2021年11月30日

もしあと1年で人生が終わるとしたら?



どういう経緯で買ったのか忘れましたが、思っていたのとは内容が違いました。
私はタイトルから、余命宣告を受けた人の問題を取り上げている本だと思い込んでいました。しかし実際はそうではなく、余命があと1年だとしたらどうするだろう? と考えてみることで、人生をより幸せなものにする考え方についての本でした。

この本は、2016年に同じ出版社から発行された「2800人を看取った医師が教える人生の意味が見つかるノート」を改題し、加筆修正したものだそうです。著者は小澤竹俊(おざわ・たけとし)医師です。
想定していたものとは違いましたが、内容には納得する部分が多々ありました。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

人生は誰もが満足して終えられるものではないかもしれませんが、私の経験上、多くの人が「いい人生だった」「自分なりに頑張った」という思いを抱えて最後を迎えられます。
 ただ、中には「そういえば……もっとこうしておけばよかった」「そういえば……こんなふうに生きればよかった」といった後悔の念を抱く方もいらっしゃいます。
 よく現場で耳にするのは、「もう一度家族と旅行に行きたかった」という声や「もっとチャレンジすればよかった」という声です。
 私たちは後悔も充実感も抱えながら、日々を生きています。
 最後を迎えるときも同じことなのかもしれません。
」(p.5)

すべての人に共通して言える「後悔のない人生の条件」「良い人生の条件」など、ないのかもしれません。

 それでも、人生の最後に「より後悔がない人生だった」「より良い人生だった」と思えるために必要な条件を挙げるならば、次の4つになるでしょう。

・自分で自分を否定しないこと
・いくつになっても新しい一歩を踏み出すこと
・家族や大切な人に、心からの愛情を示すこと
・今日一日を大切に過ごすこと
」(p.6)

言葉にすると冗長になってしまいますが、こういうことなのかもしれませんね。満足感と後悔という、相反するものが常に心にある。それが人というものでしょう。
それでも、より満足感が高くなるようにと考えるなら、自分が本当にやりたいことをやることです。自分に正直に生きることですね。

これは、有名な映画「最高の人生の見つけ方」のテーマでもあります。死を前にして、もはや何も恐れるものはないのだから、死ぬまでにやりたいことを全部やろうとする生き方。それをまだ元気なうちから意識してはどうか、と問いかけるのが本書のようです。


ただ、人生の意味を見つけるのは、そう簡単ではありません。
 その理由は、私たちが人生の意味を「自分のしたことが、誰か(あるいは社会)の役に立っているかどうか」と結びつけてしまいやすい点にあります。「自分のしたことが誰かの役に立っている」と思えるのは、もちろん素晴らしいことです。
」(p.21-22)

しかし、誰かの役に立つことだけを「意味のあること」ととらえる考え方には限界があります。
 その理屈でいくと「自分は誰の役にも経っていない」と思った瞬間、自分の人生の意味や自分が存在している意味を見失ってしまうからです。
」(p.22)

「人の役に立つ」という考え方は、他人からの評価によって自分の価値を決める、という考え方につながりやすいです。それは他者への依存ですから、上手くいかないことが多々あるでしょうね。

ただ、たとえどんな状況であっても、「人の役に立つ」ことができている、という見方をすることも可能です。
たとえば赤ちゃんは、自分ではほとんど何もせず、人に頼ってばかりですが、役に立ってますよね。その存在が人を喜ばせているのですから。
では、面倒を見てもらうだけのお年寄りはどうでしょう? 障害者はどうでしょう?
それとて、「他人に奉仕させてあげている存在だ」とも言えるわけです。そういう人がいなければ、誰かを助けて役に立ちたいと思っている人に、機会を提供できないわけですから。


「人生があと1年で終わる」と考えれば、それまでの価値観が崩れ、自分を縛っていた固定観念やしがらみから解き放たれ、見える景色が変わってきます。
 もしかしたら、成長の過程で忘れたり、あきらめたり、我慢させられたりしたものの中に、あなたが本当にやりたいこと、大事にしたいことを発見できるかもしれません。
」(p.32)

特にまだ若くて健康な時は、誰しも今が永遠に続くかのように思っているものです。そこで「人生があと1年で終わる」と想像してみることで、自分の思考を点検することができるようになるのですね。


後悔する気持ちを認め、誰かと分かち合うことができたら、その後悔から何を学べるかを考えてみましょう。

 どんなにネガティブに見える出来事にも、プラスの面、そこから学べること、今後の人生のヒントになることが必ずあります。
 それを見つけ出すのです。
」(p.38)

もうあとは死ぬだけとなっての後悔は、やり直しができないだけに辛いものがあるかもしれません。
けれども、まずはその感情を素直に受け入れて、そこから考え直すことが大事なのです。そうすれば、たとえそこで得た気づきが自分の人生に役立たないとしても、それをシェアすることで、他の誰かが助かるかもしれないのですから。


元気だったころ、その患者さんは、家族のことも顧みず仕事に打ち込み、「仕事ができない人間は、会社にとっていらない存在だ」と考えていたそうです。
 けれども、

「人生において本当に大切なのは、家族からの愛情や同僚との友情、仕事相手との信頼など、目に見えないものなのだ」
「自分は今まで、家族や友人に支えられていたのだ」

 と気づいてからは、周囲の人への感謝の言葉を頻繁に口にするようになりました。
」(p.99-100)

病気になったり、身体が弱って死の影がちらつくようになることは、決して悪いことではありませんね。このように「気づき」を得られるからです。
そして「気づき」を得られれば、その瞬間に幸せになれるのです。ただ感謝しかない心の状態になれます。


世の中は理不尽です。
 努力が必ず報われるとは限りませんし、「努力すれば報われる」と思っていると、現実とのギャップに苦しむこともあるでしょう。

 でも、たとえ良い結果につながらなくても、「努力をした」という事実は残ります。
 そして、努力をする過程で、人は必ず何かを学んでいます。
 学んだことをほかの人に伝えることができれば、その学びが、誰かの幸せや喜びにつながるのかもしれません。
」(p.112)

結果が伴うことに執着していると、努力したけど無駄だったと考えるようになるでしょう。
しかし、これも考え方しだい、見方しだいなのです。結果を手放すことができれば、努力したという行為そのものに意義があるとも言えるのですね。


私が出会う患者さんやそのご家族は、最初のうちは、自分や家族が重い病気になったこと、残された時間がそう長くないことに、非常に苦しんでおられます。

 しかし、多くの方は、苦しみの中で、周りの人の大切さや優しさ、ありがたさ、「日常」というものの素晴らしさ、自然の美しさ、自分が生きてきた意味や、自分という存在の価値など、苦しみに直面する前には知りえなかったこと、当たり前すぎて見逃していたことに気づきます。
 そして、それができたときに初めて、自分が病気という苦しみを抱えることになった意味を理解するのです。
」(p.145-146)

病気になり、身体の自由がきかなくなったり、人生最後のときが近くなったりすることは、このうえなく大きな苦しみです。
 しかし多くの人は、悩み、苦しみ、もがく中で、少しずつ自分の人生を振り返り、そこに意味を見出すようになります。
 そうしたプロセスを経て、自分の人生を肯定できるようになったとき、人はようやく本当の強さ、心の穏やかさを手に入れることができるのです。
」(p.169−170)

苦しみは避けたいものでもありますが、役立つものでもあります。そう考えれば、すべての出来事は良いことだと言えるのではないでしょうか。
私は常々、起こる出来事は必然であり最善であり完璧だ、と言っています。そういう視点を保持しつつ、そういう意味を見出せば良いだけなのですから。
そうすれば、何が起ころうと強く穏やかでいられるし、幸せでいられると思うのです。


本書は、まだ若くて健康な方に対して、もし1年で死ぬとなったらどうする? という視点を与えることで、後悔しない生き方を模索する手助けをする内容になっています。17の項目に分かれてはいますが、重複するようなことも含まれています。

もちろん、すでに終わりが見えかけている人であっても、実際にそうやって亡くなっていかれた方々を看取られてきた小澤医師の話は役立つだろうと思います。

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タグ:小澤竹俊
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2021年11月21日

老〜い、どん!



これも上野千鶴子さん「在宅ひとり死のススメ」で紹介されていた本です。
昔、テレビのコメンテーターとして活躍されてた樋口恵子(ひぐち・けいこ)さんが書かれたもので、サブタイトルにもある「ヨタへロ期」という言葉が紹介されていました。
また、樋口さんは介護保険制度の導入や改定にも深く関わられていて、介護の世界では重要な役割を果たしておられるようです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

春日さんのご本には、人間、老いてピンピンコロリなんてめったにない。ピンピンスタスタの時期を経て、ヨロヨロの末にドタリ。さらにいわゆる「寝たきり」の時期もある。ヨロヨロを直視すべき、という問題提起が書かれています。

 まさに私、ヨタヨタヘロヘロの「ヨタへロ期」をよろめきながら直進しているのです。
」(p.4)

健康寿命は男性が72.14歳、女性が74.79歳、平均寿命は男性が80.98歳、女性が87.14歳(2016年)。平均寿命も健康寿命も女性が長いのですけれど、その格差は男性が約9年、女性は約12年。要するに「ヨタへロ期」は、女性のほうが男性より3年も長い! これは大問題ですから、今後大いに原因を究明し、男女の差を縮め、両性とも健康寿命を伸ばさなくては、と思います。

 その上で思います。どんなに努力しても、自然の理としての老いが心身の衰退だとしたら、なおその期間もその人の人生の延長として、その人らしさが発揮でき、何よりも人間の尊厳が保障されてほしい、と。
」(p.5)

なんと言ってもこの年代の人口が増えるのですから、人生の最終段階の幸福のために何をなすべきか、全ての人の問題として考えてほしいと思います。」(p.6)

上野さんの本にも書かれていましたが、ピンピンコロリは、事故や事件でもなければ現実的ではありません。もしそうなれば、必然的に警察のお世話になるため、穏やかな看取りとはなりません。
病気や老衰で亡くなるには、どうしてもこの「ヨタへロ期」を通過しなければならないのです。それをできるだけ短くしたいと考えるかもしれませんが、おそらくは無理です。なぜなら、生命を維持する技術や環境が整えば整うほど、老化や病期の進行は減速されるので、むしろ期間は長くなるはずですから。

樋口さんは、男女格差を縮めたいとおっしゃいますが、これはそもそも性差によるものではないかという気もします。女性は粘り強いと言うか、しぶといと言うか・・・。逆に男性は根性がないんですよ、きっと。(笑)

ただ、この「ヨタへロ期」を通過することが必然ならば、樋口さんがおっしゃるように、この期間もまた人間としての尊厳をもって生きられる社会にしてほしいし、そのために私もできることをやりたいと思います。


これから日本で人口が増える年代は65歳以上のみ。今(2018年)28.1%と世界一の割合ですが、2040年には35.3%になる見込みです。平均寿命の長い女性は多数派を占め、65歳以上で人口の56.6%、75歳以上60.7%、85歳以上69%と、高齢になるほどその比率を増します。ことし(2019年)7万人を超えた100歳以上長寿者のうち、女性が88.1%を占めました。
 社会的に配慮を必要とする65歳以上の「ひとりぐらし」は今すでに600万人、高齢者世帯の47.2%を占めます。うち女性が男性の約2倍の400万人。
 その女性の状況が数の力で日本社会に影響を与えないはずがありません。そして高齢世帯の収入は「年金のみ」が52.2%。年金は高齢家計の命綱です。
」(p.43)

樋口さんはBB(びーびー)と言って、「貧乏ばあさん」が高齢女性の総称だと考えているそうです。
日本社会に大きく影響しているのは女性の高齢者で、その貧困化が大きな社会問題だということですね。


中村丁次先生は「買い物の効用」について、出かけるだけでも運動になる。それも小マメに、食品は買いすぎないで自分でつくることが大切、と述べておられます。そうです。買い物の効用の第一は、外へ出て人に出会う、少しは口をきく、挨拶する、ということだと思います。」(p.57)

独居老人がより健康的に生活するには、適度な運動と他人とのコミュニケーションが欠かせません。そのために最も有効なのが「小マメに買い物へ行く」ということなのですね。
歳を取ると、あまり大きな荷物は持てません。けれども、それが幸いします。どうせ時間はたっぷりあるのですから、何度でも買い物へ行けばよいのです。それがよい運動になるし、人と出会えば会話をする機会も増えますからね。

大切なことは、買い物する人が自分の目で見て自分で選ぶ、ということではないでしょうか。今流に言えば自立の証としての自己決定。」(p.58)

自分が自由に選ぶ、自分で決めるということは、脳の働きを活性化させるし、生きる喜びにもつながります。
ですから、他人に何でもかんでもやってもらうようなサービスを安易に受けることは、寝たきりへの道を加速させることにもなりかねないのです。

私は、老いても一定の判断力がある限り、この買い物という社会参加と決定権を最後まで持たせてほしいと思います。青年よ大志を抱け、老年よサイフを抱け。」(p.60)

そういう意味では、むしろ独居老人の方が健康を保ちやすいのかもしれませんね。一人で何でもやらなければならない環境に置かれているのですから、その環境を受け入れて、前向きに生きればよいだけですから。


近ごろ高齢者の心身の健康維持のため、お出かけを奨励する世論が増えていて、私も大賛成です。そのためには、駅、公共施設、商店街はじめ街角に、高齢者に使いやすい清潔で安全なトイレの整備を、と願います。」(p.70)

排泄は、生活において非常に重要です。時に緊急を要することもあります。我慢が難しい生理的なものでもあり、そのために外出することをためらうことになりがちです。
利用しやすいトイレがあちこちにあれば、それだけでも老人に優しい街と言えるかもしれませんね。


きょうだいが少なくなったのですから、男性も介護に参加せざるを得ません。結婚率が下がっていますから、親が倒れたとき介護をまかせる「嫁」がいるとは限りません。いたとしても、その嫁も生家の一人娘や長女だったりして、そちらの面倒に追われます。こうして日本近代に明治民法として根を張り、戦後の民法改正後も習慣として続いてきた、長男優先の家父長的家制度は衰退に向かいます。自分の親はさておき、「夫の親を優先的に介護する」という意味での「嫁」は今や絶滅危惧種です。これは嫁の心がけの問題ではなく、数の変化の問題です。」(p.93-94)

はからずも晩婚化に始まる少子化が、日本の伝統(?)的な家族のあり方であった「家父長的家制度」や「長男の嫁」というものを変化させてしまったのですね。


介護離職者(全国で年間約10万人)自体は今も女性が8割、しかし男性の比率も数も増え続けています。男性の仕事と介護の両立が可能になれば、女性もまた可能になるでしょう。そもそも、介護離職が増えると、第一に、当事者の老後の生活設計と年金が大幅に失われます。第二に、企業は人材を失います。第三に、国は個人所得税の財源を失います。第四に、医療・介護・年金制度もこの年齢層の働き手の負担が多いのです。どちらを見ても損するばかりでロクなことはありません。」(p.98)

介護離職が増えている社会現象に対し、樋口さんは「君、辞め給うことなかれ」と与謝野晶子氏の言葉をもじって警鐘を鳴らします。
たしかに、家族介護は社会に良い影響を与えそうもありませんね。樋口さんは、職場環境、介護保険サービスの充実、家族や近隣者の助け合いの3つによって、介護離職を減らすことが重要だとしています。


最近久しぶりに、全国から公募した介護体験記を選者として読む機会がありました。その結果は「介護、老いと向き合って−−大切な人のいのちに寄り添う 26編」(ミネルヴァ書房)にまとめられています。介護保険制度の普及が、どんなに家族介護者を孤立から救い、介護をとおして人と人を結び付けているのかを知って、つくづく「創ってよかった介護保険」と思いました。」(p.101)

家族、特に嫁を介護から解放することにつながった介護保険制度ですが、樋口さんはその設立に関わってこられました。それが役立っているという実感があって、これをさらに有効なものにしていきたいと思われているようです。


外部の介護サービスを快く受け入れ、若いころには「怖いくらいの母」だったのに、同居してからの15年間「命令しない」「反対しない」「不足言わない」「小言言わない」「怒らない」と、娘の目から見ても「予想外」の母の姿でした。それでいて自尊心は高く、周りの人たちにも一目置かれています。」(p.102)

全体に共通しているのは、「ありがとう」と感謝のことばや介護者を認めることばを持っている、ことと、かなりわからんちんでも、どこかにユーモアがあることです。
 そして介護保険制度などを利用して、外部サービスの専門職、行政や隣近所、親類縁者を動員して広がる介護の輪。介護があるから孤立したのではなく、介護があったからより多くの人々と親しくなれた−−介護の成功者の共通条件です。ということは、高齢者の側が外部サービス利用をいやがらないこと、それが「ケアされ上手」の基本かと思いました。
」(p.103-104)

最期をどう迎えるかについては、多少考えもし、用意したつもりですが、その前に「ケアされ上手」になる課題があったのか。人間いくつになっても修行ですなァ、と決意を新たにした次第です。」(p.104)

介護体験記から、介護を受ける側の覚悟というのも大事だと樋口さんは言います。
たしかに、私も介護職をしていますが、文句を言わず、要求が少なく、感謝の言葉がある利用者様は、介護職からも好かれます。介護職員も人間ですからね。そして、利用者が喜んで介護を受けてくれると、家族も助かります。
外部の介護を受ける側も、老いてなお辛抱が必要だ(修行だ)、ということかもしれませんね。まあこれまで、嫁を奴隷のように使えたことが異常だったのだと思いますよ。


でも、根本的には解決になっていないのです。たとえば、先にあげた私の友人が入居している老人ホームで、もし入居者が外出して似たような事故死をしたら−−。施設は、鉄道会社と遺族の両方から責任を問われかねません。そうなると施設は責任を免れるために扉に厳重に鍵をかけたり、入居者の行動の自由への束縛を強めるかもしれません。」(p.117)

さすがは樋口さん、私と同じような懸念を抱かれていますね。これまで読んだ本では、この部分をごまかしています。痴呆症の人の行動する自由を妨げないとか、ずっと見守っているとか、不可能なことが可能であるかのようにごまかしているのです。

これは2016年に起こった事故を受けての記述です。
事故は、認知症の男性が自宅から1人で外出し、踏切内に立ち入って轢死したというもの。死んだ男性は自業自得とも言えますが、列車運行が遅れて損害を被ったJRは、同居していた85歳(要介護1)の妻と長男の管理責任を問うて提訴しました。
一審はJRが勝訴、二審は長男のみ責任を免除、そして最高裁は家族の責任を全面的に免除しました。

施設には、基本的に外から鍵をかけて入居者が出られないようにすることは認められていません。非常口にも鍵をかけられません。
なので、大変姑息な手段ではありますが、認知症でない人なら開け方がわかるという方法で、間接的に鍵をして、認知症の人が勝手に出られないようにしています。
そうせざるを得ないのです。何かあったら、責任を問われるのですから。この管理者責任について、どこまで社会が寛容になれるかという議論とコンセンサスなしには、認知症の人の自由の保障は不可能だと思います。

対策はただ一つ、家族でなくても気づき助け合う習慣を今からつくっておくことです。認知症をかくさず可視化する、家族でなくても関心を持ち手助けする、重大事故は別として小さな事故には寛容の精神を持つ。可視化、関心、寛容の3Kが解決の鍵ではないかと思います。甘すぎるでしょうか。」(p.118)

理想は、認知症の人が自由に出歩けることです。しかしそうすると、近隣の家のポストから何かを持ち去ったり、庭を踏み荒らしたり、外壁を傷つけたりする可能性があります。
そういうことに対しては、認知症の人が住んでいるんだという認識(可視化)を持っておくことと、出会ったらみんなが見守ろうとするコミュニティを作る(関心)ことと、少々のことなら「仕方ないね、住民仲間なんだから」という受容する心(寛容)をことが大事なのだろうと思います。
けれどもさらに、JRの事故のような重大事故にはどうすればいいのか、という問題も残ります。そして、3Kの地域コミュニティ作りも簡単なことではありません。これは、今後も考えていかなければならないテーマですね。


認知症であることを公表し、適切な支援を求める人が増えれば増えるほど、その対策は進むはずですから。家族が認知症をかくす「かくれ介護者」が増えては、世の中暗くなるばかりです。認知症の人を世の光に。その光として、親の認知症を世の中に見える化することをためらうな、と言ってあります。」(p.123)

樋口さんは娘さんに、仮に自分が認知症になったら隠さずに公表するよう伝えてあるそうです。
「認知症の人を世の光に」という言葉は、重症心身障害児のための施設を創った糸賀一雄氏の「この子らを世の光に」と言われたことをパクったと書かれています。「この子らに世の光を」ではなく、「この子らを世の光に」という表現に、樋口さんは驚かれたのです。

でもすぐに理解できました。「この子ら」の存在が光となって、私たちの目指すことやなすべき行動を教えてくれることを。認知症も同じだと思います。」(p.124)

問題に蓋をして隠すのではなく、むしろ逆にオープンにすることで、社会をより良いものに変えていくことができます。
ですから認知症の問題も、介護の問題も、隠していてはいけないのです。こういう問題がある、こういうことで困っている、というようなことを、どんどん情報発信すべきですね。


約1年近くあと、天皇皇后両陛下(現上皇、上皇后陛下)が被災地を訪問。避難所で年老いた人たちを前に皇后様の言われたおことばです。
「生きていてくださって、ありがとうございました」
 高齢者であろうと子どもであろうと、今目の前にある命への全き肯定、その命への祝福と感謝。これしかないと深く感じ入りました。
 だから、思います。この災害の時代に、自分も含めて最大多数の幸せに備えて、生き残る準備をしよう。最低限度、高齢者もできる範囲で自立度を高め、わが身を守る準備、周りの人の心配や負担を多少とも軽くする努力をしようではないか……と。
」(p.136-137)

2011年の東日本大震災では、津波によって多くの命が奪われました。
置いて逃げろと言う年寄りの言に従って逃げ、年寄りを死なせてしまった若者の苦悩もありました。また、逃げろと言う年寄りを見捨てることができず、家族全員が亡くなるという悲劇もありました。

何が正解なのか、どうすることがいいのか。簡単に答えは出せません。そういう中での皇后陛下のお言葉です。
私も、読みながらこみ上げてくるものがありました。いろいろあったけど、みなさんは生き残ってくれた。ただただそれを喜ばしく思う。その気持ちが感じられて、泣けてくるのです。

だからこそ、自分もそういう社会の一員として、できるだけのことをしたい。その1つが、なるべく自立するということです。
「完全に」ではなく「なるべく」です。今よりも少しでも、という思いです。そういう一人ひとりの努力によって、全体が良くなるのですから。
そういう考えに立てば、他人の不完全さも許容できます。もちろんそれも、「完全に」ではなく「なるべく」から始めるのが良いと思います。
人はそもそも違うものだし、不完全なものです。だからこそ、他人にも自分にも寛容であることが大事です。そして、そういう寛容さを持ちつつ、より高みを目指す仲間でありたいと思うのです。


知らない間に、樋口さんもお年を召されてたのですね。まあ当たり前のことですけどね。
私がテレビでよく拝見させていただいていた頃は、まだ50歳か60歳くらいだったでしょうか。論理的に明快で、弱者に対する優しい視点を持たれた方で、とても好感が持てました。

あれからもう30年以上になるのですね。私も年を取るわけです。(笑)

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2021年11月17日

認知症になってもひとりで暮らせる



これはおそらく、先日紹介した上野千鶴子さん「在宅ひとり死のススメ」の中で紹介されていた本だと思います。たくさんの本を紹介されていたので、そのうちの何冊かを買いました。

上野さんは、老後は一人暮らしが気ままで良いと勧めておられます。また、その一人暮らしでの在宅死も勧めておられます。そういう上野さんにとっても、認知症になって何が何だかわからない状態でも独りで暮らせるのか、という問題が頭にあったかと思います。私も、そういう疑問があります。
この本は、認知症でも1人在宅で暮らせるということを示す内容になっています。何がポイントになるのか。とても興味深く読みました。


ただ最初、どうもしっくり来ませんでした。社会福祉法人・共同福祉会というところの編集になっている本ですが、どうも自分のところの宣伝ではないか、と感じたのです。
自分のところがどういう取り組みをしているかという話や、介護保険の問題などが中心で、タイトルにある認知症の人が一人暮らしをするための方法についての言及がなかったからです。
また、唐突に生協の話が出てきて、何のことかわからずに混乱しました。あまり詳しくは説明されてませんが、どうやら生協が行っている老人介護の取組みのようですね。

そういう点があったものの、読み勧めていくうちに、いろいろ見えてくる部分もありました。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

高齢になり長い距離を歩けなくなると、生活が制限されます。買い物や通院にも支障が出て、自宅に閉じこもるようになることが、要介護状態になるきっかけの1つだと考えられています。地域で元気に暮らしていくために、足が悪くても送迎があり、出かけていく”居場所”があれば、自宅での生活が続けられます。」(p.40)

まず高齢者の一人暮らしですが、老化による衰えは、引きこもりを促進することにつながる、という指摘ですね。そして、引きこもることによってさらに身体的な機能が衰えて、また精神的にも意欲を失っていくという問題があります。
そのための解決策としては、地域に「出かけていける場所」「出かけていきたい場所」がある、ということだと言うのです。より活動的になることを促してくれるもの。それが大事なのですね。


もちろんサポートハウス内に鍵をかけたり、マサ子さんの行動を制止したりもしていません。自由に外出できる環境が本人の精神状態に一番よいことを、職員もケアマネジャーも家族も実感しているからです。」(p.43)

たしかに、自由に出歩けるということは、本人にとってストレスにはならないでしょう。しかし、周りの人たちは、それによるストレスを受けないでしょうか?
実際の取組みについては後から出てきますが、地域を巻き込んだ認知症の方の「見守り」という体制づくりが、非常に大事だなぁと思いました。

もちろん、それでも何らかの問題を引き起こす可能性があります。たとえば本人が事故や事件に遭うとか、あるいは事故を誘発させるとか。そうなった時の責任問題はどうなるのか? それについては、この本では言及されていませんでした。


個人の問題を住民の問題としてとらえることは、とても大切であると同時にとても難しい問題です。住民は地域のことに無関心どころか拒絶したり、批判することもあります。地域住民が支え合いの認識をもつためには、まず職員がプロの地域コーディネーターとして問題を整理できる人材になり、地域住民の主体性が育つよう支援しなければなりません。
 身体拘束からは何も生まれないように、排除からも何も生まれないのです。活きる力は、子どものときも大人になってからも、社会で行きていくために必要です。困っている人の存在を知り、ともに自分のこととして考え、力を合わせて実践していくこと、支え支えられる関係を築き、生きる力を育むことが大切です。
」(p.52)

こうすれば上手くいくというような、一朝一夕にできる解決策などない、というのが本当のところだと思います。批判的な人、何を言っても反対する人など、そういう人たちも含めての地域住民です。そういう人たちに理解していただき、支えていただくための活動を継続すること。そういう活動の結果として、いつか支え合う地域という結果がともなってくるのかもしれませんね。

実際、この団体が施設を建設するときも、常に反対運動が起こったそうです。それでも諦めず、怯まず、反対者と敵対せずに思いを遂行する。そういう芯の通った地道な活動の継続が重要なのでしょう。

私たちプロ集団が地域コーディネーターになり、誰もが住み続けられる環境をつくっていけば、認知症になってもひとりで暮らせる地域をつくることができると思います。しかし、このような考え方をもち続けられるプロの職員集団を、継続して排出できるのかという課題があります。」(p.59)

認知症の一人暮らしを可能にするには、地域ぐるみの協力が不可欠だということですね。そのためには、地域をまとめるコーディネーターが必要であり、そういうプロを育てることは、なかなか難しいということのようです。


ヤスオさんは、ご飯が食べられなくなり、体力が落ちてきている状態でも「トイレに行きたい」と言い、そのたびに職員がトイレに付き添いました。トイレに行くことも難しくなってくると、部屋にポータブルトイレを置いて、そこに座って用を足しました。決して「オムツを巻いてくれ」とは口にしませんでした。ヤスオさんがトイレに行きたいと言う限り、トイレに行ける工夫をするのが大切だと感じさせられました。」(p.64)

何気ない話ですが、私などは「どうやったらそれができるの?」と疑問に感じるのです。実際、私が働く施設では、多くの利用者様がオムツをされています。全員の「トイレへ行きたい」に機敏に対処できないからです。
オムツ(尿とりパッド)の取替をするだけでも大変な作業です。もし、一人ひとりを毎回トイレに行かせていたら、マンパワーが明らかに不足するのです。
この問題を、どうクリアしているのか? そのことについて、この本にも解決方法は明示されていませんでした。

後で出てくるのですが、訪問介護では日に6回伺い、排泄介助も行っているようです。日中4回、夜間2回です。
私たちがトイレへ行く回数って、そんなものですか? もちろん、そういう日もあるし、訓練でそれで収めることも可能でしょう。しかし、たまたま訪問介護で来られたタイミングで排泄したくなりますかね?
下痢の時もあるでしょう。さっき行ったばかりなのに、またすぐ小便をしたくなる時もあるでしょう。それに対応できますか?
私は、それは無理だと思うし、私の現状もそういう状態です。忸怩たる思いはありますが、どうしようもないのです。


8割以上の圧倒的多数は自宅を選択します。
 現実は病院で亡くなる人が8割以上を占めており、これほど世間のニーズと現実がずれている課題を解決する道筋はまだ、見えていません。
 「自宅で自分の人生の幕を閉じる」
 これを実現するためには、自分の意思で決め、周囲が覚悟を決めて、医療で支え、死亡診断をする在宅医がいて、さらに24時間の生活を支える介護職がいることで、初めて実現します。
」(p.74−75)

以前の看取り士の本でも指摘されていましたが、在宅死を望む人がほとんどなのに、病院死が8割という現実があります。
この本でも、在宅死は可能だと言います。そのためには、まずは本人が明確に意思表示をすることです。本人の決意が揺れていたら、周りも動揺しますから。

次に、これも他の本で指摘されていますが、家族など周囲が覚悟を決めるということです。容態が急変すると狼狽して救急車を呼んでしまう。だから病院死になりがちです。
在宅医がいて、きちんと説明されていて、家族など周囲が納得して覚悟を決めていれば、むやみに救急車を呼ぶことはないでしょう。静かに看取ることができるのです。


「”地域医療”があればひとりで暮らせる」ためには、訪問看護ステーションのあり方と考え方が重要になってきます。
 訪問看護ステーションは医療保険制度で患者を診てきました。「地域医療」とは何かを考えると、まず75歳以上の人は必ず身体の衰えによる病気があります。永眠するまで病気とつき合って楽しく暮らしていくことを目標に生活をサポートすることが、地域医療の目的になります。
」(p.79)

機能する地域医療のためには、訪問看護ステーションのあり方が重要だと指摘しています。
そのためには、75歳以上のすべてのお年寄りをターゲットにすることで、効率よく作業ができて、看護師の費用をまかなえる体制づくりが重要だということです。

そのなかで私たちは、定期巡回・随時対応型訪問介護看護事業を柱にして、「地域医療」と「訪問看護ステーション」をつくってきました。」(p.80)

この団体の取組みを紹介しているのですが、いかに経済的にペイできるようにするかという視点です。
それにはまず、75歳以上の人は皆なんらかの病気を抱えているので、ターゲットにして顧客層の裾野を広げることです。次に、定期巡回・随時対応型訪問介護看護の登録者を100人以上にすること。つまり、実際の顧客を100人以上にするという目標ですね。
さらに、訪問看護の登録者は70人以上にするという目標を掲げています。このくらいの人数がいないと、看護士を常駐させる費用が出せない、ということのようです。

たしかに、採算性がとれなければ事業は継続できません。しかし、その決め手が「定期巡回・随時対応型訪問介護看護事業」というのは、どうかなぁと感じるのです。
この事業形態は、要は利用してもしなくても全ての利用者から一定額をいただくことによって、よりサービスを必要とする人には手厚く、必要としない人には少なめにサービスを提供することで、全体バランスを取るということだと思うからです。

もちろん、背に腹は代えられないという面もありますが、お互いの助け合いというのであれば、それは介護保険制度がそもそも担っていることではないかと思うのです。だって「保険」ですから。
その介護保険制度の不備を、こういうやり方で補完するというのは、私は本質的な解決策ではないように感じました。


この3つの考え方をもった、介護・医療事業所、行政、市民がそろったら、安心して「認知症になってもひとりで暮らせる」地域ができると思います。この考え方を学び自分の地域で実践したい人は「全国地域包括ケアシステム連絡会」に加入して、「あすなら安心システム講座」と「10の基本ケア講座」に参加してください。」(p.85)

「この3つの考え方」とは、「(1)「ほっとかない」「ことわらない」人のいる地域をつくる」「(2)「あすなら安心システム」をつくる」「(3)包括ケア・包括報酬で自立支援ケアができる介護事業所をつくる」の3つです。

要は、行政も地域順民も事業者も、この3者が一体となって認知症の一人暮らしを受け入れるコミュニティを作ることが重要であり、それができたなら、認知症であっても一人暮らしが可能だ、ということかと思います。
逆に言えば、それができない限り、認知症の人が一人暮らしを続けることは難しいということになります。まあ、それが現実かと思います。

だからこそ、その3者をとりまとめるコーディネーターが必要なのであり、その育成が急務だと言えるのですがね。なかなか難しいことだと思います。


このように、1日6回訪問とデイサービスで生活を支えることができています。包括ケア・包括報酬ですから、要介護1では採算が合いませんが、支えるには1日6回訪問とテレビ電話の設置が必要です。
 要介護認定の課題として、全介助、一部介助、見守りなどの時間によって認定されますが、認知症では要介護1、2の人へのケアが一番人件費がかかります。包括ケア・包括報酬で、認知症の人にはもっとケア加算がつけば、家で暮らせるようになると思います。
」(p.89)

つまり、現行の介護保険制度だと、認知症の要介護1や2の人が一人暮らしするのを支えられるほどのお金がもらえないので、支援は不可能だということだと思います。だから制度の改善を求めているわけですよね。

実際問題、認知症で要介護1とか2というのは、徘徊のリスクが高く、他人に暴力を振るうことも十分に考えられます。そういう人を完全にケアするには、1日6回の訪問介護では不十分だと私は思いますよ。常に見張っていなければならないし、同行しなければならないわけですから。

もちろん、何かあったら損害賠償請求などで保障されればいいから、基本的には温かく見守ろうという地域であれば、可能かと思います。たとえ踏切に侵入して事故を引き起こしても、家族や介護施設などが、賠償責任を負わずに済むなら、ですがね。


理想としてはよくわかるし、今はまだ過渡期なのだろうとも思います。
しかし、やはり現実としては、認知症の人の一人暮らしは難しい、ということになるのではないでしょうか。

もうちょっと踏み込んだ解決策を期待して読んだだけに、ちょっと残念な思いもあります。
けれども、こういう理想を持つことは大切だし、その理想に向けて挑戦し続けることも大事なことだと思います。

私の中では、まだこうすればイケるという確信はありませんが、1つのとっかかりとなるメッセージを得られたように思っています。

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2021年11月10日

ゴミ人間 日本中から笑われた夢がある



SNSを見ていて、私が住んでいる諏訪の青年会議所が西野亮廣(にしの・あきひろ)さんのオンライン講演を企画していることを知りました。
西野さんと言えば、私にとっては「えんとつ町のプペル」という絵本です。お笑い芸人としての活躍はまったく知らないのですが、歯に衣着せぬ言いようでネット上で叩かれていたことは知っていました。

ちょうど講演日時が都合よく、その西野さんの講演が聞けるというので、すぐに申し込みました。そして聞いてみると、さすがに西野さんは着眼点が素晴らしいし、いいことを言うなぁと思いました。
そして、その講演の最後に宣伝されてたご著書を、素晴らしい講演を無料で聞かせていただいたお礼にと、購入することにしたのです。それが本書になります。
なお、西野さんの本としては、ホリエモンさんと共著になる「バカとつき合うな」も読んでいます。こちらも素晴らしい内容でした。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

「えんとつ町」は、夢を語れば笑われて、行動すれば叩かれる現代社会。
 ファンタジーなどではありません。
 それら全ては僕らの身の周りで実際に起きていることで、きっと今この瞬間も、どこかで殺されている夢があります。
 ご多分に漏れず僕にも、日本中から何年間も攻撃され続けた時代がありました。
」(p.13)

忘れもしません。
 フジテレビの『FNS27時間テレビ』での出来事です。
「ひな壇番組」の出演を断ったキングコング西野を、その現場にいないキングコング西野を、番組出演者をはじめ、番組スタッフ全員が、電波に乗せて「なじった」ことがありました。
」(p.14)

それは、「笑い」と呼ぶにはあまりにも陰湿で、少なくとも僕が子供の頃に憧れた芸人の姿ではありませんでした。
 僕がどう生きようが、何に挑戦しようが、僕の勝手じゃないか。
 しかし、当時のテレビ芸人はそれを許しません。
 公共の電波でそんなことをやるもんですから、多くの国民が扇動され、いつからか僕は「皆が殴ってもいい人間」になりました。
 自分の意思に従って生きたら、このザマです。
」(p.15)

これが、本のタイトルにも関わってくる出来事であり、絵本「えんとつ町のプペル」のテーマでもあったのですね。

しかし西野さんは、恨み節を発散させたいわけではありません。その強烈な出来事によって鍛えられ、いっそうたくましくなった。それこそが、この本のテーマなのです。


西野さんの夢は、単にお笑い芸人として有名になることではありませんでした。エンタメで世界を取る、ディズニーを超える、という明確な夢がありました。だから、ひな壇に座ってはダメなのだと決めたのです。

大切なのは、「どこで結果を出すか?」と問い続けることで、「一番」を目指すのならば、競争に参加するのではなく、競争を作る側(ハード)にならなければなりません。
 そう思い、テレビの世界から足を洗うことに決めました。
」(p.20)

ゲームのソフト業界で競争して一番になっても、一番良く売れるのはそれを搭載できるゲーム機(ハード)です。ゲーム機を含めた「TVゲーム」の世界を作った人が、絶対的に一番になる。
だから西野さんは、テレビが作り上げたエンタメの世界で一番を取っても、本当の一番にはなれないと見抜かれたのです。

昔から僕は、「目的を達成する為に何をするべきか?」を考えるのではなく、「何をしたら確実に目的が達成できないか?」とリストアップするようにしています。」(p.21)

どの努力が報われるかどうかは運によるものがあるものの、報われないとわかっている努力をやめれば、より報われるかもしれない努力に的を絞れるという考えですね。だから、テレビから足を洗う、ということを真っ先に決めたのです。


西野さんが絵本を描くようになったきっかけは、タモリさんから「お前は絵を描け」と言われたからだそうです。タモリさんはそれ以上の説明をされず、西野さんも問わなかったそうです。ただ、タモリさんがそう言うのだから、きっとそういうものが自分の中に見えるのだろう、と信じたのです。

翌朝から、さっそく絵本制作をスタートさせました。
 とはいえ、これまで「絵」なんてまともに描いたことがありません。
 このとき、僕の中で「信じていたこと」と「決めていたこと」がそれぞれ一つずつありました。

 信じていたことは、「タモリさんが始めさせたのだから、僕は絵を描けるようになる」ということ。
 決めていたことは、「絵本作家に用意されている競争に参加しない」ということ。
 用意された競争に参加した時点で負けが決定してしまいます。
」(p.25-26)

ある意味で信仰とも言えますが、直観に従う生き方とも言えますね。何ら根拠もなく、「できる」と信じるのですから。
そして、非常に理性的な戦略です。これまでの絵本作家と同じことをするなら、一日の長がある彼らに勝つのは至難です。そして、それでは絵本の世界で勝者にはなれません。

「専業家」には時間の自由がなく、「複業家」には時間の自由があります。
 場合によっては、複業家は、一つの作品を仕上げるまでに10年かけることだって可能です。
 僕は、この場所で花を咲かせることに決めました。
」(p.28)

絵本制作だけで生きている人は、次々と絵本を世に送り出さなければ生活できません。しかし西野さんには、まだテレビ番組での仕事もありました。なので、絵本制作に時間をかけることが可能だったのですね。
そこで、0.03ミリという細いボールペンを使って数年かけて絵本を描くという、誰もがなし得ない世界を切り開くことにしたのです。


「作るだけ作って、売ることは他人に任せています」というスタンスは、一見するとクリエイターのあるべき姿のようですが、実際のところは、「育児放棄」です。
 僕は周囲の目を気にして、保身の為に、「ヨゴレ役」から逃げてしまっていました。
」(p.43)

クリエイターが創った作品が我が子と同じなら、それをお客さんに届けなければその子どもは無駄死にしてしまう。そういう思いなのですね。
それにしても西野さんは、自分に対して厳しいなぁ。でも、そういう思いがあったからこそ、多くの人に感動を届けることができたのだろうと思います。

そしてこの本のテーマは、「えんとつ町のプペル」の販売戦略についてです。実に綿密に練られた戦略に基づいて、この作品は世に送り出されています。
そのことを、西野さんのどういう思い、または出来事から気づいたものなのかということまで、説明しているのが本書とも言えるのです。ただのエッセイではないのですね。


「ゴミ人間」は、皆が折り合いをつけて捨てた夢の集合体。
 そして「ゴミ人間」は、折り合いをつけて夢を捨てた人達の間違いを証明しようとしている。無自覚に。
 これは「脅し」に近い行為です。
 実は、先に攻撃を仕掛けているのは、「ゴミ人間」のほうで、これこそが挑戦者が皆から殴られる理由だと結論しました。
」(p.79)

被害者が実は加害者だった。無意識に、無邪気に、他人の隠しておきたい過去を暴いて見せている。だから叩かれるのだ、ということですね。
西野さんが自分の夢を護るためにひな壇に登らなかったことは、夢を捨てた人たちを否定すること、攻撃することでもあったのです。たしかに、そういう一面もあるかと思います。

絵本の前に映画のストーリーを考えていたという西野さんですが、映画のストーリーには、夢を護ろうとする人を殴ってしまう人の視点も描かれているのだそうです。人の弱さを切り捨てるのではなく、それをも汲み上げていく。そういう作品なんでしょうね。


たくさんたくさん考えて、「作品の売り上げで次の作品を作ってしまうと、まもなく商品を作る自分になる」という結論に至りました。」(p.83)

作品が売れないと次の作品が作れないという状況が、お客に媚びを売ることになる、と言うのですね。客のニーズを調べて、売れる作品を作ろうとすれば、それは「作品」ではなく「商品」なのです。

クリエイターであり続けたいと思った西野さんは、世間のニーズがどうかではなく、自分の思いだけで作品を作ることにしました。それを可能にするには、作品の売り上げ以外の収入源を持つこと。西野さんにとっては、それがテレビの仕事でした。
そしてその作品を、求めてもいなかった客にどうやって知らせて、買ってもらえるようにするかを考えたのです。それが、映画「えんとつ町のプペル」を作って売るために、絵本「えんとつ町のプペル」を作って売る、ということにつながるのです。


もともとは西野亮廣を応援していた人達が、気がつけば西野亮廣をハンドリングし始め、ついには「ハンドリングに従わない西野亮廣」を非難。
 これは、あらゆる表現者や、あらゆるサービス提供者が直面する問題ではないでしょうか?
」(p.101)

絵本「えんとつ町のプペル」を作る過程で、クラウドファンディングによって資金を集め、クラウドソーシングで多くの作業者を集めて分業するという前代未聞の方法を採用した西野さんに対して、これまでのファンからの批判非難が集まったそうです。
かつてのファンは、自分たちが勝手に思い描いた「西野亮廣」という姿を、西野さんに押し付けようとしたのですね。

僕らはお客さんを、「顧客」と「ファン」と「ファンだった人」と明確に区別する必要があります。

「顧客」というのはサービスを買ってくれる人で、
「ファン」というのはサービス提供者を応援してくれる人で、
「ファンだった人」というのはサービス提供者を私物化する人です。
」(p.102-103)

「ファンだった人」というのは本当の「ファン」ではないので、痛くても切り捨てなければならないのです。期待に応えていたらクリエイター生命が死んでしまいます。


クラウドファンディングの最大の魅力は、商品・サービスを世間にリリースする前から「結果的にお客さんになる作り手(共犯者)」が作れる点にあります。」(p.111)

こういう気付きが西野さんの素晴らしいところですね。これだけでは何のことだかさっぱりですが、西野さんがされた手法をたどれば明らかです。

どうやらお客さんは発信したがっている。しかも「お金を払ってまで」。
 理由は、まず間違いなくSNSでしょう。皆、「いいね」が欲しいし、「フォロワー数」を増やしたい。
 こうなってくると、「〇〇のイベントに行ってきました」というツイートよりも、「〇〇のイベントは私が作りました」というツイートが欲しくなってきます。
」(p.113)

お客さんは、エンターテイメントの単なる受信者では満足できなくなり、発信者になりたがっていると言うのですね。

時代は、プロが作ったものをお客さんにお出しする「レストラン型」から、お客さんが食べたいものをお客さんが作る「BBQ型」へとジワジワと移動し始めていました。」(p.113)

お客さんと一緒にイベントを作る。その権利を販売する。そうすればお客さんは、わざわざお金を払ってイベント制作を手伝ってくれ、さらに友人知人などを集めてきてくれるという集客までもやってくれます。


子供を「自分よりも能力が低い生き物」として見積もり、その結果、「この絵本は子供向けですか?」という言葉を使ってしまう。
 翻訳すると「私よりも能力が低いこの子でも理解できますか?」です。
」(p.130)

絵本作りに携わったことで気づいたことのようですが、こういう感性は本当に素晴らしいなぁと思います。
しかし、西野さんはこのことでさらに気づきを得ます。つまり、その作品の使用者は子どもだとしても、購入者は親(大人)だということです。
そういう理不尽な考え方をする大人に受け入れてもらえなければ、最終的な作品の提供先である子どもたちに届かないのです。

「子供向け」という言葉を捨て、自分達が作りたい絵本をフルスイングで作り、どうにか大人の壁を突破し、今現在、無視されてしまっている「あの頃の僕らのような子供達」に届ける……それが絵本制作を走らせた僕らの課題でした。」(p.132)

ただ作りたいという思いだけでは、その思いを届けることができない。届けることを重視すれば、そこに作りたいという思いが欠落してしまう。
西野さんは、届けることを考えて工夫することで、作りたいという思いを大事に守ろうとされたのです。なぜなら、その届けたい子どもたちとは、かつての夢を否定されてきた自分そのものだから。


まだ誰もやったことがない挑戦には痛みは付きもので、くわえて指針となるようなものがありません。
 来る日も来る日も手探りです。
 そんな中、身体を前に進めてくれるのは、胸の中の一番奥の部屋から響いてくる「それでも、やりたい」という声で、あとはその声に従うか否か。
」(p.158)

西野さんにとってのその声は、「エンタメで世界を獲りたい」であり、「ディズニーを超えたい」だったのだそうです。
話せば一笑に付されてしまうような夢。誰もが最初から不可能だと決めつけてしまうような夢。それを西野さんは、大事に護ろうとしたのです。


そんな中、僕がリーダーであるために心がけていることは次の2つ。

・全員の意見には耳を傾けて、最後は独裁する。
・正解を選ぶのではなく、選んだ道を正解にする。
」(p.181)

映画の制作やイベントにおいて、多くの人のリーダーという立場になった西野さんですが、リーダーは多数決をやってはいけないと言います。決めたのはみんなだと言って、責任を負わなくなるからです。
たとえ他の誰が反対しようと、みんなを護ると決めて独裁し、最終責任を負う覚悟をすること。その覚悟が重要なのです。
そもそも迷うことには正解がないのですから、正解を求めずに、選んだ道を正解だと信じて、正解だったと思える結果を残そうとすることです。


8年前にスタートして、日本中からたくさん殴られて、それでも負けずに筆を走らせ続けて、ようやく仲間ができて、ようやく回ってきた勝負のタイミングで、100年に一度のウイルスに襲われるなんて、あんまりじゃないですか。
 ただ、ここまで見事に運が悪いと、かえって悲観的にはならないようで、運が悪すぎたのが良かったのか、「この試練には何か意味があるんだろうな」と考える自分がいました。
」(p.222)

ピンチの後には感動がある。そう言ったのは福島正伸さんでしたね。
主人公が苦労しながら成長して、それでもまたどん底に突き落とされ、それでも諦めずにいたら助け舟が現れて成功に至る。こういう感動のストーリーの雛形があるそうですが、西野さんはまさにそれを地で行くような方でした。

負けるもんか。

 コロナ禍の制作を強いられた『映画 えんとつ町のプペル』のリーダーとして決めたことが二つあります。

 一つ目は、世界の誰よりも努力をすること。
 二つ目は、この先どんな問題が襲ってきても、1ミリも言い訳をせず、即座に対応すること。
」(p.225-226)

「コロナだから仕方がない」という言葉も封印したそうです。そういう言い訳をしてしまうと、最初から諦めたのと同じですから。
同じ時期に封切られるはずだったディズニー映画も、公開延期となった中、「えんとつ町のプペル」は予定通りに2020年12月25日公開となったのです。


どうすれば上手くいくのか。絶対的な正解があるわけではありません。また、それを解決する能力があると自信を持っていたわけでもありません。
ただ「やる」と決めて、その決意を揺るぎないものとして保持し続けること。問題の解決策は必ず見つかると信じて歩き続けること。もうダメだと思えても、最後の最後まで諦めないこと。そうやって完成したのが、映画「えんとつ町のプペル」だったのですね。
「決意する」「信じる」「諦めない」という、誰でもやろうとすればできること。それを忠実にやった結果なのです。

そういうことをまったく知りませんでした。たしかに映画化されるという話は、どこかで聞いたようにも思いますが、記憶にすら残っていません。
そういう私がまったく知らない間に、西野さんは努力を積み重ねて映画を成功されました。観客動員170万人、興行収入24億円を超える大ヒットを記録したそうです。

けれども西野さんの中では、挑戦はまだ終わっていないようです。今年もハロウィンに合わせて公開されたとか。知りませんでした。(汗)
これを、毎年恒例の公開にしていきたいという話も、ネットに載っていましたね。

実はこのエッセイも、映画の宣伝の一環なのだそうです。そう書かれていました。
そう考えると、忙しい中で諏訪青年会議所の講演を引き受けられたのも、そういう意味があったのかもしれませんね。

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タグ:西野亮廣
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2021年11月07日

道路を渡れない老人たち



最近は老人介護、看取り、認知症というキーワードに関連するような本をよく読んでいます。
この本も、何かで紹介してあったものか、それともタイトルでピンときたのか忘れましたが、老人介護に関わる問題を指摘しているものです。

著者は神戸利文(かんべ・としふみ)さんと、上村理絵(かみむら・りえ)さんです。リハビリ専門のデイサービス「リタポンテ」を経営する神戸さんは、お父様がパーキンソン病を患ったことを機に介護の世界に飛び込まれ、自分が理想とする介護施設がないということで、そういう施設を作ってこられたようです。

上村さんは理学療法士ですが、リハビリの専門家と言えばわかりやすいでしょうか。病院や介護施設などでリハビリを担当するのが理学療法士などです。
神戸さんは、リハビリが軽視されていることが介護の問題点だということを指摘されたいようです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

東京に住んでいるのに、
買い物難民になっている老人がいる。
」(p.3)

もちろん、スーパーやコンビニはたくさんあります。
お店がないということではないのです。
」(p.3)

答えは「青信号の間に、
横断歩道を渡りきれないから」でした。

青信号の多くは、1mを1秒で歩ける人に合わせているといいます。
これでほとんどの人は道路を渡り切ることができるはずです。
でも、実はこの速度で歩けない人が
300万人以上いるといわれています。
」(p.4)

これがタイトルにある「道路を渡れない老人たち」ということですね。
たしかに老人介護施設では、そんなにスタスタ歩けないお年寄りが多数います。

ただこの本は、道路を渡れないから信号の長さを長くせよ、と訴えるものではありません。
むしろ、道路が渡れるくらいにスタスタ歩ける人を増やそうという視点で書かれています。


身体を動かさなくなるので、
どんどん身体機能が衰えていき、
家族の支援が必要になり、
買い物などを誰かに代行してもらわなくてはならなくなる。
するとさらに、身体を動かさなくなり、
寝たきりになる確率がぐっと上がります。
」(p.6)

また、筋肉の衰えは1ヵ所だけで起きるものではありません。
たとえば、握力が衰えているとき、
同時に脚も衰えていることが多いのです。
」(p.10)

大切なのは、できていたことができにくくなっているということに
なるべく早く気が付き、必要であれば、
適切な介護や医療の制度を使って、
正しい介護や医療を受けることです。残念ながら、
家族や本人に負担をかけないことばかりを考え、適切なときに
歩行などのリハビリを組み入れず、身体が弱るのを年だから仕方ないといってあきらめる。
そんな間違った介護をしてしまっているケースが多く見受けられるのです。
」(p.11)

他人に迷惑をできるだけかけず、
身の回りのことを自分でできて、買い物に行ったり、
友達と外出したり、好きなものを食べたり。
これまで長い間家族で歩んできた当たり前の幸せを、
本人も家族もあきらめることなく「護る」ために、
専門職が「介入」すること。それこそが介護だと私は思います。
」(p.12)

このように、正しくリハビリを受ければ身体機能を衰えさせずに済み、横断歩道を渡って買物さえ行けるのに、そうさせていない介護があるという指摘なのですね。


本書では、今の日本の介護の現状にも触れています。
 姥捨山のような、寝たきりを前提にしている日本の介護の現状を知ってください。
 人任せではいけない。自分で動かなくてはならないという覚悟が芽生えるはずです。
 そして、その現状の中でどうすればいいのか。さまざまな正しいサポートを受けるための情報を集め、知識をつけてください。
」(p.28)

現状の問題点を知った上で、自らそれに対処しようという気持ちが重要なのです。他人任せにしていては、この介護の現状を変えることはできない、ということですね。


道路を渡れない老人が増えていることには、2つの大きな問題があると指摘しています。

1つは、身体能力が弱っていても支援を受けていないということ。
 もう1つは、医師や介護の専門職による情報提供不足や介護に関する社会的インフラが整っていないなどの理由から、介護による支援を受けていても、支援のやり方などが間違っていて、結局、身体機能の改善が見られず、外出もできないまま、徐々に歩けなくなっていくということです。
」(p.36)

これは、介護保険制度などが申請しなければ受けられないということと、サポートする専門家も縦割りだったりして、的確な支援に結びついていないという指摘のようです。


だからこそ、介護の支援で、身体機能の維持は第一に考えてほしいのです。
 そのためには、2つ重要なことがあります。
 1つは過剰介護しないことです。
 特に身体を動かす機会が減り、身体が衰えやすい高齢者にとって、箸やスプーンを使って食事をすること、外を歩くこと、トイレをすること、すべての日常動作は、筋力の維持に大切なものなのです。
 ですから、家族は「できない」から「手を出す」、「時間がかかる」から「やってしまう」ではなく、できるだけ本人がするという方向で考えてほしいのです。
」(p.66)

そして、もう1つは、リハビリ・積極的な機能訓練を行うことです。」(p.67)

転倒のリスクがあるから歩かせないのではなく、どうしたら転倒のリスクを回避できるかを考えるようにと言います。

たしかにそうなのですが、言うは易く行うは難し、という気もします。家族だけでなく施設もそうですが、決められた時間があります。延々と食事をさせておくことはできないのです。
もちろん、介護士が専任でつきっきりなら可能でしょうけど、そのための費用はどうするのでしょうか。この問題は、私は他の本でも指摘しています。

また、責任の問題もあります。施設で転倒させたら、家族から訴えられる可能性もあります。そのリスクは、いったい誰が負うべきなのでしょうか?


リハビリの本来の意味・目的は、「全人間的復権」、言い換えれば「人間らしく生きる権利の回復」です。
 つまり、身体の機能に限らず、その人の生活や心の有り様などまで回復し、それらをさらに維持していくことが、リハビリの目的といえます。
」(p.81)

その人の人生に直結するほどリハビリが重要だということです。それくらいの効果があり、もっと重視されるべきだという思いもあるのでしょうね。


急性期・「回復期で集中的にリハビリを受けてきたが、住んでいる場所に戻ってしまえば、多くの場合、その状態を維持し続けられないという現状があります。
 そこで必要となるのが、3番目の段階の「生活期のリハビリ」です。
」(p.85)

急性期や回復期では、充分なリハビリが病院で受けられると言います。これについては私はよく知らないので、そうなのかなぁと思うだけです。

一方で、退院後は充分にリハビリを受けられず、機能が衰えていくままになってしまう。そこが問題だという指摘です。


これらの3つのリハビリテーション専門職は、法律上は診療補助と位置づけられています。
 言い換えれば、あくまでも、医師の指導の下で、サービスを提供しなければならないということです。

 実は、ここに大きな問題があります。
 なぜなら、リハビリテーション専門職が求められているのは、医療の現場ばかりではないからです。
」(p.96)

医師よりもリハビリに詳しい、国家資格を持つリハビリテーション専門職が常駐していても、医師が常駐していなければ、そこで行われることはリハビリではなく、介護保険上「機能訓練」とみなされます。」(p.98)

3つのリハビリテーション専門職とは、理学療法士(PT)、作業療法士(OT)、言語聴覚士(ST)のことです。PTは病気や怪我で失った運動機能を、OTは不自由になった生活に関わる作業を、STは主に言語障害や嚥下障害を担当します。
それらの専門職が、リハビリのことをあまり知らない医師の指導下でしか活動できない規則に問題があるという指摘です。


患者・利用者や介護保険事業者の側からすれば、医療と介護の現場が連携するのはごく自然であり、メリットが大きいと感じられるのに、医療の側では特にその必要性を認めていない、前時代的な医師がいるということです。
 地域包括ケアシステムへの医師の関与の低さも、それを示しています。
」(p.108)

難関を突破して得られる医師の資格を得た人の中には、他の専門職を見下したりする人もいるでしょうし、そのために効果的な連携ができていないという現実もあるのでしょう。


医師でさえ、
「次、転倒したら、終わりだよ」
 などと、患者さんに平気で言うことがあるのです。
」(p.115)

介護・医療する側にとって都合のよい「寝かせきり」。転倒リスクの回避と過剰介護(看護)こそが、寝たきりが減らない最大の原因なのです。」(p.117)

たしかに、こういうことがありますね。このことは、北欧などの取り組みと異なるとして、他でも指摘されています。実際、動かなければ動けなくなる。当たり前のことです。
そして、この問題の根底にはゼロリスクを求める日本人の気質が関係してくるのではないでしょうか。誰も責任を取りたくない。医師だけではなく、本人もがそうなのです。

本書では、あまり本人の責任には言及していません。しかし、どう考えても一番の問題は、本人が自分の人生に責任を取ろうとしていない点にあると思います。
そういう責任を取る人が増えてくれば、医療や介護の現場も変わってくるのではないかと思います。

日中であろうと、夜間であろうと、人手が足りなければ、看護職員・介護職員が入所者をベッドから起こしたり、部屋から連れ出したりする余裕はありません。
 余裕がないからこそ、徹底的にリスクを避け、結果的に入所(院)者を「寝かせきり」にしておくという選択をせざるをえないのだともいえるでしょう。
」(p.120)

私が働く施設でも、なるべく動かせてあげるように、とは言います。しかし、なかなかできません。時間がかかるし、それに見合う充分な人員が配置されていないからです。
本書では、だからこそリハビリをしっかりするという意識をそれぞれが持つことが大切だと言うのですが、「それぞれ」とは誰でしょうか?
本書を読む限り、そのメインが医師であったり、ケアマネであったりと、医療・介護の責任ある立場を考えているようです。しかし、本当に重要なのは、本人がその意識を持つことでしょう。

仮に寝たままであっても、足を上げる、腹筋運動をするなど、動かすことは可能です。なぜやらないのですか? 自分の人生がかかっていると言うのに。
それをやらないでおいて、寝かせきりにする施設が悪いと責任転嫁をするなら、何も解決しないと思います。その点が、この本を読んでいてチグハグさを感じる部分です。

理学療法士よりも安い給料の介護士が不足しているのです。なり手が少ないという問題もありますが、人を増やしても施設の経営が成り立たないのです。それだけ、全体の売上が少ない。介護保険から得られるお金が少ないのです。
介護士でさえ充分に配置できるお金がないのに、理学療法士を増やしてリハビリを充実させるなんてことが可能でしょうか。
理想は、充分なリハビリを理学療法士のもとで行うことかもしれませんが、そう簡単にはできない現実があります。それを一部の誰かのせいだと考えていては、なかなか解決できないのではないかと思うのです。


みなさん、歩きはじめが痛いから、動かすのをやめようとするのですが、動かなくなると太ももの筋力がなくなり、より関節を痛めやすくなります。そこで、痛くならないような、太ももの筋肉のトレーニングが必要になるのです。
 まずは、リハビリの専門職の意見を聞いて、痛みと付き合いながら身体を動かしていくことが必要なのです。
」(p.146)

本書では、様々な規制でリハビリをあまり受けられないことを問題としていますが、そもそもそんなに時間が必要とは思いません。ここで言われているように、どういう運動をすればいいかという指導を受けるだけでもいいはずです。
あとは、本人がそれをやることです。1時間指導を受け、毎日3時間、1ヶ月継続したらどうですか。リハビリを受けたのは1時間ですが、実際にリハビリを行うのはその100倍にもなるではありませんか。

急性期は安静にしても、慢性期は積極的に動かすべきだ。このことは、「人生を変える幸せの腰痛学校」でも言われていました。動かさなければ、動けなくなるのです。


日常の中で身体をきちんと使えるようにするのが、リハビリの最大の役割です。
 たとえば、「人の手を借りずに、自分でトイレに行きたい」という目的を叶えるためには、必ずしも完全な形で歩けるようになる必要はありません。
 その人が自宅のトイレを利用するためにはどんな動きが求められるのかを考え、その動きを再現して何度も繰り返すようにします。
」(p.159)

スタスタと歩ければ良いでしょうけど、買い物をすることが目的なら、必ずしもそうでなくてもよい、ということですね。残存機能を最大限に活用して、目的が達成できればいいのです。
そういう意味で言えば、必ずしも歩けなくてもいいはずです。車椅子でも、必要な移乗ができるなら、行動範囲はぐんと広がりますから。


確かに、介護を受ける人がそれさえなければ動けるような障がい物は、家の中から取り除くべきです。
 しかし、いくらか努力することで使える家具や住宅内の構造に関しては、身体の機能を衰えさせないためにも、「バリアフリー」ではなく、「バリア有りー」。それをあえて残しておくという選択もあります。
」(p.194-195)

便利になれば、身体の機能は低下します。布団なら毎日床から立ち上がる機能を鍛えることになりますが、ベッドだとその機能は衰えるのです。
けれども、じゃあ今から和式トイレに戻しますか? 一時期、洋式トイレが広まったころ、和式で用を足せなくなった子どもの問題を指摘する声がありました。
正解がどれかは何とも言えません。それぞれの判断基準があるでしょう。だからこそ、無意識に選択するとか、他人のせいにするのではなく、自分が意識的に考えて選択することが重要だと思います。


本書で指摘しているように、リハビリが重視されていないという問題はあるでしょう。また他にも、医療の問題、介護の問題もあるでしょう。
そういう指摘は指摘として、私たちは考えていかなければならないと思います。

しかし、その問題を一部の人や機関のせいだと責任を押し付けて責めるだけでは、何も変わらないと思います。
それよりも、まずは現実がどうなのかを知ることです。そして、当人が自分にとって重要なのことは何なのかということを考えることです。
制度的に、すぐに解決できないことは多々あるでしょう。しかし、そういう現実の中でも、自分がやれることもまた多々あると思います。

そういうようなことを、この本を読むことで考えさせていただきました。必ずしも主張のすべてに賛同ではありませんが、私とは異なる視点を示していただけたことは、ありがたいと思っています。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 20:06 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年11月04日

ネットショッピングでリピ買いしている物したい物

私は、よくネットで商品を購入しています。
Amazonや楽天市場がメインですが、私はどちらかというと楽天市場をメインに使っています。

書籍は、楽天ブックスにあるならそれを買いますが、ないことも多いです。そういう場合は、Amazonで購入します。
ただし、電子書籍はKindleしか使ってないので、Amazonで購入します。


ネットで商品を買うことに抵抗感がある人も多いかと思います。
それは、届くまでどんな商品なのか、見て触って確かめることができないからでしょうね。
私はもう慣れたので、レビューを見たりして思い切りよく買います。

もちろん、それによって「失敗した〜!」と思うものもありますが、慣れてくると大きな失敗はあまりありませんね。
服や靴もネットで買いますが、サイズ間違いという失敗もそれほど多くはありません。


そんな、ネットショッピングフリークの私が、これは買って良かったと思い、私自身がリピ買いしている商品、絶対にリピしたいと思っている商品だけを、ここではオススメとして紹介したいと思います。
※これは楽天市場のアフィリエイトです。アフィリが嫌な方は、商品リンクをクリックせずに、商品名などでご自分で検索してくださいね。




この生姜パウダーは、手足が冷たい冷え性の私の救世主とも言えるものです。
タイで暮らしていた時は、そもそも気温が高いので気にならなかったのですが、長野の山奥へ引っ越してきて、この寒さに参っていました。
ホットカーペットを使っても、足元がスースーして冷えるのです。なので、布団を腰から下に巻いてソファに座っていましたよ。

それが、この生姜パウダーを1さじ、焼酎お湯割りに入れて飲むようになってから、ホットカーペットを使わなくても足裏が火照るくらいになりました。
これはいいなぁ。そう実感しつつ、生姜入り焼酎お湯割りを飲んでいます。




これは、私のふるさと、島根県の名産品「しじみ」です。
何がすごいって、これ真空パックにしているだけで常温保存できるんですよ。びっくりでしょ?

しかも、これがけっこういい出汁が出て美味しいんです。
私の故郷自慢として同僚に配ったりしましたが、とても好評でした。

しじみは、稚貝の提供も含めるとほぼ9割が島根県の宍道湖産だと言われています。
ぜひ、食べてみてほしいなぁ。




その宍道湖の「しじみ」を、もっと手軽に食べられるようにしたのがこの商品です。これも好評でした。

だって、自炊しない人もいるでしょ。味噌汁を作る人なら、前の商品が良いと思います。
でもそういう料理をしない人でも、1杯分の味噌汁を作れる商品を利用する人は多いじゃありませんか。
そういう中に、しじみの味噌汁もありますが、いかんせんしじみが少なすぎます。(涙)

この商品は、貝殻も付いた本格的なしじみの味噌汁が1杯分作れるという優れもの。
もちろん、お湯を注ぐだけの手軽なものです。




これは私がやっている「趣味のトイレ掃除」の必需品であり、秘密兵器なのです。
これを買ってから、もうこれなしではやってられないほど。だって、頑固な尿石汚れだってサクサクと落とせるのですから。

私は、今いる施設のトイレをいくつも掃除しているので、この10本まとめ買いを利用しています。もう3回買ったでしょうか。
しかし、家庭にある1つのトイレだけを掃除するのであれば、他に1本だけ売ってるページもありますから、そちらをご利用ください。


送料がもったいないと感じるかもしれませんが、私は買って損はないと思っています。実際、私も、最初はその1本だけを買って試してみましたからね。


[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

コニシ 衛生陶器用パッド こすってクリーン 10枚入
価格:2670円(税込、送料別) (2021/11/4時点)



これも、私の「趣味のトイレ掃除」に欠かせない商品です。
通常のスポンジではなかなか落とせない汚れを、簡単に落とすことができます。

これ、スポンジの両面に布ヤスリが貼ってあるような商品です。
この布ヤスリの目の粗さが、実にちょうど良いと感じています。

こういうスポンジヤスリは、他にもいくつか商品があります。
しかし、目の粗さを番手で示してあるものの、実際の使い勝手がよくわかりません。
もちろん、それらをいくつか購入して試してみてもいいのですが、私は先ほどの軽石と合わせて使うには、このくらいの細かさがちょうど良いと感じています。しかも両面使えますからね。

これも、私はいくつもの便器を掃除するので10枚セットで購入していますが、1枚とか2枚でも売られています。
でも、これは通常の掃除でも使えるものなので、家庭用であっても、10枚セットを買って損はないかと思いますよ。

なお、先ほどの軽石とこのスポンジヤスリですが、便器だけでなく陶器の洗面台にも使えますよ。
ステンレスのシンクなどに使うのはやめた方がよいと思いますが、陶器であれば他にも使えると思います。
ぜひ、大掃除前に用意されることをお勧めします!



私がタイでよく飲んでいたビールがこれです。
LEOと書いてリオーと読みます。後ろのオーが上がる抑揚ですね。そう発音するとタイ人ぽくなりますよ。(笑)
タイでは、この小瓶サイズは100円程度で売られていますが、さすがに日本で買うと高く付きますね。

これまではチャーンビールがダントツの出荷量第1位でしたが、ビール会社のシンハーがこのLEOを格安ビールとして投入して、ついに出荷量第1位の座を奪い取りました。
当初は「セクシーリオー」というキャッチフレーズで、セクシーな女性を前面に出したプロモーションでした。その過激さで話題になりましたね。
今はさすがにおとなしくなって、ふつうに売られています。

スッキリしていてクセがなく、飲みやすいビールです。
日本の基準で言うと発泡酒になるのかもしれませんね。
タイではウイスキーでも米由来のアルコールなどを混ぜることがよくありますが、これもそういう技法を使っているのかもしれません。

日本にいても、時々なつかしくて飲みたくなるビール。それがLEO(リオー)なのです。
と言うことで、今夜はビア・リオーで乾杯かな。チョン・ゲーオ(かんぱい)!
 


日ごろ飲んでる焼酎お湯割り(夏は水割り)の必需品がこのリンゴ酢です。
これは私の友人から紹介されて買ってみたのですが、なかなか良かったのでリピ買いしています。
私が使うものですから、この訳アリ品で十分です。それでも1本(1升)2000円くらいしますから、大事に飲みたいものですね。

私の飲み方ですが、水割りなら焼酎とリンゴ酢をカップで計って大きめのペットボトルに入れ、水を継ぎ足して水割りを作っておきます。
私は基本的に常温で飲むので、このままカップに注いで飲めばいいわけです。
今はすっごく薄めて飲むので、25%の焼酎を1合(180cc)、リンゴ酢を半合(90cc)、そこに水を加えて1升(1.8L)にする感じです。

お湯割りを作る時は、もっと適当です。
焼酎適量とリンゴ酢数滴をマグカップに入れ、お湯を継ぎ足して作ります。
このリンゴ酢、数滴でも十分に味と香りが楽しめるんです。


次は、酒のつまみです。健康的なつまみ(肴)としては、豆腐とかチーズとか、あるいはもろきゅうやコンニャク田楽、シンプルに枝豆なんてのもありますが、私はミックスナッツをお勧めしたいです。特に、アーモンドとクルミが入った3種以上のミックスナッツがお勧めです。

カロリーが高いということはありますが、ダイエットは別のところで考えればいいんじゃないかと。それ以上に、普段の食事ではなかなか得られない栄養素が得られるという点で、ミックスナッツがお勧めです。
その中でも、私が買ってリピしているのがこれです。



850gも入って1,480円(税込、送料無料)ですからね。コストパフォーマンスも最高かと思います。
そして、豆の質がいいんです。欠けや崩れがほとんどありません。なので、お客様が来られた時に出すおつまみとしても重宝するかと思います。


コストパフォーマンスだけを言えば、こっちのミックスナッツもお勧めです。



こちらは1,228円(税込、送料無料)ですからね。同じく850gです。
ただ、欠けや崩れがけっこうあります。袋の中が粉っぽく濁っていることからもわかると思います。

しかし、豆の栄養的な質がどうなのかまではわかりません。わかるのは見た目だけです。
あとは、先ほど紹介したものよりアーモンドが多めでクルミが少ないように感じます。

同じミックスナッツでも、豆の割合や豆の質など、いろいろ違いがあると思います。
なので、単なる値段比較ではなく、そういうところまで見極めてから、書い続けるかどうかを判断されれば良いかと思います。

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いかがでしょうか。
もし気に入ったものがあれば、ぜひお試しくださいね。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 19:58 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年10月31日

ようこそ感動指定席へ!



これも日本講演新聞(旧「みやざき中央新聞」)で紹介されていた本です。
「日本一心を揺るがす新聞の社説」という本の広告に興味を抱いて読んだのが、「みやちゅう」との出会いでした。それからWEB版に変更し、ずっと読み続けています。

今回読んだ本も、中日新聞のコラムを集めたもの。その内容は、「みやちゅう」と同様に暗い世相を伝えるものではなく、ちょっとほろりとするような日常的な出来事を、読者からの投稿をもとに伝えています。コラムの執筆者は志賀内康弘(しがない・やすひろ)さんです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

本書は、中日新聞の愛知県内版(169万部発行)で連載中のコラム「ほろほろ通信」のベストセレクションです。勝手な想像ですが、ご家族や職場を含めると500万人位の方に読んでいただいているかもしれません。2006年4月にスタートし、現在までに掲載された約310編の中から、99編を選び出しました。
 「ほろほろ」とは、花びらや葉っぱ、そして涙が静かに零れ落ちる様のこと。心がポカポカして、ときには胸が熱くなる「ちょっといい話」のコーナーです。
」(p.3)

このコラムの連載が始まるとき、編集者さんから二つの点を依頼されました。一つは「投稿者が主役で基本的に実名」であること。いま一つは、「物語性を重視し教訓話にしない」ことです。」(p.4)

そのため、すべてが実名入りの「実話」です。「事実は小説より奇なり」と言います。実話だからこそ、心の奥底にジーンと沁みます。」(p.4)

このようにコラムのことを紹介されています。「ほろほろ」という言葉は、花や葉が散る様にも用いる言葉なのですね。どことなく切なくも感じますが、「ほろり」というのはちょっとした感動に涙がこぼれそうになる感じ。そういうニュアンスが伝わってきます。


7年間の連載を通じて「感動・いい話の法則」を見つけました。それは、「○○なのに○○だ」という意外性です。分かりやすい例で言うと、「小柄なのに大リーガー」。そう、イチローのことですね。」(p.5)

そしてもう一つの法則。それは、「ピンチに天使の登場」です。」(p.5)

ヤンキーな兄ちゃんが優しい行動をとったとか、想定外の大変なことが起こった時に、ふと出会った人に助けられた、というようなことですね。まさにこの本は、そういう話がいっぱい載っていました。


p.30には「拍手で迎えられて」という話がありました。
バス旅行で土産物屋へ行ってバスへ戻った時、買った物が入った袋を忘れてしまったことに気づきます。外に出て立ち寄ったところを探してみるも見つからない。悲観してバスに戻ると、1人の乗客がトイレの扉の内側のフックに似たような袋があったと教えてくれます。

急いで行ってみると、たしかにありました。しかし、バスの乗客には長い時間待たせて、大変な迷惑をかけてしまった。大ひんしゅくを買ったと思い、文句の1つも覚悟してバスに戻ったら、みんなから「良かったね」と拍手で迎えられた、という話です。

まさに「ピンチに天使」ですね。そして、「怒られても当然なのに、一緒に喜んでくれた」という意外性。こういう体験をすると、人っていいものだなと思うし、自分も同じようなことがあったらイライラせずに優しい気持ちでいようと思いますね。


p.86には「内定取り消しを巡って」という話があります。
工業高校の男子生徒が、リーマンショックに始まる不況で内定取り消しになったそうです。もうすでに他の企業の採用は終わっており、途方に暮れてしまったのだと。

その時、担任の先生や校長先生が奔走してくれて、企業に再考を頼み込んで、内定を復活させてもらえたそうです。彼は皆勤賞の真面目な子で、きっと御社の役に立つ人材だからと口説いて。

しかし入社後、景気が回復せずに自宅待機が続いたそうです。給料は少なく、転職の話もあったとか。しかし、その会社に残ると言って、頑として転職話に乗らなかったのです。

自分が大変な時に救ってくれた会社を裏切りたくない。たとえ損をしても、そういう生き方こそが自分らしい生き方だから。
そういう思いが伝わってくるような話で、私もほろりとしてしまいました。


p.122には「ニコニコになあれ」という話がありました。
2歳の娘さんの子育てに忙しい高校の養護教員の女性。遊びながらゆっくりと朝食を食べる娘さんに、ついイライラしてしまうことがありました。

そんなある朝、娘さんを急がせて車に乗せて保育園へ行こうとした時、娘さんから呼びかけられたそうです。

「何?」と聞くと、「お母ちゃん、ニコニコしてよ」と言う。さらに人さし指をクルクル回して「ニコニコになあれ、お母ちゃん」と。保育園で覚えたのか、まるで魔法の呪文(じゅもん)のように唱えた。
 忙しくて、心がささくれ立っていた。そのことを幼いながら感じ取っていたのだと思うと、申し訳なくて泣けてきてしまった。「ごめんね、お母ちゃんプンプンして」と言うと、もっと泣けてきた。さらに「お母ちゃん泣いちゃだめ、ニコニコになあれ」と言う。
」(p.122-123)

大事なのは、何かを思い通りにこなすことではなく、ただ幸せであることだけなのに。ついつい忘れてしまいがちなんですよね。


そんなに大げさに感動するような話はありません。本当にちょっとほろっとするような話ばかり。でも、だからこそ気楽に読めるし、ちょっと考えさせられるのかもしれませんね。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:35 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年10月26日

血管が詰まらない、切れない100のコツ



老人介護施設で働いており、最近は老人介護、看取り、認知症などに関心があって、そういう本でピンとくるものを読んでいます。
この本は、そういう中で見つけたものですが、私が読みたいというより、施設の利用者様が読みたいかなぁと思って買ったものです。

案の定、想定したように通り一遍の内容でした。
50人くらいの専門家の方が、それぞれ「これが役立ちそうだよ」というものを紹介しているだけで、全体的に統一感があるものではありません。
実際のところ、たとえば塩が高血圧につながると言う人もいれば、逆に塩の取り過ぎは無関係と言う人もいて、ある意味で支離滅裂です。
与えられたページ数も限られているようで、「これがいい」「これが役立つ」の根拠も薄弱だし、何も示していないものも多々あります。

そういう本なので、積極的にお勧めするつもりはまったくありません。ですが読んでみて、いろいろ感じる部分はあったので、そのことを記録に残しておきたいと思います。編集は主婦の友社です。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

血管が詰まったり、切れたりすることは、脳卒中や心筋梗塞などの重大な発作を起こすだけでなく、さまざまな病気や症状につながることがあります。
 日本人の死亡理由の上位に挙げられる血管のトラブルは、文字通り血管の障害によって起こります。大きく分けると、血管が詰まる「梗塞」と、血管が破れる「出血」、また、脳の場合では血管が破れることで脳と頭蓋骨の間にある水(髄液)に出血する「くも膜下出血」があります。
」(p.10)

脳細胞は身体の中で最もたくさんの酸素とブドウ糖を消費しますが、これらを蓄えることができません。詰まったり破れたりした血管の先に血液が送られなくなると、とたんに酸素やブドウ糖が不足して、脳の神経細胞が傷つけられてしまいます。すると、身体のマヒや、言語・視覚障害などの症状がもたらされたり、最悪の場合は死に至る場合もあるのです。また寝たきりやボケなどの原因にもなります。
 血管が詰まる、破れるなどの問題は、老化やストレス、悪い生活習慣などによって血管が傷むことに起因しています。
」(p.10-11)

このように、血管が詰まったり破れたりすることが、私たちの健康にとって大きな問題につながるということです。そしてその原因は、老化や生活習慣、そしてストレスだということですね。
このような前提をもとに、ではどうすればこういう問題を起こさなくて済むようになるのか、というのがこの本のテーマになります。


ペンや箸をぽろりと落とす、ろれつが回らなくなる、思うように話せない、手足や顔面にしびれがある、ものが二重に見える、片側の目が見えにくい、視野の一部が欠ける、食べ物が飲み込みにくい、などの症状に思い当たる節があれば、脳梗塞の前ぶれである「一過性脳虚血発作」が疑われます。繰り返し起こるようであれば、大きな発作の可能性も高くなります。即刻、大きな病院で検査を受けてください。」(p.13)

これも最近はよく知られるようになりましたね。上記のような変調が続くようなら、受診してみると良いかもしれません。
ただし、だからと言ってこれだけで脳梗塞とは言い切れません。実際のところ私は、ろれつが回らないということが続くために大学病院などでCTやMRTの検査を受けましたが、まったく正常でした。つまり原因不明ということです。
ストレスではないかと言われましたが、逆にストレスから解放されたところでしたので、医師のなんでもストレス説にはうんざりしたものでした。


高齢者の場合、これらの発作が多発するのは冬場ですが、働き盛りの中高年では身のまわりの環境が変化しやすい4月に多く発症します。ところが、曜日や時間帯を見ると、土曜日や日曜日、あるいは深夜0時〜3時に多発しています。不思議なことに、勤務中ではなく、休日や深夜に倒れたり亡くなったりしているのです。
 つまり、病気の背景にはストレスがあり、発作のきっかけはリラックスにあると考えられます。
」(p.19)

脳梗塞や脳出血、くも膜下出血、心筋梗塞などが起こるタイミングには、上記のような特性があるのですね。
ストレスが原因と言われますが、ストレスが溜まった後のふっと気を抜いたタイミングで、上記のような発作が起こりやすいというのです。

そうだとすれば、私がストレスから解放されたタイミングでろれつが回らなくなったというのは、あり得ることかもしれません。
けれども、そういうことを大学病院の医師は何も説明しなかったし、最新鋭の機器で検査しても異常は見つかりませんでしたよ。そういうことがあった、ということは述べておきたいかと思います。


健康な人ならば、食事によって血糖値が上昇しても、一定のラインを超えることはありません。しかし、糖尿病にかかると、高い値が続いたままになり、血管や臓器が糖によって傷つけられてしまいます。これが、糖尿病の三大合併症といわれる、神経の病気、目の病気、腎臓の病気をはじめ、さまざまな病気の原因につながります。」(p.47)

高血糖が続くと、どうして合併症などの問題が起こるのか? 実はまだ正確にはわかっていません。
増え過ぎたブドウ糖は血管の壁にある内皮細胞に入り込み、活性酸素が発生させ、血管を傷つけてしまうと考えられているようです。あるいは、細胞内のたんぱく質に結合して細胞が変質し、正常な機能を保てなくなる。つまり血管の細胞が傷つくことで、その部位の正常な機能が損なわれる、ということが考えられています。

このようなことがググればわかるのですが、この本にはそこまでの詳細な説明はありませんでした。


糖尿病、肥満、高血圧、脂質異常症などの病気は総じて「生活習慣病」と呼ばれています。生活習慣の管理を怠ることで発症しやすいこれらの病気は、「ひとつの病気」と捉えることもできます。肥満から高血糖、脂質異常症になるというように、連鎖して引き起こされることも多いからです。」(p.50)

メタボリックシンドロームと呼ばれるように、要は肥満が諸悪の根源なのだと思います。
しかし、「肥満」「高血圧」を「病気」と説明するのは、いささか乱暴かと思いますね。


じつは、高血圧の明確な原因はほとんどわかっていません。この原因不明の高血圧は「本態性高血圧」といって、3000万人以上いる高血圧症患者の95%を占めています。」(p.55)

つまり、ほぼほぼ原因不明だということです。にも関わらず、高血圧の原因は塩の摂り過ぎだという決めつけだけはするのですね。

高血圧が慢性的に続くと、血管は次第に弾力性を失って硬くなり、ボロボロになったホースのようにもろくなります。すると、ちょっとしたことで詰まってしまったり、破裂しやすくなったりするのです。そこに繰り返し高い圧力がかかれば、最悪の場合、脳梗塞や心筋梗塞などの命を左右する病気が引き起こされます。」(p.56)

何となく納得してしまいそうなのですが、因果関係が明らかではありません。
高血圧だから血管が弾力性を失うのでしょうか? そのことは証明されているでしょうか?
原因はわからないけど高血圧が続くと血管がボロボロになって梗塞や出血などが起こる。こう説明すると、まずは高血圧を治しましょうということになり、降圧剤の処方が正当化されるわけです。

しかし、本当にそうでしょうか? 少なくとも、この前に紹介した「やっぱり高血圧はほっとくのが一番」によれば、必ずしもそうとは言い切れないとなります。


調べていくうちに、人によって脂肪蓄積の分布には差があることや、CTスキャンを用いた検査法で内臓脂肪の状態を知ることができることを突き止めました。そして、世界で初めて、学会で内蔵肥満に関する発表を行いました。さらなる研究で、内蔵肥満になると糖尿病や脂質異常症、高血圧をはじめとする生活習慣病にかかりやすくなるということもわかりました。」(p.59)

同じ肥満であっても、皮下脂肪が多い肥満と内臓脂肪による肥満では、健康に与える影響が違うということですね。
ただこれも、因果関係なのか単に相関関係なのかははっきりしていません。いずれにせよ、肥満、つまりメタボを解消することが重要だと言えるでしょう。


青い部分はカリウムとカルシウムが豊富で、カリウムには血圧を上げる原因であるナトリウムを排出する働きがあり、高血圧の予防、改善にパワーを発揮します。利尿効果も高く、筋肉のエネルギー代謝を高めるため、血糖値が気になる人にも有効です。カルシウムが骨粗鬆症の改善にもつながるほか、βーカロテンとビタミンAには、視力低下や爪・髪の傷み、抜け毛などの予防が期待されます。」(p.98)

これはネギに関する記述ですが、食べ物によって病気の予防につながるという代表的な記述を1つ取り上げてみました。
読んでわかるように、どれほど効果があるのかという科学的な根拠はまったく示されていません。試験管内でこういう効果があったということは事実でしょうけど、それが人体においてどれほど病気の予防に役立つのか、科学的な根拠はどこにもないのです。
ですから最後に「改善にパワーを発揮します」「有効です」、挙げ句は「期待されます」とごまかしてますよね。


脳の血管にとって大切なのはコレステロールです。コレステロールが不足すると、血管の壁が薄く弱くなり、脳卒中や脳梗塞を起こす可能性がぐんとアップするのです。ところが、コレステロール値が正常値を少しでも超えると「卵や肉を控えなさい」と指導されます。実際、心臓の血管である冠動脈に悪玉コレステロールが沈着すると動脈硬化を起こすのですが、日本での心筋梗塞発生率はアメリカの1/3〜1/4程度。それよりは同じ血管の病気でも、日本に多い脳梗塞を心配するべきなのです。」(p.116)

このように、コレステロールが高いことより低いことの方が問題だという指摘もあります。
医師や研究者によって見解に違いがあるということは、それだけまだはっきりしていないということの証左ですね。


アメリカでの約20万人を対象とした健康調査でも、塩分摂取量の多い人ほど心臓病や脳卒中などによる死亡率が低くなることが明らかになっています。加えて、グルジア共和国のコーカサス地方では100歳以上の長寿者たちの塩分摂取量はかなりのものですが、みな元気で健康です。当地の長寿学研究所のダラキシビリ教授は「塩は体を温め、気力・体力を増し、健康を保つうえで一番大切なものである」といいます。また「塩は体にたまると確かに生活習慣病の原因になる。しかし、労働や運動で発汗して排出すれば何ら問題はない」ともいっています。
 つまり、「塩を多くとる=高血圧・脳卒中の原因」ではなく、「塩を体にためる=高血圧・脳卒中の原因」となるのです。
」(p.120-121)

これは、これまでにも本を紹介している石原結實氏の記述ですね。一言で塩分量と言っても、食べる量だけを考えても意味がありません。必要だからこそ食べるべきなのですから。
では、どのくらいだと食べ過ぎなのか? 私はやはり、身体の声に耳を傾けるべきだと思うのです。


やせると血圧やコレステロール、血糖値が下がり、メタボリックシンドロームを回避できることは、皆さんご承知の通りです。ところが、いざダイエットを始めても、「続かない」「リバウンドした」など、やせられない人は少なくありません。
 そこで、実際にわたしが3ヶ月で73kgから64kgにまでやせた「ボールペン1本ダイエット」を紹介します。やり方は、1本のボールペンとメモ帳、体重計を用意して、毎日の体重を量ってグラフ化するだけ。自分の現状を見つめ直すことができ、ダイエットできるという仕組みです。
」(p.162)

これは「測るだけダイエット」とか「記録するだけダイエット」と呼ばれるダイエット方法ですね。私も試したことがあります。
1本のボールペンかどうかは意味がないので、「ボールペン1本ダイエット」という名前はあまり賛同できませんがね。

まあこれも1つのやり方だと思います。それよりも「やっぱり高血圧はほっとくのが一番」にもあったように、「食べない」ということが確実で核心をついているかと思います。


ということで、今の私からすると、それほど役立つ内容ではなかったのですが、記録としてブログ記事に残しておこうと思います。

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2021年10月23日

やっぱり高血圧はほっとくのが一番



私自身、ずっと高血圧です。上の血圧が150〜160mmHgという状態が10年以上は続いているでしょうか。そういうこともあり、どうすれば高血圧を改善できるかということに関心があり、情報を集めたりもしています。
ともかく太っているのはよくないということで、ダイエットも自分の身体でいろいろ実験しました。その結果、10kgくらい痩せて、血圧も120mmHgくらいに下がった時期もありました。けれども、また高くなって、現在は体重がさらに落ちているにも関わらず、相変わらず血圧が高めの状態です。

そういうこともあって、オススメに出てきたこの本のタイトルにピンときました。
これまでは、いかにして高血圧を改善するか、という考え方でしたが、それとは異質の考え方があると感じたからです。

血圧降下剤を飲むことには抵抗があります。なるべくそういう薬に便りたくない。そう思っているので、この本からなにか得られるかもしれないと期待したのです。
実際、これを読んだ結果、タイトルにあるように「ほっとくのが一番」だなぁと思えるようになりました。それは、私の価値観と非常にマッチしていたからです。

著者は、現役の医師の松本光正(まつもと・みつまさ)さん中村天風氏に師事しておられるということで、積極的思考の大切さをよく理解しておられる方のようです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

血圧のお話に入る前に、読者のみなさんにどうしても知っておいていただきたいことがあります。それは、本題の血圧をはじめ、風邪、発熱、下痢、便秘などによる病院や診療所への受診のうち95%は不要だということです。」(p.14)

なぜ受診が不要なのに、多くの患者さんはお金と時間をかけて通院するのでしょうか。それには4つの原因があると考えます。
 @正しい医学知識がないこと、A「不調=悪いこと=薬で取り除くべき」と思い込んでいること、B老化現象を治療すべき病だと思いこんでいること、C不調を放置することが不安でたまらないこと、です。
」(p.14)

いきなりストレートですが、受診の95%、つまりほとんどの受診は不要だと主張されます。
そして、高血圧だけでなく、風邪とか発熱や下痢なども、受診は不要だということなのですね。

@〜Cの詳細は本書を読んでください。そのAの説明の中に、次のような文があります。

この「人間も普通の生物」「生物の一種」という考え方がないから、人間は自然界には本来存在していない化学薬品(薬)を平気で飲み、科学的合成品の食品添加物を口にします。」(p.17)

人間もまた動物の一種に過ぎない。これは、動物つまり生命がやっていること以上のことは不要だということです。なぜなら、生命にはその生命を維持するための装置が備わっているからです。

その一つが自然治癒力です。自然治癒力のおかげで、少々の不調なら私たちの身体は薬の力を借りなくても自然に治ってしまいます。」(p.17-18)

私がやっているレイキも、自然治癒力を助けるものという立場です。病気を治すのは自然治癒力の働き。そういう大前提を、私たちは忘れてしまっているのかもしれませんね。

患者さんも医師も、なぜ熱や咳が出るのか、そのようなことは考えません。血圧もなぜ上がるのかなど考えようとしません。血圧が命を守る大切な現象などと考えたこともないのです。」(p.18)

レイキでは、発熱や下痢などは身体の浄化作用だと言っています。同じ理屈で、高血圧も浄化作用だと言えそうですね。


次にBの説明の中では、次のように書かれています。

人間は年をとります。年をとることはすなわち老化することです。老化すれば、それに伴う変化が身体に起こります。これは誰にも避けることはできません。それなのに、この加齢による身体の変化をも「病」だと思い込んでいる人が大勢います。」(p.19)

加齢によって白髪が増えたり、髪の毛が薄くなったりしますが、誰もそれを病気だとは思いません。けれども血管や骨の老化は病気だと思い、治療できると信じているという指摘ですね。

白髪一本を黒くすることすらできないのに、骨粗しょう状態になった骨を薬や注射で強く丈夫にできるわけがありません。それにもかかわらず、医師も患者さんも躍起になって骨粗しょう症を治療しようとします。医療機関はこれに乗じて金儲けしようとしますし、患者さんは言われるがままにお金を使っています。老化をきちんと理解していないから、こういうことが起こっているのです。」(p.20)

これはまた痛烈な指摘ですね。私が勤める施設の利用者様も、定期的に骨粗しょう症改善の薬を飲まれている方がいらっしゃいます。いいカモにされている、というのが松本さんのお考えのようです。


Cの説明では、次の一文があります。

多くの患者さんは、たとえ食べたいものを我慢しても、旅行の費用を抑えても、なんとかやりくりして必死に医療費を確保しています。医療にお金を使わなかったら、好きなものが食べられます。お友達との付き合いも活発にできますし、旅先でよい旅館にも泊まれます。
 受診という楽しいとは言えないことのためにお金を使うのと、幸せで豊かな時間のために使うのとどちらがいいですか。おそらく後者のほうがいいですよね。そのためにはマイナス思考をプラス思考に変えましょう。
」(p.22)

要は、何のために生きているのか、ということでしょうね。健康になるために生きているのではなく、楽しむために生きているのだと。


あなたの身体の中にいる最高の名医とは、あなたの身体に生まれたときから備わっている「自然治癒力」のことです。」(p.23)

私たち人間の身体は、誰でもみんなこの自然治癒力で守られています。風邪だけではなく、口内炎、胃潰瘍、肝炎、湿疹、切り傷などすべての不調は受診しなくても自然に治るのです。これらの症状が治癒するのは、医師や薬が治しているためではありません。医師はほんの少しのお手伝いをしているだけで、あなたの身体が持つ自然治癒力のおかげで自然に治っているのです。」(p.24)

もともと最高の名医が備わっているのだから、それより劣る医療を受診する必要はないということですね。こういうところは、レイキの考え方に通じるものがあります。


たとえ、咳や下痢のような不快な症状があったとしても、それは現在のあなたの命を守るために自然治癒力によって作り出された、今のあなたの身体にとって最良の状態なのです。
 健康診断時に出たさまざまな検査の数値は、もしそれが基準値からはみ出していたとしても、それが今のあなたにとって一番よい数値です。その数値で健康が保たれているからです。
」(p.34-35)

先ほども書いたように、すべての症状は浄化作用だとレイキでは言っています。つまり、身体を健康に保とうとする自然治癒力の働きによって引き起こされているものなのです。
そういう考え方からすると、様々な診断数値の異常は病気ではなく、それ自体が健康を保とうとする生命の自然治癒力の結果だとも言えるのですね。


通常なら肺炎になると高熱が出ます。単純な風邪よりもなお一層高熱を出して命を守るのですが、元気がなく、自然治癒力を発動させる力がないから熱が出ないのです。熱が出ないからウイルスが繁殖して、風邪から肺炎へと一気に進むというのが無熱性の肺炎です。」(p.41)

初めて知りましたが、自然治癒力の働きが弱まると発熱すらせず肺炎が進行することがあるのですね。発熱が悪いことなのではなく、むしろ発熱するから治るのです。


事実、内科では高齢者の大動脈に石灰化という現象をよくみかけます。これは破れそうになっている大動脈に石灰の覆いをかけることによって大動脈が破れるのを防いでいるのではないでしょうか。また肺や腎臓にも各所で石灰化という現象をみます。何か疾患があるとその跡に石灰化が発生します。身体の保護作用だと思います。」(p.56-57)

石灰化という現象すらも、身体が健康を保つために自ら行っていることだ、という見方ですね。まだ科学的に解明されていないとは言え、そういうことがあるのかもしれません。
松本さんは、同じ理由で歯の石灰化、つまり歯石も歯を保護する目的があるのかもしれないと言っています。十分に考えられますね。


健康を保つために最適な血圧の目安としては、経験的に年齢+90という数値が使われており、私もこの数値を目安にして良いと考えています。」(p.68)

これには賛否両論あるようです。私は現在60歳ですから、上が150で最適だということになります。90歳のお年寄りなら、180でも大丈夫だってことですね。
ここでも、老化ということを考えれば、若者と年寄りを同列に扱うことはおかしい、老化が病気でないなら老化現象を考慮すべきだ、という松本さんの考えが表れています。

そもそも血圧が130を超えたら正常高血圧、140を超えたら高血圧だと設定し「高血圧は身体に悪い、死にますよ」とあなたを脅かしているのは誰でしょうか。
 それは製薬メーカーと製薬メーカーのおこぼれをもらっている御用学者、そして血圧の本質を考えようとしない、あるいは知らない医師たちではないでしょうか。
」(p.73-74)

テレビではいろいろな健康食品メーカーがここぞとばかりにこの130を利用して国民を煽っています。その結果、いつの間にか日本中が正常血圧130未満を保たねばと洗脳されてしまったのです。まさに洗脳です。これが「血圧心配性」の患者を増やしたのです。あなたも洗脳されていませんか。」(p.74)

これまた手厳しい指摘ですね。けれども、こういうことがあるように思います。


つまり、血圧が高い、低いと言いながら、いつ、どこで、どのような状態で測る血圧が基準なのかが定められていないのが現状です。
 基準がないのに「血圧が高いですね、薬を出しましょう」と医師は言います。なんとか薬を飲ませようとしているのです。だから科学的な基準を作ろうとしないのです。
 もっとも作れないというのが正しいでしょう。誰にでも科学的に当てはまる基準などというものは設定のしようがないのです。
」(p.79)

気温を測るのでさえ、どういう場所でどのようにしていつ測るのかという基準があると松本さんは指摘します。しかし血圧は、眠っている時に横になって測るのか、運動後や食後に測っていいのかなど、基準はあいまいですね。
1日の間でさえ変動することがわかっている血圧を、何の測定基準もなく測って、130という一律の基準で診断することが問題だという指摘です。

とにかく一番低いときの血圧を見つけて、それが自分の血圧値だと思ってください。それがあなたの血圧の基準値です。そのときの血圧が年齢+90なら安心です。それより低くても一向に構いません。」(p.80)

あなたの身体は、その最も低いときの血圧を基準として、必要なときに必要な分だけ血圧をあげます。この基準にしたがうと、ほとんどの人は高血圧症ではなくなります。薬など飲む必要はなくなります。」(p.81)

変動する血圧ですが、最も低い時の血圧を自分の基準値とすればよい、という考え方ですね。それより高くなる時は、身体に何らかの理由があって、健康を維持しようとした結果だととらえるのです。


血圧が高いとなぜ危険なのでしょう。切開のときに血圧が下がって上の血圧が60になったほうがよほど危険です。最悪の場合、死に至る可能性があります。血圧は低いほうが怖いのです。」(p.82-83)

考えてみれば当然で、血圧が低いと脳に血が行かなくなり、失神したり、重篤な障害が残ったりします。起立性低血圧症というのがありますが、私の妻もそれで風呂場で卒倒し、頭を強く打ったことがありました。
高血圧は、すぐに死に結びつくわけではありませんが、低血圧は間違いなくその先に死があるのです。


「血圧心配症」で、これまでずっと降圧剤を飲み続けてきたという人がいるかもしれません。もしあなたがここまで読み進めてきたことで、その薬を飲みたくないと思ったのなら今すぐに止めても構いません。決断するのはあなた自身です。」(p.92)

大櫛先生の研究によると、降圧治療をおこなっていた人たちのグループでは降圧治療をおこなっていない人たちのグループに比べて脳梗塞を発症した人の割合が2倍も多かったことが報告され、高血圧の治療が脳梗塞リスクを高めている可能性を示唆しました。
 降圧剤を飲んでいる「のに」脳梗塞になったのではありません。降圧剤を飲む「から」脳梗塞になるのです。
」(p.92-93)

脳梗塞という脳の血流が悪くなって詰まった人に対して病医院では降圧剤を出します。必ずと言っていいほど処方します。詰まったのですから血圧を上げる薬を出すならまだしも、血圧を下げる薬を出してどうしようというのでしょうか。でもそれが正しいと思い、ほとんどの医師が脳梗塞後の患者さんに降圧剤を処方しているのです。これでは再発間違いなしでしょう。」(p.94)

水道のホースの中に詰まりができて水が流れにくくなった状態、それが脳の血管で起こったものが脳梗塞です。
ホースの詰まりを取るには、圧力をかけて勢いよく水を流すことですよね。つまり、高血圧の状態にするということです。
それを身体がやっている時に降圧剤を飲んで無理やり血圧を下げれば、詰まりは取れないどころか、もっと詰まってしまう可能性があります。そのことを、松本さんは指摘しています。

そして、そうであるならば、自分で降圧剤を飲むのをやめるという決断をすべきだと言うのです。
ふつうの医師は決断できませんから。自分の身体には自分が責任を負う覚悟が必要なのです。


だから血圧だけを化学薬品で無理にいじると、さまざまな不調が身体のあちこちに起こるのです。たとえば、降圧剤によって血圧を下げると血管が詰まり、脳梗塞が起こります。心臓の血管が詰まれば心筋梗塞です。脳の血流が弱くなれば認知症も起こるかもしれません。認知症までいかなくても、めまいやフラフラ感が出ます。歯茎が腫れる人もいます。咳が続く人もいます。ときにはがんの発生も見られます。
 これらの弊害が起こるのは、血圧が身体の部品ではないからです。血圧をはじめ、多種多様な結びつきで命が形成されているからです。
」(p.96−97)

血圧という人体の一部だけを切り取って無理やり操作しようとすると、他に弊害が出るということですね。全体のバランスの中にある血圧だという視点がないと、おかしなことになってしまうのです。


脳梗塞というのは、先ほども申し上げたように血管が血の塊によってふさがった状態です。そのままにしていては脳の血流が止まってしまうので、身体は血圧を上げて血液を流そうとしているのです。だから脳梗塞のときには血圧が高くなるのです。血圧が上がったから脳梗塞が起きたのではなく、脳梗塞が起きたから血圧が上がったのです。」(p.100-101)

相関関係と因果関係は明確に区別する必要がありますね。脳梗塞と高血圧の関係も、高血圧が原因ではないと松本さんは指摘します。

身体はあなたにとって悪いことは一つもしません。コレステロールが血管に集まるには集まる理由があるのです。血管の破裂を防いでいるのです。脳出血を防いでいるのです。」(p.102)

健康診断でよく指摘されるコレステロールの値ですが、これも高いことが問題なのではないと松本さんは言います。血管が破れやすいから、コレステロールで修復しているのだと。
ですから、私たちの身体は常に健康状態を保とうとして一生懸命に働いているのです。それを無理やり1つの要素だけを取り上げて、薬で変化させようとするから問題が起こるのですね。

だから化学薬品の薬は危険なのです。気軽に飲んではいけないのです。
 ただし、医師がこういうことを十分に理解したうえで命を救うために使う化学薬品は別です。心不全で浮腫のひどいときに使う利尿剤はたいしたものです、人の命を救います。細菌感染で使用する抗生物質も人の命を救います。ほかにも人の命を救う薬はいくつもあります。こういう薬だけを適切に使うなら問題はありません。
」(p.107)

たしかに、薬は毒にもなるものですからね。しかし、私たち素人には、どの薬が命を救う薬なのかよくわからないという知識不足があります。それだけに、医師に頼り切ってしまいがちなのでしょう。


糖尿病を心配し、脅かされている人はどうぞ安心してください。糖尿病を「病」にしているから怖がるのです。正確には「糖尿状態」なのです。ほとんどの場合、何も怖がる必要がないのです。怖がらせる人がいて、怖がるあなたがいるだけなのです。こうした事情ですから、ほとんどの場合において薬は必要ありません。
 ただし、食事には気をつけてください。
 体重を標準体重にしてください。太っているのに糖尿病を心配して薬を飲むなど本当におかしなことだからです。糖尿病のほとんどは体重を落とせば治ります。
」(p.113)

体重を落とすのは簡単です。食べなければ痩せます。痩せなければ食べ過ぎているのだと判断しましょう。食事はなるべく炭水化物を減らしてください。米、いも、南瓜、パンなどです。甘いものは厳禁です。簡単ですね。」(p.113-114)

今回のコロナ禍でも、糖尿病など既往症がある人や肥満の人は重症化リスクが高いと指摘されていました。そんなにコロナを怖れるなら、まずは痩せたらいいのにって思いましたが、不安を煽る専門家にも太った方がおられましたね。非常にちぐはぐで矛盾を感じました。

私の周りにも、何をやっても痩せないと嘆く人がいるのですが、そういう人は本当の意味では悩んでないのです。深刻さが足りないのです。方法論もへったくれもなく、ただ食べなければいいだけ。食べたら殺すぞと真剣に脅されたら、それでも食べますかね? 考えてみれば明らかなことです。


諸外国では医療のミスによる傷害や死亡は刑事事件にはなりません。医療が刑事事件になるのは故意におこなわれたときだけです。日本ではそれが故意でなくても刑事事件になりマスコミを賑わす事件として取り扱われます。そのため医師の自己防衛反応が起こり、その結果として過剰診療になるのです。」(p.121)

医療過誤による傷害や死亡は残念なことだとは思いますが、そのことを過度に重視することによる弊害にも目を向ける必要があるように思いますね。


血圧が高いことを気にするなら、降圧剤に頼るのではなく、4つのことを実践してほしいと松本さんは言います。その4つのこととは、「体重を落とす」「睡眠不足を解消する」「塩の摂り過ぎに注意する」「ストレスをストレスと感じないようにする」というものです。

詳細はまた本書をお読みいただきたいのですが、気になった部分を引用します。

もしあなたが太っているならば体重を落としてください。
 太っていれば血圧は上がります。重い体重を移動させ、運ぶためには血圧を上げなければならないからです。太ったままで高い血圧を心配しているのがおかしいのです。
」(p.128)

食べなければ体重は落ちます。世間ではいろいろなことが言われていますが、食べなければ痩せます。食べるから太るのです。」(p.128)

前に引用したところにもありましたが、痩せる秘訣は食べないことです。これは間違いありません。
そして、血圧が高くなる要因として、太り過ぎは明らかだと指摘している点も、知っておく必要があるでしょう。糖尿病と同様に、肥満は高血圧の原因にもなるのです。

高血圧には塩が悪いと言う学者が沢山います。もしあなたが塩を摂り過ぎている自覚があるなら少し減らしましょう。血圧が下がるかもしれません。」(p.130)

先ほどの引用とのニュアンスの違い、わかりますか? 一般的に塩分の摂り過ぎは高血圧の原因とされていますが、松本さんはそこまで明確に言い切ってはいません。
他の項目では、「睡眠不足は血圧を上げます。」(p.130)「ストレスは血圧を上げる大きな要因です。」(p.131)などと言い切っているにも関わらずです。
つまり、塩分と血圧の関係には、まだ確定していないものがあると松本さんは認識しておられるのでしょう。


松本さんは、心が身体に与える影響は大きいと言います。中村天風師に師事しておられるだけのことはありますね。
それで、心の健康を保つための4つの方法を示しておられます。「笑うこと」(p.139)「我慢を覚えること」(p.140)「攻めの健康思考を持ち、実践すること」(p.142)「覚悟すること」(p.143)の4つです。詳細は本書をお読みいただくとして、その一部を引用しましょう。

笑いが一番です。とにかく笑いましょう。「にもかかわらず」笑うのです。
 笑いには即効性があります。免疫を高めてくれます。無料で、副作用はありません。あるのは”福”作用だけです。
」(p.139)

中村天風先生はかつて「死ぬときは死ぬのだ。何をやっても死ぬのだ」と言いました。そうなのです。死ぬときは死ぬのです。何をやっても死にます。
 このことを別の言葉でも言われました。
「治るものは治る。治らないものは治らない」
 これが真実です。治るものは治るのです。治らないものは治らないのです。薬が治すのではないのです。自分の自然治癒力が治せるかどうかなのです。そして、治らないものは治らず、死ぬのです。
」(p.144-145)

レイキの創設者の臼井甕男氏も、同じようなことを言われています。寿命だけはレイキでもどうしようもないのだと。
覚悟を決めることが大切だと思います。それには、起こっていることは必然であり、最善であり、完璧だと受け入れることだろうと思います。


では、無医村のように少々の不調で病医院にかかれない状況で生活している人たちはみんな早死にしてしまうのかというと、そうではありません。むしろ長生きなのです。」(p.155)

これは、財政破綻した夕張市で奇しくも証明されましたね。医療に頼れないと覚悟すると、意外と健康になるのです。


医師にも「良い医師」「普通の医師」「悪い医師」の3つがあると松本さんは言います。ほとんどは「普通の医師」です。ごくまれに「悪い医師」もいると言います。
「悪い医師」が悪いのは当然なのですが、「普通の医師」がたちが悪いのです。善意で患者に悪いことをしてしまうからです。何も考えずに薬を処方したり、手術を勧めるのも「普通の医師」ですから。

では、「良い医師」とはどういう意思なのか。その部分を引用しましょう。

良い医師は人間も生物の一種だときちんととらえています。
 そして良い医師は考えます。その医療行為は人間という生物にとって正しいのだろうか、と。まず真っ先にこのことを考えます。そして、最終的にその治療はその患者さんにとって最適な科学的な治療なのかということをつねに考えます。
 このように考えるから風邪薬も血圧の薬もみんないらないと気づき、処方しません。検査も最低限の項目で、最低限の回数でおこなうように努力します。不必要なレントゲン検査もしません。
 人間という生物をよく心得ていますから、人間という生物の加齢現象のこともきちんとわかっています。不可逆的な変化を起こしている高齢者に若者と同じような薬は投与しませんし、検査もしません。
 このように高齢者には高齢者に合った医療があることを十分にわかっているのが良い医師の条件でしょう。患者さんの気持ちも大切にしますが、患者さんにとって悪いことはきちんと説明して、納得してくれるように努力します。
」(p.164-165)

少し長めに引用しましたが、こういう医師と出会えるといいですね。


血圧を心配せずにすみ、病医院に行かなければどれだけあなたは節約できるでしょう。降圧剤の最大の副作用は懐が痛むことです。医療で浮いたお金で美味しいものを食べて、旅行にでも行ったらいかがでしょうか。高血圧の治療で医療機関を定期的に受診していると、年間に少なくとも3万〜4万円はかかると思います。とてももったいない話です。」(p.169)

高血圧を心配して医療にかかることは、お金をドブに捨てるようなものなのですね。


最初に書いたように、この本で書かれていることは、理屈としてとても納得できます。
病気を治しているのはもともと備わった自然治癒力であって、薬や手術ではありません。だからこそ、頼るべきは自分の身体なのです。自分の身体が最適なことをやっているのだと信じることが、もっとも大事なことではないかと思いました。

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タグ:松本光正
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 08:00 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年10月20日

在宅ひとり死のススメ



看取りや認知症などに関連する本を探していたら、著者の上野千鶴子(うえの・ちずこ)さんの本がいくつか表示されました。「おひとりさまの老後」など、「おひとりさま」シリーズの本を書かれている方で、この世界では有名な方のようですね。それで1冊は読んでみようと思い、この本を選びました。

なんと過激な本だなぁとも思いましたが、これまで当たり前だった病院での死が否定される昨今、自宅での看取りも難しいとなれば、施設での死が受け入れられるようになるのではないか。前に読んだ「介護施設で死ぬということ」の影響もありますが、そう思っていました。
しかし上野さんは、それすら否定します。在宅での死ではありますが、誰にも看取られる必要のないひとり死。しかしそれは、かわいそうで悲惨な孤独死ではないと言うのです。

読んでみて、なるほどと思える部分が多々ありました。一方で、介護の現場をわずかながらでも経験した者として、これはちょっとどうなのだろうと感じることもありました。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

介護保険が始まった2000年には、高齢者の子どもとの同居率は49.1%(内閣府、2000年)、それからおよそ20年で30.9%(内閣府、2017年)までに低下しています。高齢者世帯の独居率は、わたしが『おひとりさまの老後』を出した2007年には15.7%だったのが、2019年には27%と急増、夫婦世帯率は33%と高齢者のみの世帯の合計が5割を超えます。夫婦世帯は死別離婚による独居世帯予備軍だと考えれば、近い将来、独居世帯は半分以上になるでしょう。」(p.14-15)

こうやって数値を見せられると驚きます。上野さん自身も驚いておられますが、予想していたとは言え、変化の速さを感じます。実際、私の両親も高齢者夫婦の世帯でしたが、3年前に母が亡くなってからは父の独居世帯となっています。

自分で選んだひとり暮らしなら、寂しくも不安でもない、満足度は高く、悩みも少ないってことをデータで示してもらえたのは、強力な援軍でした。

 それなのに、メディアではあいかわらず「高齢者の独居」イコール社会問題のような描き方が多いようです。何度もくりかえしますが、独居と孤立は違います。その反対に、同居イコール安心でもありません。同居している家族が虐待やネグレクトをしたら……家族がいるほうが危険な場合だってあります。
」(p.35)

かつての三世代同居家族を理想とするかのようなマスメディアの画一的な価値観の押し付けには、私も疑問を感じます。実際、私も一人暮らしが長かったこともあり、一人暮らしの快適さを理解していますから。


日本は現在、超高齢化社会に突入しています。すると今度は、長生きすることが苦しみだと言われるようにもなりました。それに対して上野さんは、次のように反論します。

そんなに高齢化がイヤなら発展途上国へいらっしゃい、抵抗力の落ちた年寄りは、褥瘡(じょくそう)から感染症にかかってあっというまに死ねるから、とわたしは毒づくことにしています。かつての介護は、褥瘡などあたりまえ、そこから感染症で死ぬこともざらでした。いまどきの介護は、褥瘡をつくらないのがあたりまえ。介護の質の水準がそれほど上がりました。」(p.45)

たしかに、医療だけでなく栄養、衛生、介護などの水準が上がったからこその超高齢化です。私の職場でも寝たきりのような人がおられますが、褥瘡ができかかっても、すぐに治っていきますね。


でも健康寿命の延伸というかけ声を聞く度に、なんだかな、と思うのは、寿命に終わりが決まっていれば、健康寿命を伸ばせばたしかにフレイル期間も短くなるでしょう。ですが、毎年平均寿命が伸びている状況のもとでは、がんばって健康寿命を伸ばせば、その分持久力もついて、平均寿命も伸びるかもしれないということです。」(p.46)

ちょっとわかりにくい文章ですが、要は、健康寿命を伸ばそうとしたところで意味がない、ということです。
あとでフレイルをヨタへロと表現されてますが、要はヨボヨボになって足腰も飲食もおぼつかない状態です。老化というのは、健康期間の後のヨタへロ期間を経て死に至るもの。ですから、健康寿命が伸びれば、そこにヨタへロ期間が加算されて寿命が伸びることになる。健康寿命が伸びることは、必ずしもヨタへロの問題解決にはならないのです。


日本人の死因からわかることは、大量死時代の大半の死が、加齢に伴う疾患からくる死だということです。すなわち、予期できる死、緩慢な死です。」(p.49)

つまり多くの高齢者は死ぬまでの間に要介護認定を受けるフレイル期間を経験しますので、たとえのぞんでも、ピンピンコロリなんてわけにはいかないのです。」(p.49)

では、年寄りの容態が急変したり、死にかけの現場を発見したら、どうすればいいか、ですって? まちがっても119番しないことです。」(p.50)

これは過激だなぁと思ったのですが、説明を聞くと納得です。年寄りは、何らかのきっかけで死ぬ運命にあるもの、という認識が前提にあるかどうかの問題なのですね。

死ぬべきでない人を見殺しにするなら問題ですが、死ぬ運命にある人は死なせてあげることも、ある意味で助けになるのです。
医療の介入は不要で、医師の役目は死亡診断書を書いて、警察のお世話にならずに済むようにすることだと上野さんは言います。主治医として訪問医療を受けていれば、医師が立ち会っていなくても死亡診断書は書いてもらえるのですね。

逆にピンピンコロリは、死ぬべきでない人が死んだとみなされ、警察が介入せざるを得なくなるとも。そうなれば関係者は、被疑者並みに扱われ、嘆き悲しんでいることもできない。はた迷惑な死に方だと上野さんは言います。たしかに、そうも言えますね。


施設の機能はそこで生活が24時間完結することです。これを全制的施設(total institution)と呼びます。その典型が刑務所です。だから施設はある意味、刑務所のようなものなのです。しかも刑務所なら終身刑でもない限り、いつかは出て行けますが、高齢者施設は死体にならないと出て行けません。外出はさせてくれますが、職員の管理のもと、家族のもとへ外泊するにも許可が要ります。」(p.61)

私が働いているところも老人施設です。24時間365日、施設で暮らしているお年寄りもいらっしゃいます。
上野さんが指摘しているのは、本人の自由がないということです。これは、入居の契約を本人ができるうちはいいのですが、認知症などになって家族が契約の主体となった時、施設は刑務所のようになってしまうのです。

いまいちばんもうかる介護系ビジネスは、サ高住に外付けの訪問介護を入れ、そこにさらに訪問看護と訪問医療をつける、というもの。サ高住の賃料と管理費で15万円程度、それに月額まるめての定期巡回介護、そこに訪問看護と訪問医療、不定期の往診などで積み増ししていけば20万〜30万円程度になります。利用者の側からしてみれば、ちょっとした有料老人ホーム並みのコストがかかります。
 なんだかな、と感じるのは、医療・看護・介護をまるがかえした医療法人への利用者の系列化が起きることです。
」(p.64-65)

上野さんは、一貫して施設を否定する考えのようです。その根本にあるのが自由のなさです。系列化されれば、医療や介護を自由に選ぶことができなくなります。

施設はもういらない、というのがわたしの立場です。施設が足りないというけれど、これ以上作らなくてもいい。作ったが最後、施設は持ち重りします。建物は管理しなければならないし、雇用は維持しなければならないし、ベッドは埋めなければなりません。」(p.66)

最初の目的がお年寄りのために、ということだったとしても、組織ができればその組織を維持することが目的になってしまいます。その組織の維持にコストがかかれば、そのしわ寄せはお年寄りへと向かうでしょうね。
まあこの問題は、どんな組織にもつきまとうこと。会社だって、作った以上は維持したいと思うでしょう。

それにわたしにどうしても納得がいかないのは、年寄りばかりが集まって暮らさなければならない理由がわからないことです。
 高齢者はいわば中途障害者のようなものです。高齢者も障害者も、老若男女が集まるふつうの街にふつうに住む、それをノーマライゼーションといいます。街が変われば、施設なんていらなくなります。
」(p.68)

介護研修でもノーマライゼーションという言葉を習います。たしかに老人介護施設というのは、ノーマライゼーションという考え方に反するものとも言えますね。


訪問診療の頻度は通常2週間に1回程度。死期が近くなっても週に2回、毎日入るのはよほどの末期ですが、訪問診療の対象に入っていれば、主治医は死亡診断書を書いてくれます。「心不全」や「老衰」と書いてあれば、実は死因はよくわからない、いつ死んでもふしぎではない状態にいたということです。」(p.87)

だとすれば「孤独死」防止のキモは、死後の発見を早めればよいだけになります。死後一定時間、それも相当期間経過して発見されるというのは、誰も訪れる者がおらず、社会的に孤立した生を送っていることの結果であって、その逆ではありません。だから「孤独死防止キャンペーン」は、「孤立生防止キャンペーン」になるべきなのです。」(p.89)

たとえ家族と同居していても、24時間常に一緒にいるわけではありません。したがって、亡くなる瞬間に独りでいることは充分に考えられるのです。
そういう場合でも訪問診療の主治医がいれば、「心不全」や「老衰」など適当な原因をつけてくれるので、事件性のない死として、警察沙汰にせずに死後の処理ができるというわけです。

そうであればこそ、老人の独居は心配する必要はない、ということですね。それよりも、死後の発見が早まるよう、訪問医療や訪問看護、訪問介護などを受け入れて、少なくとも週に1回、できれば2〜3日に1回は訪れる人がいる状況を作っておくことが大事なようです。


取材から見えてきたのは、臨終に立ち会いたいというのは死ぬ側ではなく、死なれる側のこだわりだということでした。わたしはこれを「看取り立ち会いコンプレックス」と名付けました。」(p.97)

たしかに、看取る側の考え方の問題が大きそうですね。
上野さんは、前に紹介した看取り士の柴田さんとも会われているようです。その上で、誰かに看取られる必要はないというのが上野さんの意見です。


精神病院ならずとも、認知症高齢者を受け入れた施設で、認知症者が受ける処遇は、似たり寄ったり。「外に出たい」という患者さんを(そりゃ元気なら、散歩もしたいでしょう)、自由に外出してもらって、疲れるまで職員が同行する、なんて施設は、美談になるほど、めったにありません。そんなことをしたら、人手不足でやっていられない、というのが理由です。」(p.109)

たしかにそうです。認知症の入居者様の自由にさせることもできなければ、常に見張っているとか、常に同行するなんてことも施設ではほとんど不可能です。

「駆け込み寺」を必要とするのは本人ではなく、家族。認知症病棟が救っているのは、本人ではなく家族と制度の欠陥だということが、6回の連載からはよくわかりました。」(p.113)

精神科の認知症病棟を取材して書かれたコラムを読んだ上野さんの感想です。認知症患者はひどい扱いを受けますが、それによって家族が助かるのですね。

しかし、では認知症の人は社会で野放しにしておけばいいのでしょうか? 上野さんは、まるでそうであるかのように書かれているのですが、私は疑問を感じます。

たとえば「異食」についても、上野さんは介護士から冷凍食品を食べた例を聞いて、大したことではないと書いておられます。しかし、実際の異食はそうではありません。おしぼり、お菓子の包装や保存剤、洗剤など、食べられないものを食べます。本人が苦しむだけなら自業自得とも言えますが、場合によっては生命の危機をもたらします。
もちろん、それは最終的に本人が死ぬだけだから、本人の自由にさせたらいいと言うこともできますけどね。

けれども、社会問題になった踏切への立ち入りなどはどうでしょうか? 重大な事故を引き起こしたり、高額な損害賠償請求されたりもします。それも認知症の方の自由だから、放っておいて良いと言えるでしょうか?
上野さんは、認知症について甘く考えすぎているのではないか、とも感じるのです。

そのとおり、「周囲の目」が彼らを責める、からです。あんな状態で放っておくの? 世間体を考えないの? 家族も家族だね……と「外野の声」に責め立てられることを、介護職の人たちが内面化しているからでしょう。」(p.122)

自宅ですっぽんぽんでいる認知症のお年寄りに、ヘルパーさんが困るという話に対する上野さんの反論です。上野さん自身がもしそうなったら、放っておいてほしいと言います。気持ちいいから服を脱いでいるだけなのだからと。

この後、排便排尿の異常についても書かれています。部屋のあちこちで排便排尿してしまう父親を、そこは父親の家だから好きにさせると受け入れる息子の話です。上野さんはその話を引き合いに、認知症でも一人で家にいられると言います。
でも、それをケアしなければならない訪問介護や訪問看護の人たちはどう感じるでしょうね。糞尿まみれの部屋の中で作業をしなければならない人たちのことを、それは仕事だから当然だと言えるのでしょうか?

また、自宅から一歩も出ないで素っ裸でいるなら、それは何の問題もないでしょう。けれども、その姿で街に出たらどうなりますか? 街に出てはいけませんと言えば、認知症の方は理解してやめるのでしょうか? 上野さんが書かれていることは、どうも現実離れしているように思うのです。


ですが、何をやってもムダ、とわたしが思うのは、まさかあの人が、と思うような、知的能力も高く好奇心も強い学者先生の先輩たちが、ちゃんと認知症になっておられる姿を見てきたからです。なにしろ認知症診断の「長谷川式スケール」で有名な精神科医の長谷川和夫さんが、自ら認知症になったと公表されたぐらいですから。」(p.118)

認知症の発症リスクには、糖尿病や難聴、睡眠時無呼吸症候群、歯周病などが挙げられていますが、これだって疫学的相関であって、原因かどうかはわかりません。同じ症状を持っていても、認知症を発症するひともしないひともいます。それより、こういうデータが増えれば増えるほど、認知症になるのは「自己責任」という考え方が広まるのがおそろしい。」(p.125)

先日、鎌田實さんの認知症予防の本を読んだばかりですが、私も予防は気休め程度にしか考えていません。


認知症になれば、過去も未来もなくなって現在だけ。赤ん坊と同じです。思えば赤ん坊の時には、あんなにも自己チューに生きることを主張していました。それをしだいに抑制していったのが成長という過程。老いたらその過程をまきもどして、もういちど、過去も未来もない、現在に生きる状態に戻ってもいいのではないでしょうか。」(p.134-135)

こういう考え方には共感します。ただし、現実的にそういう対応ができるかどうかはまた別です。なぜなら、お年寄りは赤ちゃんとは大きさも体力も違うからです。
赤ちゃんなら簡単に行動を抑制できても、力のあるお年寄りを抑制することは大変なことですよ。

それに、赤ちゃんを育てることは、どれほど大変なことかわかっていないのでしょうかね? それこそ24時間365日、誰かが側にいて育てるのがふつうではありませんか。認知症のお年寄りに対しても、同じようにせよと言うなら理解もしますが、そうなればその費用はどうするのかという問題も残ります。

ほしいのは認知症を怖がる社会ではなく、認知症になっても安心して生きていける社会。自分だけ認知症にならないようにあくせく努力するくらいなら、そのエネルギーを「安心して認知症になれる社会」をつくるために使ってもらいたい。そう、思ってきました。」(p.140)

たしかに、それが理想であり、それだけにまだ実現できていないということなのでしょう。


認知症になる前に書いた事前指示書を「本人の意思」と見なすかどうかは難しい判断です。事前指示書を書いた時点での過去の自分が、変化した後の現在の自分の死を決定することになるからです。」(p.154-155)

だが「呼吸器をつけないことを選ぶ」のは、ほんとうに「自由な選択」でしょうか? 周囲のひとびととの「人生会議」のなかで、呼吸器をつけてもじゅうぶん生きていけるよ、そのまま外出だってできる、家族に負担をかけなくてもヘルパーが使える、わたしたちはあなたに生きてほしいと思っているよ……と背中を押されることで、患者の選択が変わることがあります。」(p.158)

死にゆくひとは、気持ちが変わる。揺らぐ、ジェットコースターのようにアップダウンします。その揺らぎにつきあって翻弄されるのが、家族の役目だ、と。
 父の看取り経験から、わたしは健康な時に書いた日付入りの意思など信じるな、と思うようになりました。また、いったん決めたことを最期まで貫くことを、尊いこととも思わなくなりました。
」(p.161)

事前指示書は誰のためのもの? 事前指示書はいったい誰を助けるのでしょうか?
 聞こえてくるのは「事前指示書があってよかった」「助かった」という家族と専門職の声ばかり。もちろん本人の声を聞こうにも、死んだ本人から聞くことはできませんが、事前指示書が「助ける」のは、家族と専門職が迷い、考えることから「助ける」ことじゃないか、と皮肉を言いたくなります。
」(p.162)

生まれてきたことに自己決定はありませんでした。死ぬことに自己決定があると思うのは、傲慢だ、とわたしは思います。もし、わたしがボケたら?……食べられるあいだは生かしておいてほしい、と願います。」(p.167)

これは上野さんの考え方であり、それを否定するつもりはありません。ただそうであるなら、上野さんも他の考え方を否定できないのではないでしょうかね。
健康な時の決定を貫きたいと思う人だっているでしょう。成人後見人に重要な決定権を託さなければならない人が、どうして自分の死だけは託してはならないのでしょうか?

上野さんが、「食べられるあいだは生かしておいて」というのも、これも事前指示書と同じですよね。ボケたら「もう死にたい」と言うかもしれないのに。そんな皮肉を返したくもなります。

このことについては、私も動画を撮って語りました。「尊厳死、安楽死、自殺。どこまで受け入れられますか?」です。よろしければご覧ください。


その結果、事業者の利益を最大化するように誘導するケアマネが出てきました。お金をくれる人の顔色を見る……のは、どこの世界でもあたりまえ。ケアマネをつくったところまではいいけれど、事業者所属を認めたのは制度の設計ミスでした。」(p.180)

介護保険はもともと中流階級の家族介護負担を軽減するという政策意図を以て設計されたものでした。「利用者中心」をうたいながら、その実、介護保険を推進したのは要介護当事者ではなく、その介護家族たちだったことは、覚えておいてください。」(p.184)

あまり多くの論者が指摘しませんが、介護保険がもたらした大きな変化のひとつは、ケアという労働がタダではない、という常識が広く定着したことです。」(p.186)

暴言暴力からネグレクト、介護殺人まで。その実態を踏まえて、高齢者虐待防止法ができたのは2005年のことです。それまで家族の恥は世間に見せたくない、そもそも他人に頼らなくてはならないこと自体が家族の恥だとする考え方が、久しく「家族の闇」を閉ざしてきました。介護保険は、その「闇」の扉を、こじあける効果がありました。」(p.188)

高齢者の施設入居の意思決定者は大半が家族。現場の専門職は利用者と利用者家族を区別しないばかりか、両者の利害が対立すると、家族の意思を優先する傾向がありました。」(p.190)

介護保険という制度の導入によって、いろいろな変化が現れたそうです。介護は家族の、特に嫁の、タダ働きだという常識が覆されたことは、本当に良い変化と言えそうです。
その一方で、新たな姥捨山を作ることに貢献したとも言えるわけです。

「あなたご自身が将来ここに入ってもよいと思われますか?」という問いには、多くの職員さんが一瞬絶句します。ホンネは入りたくないのでしょう。経営者さんにもおたずねします。「あなたが要介護になったら、ご自分が経営していらっしゃるこの施設でお世話を受けたいと思いますか?」これまでたったひとりの例外を除いて、すべての答えは、「ぎりぎりまで家にいたい」でした。」(p.192)

上野さんは施設に反対する考え方ですので、こういう意地悪な質問をするのでしょう。
でも、この質問は偏っています。施設職員にここの施設に入りたいかと問えば、私でも入りたくはないと答えるでしょう。自分が働く施設だけでなく、すべての施設です。なぜなら、自由が大きく損なわれるからです。

しかし、ではどうすればいいのか? どうしたいのか? それができるのか? ということが対立軸に必要ではありませんかね。
「ぎりぎりまで家にいたい」という答えは、いみじくもそれを示しています。自分が自由に振る舞えて問題がないなら、施設には入りたくないのです。けれども、それでは生活ができないとか、愛する家族を困らせるなど問題が大きくなってきたら、やむを得ないという思いもあります。

認知症になって、他人を困らせる存在になってしまう自分を、今の健常な自分が許せないと感じる。そうであれば、たとえ自由を抑制したとしても迷惑をかけないようにするのか、あるいはできるだけ短い期間で死を迎えられるようにしたいと思うのか、人それぞれ判断があろうかと思います。


すべて利用抑制したいという「不順な動機」からです。医療保険財政の二の舞だけは避けたいという、「制度の持続可能性」が錦の御旗になっていますが、背後には財務省の思惑が透けて見えます。」(p.201-202)

介護保険制度は、3年毎の改定によって、徐々に使いづらいものになってきたと上野さんは言います。だからこそ政府の動きを先読みし、正しく改定されるよう見張り、声を上げていく必要があるのだと。
その政府の動きは、介護予算の削減だと見ているわけですね。福祉予算の肥大化が日本の財政の大きな問題ですから、当然のことと言えるでしょう。

これについては、どっちが正しいなどと一概には言えません。問題は多々あります。介護職の人手不足の問題もあります。
理想を言えば、要介護者に介護職がつきっきりで介護し、自由を満喫させてあげればよいのでしょう。しかし、その費用は誰がどうやって負担しますか? という問題にぶち当たります。当然のことです。
やみくもに予算は増やせません。どこまでやるのが正しいのかなど、一概に答えは出ませんよ。だから迷うのであり、悩むのでしょう。様々な意見を言う人がいて、それをとりまとめる側も大変です。どう決定しても文句が出ますからね。


介護保険制度の導入から関係していて、老後は一人で暮らすのが幸せだという上野さんの考え方は、いろいろと参考になります。私自身、独りで暮らすのがいいなぁと考えているからです。
しかし、介護保険の訪問介護だけで本当に生活していけるのか、はなはだ疑問なところはあります。私自身はかなりストイックな生活スタイルなので、充分に可能だとは思っていますが、ふつうの人は難しいのではないでしょうか。

また、施設の介護職として働いていることもあり、上野さんの施設不要論には、私はいささか疑問を感じます。
やはりまだまだ社会全体が認知症の方の一人暮らしを容認し、そのために起こる問題をも許容しているとは思えませんから。これもまた、何が正解かなどは一概に言えないと思っています。

ただ、上野さんの考え方を知ることで、いろいろと考えさせられたことは間違いありません。もし認知症でも一人暮らしが可能だということをもっと掘り下げて語る本を出されたなら、また読んでみたいと思いました。


もう10年くらい前ですが、「平穏死」という言葉を知りました。終末期に医療にかかると穏やかに死ねなくなるから、もっと心を強く持って穏やかな心持ちで死を迎えようとするものです。このブログでも「「平穏死」という選択」「「平穏死」10の条件」の2冊を紹介しています。上野さんの本もそうですが、自分や身近な人の「死」を、じっくり考えるきっかけにしていただければと思います。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 08:57 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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