2012年06月06日

自分を最高に活かす方法は○○することだった

最近、自分でも自分が怖くなります。

だって、ブログでこんなに自己開示しちゃって、「どうしちゃったの?」って尋ねたいくらいです。

自分でやっていることですが、ちょっと前の自分からすると、信じられないほどの変わり様。

だから、自分でも驚いています。


「幸せに生きる」ということとか、「自分らしく生きる」ということに関して、実は以前から情報発信していました。

ただそれは匿名のブログだったり、メルマガだったりしたのです。

いくら書いても言葉に力がない。そう感じていたのです。


それでメンターに相談したところ、顔出しをして、やりたいことを前面に出してやった方が良いというアドバイスをいただいたのです。

そのときは、すぐにそれを実行に移そうという気持ちになれませんでした。

やはり、自分をさらけ出すって、恥ずかしいじゃありませんか。

「他人の評価など気にする必要はない」などと偉そうなことを言いながら、一方でそれを恥ずかしく感じてもいたのです。

まあ人間味があると思ってやってくださいな。


しかしここにきて、やはり取り繕っている場合じゃないなと思えてきたのです。

私も、もう50歳になりました。

やりたいことはだいたいやってきたし、今更、守るようなものもそんなにあるわけじゃありません。

それに、あと何年生きられるかもわからないのですから。

仮に健康で平均的な寿命を迎えたとしても、活動できるのはわずか30年です。

東京へ出たという人生の一大転機から今日までの期間と、ほぼ同じ時間しかありません。

そう考えると、ここらで決心するしかないかなと思えてきたのです。


それで少しずつですが、ブログで自己開示してきました。

すると不思議なことに、楽しいのです。

もちろんそれは、今のところ誰からも批判されていないからという事情もありますよ。

でも書きながら常に、批判されたりバカにされたりすることを想定しているので、ある程度は耐えられると思っています。

そして自己開示すればするほど、自分が強くなっていくのがわかります。

そりゃそうですよね。だって隠すものがなくなっていくのですから。

まな板の上の鯉じゃありませんが、「煮るなと焼くなと好きなようにしろい!」という気分です。(笑)


そして、やっと自分自身に出会えた気がしました。

一生懸命に隠そうとしてきた自分こそ、本当の自分だったのです。

「やっと見つけてくれたね。嬉しいよ。ありがとう。」

もうひとりの自分が、そう言っている気がします。


「そのままの自分を受け入れなさい」なんて言っている私が、自分を完全に受け入れていなかったなんて、それこそ笑えますよね。

まあ私もまだまだ、発展途上なのです。

でも今、着実に前進していると感じられる自分を、とても誇らしく思います。

周りの環境には何の変化もありませんが、自分自身は数ヶ月前とは別人のような気がします。

自分を最高に活かすには、自分を完全にさらけ出すこと。

やっと、心からそう思えるようになりました。

posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:41 | Comment(0) | SJ通信過去ログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ネズミ講に入りかけました

あれはたしか中学2年のころだと思います。

ちょうど世間で、ネズミ講というものが話題になっていました。

まだマルチ商法という名前が出てくる前だったと思います。


親からは、「ネズミ講に入るなよ」と注意されていました。

でも私は、なぜネズミ講が悪いのか、よく理解できなかったのです。


たしかに無限連鎖によって、後から入った人からお金を吸い上げる仕組みですから、最初の方が有利というのはわかります。

でも、全国民が加入するわけじゃないし、それに古い人は死んでいき、新しい人が生まれてくるのですから、無限に続けることだって可能でしょう。

たとえばもう周りの誰もがそのネズミ講に入っている状態だったら、それ以上入ると思いますか?

入らなければ損しないのですから、何も問題がないと思うのです。

仮に毎月の会費を納めなければならないとしても、儲かる可能性に賭けて入ったのですから、払った会費を勉強代と思ってあきらめれば済むこと。

こんな考え方をしていたので、世間で批判されるほど悪いことだという認識がなかったのです。



そんな私のところへ、ネズミ講のお誘いが届きました。

おそらく切手の通販を利用していたので、そこから住所などが漏れたのでしょうね。

「ネズミ講」だなんて、どこにも書いてありませんよ。

でも、会員を集めることで儲かるという説明から、きっとそうなんだろうなと認識していました。


よせばいいのに、好奇心が旺盛な私は、ちょっとだけ体験してみたくなったのです。

それで入会しました。

さっそく子会員を募集したのですが、なかなか思うように集まりません。

私などは、ちょっとした努力でお金が手に入るというだけで、すっごく魅力的に感じたのですけどね。

他の人はどうやら、私ほど警戒心が薄くはなかったようです。


それで私は、ここに一工夫加えることにしました。

ただ会員になるだけでなく、何か商品をつければ良いのです。それも魅力的な商品を...。

意図したわけではありませんが、ア○○○イのようなマルチ商法を思いついたのです。

ただ、選んだ商品がまずかった。

本当に今考えても、顔から火が出そうなくらいに恥ずかしい。先に言います。本当にドスケベですね、私は。

なんと中2の私が選んだのは、エロビデオならぬエロカセットテープだったのです。

当時は、そんなものが売られていたのですね。

もうどうやってそれを手に入れたのか忘れましたが、女性の喘ぎ声が録音されたカセットテープ。それを私は商品にしたのです。

さらにひどいことに、元テープを単にダビングしたのです。コピーもいいところ。知的所有権(当時はなかったと思いますが)の侵害も甚だしいです。


さすがに私の家に申込みの手紙が送られてくると、両親から怪しまれると思いました。

私の父親は厳しい人ですから、見られたらすぐに開封されてしまうでしょう。

そうなると、私がやっていることがバレてしまいます。

そう思った私は、こともあろうか友人を代理に仕立てあげたのです。このことも、私はひどい人間だと、今になれば思います。

友人に詳細を説明せず、住所を借りることにしました。友人宅に届いたものを、会った時に渡してもらうよう約束したのです。


それからしばらくして、友人宅に手紙が届きました。

しかし、その中身を見られてしまったのです。

「お前、何やってるの?」

そう問う友人に、私は笑ってごまかすことしかできませんでした。

それは入会希望の手紙ではなく、苦情の手紙だったのです。


こうしてあえなく、私のネズミ講体験は終わりました。

どうやら母親も、私がやったことを知ったようです。エロカセットテープのことまで知ったかどうか、わかりませんけど。



女性のみなさん、もし自分の息子がこんなことをしていたら、どう思います?




そのことを考えると、私は本当にどうしようもない人間だったのだなあと思うのです。


ただその一方で、そういうことをする自分自身を嫌いではありません。

今は法律で禁止されていますが、当時はネズミ講は違法ではありませんでした。

それもそうですが、理論的に考えると、今でも私は、それが悪いこととは思えません。

儲かるかもしれないと思いながらパチンコにお金をつぎ込むことを良しとしておくなら、たいした違いはないだろうと思うのです。

エロカセットテープをコピーしたのはまずいですが、それとて当時は、著作権があまり知られていなかったし、法整備もされていたかどうか。

まあそれに、エロカセットテープそのものが、おそらく当時は違法でしょうから。


どう評価するかは人それぞれだと思います。

ただ、今そんなことをやるかと問われたら、やらないと答えるでしょう。

なぜなら、それが他の誰かを喜ばせることになると思えないから。

でも当時の私にとっては、貴重な体験だったと思うのです。

posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:26 | Comment(0) | ├ 私の生い立ち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人生は思い通りになると思ってました

小学校の3年生だったか4年生だったか忘れましたが、そのころ私は、初めて死を意識したと思います。

人は死んだらどうなるのだろう?地獄とか天国とかへ行くのだろうか?

死んで、もしあの世というものがないとしたら、いったいどうなるのだろう?

そんなことを考えていました。


夜、布団に入ると、気がつくと朝になっていたということがよくありました。

子どもの頃は、夜中に目覚めることはほとんどなかったし、眠りも深かったから、あまり夢を見ない(覚えていない)ことが多かったのです。

まあオネショ(寝小便)をしたときは別ですけどね。私は小学校6年生まで、よくオネショをしていました。

最近はその逆で、何度も目が覚めるし、よく夢を見ます。ただ覚えていないのは同じで、記憶力が悪いからでしょうかね。

話がそれました。戻しましょう。

それで私は、死とは夢を見ない夜が永遠に続くこと、と考えてみたのです。


まあ、そう考えられなくもないではありませんか。

永遠に目覚めない夜。なんだかロマンチックな響きもありますが、それを死と考えてみました。


すると、なんだか無性に怖いし悲しいのです。

その死を想像しながら、布団にもぐって泣いたこともありました。



中学生になったころ、母から勧められた本がありました。

「生命の實相」とタイトルにあったと記憶しています。

別に母は生長の家の信者でもありませんし、そんなことも知らず、誰かから良い本だと勧められたので、私にも読ませたのだと思います。

生長の家とは、1930年に谷口雅春氏によって設立された宗教団体だと、ネットで探すと書いてありますね。

神道、仏教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの教えに、心理学や哲学なども融合した教義なのだと。


それはさておき、その本を読んで、私は驚きました。

病気になるのは、その人が病気になると信じているからだと言うのです。

だから健康になることを信じていれば、健康になるのだと。

つまり、信じたことが現実になるという話が書かれていたのです。


私がまだ、潜在意識のことを知るはるか以前の出来事です。

そのとき私は、初めて「引き寄せの法則」を知ったのです。



ただそのとき私は、他のことを考えました。

今にして思うと、私は応用の天才じゃないかと自画自賛したいくらいです。


私が考えたのは、「もし死なないと信じたら、人は死なないのではないか。」ということです。

無邪気とも言えるし、ある意味で問題の核心を突いているでしょ。

私は、その本の考え方に心酔しました。だってそれによって、怖かった死を逃れることができるのですから。



ただ、「信じたことが現実になる」という考え方を初めて受け入れたのは、実はもっと以前のことです。

小学生の2〜4年生の頃、こんなエピソードがありました。


そのころ、神様を信じていました。

親や祖父母から、いつも言われたのです。

「あんたが隠れて悪いことをやっても、天から神様が見ていて、ちゃーんと知っとるんだけえ。」

そんなすごい神様なら、私が何を考え、何を言おうとしているのかも、きっと知っているに違いないと思いました。

そして、もしそうなら、ひょっとしたら私が考えていることも、実は神様が考えさせているのだとも思いました。

だとすれば、こうして「神様が考えさせているのだ」と考えることも、神様が考えさせている...。

なんだか哲学っぽいですね。子どもっぽくない子どもでした。


それから私は、もし神様を本当に信じることができるなら、空を飛べるのではないかと思いました。

人間が空を飛べないのは、神様のことを本当に信じ切ることができないからだと。

座布団を積み上げ、そこからジャンプして空を飛ぶ練習をしましたよ。

「あー、まだ信じきれてない。」

床に落ちる恐怖心を感じるたびに、私は自分の信仰の薄さを嘆いたのです。


このように、その本を読む前から私は、「信じることが現実になる」ということを知っていたのかもしれません。

だから、そんな無謀なことをしようとしたし、死なないかもしれないということを思いついたのだと。


今にして思えば、おちゃめな私自身がかわいらしいです。

けっこう笑えるじゃありませんか。

しかし当時は、本当に真剣でした。

そういう私だったからこそ、今、それまでの疑問が解けるまでになったと思います。


posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 21:19 | Comment(2) | ├ 私の生い立ち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

思考は現実化する



ジョセフ・マーフィー氏の本を何冊か読んだ後、この本に辿り着きました。

もう本のタイトルがズバリですから、何の説明もいらないでしょう。

ただし、この本が書かれることになった経緯が面白いのです。


新聞記者だった著者のナポレオン・ヒル氏が、あるときアンドリュー・カーネギー氏にインタビューしたのだそうです。

アンドリュー・カーネギー氏と言うのは、鉄鋼王と呼ばれるまでになった資産家で、寄付してカーネギー・ホールなどを造った人です。

デール・カーネギー氏の「人を動かす」にも、たくさんのエピソードが書かれています。


そのときカーネギー氏はヒル氏に、成功する人の秘訣をまとめて成功哲学を体系化してくれないか、と持ちかけました。

特別な手当は出さないけれど、成功者への紹介状は書くからと。

するとヒル氏は、「やります」と即答しました。

それで食えるかどうかもわからないのに、生活のことさえ無視して、ヒル氏はその申し出を受けたのです。

あとでカーネギー氏は、もし1分以内に返答しなかったら、その仕事を任せないつもりだったと言いました。



このエピソードは、私の心に残りました。

「重要なことほど即断・即決せよ。」

それが、この本から得た私の教訓です。


あれこれ考えたところで、大差がないのです。だって迷うのですから。

そうでしょ?どっちを選んでも差がないと思うから迷うのです。

だったら、さっさと決めたら良いのです。



東京で働いていた時、上司が私にタイ進出の話をしてきました。

その話を聞きながら私は、「これは私に行ってほしいということだな」と思いました。

初めてタイに行かせるのに、家族持ちでは都合が悪いし、かと言って経験の少ない若手では期待に応えられません。

それなりの経験があって独身だった私が、社内では唯一、適任者だったのです。


私は、上司が口を開く前に言いました。

「私に行けと言うことですよね。だったら私が行きましょう。」

上司に、「頼むから行ってくれ」などと言わせたくなかったのです。

言いにくそうにしている上司を見れば、最後はそう言われることがわかりましたから。

そのとき私は、ナポレオン・ヒル氏の逸話を思い出していました。

そして「私が行くしかない」と思ったから、自信があるかどうかとか、田舎に帰れなくなるとか、自分の都合を考えることを一切やめたのです。


その決断があったから、今の私のタイでの生活があります。

タイでの生活があったから、悟りを得るような出来事もあったのです。

人生に起こる出来事のすべてが必然であり、無駄なことは何一つありません。

そのことを、私の人生を通じて確信しているのです。
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 23:11 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月07日

愛を求めるのに疲れたら

子どもの頃から私は、人の顔色をうかがう生き方をしてきました。

今になればはっきりわかりますが、要は愛されたかったのです。

承認されたい、褒められたい、声をかけてほしい、友達になってほしい、恋人になってほしい、...。

すべて、愛されることを求め、愛が得られることを期待していたのです。


しかし、そういう生き方は疲れます。

私も、ほとほと疲れました。

それであるとき、他人に期待するのをやめようと思ったのです。



これはある意味で、一大決心でした。

だって、一番欲しいものを「要らない」と言うことと同じですから。


きっかけはおそらく、他人に無関心な人との出会いだったと思います。

私だったらすぐに気を使ってしまうような場面でも、まったく我関せずという態度をとるのです。

これには驚きました。

「えーっ、どうしてそんなに無関心でイられるのー!?」


でも、そういう人がいることは事実です。

そういう事実があるということは、そういう生き方もあるということ。

私は、ひょっとしたら自分にもできるのではないかと思いました。

そして、期待することをやめることで、楽になるように思ったのです。



しかし、実際にやろうとしても、それはとても難しいことでした。

どうしても周りの人のことが気になってしまうのです。

愛されたいという思いは、なくなることがありません。


疲れないためには期待することをやめなければならない。

そう理屈ではわかっても、心も身体もついて行かないのです。



今にして思えば、それが習慣というものだったのでしょう。

タバコをやめたいと思っても、吸うことが習慣化していると、なかなかやめられません。

それと同じことです。

そしてタバコには、吸わなくなると枯渇感が沸くような物質が入っています。

実は考え方の習慣においても、同じようなことがあるのです。

それが、不安というものです。


期待することをやめようとしても、愛されたいという思いが消えない。

なぜなら、愛されないということに対する不安があるからです。

だからその不安を取り除いてやらないと、なかなか習慣が変わりません。


もちろん禁煙と同じで、簡単にやめられる人もいます。その一方で、何度トライしても失敗してしまう人もいます。

人は十人十色ですから、みんなが同じようにできるわけでもないのです。

ただ、喫煙が習慣化する仕組みを理解すると、対策も講じやすくなります。

的確な対策を講じるなら、より多くの人が容易に禁煙に成功することも確かです。



愛を求めることに疲れているなら、ここでその重荷を下ろしませんか?

期待しない生き方をすることで、もっと楽に生きられるようになります。

その理論を知って、あとはその考え方を身につけるのです。

posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 11:37 | Comment(0) | 幸せ実践塾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

悪魔の正体は不安だった

自分の人生を変えたい。だから、考え方を変えようと思う。

そう決意しても、なかなか実行に移せなかったり、継続できないことが多いです。


1つの理由は、習慣化されていないから。

これは自転車の乗り方を覚えるのと同じで、無意識にそれができるようになるまで、繰り返すしかありません。

今までの習慣を捨てるには、新たな習慣を身につけることですから。


もう1つの理由は、理屈ではわかっていても、心がついていかないというもの。

たとえばバンジージャンプを考えてみてください。

丈夫なロープで、切れないとわかっています。

すでに体験した人は、どれだけその体験が素晴らしいかを興奮しながら語ります。

自分もやってみれば、きっと素晴らしい体験ができるに違いない。いや、必ずできるだろうし、それをやってみたい。

それなのに、...。足がすくんで一歩を踏み出せません。


どうして?理屈ではやってみた方が良いとわかっていて、頭もそうしたいと考えているのに。

頭と心が分離してしまっているのです。心がそれを望まないのです。

それは、怖れがあるからです。


この怖れの本質は、「不安」です。

自分の存在が失われるかもしれないという不安が、怖れとなって現れるのです。


この不安は、依存とか執着になって現れることも多いです。

彼に嫌われるのではという不安から、彼の言いなりになってしまう。ときには暴力を受けても、彼を許そうとしてしまう。

彼に対して依存しているのです。彼と歩む人生に執着しているのです。



しかしこの不安を抱えていると、自分らしく生きることができません。

悪の道(=自分らしくない生き方)に引きずり込んでしまう悪魔の正体は、この心の不安なのです。

ですからこの不安を取り除くことが、完全に自分らしく生きるために欠かせないことなのです。

まずは不安という名の悪魔がいることを、理屈で理解しましょう。そこがスタートです。




※「幸せの公式」の補習講座は、こちらからどうぞ。

「幸せの公式7日間補講」


posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 15:15 | Comment(0) | 幸せの公式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

必要なものは何一つない

前回の記事で、私たちを悪の道(=自分らしくない考えや行い)に引きずり込んでしまうのは、不安という名の悪魔の仕業だと言いました。

ではこの悪魔は、どうやって生まれたのでしょうか?


聖書にもサタン(悪魔)が登場しますが、三大天使長であったミカエル、ガブリエル、ルーシェル(ルシファーとも言う)の中の、ルーシェルが堕落してサタンになったとされています。

この話は、実に面白いと思います。


もし、神とは別の存在としてサタンがあるとしたら、これはいわゆる二元論ですが、神の定義がおかしくなります。

神は「すべて」であるとされていますから。

ですからサタンとは言え、神が創りだしたものでなくてはならないのです。


堕天使ルーシェルは、金星が象徴です。ルシファーとは明けの明星のこととされていますから。

天文学的に言うと、惑星の中で金星だけが自転が逆向きなんですよね。

これなども、金星が反逆の象徴として、面白いです。聖書が書かれた頃、それが知られていたとは思えないのですけどね。



さて、聖書の話は置いておいて、不安の話に戻りましょう。

実は不安は、愛から生まれます。

神から生まれたサタンと重ね合わせて考えてみると、なかなか面白いでしょ?


もっと言うと、この世には愛しか存在しません。

その理由はまた改めて説明しますが、もしそうだとすると変だと思われるのでしょうね。

愛しか存在しないのに対極とも言える不安が生じるのですから、その仕組みがわかりません。

それを説明しましょう。


愛しか存在しないのに対極の不安が生じるのは、愛の度合いが薄まることが不安として感じられるからです。


たとえば、カイン・コンプレックス で説明したカインとアベルの物語です。

神はカインを愛していたけれど、何らかの事情があってカインの捧げ物を受け取らず、アベルの捧げ物だけを受け取った。

神の愛が減少したと感じたカインは、アベルを誘い出して殺したという話です。

カインは、神の愛が減ったと感じた。つまり、神から愛されないという不安を感じたのです。

神から愛されないという不安は、自己の存在感を脅かすものでした。

だからアベルを殺してでも、神の愛を取り戻す必要性があったのです。


しかし、愛が減少するということはあり得ません。

なぜなら、すべてが愛だから。

神とはすべてであり、また愛なのです。

しかし、愛が減ったと感じることはできます。


「私が考えるこの世の仕組み」 で書いたように、この世は相対的な体験のために創られたので、忘却によって素晴らしさを忘れ、素晴らしくないことも選択できます。

と言うことは、すべてが愛であることを忘れ、愛がなくなることがあると考える自由があるのです。



この説明でどうでしょうか?この説明だと、愛と不安の説明が、神とサタン(悪魔)の説明と一致していて、面白いでしょ?

「神=愛=すべて」でありながらも、そこに「サタン(悪魔)=不安」が生まれる余地がある。



不安とは、愛がないと感じることです。

ではなぜこの世は、本当はすべてが愛なのに、愛がないと感じられるようになっているのでしょうか?

そのために殺人事件まで起きていると言うのに。


それについては、すでに説明した通りです。

素晴らしさを体験的に知るためには、素晴らしくないものが存在しなければならないのです。

友のために命を投げ出すことが素晴らしい愛だとするなら、友のために命を投げ出せない人々が必要なのです。

命を投げ出すことに不安を感じて投げ出せない多数の人がいるからこそ、命を投げ出す行為が燦然(さんぜん)と輝くのではありませんか。


不安は、この世を創った目的のために必要なものです。

でも、不安に支配される必要性はありません。

不安に支配される時、人は何かに依存し、執着するようになるのです。


考えても見てください。

私たちの本質が「ひとつのもの」だとして、その存在が永遠で、他に何もないのだとすれば、どうして他に必要なものがあるでしょうか?

私たちには、必要なものは何もないのです。すべてがそろっているのです。ただそれを、見ないでおくことができるだけなのです。

愛はあるのです。消えることはないのです。ただそれを、ないと考えることができるだけなのです。



「必要性はないのだ」ということを、考えてみましょう。

本当は「考える」ではなく、「思い出す」というのが正しいのでしょうけど、私たちにとっては「考える」方が理解しやすいでしょうね。

もし私たちが「ひとつのもの」だとしたら...。そう考えてみれば、必要性が存在しないことがわかるのです。

まずは理屈で理解する。そうすると徐々に、それを体験できるようになります。

世の中は、そんな風にできているのですから。

posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:33 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

必要性を好みに変える

心に巣食う「不安」という名の悪魔がいる限り、自分らしく生きることはできません。

頭でわかっていても、どうしても心が従ってくれないからです。


ではその「不安」という悪魔を、どうやって倒したら良いでしょうか?



これには2つの段階があります。


まず、心の大半を不安が占めているステージ1の人の場合は、まず心を癒して落ち着かせることが大切です。


弱い犬ほどよく吠えると言いますが、その犬がちょうど良い例です。

その犬は、もう怖くて怖くて仕方ないのです。不安で不安でしょうがないのです。だから吠えるのです。

そういう犬に対してこちらが強気で迫っていくと、しっぽを股の間に入れてブルブル震え出します。

しまいには失禁してしまうことも。それだけ怖かったのです。

そういう犬に対して、強く迫ってはいけませんよね。

遠くから優しく微笑みかけてあげましょう。餌を遠くからあげて、じっと見守ってあげましょう。

そうすることで警戒心を解いてあげるのです。


同じことを、自分の心に対しても行います。

私が推奨する「心を癒す鏡のワーク」 は、そのための強力なツールです。

こればかりに限りませんが、要は今の自分のままで良いと、それでも素晴らしいのだと、自己評価を高めることが大切です。



次に、日常的には不安を意識しなくなるステージ2の人は、無意識に必要性を感じていることを洗い出し、それを好みに置き換えていきましょう。


たとえば、通勤時にいつも同じ電車に乗る人は、無意識にその電車に乗ることの必要性を感じているかもしれません。

同じ車両の同じ入口から乗る人も同様です。

「そんなに必要だとまでは考えていないよ。」

そう言うかもしれませんが、本当でしょうか?

まず自分自身を疑ってみましょう。だって無意識に思い込んでいるとしたら、気が付かないでしょうからね。

たまには、ほかの電車に乗ってみましょう。出勤する時刻を変えてみましょう。ともかく意図的に変化させてみるのです。

そして違和感を感じるときは、自分の心に言い聞かせるのです。

「別にこうでなくても大丈夫。必要じゃないんだから。これが好きなだけであって、必要じゃない。」

そう言葉にすることで、自分の心に好みだということをわからせるのです。無意識に考えていることを、意識化するのです。


無意識に、「こうでなければならない」ということって、けっこうありますよ。

エスカレーターは右を空けて乗らなければいけない。電車の中では、携帯電話を使ってはいけない。マナーは、守らないといけない。

こういう常識とかマナーと呼ばれるものは、無意識に必要性を感じていることが多いです。

他人がそういう「ねばならない」に反しているとき、あなたの心は波立ちませんか?

もし波立つようなら、あなたは必要性を感じているのです。

だから不安を感じて、心が波立ったのです。


心の中の必要性を洗い出し、一つひとつ好みに変えていきましょう。

そうすることであなたは、薄皮をむくように少しずつ自由になっていくでしょう。

posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 21:17 | Comment(0) | 実践内容 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月08日

マナーを守るということ

日本にいるときは、しょっちゅう「マナーを守ろう」という言葉を聞かされた気がします。

前回の記事 で、マナーを守ろうとすることを「必要性を感じる」ことの例として取り上げました。

「えっ、マナーを守るなって言いたいの?」

そう思われた方も多いと思います。


誤解がないように言っておきますが、マナーを守ってはいけないとか、マナーを守らないほうが良いということを言いたいわけではありません。

私が問題にしているのは、マナーを守るかどうかということではなく、マナーを守るということにとらわれるかどうかということです。



ここ、重要ですからね。絶対に試験に出ますよ。

学校の先生なら、きっとそう言うだろうと思うほど、ここが私の考え方のキモです。



自分自身が、マナーを守る人間であることを自分らしいと思ってそうするなら、何の問題もありません。

マナーを守ることは、その人にとって楽しいことだからです。


しかし、他の誰かがマナーを守らないとき、頭に来る人は問題です。

それは、マナーを守るということにとらわれているからです。



他の人がどうするかなど、どうでも良いことなのですよ。

だって人はそれぞれ自由ですから。その人がしたいようにするだけです。

他人を変えることができないのも、他人には他人の自由があるからです。

それなのに、他の人を変えなければならないと考えてしまうのは、どうしてでしょうか?


それは他の人の言動によって、自分の感じ方が左右されると思い込んでいるからです。

つまり、自分が喜ぶのか悲しむのかということを、他の人が決めていると宣言しているのです。

自分を変えることができないから、他の人を変えようとしているのでしょう?

それじゃあまるで、25m泳ぐのは無理だから10km泳ごうとするのと同じです。

無茶な論理だと言いたいのです。


他の人がある特定の(=自分が期待する)言動をする必要性を感じているわけです。

そうしないと、自分の心がかき乱されてしまい、幸せを感じるどころではなくなってしまうから。

ほら、必要性を感じているじゃありませんか。


もし、自分のことは自分でコントロールできるし、自分で決められると知っていたらどうでしょうか?

他人がどうするかということに、必要性を感じるでしょうか?


たしかに、他の人がマナーを守ってくれたら気持ち良いでしょう。

他の人がマナーを守ってくれる方が好ましいでしょう。

でも、必要ではありません。

それが、必要性を好みに変えるということです。



この違い、わかっていただけたでしょうか。

本当に重要ですからね。試験に出ますよ〜! (*^_^*)


posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 11:48 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

般若心経の意味がわかった

偉そうな言い方ですみませんが、本当に般若心経の意味がわかった気がしたのです。


私が般若心経と出会ったのは、入院していた祖父の回復を祈って読経するようにした ときです。

最初は意味もわからず、「ぶっせつまーかーはんにゃーはーらーみったーしんぎょー・・・」なんて、木魚を叩きながら読んでました。

そこに意味があるとも考えていませんでした。そうそう、私にとっては呪文と同じだったのですよ。


それが20歳くらいだったか、ひろさちや氏の解説本を読んで、「なるほど、そういう意味があったのか」と思ったのです。

でもそのときは、書いてある言葉の直訳として理解しただけで、本当の意味でわかったわけではありません。

お釈迦様が舎利子という弟子に説明するような感じで話が展開し、最後は「だからみんなで手をつないで、天国へ行こう!」みたいな真言(マントラ)で終わります。

しかも万物は空(くう)だから、増えもしないし減りもしないとか、あれも無い、これも無いというだけでは、わけがわかりませんでした。

いや別にひろさちや氏の解説が悪いと言っているのではありませんよ。

おそらく多くの人が、それぞれに「こんな意味じゃないの?」と思いながら読み、解説していたのだと思います。


それから25年ほど経って、私にはスーッと般若心経の意味が心の中に入ってきたのです。

「なるほど、そういう意味だったのか!」

そんな感じです。嬉しくて、嬉しくて、仕方なかったですね。

まるで難しい数学の問題がきれいに解けたときのような感激でした。



そのキーワードは、有名な「色即是空、空即是色」(しきそくぜくう、くうそくぜしき)という言葉にあります。

色(しき)というのは万物のこと。この世のありとあらゆるものを指します。

つまり「万物は即ちこれ空(くう)であり、空は即ちこれ万物である」と言うことですから、「万物=空(くう)」となります。


そしてこう続きます。

空(くう)であるがために、生じることもなく、滅することもなく、汚れることもなく、清らかになることもなく、増えることもなく、減ることもない。

色も無く、受想行識(じゅそうぎょうしき)も無く、眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)も無く、色声香味触法(しきしょうこうみそくほう)も無く、限界も無く、意識界も無い。

無明も無く、無明が尽きることも無い。老も死も無く、老死の尽きることも無い。苦集滅道も無く、智も無く、得も無い。


もうなんだかわからなくなりますよね。

でも、こう考えてみてください。

要は、この世で「ある」と思っているものは、すべて「ない」のだと。


赤ちゃんが生まれる(生命が生じる)と私たちは思っていますが、そんなことないんだよと言っているのです。

老いて死ぬ(生命が滅する)と私たちは思っていますが、そんなことはないんだよと言っているのです。

レイプされて汚れることも、純潔を保って清らかになることも、財産が増えることも、存在価値が減ることも、すべてないんだよと言っているのです。

もし、私たちの本当の姿が「ひとつのもの」だとして、それしか存在していないのだとしたら、まさにそうではありませんか?


無から有が生じることはありません。

そして存在するすべてが「ひとつのもの」であるなら、あとはその中で姿形が変わるだけのことです。

エネルギー保存の法則を覚えてますか?それと同じですよ。


このように、万物=空(くう)であるがために、あると思っていることが実はないということが、般若心経の意味の核心なのです。

これはいったい何を表しているのでしょうか?

私はこれを、「この世は幻想だ」という言葉で表現できると思いました。


この世は幻想です。夢です。想像の世界です。

だから、夢の中で「ある」と思っても、現実には「ない」のです。

私たちは夢の中(この世)にいるから、こちらこそが現実だと思っています。

でも本当はこちらが幻想であって、現実は別にあるのです。その現実が空(くう)、すなわち「ひとつのもの」だというわけなのです。



だからこのことがわかれば、もう苦しむことも何もなくなるというわけです。

だって、何が起ころうともそれは幻想なのですから。

苦しむ必要性がないのです。


「じゃあ、それを証明してみろよ。」

そう言いたくなるかもしれませんね。

でも残念ながら、証明はできないのです。

だって証明できちゃったら、幻想の世界で遊べなくなるじゃありませんか。

あまりに現実的で、幻想であると思えないからこそ、幻想の中で遊べるのですよ。

神様だってバカじゃありませんから、我々ごときが証明できるようなヘマはしませんって。


ただ、想像してみることはできます。

なぜこの世がこうなっているのかということを、論理的に考えてみるのです。

もしこの世が意図して創られたのなら、必ず何らかの秩序があるはずです。

そしてその秩序は、その目的に即していなければなりません。

つまり、この世がこうであることを論理的に説明できるモデル こそが、この世の真実を示していると言えるのです。



「もし意図的に創られてなかったどうなるの?」

良い質問ですねえ。

では逆にお尋ねしましょう。もし、意図的に創られたと考えて生きた時、本当は意図的に創られていなかったとしたら、何か問題はありますか?また、その逆はどうですか?

わかりますよね。たとえば「あの世はない」と思って生きて、死んだ時にあの世があった場合と、その逆ではどっちが良いか(=得か)という問題です。

あの世があると思って死んで、あの世がなかったら、それだけのことじゃありませんか。

もしその逆だと、後悔するでしょうねえ。「あちゃー、しまった。こんなんだったら、もっと別の生き方をしておけばよかった。閻魔様、許してー!」みたいな。(笑)


証明ができないことを証明できる理論はあるのですから、あとはそれを信じてみるかどうかだけだと思うのです。

信じて生きるのと、信じないで生きるのと、どっちが得かということを考えてみれば、自ずと結論は出ると思いますよ。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:42 | Comment(6) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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