2012年05月28日

厳しい父親

私の父に対する印象は、「厳しい」以外にはありませんでした。

物心ついた頃から、父親は厳しくて怖い存在だったのです。


母親に対してなら相談もできるし、愚痴を言うこともできました。

でも父親に対しては、そんなことはできません。



小学校の中学年くらいのことだったと思います。

私は切手を集めることを趣味にしていましたが、小遣いでは、なかなか高い切手が買えません。

国宝シリーズの何かが欲しくて、母親にねだりました。

すると母は、「お父ちゃんに言うてみんさい。」と言って、父親と話すよう促すのです。

私は絶対に無理だと思ったし、そんなことをお願いして怒られるのも嫌だと思っていました。

それでも母は、「お前にお願いされたら、お父ちゃんも喜ぶから。」と言うのです。


母の言葉は信じられませんでしたが、切手が欲しいという気持ちが勝りました。

それで意を決して、父親に相談したのです。

ドキドキしながら父親の反応を待っていると、父はこう言いました。

「そうか、どれが欲しいんだ?」

私は、とても驚きました。怒られるどころか、まさか買ってくれるなんて。



年老いて、孫と遊ぶときの父を見ていると、本当に可愛くて仕方がないという感じで、上手に喜ばせて遊んでいます。

きっと父は私を、可愛がりたかったのだと思います。

でも何らかの事情で、厳しく接することしかできなかった。

今になって、そんな風に思うのです。


20歳を過ぎたころ、どんなシチュエーションだったか忘れましたが、父が私に言いました。

「喧嘩をしたら、もうお前の方が強いだろう?」

それでも私は、まだ父が怖かったのです。気迫で負けていたから、ケンカしようという気持ちにもなれません。

負け犬という言葉がありますが、まさにそういう感じです。

戦う前に、すでに負けているのです。



父親との間のギクシャクした関係は、まだ完全に解消されたとは言えません。

でも今はメールでやりとりする関係で、おだやかに平常心で要件を伝えられます。

心の会話ができないという点で、まだ少し、わだかまりが残っているのだと思います。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 16:42 | Comment(0) | └ 家族のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

チック症でした

チック症というのは、無意識にピクピクと素早い動きをしてしまうもので、幼少期に発症しやすく、原因はストレスなのだそうです。

そんな名前も知らなかったのですが、私は明らかにチック症でした。


私の場合、左のホホがつったようにピクつくのです。

どんな場合かというと、目上の人に対して、異なる意見を言おうとした時です。


どんなときで、何を言おうとした時か忘れましたが、小学校のときの先生に対し、その先生とは違う意見を言おうとした瞬間、チック現象が起こりました。

自分でも、なぜチックになるのかわかりません。

別に先生に反論しようとしたわけでもなく、ただ「私はこう思います」ということを言おうとしただけなのに。

しかも、涙までこぼれそうになって、これには参りました。


それが、最初にチック症であることを意識した出来事です。

それ以来、何度か起きたと思いますが、あまり記憶していません。

そしてそのうち、そういう症状は出なくなりました。


ただ、高校くらいまでは、同じような状況で極度に緊張していました。

チックが起こりそうになり、ホホに手を当てたことは何度もありました。



今になって思うのは、ずっと不安が心を支配していたのです。

その不安から身を守るために、自分らしさを抑えてきたのです。

だから自分らしい表現をしようとすると、不安が「そんなことをするな!」と言って、チックを引き起こしたのだと思います。


自分らしく生きられないということは、とてもつらいことです。

あなたは無意識に、自分を抑えこんでいませんか?

自分に対してイラつくとき、罪悪感を感じて自分の存在を消したいと思う時、それは自分らしく生きようとする自分を否定しているのです。

posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:59 | Comment(0) | ├ 私の生い立ち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月29日

鏡のワークの詳細はこちら

心を癒すための「鏡のワーク」ですが、こちらのブログではあまり詳細に説明していませんでした。

いずれ詳細に書こうかと思っていましたが、すでに書いてある私のブログがあるので、そちらを紹介することにします。


鏡のワークの詳細を説明する記事


これは、マリッジブルー解消講座というブログに掲載したものです。

マリッジブルーで苦しんでおられる方に、この鏡のワークをやっていただければと思って書きました。


でも鏡のワークは、マリッジブルー専用というわけではありません。

あらゆる不安や悩みに効果的です。

と言うのも、これは自己肯定感を強めるための手法だからです。

自分で自分を受け入れて認めるだけで、自己存在の安定感が増すのです。


人は、ともすれば他人からの承認を得たいと考えます。

他人から愛されたいと思うのも、同じことです。

でも、そういう他人に頼った生き方は、人生を不安定にさせてしまいます。

他人や環境に翻弄され、どこへ行き着くかもわからない人生になるのです。

そういう生き方をやめようと思われた時、自分で自分を承認する(=愛する)ことの重要性がわかると思います。


まあ何はともあれ、試しにやってみてください。お代は1円もかかりませんから。

やって気持ち良ければ続ければ良いし、何とも感じなければやめれば良いだけ。それだけのことですよ。

posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 11:51 | └ 鏡のワーク | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

傷つけたのではと心配

自分が傷つくことを怖れる人は多いですが、逆に他人を傷つけたのではないかと異様に心配する人もいます。

「そんなこと、普通は考えませんよ。」

そう言ってあげても、万が一を考えなければと思うようです。


こういう人は、実は傷つきやすい人なのです。

非常に怒りっぽかったり、すぐに切れたりすることもあります。

いずれも、心の不安に耐えられなくなって、魂が悲鳴をあげているのです。


そういう人がどうして他人を異常に気遣うかというと、他人から良く思われたいからです。

他人から悪く言われることが、嫌で嫌でたまらないからです。



そういう人の気持ちはよくわかります。私もそうでしたから。

でも、そういう人に対して言いたいことがあります。


「自惚れるのも、たいがいにしなさい!」


大いなる勘違いをしているのですよ。

自分には他人を傷つける力があるとでも思っているのですか?


他人を変えようとしても、変えることはできません。

と言うことは、同じ理屈で他人を傷つけるなんてこともできないのです。



現象だけ見ると、自分の言動で他人が傷ついたように見えることもあるでしょう。

じゃあいつでも同じように、誰に対しても傷つけることができると思いますか?

もしそう思うのだとすれば、それは思い上がりもいいところです。

そんな力なんて、どこにもありませんよ。

だから「自惚れるな」と言ったのです。


もちろん、なるべく相手が傷つかないように心配りをしようという気持ちは大切です。

それは、自分が優しい人間になろうという気持ちですから、自分を変えようとする行為です。

でも、その結果を異常に心配するのは、相手を支配しようとする行為です。

相手がどうするかは、相手に任せておけば良いのです。


意図せず、傷つけてしまう(=相手が傷つく)ことはあるでしょう。

そのときは率直に「傷つけるつもりはなかったのですよ。ごめんなさい。」と詫びれば良いのです。

詫びても、許さない人もいるでしょう。

それも、その人の自由です。

許すか許さないかということは、相手が決めることです。

その自由を奪うようなことには関わらないことです。


自分には相手を変える力はない。変えられるのは自分だけだ。

そう見ることが、謙虚な態度というものだと思います。

posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:32 | Comment(0) | 幸せ実践塾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

おじいちゃんの為の読経

私の祖父は、岡山県神代町の出身だそうです。

なんでもその地域は、赤木という姓がとても多いのだとか。

赤木という姓は、平家の落武者が用いたという説もありますが、一方で戦国大名の赤松氏の系譜という説もあります。

我が家がそういう血筋かどうか知りませんが、祖父が望まれなかった子であることは確かなようです。

と言うのは、祖父が戸籍に登録されたのは、実際よりも2年も遅かったと聞いていたからです。

末っ子で、年の離れた兄弟もいることから、ひょっとしたら長兄が誰かに身籠らせた子ではないかと。

これはあくまでも想像ですけどね。

祖父は開拓民として満州へ渡りましたが、帰国してからも岡山へは戻らず、祖母の実家に土地を借りて住むことになりました。

祖父方の親戚とは全く付き合いがなかったということからも、祖父が家族に望まれていなかったのではと思われたのです。



我が家は共働きだったので、私は祖父や祖母に可愛がられて育ちました。

いえ、私の記憶はそうなのです。でも実際は違う面もあったようです。

後になって母が言うには、祖父からよく文句を言われたそうです。

私のことを「もうあの子の面倒はようみん(=みられない)。」とまで言われ、怒られたとか。

友達と一緒に遊んだ時、近所の田んぼに積んであったわらを、崩してしまったことが原因だそうです。

母は、私が率先してやったのではなく、友達に誘われて仕方なくやったのだろうと思ったそうです。

たしかに内向的な私が、そんなわんぱくをするはずがありませんから。


それでも私は、祖父が好きでした。

朝刊に入っていたオートバイのチラシを祖父に見せ、ねだったことがありました。

祖父は私に、「わしがこうちゃる(買ってやる)けえ、どれがええんか?」と聞きました。

私は青いバイクが欲しくて、それをお願いしました。

でも、ちょっと心配になったのです。もし私が大きくなる前に祖父が死んだらどうなるのかと。

無邪気にもそのことを尋ねると、祖父は笑って答えてくれました。

「そんときゃあ、墓まで取りに来いや。お金を出しといちゃるけえ。」



私が小学校6年生のとき、祖父は患って寝込んでしまいました。

病院ヘ見舞いに行った時も、話しかけても反応がありません。

私は祖父の手を握り、誓いました。

「おじいちゃん、ぼく、今度の地区民体育大会でロードレースにでるけー。がんばって10位以内に入るけー、元気になってよ。」

太っていて走ることが得意ではありませんでしたが、それくらいのことをしないと、神様は祖父を治してくれないと考えたのです。


それから私は、毎朝、仏壇に向かって読経するようになりました。

なるべく短いお経をと探して、見つけたのが般若心経です。

「ぶっせつまーかーはんにゃーはーらーみったーしんぎょうー。かんじーざいぼーさつぎょうじん...」

意味もわからず、ただただ祖父の回復を祈って読経したのでした。



たしか11月3日の文化の日が、地区民体育大会でした。

約2kmの距離を走るロードレースで、私は初めて10位に入りました。


しかし祖父は、11月8日に亡くなりました。

授業中に訃報を聞き、私はすぐに家に帰りました。

居間に入ると、鼻に綿を詰められた祖父が、穏やかな表情で横たわっていました。


通夜や葬式の時、お坊さんの読経に合わせて、私も般若心経を唱えました。

あとで親戚のおばさんから言われました。

「あっちゃん、お経を読めるんかね。すごいねえ。」

いくらほめられても、大好きだったおじいちゃんはかえってきません。

もうちょっと頑張ってロードレースで上位に入るように誓えば、神様は望みを叶えてくれたのかもしれない。

10位という、ちょっと頑張ればできるくらいで妥協した自分を、私は責めたのでした。



広島大学に入ってから、私は自動二輪の中型免許を取りました。

すると先輩が、乗っていないバイクがあるから1万円でいいよと、譲ってくれることになりました。

貧乏学生ですから、中古のバイクでも普通には買えなかったのです。

数日後、先輩が乗ってきたバイクを見て、私は驚きました。

ホンダCB350。それは祖父が約束してくれた青いバイクだったのです。


おじいちゃんは姿を変えただけで、ずっと私のそばに居てくれた。

私はそう思うのです。

posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 17:18 | Comment(2) | └ 家族のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月30日

フラれてばかりの人生

私は内向的で、女性に交際を申し込むような勇気がありませんでした。

本当に、男として生まれたことを恨みましたよ。

だって女性は、男性から声が掛かるのを待っていれば良いのですから。

最近は事情が違うでしょうけど、思春期のころの私はそう思っていました。



最初の失恋は、中学3年生のときです。

小学校に上がる前から好きだった初恋の女性に告白し、みごとにフラれました

約10年間、大好きだったのです。

ずっとその子のことだけを思ってきたのです。

しかし中学を卒業すると離れ離れになる。それで意を決して告白したというわけです。


と言っても、交換告白ですけどね。友達と、それぞれが好きな女性に、代わりに告ってあげるという方法。

こんなことをしていたら、フラれるのも当然ですね。

モテない男の典型です。



それからすぐ、懲りずに他の同級生を好きになり、これもフラれました。

おそらく初恋の人のことを忘れるために、無理やり誰かを好きになりたかったのでしょう。



次は、「辛い失恋もありました」 で書いた大失恋です。

これは本当に辛かった。

この大失恋があったから、のちの悲劇に耐えられたと、ある意味で感謝しています。



それからしばらくして、東京の短大で軟式野球をしている女性を好きになりました。

しばらく交際して順調に行っていると思ったら、突然またフラれました。

二股かけられていたようで、本命に絞ることにしたというもの。

「ふざけるな!」でしょ?

しかも、私が遠慮して「恋人候補にしてよ」と言って申し込んだことの揚げ足を取って、「まだ候補なだけで付き合っていないから」などと言うのです。

温厚な私も怒りましたよ。「キスまでしておいて、それで付き合っていないとでも言うのか!?」

まあ、怒ったところで事態が変わるわけでもありませんけどね。


なんて女運が悪いのかと思いました。

それからも、まだフラれ続けます。

デートはしても、単に友達としか思ってもらえない。

アッシーくんとかミツグくんという言葉が流行ったころ、意図せず、それに近い都合の良い存在だったようです。



就職してから好きになった女性は、後輩からも後押しされたのに、あえなく撃沈しました。


挙句はフィリピンパブに通うようになり、フィリピーナを好きになったのですが、それもフラれました。

1人目は岡山で出会った娘で、今思えばみごとにハマってしまってましたね。

相手にはその気がまったくないのに、完全にミツグくんをやってました。

彼女がフィリピンに帰った時に合わせて、わざわざマニラまで行きましたよ。

彼女が曖昧な返事しかしないから、行けばなんとかなると思って。

ほんと、バッカですねー。

結局、会うこともできずに帰ってきたという、まったく愚かな男です。


2人目は、東京で仕事をしていたとき、大塚のフィリピンパブで出会った娘です。

この娘も、何度もデートをしたし、同伴出勤にも付き合いました。

タイに来る直前にプロポーズしたのですが、やはりダメでしたね。

何度も同じようなことを繰り返していたのです。



タイに来てからも、タイ人の女性からフラれています。

カラオケ(日本で言うならキャバクラ)で知り合った女性で、これもまた相当つぎ込みました。

仕事を辞めさせて、月々の生活費をあげて、さらに自動車の頭金や、小売店を開く準備資金も。

それなのに煮え切らない彼女の態度に、私は業を煮やしてしまいました。


「結婚する気がないなら、もう恋人関係を解消しよう。」

生活費を渡すようになって1年が過ぎたころ、私はそう言って関係を清算しようとしました。

すると、「結婚する」と言うのです。


彼女のお母さんにも会い、お坊さんに結構式の日まで決めてもらいました。

つまり正式に婚約し、約1年後の結婚を誓い合ったのです。私が45歳くらいのときです。

これでやっと結婚できると思いましたね。自分が結婚したいということより、両親を、特に母親を喜ばせてあげられると思いました。

私の家族にも報告し、日本で披露宴を開く準備も進めました。


結婚式まであと3ヶ月という3月の月末、彼女が「今月の生活費を早めに欲しい。」と言ってきました。

まあ1週間くらい早くてもあげられない金額ではないので、私は彼女に払いました。

その数日後、彼女から1通のSMS(ショート・メッセージ)が携帯に届きました。

「あなたとは結婚できません。もう、会えません。」


それまで何度も、彼女の気持ちを疑ってきました。

そのたびに彼女は、そんなことはないと否定してきたのです。

信じられないと思いながら、それでも彼女を信じてあげない自分が悪いように思えて、私は待ち続けたのです。

それなのに、その結果がこのSMSだとは...。

ショックだし、情けなくて、悔しくて、どうしようもな気持ちでした。


電話を掛けて、会って話をしようとしましたが、ダメでした。

腹立ちまぎれに、「やっぱりお金が目的だったのだろう!?」などとひどいSMSを送ったりしました。

どうにもならないと思いながら、衝動的にそうしてしまったのです。


翌日私は、親にメールを出しました。披露宴の準備を中止してほしいと。

それから彼女にSMSを出しました。ひどいことを言って、申し訳なかったと。

もう彼女の気持ちは変えられないのかも。ここは私が冷静にならなければ、と思ったのです。


それから何度かSMSでやり取りをしました。

彼女が言うには、私が彼女の家の改築費用の一部を負担しなかったことで、お父さんが結婚に反対しているから、結婚できないとのことでした。

でも、どう考えてもそれはおかしいのです。



1週間か2週間かしたころ、私は、もう彼女とよりが戻ることはないと確信しました。

そして彼女に提案しました。

「もう1ヶ月分の生活費を出してあげようか?」

彼女は答えました。

「あなたの好きなように。」

私は彼女の銀行口座に、1ヶ月分の生活費を振り込んだのです。


友達からは、バカだと言われました。盗人に追い銭だと。

でも私は、それで私自身の気持ちにケリをつけたかったのです。

私は間違いなく彼女を愛したのだと。

私にとって最後の結婚のチャンスと思って、約3年を交際期間に費やした恋でした。

結婚目前までこぎつけながら終わることを、私自身が受け入れる儀式のようなもの。

それが、彼女に生活費をあげる行為だったのです。



フラれてばかりの人生だったと思います。

そして最後が、婚約破棄されて結婚が破談に。

親や姉妹にも迷惑をかけました。親戚も心配してくれたでしょう。

それでも唯一助かったと思ったのは、すでにつらい失恋を経験していたことです。

あれがなかったら、つらさと恥ずかしさとで、何をしたかわからない。

そうせずに済んだことを、ありがたいことだと思いました。

posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 11:50 | Comment(2) | ├ 私の生い立ち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

50歳の私が結婚できた理由

「フラれてばかりの人生」 を読んでいただければわかるように、私は本当にモテない男です。

一時的にうまく行っても、最終的にはフラれて終わるのです。

そんな私でも、昨年(2011年)11月に結婚できました。

50歳にしてやっと結婚できた理由を、私なりに整理してみましょう。



相手は22歳年下のかわいらしいタイ人女性です。

「おまえ、犯罪だよ。」「田舎に連れて帰って、一緒に街を歩けるのか!?」

などと友達からは、手荒い祝福を受けました。

3人の親友は、それぞれとうの昔に結婚していますから。しかもそのうちの2人は再婚です。

私だけが昨年まで、未婚だったのです。



45歳ころに、私は悲劇的な破談を経験しました。

そのとき私は、相手の女性を恨む生き方ではなく、それでも愛する生き方を選択しました。

それが、私らしい生き方だと思ったからです。


そして、結婚することにこだわるのをやめました。

どうでも良いと思ったのです。

「結婚したくない」でもないし、「結婚したい」でもありません。

強いて言うなら、すべてを天に委ねる気持ちです。


破談から数ヶ月後のある日、以前から知り合いだった女性から、付き合ってほしいと交際を申し込まれました。

私は、すぐにOKしました。

どうでも良かったからです。

言葉にすると投げやりな感じですが、そうではありません。大したことではない、という感じです。


ただし、私は縛られないということを宣言しました。

お金もあげないし、私がやりたいことをやるからと。

結婚(交際)という果実を得たいがために、自分を偽ることをやめようと思ったのです。


後になって彼女が言うには、最初は冗談で交際を申し込んだのだそうです。

付き合っているうちに、だんだんと好きになったのだと。



約3年ほど交際したころ、私の帰省の時に、彼女も日本へ行きたいと言い出しました。

交際はしていますが、結婚の話はまだしていません。そんな状態で、実家に連れて行くことはできません。

それで彼女に、実家に一緒に行くなら、せめて正式に婚約しないと無理だと伝えたのです。

将来、結婚したければしても良いし、したくないならしないでもかまわない。それが私の気持ちでした。


しばらく考えて、彼女は結婚すると言ってきました。

約1年後の日程をお坊さんに占ってもらい、正式に婚約したのです。(※タイではそうやって、結婚の日取りを決めます。)


それでも私は、半分しか信じていませんでした。

なんと言っても、結婚式の3ヶ月前に破談になるという経験をしていますから。

ただ彼女を疑うという気持ちではなく、どうなっても良いと思うようにしたのです。

このまま結婚するならそれで良いし、仮に彼女が私を裏切ったとしても、それもまた良いと受け入れようと思いました。


良いとか悪いとか判断せず、彼女をそのまま受け入れようと思ったのです。

考えてみれば、愛するとはそういうことなのですよね。

私は、彼女を愛そうと決めたのです。



こうして私と彼女は結婚しました。

歳の差もあるし、文化も育った環境もまったく違う2人です。

タイ語で会話をしますが、私はそれほど流暢にはしゃべれないので、伝わらないことも多いです。

でもそれを、良いことだと思っています。


違いがあるのが当然だから、許せるのです。

言葉で正確に伝えられないから、受け入れるしかないのです。

そして、そういうことを教えてくれる彼女は、私にふさわしいパートナーだと思います。

彼女との出会いによって、私は本当の意味で愛することを知った気がします。



「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」

私の好きなことわざです。

結果を気にせず、力を抜いて、飛び込んでみること。

水の感触を味わい、ただその中に居ること。

そうすれば、浮こうと思わなくても浮いてくるのだと。


私でもできたのですから、誰でもできると思います。

愛されることを求めるのではなく、ただ愛することを望む。

それが、50歳で結婚できた理由だと思っています。

posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 15:01 | Comment(2) | ├ 私の生い立ち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

50歳のオヤジが22歳年下の美女をゲットする方法

今日のブログに、私の恋バナを連続して書きました。

こんなことを大っぴらに話すことでもないと思いますが、自己開示すると決めた以上、仕方ありません。

非常に照れくさいのですが、時間が許せば読んでみてください。

「フラれてばかりの人生」

「50歳の私が結婚できた理由」


何も自虐的な趣味があるとか、Mの気があるわけではありませんよ。

そしてもちろん、自慢したいわけでもありません。

私の実例の中に、真実を見てほしかったのです。



異性からの愛を必要としていたとき、私は何度も恋に失敗しました。

「引き寄せの法則」とか「潜在意識の働き」に興味がある方なら、その理由がおわかりでしょう。

「ほしい」と強く思うということは、「それがない」と認めていることなのです。

「それがない」と認めたのですから、それが現実化しただけなのです。

わかりますよね?

「愛されたい」という強い思いは、「愛されていない」という現実を追認していることです。

「でもそう思うのは、仕方ないでしょう。現実にないからほしいのだから。」

そう思われる方は、「引き寄せの法則」とか「潜在意識の働き」をもう少し勉強されることをお勧めします。


潜在意識には時空の概念がありません。

「主語がない」とよく言いますが、空間的概念がないのですから、自他の区別がないのは当然です。


それに加えて、時間の概念もないので、過去も未来も同じことなのです。

だから潜在意識を上手に利用するには、欲しいものは「すでにある」と考えなくてはならないのです。


ただそういうテクニック的なことは、応用するのがなかなか難しいです。

私などもマーフィーの「眠りながら巨富を得る」という本などをよく読んだのに、なかなか夢が実現しませんから。



でも、そういう理屈を考えずに簡単に利用する方法があります。

私の恋バナでは、私が意図せずにその方法を使ったことがわかります。

それは、「愛する」という方法です。

簡単でしょ?

ただ「愛する」ことだけを考えるのです。


最初は、愛されたかった。ただ愛を手に入れたかったのです。

でもそれが叶わないことを悟った時、私は手に入れようとすることを捨てました。

あきらめてしまったのではなく、執着することをやめたのです。

もっと具体的に言うと、愛されることを考えずに、愛することを考えることにしたのです。

まあこれは、偶然的にそうなったのですけどね。



「愛する」とは具体的にどうすることでしょうか?

おそらくこれが、多くの人がわからないことだと思います。

「I love you.」と言いながら、続けて「I need you.」と言うことに違和感がないでしょ?

だからわかってないのです。


この矛盾を理解しないと、愛することがわかりません。

「I need you.」と言った瞬間に、それは愛ではなくなります。

そこからもっとも遠い執着とか依存になっています。

もっとも遠いものが、もっともよく似ている。

この世は本当に、面白くできてますね。


愛すれば、すべてが手に入るのです。

なぜなら、愛とはすべては「ひとつのもの」だと受け容れることだから。

潜在意識って、要は「ひとつのもの」でしょ?

だって、時空の概念がないのですから、ひとつ以外に何があるのでしょうか?

あなたと私が「ひとつのもの」なら、どうして「必要」があるでしょうか?

「ひとつのもの」なら、どうして手に入らないことがあるでしょうか?

「ひとつのもの」なら、どうして「悪い」ということがあるでしょうか?

シンプルな理屈じゃありませんか。


あとはそれを受け容れるかどうか。

それは、あなた次第です。


posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 15:44 | Comment(0) | SJ通信過去ログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今を楽しむことに専念する

「すごいバッティングだねえ。」と褒めると、「いやあー、イチローほどじゃありませんから。」と答える人がいます。

謙遜するのは良いのですが、もし本当に自分自身を認めていないとすると、幸せからは遠ざかることになります。


たしかに、比較すれば上には上がいるものです。

どんな天才や秀才でも、さらに上がいるでしょう。

問題なのは、そこで下す自己評価です。


「だから、自分はダメ。」なのか、それとも「なかなかいいぞ。」なのかです。


自分のことをダメと評価する人は、一生幸せになれない人です。

たとえば、「課長になったら幸せになれる」と信じて、課長を目指す人がいたとしましょう。

そういう人は、係長に昇進して周りから祝福されても、自分はまだまだと言って喜びません。

そしてやって課長になってみると、今度は同僚ですでに部長の人とかがいると、やはり喜べないのです。


なぜそうなるかわかりますか?


目標に到達しないと、自分は十分ではないと考えるからです。

そういう人は目標に到達した瞬間に、目標がなくなったことに気づき、また別の目標を作り出すのです。

そうしていつまでも、目標に辿りつけない自分であることを確認することになるのです。


もうお気づきでしょうか?「青い鳥」ですよ。

探して行けば行くほど、青い鳥は逃げていきます。幸せは永遠に手に入らないのです。



ここでちょっと考えてみてください。

赤ちゃんは、最初に寝返りをして、ハイハイをして、つかまり立ちをして、歩き始めます。

やっと歩き始めた赤ちゃんを、両親は大喜びで見つめるでしょう。

そのとき、「いやあ、自分はまだまだです。だって走れませんから。」と、赤ちゃんは思うでしょうか?


聞くまでもありませんよね。赤ちゃんは、いつでも今、その時を楽しんでいます。

寝返りができては喜び、ハイハイしては喜び、つかまり立ちしては喜ぶのです。

その先に、歩くことや走ることがあるかもしれませんが、頭からそのことを放り出しています。


富士山の山頂を目指して登りながら、エベレストほど高くないからと、不満足な気持ちでいる登山家がいるでしょうか?

登山家は、エベレストにはエベレストの、富士山には富士山の、楽しみがあることを知っています。


焦る必要はまったくありません。

今、この時を楽しむのです。

心配しなくても、明日には明日の楽しみがあります。

今を楽しむことで、明日の楽しみのための準備ができるのです。

posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 17:50 | Comment(2) | 実践内容 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月31日

祖母を叱りつけた日

私は、おばあちゃん子でした。

優しくしてくれるおばあちゃんが大好きだったのです。



あれは小学校の2〜3年くらいだったでしょうか。夏の朝、私は蚊帳の中で目を覚ましました。

まだ朝早かったのですが、隣に寝ていた祖母が起き上がり、濡れ縁の方へ出て行ったのです。

田舎ですから、窓は開け放していました。祖母は、朝の清々しい空気を吸いに行ったのでしょう。

私が布団の中から様子をうかがっていると、祖母は突然、スーッと倒れたのです。

ドシーン!


私は慌てて布団から飛び出し、蚊帳をめくって外に出て、祖母のもとに駆け寄りました。

祖母は倒れたまま、返事をしません。私は2階で寝ている両親を呼びに、階段を駆け上がりました。

「おばあちゃんが、おばあちゃんが...」


くも膜下出血か脳卒中か知りませんが、祖母はその影響で半身不随になりました。

祖母が退院して戻ってきてから、母の介護生活が始まったのです。



半身が動かないものの、祖母は以前よりも優しくなったように思いました。

それから祖父が亡くなり、私も中学生になりました。

その頃から、祖母は認知症になったようです。

当時は単にボケと言っていましたけど。アルツハイマー病が有名になる前のことです。


半身不随ながら、徘徊することもありました。

そしてだんだんと、呼びかけにも素早く答えられないくらい、症状が重くなったのです。


そんなある休みの日、母は私に留守番を頼みました。

「おばあちゃんの面倒をみてやってね。おしっこに行かずに止まってたら、行くように言ってあげて。」

私は、祖母の面倒を見るのが嫌でした。

でも、特に何も予定がなかったので、留守番を引き受けざるを得なかったのです。


1〜2時間もしたころ、祖母がトイレに行こうとして立ち上がりました。しかし、そのまま立ち止まっています。

「おばあちゃん、早うトイレに行きんさいや。」

そう言っても、返事はありません。私はテレビを見ていましたが、祖母は何を考えているのか、まったく動こうとしません。

私は怒りました。

「おばあちゃん!早う行きんさいや。漏れるで!」

徐々に激しく、今にも叩かんばかりに、祖母を叱りつけたのです。


何度か怒鳴りましたが、祖母は無反応です。そのうち、祖母の足元が濡れ始めました。

「あーあ、やっぱり漏らした。だから早う行きんさいって、何度も言うたろうがな。」

私は、祖母を放っておくことにしました。

祖母は小便を漏らしたまま、その場に突立っていたのです。


しばらくして、母が戻ってきました。私は玄関まで駆けて行き、母に言いました。

「おばあちゃん、漏らしたで。何度言うても聞かんのんだけえ。」

母は、しょうがないなという感じで、祖母の世話をしに部屋へ入って行きました。



そんなことがあって、どれだけの月日が過ぎたでしょうか。

いよいよ祖母も危ないという夜、私は寝ているところを母に起こされました。

祖母が寝ている部屋に行くと、家族や近所の親戚の人が集まっていました。


しばらく様子を見ていると、祖母の呼吸がときどき止まるようになりました。

数秒間、息が止まった後、また呼吸を始めるという感じです。

促されて私は、祖母の口を水で湿らせた綿で、拭いてあげました。

それから少しして、祖母の呼吸はついに戻らなくなったのです。

誰かが和紙を割いたものを祖母の鼻の前に垂らし、呼吸がないことを確認していました。

祖母は亡くなったのです。


私は、ずっと後悔していました。

あんなに大好きだったおばあちゃんなのに。ボケて言うことを聞かなくなったからといって、あんな風に邪険に扱わなくても良かったのに。

優しくしてあげられなかったことが、ずっとずっと心に突き刺さっていたのです。



それから時が流れ、私は東京の大田区にある河川敷で、軟式野球を楽しんでいました。

季節は春。桜が満開で、花見の客が大勢来ていました。

私たちも野球を楽しんだ後、桜の下で弁当を食べたのです。


そこへ、一組の家族がやってきました。

お父さん、お母さん、子どもたち、そしておばあちゃん。

お父さんとお母さんは弁当などの荷物を持ち、場所を確保することに心を奪われています。

小さい子どもは、お母さんが手を引いています。

おばあちゃんは最後の方を歩いてきますが、土手は足元が悪く、歩くのに苦労していました。


それを見た瞬間、私は思わず立ち上がり、おばあさんのもとへ駆け寄ったのです。
「足元が悪いですからね、手を引きましょう。」

そう言っておばあさんの手を取り、ゆっくり、ゆっくり、一緒に歩いてあげたのです。

お父さんとお母さんのいるところまで案内しましたが、2人は怪訝そうな顔をしています。

おばあさんは、何度も頭を下げてお礼を言っていました。


私は微笑んで、仲間のいるところへ戻りました。

ただ嬉しかったのです。何も考えていないのに、サッと身体が動いたことが。

胸につかえていたものが、軽くなった気がしました。

きっと私の祖母も近くにいて、微笑んでいるに違いない。そう思ったのです。

posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 11:53 | Comment(0) | └ 家族のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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