内向的で、人と会うのが苦手な私です。
特に初対面というのは苦手ですね。緊張するんですよ。どう接したら良いかわからなくて。
子どもの頃はそれで、駅で切符を買うことすらできないほどでした。
今はさすがに、それほどひどくはありません。
もう50歳にもなりましたから、仕事で初めての人と会うなんて機会もありますから。
でも、生まれもった自分の基本的な性格は変わりませんね。
やはりまだ、初対面の人と会うときは緊張するのでしょう。だから、知らない人ばかりのところへは、積極的に行きたいとは思いませんから。
でも、それはそれで良いと思うのです。
無理に自分を変える必要性はないということです。
たしかに私は、「変えられるのは自分だ」ということを言っていて、何かを変えたいなら他人ではなく、自分を変えるようにと言っています。
でもそれは、あくまでも何かを変えたいなら、という前提があります。
自分が変えたくないと思っているなら、無理に変える必要はないのです。
一番まずいのは、誰か他の人の価値観に従ってしまうこと。
たとえば「ネクラは嫌われる」という誰かの価値観を受け入れ、「嫌われたくないからネアカに変わろう」と考えたとしましょう。
たしかに自分が変わろうとしたのですが、これでは自分が苦しくなるだけです。
なぜなら、動機となっている「ネクラは嫌われる」という価値観が、他人のものだからです。
そして「嫌われる」ということを怖れて、変わろうとしたからです。
「ネクラは社会の役に立つ」ではダメなのですか?
「ネクラは楽しい」でもいいでしょう?
あるいは「人から嫌われても大したことはない」と考えることもできますよね。
自己受容ができていない人は、まずは変わることよりも自分のままで良いと認めることが大切です。
自己受容ができると、今度は変わろうとする動機が違ってきます。
「ネクラを変える必要性はないけど、ネアカの方が楽しそうだから変わろう」
今度は変わることが楽しくなるのですから、苦しくなるはずがありません。
すべてがOKなのです。
いいですか?重要だからもう一度言います。
どんなことであれ、すべてがOKなのです。
弱い自分、ネクラな自分、内気な自分、自信がない自分、傷つきやすい自分...
どんな自分であっても、すべてそのままでOKなのです。
そこからスタートしましょう。
2012年06月03日
今、死にたいと思っているあなたへ
未曽有の大災害だった東日本大震災。その死者や行方不明者は、およそ3万人と言われています。
入学式直前だった子ども、結婚式が目前だったカップル、たまたま旅行に来ただけの人など、おそらく絶対に死にたくなかっただろうと思われる多くの命が、無残に奪われてしまいました。
2度とこんなことが起こらないようにと、今、国をあげて災害対策を行おうとしています。
その一方で、見捨てられてきた命があります。
年間3万人以上の自殺者です。
もう10年以上も、毎年毎年、3万人以上の人が自殺しているそうです。
かつて交通事故の死者が年間1万人を超えていた時、マスコミは交通戦争と言って騒ぎました。
1万人もの死者が出るのは、戦争くらいしかないという例えです。
もしその比喩を使うとするなら、今は自殺戦争ではありませんか?
もちろん、事情が異なることはわかっています。
交通事故も災害も、死にたくない人が死んだのです。
一方の自殺は、死にたいから死んだ...。
違うのです。
それは一面的な見方です。
自殺した人も、本当は死にたくなかった。
でも、死ぬしかなかったから死んだのです。
それぞれ事情が異なるから、同じ自殺だとしても対策は異なると、多くの人は考えるかもしれません。
でも私は、事情は異なっても理由は1つだと思っています。
それは、絶望したからです。
生きていることに意味がないと感じたからです。
どうして、その人は絶望しなければならなかったのでしょうか?
おそらくその人は、幸せになれなかったのでしょう。
幸せになりたいと思ったけど、なれなかった。
あるいは生きていると幸せになれないから、死を選んだのではありませんか?
幸せなんて、本当は今すぐ、この場で、誰でもなれるのに。
他人も環境も、自分さえも変えなくても、幸せにはなれるのに。
そう思うと、私は残念で仕方がないのです。
このことを知っていれば、きっと多くの命が救われるはず。
そうわかっているのに、それを伝えられずにいることが歯がゆいのです。
入学式直前だった子ども、結婚式が目前だったカップル、たまたま旅行に来ただけの人など、おそらく絶対に死にたくなかっただろうと思われる多くの命が、無残に奪われてしまいました。
2度とこんなことが起こらないようにと、今、国をあげて災害対策を行おうとしています。
その一方で、見捨てられてきた命があります。
年間3万人以上の自殺者です。
もう10年以上も、毎年毎年、3万人以上の人が自殺しているそうです。
かつて交通事故の死者が年間1万人を超えていた時、マスコミは交通戦争と言って騒ぎました。
1万人もの死者が出るのは、戦争くらいしかないという例えです。
もしその比喩を使うとするなら、今は自殺戦争ではありませんか?
もちろん、事情が異なることはわかっています。
交通事故も災害も、死にたくない人が死んだのです。
一方の自殺は、死にたいから死んだ...。
違うのです。
それは一面的な見方です。
自殺した人も、本当は死にたくなかった。
でも、死ぬしかなかったから死んだのです。
それぞれ事情が異なるから、同じ自殺だとしても対策は異なると、多くの人は考えるかもしれません。
でも私は、事情は異なっても理由は1つだと思っています。
それは、絶望したからです。
生きていることに意味がないと感じたからです。
どうして、その人は絶望しなければならなかったのでしょうか?
おそらくその人は、幸せになれなかったのでしょう。
幸せになりたいと思ったけど、なれなかった。
あるいは生きていると幸せになれないから、死を選んだのではありませんか?
幸せなんて、本当は今すぐ、この場で、誰でもなれるのに。
他人も環境も、自分さえも変えなくても、幸せにはなれるのに。
そう思うと、私は残念で仕方がないのです。
このことを知っていれば、きっと多くの命が救われるはず。
そうわかっているのに、それを伝えられずにいることが歯がゆいのです。
2012年06月04日
私が考えるこの世の仕組み
このことをどう書こうか、ずっと迷っていました。
この世がどうなっているのかということ。
これを話さないと、私が言おうとしていることが理解できないと思うからです。
でも、この結論に至るまでの過程を説明しないと、私の言うことを突拍子もない話だとして、誰も耳を貸さないかもしれない。
それでは意味がないので、どう説明しようかと悩んだのです。
「私の生い立ち」として、私の恥ずかしい過去を晒したのも、そのことが目的です。
私がどんな人間で、どんなことを悩み、どう考えて、どんな結論に至ったか。
それを詳らかにしようと思ったのです。
でもそれでは、あまりに時間がかかり過ぎてしまいます。
しかし、どうにも良いアイデアが浮かびません。
ただ救いはあります。それは、私以外にも多くの人が、同じようなことを言っているからです。
それで思い切って、結論を先に書くことにしました。
何の説明もなしに読んでも、理解どころか受け容れることさえ難しいこともあるでしょう。
でもこれが、今の私が得た結論なのです。
私たちの真実の姿は、「ひとつのもの」です。
それを神と呼ぼうと、エネルギーと呼ぼうと、生命と呼ぼうと、空(くう)と呼ぼうと、みんな同じことです。
ともかく私たちの本当の姿は、「ひとつのもの」なのです。
「ひとつのもの」は、それだけで存在していますから、完全なものです。
そこにはすべてが揃っていて、足りないものはありません。
存在するために必要なものは、他には何もないのです。
ただ「ひとつのもの」には悩みがありました。
それは、自分が完全で素晴らしい存在だということは知っていても、それを感じることができないのです。
たとえば、太陽の下の明るいライトを考えてみてください。
どんなにライトが明るかろうとも、周りが同じように明るければ、その明るさがどれほどのものかわかりません。
明るさを素晴らしいと感じるためには、明るくないものが必要なのです。
そこで「ひとつのもの」は、この世を作ることにしました。
それは、自分自身を体験的に知ることができる完璧な世界です。
体験的にものを知るためには、自分ではないものが必要です。
すなわちそれは、比較すべき対象です。
そのために自分を無数のパーツに分割したのです。
それは、時間と空間という軸を作ることでした。
時間と空間によって、「自分」とは別のものの存在が生まれます。
ここで言う「自分」とは、自分を認識している「自分」のこと。つまり今の自分です。
今の自分は、それ以外のものと比較をすることで、体験的に今の自分を認識できるのです。
ただここでまた問題がありました。
たとえば先程の例で、たくさんの明るいライトができたとしても、ダメだということです。
明るくない存在が必要です。
しかし分割されたパーツは、そもそも素晴らしい「ひとつのもの」です。
そこでもう1つの工夫を加えました。
それが忘却と呼ばれるものです。
自分自身の素晴らしさを忘れるのです。
それによって分割された「ひとつのもの」のパーツは、素晴らしくない自分になることができました。
そしてもう1つ、大事な要素があります。
それは自由です。
分割されたパーツは、それぞれの自由意志によって、自分が何であるかを定義できることになりました。
これで完璧です。
分割されたパーツ同士は互いに協力し合い、自分が何であるかを定義しては、それを体験的に知ることができるようになったのです。
選択は自由ですから、素晴らしくない自分を選択してもかまいません。
ただ、忘却したとは言え、分割されたパーツは本当の自分を知っています。
より本当の自分に近い自分を体験的に知った時、そのパーツは喜びを感じます。
一方で、より本当の自分から遠い自分を体験的に知った場合は、そのパーツは気持ち悪さを感じるのです。
そのパーツがこの世界に来た目的は、自分の素晴らしさを体験的に知って喜ぶことです。
つまり喜びたいという気持ちにしたがっていれば、自動的に本来の自分を体験できる仕組みになっていたのです。
しかしそれぞれのパーツは、自由に考え方を選択する力があります。
理論的に正しい考え方を選択することもできますが、そうしない自由もあるのです。
やってみて上手くいかない(=喜べない)なら、それは選択した考え方が間違っているのですが、そう考えない自由もあります。
相手が悪い、環境が悪いと考えて、いつまでも問題を解決しないでおく自由もあったのです。
何度も何度も同じことを繰り返し、それでも気が付かないでいる自由もあります。
「そのやり方は上手くいかないよ」と誰かがアドバイスしても、それを聞かない自由もあります。
しかし、いつかは必ず本当の自分を見出します。
なぜなら、いつかは同じことを繰り返すことに飽きるからです。
「バカバカしい。もうこのやり方はやめよう。」そう言って、他のやり方を試すでしょう。
そうしているうちに、必ず本当の自分を見つけ出す考え方を選択することになるのです。
だから宗教は、必ず人は救われると言うのです。
法華経では、何億回、何兆回、何京回もの生まれ変わりの後に、必ず仏になれると言うのです。
そもそも、そうなるようにこの世はできているのですから。
だから「救われる」という言葉は間違っています。
それぞれの分割されたパーツは、もともと救われる必要性などないのです。
ただ自分自身の本来の姿を思い出すだけで良いのです。
以上が、私が現時点で考えているこの世の仕組みです。
この世に時空があり、相対的になっている理由は、体験的に自分自身を知るためです。
そして自由があって、素晴らしくない状態でいるのは、本来の素晴らしい自分を知るためです。
そして私たちは今までも、これからも、その目的に向かって進むのです。
生きることは目的ではありません。なぜなら、生きないということは不可能だからです。
幸せになることも目的ではありません。私たちはもともと、幸せな存在なのですから。
素晴らしい人間になることも目的ではありません。私たちはもともと素晴しいのです。
忘却した自分を体験的に知ることで思い出す。その喜び、その感動を味わうために、私たちは生きるのです。
この世がどうなっているのかということ。
これを話さないと、私が言おうとしていることが理解できないと思うからです。
でも、この結論に至るまでの過程を説明しないと、私の言うことを突拍子もない話だとして、誰も耳を貸さないかもしれない。
それでは意味がないので、どう説明しようかと悩んだのです。
「私の生い立ち」として、私の恥ずかしい過去を晒したのも、そのことが目的です。
私がどんな人間で、どんなことを悩み、どう考えて、どんな結論に至ったか。
それを詳らかにしようと思ったのです。
でもそれでは、あまりに時間がかかり過ぎてしまいます。
しかし、どうにも良いアイデアが浮かびません。
ただ救いはあります。それは、私以外にも多くの人が、同じようなことを言っているからです。
それで思い切って、結論を先に書くことにしました。
何の説明もなしに読んでも、理解どころか受け容れることさえ難しいこともあるでしょう。
でもこれが、今の私が得た結論なのです。
私たちの真実の姿は、「ひとつのもの」です。
それを神と呼ぼうと、エネルギーと呼ぼうと、生命と呼ぼうと、空(くう)と呼ぼうと、みんな同じことです。
ともかく私たちの本当の姿は、「ひとつのもの」なのです。
「ひとつのもの」は、それだけで存在していますから、完全なものです。
そこにはすべてが揃っていて、足りないものはありません。
存在するために必要なものは、他には何もないのです。
ただ「ひとつのもの」には悩みがありました。
それは、自分が完全で素晴らしい存在だということは知っていても、それを感じることができないのです。
たとえば、太陽の下の明るいライトを考えてみてください。
どんなにライトが明るかろうとも、周りが同じように明るければ、その明るさがどれほどのものかわかりません。
明るさを素晴らしいと感じるためには、明るくないものが必要なのです。
そこで「ひとつのもの」は、この世を作ることにしました。
それは、自分自身を体験的に知ることができる完璧な世界です。
体験的にものを知るためには、自分ではないものが必要です。
すなわちそれは、比較すべき対象です。
そのために自分を無数のパーツに分割したのです。
それは、時間と空間という軸を作ることでした。
時間と空間によって、「自分」とは別のものの存在が生まれます。
ここで言う「自分」とは、自分を認識している「自分」のこと。つまり今の自分です。
今の自分は、それ以外のものと比較をすることで、体験的に今の自分を認識できるのです。
ただここでまた問題がありました。
たとえば先程の例で、たくさんの明るいライトができたとしても、ダメだということです。
明るくない存在が必要です。
しかし分割されたパーツは、そもそも素晴らしい「ひとつのもの」です。
そこでもう1つの工夫を加えました。
それが忘却と呼ばれるものです。
自分自身の素晴らしさを忘れるのです。
それによって分割された「ひとつのもの」のパーツは、素晴らしくない自分になることができました。
そしてもう1つ、大事な要素があります。
それは自由です。
分割されたパーツは、それぞれの自由意志によって、自分が何であるかを定義できることになりました。
これで完璧です。
分割されたパーツ同士は互いに協力し合い、自分が何であるかを定義しては、それを体験的に知ることができるようになったのです。
選択は自由ですから、素晴らしくない自分を選択してもかまいません。
ただ、忘却したとは言え、分割されたパーツは本当の自分を知っています。
より本当の自分に近い自分を体験的に知った時、そのパーツは喜びを感じます。
一方で、より本当の自分から遠い自分を体験的に知った場合は、そのパーツは気持ち悪さを感じるのです。
そのパーツがこの世界に来た目的は、自分の素晴らしさを体験的に知って喜ぶことです。
つまり喜びたいという気持ちにしたがっていれば、自動的に本来の自分を体験できる仕組みになっていたのです。
しかしそれぞれのパーツは、自由に考え方を選択する力があります。
理論的に正しい考え方を選択することもできますが、そうしない自由もあるのです。
やってみて上手くいかない(=喜べない)なら、それは選択した考え方が間違っているのですが、そう考えない自由もあります。
相手が悪い、環境が悪いと考えて、いつまでも問題を解決しないでおく自由もあったのです。
何度も何度も同じことを繰り返し、それでも気が付かないでいる自由もあります。
「そのやり方は上手くいかないよ」と誰かがアドバイスしても、それを聞かない自由もあります。
しかし、いつかは必ず本当の自分を見出します。
なぜなら、いつかは同じことを繰り返すことに飽きるからです。
「バカバカしい。もうこのやり方はやめよう。」そう言って、他のやり方を試すでしょう。
そうしているうちに、必ず本当の自分を見つけ出す考え方を選択することになるのです。
だから宗教は、必ず人は救われると言うのです。
法華経では、何億回、何兆回、何京回もの生まれ変わりの後に、必ず仏になれると言うのです。
そもそも、そうなるようにこの世はできているのですから。
だから「救われる」という言葉は間違っています。
それぞれの分割されたパーツは、もともと救われる必要性などないのです。
ただ自分自身の本来の姿を思い出すだけで良いのです。
以上が、私が現時点で考えているこの世の仕組みです。
この世に時空があり、相対的になっている理由は、体験的に自分自身を知るためです。
そして自由があって、素晴らしくない状態でいるのは、本来の素晴らしい自分を知るためです。
そして私たちは今までも、これからも、その目的に向かって進むのです。
生きることは目的ではありません。なぜなら、生きないということは不可能だからです。
幸せになることも目的ではありません。私たちはもともと、幸せな存在なのですから。
素晴らしい人間になることも目的ではありません。私たちはもともと素晴しいのです。
忘却した自分を体験的に知ることで思い出す。その喜び、その感動を味わうために、私たちは生きるのです。
神との対話
私の考え方の大部分を占めるものは、この「神との対話」シリーズによって得られました。
すでに関連本が10冊以上出版されていますが、そのほとんどを私は、3回以上読んでいます。
タイに来るときにほとんどの本を日本に置いてきましたが、「神との対話」シリーズだけは持って来たのです。
初版は1997年9月となっていて、それを買いましたが、買った時期はあまりはっきり覚えていません。
当時は千歳烏山に住んでいて、京王線で職場に通っていました。
いつもよく行く本屋で面白そうな本を探していた時、そのタイトルに惹かれて手にしたのでした。
最初の部分を少し読んだだけで、これは私が買うべき本だと直感しました。
すぐに買って帰り、1週間くらいで読んだと思います。
そこには、私が思いもしなかったようなことが書かれていたのです。
その内容に惹かれながらも、理解できないこともたくさんありました。
それにも関わらず、この本には何かあると感じたのです。
それからシリーズ本が発行される度に買い、継続して読んできました。
シリーズ3冊目で、私には大きな気づきがありました。
それが前の記事に書いた「ひとつのもの」という考え方です。
すでに1冊目で書かれているのに、頭に入っていなかったのですね。
またいつか書きますが、私の中の性欲に対する悩みも、このシリーズを読んで私の考え方を確立する中で、解決しました。
ただ私は、ここに書かれていることをすべて信じているわけではありません。
それは著者のニール・ドナルド・ウォルシュ氏も言っています。自分の言うことを信じるなと。
すべてを私の中で検証し、落とし込んでいく過程の中で、私なりの考え方を作っていったのです。
神を信じない人にとってはとっつきにくいかもしれませんが、無理に神を意識する必要はありません。
少なくともこの世は現存し、自分という存在があることは確かなこと。
それはどうしてなのか?なぜ存在するのか?何のために存在するのか?
そういう疑問に対して思索を深めるには、もってこいの本だと思います。
<2018年6月14日追記>
「神との対話」シリーズを解説するメルマガを発行しています。
過去ログもすべて読めますので、ぜひお読みになってください。
また、過去ログへの目次もありますので、有効にご活用ください。
<2018年12月6日追記>
「神との対話」シリーズの新作、「神との対話 完結編」が出版されました。こちらもすでに記事で紹介していますので、ご覧ください。
私はどうしてこうなのか?
傷つきやすい内気な性格を、呪ったこともあります。
「どうして私はこんな風に生まれてきたの?」
もっとかっこ良い顔や身体がほしかった。
女の子とも臆せずに話せる図太い神経がほしかった。
家族だって、もっと金持ちだったら良かったし、こんな田舎の街じゃなくて都会に生まれたかった。
そんなことを考えたこともあったのです。
でも今は違います。
そのような自分に生まれてきたことは、必然で意味があるとわかっているからです。
「人は誰も、自分の親や家族を選んで生まれてくる。」
そう言う人が増えたように思います。
もしそうだとすれば、当然、生まれてくる年代や地域、環境も選んだでしょう。
そして、自分自身の特質だって選んだはずです。
そうなのです。すべての要素は、自分が選んだと言えるのです。
何のために?
それは、「自分らしさ」をもっとも効率良く体験するために、ということです。
もしそうでないとすれば、どうして手足もあって、健康な身体で生まれてきたか説明できますか?
どうしてこの時代の日本に生まれてきたか、説明できますか?
どうしてアフリカの内戦地域じゃなかったのです?
アフガニスタンの、タリバンの攻撃に脅かされる村じゃなかったのです?
フィリピンのスラムじゃなかったのですか?
みんなそれぞれ、自分の目的に応じて、生まれる場所、時期、家族などの条件を選んで生まれるのです。
それが自分らしさを体験するために、もっとも良い条件だからです。
もしこの考えを否定するなら、偶然と考える他ありません。
それとも、特定の神を喜ばせるためでしょうか?
誰がどんな考え方をしようと自由ですが、私は問いたいのです。
その考え方をすると、楽しいですか?
理屈が通っていることはもちろんですが、楽しくなければ意味がないと思います。
それでは、何のために生きるのかわからない。
常識などと言って、他人の価値観に生きるのはやめましょう。
はっきり言えば、すぐに「常識だ」と言う人は、洗脳されているのです。
その考え方が間違っているかどうかなどと、疑ってみたことがないでしょう?
ただただその考え方にしがみつき、それによって自分自身が苦しんでいるにも関わらず、放置しているのです。
いわば、自分自身を見捨てているのですよ。
話を元に戻しましょう。
親すら選んで生まれるなら、自分自身だって選ぶのです。
あなたが内気で傷つきやすい繊細な心を持っているには、そうしなければならなかった理由があります。
見た目が美人や美男でないのも、そうでなければならない理由があります。
でも、忘れないでほしいのです。
それは、自分が必要だとして創りだした条件にすぎないのです。
本当の自分は、比較できない素晴らしいものなのです。
その前提を思い出すことによって、自ら選んだ条件を、もっとも有効に利用できるのです。
「どうして私はこんな風に生まれてきたの?」
もっとかっこ良い顔や身体がほしかった。
女の子とも臆せずに話せる図太い神経がほしかった。
家族だって、もっと金持ちだったら良かったし、こんな田舎の街じゃなくて都会に生まれたかった。
そんなことを考えたこともあったのです。
でも今は違います。
そのような自分に生まれてきたことは、必然で意味があるとわかっているからです。
「人は誰も、自分の親や家族を選んで生まれてくる。」
そう言う人が増えたように思います。
もしそうだとすれば、当然、生まれてくる年代や地域、環境も選んだでしょう。
そして、自分自身の特質だって選んだはずです。
そうなのです。すべての要素は、自分が選んだと言えるのです。
何のために?
それは、「自分らしさ」をもっとも効率良く体験するために、ということです。
もしそうでないとすれば、どうして手足もあって、健康な身体で生まれてきたか説明できますか?
どうしてこの時代の日本に生まれてきたか、説明できますか?
どうしてアフリカの内戦地域じゃなかったのです?
アフガニスタンの、タリバンの攻撃に脅かされる村じゃなかったのです?
フィリピンのスラムじゃなかったのですか?
みんなそれぞれ、自分の目的に応じて、生まれる場所、時期、家族などの条件を選んで生まれるのです。
それが自分らしさを体験するために、もっとも良い条件だからです。
もしこの考えを否定するなら、偶然と考える他ありません。
それとも、特定の神を喜ばせるためでしょうか?
誰がどんな考え方をしようと自由ですが、私は問いたいのです。
その考え方をすると、楽しいですか?
理屈が通っていることはもちろんですが、楽しくなければ意味がないと思います。
それでは、何のために生きるのかわからない。
常識などと言って、他人の価値観に生きるのはやめましょう。
はっきり言えば、すぐに「常識だ」と言う人は、洗脳されているのです。
その考え方が間違っているかどうかなどと、疑ってみたことがないでしょう?
ただただその考え方にしがみつき、それによって自分自身が苦しんでいるにも関わらず、放置しているのです。
いわば、自分自身を見捨てているのですよ。
話を元に戻しましょう。
親すら選んで生まれるなら、自分自身だって選ぶのです。
あなたが内気で傷つきやすい繊細な心を持っているには、そうしなければならなかった理由があります。
見た目が美人や美男でないのも、そうでなければならない理由があります。
でも、忘れないでほしいのです。
それは、自分が必要だとして創りだした条件にすぎないのです。
本当の自分は、比較できない素晴らしいものなのです。
その前提を思い出すことによって、自ら選んだ条件を、もっとも有効に利用できるのです。
自殺未遂をしたTくんのこと
タイで仕事をするようになってしばらくして、後輩のTくんが私の部下として赴任してきました。
Tくんはおとなしくて、いつも穏やかな表情をしています。
ただ、自分の感情をあまり表に出さない感じで、ちょっと得体のしれない雰囲気を持っていました。
Tくんは、私の言うことをよく聞いて仕事をしてくれましたが、それほど優秀とまではいきませんでした。
それもあって、何度か注意したこともあります。
私の仕事はコンピューター・プログラムの開発です。
彼がプログラムのテストが終わったというので、私がチェックすると、すぐにボロが見つかってしまいます。
「本当にテストしたの?まったくそうは思えないよ。」
実績を示さないと、タイで生き残ることはできない。そう感じていた私は、仕事に対して厳しかったのです。
ある日、Tくんが真剣な顔をして怒り出したことがありました。
「赤木さん、どうして前と言うことが違うんですか!?赤木さんがこうしろと以前言ったからそうしたのに、今度はなんでそうじゃないと言って怒るんですか!?自分には、どうすればいいのかわかりませんよ。」
私は驚きました。あの温厚なTくんが怒ったからです。
でも、私にも言い分はありました。私は理論派ですから、理屈が通らないことは大嫌いです。理由もなく前言を撤回することなどあり得ません。
Tくんの話を聞いて、彼が勘違いしていることがわかりました。前提条件が異なっているのです。
たとえば子どもから、こう言われた父親のことを考えてみてください。
「お父さんはどうして、夜には寝ろ寝ろと怒るくせに、朝になると起きろ起きろと怒るの?」
どうでしょうか?「アホかお前は!前提条件が違うだろう!」と、一喝したくなりませんか?
Tくんのケースも、私にすればそういうことだったのです。
なぜそうしなければならないかを考えたら、自ずと結論が出るようなこと。私は、そう感じていたのです。
そんな性格のTくんが、客先に派遣されてから1年くらいたった頃のことです。
昼過ぎに同僚から、「Tくんの姿が見えなくなった」と報告があったのです。
そのころはあまり日常的に接する機会がなくて、彼がどんな状態だったのかわかっていませんでした。
同僚から聞くと、かなり悩んでいたとのこと。
手分けして近所を探しましたが、見つかりませんでした。
彼が住むアパートへも行き、もし彼が戻ってきたら連絡をくれとガードマンに依頼して、部屋に戻りました。
会社の近くに大きな川はないものの、下水のようなドブ川があります。
まさかそんなところに身投げはしないでしょうけど、何らかの事故で落ちているのではと思い、あちこち探してみました。
「待つしかない。」
そう上司から言われていましたが、いても立ってもいられません。
夜になって寝ようと思っても、すぐに目が覚めてしまいます。
朝の3時だったか4時だったか、どうにも寝られないので起き出し、私はまた彼を探しに出かけたのです。
会社から彼のアパートに向かって、ドブ川なども見ながら歩きました。
そしてアパートに着いてガードマンに尋ねると、部屋に戻っていると言うではありませんか。
私はすぐに彼の部屋へ行き、中にいたTくんと話をしたのです。
どうしたら良いかわからなくて、あちこち歩き回ったそうです。
もう死ぬしかないと思って、飛び降りなども考えたけれど、なかなかできなかったのだと。
それで薬局で睡眠薬を大量に買い、部屋に戻って自殺しようとしたのだとか。
彼と仲が良かった同僚がそれを知って、話をしてなんとか思いとどまらせたようです。
彼の気持ちが落ち着いたので、同僚は朝まで寝させることにして帰ったのだそうです。
物が散らかり、少し匂ってくる汚れた部屋は、彼の心がどれだけ荒んでいたかを物語っていました。
彼は私の腕の中で、ひとしきり泣きました。
部下なのに、何も気づいてあげられなかったことを、私は本当に申し訳なく思ったのです。
翌日、彼を病院ヘ連れていき、うつ病と診断されて入院することになりました。
そして、タイではもう仕事を続けられないということで、帰国することになったのです。
おそらく私は、Tくんの中に自分自身の嫌いな一面を見ていたのだと思います。
おどおどして行動力がない点など、私自身もそうなのに必死で隠していた部分を、彼はさらけ出していたのです。
それを見ることは、私自身の隠したい部分がさらけ出された気になる。
それで彼に対して、厳しく変わることを要求したのだろうと思うのです。
うつ病との因果関係がどうなのかということは、私にはわかりません。
ただ、彼が彼自身の性格によって苦しんでいたこと、そして私と接する中で苦しんだことがあることは、たしかなことだと思います。
また私も、彼と接する中で苦しんだという事実もあります。
今は、彼と出会えたことを良かったと思うのです。
そういう経験ができたことを、ありがたいと思います。
そのときは上手く対処できなかったかもしれないけれど、彼は貴重なメッセージを私に贈ってくれました。
そのことを、心からありがたいと思うのです。
Tくんはおとなしくて、いつも穏やかな表情をしています。
ただ、自分の感情をあまり表に出さない感じで、ちょっと得体のしれない雰囲気を持っていました。
Tくんは、私の言うことをよく聞いて仕事をしてくれましたが、それほど優秀とまではいきませんでした。
それもあって、何度か注意したこともあります。
私の仕事はコンピューター・プログラムの開発です。
彼がプログラムのテストが終わったというので、私がチェックすると、すぐにボロが見つかってしまいます。
「本当にテストしたの?まったくそうは思えないよ。」
実績を示さないと、タイで生き残ることはできない。そう感じていた私は、仕事に対して厳しかったのです。
ある日、Tくんが真剣な顔をして怒り出したことがありました。
「赤木さん、どうして前と言うことが違うんですか!?赤木さんがこうしろと以前言ったからそうしたのに、今度はなんでそうじゃないと言って怒るんですか!?自分には、どうすればいいのかわかりませんよ。」
私は驚きました。あの温厚なTくんが怒ったからです。
でも、私にも言い分はありました。私は理論派ですから、理屈が通らないことは大嫌いです。理由もなく前言を撤回することなどあり得ません。
Tくんの話を聞いて、彼が勘違いしていることがわかりました。前提条件が異なっているのです。
たとえば子どもから、こう言われた父親のことを考えてみてください。
「お父さんはどうして、夜には寝ろ寝ろと怒るくせに、朝になると起きろ起きろと怒るの?」
どうでしょうか?「アホかお前は!前提条件が違うだろう!」と、一喝したくなりませんか?
Tくんのケースも、私にすればそういうことだったのです。
なぜそうしなければならないかを考えたら、自ずと結論が出るようなこと。私は、そう感じていたのです。
そんな性格のTくんが、客先に派遣されてから1年くらいたった頃のことです。
昼過ぎに同僚から、「Tくんの姿が見えなくなった」と報告があったのです。
そのころはあまり日常的に接する機会がなくて、彼がどんな状態だったのかわかっていませんでした。
同僚から聞くと、かなり悩んでいたとのこと。
手分けして近所を探しましたが、見つかりませんでした。
彼が住むアパートへも行き、もし彼が戻ってきたら連絡をくれとガードマンに依頼して、部屋に戻りました。
会社の近くに大きな川はないものの、下水のようなドブ川があります。
まさかそんなところに身投げはしないでしょうけど、何らかの事故で落ちているのではと思い、あちこち探してみました。
「待つしかない。」
そう上司から言われていましたが、いても立ってもいられません。
夜になって寝ようと思っても、すぐに目が覚めてしまいます。
朝の3時だったか4時だったか、どうにも寝られないので起き出し、私はまた彼を探しに出かけたのです。
会社から彼のアパートに向かって、ドブ川なども見ながら歩きました。
そしてアパートに着いてガードマンに尋ねると、部屋に戻っていると言うではありませんか。
私はすぐに彼の部屋へ行き、中にいたTくんと話をしたのです。
どうしたら良いかわからなくて、あちこち歩き回ったそうです。
もう死ぬしかないと思って、飛び降りなども考えたけれど、なかなかできなかったのだと。
それで薬局で睡眠薬を大量に買い、部屋に戻って自殺しようとしたのだとか。
彼と仲が良かった同僚がそれを知って、話をしてなんとか思いとどまらせたようです。
彼の気持ちが落ち着いたので、同僚は朝まで寝させることにして帰ったのだそうです。
物が散らかり、少し匂ってくる汚れた部屋は、彼の心がどれだけ荒んでいたかを物語っていました。
彼は私の腕の中で、ひとしきり泣きました。
部下なのに、何も気づいてあげられなかったことを、私は本当に申し訳なく思ったのです。
翌日、彼を病院ヘ連れていき、うつ病と診断されて入院することになりました。
そして、タイではもう仕事を続けられないということで、帰国することになったのです。
おそらく私は、Tくんの中に自分自身の嫌いな一面を見ていたのだと思います。
おどおどして行動力がない点など、私自身もそうなのに必死で隠していた部分を、彼はさらけ出していたのです。
それを見ることは、私自身の隠したい部分がさらけ出された気になる。
それで彼に対して、厳しく変わることを要求したのだろうと思うのです。
うつ病との因果関係がどうなのかということは、私にはわかりません。
ただ、彼が彼自身の性格によって苦しんでいたこと、そして私と接する中で苦しんだことがあることは、たしかなことだと思います。
また私も、彼と接する中で苦しんだという事実もあります。
今は、彼と出会えたことを良かったと思うのです。
そういう経験ができたことを、ありがたいと思います。
そのときは上手く対処できなかったかもしれないけれど、彼は貴重なメッセージを私に贈ってくれました。
そのことを、心からありがたいと思うのです。
フィリピーナとの出会い
新聞奨学生としての大学生活も1年を過ぎると、かなり余裕が出てきました。
最初は、夜9時には寝ないと次の日がもたない感じでしたが、慣れると11時でも平気になりました。
日本育英会の奨学金ももらえたため、金銭的にも余裕ができました。
それで休みの前日などは、友達と飲みに行くこともありました。
そうは言っても、月に数回ですけどね。
あるとき、歌舞伎町にあるフィリピン人がいるというパブに行くことになりました。
店の名前はテンツーファイブ。今はもうありませんが、今でも名前を覚えています。
普通のカウンター形式のパブですが、接客してくれる女性がフィリピーナでした。
彼女たちがカタコトで話す日本語は、なぜだか可愛らしく感じます。
顔は日本人など東洋人と違い、エキゾチックな感じがします。
「あなたー、こんど いつくるのー?あいたいなー。」
そんなことを言われて、鼻の下を伸ばしたのです。
何回か通った頃、彼女たちが月末に帰ることを聞かされました。
おそらくビザの関係で、帰国してまた日本に戻ってくるのでしょうけど、その頃の私は、そんな仕組みも知らなかったのです。
帰国する前の日が最後だと言うので、私はまた、のこのこと出かけました。
いつもはお揃いの制服姿の彼女たちが、この日はそれぞれバラバラです。
そのブラウスなどが、どう見ても安っぽいのです。
この日は最後だから、私服なのだと説明してくれました。
おしゃれをしたい盛りの若い女の子たちなのに、自分が着る服をけちって、両親へ仕送りしたりしている。
出稼ぎに来たのですから、仕送りをするのは当然かもしれませんが、ここまでするのかと涙がこぼれそうになったのです。
性格が可愛らしくて、純朴な少女のようなフィリピーナに、私は魅了されたのでした。
それからしばらくして、彼女たちを助けるために、私にも何かできないかと考えるようになりました。
それで探して見つけたのが、フォスタープランと当時は呼んでいた慈善団体です。
月に5千円でフィリピン人の子の精神的な里親になるというもの。要するに貧しい暮らしをしている子どもの支援です。
月に5千円というお金は、当時の私にしては相当の額でした。
でも、月に1回、飲みに行くのを我慢すれば、出せない金額でもありません。
私は自分が楽しむことを犠牲にしても、支援したいと思いました。
歌舞伎町で出会ったフィリピーナたちを見て、「何かしなければ」と思った気持ちを、現実に示したかったのです。
それから支援する団体を変えたり、タイに来てはタイの子どもたちを支援したりと、子どもたちの支援活動を続けてきました。
考えてみればもう30年になります。
あのフィリピーナたちとの出会いがあったから、今の私の姿がある。
そう思うと、今どこで何をしているかもわからないあの娘たちに、ありがとうと言いたくなるのです。
最初は、夜9時には寝ないと次の日がもたない感じでしたが、慣れると11時でも平気になりました。
日本育英会の奨学金ももらえたため、金銭的にも余裕ができました。
それで休みの前日などは、友達と飲みに行くこともありました。
そうは言っても、月に数回ですけどね。
あるとき、歌舞伎町にあるフィリピン人がいるというパブに行くことになりました。
店の名前はテンツーファイブ。今はもうありませんが、今でも名前を覚えています。
普通のカウンター形式のパブですが、接客してくれる女性がフィリピーナでした。
彼女たちがカタコトで話す日本語は、なぜだか可愛らしく感じます。
顔は日本人など東洋人と違い、エキゾチックな感じがします。
「あなたー、こんど いつくるのー?あいたいなー。」
そんなことを言われて、鼻の下を伸ばしたのです。
何回か通った頃、彼女たちが月末に帰ることを聞かされました。
おそらくビザの関係で、帰国してまた日本に戻ってくるのでしょうけど、その頃の私は、そんな仕組みも知らなかったのです。
帰国する前の日が最後だと言うので、私はまた、のこのこと出かけました。
いつもはお揃いの制服姿の彼女たちが、この日はそれぞれバラバラです。
そのブラウスなどが、どう見ても安っぽいのです。
この日は最後だから、私服なのだと説明してくれました。
おしゃれをしたい盛りの若い女の子たちなのに、自分が着る服をけちって、両親へ仕送りしたりしている。
出稼ぎに来たのですから、仕送りをするのは当然かもしれませんが、ここまでするのかと涙がこぼれそうになったのです。
性格が可愛らしくて、純朴な少女のようなフィリピーナに、私は魅了されたのでした。
それからしばらくして、彼女たちを助けるために、私にも何かできないかと考えるようになりました。
それで探して見つけたのが、フォスタープランと当時は呼んでいた慈善団体です。
月に5千円でフィリピン人の子の精神的な里親になるというもの。要するに貧しい暮らしをしている子どもの支援です。
月に5千円というお金は、当時の私にしては相当の額でした。
でも、月に1回、飲みに行くのを我慢すれば、出せない金額でもありません。
私は自分が楽しむことを犠牲にしても、支援したいと思いました。
歌舞伎町で出会ったフィリピーナたちを見て、「何かしなければ」と思った気持ちを、現実に示したかったのです。
それから支援する団体を変えたり、タイに来てはタイの子どもたちを支援したりと、子どもたちの支援活動を続けてきました。
考えてみればもう30年になります。
あのフィリピーナたちとの出会いがあったから、今の私の姿がある。
そう思うと、今どこで何をしているかもわからないあの娘たちに、ありがとうと言いたくなるのです。
2012年06月05日
感謝してはいけない
感謝することが大事だとして、「ありがとう」という言葉をなるべく多く言うようにと、多くの人が言います。
私もこのブログの中で、機会を見つけて「ありがとう」と言うようにした、ということを書きました。
でも本当は、感謝なんてしなくて良いのです。
とても矛盾したことを言っていると思います。
でもそうなのです。感謝する必要性はありません。
いえ、むしろ、感謝しようとしてはいけない、とまで言い切りましょう。
わかりやすく言うと、何かを求めて感謝するという行為は、逆効果だということです。
「ありがとう」を5万回言ったら病気が治るなんて、どう理屈で考えてもおかしいのです。
引き寄せの法則が正しいとすれば、それから考えても間違った行いです。
潜在意識の働きに詳しい方なら、すでにおわかりでしょう。
「何かを求める」ということは、「その何かがない」ということを示しています。
「健康を求める」ということは、「今は健康ではない」ということを言っているのと同じです。
潜在意識には時空の概念がありませんから、将来とか過去の区別がつきません。
潜在意識が用いる言葉は、常に現在形なのです。
したがって、「今は健康ではない」と言っているのですから、「わかった。あなたは健康ではない。」と、潜在意識は答えるだけなのです。
だから「願いを叶えたければ、願ってはいけない。」と言われるのです。
それがすでに叶ったことだとして、信じることが大切なのだと。
そのために有効なのが感謝することだと言います。
「病気が治って良かった。ありがとう。」
それで、まだ病気の時にそう言うことで病気が治ると言うのですが、はたしてどうでしょうか?
おそらくそれくらいでは、効果は薄いと思います。
なぜなら、他人の目はごまかせても、自分はごまかせないからです。
病気を治すために感謝しようと考えたことを、ごまかすことはできないでしょう。
だからいくら「ありがとう」と言っても、本当にありがたい気持ちにはならないし、病気も治らないのです。
では、どうするのが良いか?
そこで私は、感謝する必要はない、と言ったのです。
いいですか、感謝しないのではなく、感謝する必要がない、ということです。
この違いが大きいと思います。
必要性に迫られて感謝をするのは、ちょうど親から「ありがとうと言いなさい」と命令されて感謝するのと同じです。
「ありがとう」と言っても、まったく気分が良くないでしょう。
躾のためにと言って無理やり子どもに言わせる親は多いですが、私はちょっと疑問に感じます。
子どもに無理やり言わせるより、親が子どもに心から「ありがとう」と何度も言えば良いのです。
話を元に戻しましょう。
私が推奨するのは、必要に迫られて無理やり感謝するのではなく、感謝する種を探す方法です。
感謝する種とは、幸せの種です。
幸せを感じたら、感謝するなと言われても、感謝したくて感謝したくてたまらなくなります。
「冗談じゃあない。感謝するなって言われても、そんなこと無理だよ。だってありあがたくて、ありがたくて、仕方ないんだから。」
そう感じた方が、嬉しくなると思いませんか?
そうなったら、願うまでもなく願いは叶います。
聖書にもあるように、神はあなたが願う前にあなたの願いを知り、そしてそれを叶えてくださるのです。
なにせ全知全能の神様ですから、そんなことくらい朝飯前ですよね。
そんなことすらできないのでは、神の名折れというものです。(と、神様にもプレッシャーを与えておきましょう。)
無理に感謝しないようにしましょう。
その代わり、感謝の種を、幸せの種を探すのです。
ただし、5万回「ありがとう」を言うことにも意味はあります。
それだけ言うと口癖になり、無意識に言葉が出てくるようになります。
そうなると今度は、行動が思考を規定し始めるのです。
これについては、また改めて書くことにしましょう。
私もこのブログの中で、機会を見つけて「ありがとう」と言うようにした、ということを書きました。
でも本当は、感謝なんてしなくて良いのです。
とても矛盾したことを言っていると思います。
でもそうなのです。感謝する必要性はありません。
いえ、むしろ、感謝しようとしてはいけない、とまで言い切りましょう。
わかりやすく言うと、何かを求めて感謝するという行為は、逆効果だということです。
「ありがとう」を5万回言ったら病気が治るなんて、どう理屈で考えてもおかしいのです。
引き寄せの法則が正しいとすれば、それから考えても間違った行いです。
潜在意識の働きに詳しい方なら、すでにおわかりでしょう。
「何かを求める」ということは、「その何かがない」ということを示しています。
「健康を求める」ということは、「今は健康ではない」ということを言っているのと同じです。
潜在意識には時空の概念がありませんから、将来とか過去の区別がつきません。
潜在意識が用いる言葉は、常に現在形なのです。
したがって、「今は健康ではない」と言っているのですから、「わかった。あなたは健康ではない。」と、潜在意識は答えるだけなのです。
だから「願いを叶えたければ、願ってはいけない。」と言われるのです。
それがすでに叶ったことだとして、信じることが大切なのだと。
そのために有効なのが感謝することだと言います。
「病気が治って良かった。ありがとう。」
それで、まだ病気の時にそう言うことで病気が治ると言うのですが、はたしてどうでしょうか?
おそらくそれくらいでは、効果は薄いと思います。
なぜなら、他人の目はごまかせても、自分はごまかせないからです。
病気を治すために感謝しようと考えたことを、ごまかすことはできないでしょう。
だからいくら「ありがとう」と言っても、本当にありがたい気持ちにはならないし、病気も治らないのです。
では、どうするのが良いか?
そこで私は、感謝する必要はない、と言ったのです。
いいですか、感謝しないのではなく、感謝する必要がない、ということです。
この違いが大きいと思います。
必要性に迫られて感謝をするのは、ちょうど親から「ありがとうと言いなさい」と命令されて感謝するのと同じです。
「ありがとう」と言っても、まったく気分が良くないでしょう。
躾のためにと言って無理やり子どもに言わせる親は多いですが、私はちょっと疑問に感じます。
子どもに無理やり言わせるより、親が子どもに心から「ありがとう」と何度も言えば良いのです。
話を元に戻しましょう。
私が推奨するのは、必要に迫られて無理やり感謝するのではなく、感謝する種を探す方法です。
感謝する種とは、幸せの種です。
幸せを感じたら、感謝するなと言われても、感謝したくて感謝したくてたまらなくなります。
「冗談じゃあない。感謝するなって言われても、そんなこと無理だよ。だってありあがたくて、ありがたくて、仕方ないんだから。」
そう感じた方が、嬉しくなると思いませんか?
そうなったら、願うまでもなく願いは叶います。
聖書にもあるように、神はあなたが願う前にあなたの願いを知り、そしてそれを叶えてくださるのです。
なにせ全知全能の神様ですから、そんなことくらい朝飯前ですよね。
そんなことすらできないのでは、神の名折れというものです。(と、神様にもプレッシャーを与えておきましょう。)
無理に感謝しないようにしましょう。
その代わり、感謝の種を、幸せの種を探すのです。
ただし、5万回「ありがとう」を言うことにも意味はあります。
それだけ言うと口癖になり、無意識に言葉が出てくるようになります。
そうなると今度は、行動が思考を規定し始めるのです。
これについては、また改めて書くことにしましょう。
信じることと引き寄せ
「引き寄せの法則」とか「ザ・シークレット」などが流行って、だんだんと潜在意識に対する認知度が高まってきた気がします。
もう今や、ありとあらゆる人が、思ったことが実現するのだと言ってますよね。
私はジョセフ・マーフィー氏の「眠りながら巨富を得る」とか、ナポレオン・ヒル氏の「思考は現実化する」などを読んで、潜在意識の働きを勉強しました。
それらで言われていることは、「信じたことは実現する」という、実にシンプルなものです。
これを聞いて、どう思われますか?
「なんだ、昔から言われていることじゃないですか。目新しくもない。」
そう思われませんでしたか?
そう、すでに2千年以上昔に、イエス・キリストが言っています。
「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山にむかって『ここからあそこへ移れ』と言えば、移るであろう。」
これなどまさに、信じれば現実化するということですよね。
だから、私が同じことを言ったとしても、何も驚くようなことではないのです。
昔から言われてきたこと。大勢の人が言い伝えてきたこと。
ただ、多くの人が信じなかったことなのです。
ではなぜ、多くの人は信じなかったのでしょうか?
それは、「信じる」という言葉の意味を取り違えたからです。
多くの人は、「期待する」とか「願う」という意味で「信じる」という言葉を使います。
「私は彼のことを信じていたのに、彼が裏切ったのよ。」
浮気された女性のセリフですが、これなどまさにそうでしょう。
この女性は、正しい意味では彼を信じていないのです。ただ単に期待し、願っただけなのです。
では、正しい意味での「信じる」とは、どういうことでしょうか?
それは「知る」ということです。あるいは「受け容れる」ということです。
もし女性が、彼は浮気しないと知っていたら、心配などするでしょうか?
するはずがありません。だって、浮気しないと知っているのですから。
「それでも彼は浮気するかもしれないじゃないですか?だって、人はそれぞれ自由なんでしょ?」
おっ、なかなか鋭いところを突きますねえ。まさにその通りです。
だから「受け容れる」のです。
彼を信じるというのは、彼の特定の行動を期待することではありません。
彼の本質が素晴らしいものであることを受け容れることです。
浮気などの現象は、彼の素晴らしい本質に比べたらささいなことだと感じるくらい、彼のすべてを受け容れるのです。
現象は、波のように起こります。
たとえば自分の経済的な豊かさを信じたとしても、すぐに豊かになれるわけではありません。
豊かになるための準備をさせてくれるのです。
その過程で、貧しさを体験することが必要になるかもしれません。
だとしたら、豊かさを信じることによって、貧しさという現実を体験することになるのです。
そのとき、たいていの人は「やっぱりダメじゃないか」と言って、信じることをやめてしまいます。
いえ、正確に言えば、最初から信じていいないのです。
信じるとは受け容れること、知るということですから、現れる現象によって一喜一憂することはないはずですから。
「もしそれが信じることだとすると、凡人の私には無理だな。そんなに強くなれないし。」
そんな風に思われますか?
私も、そう思っていました。
でも、そうじゃないのです。強くなるための訓練など、これっぽっちも必要ないのです。
弱いなら弱いままで、ほんのちょっと考え方を変えるだけで、誰でも信じる気持ちが持てるのです。
なぜなら、人とはそういうものだから。
これについては、また改めて書くことにします。
もう今や、ありとあらゆる人が、思ったことが実現するのだと言ってますよね。
私はジョセフ・マーフィー氏の「眠りながら巨富を得る」とか、ナポレオン・ヒル氏の「思考は現実化する」などを読んで、潜在意識の働きを勉強しました。
それらで言われていることは、「信じたことは実現する」という、実にシンプルなものです。
これを聞いて、どう思われますか?
「なんだ、昔から言われていることじゃないですか。目新しくもない。」
そう思われませんでしたか?
そう、すでに2千年以上昔に、イエス・キリストが言っています。
「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山にむかって『ここからあそこへ移れ』と言えば、移るであろう。」
これなどまさに、信じれば現実化するということですよね。
だから、私が同じことを言ったとしても、何も驚くようなことではないのです。
昔から言われてきたこと。大勢の人が言い伝えてきたこと。
ただ、多くの人が信じなかったことなのです。
ではなぜ、多くの人は信じなかったのでしょうか?
それは、「信じる」という言葉の意味を取り違えたからです。
多くの人は、「期待する」とか「願う」という意味で「信じる」という言葉を使います。
「私は彼のことを信じていたのに、彼が裏切ったのよ。」
浮気された女性のセリフですが、これなどまさにそうでしょう。
この女性は、正しい意味では彼を信じていないのです。ただ単に期待し、願っただけなのです。
では、正しい意味での「信じる」とは、どういうことでしょうか?
それは「知る」ということです。あるいは「受け容れる」ということです。
もし女性が、彼は浮気しないと知っていたら、心配などするでしょうか?
するはずがありません。だって、浮気しないと知っているのですから。
「それでも彼は浮気するかもしれないじゃないですか?だって、人はそれぞれ自由なんでしょ?」
おっ、なかなか鋭いところを突きますねえ。まさにその通りです。
だから「受け容れる」のです。
彼を信じるというのは、彼の特定の行動を期待することではありません。
彼の本質が素晴らしいものであることを受け容れることです。
浮気などの現象は、彼の素晴らしい本質に比べたらささいなことだと感じるくらい、彼のすべてを受け容れるのです。
現象は、波のように起こります。
たとえば自分の経済的な豊かさを信じたとしても、すぐに豊かになれるわけではありません。
豊かになるための準備をさせてくれるのです。
その過程で、貧しさを体験することが必要になるかもしれません。
だとしたら、豊かさを信じることによって、貧しさという現実を体験することになるのです。
そのとき、たいていの人は「やっぱりダメじゃないか」と言って、信じることをやめてしまいます。
いえ、正確に言えば、最初から信じていいないのです。
信じるとは受け容れること、知るということですから、現れる現象によって一喜一憂することはないはずですから。
「もしそれが信じることだとすると、凡人の私には無理だな。そんなに強くなれないし。」
そんな風に思われますか?
私も、そう思っていました。
でも、そうじゃないのです。強くなるための訓練など、これっぽっちも必要ないのです。
弱いなら弱いままで、ほんのちょっと考え方を変えるだけで、誰でも信じる気持ちが持てるのです。
なぜなら、人とはそういうものだから。
これについては、また改めて書くことにします。
2012年06月06日
人の口に戸は立てられぬ
昔の人は、本当に良いことを言いますね。
「人の口に戸は立てられぬ」
口をふさいで黙らせることはできないということを、こんなしゃれた表現で言うなんて、見事だと思います。
「人の噂も七十五日」ということわざもあります。
噂なんてものは、聞き流しておけば2ヶ月半で収束するというものです。
だから反論したりせず、無視を決め込むに限るというわけです。
私が尊敬する歴史上の人物に、勝海舟という人がいます。
この人は幕府に直接仕える旗本の下級武士だったのですが、相当に頭は良かったようです。
そういう身分にありながら、常に幕府のこと、日本のことを考えていたのです。
NHKの大河ドラマ「篤姫」をご覧になられましたか?
お篤を演じる宮崎あおいさん、きれいでしたね。
いや、そういう話題じゃなくて、多くの人がこの危機を何とかしなければ日本が滅びると考え、身を捨てて行動した時代だったのです。
そして勝海舟もまた、その中の一人だったのだと思います。
明治維新後の勝海舟は、請われて新政府(明治政府)に出仕することになりました。
幕臣としては、新政府に協力することは、ある意味で恥ずべきことだったと思います。
それでも自分の才能を役立てることこそ日本のためと思い、勝はあえて泥水を飲んだのです。
それに対して福沢諭吉が、「痩我慢の説」の中で勝を批判します。
武士は二君に仕えずというのに、忠義心のかけらもないと言うわけです。
もちろん福沢の言い分にも道理があります。
それに対して勝は、公に反論することはありませんでした。
勝が身近な人にもらしたのは、次の言葉です。
「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に与らず、我に関せずと存候。」
行蔵(こうぞう)とは、出処進退のこと。毀誉(きよ)とは、ほめたりけなしたりすること。
つまり、噂や批判(賞賛も)は、他人が勝手にやることで、自分には何の関係もないことだと言うのです。
自分がどう考え、何をするかは、常に自分自身が決めることだから。
この話を知った時、私は孟子にあった言葉を思い出しました。
「自ら反(かえ)りみて縮(なお)くんば、千万人と雖(いえど)も吾往かん。」
意味は、自分の心によくよく問うて進むべきと思ったなら、仮に千万人という大勢の人が私に反対し、批判し、抵抗したとしても私は進もう、という力強い決意です。
他にも、佐藤一斎の言志録にも、良い言葉がありますね。
「当今の毀誉(きよ)は懼(おそ)るるに足らず。後世の毀誉は懼る可(べ)し。一身の得喪(とくそう)は慮(おもんばか)るに足らず。子孫の得喪は慮る可し。」
だいたいわかりますよね。
今の評判は気にするな。後々の評判を気にかけなさい。自分自身の損得は考慮するな。子孫の損得を考慮しなさい。という感じになります。
つまり今、自分がどう思われるかとか、得するかどうかなど気にせず、本当に良いことなのかどうか、大勢の人にとって得なことなのかどうかを考えろということです。
昔から、言われてきたことです。
他人からどう思われるかなど、まったく気にする必要はありません。
だから「空気を読め!」という人には、「行蔵は我に存す」と言ってあげましょう。(冗談ですよ)
「しあわせは いつも自分の こころがきめる」
(相田みつを氏の言葉)
他人に決めさせてはいけません。自分が決めるのです。
「人の口に戸は立てられぬ」
口をふさいで黙らせることはできないということを、こんなしゃれた表現で言うなんて、見事だと思います。
「人の噂も七十五日」ということわざもあります。
噂なんてものは、聞き流しておけば2ヶ月半で収束するというものです。
だから反論したりせず、無視を決め込むに限るというわけです。
私が尊敬する歴史上の人物に、勝海舟という人がいます。
この人は幕府に直接仕える旗本の下級武士だったのですが、相当に頭は良かったようです。
そういう身分にありながら、常に幕府のこと、日本のことを考えていたのです。
NHKの大河ドラマ「篤姫」をご覧になられましたか?
お篤を演じる宮崎あおいさん、きれいでしたね。
いや、そういう話題じゃなくて、多くの人がこの危機を何とかしなければ日本が滅びると考え、身を捨てて行動した時代だったのです。
そして勝海舟もまた、その中の一人だったのだと思います。
明治維新後の勝海舟は、請われて新政府(明治政府)に出仕することになりました。
幕臣としては、新政府に協力することは、ある意味で恥ずべきことだったと思います。
それでも自分の才能を役立てることこそ日本のためと思い、勝はあえて泥水を飲んだのです。
それに対して福沢諭吉が、「痩我慢の説」の中で勝を批判します。
武士は二君に仕えずというのに、忠義心のかけらもないと言うわけです。
もちろん福沢の言い分にも道理があります。
それに対して勝は、公に反論することはありませんでした。
勝が身近な人にもらしたのは、次の言葉です。
「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に与らず、我に関せずと存候。」
行蔵(こうぞう)とは、出処進退のこと。毀誉(きよ)とは、ほめたりけなしたりすること。
つまり、噂や批判(賞賛も)は、他人が勝手にやることで、自分には何の関係もないことだと言うのです。
自分がどう考え、何をするかは、常に自分自身が決めることだから。
この話を知った時、私は孟子にあった言葉を思い出しました。
「自ら反(かえ)りみて縮(なお)くんば、千万人と雖(いえど)も吾往かん。」
意味は、自分の心によくよく問うて進むべきと思ったなら、仮に千万人という大勢の人が私に反対し、批判し、抵抗したとしても私は進もう、という力強い決意です。
他にも、佐藤一斎の言志録にも、良い言葉がありますね。
「当今の毀誉(きよ)は懼(おそ)るるに足らず。後世の毀誉は懼る可(べ)し。一身の得喪(とくそう)は慮(おもんばか)るに足らず。子孫の得喪は慮る可し。」
だいたいわかりますよね。
今の評判は気にするな。後々の評判を気にかけなさい。自分自身の損得は考慮するな。子孫の損得を考慮しなさい。という感じになります。
つまり今、自分がどう思われるかとか、得するかどうかなど気にせず、本当に良いことなのかどうか、大勢の人にとって得なことなのかどうかを考えろということです。
昔から、言われてきたことです。
他人からどう思われるかなど、まったく気にする必要はありません。
だから「空気を読め!」という人には、「行蔵は我に存す」と言ってあげましょう。(冗談ですよ)
「しあわせは いつも自分の こころがきめる」
(相田みつを氏の言葉)
他人に決めさせてはいけません。自分が決めるのです。
●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。