2012年07月01日

「神との対話」との出会いについて

「神との対話」という本が私の人生に与えた影響は、計り知れないものがあると、今になって思います。

私がこの本を手にしたのは、1998年8月だったと思います。


思いますと言うのは、私がこの本をHPに書いて紹介したのが1998年8月だったからです。

でも、この本の初版発行は1997年9月30日となっていて、私はその初版本を持っています。

ひょとしたら、1997年10月には手にしていて、たまたまHPに書き始めたのが1998年8月だったかもしれません。

1999年5月には「神との対話B」を紹介しているので、その間に「神との対話A」を読んでいるはずです。

そう考えると、1998年8月よりも早かった可能性が高くなりますね。


まあそんなことはどちらでも良いのでしょうけど、そんなこともわからなくなるほど、私にとっては昔の出来事なのです。

その頃はたしか、東京都世田谷区の千歳烏山で暮らしていたと思います。

東京のあちこちへ仕事で行く可能性があったので、アクセスの良い場所に住みたかったのです。


そこで目をつけたのが、副都心の新宿へ行ける路線です。

小田急線と京王線、そして中央線が候補に上がりましたが、私は京王線を選びました。

京王線は新宿だけでなく、渋谷にもアクセスできたし、地下鉄への乗り入れもありましたから。

それに小田急線よりも混まないのが良かったですね。小田急線は、ラッシュ時は鈍行がまったく進まない感じでしたし。

中央線は、遠くまで行っているのが難点でした。ずっと混むのです。


休みの日など、千歳烏山の商店街にある書店へ、よく行きましたよ。

そこで「神との対話」を見つけました。

ちょっと分厚い単行本で、値段が1,800円+税です。ちょっと高いですよね。

でも私は、これは読むべき本だと思い、すぐに買ったのです。



「はじめに」と題された最初の文章は、次の文で始まっていました。ちょっと引用しましょう。

これからあなたは、とてつもない経験をする。神との対話が始まるからだ。そう、そのとおり、わかっている・・・そんなことは不可能だ。あなたはきっと不可能だと考えている。(あるいはそう教えられている。)神に語りかけることはできても、神と対話することはできない。神は答えてくれない。少なくとも、神と友だちのような会話ができるはずない、と。

このあと、著者のニール・ドナルド・ウォルシュ氏が、どんな不思議な体験をしたかが書かれていました。

私はそれを読んで、またチャネリングの類だろうと思ったのです。


本文に入ると、神は著者を通じて語ってきます。

その中でまず、思考が現実を創るという「引き寄せの法則」のような話をします。

ただし、もし私たちが「欲する」と言えば、「欲する」=「今はない」という現実が創造されるとも。

そこで、感謝することが重要だと言います。感謝するとは、神を信頼することだと。

しかし、感謝は神を操る手段ではないと言います。そうなると知っているなら、感謝したくなるのだと。


このあたりの内容は、すでに潜在意識を効果的に利用する方法として、ジョセフ・マーフィーの本などで知っていました。

知っていましたが、確信に満ちた語り口の中に、ポツポツと私が知らないことも出てくるのです。

「なぜそう言い切れるのだろう?」

そんなことを考えながら、この本を読み進めました。


「感情は魂の言語だ。」というフレーズも、この本に出てきます。

これなども、私はそれまで知らなかったことです。

この本を読み、「本当にそうか?」という疑問を抱きながら自分自身で検証し、信じるに足ると思うようになったことです。


「最も愛情深い人間とは、最も自己中心的な人間だ。」

こんな過激な言葉も出てきます。

しかし、自分を愛していなければ、相手を愛することもできないと説明されると、なるほどなと思うのです。

それがわかっていないから、相手から愛情を得ようとして、自分の愛情を取引材料に使おうとするのです。


私も、そんなことをしてきました。

「これだけ愛したんだから、その10分の1くらい思ってくれてもバチは当たらないんじゃないの。」

そう言って、自分が愛を提供したのに、返してくれない相手を責めたのです。

でも、それは愛ではなかったのですね。

まずは自分を愛すること。それができていなかったから、他人からの愛を求めたのです。



性的な関係についても書かれていて、そこは本当に興味津々で読みましたよ。

なにせ私は、性欲が人一倍強いと自負していましたから。


私の初体験は、新宿のソープランドでした。22歳くらいの頃だったと思います。

学生の間はお金もあまりないので、風俗の経験はそれだけでしたけど。

早朝の60分1万円コース。三つ指をついて出迎えられ、どんなことをしてくれるのかとワクワクドキドキし、緊張のあまりに最後までイカなかったという恥ずかしい体験です。

ソープ嬢がボソリと、「だから童貞は嫌なのよね」と言った言葉を聞き逃しませんでした。

落ち込んで、二度とソープなんかへ行くかと思った出来事です。

しかしそれでも、性欲の強さには勝てずに、それからも何度も風俗通いをすることになりましたけど。


そんな私ですから、この性欲をどうすれば抑えられるのか、あるいは抑えるべきなのかどうか、神がどう言うのか、とても関心があったのです。

この本で神は、セックスは面白い遊びだと言います。大いに遊んだら良いと。

それを読んで、「じゃあ無理に性欲を抑える必要性はないのだ。」と思いましたよ。

性欲があることは間違いないのに、どうしてそれを抑えるべきだと言われるのか、そこがわからなかったからです。

ただ、続けて次のようにも言うのです。引用しましょう。

愛のないセックスをする人間としての自分を経験したいか?それなら、そうしなさい!もういやだと思うまで、実行すればいい。どんな行動でも止めるのは、新しく違う自分になりたいと思ったときである。

これには参っていましました。やりたいなら、好きなだけやれと言うだけで、良いとも悪いとも言わないのですから。



この本全体を通じて、こんな感じです。

神は常に、自分の思うがままにしなさいと言うだけです。あなたの思いが、神の思いなのだと。

これを読んだばかりのころ、私にはまだほとんど理解できなかったのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:25 | Comment(0) | ├ 私の生い立ち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月02日

タイで引越しするのは大変です

6月に、約10年ぶりに引越ししました。

と言っても、同じコンドミニアム(日本で言うところのマンション)の上層階から下層階への引越しです。

オーナーが違うので、値段交渉から何からやらなければなりません。


タイと日本の大きな違いは、すぐに住めるようになっているかどうか、という点にあると思います。

日本は、本当に品質が優れているんですよ。

これは素晴らしいことで、涙を流して喜ばなければいけないくらいです。

果たしてみなさんは、そんなふうに感謝したことがありますか?

おそらく、ないと思います。「そんなの当たり前でしょ。」そう思うだけでしょうね。あーもったいない。



今回引っ越した先は、前の住人がいなくなって、数ヶ月くらいの部屋のようでした。

ただ、前の住人も長く居たのか、備え付けの家電品がけっこう古いタイプでした。

冷蔵庫はワンドアで、もうどこにもなさそうな古いタイプ。洗濯機はベランダ置きが原因だと思われますが、見た目がかなり汚れています。

私は洗濯機を自分で購入して持っていたので、それを持って行って使うことにしました。冷蔵庫は、新たに買うことにしたのです。

それをオーナーに言って、今あるのを撤去してもらうように伝えました。


撤去してもらった日に行って見ると、撤去したはずの冷蔵庫がメイド部屋(※)にあります。

他にもメイド部屋に、私が要らないと伝えたDVDプレーヤーや枕などの寝具などがありました。

これでは借りたスペースを自分で使うことができません。またオーナーに連絡して、撤去するか、さもなければ私が捨てると伝えました。

「普通、わかるやろう!?」そう言いたい気分ですよね。

レンタルしないと言った家具を、メイド部屋に入れて置かれたら、私が使うスペースが減ってしまうではありませんか。


さらに、カーテンの開閉が上手くできないので修理を依頼したのですが、カーテンの専門屋じゃなかったせいか、やって来た修理工が修理できなかったのです。

来るだけ来て、時間ばかり取られて、何も変わらない。

「もう面倒だから来ないでもらってよ。このままでいいから。」

そう修理に立ち会った妻から文句を言われる始末です。

「私が悪いことをしたわけじゃないのに、どうして文句を言われないといけないかなあ。」

そんな気分になります。


さらに、こんなこともありました。

ベッドルームとバスルーム、メイド部屋に入るために4つのドアがあるのですが、それぞれに内側から押してかける鍵がついています。

しかし、その鍵を開けるためのキーがないのです。

オーナーに言って3つのキーをもらったのですが、試してみると、合うのはベッドルームの1つだけ。残りの2つは、ぜんぜん違うものでした。

「おーい、オーナーなんだから、しっかりと鍵の管理くらいしろよ!」

そう怒鳴りつけたくなります。


また、バスルームには天井と鏡の上に照明があり、スイッチが2つあります。

1つは天井の照明と換気扇のスイッチです。

ところがもう1つのスイッチが壊れていて、鏡の上にある照明がつきません。

それもクレームを出して修理してもらったところ、なんとスイッチそのものを修理せずに、天井の照明と換気扇のスイッチに、鏡の上の照明のオン・オフも追加してしまったのです。

なので、1つのスイッチをつけると、すべてがつくという状態です。

これでは無用に鏡の上の照明をつけなければならなくなります。

「普通、修理してくれと依頼したら、スイッチの方を修理するだろう。なんで使える方のスイッチにまとめるかなあ。」

たしかに、使えなかった鏡の上の照明を使えるようにしたという点では、修理したことになるのでしょうけど。



このように、いちいち感性が違うので頭に来てしまいます。

「ふざけるなよ。1回言ったら言われたとおりにしろよ!」

そう言いたくなりますよね。


でも、これがタイなのです。

日本では当然と思うことが、いちいち当然ではありません。

仮にタイ人が私が言うことがもっともだと思ったとしても、そう思わないタイ人も多いのです。


でも今回は、今まで住んでいたところよりもマシです。そこに入居するときは、もっと大変でした。

それまで人が住んでいなかったこともあって、水道や電気のトラブルがたくさんあったのです。

タイで新築物件は借りるべきではないという、教訓を得たくらいでしたから。


幸せ実践塾−傷つきやすい、内気、自信がない、を幸せ体質に改善します。-相田みつをの書

昨日、ベッドルームの入り口に、お気に入りの相田みつをさんの文が書かれたのれんを掛けました。

前の部屋もそうしていたのですが、取り外した後で洗濯し、アイロンをかけたので、掛け直すのに時間がかかりました。

これを毎日見ながら、自分の心に言い聞かせます。



今朝、シャワーのホースに亀裂が入っているのがわかりました。

古くなったためでしょうか。また修理を依頼しなければなりません。

憂鬱なことですが、憂鬱にならないように考え方を選択します。

「このタイミングでちょうど良かった。今度また、入り口のドアの修理をしてもらうことになっていたから、そのときついでに直してもらえるし。」


※メイド部屋:住み込みのメイドさんを住まわせるための部屋で、たいていは小さく(3〜4畳くらい)、窓がない部屋です。物置代わりに使うことも多いです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:00 | Comment(0) | └ タイのお役立ち情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「厄介なことを押し付けるな!」と思われたら

先日、福島の桃を注文して親元に送ったという話を書きました。

その最後に、届いた桃を食べるかどうかは、親が勝手に決めることだということも書きました。

放射能が怖いから食べないという選択も、あって良いと思うからです。


これを書きながら、こんなふうに思う人もいるだろうなと思いました。

「だったら厄介なことを親に押し付けなければいいじゃないか。送られた方は迷惑だよ。」

たしかに、最初に親に確認して、食べるなら送るという方法が良いのかもしれませんね。

伊達直人現象の時も、相手の施設が何がほしいかわからないのだから、最初に聞くべきだという意見がありましたが、それと同じです。


その考え方もあると思いましたが、私は、何も聞かずに買って送ることにしたのです。

それは、それをどうするか考えることも、親にとっては意義のあることだと思うからです。

そして、桃を買って遅れる場所としては、親ほど気心を許せるところがないからです。

まず桃を買うことが最優先だったから、あえて親には聞きませんでした。

まあ、これはもうしょっちゅうなので、親が何も言わないことはわかっていますけどね。



この世の出来事は、複雑なパズルのようなものだと思うのです。

私にとっては、私に関わる出来事が人生の全てです。

しかし、他の人には、それぞれの人に関わる出来事が、その人の人生の全てです。

そういうそれぞれの人生が、複雑に絡み合っているのです。


たとえば今回、私は福島の桃を親に送ることで、親の人生と私の人生が関わりを持ったのです。

私は、「これを親に送ることはどうだろうか?」と、いろいろなことを考えました。

福島の桃を親に送るという出来事によって、様々なことを考えさせられたのです。

私の親はまた、私から福島の桃が送られてくるという出来事によって、様々なことを考えさせられたでしょう。


このとき、私が最初に親に確認して送るのか、あるいは確認せずに送るのかによって、また親の方の受け止め方も変わったでしょう。

あるいは受け取った親がどんな反応を示すかによって、私の受け止め方も変わったでしょう。

このように、それぞれの反応の仕方によって、また相手に与える印象が変わったりします。

それがどんな反応だとしても、相手の人生に関わり、何かを与えることになるのです。



このとき、出来事が感情を決めるという考えの人は、影響を与える側が気を使うべきだと考えます。

つまりこの例では、私が福島の桃を送るとき、気を使うべきだと言うのです。

それに対する親の反応の責任は、その多くが私にあるということになります。


たしかに、そういうこともあると思います。

たとえば私が福島の桃を親に送らなければ、親の人生とは関わらなくて済んだのです。

それがもし、送ることによって親が嫌な気分になったとしたら、送った私が悪いと非難したくなる気持ちもわかります。


しかし、そうじゃない反応を親がする可能性もあります。

送られてきた福島の桃を見て、被災した人たちへの気持ちを新たにするきっかけになるかもしれません。

自分の息子が被災地を応援しようという気持ちを持っていることを知って、誇らしく思うかもしれません。

どう思うかということは親自身が決めることであり、私には関与できないことなのです。


だとしたら、相手の反応に全責任を負う必要はない、と私は思います。

これは、傷つける方よりも傷付く方が悪い、と言われた話と同じことです。

もちろん、自分が想像できる範囲内で、相手の反応を想像しながら決めることはするでしょう。

なぜなら、それはまさに自分を規定することだからです。


たとえば、レストランで食事をして支払いをせずに逃げるという行為はどうでしょうか?

捕まれば罰を与えられるとしても、もし絶対に捕まらない方法があったら、あなたはそれをしますか?

美味しい料理を腹一杯に食べられます。しかも、自分の懐は痛みません。一石二鳥じゃありませんか。

それで罰を受けないとしたら、あなたはやりますか?


私はやりません。なぜなら、その料理を提供してくれた人が喜ばないことを想像するからです。

美味しい料理を一所懸命に作ってくれた人たちが悲しんだり、悔しがったりする姿が想像できるからです。

そういう人たちを、そういう目に合わせたくない。そういう人を悲しませて平気でいられない。

それが自分という人間だと思うから、そんなことはしたくないのです。

罰せられるかどうかなど、どうでも良いことです。法があろうとなかろうと、私は、私らしくないことはやりたくないのですよ。



相手が傷つくかもしれないことは、できるだけやりたくないと思う。

それでも、そうすることで何らかのメリットがあるかもしれないことは、やりたいと思うのです。


たとえばそれをやった結果、相手が傷ついたとしましょう。

その相手の反応は、そのまま私に与えられた贈り物になります。

私はその贈り物を受け取り、私の考え方の糧にするのです。

「今度からはもっと慎重にやろう。」そう考えるかもしれません。

あるいは、「傷つけたことは申し訳ないし、その痛みを私自身も追わなければならない。でも、このことは続けて行かなければならにんだ。」と、さらに決意を固めるかもしれません。

いずれにせよ、その人のその反応こそが、私へのありがたい贈り物となるのです。



先日タイで、大学の卒業式帰りの親族15名が帰宅途中で事故を起こし、その卒業生などが亡くなったそうです。

こんなことが、世界中のいたるところで毎秒毎秒起こっています。

それが事実だとしても、私やあなたの人生にとって、何の影響があるでしょうか?

何も影響はありません。なぜなら、知らないからです。自分の人生に関わってこないからです。


この世は、それぞれの人生がその人の世界を作りながら、その周りの多くの人生と絡み合うことによって互いに影響し合うようになっています。

しかもその人の人生は、その人の思うとおりになるようになっていると言われます。

そんな不思議な世界が、何の意図もなく作られているとおもいますか?

こんな複雑なパズルを創れるとするなら、それは私たちが一見、別々の存在のように見えて、実は「ひとつのもの」だということを示していると思うのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:11 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

強烈な性欲の正体がわかった

何度も繰り返していますが、私は自分のことを、これほど性欲が強い人間は他にいないのではないか、と思っていました。

実際は、私よりも好きな人は多いと思いますが、比較する機会がなかったものですから。

私の主観の中で、そう思い込んできたのです。


女性を見ればムラムラとした気持ちが頭をもたげ、非ぬことを想像してしまう

想像しているだけなら問題はないのかもしれませんが、これがいつ現実に実行してしまうかわからないほど、強い思いだったのです。

聖書ではイエスが、情欲の思いで女を見たなら、それはすでに姦淫の罪を犯したのと同じだ、というようなことを言っています。

その意味からすれば、私はとうの昔に罪人(つみびと)なのです。

異端の宗教ではあっても、キリスト教関係の宗教に入信していた私としては、それはとても苦しいことだったのです。


その苦しさから逃れるには、自分を責めて殺してしまうか、あるいは開き直るしかありません。

私はその宗教から脱会するにあたり、その罪だけでも地獄に落とされても仕方がないと考えていました。

また一方では、愛の神がいるとするなら、どうしてそんな私を放っておくのかと、神に対する不信感も持っていました。

もし私を助けようともしない神なら、別にいてもいなくてもかまわない。自分の好きなようにやるだけだと、開き直った気持ちもありました。


22歳くらいで初体験し、異端の宗教の禁を破ったのも、その開き直りの気持ちからだったと思います。

それからも風俗通いを続けるなど、完全に俗に染まってしまいました。

その一方で、古典を読んで生き方を模索するなど、意義のある生を送りたいという気持ちは捨てきれなかったのです。



そんな私が変わったのは、「神との対話」を読んで5年以上も経ってからのことです。

先日の記事にも書きましたが、「神との対話」で神は、やりたければ好きなだけやったら良いと言いました。

「もうこういうのは嫌だ。自分はこんな人間じゃない。」と感じるまでは、人は変わろうとしないし、自分で変わろうとしない限り、人は変わらないからです。

私は、様々な体験をしてきましたが、そうする中で、本当に自分が欲しているものが見えてきました。

漠然と性欲と呼んで、ムラムラする気持ちの正体がわかったのです。


それは、「愛されたい」という強烈な想いでした。



単にエッチなことをしたいという、そんな単純なものではなかったのです。

そういう意味での性欲は、いわゆる好奇心と同じものです。

そうではなく、レイプしてまでやりたくなるような強烈な性欲は、自分を愛してほしいという強い強い欲求が、影に潜んでいたのです。



男は、闘いを好むと言われます。

これなども、実は隠された愛情欲求に過ぎません。

相手を支配し、屈服させたいのですよね。屈服とは、完全服従です。自分の意思など持たず、ただただ私を賞賛することを求める気持ちです。

でも、実際にそういう人に囲まれたら、満足すると思いますか?

私は、満足しないと思います。完全に言いなりでは満足できないのです。その人の自由意志で賞賛してくれないと、喜べなくなってしまうのです。

なぜなら、本当は愛されたいのですから。


性欲も同じです。

男の性は支配欲だとも言いますが、支配したいのは愛されたいからです。

愛されたいから、襲うのです。愛されたいから、所有したくなるのです。そういった欲求の根源には、愛されたいという思いがあるのです。


私は、そんなにも愛されたくて、愛されたくて、仕方ない人間だったのです。



そのことがわかったことで、私の心に抱える問題の多くが解消しました。

「愛されたい」という思いを解決すれば、すべてが解決するからです。

そして、その思いも解決しました。


2007年のある日だったと思います。

いつものように出勤し、職場から窓の外を眺めていた時でした。

ふとある感情が私の心を支配しました。

そして、それまで何度も頭の中で繰り返していた言葉が、心にスーッと染み入っていったのです。


必要なものなど何もない。



「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」という言葉があります。

朝、人の生きる道がわかったら、夕方に死のうともかまわない。それくらいの強い思いで道を求めたという話です。

私はそのとき、その言葉を思い出しました。まさにそのときの私は、もういつ死んでもかまわないという気持ちになったのです。


涙が溢れて仕方ありませんでした。

仕事中だというのに、オフィスの片隅でしばし、その満足感を味わっていたのです。

「ああ、これほどまでに私は愛されていた。」

そう感じたのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 21:41 | Comment(2) | ├ 私の生い立ち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月03日

人生を好転させるたった2つのこと



また、まだ読んでない本の紹介です。

これもまだ読んでいませんが、間違いなく良い本です。

なぜなら、私自身が著者の吉江勝氏 の本をすべて読み、セミナーにも参加して直接お会いし、その人柄に信頼を置いているからです。


吉江さんと初めてお会いしたのは、たしか3年くらい前のことでした。

1年くらいメルマガを購読させていただき、著書を読ませていただいていたのですが、タイにいる関係上、なかなかセミナーに参加することができませんでした。

吉江さんは、個人向けにオーダーメードミーティングと名付けた対面セッションをされています。

それにも誘われていたのですが、いつもお断りしていました。タイに住んでいて、なかなか日本へ行く機会がないからと。

いえ、それは口実です。本当は、わざわざ会いに行きたいとまでは思っていなかったからです。

メルマガや本を読むだけで十分と思っていたのです。


ところが3年前、私が4月に東京へ行く予定があると言うと、そのときに合わせてオーダーメイドミーティングの予定を組むとおっしゃるのです。

これには驚きました。一読者に過ぎない私の都合に合わせて、個人セッションの予定を組んでくださるなんて。

そうまで言われては、参加しないわけにはいきません。


そのときは彼女(今の妻)を連れて東京や大阪を旅行したのですが、東京では彼女にホテルで待っていてもらい、その間、1人で横浜へ行って、吉江さんとお会いしたのです。

なぜか忘れましたが秘書の方がおられず、吉江さんがお一人で待っておられました。

あっという間の1時間でしたが、初対面にも関わらず、私はこのブログでやっと開示したようなことを、そのときは話したくてたまらなくなって、全部話したのです。


吉江さんは、そんな風に全面的に受け入れてくださる方です。

だから、私もすぐに信頼したのだと思います。

勝手ながら吉江さんのことを、私のメンターとさせていただいている次第です。


今日と明日、お得な特典があるアマゾンキャンペーンをやっています。

どうぞご覧になってくださいね。

アマゾンキャンペーンのページ  (※キャンペーンは9月末まで継続しています)


本の感想を書きました ので、こちらもご覧くださいね。


なお、このアマゾンキャンペーンは、輸入ビジネスのカリスマ、大須賀祐さんと共同開催となっています。
(※共同キャンペーンは終了しました。)

大須賀さんの本と一緒に購入されると、さらにお得になるようです。


 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 11:39 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

愛は無関心とよく似ています

マザーテレサさんは、愛の反対は無関心だと言いました。

これは実に示唆に富んだ言葉だと思います。


昔は地域の掟を破った場合、村八分という罰が与えられたそうです。

つまり、村人全員からシカト(無視)されるというものです。

無視されるということは、存在を否定されるのと同じこと。

だから、何よりもつらい罰だったのです。

現代でもイジメにおいて、よく利用されますね。


では、関心を持てば愛かというと、必ずしもそうではありません。

よく親の過干渉が問題にされますけど、過干渉というのは関心を持っているからですよね。

これを「愛情が強すぎるからだ」として、適度な関心を持つことが問題なのだと考える人もいます。

いわゆるバランス理論です。

仏教的に言うと中庸(ちゅうよう)ですね。偏り過ぎないことが大切だという考え方です。



私は、バランスの問題ではないと思っています。

そうではなくて、自分の心にとらわれるものがあるかどうかの違いだと思うのです。


とらわれるとは執着のこと。執着心があるかどうか。依存心があるかどうか。その違いです。

執着心や依存心があるということは、何かにとらわれないと存在できないという不安があることを示しています。

つまり、必要性を感じているということです。


逆に言えば、もし必要性を感じていなければ、生じる結果にとらわれません。

つまり、特定の結果に執着することもないし、依存することもない。何があろうともかまわない、という気持ちになるのです。

何があろうともかまわないのだとしたら、それは一見、無関心にも見えます。

見た目は同じようでも、実は心の内がまったく異なるのです。



必要性を感じずに関心を寄せるというのは、ちょうど安全な公園で子どもを遊ばせるようなものです。

これは、「神との対話」に書かれていた例ですけど、説明するのに相応しい例だと思いますので紹介します。


親が安全な公園で子どもを遊ばせるとき、必要性を感じていなければ、子どもが何をして遊ぼうとも気にしません。

つまり、子どもが何をするかということに関しては無関心なのです。なぜならそれは、子ども自身が決めることだから。

何をして遊ぼうとも安全だとわかっているから、安心して見ていられます。

そして、子どもたちは遊びを通じて、成長していくだろうと信じています。

相手を縛らず(執着せず)に関心を寄せるとは、まさにこういうことだと思うのです。


しかし必要性を感じていると、子どもの言動がいちいち気になります。

「もう3歳にもなるのに、あんな遊びしかできなくて、ちゃんと成長できるかしら?」

このように心配になります。つまり子どもを信頼していないのです。

信じていないから、自分の思い通りにさせないと気がすまなくなります。それで過干渉になるのです。

こういう人が、ちょっと干渉するのを抑えようと考えるのが、「バランス」だと思うのです。


いかがでしょうか。まったく異なることがおわかりでしょうか?

バランスとは、単に執着心を減らしただけのことで、愛情とは何の関係もありません。

愛は愛です。少しだけ愛するとか、たくさん愛するなどというものではないと思うのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:24 | Comment(2) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

愛は川?それとも海?

私は以前、愛は川の水のように流れるものだと考えていました。

誰からから愛を受けて満足することによって、初めて他の人を愛せるようになるのだと考えたのです。

それを示したのが、以下の図にあるモデルです。

幸せ実践塾−傷つきやすい、内気、自信がない、を幸せ体質に改善します。-愛は川の水

バケツは、人の心です。

心という器に溜まった愛は、いつしか溢れ(=満足)て、外へ流れ出します。

その愛がまた、他の人のバケツを満たしていくのです。


このモデルだと、子どもの頃に親から愛されない子が、大人になって他人を上手く愛せないという現象をうまく説明できます。

私自身も体験上、愛されて満足することによって、他の人を愛する気力が湧いてくることを知っていました。

ですから、まず最初に誰かから、たっぷり愛される必要があると考えたのです。


しかし、一番最初に愛してくれる存在とは、いったい誰でしょうか?その問題があります。

その答を、私は絶対的な神だと思ったのです。


もし絶対的な愛の神という存在があるとするなら、この答は完璧です。

神には不可能なことはありませんから。

人間をたっぷり愛するなど、お茶の子さいさいというものでしょう。


しかしまた、愛の減少感という問題 があります。

カインとアベルの物語でも、カインは神の愛が減少したと感じたのです。

絶対的な神の愛がなくなると言えば矛盾になりますから、受け手であるカインが、感じ取れなかったと説明したのです。


そうすると、愛を受けているにも関わらず、愛を感じられないという現象に対して、どう説明すればよいか困ってしまいます。

愛は流れ込んでいるのですから。それを感じられないのは、感じない人が悪いのだ。

それで終わってしまっては、救いがなくなってしまうでしょう。

実際、谷底に突き落とされる子ライオンの例え でも、親ライオンの愛を信じて崖を登る強い子ライオンは救われますが、弱い子ライオンは這い上がれずに死を待つばかりです。

それでは、愛の神のプランとしては、あまりに不出来ではありませんか。



そこで私が考えたのは、愛は川の水ではなく、海の水だというモデルです。

愛は海の水のように、一面に満たされています。

その中に私たちはいるのです。


長くその中に居ると、だんだんと海の水があることを忘れていしまいます。

それはちょうど私たちが、空気の存在を忘れているようなものです。

そこに風が起こると、私たちは空気の存在を風として感じます。

幸せ実践塾−傷つきやすい、内気、自信がない、を幸せ体質に改善します。-愛は海の水

海の水も同じです。

水はそこにずっとあるのですから、単に押し出してやれば良いのです。

水を押し出す、つまり愛することによって、愛の流れを起こすのです。

相手は、愛の流れを受けて、愛されたと感じるでしょう。


押し出した人は、受けた相手から愛が返ってくるのを待つ必要性はありません。

なぜなら、押し出したあとの空間を埋めるように、他から水が流れ込むからです。

その流れこんだ水の流れが、押し出した人にも水の流れを感じさせるでしょう。

つまり、愛した人から愛が返ってこなくても、必ずどここから愛が返ってくるということなのです。



流れてくる愛を探し求める必要はありません。

愛は常にそこにあります。あなたから押し出されることを待っています。

勇気を出して、愛の流れを作りましょう。

あなたには、それができるのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 21:12 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月04日

自分をえらんで生まれてきたよ



たまたまネットで見た女性自身という雑誌の記事の紹介。

そこに、この本のことが書かれていました。


この本は、りおくんという10歳の少年の言葉を綴ったもの。

本名・印鑰理生(いんやくりお)くんは、4種類の不整脈、慢性肺疾患、重症ぜんそく、気胸など、なんと9つもの難病を患ってきたそうです。

そのりおくんがお母さんに、こう言ったのだとか。

「病気で生まれてきたから、ぼくはいろいろな体験ができる。ママもいろいろな体験ができる。だからママは喜んでいいよ」


りおくんは、「病気を選んで生まれてきた」と言います。「希望を持って生まれてきた」のだと。

お母さんは最初、健康に産んであげられなかったことで、ひどく自分自身を責めたそうです。

しかしりおくんの言葉を聞くにつれ、「ごめんね」と言い続けること(=罪悪感を抱き続けること)は、りおくんに対して失礼なことだと気づいたと言います。


探してみるとこの本以外にも、「選んで生まれてきた」という子どものことを書いたものがいくつかありました。

これだけで、「ほら、私が言ったとおりじゃないか。」と言うつもりもありませんが、私自身は、やはりそうなのだと思います。

私たちは、それぞれの目的のために、環境や自分自身を選んで、この世に生まれてくるのです。



この他にも、最近紹介したお勧め本がありますので、ぜひご覧くださいね。

わずか2千円弱で得られる貴重な知識や知恵。本当にありがたいことです。

「人生を好転させるたった2つのこと」
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 11:52 | Comment(2) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

不安はいつまでたっても消えません

昨今の日本において、明日の食事ができるかどうかを心配する人は、果たしてどれほどいるでしょうか?

おそらく、皆無に等しいと思います。

それほど豊かになったにも関わらず、毎年3万人以上の自殺者がいます。

その理由は様々でしょうけど、経済的な困窮によるものも多いとされています。

何かおかしいですよね?


今、世界では、明日の食事どころか、今日の食事に事欠く人が多数います。

さらに大昔の地球上に人類が登場した当初は、毎日が食事を得るための闘いだったでしょう。

「今日は、獲物を得ることができるだろうか?」

いくら考えても答は出ません。毎日が不安でも、不思議ではありませんよね。

しかし、狩りに出るより他、仕方なかったのです。

不安だとか言って心配している暇があったら、少しでも早く出発して獲物を探すことを選んだでしょう。


それから月日は流れ、日本は有数の豊かな国になりました。

食うや食わずの生活をする国民が大勢いた時代は、はるか昔になりました。

今や明日の食事はおろか、1ヶ月後の食事すら、ほとんどの人は心配しないでしょう。


けれども、相変わらず不安を持ち続けています。

「リストラにあった。どうしよう?」「大学を卒業しても、就職できなかったどうしよう?」

すぐさま死に至るわけでもないのに、遠くはるか先のことを気に病んで、今を過ごしているのです。



このように、いくら経済的に豊かになったとしても、今より豊かさが減少する心配はなくなりません。

なぜなら、世の中は変化するからです。

変化は生命のダイナミズムです。変化するからこそ生命は永続するのです。

その変化を怖れているのですから、心配のタネが尽きるはずがありません。


もう言わなくておわかりでしょう。

差し迫った危機に対処する以外に、心配することは無用です。

あらゆる可能性を検討しても、絶対に万全にはなりません。人は過ちを犯すものですし、状況は変化するものですから。

リスクを負う覚悟を決めるしか妙案はありませんよ。


どうせ前に進むしかないのです。

私たちには、選択するしかすることはないのです。選択し、創造する。その繰り返しです。

どうせ選択するなら、思い切って自分らしく生きることを選択しませんか?

その方が得だと思うのです。


「なあに、生きてさえいれば何とかなる。」

NHKのドラマ「開拓者たち」で、どんな困難にもくじけなかった主人公のハツの言葉です。

満州にポツンと取り残された心細さ。一から開拓しないと食べ物も得られないどん底の状況。

それでも、希望だけは捨てなかった。

そんな素晴らしい生き方を、あなたもしてみませんか。

だってあなたは、それに相応しい素晴らしい存在なのですから。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:10 | Comment(0) | 幸せ実践塾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

名前に込められた思いを考えてみましょう

「名は体を表す」と言います。

人の名前に限らず、この世のモノはすべて、名前を付けられることによって、人々から認識されるのです。

考えて見れば言葉というのは、モノや現象に名前をつけたということですものね。

言葉は言霊(ことだま)というように、そこに命が宿ると考えられています。

旧約聖書の創世記にも、「はじめに言葉があった」とあり、言葉によって創造されたことが示されています。


そこで自分の名前です。

生まれてからこの方、ずっとその名前で呼ばれてきたのです。

もう頭に擦り込まれたと言ってもよいくらい、その名前と自分とを同一視しているはずです。

自分と一心同体でもある名前の意味を、考えたことがありますか?

もし考えたことがないのでしたら、ぜひ考えてみましょう。



私の名前は「篤」です。この1文字で「あつし」と読みます。

字画占いによると、「赤木」という姓との組合せでは、あまり良くないのだそうです。

私が10歳くらいのころ、そう母親は言って、「篤之」と書くことを勧めてくれました。

一時期は、プライベートな場合にそう書いていましたが、すぐに飽きてやめてしまいました。

だって、「篤」だけでも16画もあるんですよ。さらに書かなければならないなんて、面倒でしょう。


さてこの「篤」という文字の意味ですが、今までよく知らなかったのです。

重篤、危篤、情けに篤い(厚い)などのように使われます。

だいたい竹冠に馬ですからね。竹馬とか竹馬の友などと、あだ名されたこともありました。

なぜ竹冠に馬と書いて、度合いが非常に大きいという意味で使われるのか、まったく知らなかったのです。


それで今日、ネットで検索して調べてみました。

今は本当に便利な時代ですね。「篤 語源」などと入力して検索するだけで、答が得られるのですから。

私が子どもの頃は、本棚いっぱいの百科事典や分厚い辞書を引っ張りだして、調べないといけませんでしたから。

で、得られた情報ですが、この文字は垣根で馬を囲うことで手厚く守っている状態を示しているのだそうです。

馬は財産でした から、それこそ大事にしたのでしょう。

この「手厚い」という意味を表すのが、「篤い」という言葉なのです。

そこから転じて、度合いが非常に大きいという意味で使われるようになり、危篤とか篤志家などの言葉になったのでしょう。



この「篤」という字を名に持つ有名な人に、安岡正篤氏がいます。

歴代首相のご意見番とも言われた陽明学の第一人者です。

経済界でも、安岡正篤氏に師事する人は多かったそうですね。

雑誌「致知」を通じて知ったのか、安岡正篤氏を知ったから雑誌「致知」を購読するようになったのか忘れましたが、23〜25歳くらいのころにその著書を読みました。

因みに「平成」という元号を考えた人も、安岡正篤氏だと言われています。


私の座右の銘でもある「一燈照隅 万燈照国」という言葉も、その著書で知ったものです。

ごく狭い自分の周りを灯すだけでいい。その灯りが全国に広がれば、国中を照らすことになるのだと。

私の力は微力であっても、やるべきことをやっていこう。そんな些細なことが何になると思えても、いつかは国中に広がると信じてやろう。

そういう思いに感銘したのです。


もう一人、NHKの大河ドラマで知った人がいます。「篤姫」です。

ドラマを見るまで知りませんでしたが、薩摩藩の出身で、徳川家に入ったのですね。

幕末の大変な時期、西郷隆盛と勝海舟の橋渡しをするような重要な役割を担ったとか。

日本が西洋列強の植民地にならずに済んだのは、篤姫の働きもあったのだと思いました。

宮崎あおいさんを気に入っているということもあって、篤姫の大ファンになりましたよ。



みなさんもどうぞ、ご自分の名前の意味やルーツを調べてみてください。

さらに愛着が湧いてくると思います。

自分自身を、まずは深く愛しましょう。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 20:55 | Comment(0) | 実践内容 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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