました。
1.大学進学と同時に島根の田舎から都会の広島へ
2.2つ目の大学に新聞奨学生として入る ために広島から大都会の東京(住所は川崎市ですが)へ
3.社会人になって埼玉県坂戸市へ
4.転職して横浜市へ
5.転職して岡山市へ
6.出向で海外のバンコクへ
その大きな変化のたびに、自分自身が大きくなったような気がします。
どうしても意志が弱く、なかなか自己変革ができないと悩んでいる人は、大きく生活環境を変化させる引越しをお勧めします。
それが難しい場合、できれば1ヶ月、無理なら2週間でも良いので、1人旅をすることです。
それも上記の引越しと同様に、今の生活環境とは大きく異なる場所へ行くこと。
1人で新しい環境の中に乗り込んでいくことで、何かを得ることができるでしょう。
日本国内でも、1ヶ月くらい住み込みで農業体験させてもらう方法があるでしょう。
四国八十八ヶ所を巡るお遍路というのも、良い方法かもしれません。
自転車や歩いて日本全国を回ってみるのもありです。
もちろんバックパッカーなどで、タイやインドへ行ってみるのもいいし、ワーキングホリデーを利用することもできます。
ともかく、行動してみましょう。
おそらく、10回よりもはるかに多く、ひょっとしたら20回以上は引越ししたかもしれません。引越しが趣味じゃないかと思えるほどです。
最初のうちは荷物も少なく、自分で車を借りたりしてやっていました。
しかし埼玉県坂戸市に引越して からは、2tロング以上のトラックが必要になり、横浜から岡山へ引越しした時に引越し業者を使ってからは、業者に任せるようになりました。
タイに来てからは、また自前で引越し しています。
荷物が少なくなったことと、最低限必要な家具などが、部屋についている(=レンタルする)ところを選んで引っ越しているからです。
その私が思うに、この引越しというのは、もっとも簡単に自分を変える方法だと思います。
なぜなら、生活環境が一変するからです。そのため、考え方を変えざるを得なくなるのです。
もちろん、隣のアパートに引っ越すくらいでは、あまり効果はないでしょう。
引越しに合わせて、会社、学校、職場などの1日の大半を過ごす場所も変わった方が、効果があります。
その引っ越した先の環境も、今までとはまったく違うところへ行った方が効果は高まりますね。
都会から田舎へ、逆に田舎から都会へ、そして海外へ。海外でも先進国と発展途上国の違いや、宗教の違いもありますね。
ともかくできるだけ大きな変化を、無理やり自分に与えることが重要なのです。
私の場合、今まで以下の大きな引越しがありました。
1.大学進学と同時に島根の田舎から都会の広島へ
2.2つ目の大学に新聞奨学生として入る ために広島から大都会の東京(住所は川崎市ですが)へ
3.社会人になって埼玉県坂戸市へ
4.転職して横浜市へ
5.転職して岡山市へ
6.出向で海外のバンコクへ
その大きな変化のたびに、自分自身が大きくなったような気がします。
どうしても意志が弱く、なかなか自己変革ができないと悩んでいる人は、大きく生活環境を変化させる引越しをお勧めします。
それが難しい場合、できれば1ヶ月、無理なら2週間でも良いので、1人旅をすることです。
それも上記の引越しと同様に、今の生活環境とは大きく異なる場所へ行くこと。
1人で新しい環境の中に乗り込んでいくことで、何かを得ることができるでしょう。
日本国内でも、1ヶ月くらい住み込みで農業体験させてもらう方法があるでしょう。
四国八十八ヶ所を巡るお遍路というのも、良い方法かもしれません。
自転車や歩いて日本全国を回ってみるのもありです。
もちろんバックパッカーなどで、タイやインドへ行ってみるのもいいし、ワーキングホリデーを利用することもできます。
ともかく、行動してみましょう。
2012年07月06日
自分を超える法
これがピーター・セージ氏の最初の本なのだそうです。
ピーター・セージ氏という名前を聞いたことがある方は多いと思いますが、イギリスの実業家です。
資金なし、人脈なし、学歴なし、という3つのハンディがありながらも起業したという、考え方だけでお金を生み出す人なのです。
世界No.1コーチとして知られるアンソニー・ロビンズ氏の最年少トレーナーにもなっているとか。
お金がまったくないのに、たしかカナダの不動産が気に入って、電話で注文したという話が有名ですね。
1〜2週間後にはその何割かを支払わなければならない。そこから行動を起こして、そのお金を工面してしまったという実話です。
こういう人の考えることは、やはり違いますね。
高額のセミナーを日本でも開催していますが、わずか2千円ほどの投資て、セミナーの知識が得られるという本です。
私が最も驚いたのは、最初の方に書かれていた言葉です。引用しましょう。
「人生の質は、あなたが居心地のよさを感じられる、不安定感の量に正比例する」(p36)
これが事業家としては、もっとも大事なマインドなのだとか。
私は、情熱こそが経営者に必須の資質と思っていたので、これには驚きました。
そして、言われてみると「なるほどなあ」と思えるのです。
人生は、何が起こるかわかりません。
特に挑戦的に生きようとする事業家なら、なおさら様々な困難や試練があるでしょう。
その不確実性、不安定な状況をどれだけ楽しめるかが、大事な資質だと言うのです。
別に事業家でなくても、このマインドを身につけることは重要だと思います。
なぜなら、それだけ人生が楽しくなるからです。
生きるためにはカラを破るしかなかったのです
先日の記事「本気で変わりたいなら引越ししなさい」 で、生活環境をガラっと変えることをお勧めしました。
私の実体験に基づいてそう勧めたのですが、同じようなことは多くの方が言われています。
「出稼げば大富豪」の兄貴 こと丸尾孝俊さんも、出稼ぐのが良いと、海外や地方へ移住することを勧めておられます。
今回は、私の実体験の中で、最初の引越しで感じたことを書いてみます。
1.大学進学と同時に島根の田舎から都会の広島へ
島根県は、陸の孤島と揶揄されるほど、当時は交通の便が悪かったのです。
まだ中国横断道(浜田道)もなく、山間のくねった道を走るバスか、単線のJRを使って広島へ出ます。
うちから県庁所在地の松江市までが車で約2時間でしたが、広島へはほぼ同じ距離ながら、それ以上の約2時間半かかったのです。
一度、三江線から芸備線に乗り継いで行って、待ち時間も含めてトータルで5時間以上かかったことがありました。
新幹線なら広島から東京に行くのと同じくらいの時間です。さすがに懲りました。
広島駅に着いて驚いたのは、列車が停まるホームがたくさんあったこと。
江津駅のホームがせいぜい3つくらいでしたから、その多さに驚き、「大都会に来たんだなあ」と感じました。
広島大学に進学することに決まった後、住む場所を決めたりするのに、母親と一緒に広島へ行きました。
18歳にもなってですけど、心細かったのです。
さすがに切符くらいは買えるまでになっていました が、何をどうすれば良いかわからないのですから。
大学を訪ね、下宿を斡旋してもらい、本校にも東雲(しののめ)キャンパスにも近い黄金山の麓にある古城浜荘という名の下宿で、4畳半の部屋を月にたしか7千円で借りたと思います。
トイレ、洗濯機、台所は共同です。お風呂はなく、近くの銭湯へ行きます。
冷蔵庫はあとで買うことにして、布団と机、小さな白黒テレビくらいが田舎から運んだ大きな家具でした。
初めての一人暮らし。
母親は心配して、料理のレシピを書いたノートを持たせてくれました。うどんの汁の出汁の取り方まで書いてあったんですよ。
外食ばかりじゃ身体に悪いということもありましたが、外食ばかりじゃお金が持ちません。
仕送りは最初、月に4万円だったと思います。
そのうち日本育英会の特別奨学金の2万6千円をもらえるようになったので、仕送りは2万円に減らされましたけど。
初めて夜を過ごした下宿では、電気を消した後、窓から遠くの空を眺めました。
「今頃は家族でテレビでも見ているのだろうか。」
そう思うと、急に1人でいることが心細くなります。
ここで生活をするしかない。どんなに心細くても生きていかなくては未来は開けないのだと、漠然と思ったのです。
5月の連休には一度帰省しました。目的は、バイクを持って行くためです。
友だちから1万円で買ったホンダCB50。それに乗って広島へ向かっていると、途中で父親が車で追いついてきました。
心配で後を追いかけてきたようです。車には母と妹も乗っていました。
ガソリンが足りるかをチェックし、大丈夫だということで別れました。
私は両親から、本当に愛されていたのですね。
こうして、初めての一人暮らしがスタートし、私の生活環境は一変しました。
何から何まで自分でやらなくてはならない生活。
楽ではなかったと思いますが、お陰で強くなれました。料理も洗濯も、自分でできるようになりましたから。
いつ1人になっても生きていける。その確信が持てるということは、本当に人を強くしてくれます。
内気で初対面が苦手な私であっても、徐々に積極的に人の輪に入っていけるようになったのです。
私の実体験に基づいてそう勧めたのですが、同じようなことは多くの方が言われています。
「出稼げば大富豪」の兄貴 こと丸尾孝俊さんも、出稼ぐのが良いと、海外や地方へ移住することを勧めておられます。
今回は、私の実体験の中で、最初の引越しで感じたことを書いてみます。
1.大学進学と同時に島根の田舎から都会の広島へ
島根県は、陸の孤島と揶揄されるほど、当時は交通の便が悪かったのです。
まだ中国横断道(浜田道)もなく、山間のくねった道を走るバスか、単線のJRを使って広島へ出ます。
うちから県庁所在地の松江市までが車で約2時間でしたが、広島へはほぼ同じ距離ながら、それ以上の約2時間半かかったのです。
一度、三江線から芸備線に乗り継いで行って、待ち時間も含めてトータルで5時間以上かかったことがありました。
新幹線なら広島から東京に行くのと同じくらいの時間です。さすがに懲りました。
広島駅に着いて驚いたのは、列車が停まるホームがたくさんあったこと。
江津駅のホームがせいぜい3つくらいでしたから、その多さに驚き、「大都会に来たんだなあ」と感じました。
広島大学に進学することに決まった後、住む場所を決めたりするのに、母親と一緒に広島へ行きました。
18歳にもなってですけど、心細かったのです。
さすがに切符くらいは買えるまでになっていました が、何をどうすれば良いかわからないのですから。
大学を訪ね、下宿を斡旋してもらい、本校にも東雲(しののめ)キャンパスにも近い黄金山の麓にある古城浜荘という名の下宿で、4畳半の部屋を月にたしか7千円で借りたと思います。
トイレ、洗濯機、台所は共同です。お風呂はなく、近くの銭湯へ行きます。
冷蔵庫はあとで買うことにして、布団と机、小さな白黒テレビくらいが田舎から運んだ大きな家具でした。
初めての一人暮らし。
母親は心配して、料理のレシピを書いたノートを持たせてくれました。うどんの汁の出汁の取り方まで書いてあったんですよ。
外食ばかりじゃ身体に悪いということもありましたが、外食ばかりじゃお金が持ちません。
仕送りは最初、月に4万円だったと思います。
そのうち日本育英会の特別奨学金の2万6千円をもらえるようになったので、仕送りは2万円に減らされましたけど。
初めて夜を過ごした下宿では、電気を消した後、窓から遠くの空を眺めました。
「今頃は家族でテレビでも見ているのだろうか。」
そう思うと、急に1人でいることが心細くなります。
ここで生活をするしかない。どんなに心細くても生きていかなくては未来は開けないのだと、漠然と思ったのです。
5月の連休には一度帰省しました。目的は、バイクを持って行くためです。
友だちから1万円で買ったホンダCB50。それに乗って広島へ向かっていると、途中で父親が車で追いついてきました。
心配で後を追いかけてきたようです。車には母と妹も乗っていました。
ガソリンが足りるかをチェックし、大丈夫だということで別れました。
私は両親から、本当に愛されていたのですね。
こうして、初めての一人暮らしがスタートし、私の生活環境は一変しました。
何から何まで自分でやらなくてはならない生活。
楽ではなかったと思いますが、お陰で強くなれました。料理も洗濯も、自分でできるようになりましたから。
いつ1人になっても生きていける。その確信が持てるということは、本当に人を強くしてくれます。
内気で初対面が苦手な私であっても、徐々に積極的に人の輪に入っていけるようになったのです。
イライラしたから突き飛ばしてやった
今朝、東京都福生市のJR青梅線福生駅で、ホームから男性が転落し、危うく快速電車にひかれそうになったという事件がありましたね。
34歳の会社員男性が、目の前を通った男性の肩を突き飛ばしたためだとか。
犯人は通報により逮捕されたのですが、「イライラしてうっとうしく、頭にきてやった」と供述しているそうです。
詳しい事情はわかりませんが、おそらくその突き落とされた男性に対して腹を立てたのでしょうね。
私も東京で暮らしていたころは、イライラすることが多かったです。
電車を待って並んでいる時でも、やたらとくっついて並ぶ人がいました。
それがじっとしてるならまだしも、仲間と話をしているときに身体を揺らすので、カバンが私の背中に当たるのです。
いちいち「すみませんが当たらないようにしてください」と言うのも癪にさわるし、手でカバンを動かして背中に当たらないように位置を変えても、またしばらくすると元の位置に。
そんなことくらい気にしなければよいのでしょうけど、気になって仕方なかったのです。
「なんでそんなにくっつくんだよー!オレのことが好きなのか!?」
そう怒鳴りたくなったものです。
あるときは列の先頭に並んでいたら、白線の内側を歩いて移動する人がいるのです。
「危ないですから白線の内側を歩かないでください。」
そうアナウンスされているのに、平気で歩いています。
それだけ堂々と歩くなら、もっと線路に近い方を歩けば良いのに、私の目の前を、もうぶつかりそうなくらい近くを通過します。
そんなときは、私も突き飛ばしたくなる衝動に駆られたことがありました。
「思ったかどうかが問題じゃなく、実際にやったかどうかが問題なのだ。」
そう考える人もいるでしょう。
たしかに法律上では、いくら想像したとしても処罰はされません。
しかし、それで本当に満足ですか?
処罰されるかどうかが重要なのでしょうか?
この前も書きましたが、聖書の中でイエスは「情欲を抱いて女を見た者は、姦淫をしたのと同じだ」 と言い切っています。
実際にやったかどうかが重要なのではなく、思ったかどうかがより重要だということでしょう。
こういう問題を、「イライラさせた相手が悪いのだ」とか、「人が多過ぎる社会環境が悪いのだ」などと、他人や環境のせいにしても解決しません。
なぜなら、他人や環境は、自分の思いだけではどうにもならないからです。
どうにもならないことを、どうにかしようともがくから苦しいのです。
自分の考え方を変えるしか、解決方法はないのです。
そう、とことん突き詰めて考えて決めておかないから、迷ってしまうのです。
こういう事件が起こると、その犯人を重く処罰することを人々は求めがちです。
「あいつが悪いのだから、あんな奴は懲らしめてやれ。」
しかし、それもまた他人を変えようとする行為であることを、知っておく必要があるでしょう。
どんなに罰を重くしても、あなたを怒らせる「あんな奴」はいなくなりません。
「あんな奴」をこの世から抹殺するには、あなたが「あんな奴」と思わないことしかないのです。
それが道理だとわかるまでは、何度も何度も同じことを繰り返すことになるのでしょうね。
34歳の会社員男性が、目の前を通った男性の肩を突き飛ばしたためだとか。
犯人は通報により逮捕されたのですが、「イライラしてうっとうしく、頭にきてやった」と供述しているそうです。
詳しい事情はわかりませんが、おそらくその突き落とされた男性に対して腹を立てたのでしょうね。
私も東京で暮らしていたころは、イライラすることが多かったです。
電車を待って並んでいる時でも、やたらとくっついて並ぶ人がいました。
それがじっとしてるならまだしも、仲間と話をしているときに身体を揺らすので、カバンが私の背中に当たるのです。
いちいち「すみませんが当たらないようにしてください」と言うのも癪にさわるし、手でカバンを動かして背中に当たらないように位置を変えても、またしばらくすると元の位置に。
そんなことくらい気にしなければよいのでしょうけど、気になって仕方なかったのです。
「なんでそんなにくっつくんだよー!オレのことが好きなのか!?」
そう怒鳴りたくなったものです。
あるときは列の先頭に並んでいたら、白線の内側を歩いて移動する人がいるのです。
「危ないですから白線の内側を歩かないでください。」
そうアナウンスされているのに、平気で歩いています。
それだけ堂々と歩くなら、もっと線路に近い方を歩けば良いのに、私の目の前を、もうぶつかりそうなくらい近くを通過します。
そんなときは、私も突き飛ばしたくなる衝動に駆られたことがありました。
「思ったかどうかが問題じゃなく、実際にやったかどうかが問題なのだ。」
そう考える人もいるでしょう。
たしかに法律上では、いくら想像したとしても処罰はされません。
しかし、それで本当に満足ですか?
処罰されるかどうかが重要なのでしょうか?
この前も書きましたが、聖書の中でイエスは「情欲を抱いて女を見た者は、姦淫をしたのと同じだ」 と言い切っています。
実際にやったかどうかが重要なのではなく、思ったかどうかがより重要だということでしょう。
こういう問題を、「イライラさせた相手が悪いのだ」とか、「人が多過ぎる社会環境が悪いのだ」などと、他人や環境のせいにしても解決しません。
なぜなら、他人や環境は、自分の思いだけではどうにもならないからです。
どうにもならないことを、どうにかしようともがくから苦しいのです。
自分の考え方を変えるしか、解決方法はないのです。
そう、とことん突き詰めて考えて決めておかないから、迷ってしまうのです。
こういう事件が起こると、その犯人を重く処罰することを人々は求めがちです。
「あいつが悪いのだから、あんな奴は懲らしめてやれ。」
しかし、それもまた他人を変えようとする行為であることを、知っておく必要があるでしょう。
どんなに罰を重くしても、あなたを怒らせる「あんな奴」はいなくなりません。
「あんな奴」をこの世から抹殺するには、あなたが「あんな奴」と思わないことしかないのです。
それが道理だとわかるまでは、何度も何度も同じことを繰り返すことになるのでしょうね。
2012年07月07日
お坊さんでも勝てないのが性欲というもの
今日のニュースを見ていたら、修行僧が女性の胸を触った容疑で逮捕されたそうです。
逮捕されたのは25歳の修行僧。臨済宗大徳寺派とありますから、禅宗 ですね。
繁華街で知り合った20歳の女性をトイレに押し込め、胸を触るなどのわいせつ行為をしたとか。
女性が抵抗したため逃げたものの、携帯電話の番号を知らせていたために御用となった次第。
酒に酔っていてはっきり覚えていないが、触ったのは間違いないと供述しているそうです。
お坊さん(正式にはまだ僧侶なってませんが)がわいせつ行為を働いたから、ニュースにされちゃったのですね。
ある意味で、可哀想だとも思います。
他にも聖職と呼ばれる警察官や教員、そして一般の公務員も、模範的な人間であることが求められるため、何かするとすぐにニュースになります。
はっきりと言いますが、お坊さんも聖職者も、同じ人間ですよ。
何度も繰り返して申し訳ありませんが、イエスは「情欲の思いで女を見たなら、それは姦淫を犯したのと同じだ」 と言っているのです。
それだとおそらく、9割以上、いえ、99.9%以上の男性は、性犯罪者です。私の勝手な想像ですけどね。
単に性への関心だけなら、我慢することも諦めることも容易だったでしょう。
そうでないところが性欲の面白いところ。いや難しいところだと思います。
「坊主になろうとしているなら、それくらい自制しろよ!」
そう言うのは簡単です。
私などは、何度も欲望に負けてきた人間ですから、偉そうなことは言えません。
ただ今は、相手が嫌がるような性行為だとか、私にとって重要な人がしてほしくないと願うような性行為を、あえてすることはないだろうなと思っています。
なぜなら、その必要性がないことがわかっているからです。
イエスも40日間、荒野で悪魔の誘惑に耐えたそうです。
仏陀もまた、そうした誘惑や試練を乗り越えて悟りを開いたとも。
性欲の奥底には愛情に対する渇望がある のです。
その必要性を捨てない限り、僧侶と言えども性欲に負けることはあるでしょうね。
逮捕されたのは25歳の修行僧。臨済宗大徳寺派とありますから、禅宗 ですね。
繁華街で知り合った20歳の女性をトイレに押し込め、胸を触るなどのわいせつ行為をしたとか。
女性が抵抗したため逃げたものの、携帯電話の番号を知らせていたために御用となった次第。
酒に酔っていてはっきり覚えていないが、触ったのは間違いないと供述しているそうです。
お坊さん(正式にはまだ僧侶なってませんが)がわいせつ行為を働いたから、ニュースにされちゃったのですね。
ある意味で、可哀想だとも思います。
他にも聖職と呼ばれる警察官や教員、そして一般の公務員も、模範的な人間であることが求められるため、何かするとすぐにニュースになります。
はっきりと言いますが、お坊さんも聖職者も、同じ人間ですよ。
何度も繰り返して申し訳ありませんが、イエスは「情欲の思いで女を見たなら、それは姦淫を犯したのと同じだ」 と言っているのです。
それだとおそらく、9割以上、いえ、99.9%以上の男性は、性犯罪者です。私の勝手な想像ですけどね。
単に性への関心だけなら、我慢することも諦めることも容易だったでしょう。
そうでないところが性欲の面白いところ。いや難しいところだと思います。
「坊主になろうとしているなら、それくらい自制しろよ!」
そう言うのは簡単です。
私などは、何度も欲望に負けてきた人間ですから、偉そうなことは言えません。
ただ今は、相手が嫌がるような性行為だとか、私にとって重要な人がしてほしくないと願うような性行為を、あえてすることはないだろうなと思っています。
なぜなら、その必要性がないことがわかっているからです。
イエスも40日間、荒野で悪魔の誘惑に耐えたそうです。
仏陀もまた、そうした誘惑や試練を乗り越えて悟りを開いたとも。
性欲の奥底には愛情に対する渇望がある のです。
その必要性を捨てない限り、僧侶と言えども性欲に負けることはあるでしょうね。
清水の次郎長が好かれる理由
清水の次郎長と言えば、東海道は江尻の宿を縄張りとしたヤクザの親分です。
ヤクザと言えば暴力団が連想されるこのごろですが、地元の有力者とか用心棒という意味もあったようですね。
芝居に取り上げられることもあって、清水の次郎長人気は全国区です。
親分の次郎長だけでなく、子分の大政や小政、森の石松なども有名で、親分子分の情が厚いことでも知られます。
その次郎長のエピソードですが、何かの本で読んだものを紹介しましょう。
もううろ覚えなので、一部に間違いもあるかもしれませんが、大筋では合っていると思いますのでご容赦ください。
ある人が次郎長に、「あなたのために命を投げ出す子分が、いったい何人くらいいるのですか?」と尋ねました。
親分思いの子分がたくさんいることで知られる次郎長です。
主だった子分だけでなく、相当の人数がいると思われました。
次郎長は、穏やかに答えます。
「私のために命を投げ出せる子分が何人いるか知らないが、私は子分のためなら、いつでも命を投げ出せる。これは間違いない。」
次郎長は子分たちに、命を投げ出すことを求めてはいなかったのです。
ただただ子分たちのために尽くそうと考えていました。そのためなら、いつでも命を投げ出すと覚悟を決めて。
こういう親分だったからこそ、子分たちも慕ったのでしょう。
子分たちばかりか、地元の人達も次郎長を好きになったようです。
幕末、薩長を中心とした官軍(新政府軍)と賊軍(反新政府軍)が戦う内戦がありました。
清水沖でも官軍が賊軍の船を襲い、皆殺しにした事件があったそうです。
死体は海に浮かび、一部は浜に流れ着くものの、人々は官軍を怖れて片付けることもできません。
官軍側は、賊軍の人間は人として扱わない方針だったからです。
このままでは、漁師が漁を行うこともできません。
そこで次郎長は子分たちに命じて、死体を片づけ、手厚く弔ったそうです。
官軍側から抗議されても、「死んだ者は等しく仏だ。死体に官軍も賊軍もない。」と言って突っぱねたとか。
死ぬことも怖れず、人として為すべきことを為す。
次郎長はやっぱり、男の中の男と言われるわけですね。
ヤクザと言えば暴力団が連想されるこのごろですが、地元の有力者とか用心棒という意味もあったようですね。
芝居に取り上げられることもあって、清水の次郎長人気は全国区です。
親分の次郎長だけでなく、子分の大政や小政、森の石松なども有名で、親分子分の情が厚いことでも知られます。
その次郎長のエピソードですが、何かの本で読んだものを紹介しましょう。
もううろ覚えなので、一部に間違いもあるかもしれませんが、大筋では合っていると思いますのでご容赦ください。
ある人が次郎長に、「あなたのために命を投げ出す子分が、いったい何人くらいいるのですか?」と尋ねました。
親分思いの子分がたくさんいることで知られる次郎長です。
主だった子分だけでなく、相当の人数がいると思われました。
次郎長は、穏やかに答えます。
「私のために命を投げ出せる子分が何人いるか知らないが、私は子分のためなら、いつでも命を投げ出せる。これは間違いない。」
次郎長は子分たちに、命を投げ出すことを求めてはいなかったのです。
ただただ子分たちのために尽くそうと考えていました。そのためなら、いつでも命を投げ出すと覚悟を決めて。
こういう親分だったからこそ、子分たちも慕ったのでしょう。
子分たちばかりか、地元の人達も次郎長を好きになったようです。
幕末、薩長を中心とした官軍(新政府軍)と賊軍(反新政府軍)が戦う内戦がありました。
清水沖でも官軍が賊軍の船を襲い、皆殺しにした事件があったそうです。
死体は海に浮かび、一部は浜に流れ着くものの、人々は官軍を怖れて片付けることもできません。
官軍側は、賊軍の人間は人として扱わない方針だったからです。
このままでは、漁師が漁を行うこともできません。
そこで次郎長は子分たちに命じて、死体を片づけ、手厚く弔ったそうです。
官軍側から抗議されても、「死んだ者は等しく仏だ。死体に官軍も賊軍もない。」と言って突っぱねたとか。
死ぬことも怖れず、人として為すべきことを為す。
次郎長はやっぱり、男の中の男と言われるわけですね。
僧侶12,600人のパワー
今朝、私が住むバンコクのアソーク通りでは、大変な賑わいがありました。
僧侶が12,600人も集まって、托鉢を行ったからです。
仏誕2600年に当たる今年、それを記念した行事なのだとか。
深夜2時くらいから通りを通行止めにして、会場の設営が行われたようです。
托鉢会は5:30くらいから始まったのですが、今朝外に出てみると、通りに赤い簡易イスがズラーッと並べてありました。
およそ500mほどは並べてあったでしょうか。
妻がタンブン(お布施すること)をするというので、5時に一緒に起きした。
妻は身を清めて、用意した白装束を着て、お布施する食料や封筒に入れたお金を持って外に出ました。
しばらく読経などがあったあと、6時半くらいからだったでしょうか、托鉢が始まりました。
僧侶たちが一斉に移動し始め、アソーク通りからスクンビット通りへ向けて広がります。
後ろの方はどうなったか見えないのでわかりませんけど。
広がったところで、その周辺をぐるぐると回るようにしながら、お坊さんたちはお布施を受けていきます。
通常の托鉢なら、お布施をした後でしばらくお経を唱えてもらうのですが、この日はそうはいきません。
ともかく人をかき分けて前に進み、お坊さんの持つ鉢が空いたら、すぐにそこにお布施するものを入れないと、他の誰かに先を越されてしまいます。
お坊さんは鉢がいっぱいになると、控えている人に渡し、それが大きなビニール袋に見る見るいっぱいになっていきます。
お布施する食料品などは、昨日は近くのコンビニでも、店の前に並べて売っていました。
いったいどれほどのお金が動き、どれだけのものが寄進されたのでしょうか。
タイは仏教国ですから、こういう行事になるとこぞって人が集まってきます。
そのパワーに圧倒されました。
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