2012年06月12日

自由とは何をしても良いこと?

基本的人権として自由があることは、ほとんどの人が受け入れておられるでしょう。

まあこれとて、奇跡的なことですけどね。

世界には、自由が認められていない国が多々ありますから。


ただ、自由主義の国であっても、自由にはかなり制限があります。

すなわち、自由と奔放は違うから、自ずと責任が伴うというわけです。

何をしても良いわけではなく、公共の福祉に反しない限りは自由だという考えです。


まあそういう考え方もあろうかと思いますが、私は少し違った見方をしています。

法律などでいくら制限したとしても、その人が何を考え、どう行動するかを完全に縛ることはできません。

そういう意味で人は自由であり、それを侵すことはできないのだと思うのです。


たとえば、車を運転してスピード違反をすれば、捕まって罰金を取られます。

「自由なんだから、罰金は払わないよ。」というわけにはいきません。

いや、積極的に払わないことはできるでしょうけど、逮捕されたり強制的に徴収される可能性はありますよね。

たしかに、自分が行った行為が原因となって、何らかの不利益を被ることはあるでしょう。

でも、それを覚悟の上で、その行為を行う自由はあるのです。

そういう意味で、人は自由なのです。



「そんな犯罪を犯すような悪いことをやる自由なんかないでしょう。」

そう考える人は、この世に絶対的な善悪という価値観(倫理観)があると信じています。

でも、そんなものは存在しません。


たとえば、人殺しは悪いことでしょうか?

「そんなの当然だよ。それが許されるなら、何でも許されるじゃないか!」

そう言われるかもしれません。

でも、戦争で人を殺すと勲章がもらえたりして、人々から褒め称えられます。

ここでは人殺しが正しいことなのです。


「そんなの屁理屈だ!侵略しようとする相手を殺すことは、自分を守ることだから正しい。それが許されなかったら、強盗から身を守ることもできないじゃないか。」

その気持はわかります。私も、何度も何度もそういうことを考えてきたのです。

でも、第二次世界大戦に負けたから、日本は敗戦国として裁かれました。

では戦勝国は正しかったと言えるのでしょうか?日本は絶対的に悪かったのでしょうか?


私は、どの意見が完全に正しく、どの意見が完全に間違っているなどとは言いません。

なぜなら、人それぞれに価値観があり、その価値観においては、その意見は正しいのですから。

つまり、絶対的な価値観などないということです。



大塚公子さんの「死刑執行人の苦悩」という本を読んだことがあります。

国家の命令を受けて、自分とはまったく関係のない誰かを殺さなければならない。

「いったい何のために自分は働いているのか?」

死刑執行人は、そういう悩みを持つのだと言うのです。

でも、そういう人がいなければ、死刑という制度も成り立ちません。

人を殺すのは悪いことなのに、国家による殺人は正しいことなのでしょうか?


植物人間状態になって、生き返る可能性がないとされる人がいます。

しかしそういう人の生命維持装置を勝手に止めることはできません。

生命を維持するのには多大な費用が必要で、身内にたくさんの負担をかけ続けなければならないのです。

その状態を救おうとして患者を殺せば、それは殺人になります。

殺せば多くの人が助かるのに、それでも人殺しは悪いことでしょうか?



私は、簡単に答えを出せることではないと思うのです。

実際、私の心の中でも揺れ続けてきたし、今も揺れ続けています。

だから言えるのは、答は1つではないということです。絶対的に正しい答などというものはないのです。


人は、そのときどきに応じて、「これがもっとも自分らしい」と感じる答(価値観)を自由に選択します。

そしてその選択した結果を体験し、そのときに湧き上がる感情から、また考え方を検討し直すのです。

そうやって揺れながらも、常に自分らしい方向へ近づこうとするのです。


私は、それが生きるということだと思います。

だから、その自由な選択を阻害してはならないと思うのです。



自由を阻害するのは、何も国家権力ばかりではありませんし、地域社会とも限りません。

自分自身が自分の自由を制限していることの方が、はるかに多いと思います。

「常識だから」と言う時、その人は目に見えぬ多数の人の考え方というものを勝手に作り出して、それに自分を従わせようとしています。

「こんなことをして恥ずかしい」と言う時、羞恥心や罪悪感を受け入れることで、その人自身が自分を制限するように仕向けています。


自分が受け入れた価値観を自分が守るなら、それは楽しいことでしょう。

本当は受け入れていないのに、他から押し付けられたり、自己制限するから苦しくなるのです。

そして苦しくなると、それを他人にも押し付けようとします。

もし他人がそれに従わないと、腹が立って仕方がありません。

だって、自分が苦しみながら従っているのですから。

他の人がその制限から逃れることができるのは、ずるいという気持ちになるからです。


このことは、私自身がそうだったから、そう思うのです。

学校で黙々と掃除をしている時、ふざけて掃除をしない級友のことが憎らしかった。

どうして先生は、こういうのを注意して、ちゃんと掃除をさせないのかと思った。

何度、先生にチクってやろうと思ったことか。

私自身が勝手に、私の心を制限していたのです。私はまじめに掃除をすることを、楽しんでいなかったのです。

この世は、楽しむためにあるのです。

それを自分で勝手に苦しむための世の中にしてしまっているだけなのです。

だから、そのことに気づくだけで、今すぐ、この場で、幸せになれるのですよ。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 17:51 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

遊びをせんとや生まれけん

NHK大河ドラマ「平清盛」を、毎回欠かさずに見ています。

ドラマの内容や構成もそうですが、私はいつもそのメッセージに注目しています。

今回は、「面白くもない世を、面白く生きる。」ということが、メッセージだと思います。


面白くもない世を...と来ると、どうしても幕末の英雄、高杉晋作の歌を思い出します。

「おもしろき こともなき世を おもしろく 住みなすものは 心なりけり」

これは、上の句を高杉が詠んだのに対し、看病をしていた尼僧が下の句をつけたと言われています。

高杉晋作がすべてを作ったのではないにせよ、この歌は名作だと思いますね。


今回の大河ドラマのメッセージも、それに近いものがあるように思います。

特に主題歌や挿入歌として使われる当時の歌は、最初に聞いた時に背筋に電気が走りましたよ。

「遊びをせんとや 生まれけん 戯れせんとや 生まれけん」

これがどういう意味で歌われたのかは知りませんが、私は、人が生まれるとはまさにその通りだと思ったのです。



私は常々こう言っています。

我々はみな、「自分の人生」というタイトルのドラマを作っているのだと。

主演:私,監督:私,脚本:私,脇役:多数の私の人生に関わってくる人々


また、人生はゲームだとも言っています。

私が大好きなRPG(ロール・プレイング・ゲーム)です。

ドラクエ(ドラゴンクエスト)みたいなゲームですよ。FF(ファイナルファンタジー)も好きですけど。

別の言い方をすれば、虚構です。幻想です。

なんのためにそんなことをするかと言えば、遊ぶためです。


「私が考えるこの世の仕組み」 に書きましたが、私たちは自分の素晴らしさを体験するために生まれてくるのです。

そこでは、どんな体験を選択することも自由にできます。

ドラマのサブタイトルは、自分で決められるのです。

「悲惨な人生」「一発逆転の人生」「穏やかな人生」・・・

どんなサブタイトルをつけようとも、私たちの目的は変わりません。

本当の自分と出会って、自分の素晴らしさを体験することです。

その遊びの場(環境)が、この世だと思うのです。


そう考えると、肩の力が抜けませんか?

張っていた気持ちが楽になりませんか?

所詮ゲームですよ、人生は。たかがゲーム、されどゲームなのです。

posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 21:16 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

飛び込み自殺を考えたことがありました

新興宗教にハマった あと、引きこもっていたころの話です。

自殺する人の気持ちってどうなのだろうと思って、橋の上から川面を覗き込んだことがありました。

私は臆病なので、自殺する気は全くなかったのです。

死ぬことさえできない自分だと、不甲斐なく感じていました。

それでせめて、自殺の真似ごとだけして、その気分を味わってみたいと思ったのです。


このまま飛び込んだら、私は泳げないから溺れ死ぬだろうか?

いやでも、こんな高いところから飛び込むのは怖い。

それに溺れたら苦しいだろうな。

そんなことを考えてしまい、まったく飛び込む気になれませんでした。本当に臆病者です。



実際、溺れかけたことはあるので、その苦しさや怖さは知っています。

あれは中学生の頃、友達と2人で海に泳ぎに行ったのです。

遠浅なので、どこまで行っても膝から腰くらいしか深さがありません。

それで腰くらいの深さのところまで歩き、そこから海岸線沿いに泳ぎました。

ある程度泳いで疲れたので立とうとした瞬間、頭まで潜ってしまったのです。

慌てましたよ。だって、足がつくと思っていましたから。

必死で陸に向かって泳ぎ、かなり泳いだと思ったところで立とうとしたら、またズボッと潜ってしまいました。

このとき、ひょっとしたらここで溺れ死ぬのかと思いました。

水を飲みながらそれでも必死に泳ぎ、まだ陸までかなりありそうに見えたところで、バタ足をしていた足先が砂をかきました。

すでに膝の高さくらいのところでもがいていたのです。

命拾いをしたと思いましたね。それ以来、海では足ひれをつけない限り、泳がないことにしています。(笑)



橋の上から飛び込む気分を味わいたく思ったのは、実は理由がありました。

それは私を原理研究会に誘ってくれた同級生の女性が、悩んだときに飛び込み自殺を考えたという話を聞いていたからです。

その女性は私より先に脱会し、既存のキリスト教会に入信していました。

彼女はいったい、どんな気持ちだったんだろうか?

それを知りたくて、そうしてみたのです。


ただ私には、どうしても飛び込もうという気持ちは湧いてきませんでした。

進むことも退くこともできず、ただ流されるままに流される生き方しかできない。

臆病で不甲斐ない私だったのです。


そのころ、渡辺真知子さんの歌 で、好んで聴いていた曲があります。

それが「メモリーズ」です。

死ぬこともできない、歩くこともできない、流されていっても、心の傷は癒えない。

これは失恋の歌ですけど、愛を獲得することに破れたという意味では、同じ心境だと思いました。

そんなことを考えていた昔が、なぜか無性に懐かしく感じます。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 23:47 | Comment(0) | ├ 私の生い立ち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月13日

自分ホメ



ほめ方の伝道師、谷口祥子さん の本です。

私は谷口さん とは、直接お会いしたことがありません。

昨年6月に出版セミナーの箱根合宿に参加した時、「出版ブランディング・カレッジ」というDVDを購入したのですが、その中に谷口さんのセミナーがあったのです。

小さくてかわいい人だな、というのが最初の印象でした。


それがきっかけとなって、メルマガ を購読しています。

最初は単に褒め方のテクニックだと思っていたのです。

ほめて育てると言いますけれど、褒めるというのはなかなか大変なことです。

ですから、そのテクニックを教えている人としか思っていませんでした。


しかし本を読んで、認識ががらりと変わりました。

谷口さんは、ホンモノです。

まず、その体験が半端じゃありません。人生のどん底でもがき苦しみ、這い上がってきた方です。

そしてその体験を、惜しげもなく披露されています。


私も自己開示するのに抵抗がありましたが、おそらく私以上に悩まれたのではないかと思うのです。

それでも自己開示しなければと思ったのは、一人でも多くの人に「ほめる」ことの重要性を知ってほしいから。

そして幸せになって、自分らしく生きてほしいと本心から願っているからだと感じました。


とても読みやすいし、それでいて内容が濃く、ぐいぐい引き込まれる本です。

私はみなさんが買っても損しない本しか紹介しません。これはオススメです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 11:27 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

必要性を減らすことがカギ

幸せになるには、考え方をコントロールすることです。

出来事と感情の間にはすき間があり、そこに考え方があります。

その考え方が習慣化すると、それは価値観となります。

価値観になると、それこそ無意識のうちに反応してしまうでしょう。自分が考えたと気づかないのです。


それでも考え方を意識して変えていくことを繰り返せば、いつか新しい習慣が身につきます。

つまり新しい価値観を手にすることができるのです。


そこでブレーキをかけるのが、不安です。怖れとも言います。

これは愛の対極で、つまり愛がない(と思っている)状態のことだと説明しました。

この不安を取り除かないと、どうしても考え方が引きずられてしまいます。



依存症という言葉がありますが、依存してしまうのは不安があるからです。

それが耐えられないから、何かにしがみつこうとする。つまり執着することが依存です。

その何かが、自分にとって必要なものだと感じてしまうのです。

その強さが強いほど、依存する心も強まります。



このことから言えるのは、必要性というものを減らしていくことが、考え方をコントロールする上でカギになるということです。


たとえば、パートナーに依存してしまう人は、そのパートナーがいないと生きていけないと信じきっています。

でも、考えてみてほしいのです。

本当に、そのパートナーがいないと生きていけませんか?

心の中の不安を、じーっと見つめるのです。

不安というものは存在しませんから、見つめられると消滅する他ありません。

別にそのパートナーでなくても、他にも同じような人はいくらでもいるでしょう。

また、そういうパートナーがいなくても、本当は生きていけるのではありませんか?

現にパートナーと出会う以前は、生きていたではありませんか。

失うことによる喪失感はあるでしょう。でもそれは一時的なものです。卒業するときは悲しくても、入学すれば嬉しくなります。それと同じです。



たいていのものは、そうやって考えていくと必要でないことがわかります。

あとはそのレベルを上げていくことです。

「これだけはどうしても」というこだわりを感じた時、あなたの必要性をチェックするチャンスです。

そのこだわるものは、本当に必要ですか?


最終的には、生命の必要性、生命維持の必要性が残ると思います。

そうなると、あとは信仰の世界に入ります。

もし私が言う「ひとつのもの」理論 を信じるなら、生命の必要性すら感じなくなるでしょう。

なぜなら、生きないということは不可能だから。死ぬということは不可能 だから。

私たちにできるのは変化することだけ。その変化を受け入れることができれば、もう何も必要ではなくなるのです。



一気に最後の段階に至るのは難しいと思います。

でも、無理にそうなる必要性もありません。

この世は楽しむ場ですから、楽しんで生きることです。

なかなか必要性を排除できない自分自身をも、受け入れて楽しみましょう。




※「幸せの公式」の補習講座は、こちらからどうぞ。

「幸せの公式7日間補講」
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 14:58 | Comment(0) | 幸せの公式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ゴルフは完全に自己流です

幸せ実践塾−傷つきやすい、内気、自信がない、を幸せ体質に改善します。-朝露の中のゴルフ


ゴルフを本格的に始めたのは、タイに来てからです。

日本では、ゴルフ練習場に数回行ったことはありました。

初ラウンドは社員旅行でグァムに行った時で、スコアは187くらいだったと思います。

カートのセルフだったのですが、ほとんどカートに乗ることもなく、クラブを2〜3本持って走ってました。

ティーショットでOBになると、プレイング・フォーと言って、200ヤードくらい先から第4打を打つことができます。

それが嬉しくて嬉しくて。だって、ほとんどまともに当たりませんでしたから。


タイに来ると周りの人がみんなゴルフをやっています。

でも私は、ゴルフをやらないと決めていました。

なぜなら、やれば絶対にハマってしまうとわかっていたからです。


3年くらいして、社長命令でゴルフをやらざるを得なくなりました。

しょうがない。これも運命と受け入れましたよ。

タイでの最初のラウンドは、スコア156くらいだったと思います。

初ラウンドの頃よりも、ゴルフ練習場で真剣に練習しましたからね。


それから半年くらいで107というスコアになりましたが、そこからなかなか進歩しませんでした。

100を切ったのは、タイでゴルフデビューしてから、1年半以上たっていたと思います。



もう5年以上、タイでゴルフをやっています。

レッスンには通っていません。雑誌や本、DVDなどを見ながらの、見よう見まねです。

どうしてプロに習わないかというと、おそらく私はコーチの言うことを聞かないと思うからです。


レッスンを見ていると、ああしてこうしてと言われるのですが、どうしたらそれができるかを教えてくれないのです。

たとえば「もっとゆっくり」とか言われても、どうしたらゆっくりできるのかがわかりません。

「力を抜いて」と言われても、力を入れている意識がないので、どうやったら力が抜けるかわかりません。

それに力を抜いたら、打てないじゃないですか。

このように、理屈っぽい私を指導できるコーチに当たる確率は非常に小さいと思ったので、プロに習わないことに決めたのです。


自己流ですから、進歩が遅いということはあるでしょう。

それにもともと、運動はダメな方です。

体育でも跳び箱やマット運動、鉄棒などは大の苦手です。球技は好きですが、上手くはありません。

中学の時は野球部でしたが、1年の時はノックを受けるのが怖くて、もっぱらノッカーにボールを渡す役を引き受けていました。

「赤木!たまにはノックを受けてみろよ。」

そう監督に言われても、「いいえ、遠慮しときます。」と答えたくらいです。



こんな私ですが、けっこう凝り性です。やり始めたらとことんやるタイプです。

高校の時は陸上部でしたが、円盤投げにハマって、練習用の円盤を自費で買ったくらいです。

あのときも指導できる先生がいなかったので、自分で雑誌や本を読んで練習しました。


話がそれましたが、だからゴルフもハマると思ったのです。

また、円盤投げの時のように自己流を貫いています。


「だから下手くそなんだよ。」と言われようと、まったくかまいません。

なぜなら、下手なりに楽しいからです。

ほんのちょっとでも思い通りにいくと、それが気持ちいいのです。

思い通りにならないと、「どうしてだろう?」と悩むのですが、悩みながら練習することが楽しいのです。



それで、ふと思いました。

幸せになるために考え方を変えるというのも、ゴルフと同じことだなと。

きちんとしたコーチやカウンセラーの指導を受けて、まっしぐらに上達する方法もあるでしょう。

一方で、我流で進む方法もあると思うのです。

目標に到達することだけを喜びと考えると、到達する前はつらいことばかりかもしれません。

でもそうじゃなく、目標に向かって歩む過程を楽しめば、紆余曲折さえも楽しめるのです。


頂上に登る道は、それこそ人の数ほどあります。

どの道を選択しても、間違いではありません。悪いと言われる筋合いもありません。

せっかくですから、道すがらの景色を楽しみましょう。

人生は、楽しむためにあるのですから。



因みにゴルフの現在の腕前は、だいたい100前後です。

ベストは90ですけど。

年間に約20ラウンドほどを楽しんでいます。

もしタイに来られることがあれば、ご一緒にいかがですか?

ただし私は、日曜日しかやりませんけどね。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:23 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自分の価値を最大にするためのファーストステップ

前回、次のようなことを言いました。

自分を最高に活かすには、自分を完全にさらけ出すこと。


私もブログで自己開示を続けていますが、それよりももっとすごい人がいました。

それが今日のブログで紹介した谷口祥子さん です。



ブログにも書きましたが、私は谷口さんと会ったことはありません。

DVDでセミナーを見て、いいことを言っているなと思って、それでメルマガを購読したのです。

「自分ホメ」という本を出されると知り、それを私のメンターから紹介されたので、アマゾンキャンペーンに協力しました。

それで届いた本を、実はずっと積んであったのです。


最近は常時10冊以上の本が、読まれるのを待っている状態です。

後から届いた本を先に読むこともあって、「自分ホメ」を読み始めたのはつい最近のこと。

ところが読み始めてみると、これがなかなか良いではありませんか。

読みやすいし、ぐいぐい引きこまれます。

その理由は、谷口さんが自己開示されているからです。


単に理屈とか方法の紹介だけだと、こうまではのめり込まないでしょう。

自己開示されているので、谷口さん本人を身近に感じるのです。

境遇や性格は、私とは違います。

けれど、頑張ってきたんだなあ、すごいなあ、応援したいなあって思うのです。



谷口さんは本の中で、ダメな自分も認めようと提案します。

私もその考えに共感します。

たとえば目標が達成できない時、「なんて自分は能力がないんだ」と自己否定しがちです。

そんなときは、自己否定してしまう自分さえも認めようと言うのです。

「『なんて自分は能力がないんだ』って思ってしまったんだよね。わかったよ。よしよし。」

この「わかったよ。よしよし。」がすごくいいなあと思いました。



斎藤一人さんも、自分に反対する人のことも「それはわかるよ」といったん受け入れることを提唱されています。

まず仲間にならないと、自分の話を聞いてはもらえないから。

このテクニックは、何も他人に対してだけでなく、自分に対しても使えるんですね。

だから、どんなダメな自分であっても、「そうなるのはわかるよ」と受け入れることが大切だと思います。



自己否定してしまう人は、どんなに頑張っても自己評価が高まりません。

自己評価が高まらないと、自信を持てません。

自信を持てないと、幸せにはなれないのです。


また、引き寄せの法則を使う場合も、自己評価が高ければ高いほど、より良い現実を生み出せます。

たとえば自分は、年収1000万円が相応しいと感じる人は、それ以上にはなれないのです。

今仮に年収300万円だとしても、自分は年収1億が相応しいと感じていたら、あっと言う間に年収1000万円を超えてしまうでしょう。

だから、自己評価を高め、自分の価値をより大きくすることが大切なのです。



その第一歩としては、トータルな自分を認めることです。

特にダメな自分を、もっと認めることが大切ですね。


ぜひ谷口さんの「自分ホメ」を読んでみてください。

自己評価を高めるのに、1260円の投資は微々たるものですよ。

それと、私がお勧めする「鏡のワーク」 も、自己評価を高めるのに有効ですよ。

ぜひお試しください。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 19:53 | Comment(0) | SJ通信過去ログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

レイプすることを何度も考えました

私は自分のことを、人一倍性欲が強いと思っていました。

性欲が強いのであって、精力旺盛ということではありませんからね。あしからず。


とは言え、別に誰かと比べて、客観的に統計をとったわけでもありません。

そんなこと男同士だって、そうそう話せることではありませんから。

なので主観的にそう思っているだけで、実は他の男性も同じようなものかもしれません。

表面的に見ると、たいていの男性は私よりも性的なことに興味がなさそうに思えました。



私が性的なことに興味を持ったのは、すでに書いたように 小学校に上がる前からです。

小学校になってからも、女性の裸には異常に興味を持ちました。

下着の通販カタログがありましたが、下着姿のモデルの写真を切り取ったりしてましたから。

さらにその顔を、アイドルの顔写真とすげ替えたりして遊んでいたのです。

オタクそのもの。いや、そう言うとオタクの方に申し訳ないくらいです。


中学にもなると、さらに関心が強くなります。

友達の家に行くと、なんとエロ雑誌やビニ本などがあるのです。

それを食い入るように見ていました。

「そんなに真剣に見るなよ」と、友達からからかわれるほどでした。


当時の野球部の監督が、どうやったら子どもができるかということを教えてくれました。

おそらくそのとき、初めてセックスというものを知ったのだと思います。

それまでは精子と卵子が結合してできることは知っていましたが、ひょっとしたら一緒に入浴した時に、精子がお風呂の中を泳いで行って受精するのかも、などとたわけたことを考えていましたから。

当時はまだAVなどというものがなかったので、夜中のテレビ番組の濡れ場を見て、どういうことをするのかと想像していました。



そんな私ですから、何度も自分がそういう行為をするところを空想してみましたよ。

その中には、嫌がる女性をレイプするなんて妄想もありました。それも何度も。

大久保清の連続婦女暴行殺人事件があったのは、昭和46年頃でしたね。私が小学校の高学年のころです。

私も一歩間違えば、そういう犯罪者になった可能性は十分にあるのです。


女性に対する関心は強いものの、女性に告白する勇気はない。

そんな性格ですから、妄想ばかりがたくましくなります。

これを何とかしないと、本当に私は犯罪者になってしまうかもしれない。

そんな不安を、いつも抱えていたように思います。



前にも書きましたが、新興宗教にハマって 集団生活をしていたときは、残念ながら本当に健全でした。

「残念ながら」と書いたのは、入信前の私は、もしそうなら体験してみるのも悪くないという、邪(よこしま)な考えを持っていたからです。

しかし実際は、本当に清らかな生活でした。

そのことによって、私の心の中では、さらに矛盾を突きつけられることになったのです。


人間(私だけかもしれませんが)は、どうしてこんなにも性欲が強いのだろうか?

もし本当は清らかでなければならないのだとしたら、どうして最初からそういうようになっていないのか?

その思いが、私を苦しめたのです。


動物はどうなのだろうかと、何度も考えましたよ。

動物だって発情したら、誰かれ構わずにやってしまうのではないか。だとしたら人間だって、同じではないか。

でも、それでいいのか?人間と動物は違うのではないか。

それでも自分の性欲がこんなに強いのは、自分が動物に近いということか?それともこれも、前世の因果だとでも...。


このことを解決しないと、私は心の中にドロドロとしたものを抱えたまま生きなければならない。

その重苦しい気持をどこかで抱えながら、ずっと生きてきたのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 21:55 | Comment(0) | ├ 私の生い立ち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

性欲を抑えるには座禅修行?

前の記事 で、自分自身の性欲の強さについて書きました。

でもこの性欲の問題は、私一人の問題ではありません。

それが証拠に、世界中の多くの宗教が、この性欲を抑える試みをしているのです。


性欲とか情欲、色欲などとも言います。

たいていは、男性が女性に対していだく邪(よこしま)な思いと考えられています。

それは抑えがたいものとされ、完全に抑えるか、それとも妻帯を許すという、2つの対処方法に分かれます。


仏教では、タイなど上座部仏教だと、僧侶は女性に触れることも許されません。もちろん、女性と交わることも結婚することもご法度です。

日本などの大乗仏教は、2派に分かれます。1つは出家した僧侶は妻帯を許さないというもの。禅宗はそうですね。

一方、妻帯も認める宗派もあります。浄土真宗など念仏系の宗派です。

キリスト教だと、カトリックは神父などは妻帯できません。一方のプロテスタントの牧師は、妻帯はOKのようです。

すべての宗派を正確に調べたわけではないので、ひょっとしたら一部誤りもあるかもしれませんが、そのときはご容赦ください。

要は、妻帯を許すかどうかバラバラだということです。厳しいところは女性に触れることさえ許さないのです。



禅宗の僧侶の話で、面白い話があります。

禅僧とその弟子が川を渡ろうとしていたら、見目麗しい女性が川岸に立っていたそうです。

困っている様子なので聞いてみると、川を渡って向こうへ行きたいのだが、橋も渡し船もないので困っていると言います。

すると禅僧が言いました。

「ならば私が抱いて渡ってしんぜよう。」

言うやいなや、禅僧は女性をひょいっと抱え上げ、そのままザブザブと川を渡り始めました。

弟子は、慌てて禅僧の後を追いかけました。しかし、胸中は複雑です。

たしかに女性を助けたことにはなりますが、戒律では女性に触れてはならないことになっているのです。

「私の師は、戒めを破ってしまった。いったいどうなるのだろう?」

悶々としながらも、川を渡り終えました。女性は禅僧に礼を言い、立ち去って行きました。

禅僧は何ごともなかったかのように、道を歩き始めたのです。

弟子は、禅僧の後をついて歩きながらも、どうも釈然としません。

それで休憩の時、思い切って禅僧に尋ねてみました。

「さっきの川で、どうして女を抱いて渡ったのですか?戒めを破ったことになるのではありませんか?」

すると禅僧が答えました。

「なんだお前、まだ女を抱えておるのか?わしはすでに、あの河原で下ろしてきたぞ。」

そう言って笑ったのでした。



私はこれを、こう解釈しました。

仏教で戒めているのは執着することです。

弟子は、戒めにとらわれていたのです。しかし禅僧は、すでにそういうものからも自由で、女性にさえも執着していなかった。

性欲とか情欲というのも、我を忘れてしまってのめり込むイメージがあります。

つまり性欲があっても、執着しなければ良いのではないか、ということです。



しかし、こういうことを考えていた頃は、まだその先の光が見えませんでした。

座禅修行でもすれば性欲にもこだわらなくなるのだろうか?

でも、破戒僧という言葉もあるように、厳しい修行を積んでも、一時の迷いで性欲に溺れてしまう人もいます。

この問題が次の展開を迎えたのは、改めて書きますが、「神との対話」 に出会ってからのことです。



→記事「性欲に対する考え方が変わるきっかけがありました」もご覧ください
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 23:41 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月14日

飲酒運転をしたことがあります

日本では、飲酒運転が原因とされる痛ましい事故が相次いだため、厳罰化が進んでいます。

ここタイでも、法律上は酒酔い運転は罰せられます。

ところが、この規程があいまいなため、ザルと言うか何と言うか、いかにもタイらしいです。


まず、呼気に含まれるアルコール濃度の検査などはありません。(注:現在はあるようです。)

顔を見て赤いとか、酒の臭がするとか、そういうところでチェックするようです。

酒に酔って運転するのが禁止されているだけなので、飲酒していても酔ってなければ大丈夫という解釈もあるとか。

まっすぐ歩かせるような検査をするようですね。

法律上の正確なところはわかりませんが、実際の運用から考えると、非常にあいまいなようです。

それもあって、「オレは顔に出ないし、酔っててもちゃんと運転できるから大丈夫だ」と言って、運転する日本人も多いです。

タイ人にいたっては、もっと多いでしょうね。中には酒どころか薬でラリって運転しているタクシーの運ちゃんもいますから。



それはさておき、私は自分に対して非常に厳しい人間です。他人にも厳しいですが、自分に対してはもっと厳しい。

なので、飲酒運転など許されるはずがない、という気持ちを持っていました。

その私が、タイで1度だけ飲酒運転をしたことがあります。痛恨の極みです。


婚約破棄された 彼女と付き合っていた頃の話です。

2人で、私が行きつけのカラオケスナックへ行きました。

彼女の家は少し遠いので、自分で車を運転してきたのです。

そのとき私は、まさか彼女が酒を飲むとは思ってもいませんでした。


車を近くのデパートに停め、カラオケスナックへ行きました。

私はブランデーをロックで飲み、彼女はソフトドリンクを飲みながら、歌ったりおしゃべりをしたりしていました。

そこへ店のママさんがやってきて、開いているテキーラがあるから飲もうと言い出したのです。

何やらゲームをして、負けたらショットグラスで一気飲み。

そんな遊びを始めたのでした。

私はそれに加わらなかったのですが、私の彼女がノリノリになってしまって、延々とその遊びをやっていました。

何度も「大丈夫か?」と尋ねたのですが、「平気よ。これくらいで酔わないから。」と彼女は答えます。

それで放っておいたら、案の定ベロンベロンに酔ってしまいました。

そろそろデパートも閉まる時刻なので、早く車を出さないと、彼女が車で帰れなくなります。

最初、彼女は自分で運転して帰ると言っていたのですが、まっすぐ歩けない状態ですから、このまま運転させては危険だと思いました。

デパートから私のアパートまでは、わずかに500mほどしかありません。

3回角を曲がるだけですから、これなら私でも運転できるだろうと思いました。

それで彼女を助手席に乗せ、私が運転してアパートに帰ることにしたのです。

アパートの駐車場に着くなり、彼女は車の外で嘔吐。私の部屋に入ってからも、しばらく吐いていました。


今になって思えば、一晩車を置きっぱなしにしたとしても、歩くかタクシーで帰るべきでした。

私の部屋で少し休んだのち、彼女は運転して家に帰ると言って譲らなかったのです。

だから、どうしてもデパートから車を持ちだしておかなければ、という気持ちになったのです。

しかし、結局彼女は次の昼過ぎまで私の部屋で寝ていたので、無理に運転して帰らなくても良かったのです。


必要性があると思ったから、無理をしてしまったのです。

もし、「その必要性は本当か?」と、その時考えることができたら...。

彼女からどれほど文句を言われようと、仮にそこで別れると言われようと、私は車を置いて帰るように言えたのだと思います。

必要性を好みに変える ことを、このころはまだできていなかったのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 11:52 | Comment(0) | ├ 私の生い立ち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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